タロットの使い方
不安やおそれを感じること。「13」
タロットカード、アルカナナンバー「13」
マルセイユタロットで、名前のない「13(番)」として、極めてインパクトの高い絵柄のカードです。
見た目がいわゆる、ヨーロッパにおける「死神」装束みたいなので、恐れをもって見られるカードでもあります。
実際、恐れというより、「畏れ」はこのカードにおいて、むしろ強く感じるのが自然であり、その必要性もあります。
しかし、一方で、怖いことばかりでもありません。
そもそも私の考えるマルセイユタロットの意味においては、いいも悪いも元来なく、それぞれこの世界と見えない世界で表現される質やエネルギー、象徴だと見ていますから、「13」においても同じで、中立なものです。
と言っても、それは統合レベルや高い次元、イデア的理想での話であり、低い次元、一般の現実意識レベルにおいては、やはりネガティブのものを感じて(想起して)しまうこともあり得るでしょう。
それは、この絵柄によって浮かび上がる人類の恐怖の記憶というようなもので、なかなか根強いものと、たくさん蓄積されてきたものがあると考えられます。
ですから、逆に考えれば、潜在的にあったその思い・エネルギーのようなものを浮上させることで、むしろ浄化として、このカードが利用できるわけです。
カードの個人(他人も含む)活用の意味において、「13」の役割は、そういうところ(浄化の役割)が強いのではないかと考えています。
「13」はネガティブな方面で言えば、感情的には不安や恐れを特に意味します。
それ(不安)が何に基づいているのかは、実は強い生命願望(生存本能)と保守性から出ていると想像できるのですが、今は詳しくは置いておきます。
とにかく、生きるエネルギー、自分が存在したいという思いがあるからこそ、逆にそれが脅かされる感覚と思いを持つことで、不安が出るという仕組みとして見ることができます。
そして、何かに不安を感じる時、そこから逃げようとしたり、感じないように無視しようとしたりすると、逆に不安に追い込まれます。
この状態を、カードの「13」では、逆向きの状態(カードが逆位置になった状態)として表され、そうすると、まるで「13」の巨大な鎌が、自らに振り下ろされてくるかのように感じる配置になります。
自分が感じた不安という「存在」が、次第に成長して、自分に鎌を振り下ろすのです。
逃げているのに、感じないようにしているのに、なぜ「不安」は大きく成長していくのでしょうか?
それは、逃げるということと、無視するということは、意識していないようで実は意識している態度だからです。
同時に、逃避と無視によって、自らのパワーを「不安」存在に明け渡しているからでもあります。
強く意識して気を発しているのに、無視する態度であったら、「不安」のほうも気になって追いかけてきますよ。(笑)
そうして、そのあなたのパワーを得た「不安」は、ますます成長していくことになります。
では、どうすればよいのでしょうか?
それはまた「13」のカードが伝えてくれます。
カードを逆さの状態にさせるのではなく、きちんと正立させ、不安に立ち向かうのです。
立ち向かうというと抵抗するような印象ですが、そうではなく、不安を正面から感じ取ることを決意するのです。
具体的には、目一杯、限界まで「不安」を自分の中で感じてみる、怖がっている、恐れている自分の気持ちをとことん味わい尽くすということになります。
この時、ブルブルと大きく震えがあったり、何か奇妙な気持ち悪さがあったり、胸が締め付けられるような感覚があったり、お腹のあたりが空虚な感じになったりするかもしれません。
しかし、それが不安のエネルギーなのです。
これを感じきってしまえば、不安は成長を止め、あなたのコントロール下に入ります。
「13」のカードで言えば、正立し、鎌は新たなフィールドと境地を開拓する大きな力となり、また杖のように、あなたを支える存在にもなります。
言ってみれば、「13」に象徴されている人類の不安や恐れのデータ・記憶を、あなたが代理として請け負い、浄化したわけなのです。
怖いこと、不安なことは誰にでもありますし、それは本当にあなたにとって、やはり怖くて不安なものなのですから、否定しなくてもいいのです。
ただ、それを無理矢理打ち消そうともがいたり、強がったり、逃げたりせず、素直に十分感じる覚悟をもって臨むことです。
不安を起こしている原因や事件は確かにありますが、「13」のカードから考えて、原因そのものの解決の前に、「不安」を感情的に味わいきる(感じきる)ことも、浄化の意味で重要だと考えられるのです。
ネガティブシンキングの修正
私は基本的にはバランス思考(志向でもあります)を重視しますが、そのバランスも、いろいろな見方をすれば、一時的にはバランスをあえて傾かせることもアリかと思っています。
そういう一例として、ポジティブシンキングへの傾きというのがあります。
このところ、たくさんの人が指摘しているように、ポジティブ過ぎるのは、確かにバランス的には問題です。
人間の感情や思考は、いつも明るく前向きにあるわけではなく、時には落ち込んだり、暗くなったり、まさにネガティブシンキングに傾くことは誰にでもあるからです。
それを無理にポジティブにしようとするのは、重力に逆らうようなもので、かえって多大なエネルギーを浪費し、疲れたり、ますます自己嫌悪に陥ったりします。
しかしながら、一方で、人には癖というものがあります。
これは生まれながらという素養もあるにはありますが、たいていは育成環境、今まで過ごしてきた経験によってついてしまったものと言えます。
それは身体的なものとして体の癖にもなりますし、感情や心、思い方の癖、思考癖のようなものも形成されるのです。
脳内的には、同じ神経回路を通る固定ルートのようなもので決まっている状態かもしれません。
そのような癖として考えると、ポジティブシンキングの傾向になる人より、ネガティブシンキングに傾く人のほうが問題が多いのではないかと想像できます。
もともとポジティブな人は、前述したように、人として落ち込んだり、へこんだりすることはあるかもしれませんが、あまり無理に思い直すということはないように思います。
まあ、言ってみれば、何事も楽観視できるので、事態を必要以上に重たく考えずに済みます。
重たく考えないということは、そのままその人から見た世界観(事象・物事のとらえ方)となり、「世界は重たくない、明るいもの、楽しいもの」として形成されていきます。
ですから心理的・スピリチュアル的に見れば、現実は自分の投影した世界となって、実際に人生や生活は重たくないものになっていくものと考えられます。
ということで、ネガティブ思考癖の人のほうが、現実の幸せ観(一般的な幸せ基準)から見れば、その癖を修正していくほうが望ましいと言えます。
しかし癖というのは、意識しないとなかなか変えることが難しいものです。
特に体癖と違い、目に見えない心の中の思考癖ともなると、自分ではわかりづらいものです。
それでも、やはり修正の第一歩は、自分で意識する時間を増やすということになるでしょう。
この場合でも、マルセイユタロットは役に立ちます。
マルセイユタロットは心の元型として、人の感情や思いのパターンを絵柄で象徴しています。
人の共通パターンとしての象徴があるので、言わば、思い(方)をチェックするのにはうってつけなのです。
見えない思考や感情の部分を、絵柄として見える形で映し出す機能がありますので、そういう意味でタロットは見えない部分を把握するのには有効なのです。
カードにはもともと楽観的なことを象徴しているものもありますが、逆に、どうしても一般的にはネガティブにしか思えないものもあります。
例えば、一般的なタロットカードの名前で言えば「死神」とか「悪魔」とか「塔」と呼ばれるカードなどは、その典型でしょう。
ただし、マルセイユ版では、それぞれ、「死神」は「13(番)」、塔は「神の家」となりますので、かなり違ってはきます。(そもそも、本来はいい・悪いの意味で区別してカードは見ません)
しかしそれでも「悪魔」のカードなどは、私たちのイメージにすり込まれたまさに「悪魔的」なイメージから、最初は普通にポジティブに考えることは難しいでしょう。
だからこそ、とてもネガティブな人がポジティブシンキングに変えるよい訓練にもなるのです。
タロットがなくても、先にも述べたように意識的になって、自分のネガティブ思考癖に気がついたら、その都度修正していくようにすればいいと思います。
ここで未来のことを思ってみましょう。今の現状に左右されるかもしれませんが、未来を予想した時の、あなたの「思い方」はどのようなものだったでしょうか?
先行きのことを予想して対処するのは、人間の想像力による知性とも言えますが、それも行き過ぎると取り越し苦労となり、まだ起こってもないことに心配したり、解決策や別のよいことが起こる可能性を排除したりという、ポジティブな「想像力」のほうが欠如してしまう人がいます。
不安(な状態)があるから、悪いほうに考えるのは仕方ないこともあるのですが、実は不安があってもなくても、癖によって、そのように思いがちな自分になっていることもあるのです。
まったく同じ状況であっても、思考癖により、ある人は楽観になり、ある人は悲観にもなります。
ネガティブ癖の人は、幸せなことが続いても、「いやいや、これはあとから悪いことが起こるに違いない」とか、「こんなに楽しいことが続くはずがない」とか、やはり癖によって、どんな時でもネガティブなシンキングを忘れない(笑)ようになってしまうのです。
その律儀さたるや、自分でもびっくりするくらいだと思います。
ネガティブシンキングの人は、その癖によって、一種のネガティブループの状態に陥っていますので、その根本の癖を修正する意識と同時に、ループから抜け出すきっかけとしての、環境チェンジ、思考の堂々巡りをストップする外側から働きかけ、自らの切り替えの作業・行動が重要です。
その点では、思考癖も一種の体癖ととらえることが可能で、体(環境)を変えたり、運動したりすることで、思考も変化すると考えられます。
つまりは、癖はいろいろな方向から修正することが可能なのです。
また体癖と同じく、癖はすぐに元に戻ろうとする傾向がある(その癖の大元を修正することも重要なのですが)ので、何度も修正を繰り返していくことが、もうひとつのポイントとなるでしょう。
タロットの抽象・象徴世界の解放性と束縛性
タロットの世界もそうですが、こういうものは言ってみれば、目に見えない世界や心理、スピリチュアル、さらには神や仏、宇宙、根源、全一などといった究極まで扱います。
それは私たちが普通に意識し、生活する次元(レベル)とは異にした「抽象的世界(次元)」に飛ぶことでもあります。
従って、言い換えれば、普通の「現実」(意識)から離れるということであり、そこにはふたつの「遊離」「移行」といったものが出ます。
ひとつはいい意味での自由や囚われからの解放、または真理への到達や悟りという方向性で、そしてもうひとつは解放の逆になる形で、現実離れ、中二病、悪くすれば妄想、精神異常、病理的な思い込みの世界に閉じこめられるといったものです。
精神や行動の自由の獲得、自分の霊性を高めるものが、一方では反対に、自分を閉じこめたり、自己洗脳、自己肥大、現実や他人への侮蔑のような極端な世界観に封鎖されるようなことになるのです。
探求が過ぎると、それは孤独になり、自分だけが本当の世界を知っているとか、オレはワタシは特別だとか、傲慢な状態にもなることがありますし、それとは真逆の、深く求めるレベルに達成できない自分にいい評価ができず、ますます自己否定・自己卑下になる人もいます。
このように、抽象世界、イメージの世界、現実の意識とは別の世界を知ることは、楽観と悲観、解放と束縛、安全のようでいて危険でもあるという矛盾を抱えています。
よく狭義のスピリチュアルや心理レベルで、最近は自分を愛すること、自己の価値と評価を高めることが大切だと言われていますが、現実と非現実の狭間の段階においては、そのことは確かにとても重要です。
しかし、抽象世界に奥深く分け入ると、巷で言われるような自己評価など吹き飛び、底なしの自己否定感に囚われることもあるのです。それは易々と「あなたは宇宙から愛されている」などといった言葉で肯定できるものではありません。
しかしながら、抽象世界は、底なしの自己否定が反転して、底なし、いや、あえて別表現をしますが、際限のない自己肯定に変化します。
それこそが自我・自分という意識を失う究極の「全」的感覚、感覚のようで感覚でないものといったものでしょう。
それは、「わたくし」がない世界なのですから、自己の否定も肯定もないというものなのです。
それはさておき、前置きが長くなりました。今日言いたいのはこのことでありません。
要するに、抽象的世界(感・観)は、現実を色々な意味で超える力を持っているということです。
それを活かすも殺すも、自分の活用次第なのです。
イメージや抽象、象徴の世界にふれることで、神や宇宙、見えない心や存在というものを、何とか人間の意識レベルで置き換えたり、把握できたりが可能となります。
それは現実という枠組、一般的価値観からあなたを解放するものです。
わかりやすく言えば、今の世の中でいいと認められる人やもの・状況、反対に悪いと思われることやダメな状態、負け組や落ちこぼれ、失敗者と思われてしまう人など、こうしたいい・悪い、幸・不幸、成功・失敗の価値観・基準で判断される世界とは別の価値・見方を得られるのです。
例えば、人生を短期間で見るのと、亡くなる直前から振り返るのとではまた違います。
いろいろとあったけど、最後はいい人生だったと思えたとか、何事もなかったのが実は大きな幸いの連続といえる人生だったとか、終わりからの視点で人生を見ることもできれば、短期的に、「記録への挑戦へ、この一瞬にかけた」とか、「あの人との恋に燃えたひとときの時期がすばらしかった」という「その時」だけを見て、よい人生だったと言えるかもしれないのです。
こういう多角的視点、特殊な視点で自分(の人生)でなければ見えてこないものがあり、今の現実や一般的価値観・幸せ観だけで判断していては、いつまでも苦しいまま、成長しないままの地獄、固定観念に縛られやすくなります。
そう、自分を大きな次元、宇宙とか神のような目線、あるいは地球の視点、動物たちの目線、他人側からの思いに浸るなど、別次元、別意識に飛ばないとならないのです。
それが抽象・象徴の世界によって可能となるのです。
マルセイユタロットは、実際に存在する絵のついたカードという物質性・現実性とともに、その図柄と構成によって、目に見えない世界、抽象的・イメージ的世界、別の次元、究極の状態を想起させられるようになっています。
言わば、現実と非現実のゲートや架け橋でもあるのです。
ここで囚われからの解放を目指すのもよいですし、様々な自己の統合を図っていくことや、真理の探究を進めていくのもよいでしょう。
ただ、先述したように、一方で非現実の世界(観)は、逆に自分を妄想や空虚な世界、生きるエネルギーの喪失、一切合切を同一に見てしまう危険性に閉じこめ、現実逃避の手段としても利用されます。
そうならないよう、架け橋を行きつ戻りつする場合でも、いつも意識的になり、非現実の世界で考える場合でも、どこかに現実性を持たせて飛翔することです。
つまり、行ったきりにならずに、現実に戻る(通常の意識世界に還元する)ことが必要なのです。それも、ただ同じ意識で戻るのではなく、飛翔した世界で見たものを活かす意識です。
そういう意味でも、何か特別な体験をして日常に戻った時、海外旅行を終えて国内の普段の生活に戻った時、研修を受けて通常の業務に戻った状態のような感覚に近いでしょう。
マルセイユタロットの場合、どちらかに傾き過ぎないよう、見事に精神性や現実性のバランスを、象徴的にカードに配置しているように思います。
と言っても、最終的には、それ(タロットのような現実と非現実を架け橋する象徴ツール)を扱う「人」、その「人」の求める方向性、バランスの問題が重要となるでしょう。
現実的で、ちょっとだけ冒険的な夢。
夢を持つのはいいことです。
マルセイユタロットの「愚者」のカードは、いつも壮大な夢を抱いて歩いていますので、その顔は上を向き、文字通り、気分も上向きであると言えましょう。(ただし、心理的に自分がそういう気分でない時は、「愚者」はまた違った顔に見えるようにも工夫されています)
よく、夢を壊すようなことを言う人、批判ばかりする人の前では、自分の夢を語らないほうがいいと言いますが、まったくその通りで、大切なのは、夢そのものの実現度や可能性ではなく、夢を語っている時の気分・気持ちなのです。
そのようなワクワクしたり、乗ってきたりするような感覚・感情は、普段はなかなか味わえないものであり、それが自分に起こっていることを楽しむのが重要と言えます。それを害されるのは、貴重な機会を失うことにもなり、もったいないことです。
スピリチュアルな世界で、いわゆる「波動」と称したりするもの、それが全体に、いい意味でも悪い意味でも影響するからです。
夢を持つ・語るということは、現実的な意味での目標の計画(と達成)の場面とは別のシーン(次元)にいるのだと、夢を聞く側の周囲の人も思っているとよいでしょう。
さて、それでも、あまりに非現実的な夢の話になりますと、かえって周りの人が興ざめしたり、醒めたりしてしまい、その雰囲気が伝わって、自分の夢もしぼんでしまうことがあります。
ということで、中間の夢と言いますか、夢だけれど現実的なもの、平たく言えば、本当に叶えることのできそうなリアリティある夢というものを抱くのも、一面ではアリです。
この場合、少し背伸びすれば届く夢というのがポイントです。
象徴的に見て同じことではあるけれども、その規模や距離を縮小したり、時間を速めたりすることができるようなものにするということです。
そして現実的ではあっても、これまでやったことがないもの、行ったことがない所というように、未経験なことにチャレンジするのも重要で、だからこそ夢とも言えるのです。
例えば、何か人のサポートをする仕事がしたいと夢を持つ女性がいたとします。
今までは主婦で、パートタイムなどで働いたことはありますが、自営や起業とは無縁だった人です。
そしてこの人が、たまたまタロットに出会い、タロットを学ぶことによって、タロットリーダーになりたいと思ったとします。
ただ、これで独立するというより、生活としての経済面はご主人の収入を基本とし、その他、自分の活動のための費用を、タロットリーディングの収入で補助していくという中間的な夢を持てば、これはかなり実現度が高いもの(現実的な夢)と言えます、
また自分が何の能力も特技もない普通の人間だと思っている人が、何か特技を身につけて、自分と他人に貢献したい(自己評価を上げたい)という夢を持ったとします。
これも、仮にこの人がタロットを知って、そのリーディングによって人に役立てるということを、まずは友人や知人、その紹介のつてなどの範囲の人に始めれば、大きな夢ではありませんが、本質的には最初に願った夢に近づいていることになります。
しかも、現実的にその段階(中間の夢)のものならば、叶う可能性は高いと言えます。
ほかにも、タロットによって、現実的な夢を叶えられることは、意外に結構あります。
ここではタロットを例にしましたが、もちろん、ほかのことでも可能です。
要するに、壮大でビッグな夢もよいのですが、現実的な夢も見て、それに向けて行動してみましょうということです。
でもそれ(夢)は、勉強や仕事で言うところの「目標」のようなニュアンスではなく、先述したように、やはり当人にとっては少し冒険的でチャレンジするものであり、今までの自分では踏み出せていなかった領域や段階、未知なる分野ということが大事です。
言い換えれば、義務(感)ではなく、アドベンチャー気分が含まれるものというわけです。
そうしたものがセルフイメージを変え、実は大きく自分を変化させるきっかけとなる場合が多いのです。
人はあまりにも自分と関係ないもの、かけ離れ過ぎたものには興味を持つどころか、無関心になったり、あきらめてしまったりしがちです。
自分でもできそう、叶えられそうという、手の届く現実感が意欲(モチベーション)を起こすのです。
これらはマルセイユタロットでは、象徴的に「杖」「棒」、柱状のものとして表現されています。
拒否権を発動する。
タロットをやっていますと、癒しやセラピー関係にふれることが多くなります。
そうした方面でよく言われるのが、受け入れる、受容するということです。
人を受け入れましょう、自分を受け入れましょうというお話ですね。
しかし、癒しや本当の調和のためには、反対のエネルギー・表現も必要になることがあります。
ずばり言うと、受け入れない心、拒否する力とでも言いましょうか。
優しい人ほど、人・周囲に気を遣い、この力を発動することが少ないです。
心理的には「優しい」というより、本当は自分が傷つきたくない、トラブルになりたくない、本気でぶつかり合うことがいやだ・・・みたいなことが隠されていることもあるのですが、それはそれとして、それでも、世の中、特に日本では、周りに気遣いすぎる優しい人は多いと思います。
このせっかくの優しさも、自分に向けず、他人にばかり使っていたら、やはりアンバランスになります。
普通の人は、優しさを出す限界値・許容量があり、それはすなわち、人(懐の)の大きさ・自他の境界線のなさ具合によると考えられます。
言い方を換えれば、自分も人も気にならない度に応じて、優しさが出せる量も増えるという感じでしょうか。
逆に言えば、自分も人も気になるほど、優しさのエネルギーを出す限界値は低くなります。いや、正確には、優しさを出しても自分が何ともない限界値が低くなると言ったほうがいいでしょう。
優しさは出せても、自分や人が気になり過ぎると、それだけ疲弊してしまうことになり、結局、優しさを見せた分だけ、気疲れしてしまうという、変な話になってしまうのです。
それは「真の優しさ」ではないからと言ってしまえばそれまでですが、人はいきなり、大きな愛を持つのは難しいものです。
条件付だったり、自分に気遣うための人への優しさというものから始まることだったりしても、決して悪いとは言い切れないのです。
大きな愛(に至る)のためには、まずは「ひもつき愛」(笑)から始まることもありだということです。
それはともかく、このように、どうしても優しさの限界値がありますから、それを超えて無理し過ぎると、心か体、あるいは両方にダメージが出ます。
つまるところ、出し過ぎた(気遣いすぎた)エネルギー不足を補填するため(現状を守るため)、強制的にシャットダウンされたようになるわけです。
マルセイユタロットでは、「吊るし」と13の並びもイメージされます。
さて、そうなる前に、やはり自分から拒否する、受け入れないという態度も必要なのです。
ここで考えてほしいのは、私たちには拒否権があるということです。換言すれば、それは「選択する自由の権利」です。
ここで言う拒否権とは、法律的なことではありません。人として当たり前にある尊厳のようなものです。
誰も、いいように扱われる奴隷ではなく、等しく価値ある尊い生命であり、人間です。
自分という存在、自由に生きる価値ある権利を脅かされそうになった時、それを守るために、嫌なことを拒否する権利も当然あるはずです。
もろちん、現実的には、いろいろな事情で、拒否できないシーンもあるでしょう。
でもよくよく考えてみますと、意外に、それを拒否したところで、本当にあなた(自分)は困るのか?、存在を脅かされるのか?ということなのです。
むしろ、安易に、強制的に、惰性的に、仕方ないからと言って受け入れてしまうことに、あなたという存在を自分で貶めて、脅かそうとしていないかを改めて考えてみるとよいです。
誰のために生きているのか、何のために生きているのかという根本的なことです。
完璧に誰にも迷惑をかけないで生きられる人など、この世にはいないでしょう。
それぞれ違う個性をもった人たちがいるのがこの世界です。
価値観が異なるから、衝突することも、時には誰かを傷つけたり、逆に自分が傷つけられたりすることもあります。
争いを生まないように、相手からの要求を飲んでしまうことに、心から楽しんでいる人、楽しめる人はOKです。それは、内的に葛藤や争いがないからです。
しかし、自分の感情や思考において、葛藤を持ちつつ、相手の言いなりになったり、要求を受け入れたりすることは、結局、大きな争いのエネルギーを自分から起こしていることになります。
拒否権を発動して、心のバランスを保つことで、平和に貢献したり、調和が生まれたりすることもあるのです。
タロットリーディングで、この拒否権行使が求められる場合、「正義」のカードがよく出ます。
自分を下げ、相手に譲ることで、自分の正当な権利を自ら脅かしてきた人は、職場などで契約の問題や仕事量の理不尽な押しつけ、クレーマー等の問題として浮上してきます。
自分が正しいと思う主張をすることで、今まで不均衡だった対人関係バランスを修正するよう促されていると言えます。
トラブルを避けるために受け入れてしまうというのではなく、時には拒否する力、自分の意見が言える勇気を持ちましょう。
宇宙から見れば、不均衡を起こしているのは、あなたの態度であり、自分の正当な権利から逃げていることにもなります。
マルセイユタロットで、「正義」と「力」のカードを一緒に象徴として持てば、そのエネルギーを取り入れることができます。