タロットの使い方

タロットを学ぶ、二つの方向性

タロットを学ぶということは、おそらく一般的にはタロットで占いやリーデイングができる技術を学ぶということが多いと思います。

それも自分向きではなく、人に対して行うものというイメージでしょう。

そもそも客観的には、自分占いや自己リーデイングは、対人的にする方法と同じやり方ではできにくいものです。(ですから、自己リーデイングには、違う方法のほうがよいと言えます)

私の講座でも、タロットによるリーディング技法はもちろんお伝えしています。それが、いわゆるタロットの主要な活用法であるのは間違いないからです。

一方、「タロットを学ぶ」ということは、占いやリーディングを習うということだけを意味するものではありません。

タロットの活用には細かく分けるといろいろなものがあるのですが、それらを総合して言うのなら、「タロットをあらゆるものの象徴として扱う(使う)方法」と例えられるでしょう。

リーデイングや占いにおいても、結局はタロットカードを象徴として見ることで成立しているのですが、ここでいう「象徴による活用」というのは、リーデイングの時のものとは異なります。

タロットリーデイングは、クライアントや自分の心理的・潜在的なものをタロットに象徴させて読み解くことなので、どちらかといえば、とても象徴の範囲が個別的なものになります。より現実的・生活的と言えばいいでしょうか。

一方、リーディングから離れた象徴となると、もっと大きなものになり、言い換えれば、宇宙の構造を知り、自己や現実世界にもそれが流れている(基礎構造として同じでるあ)ことを洞察していくというものになります。

つまるところ、大いなるものと「自分」というものを合一させるような意識、統合的・総合的・霊的とも表現できる自己を認識していく、成長していくということになります。

古代からの伝統で言えば、それは神秘学(行)的なニュアンスであり、マルセイユタロットの根幹に流れる秘伝でもあります。要するに、本来の意味での「自己活用のタロット」だということです。

普通で語られるところの人(自分も含む)の「現実生活」を充実したり、援助したりする方向性がリーディングや占いでのタロット活用であり、全体性の象徴としてのタロットを意識し、自己に深く入っていく方向性(しかしそれはマクロとして宇宙の方向性と同じ)が、現実を超越する方向性での自己活用のタロットと言えましょう。

現実になじむ(充実感を得る)か、そこから離れいく(分離して最終的に統合させる)ことを目指すのかの違いです。

例えば「手品師」(一般のタロットでは「魔術師」なとど呼ばれる、通常「1」の数を持つ大アルカナ)が出れば、その人の就いている仕事か、働き方、何かを始めるための思いのようなものが象徴されます。

しかし自己活用の象徴として見ると、「仕事」とか「生活のスタート」とかという現実的な事象・意味からはずれ、四大元素の最初の扱いと認識、分離と統合の第一意識の目覚めというようなテーマが現れてきます。(ですから「魔術師」的にもなってくるのです、ウェイト版は魔術を直接描き、マルセイユ版は裏にそれを隠します)

現実対応のリーディング中心にタロットを活用するか、自己の洞察力・認識を次元転移して深めていくか、どちらを志向するかは学ぶ本人の選択であり、また教える先生の方向性にもよります。

もちろん両方をやっていくことも可能ですが、きちんとした扱いと目的の区別はいります。多くのタロット学習者は、これらを混同しています。

リーディングや占いはメソッド化され、たくさんの事例も世に出ていますので、学びやすく、自分がタロットを活用しているという実感も得やすいです。

しかも、対人的に使用しますので、人からも評価や感謝を述べられることもあり、使う本人の感情的満足、幸福感も覚えやすいものです。

ところが、タロットを大きな象徴として自己活用していく向きには、西洋魔法(魔術)の組織や団体でのものは別として、なかなか方法が具体化されておらず、先生や師はあっても、最終的には、自分でタロットの表す絵柄の象徴性から悟って行かねばなりません。

さらにこちらの方向性は、特別な力を得たり、現実を自分にとって都合のいいように変えたりするためにタロットを活用するものではありませんから、効果や目に見えての変化がわかりづらく、普通の人間の感覚としての感情的満足も得にくいものです。

言ってみれば、現実的な世界観をメインとすれば、「裏街道をいつも歩いている」(笑)ようなものです。

それは時に孤独でつらい作業になることもあります。常識や現実(一般)の世界観とずれていることも多いわけですから。

しかし、私自身やってきて思うのは、決して孤独なものでもなく、つらいことでもないのだということです。

同志や同じ傾向を持つ人(場所・事柄)は響き合い、自分が孤独な時に、少数ではありますが、そういう人や場所は現れます。

タロットの象徴による自己や世界の洞察は、苦しくもありますが、ひとつひとつの個々人の段階を過ぎていく時、それはかなりの楽しさもあります。それはまたリーディングの喜びとは違ったものです。

結局、マルセイユタロットは自分の真心、神性に応えるものと言えます。


人間関係のあるポイントとタロット

人とのつきあいは難しいものです。

一般的に、人の相談ごとでも、大きな割合を占めるのが人間関係に係わる話です。

それだけ多くの人が人づきあいで悩んでいるということでしょう。

タロットで人間関係を見て、どう自分が考えればいいのか、ふるまえばいいのかということについて情報を得ることができます。

その情報は、見えない分野や隠れたところのものが多く、そのため、自分のみならず、問題となっている相手の人間の見えない分野、つまり心とか感情などの部分も象徴として推測することがある程度可能です。

それは、原理としては、タロット(マルセイユタロット)が人間誰しも同じ共通の心の型を持っているという前提で、それがマルセイユタロットには描かれているからだという理由です。

ただ、人には個性があり、その時その時の思いがあるので、例えば、相手が本当に今どう思っているのかという具体的で細かな内容を当てるというようなことは、本当は無理があるものです。

わかるのは共通の元型的なパターンであり、それが個人のフィールド・状況において選択されると、どう影響されるのかということを、タロットから読んでいくのです。

ところで、人間関係において、問題となる要因はいろいろあるのですが、まず、人の人格(の選択)ということで考えることができます。

前回の記事にも書いたように、一人の人間にはひとつの性格だけではなく、内面に様々なタイプ(人格)を抱えています。

それが普段の何でもない穏やかな環境では、「あるA」という人格(性格を持つ人の状態)でいるのが多いのに、職場だと「Bという人格」に変わるという感じになります。

また同じ職場であっても、慣れているセクションではAになることもあれば、上司と対応したり、合っていないセクションに来たりすると、Cになるということもあります。

これは自己防衛反応や、環境に適応しようとする意味での人格の選択と言っていいものです。

つまり、環境や状況が、その人を一時的に変えているようなもので、もしかすると、一番メインである人格とは異なるものを、あなたはその人に見ているかもしれないのです。

プレッシャーがかかったり、余裕がなかったり、ある信念で凝り固まったりしていると、人は自分を守るために、ひとつの奇妙ともいえる人格に支配され、それを他人に見せてしまうことがあります。

これで人間関係にトラブルを来すことがあるのです。

だから、自分は、あるいはあの人は、ほかの人格や性格もあるのかもしれないと見て、今はこの人格でいなければ壊れてしまうのだ、そう選択せざるを得ないのだと見ると、少し楽になることがあります。

さて、ここでもうひとつ、人間関係のうえで大事なものである「距離感」とか、「関係性のループ」ということについても述べてみましょう。

人と人との間には、微妙な距離感がありますよね。

親しい人ほど近くても許されるものになりますが、たとえ親しい人でも時と場合によっては、距離を置いてほしいこともあります。

つまりは時間と空間、状況によって、適切な距離感は移り変わってしまうということです。

こうした人と人との距離・関わり方の濃密度とでもいいましょうか、それがこのように、実は一定ではないので、色々と問題としてとらえられてしまうのですね。

この距離感の適切さな選択については、意外とカードたちは表現することができ、それを引くことで、今、どの距離感が大切かを知ることができるのです。

それも人間関係の距離は、距離感と「感」がつくだけに、メーターで計るような、明確に測定できるものではないからこそ、見えない分野の象徴化ということで、タロットでそれを見ることができるのだと言えます。

あと、「関係性のループ」というのは、「運命の輪」が示唆することでもありますが、ある決まった関係性を、特定の人たちとの間に繰り返し、行い続けているというものです。

具体的には例えば、疑似家族とか、疑似親子とか、疑似夫婦とか、疑似兄弟とか、疑似親友、疑似成長仲間とか、ある関係に似たようなものを擬似的に形式化する関係性です。

本当にその関係になりたくてやっているものもあれば、結果的にその関係性が、擬似的な何かの関係に似ていることになってしまっているというものがあります。

しかもその関係性は、お互いを傷つけない暗黙の了解で、実は心地よい逃避的なものになっているので、仮の楽園として機能し、関係にある者は、基本、それを続けていこうと(保持)します。

仮に人が変わっても、関係性の形は保持し、それが繰り返されていくというものです。これがループとなります。

この擬似的な、偽りの、でも心地よい関係性の中では、永遠に続いてほしいという錯覚に囚われ、脱出が困難になります。

ただ、現実や物事に永遠はなく、やがてどうしても環境の変化や、第三者の影響、誰かの成長・気づきなどによって、それが壊わされる時がやってきます。

そのショックはかなり大きなものとなります。ですから、その前に、どこかで勇気をもって、擬似的な関係性のループから脱却する決意と行動を持たねばなりません。

ただ、擬似的な関係性が悪いわけではなく、自他ともに癒しや安心の場所になっていることもあるのです。

いわば成長ための「」や、一時の船のドッグのようなもので、強く旅立つための、安らぎの場所として、タロットでいえば「杯(カップ)」として見ることができます。

人間関係はお互いに人に気遣い過ぎると、、逆に問題を潜在化させることになって、いわば気持ち悪い関係性を強め、各人に抑圧された感情を蓄積させます。

それが爆発の機会をうかがい、常に火種が隠し持たれているという不安なものでもあります。

また反対に、いつもストレートで気持ちに正直にぶつけるのがよいとしてしまうと、うざい関係になったり、無神経な者が現れたり、土足で人の内面まで踏み込まれているような感覚で、仲間はずれが起きたり、スケープゴートの人ができたりします。

ありのまま、感情のままに行動するのがよいというのは、わがままで幼い子どものうちだけであり、社会で生きる大人には、人に気を遣ったり、自分がどのように見られているのかということを気にしたり、どう行動すれば一番安心か、みたいな選択をしていくのが普通です。

しかし、そのために自分をひどく偽り、感情を抑圧し、取り繕って人とつきあうのも、双方にとって、よいことではありません。疲れがたまり、無駄にエネルギーを浪費する一方です。

それは創造エネルギーを欠如させ、ただ流されて生きる人生となります。

タロットでは四大元素と、心の元型を表すカードたちがあるので、いろいろとバランスを見たり、見えなくてわかりにくい人の関係性のエネルギー、思い方を象徴として見ることが可能です。

他人がいるというのが、私たちの住む普通の世界のわけですから、どうしたって人間関係で悩むのは、ある意味、普通なのです。

だからこそ、それをどうコントロールするのか、どう扱い、整理づけるのかによって(学びや楽しさに変えることでもあります)、人生の質と生きやすさも変わってくるのです。


「月」と「太陽」 人格の統合

マルセイユタロットには、二元で表されるエネルギーとでもいうべきものを、ひとつに統合していく過程が描かれています。

これによると、統合の前には必ず分離や葛藤、あるいは解体や破壊が行われことになっています。

これは錬金術(物質的に「金」を作るということだけではなく、霊的に最高度の状態に達するということでもあります)に示唆されていることです。

そうして人は霊的に完成するというわけです。

ただ、霊的なとか、大宇宙とか悟りに向かって、とかになると、どうもエソテリックで、特別な人しかできないみたいな印象になります。

ということで、実際には心理・メンタル(思考と感情)レベルや次元に置き換えて考えると、実用的かつ、理解もしやすくなります。

さて、この二元、ふたつのエネルギーを、もっとも大きな意味でマルセイユタロットのカードとして象徴しているのは、「月」と「太陽」だと考えられます。

「月」はそのふたつの分離を示し、「太陽」は統合を象徴します。

数においても、「月」は18であり、「太陽」は19であるので、18の過程(分離や葛藤)を経て、19(統合)に向かうと見ることもできます。

私たちの精神や実際においても、このふたつの過程は常に現れ、言い方を換えれば、破壊と創造(その逆の創造と破壊)が繰り返され、私たちの内面と外面、多重な部分は統合され、成長していくものと考えられます。

ここでテーマを、自分の中の精神(心理)的な人格統合ということにしますと、「月」と「太陽」は、やはりその分離と統合を示すと表現できます。

人は自分一人の中にも、たくさんの人格・パーソナリティを抱えています。いわば個性の中の個性です。

ところが、これはほかの人にも同様にあり、それがかぶったり、まったく違うものとして衝突したりと、常に自分の中のたくさんの人格・個性が刺激を受けるようになっています。

その都度、「月」で象徴されるような隠れた部分において、不安や葛藤、何かザワザワとした感情が出るわけです。(これは「月」のカードの水たまりやザリガニでも象徴されます)

一方、誰でも人から愛されたい、誰かを愛したいという思いがあり、そのため人と交流を持ち、友人や恋人というつきあいにも発展する、ひとつの要因にもなります。

それは、他者と融合したいという気持ちとも言え、つまるところ、実は自分自身のたくさんある人格の融合・完全に向かう完成を目指しているとも言えるのです。

結局、人から愛されたい、人を愛したいというのも、自分によって自分が愛されたい、自分を愛したいということにつながります。

ということで、「太陽」の初期段階では、自分と同じ部分・共通部分・合う部分・理解できる部分を他人に見ることによって、まず融合を図ろうとします。

しかし、深く融合しようと思えば思うほど、他人と自分の違いが見えてきます。

そこに違和感を持ち始めると、「月」の段階へ戻り、分離と葛藤が、特に感情的に大きくなってきます。

どちら(「月」「太陽」)も心理的には投影と無関係ではありませんが、いずれにしても、自分と他人という関係で、親近感と疎遠感(違和感)のふたつを感じるわけです。

親近感を抱く部分は、強く自分に出ている人格・パーソナリティーであり、自分で好ましく思っているところ、自分で自分を愛している部分と言えます。

逆に他人に違和感や疎遠感を覚えるところは、自分の中でも強く分離されている人格であったり、受け入れていなかったりする影(シャドー)であることが多いのです。自分の中で愛していない自分の部分とも言えるでしょう。

それらは、ほかのタロットカードで象徴されている部分でもあるので、客観的に見たい場合は、カードの象徴を活用するとよいわけです。

いわば、「月」の二匹の犬と、「太陽」の二人の人物は、ほかのカードによって表現されるネガとポジのような関係になっています。

こうして、人との出会いや交流の中で、私たちは自分の中にあるたくさんの人格や状態・エネルギーを発見し、統合していくことになります。

最初は融合や融和を見つつも、混乱や葛藤による分離を迎え、最終的には統合(融和段階を超えたもの)に導かれるということです。

よく、好きな人だけつきあえばいいとか、考えが同じ人だけと交流するみたいな人がいますが、確かにわざわざ合わない難しい人と積極的に交流を持つ必要はないとはいえ、違和感を覚えたり、自分とは違う考えの人をまったく無視するのは、せっかくの統合チャンスをふいにすることにもなるので、何でも極端は問題だと言えます。

合う人にの中には違う部分を見、合わない人には、それでも同じ部分を見ることで、自分の中のアンバランスなパーソナリティーがバランス化してきます。

とはいえ、これは無理に他人と仲良くしなければならないとか、好きな人と距離を置かなければならいとうことではなく、あくまで自分の人格的統合と成長の意味において考え見ていくものであり、人とのつきあい方自体を示唆するものではないのです。

たくさんの人がいるからこそ、傷つけられることもあり、怒りを覚えたり、悲しくもなったりします。また反対に癒されたり、愛を感じたり、楽しい気持ちになったりもします。

だから、人によっての傷は、人によって癒されることもあると思って、何でも一人で抱え込むことはないでしょう。

それが「自分の世界であって、他人の世界でもある」この世の仕組みと言えます。


小アルカナでビバライフ

先日、タロット受講者・修了者のための小アルカナ勉強会を開催しました。

タロットをする者にとって、普通のタロットが78枚ひと組であり、そのうち、大アルカナと呼ばれる22枚のパートと、小アルカナと呼ばれる56枚のパートに分かれることは常識です。

もちろん、創作系タロットになれば枚数もまちまちで、中の構成の区別もあったり、なかったりでしょぅが、一応、基本的なタロットは上記のようになっています。

そして、伝統的タロットとも言われる「マルセイユタロット」においては、特にこの大と小の区別が絵柄からして明確です。

偶然そうなのか、意図的にされたのか、諸説あるとしても、マルセイユタロットに深い教義と統一性が隠されていると思う者には、やはり何らかの理由があってなされたと考えてしまいます。

私自身、カモワン流からマルセイユタロットら入った口ですので、どちらかというと、大アルカナばかり意識して、当初は小アルカナを使うことは少ない感じでしたが、自分独自の道を進むにつれて、小アルカナのほうへも、次第に意識が向けられていきました。

それによってわかってきたことがたくさんあります。今では、私自身は、マルセイユタロットにおいて、大と小に明らかな区別と目的があると考えています。

また、実は両者には明確な区別がありながら、78枚が全体でひとつのモデル・型になっていることもよく理解できるようになりました。

普通はタロットをあまりこのようには見ないでしょうが、グノーシス的にマルセイユタロットを見れば、大アルカナと小アルカナの違いは、天と地の方向性の違いであり、解放と限定という目的の相違があります。

私自身の考えになりますが、大アルカナは魂や心の解放に使い、小アルカナは自分を現実にうまく適用させるための選択を示唆すると見ています。

小アルカナは、私たちが実際に生活し、体験する現実の(時)空間という場所を象徴的に表し、そこに自分を当てはめさせるために、小アルカナのカードたちがあると考えます。

構造のイメージでは、大アルカナ全体の中に、小アルカナという時空間が入っている感じです。

小アルカナの時空間に入るためには、あるルール・約束があり、それが大きくは二元に分離すること(時間と空間認識の存在)、もう少し複雑になれば、4つの性質に分かれることになります。

このルールや規則(いわば見方ということと同じ)は、「一元」から「二元」というレベルでは同じですが、さらに細かく分けると、いろいろなもの(見方・考え方)があります。

いずれにしても、小アルカナの時空間がいわゆる「現実として認識される時空間」なので、時間と空間という差を感じ、結局は私たち一人一人が分離した(「わたし」と「あなた」と個性を感じる)場所ということになります。

大アルカナの場合は、ここ(現実・小アルカナ時空)の次元も内包しつつ、そこから逃れている場所(意識と言ってもよい)も示唆します。

よって、現実からの解放のヒントも大アルカナから得られることにはなるのですが、反面、現実逃避(イメージや目に見えない世界、抽象世界に逃げる)になることもあります。

小アルカナの世界は、現実の生活や一般的価値観による幸せ・成功などの方向性・時空・人物・選択肢を示してくれるかもしれませんが、分離次元の固定、現実空間、その時その時の一時的な状態の充足に向けられるため、これは悪く言えば、現実や常識という牢獄に囚われることにもなります。

また自分と他人の差をどんどん際立たせるものとなり(分離の加速)、つまるところ、自分を強く意識するエゴ(自我)の肥大、あくなき(際限の知らない)欲求と、それを満たす行動へとつながります。

大と小を区別なく、同じ次元・レベルで扱えば、自分の中に混乱は起きませんが、ひとつの考え方・レベルに固定したものになりがちです。

一方、大と小を中途半端に区別して使えば、おそらく現実とスピリチュアリティ、肉体と魂の次元の統合が難しく、混乱は避けがたくなります。

そして、大と小の違いと使う目的を十分理解したうえで、両者のバランスを取っていくと、矛盾したものが統合されやすくなり、こだわりが少なく、成長への気づきも多くなります。

大アルカナを中心に使ってきた人は、小アルカナとのつきあいは、むしろ大アルカナよりも気楽に、もっとライトに、楽しく占いをする感覚でやっていくとよい思います。(軽薄に扱うということではありません)

アテモノとして小アルカナを使うのもよく、そのような使い方のほうが、実は小アルカナは合っているのです。

いつもの私の言っていることとは違うように聞こえるかもしれませんが、本来の趣旨から、はずれているわけではありません。

小アルカナはそういう次元のものだと割り切り、使っていくほうが、かえって占い依存から脱却する考えに至りやすいのです。(大アルカナを意識したうえでのことですが)

カードのトランプを、私たちはゲームとして使いますが、マルセイユタロットの小アルカナ(特に数カード)は、まさにトランプと同様の構造を持ち、絵柄も似ています。

ということは、ゲームのように使えばいいわけです。(そもそもタロットは、表向きはカードゲームのために生産され、使われてきた歴史があります)

この記事でも述べたように、小アルカナは自分を現実(のルール・時空間)に適用させやすくするために使うものと言えますので、実際の生活場面の選択でどんどとん引いて参考にすればよいのです。

引けば引くほど、現実と小アルカナのリンクは強まり、今度は逆に、小アルカナによって、現実を変えていく(「引き寄せの法則」風に言えば引き寄せる)ことになっていきます。

言わば、現実をエンジョイするためのカードが小アルカナと表現できるのです。


夢を叶える知性の構築

マルセイユタロットは、平面的に見ているだけでは、その意味や解釈もやはり平面的なものになります。

マルセイユタロットの中でも、非常に精巧にできている版、色や形が再生されたり、リニューアルされたりした版だと、時に、絵柄が立体的に見えてくることがあります。

これは今までに何人もの人から実際に聞いた話なので、自分だけの思い込みではありません。

逆に考えると、そのようにマルセイユタロットは、立体的に見える工夫がなされていると考えることもできます。

さて、そうした平面→立体という見え方の違いも、一種の次元の転移です。

ただ、一気に転移は起こしにくく、今までの世界に囚われ、それが普通・常識だと思ってしまうと、転移は特に難しくなります。

古代象徴においても、幾何学と作図が重視されたのは、おそらく、こうした意識の次元転移、言い換えれば、世の中の見え方の違いを呼び起こすために必要だったのだと考えられます。

最近ではようやく地球が丸くはないのかも?というような説が紹介されていますが、宇宙とて、おなじみの、太陽の回りを太陽系の惑星が周回しているというイメージでは、間違いではないにしても、思い切り省略したようなものになっていると想像されます。

さて話はガラリと変わり・・・と言いますか、本当は関係するのですが、たぶん、これからの話をただ読むだけでは、初めの文章と無関係な話だと思われるので、一応「話は変わり」と表現しておきます。(笑)

私たちが、「あることができない」と思ってしまうのは、「できる」というイメージやモデルが自分の中に構築することができていないからです。

信じる信じないの前に、やれる、行える、可能という図式・理解・イメージのようなものが自分の中では希薄なのです。

大きな意味でいうとイデアが見えないということになりますし、現実次元の話では、情報と知識(知性)の不足ということになります。

できるイメージとできないイメージの差が、あまりに離れていると、やる気をまったく失い、その人の意味で非現実的なことだと思いこみます。

しかし、この差を少しずつ埋めるようなステップとモデル(理想図・実現設計図)があれば、それは、がぜん実現性を帯びてきます。

要するに、個人個人においての実現リアリティが濃くなればいいわけで、そのためには設計図やモデル、そしてそれに至るステップ・段階が必要になるのです。

しかもそれは情報・知識・知性として獲得することができます。

例えば、独立したいけれども無理だと思っている人には、精神的か経済的、どちらにおいても、その人のレベルにおいて実現リアリティが不足しています。

それまで、「独立して生きる」というような概念・思考・知性・情報・モデルが、まったく「ない」とはいえないまでも、圧倒的に不足しているわけです。

だからこそ、自分に実現性のリアリティが出てこない、薄い、わからないということになるのです。

従って、「できる」というイメージ(理想)に至るための情報・知識を入れるなどして、「できる」「できるかもしれない」という実感(リアリティ)を伴った「考え方」を自分の中に創らねばなりません。

一方、直感で進んでうまく行く場合も、実はそうしたことが高速で処理され(真の知性とアクセスして)、自分の中の別の次元で結論づけられているからだと推測できます。

もしあなたに夢があるのなら、できない、無理だと嘆いたり、諦めたりするのではなく、まず理想を思い、次にその理想の表現に近い「現実」の人や物事を見聞します。(情報の入手)

さらに次元(段階)を落として、理想ではないけれど、それなりに夢に近づいている人・表現されている物事を見ていきます。

そうやって、少しずつ理想から落としていき、今の(夢とはかけ離れている)自分に近づけます。

タロットやカバラー的にはこの落とし込み作業を「10」の段階でやるとよく、10の段階が設計図的にできると、次にそれを逆方向に反転して、上昇させていきます。

タロットの場合、上昇していくイメージに大アルカナが使えます。

すると、理想が完全実現するかは別として、かなり実現のリアリティ性を自分の中に構築することができるでしょう。

なかなか自分の生活や状態が変わらないというのは、ひとえに知識、いや正確には知性の不足というか停滞が理由のひとつとしてあるのです。


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