タロットの使い方
タロットを最初に習う時、そしてその後。
前にも書きましたが、あなたが誰かにタロットを習いたいと思う時、先生は次のように選ぶとよいです。
まずひとつ。
自分が望む状況が、すでに確立されたり、実現されている人を選ぶ。いわば、先生のようになりたい、活躍したいというもので、先生が自分の目標・モデルであるとするものです。
そしてもうひとつ。
その先生の思い、目指しているところが、あなたのタロットを学ぶ目的と合致している、リンクしている人を選ぶというもの。
こちらは、自分と先生が同じものを感じてる、見ているという印象で、自分がその先生のようになりたいのではなく、その先生の伝えるものに共感する、自分が響く、成長のヒントがあるというものですね。
いずれにしても、タロットに対する思いや目的が共感していないと、学んでいる最中、かなり違和感を持つことになり、効果的にタロットを満足に学習することができません。
要するに、技術や内容というより、あなの心が満足しないのです。
ただ、心と切り離し、あくまで技術や知識だけを学ぶのだというスタイルで臨む時は、どの先生についても、またどんなタロットを学んでも、割り切って自分に落とし込むことができるでしょう。
これは、いわばタロットを機能的に学ぶ方法です。
しかしながらタロットは、基本、心と切り離して考えることはできませんので、いくら機能的に学ぼうとしても、どこかで割り切れない思いも出てくるでしょう。
それでも、こうした機能的な学び方が悪いわけではありません。
特に、タロットの基本を一通り学んだあと、自分にとっての足りない部分や、もっと知りたい分野について、補強していく意味で、こうした機能別に学習することは、むしろ効率的と言えます。
そして、こうした機能的(要素別)に学ぶ場合、タロットそのものから離れる内容のものが多くなってきます。
いえ、もちろんタロットのために学ぶのですから、すべてはタロットに関係してくることになるわけですが、それでも直接「タロット講座」を受けるというようなスタイルとは異なってきます。
例えば、関連する占星術とか、カバラーとか数秘術とか、西洋に関係するものはもちろん、一般の心理学とか、仏教、神道、神話、哲学・象徴学・各思想などいろいろと個別にあります。
それらを別々に学習することで、さらなるタロットへ知識と技術が深まるわけです。
これは「タロティスト」として、タロットを基本に真理を追求したり、対人サポートしたりする人の場合です。
もちろん、タロットではなくても、自分は「これが基本」というほかの「コアなもの」があればいいわけです。
私がここで言いたいのは、実はタロットの学習方法のことではなく、なぜタロットを学習するのか、改めて自分に聞いてみてくださいという、タロットと自分のあり方についてのことなのです。
最初は確かに、タロットを学ぶ目的とか、自分とタロットとの関係など、はっきりしたものがないことが多いでしょうし、それでも構わないのです。
入り口はまさにそれぞれです。単に占いとして趣味的に学びたかったという人もいれば、友人に誘われてとか、たまたまブログを見て気になったからとか、そういうようなものが実は普通です。
問題は、一通り、学習してからです。
さて、タロットの基礎、あるいは初歩を学んだとします。
「これから、あなたは、せっかく学習したタロットをどのように活用したいと思いますか?」
と聞かれれば、あなたはどう答えますか?
どう使おうがその人の自由であり、またタロットは、伝統的なタロットであれば、ほぼあらゆるものに対応できる象徴体系(システム)を持っており、自分の使い方の希望に応じてくれます。
ここで、タロットに対するあなたの立ち位置、スタンスが求められます。
「タロットはあくまで、目的のための道具・ツールの一つです」という人は、その目的とは何ですか?
例えば、人を癒し、問題を解決したり、解消したりするサポートとして活用したいというのであれば、そのためのツールということになるでしょう。
この場合でも、多くのツールの中のひとつか、メインとして使うのかの違いで、今後のタロット学習や研鑽について、異なってくることになります。
あるいは、自分の解放や探求のために「象徴図」として使いますという方も、またそれなりの学習方法と使い方があります。
このケースでは、ほかのもの(タロット以外のもの)を学びつつ、タロットに落とし込んで理解する帰納的なものと、タロットを基本としながら、あらゆるほかのものを考察していく演繹的なものとがあり、それらを入れ替えしながら、自分自身を高め、統合的・霊的に成長の道を見ていくこともできます。
一方、タロットを経済活動に組み込み、占い師やタロットリーダー、セラピストとして独立、もしくは副業し、仕事として(社会的にも)経済的にも自立か、自立する方向に持って行きたいという人もいらっしゃるでしょう。
人を助けるためというきれいごとだけではなく、本音として、仕事にしたい、お金にしたい、あるいはタロットが好きで、それ(好きなこと)が仕事になればいいという人もおられると思います。(もちろん、人のために役に立ちたいというのも本音でしょう)
それはそれで学ぶことが、やはりあります。
特に経済活動になってきますと、集客とか宣伝とか、具体的に物質的なことにフォーカスし、その技術や方法も学習することが求められます。
プロとして料金をいただく活動をすることは、タロットの技術や知識が高い(お金をいただくことのできるレベルである)のは当たり前ですが、それだけでは、望んだ状態(経済的自立とか成功ということであれば)になるのは難しいです。
ここで誤解している人がいますが、学びとは「座学」だけではないということです。
頭や知識でわかったとしても、それは片面だけの学びにしか過ぎません。
もうひとつの、実践での学び、いや、学びは実践であると言い換えてもよいでしょう。
暗記は頑張れば誰でもできるのですが、それを筆記テストで一時的に満点取ったからと言っても、本当に使えるか、理解しているかは別の話です。
覚えたことが通じない、そもそも覚えたことの意味・真実がわからないということは、ままあることです。
そのために実践であり、現実なのです。
いつもマニュアル通りの同じ事が起こるとは限らないどころか、毎回必ず、現実(実際)ではどこか違っているはずです。
マルセイユタロットにおける大アルカナは、ある意味、すべてが学びを象徴しているカードです。
しかし「学び」であっても、「斎王」「や「隠者」のように、本を手にしたり、静かな環境で瞑想したりするだけではなく、例えば、「手品師」とか「皇帝」「戦車」など、現実的なことを示唆するカードでは、その足や乗っているものから見ても、動きがあったり、両足開いたりして、臨機応変的なスタイルがうかがえます。
関西弁で言えば、学びは実際に活かされてナンボです。(笑)
ただし、ここでも誤解があるのですが、実際に活かされるというのは、物理的なことだけではないのです。
見に見えて効果がないように感じても、精神的・霊的に働いていれば、それはまた別の意味で実際に活かされているのです。
大切なのは知識を満たすだけではなく(知識欲を満たすことだけではなく)、それをどう活用するかなのです。
知らないことを知って、「へぇー、そうなんだ、すごい!」と思うのはいいのですが、そこから次の段階が重要です。
タロットを一度習ったあなた、そのタロットと知識をどう使いますか? そもそもあなたは、これから、どいういった目標と目的のために、タロットの学びと実践を行うのですか?
もう一度ここで考えてみましょう。
タロットを使う目的、グノーシス
タロット、特にマルセイユタロットには幾つかの目的によって、使い方が変わってきます。
それ(目的)は階層や次元・レベルと置き換えてもいいものです。
まず、一番楽しいのは、遊びで使うというものでしょう。
もともとタロットは一般的にはゲーム、いわば私たち日本人の思う「トランプカード」的な目的で製作販売されていたところもありますから、それはそれで、ある意味、伝統的で正しい使い方といえます。
そして、この遊びの範疇に入ってくるものの、ゲームではなく、ライトな「占い」で使うというものがあります。
「私の○○どうなる?」的な、ちょっと状況をカードで見てみたい、という雰囲気に使用するものです。これも皆さんでやってみると、楽しいですよね。
そして、「占い」でも遊びではなく、ややヘビーといいますか、真剣な悩み事の相談として「占い」を行うことでも、もちろん使えます。
だいたい、そうなってきますと、心理レベル、心理次元での投影や象徴として、カードを見ていくことになります。
占いとは別に、カウンセリングやセラピー(心身、特に心の浄化・調整・癒し)として、心の範疇をメインで扱うタロット使いがありわけです。
おそらく多くの人は、この次元でのタロットの使用を求めており、タロットを学びたいという人も、タロットを使った対人援助・相談を行うことが目的で学ぶ、という方も少なくありません。
さて、そのほかのことでタロットを使う目的はあるのか?ということになますが、細かく言えば、これ以外でもたくさんあります。
ただ、大きな括り、レベルや次元別でいえば、特にマルセイユタロットの場合は、霊的な成長、霊的レベルでの統合、グノーシスの完成のために使うというものがあります。
これは一見、心理次元のタロット使いに似ているのですが、大きく異なるのが、自己を宇宙レベルの規模で考察していくということにあります。スピリチュアルといえば、まさしくスピリチュアルでしょう。
平たく言えば、「社会と自分」というような枠組みを超えて扱うということです。
変な言い方になりますが、自分が現実や社会で生きやすくするためにタロットを使うのではなく、現実そのもの、社会そのものを根底から変える(変える必要があることを認識する)ためにタロットを使うということになります。
ところが、これまた禅問答みたいになりまずか、それが外に働きかけるのではなく、自己、内側に作用していくというものになるのです。
内側に働きかけるので、心理次元の使い方と似たような段階を通ることになるのですが、狭義の心理次元の範囲に収まらないのが、タロットを霊的に使う目的となります。
ただし、それは非常に抽象的であり、難しいところなので、具体的な方法となると、うまく言えないところもあるのです。
しかしながら、これもまたマルセイユタロットのすごいところなのですが、タロットは目的別に示唆を与えてくれるところがあり、グノーシスや霊的探求を志していても、ちゃんと導きがあり、折に触れて、その「光」「叡智」に気づかせてくれるところがあるのです。
グノーシスとは、「霊智」ともいえるもので、自分の中の「神性」を覚知(認識)することの意味です。
智慧はタロットにあるのではなく、自己にもともと存在している神的で高次な部分にあるのです。
ただそれに気づくきっかけや知識、経験、感性が必要だということになり、その有力なもの(ツール・書物)がマルセイユタロットだということです。
具体的に「こうだ」とは文字で書かれてはいませんが、イメージ的な話でいえば、タロットの精霊が導いていくれる、教えてくれるというようなものです。
イメージの世界の最高度のところには、イデアという世界があります。これは哲学者プラトンが言及した理想・完全なる世界です。
イデアに到達するためには、普通の思考では難しく、イメージや感覚、同時に知識も必要です。特に図形と幾何学は重要です。
グノーシスは、この世界が偽の神で作られているという反宇宙論、世界を否定的に見ることから始まりますから、まともに考察していると、とても苦しい状況になります。
今言われているスピリチュアルな話では、そのほとんどが、この世界は愛で調和に満ちた世界である、神(大いなるもの)の恩恵でできているという前提でいます。
それを感じられないのは、ひとえは私たちの認識不足、偏り、不調和、束縛にあると考えます。
愛に気づき、自己を解放していけば、幸せな世界になり、経済的にも精神的にも満たされるという話にもなります。
しかしながら、グノーシスは、それに気づけば気づくほど、この世界が嘘偽り、欺瞞でできているということになってきますので、やればやるほど自分が苦しくなり、まともにグノーシス的世界観を信じるのは、バカらしいということになってきます。
同じ「愛」や「神性」の気づきでも、この「神性」という前提の「神」が、まことか嘘かで、まったく話が違ってくるのです。
最初に「嘘」という前提に立つグノーシスは、現実的には、いわば救いようのない話と見えるわけです。
従って、現代ではまじめにグノーシスを考える人も、おそらくほとんどいないと思われます。まさに矛盾したおとぎ話です。
この大矛盾の思想が、なぜかつて隆盛を極め、一度下火になるも、中世ヨーロッパでは、再びカタリ派として、南仏を中心に、カトリックと違う異端の教えが広まったのかと考えてきますと、なかなか頭では理解しがたいことだと思います。
ところが、私はマルセイユタロットを通してカタリ派を見てきますと、その出家階層ともいえる人たちの純粋さの思いに至ってきました。
本当に、善き人でありたい、この世界が善き世界でありたい(善き世界にしたい)、そういう純粋な思いが込められているのです。カタリとは清浄や浄化を意味する言葉でもあります。
実はとても現実(世界)を見ているからこそ、グノーシスやカタリ派の人たちは、それを信仰していたと考えられます。
冷徹な目で見ると、当時の社会は、支配・不均衡・不調和で、現実は汚く、腐敗しているように見えたのでしょう。それはもしかすると、当時も今も変わりないのかもしれません。
そして、本当のグノーシスとは信仰ではなく、目の前の現実を見据えた知的探求と純粋思考・純粋感性にあると感じます。
信じる時点で、それはもう堕落を意味します。
話は変わりますが、2011年に放映され、大きな話題となった「魔法少女まどか☆マギカ」というアニメがあります。
ネタバレになるので、詳しくは言いませんが、このアニメでは、「魔法少女」になるため、ある存在と契約した女の子たちが、生死に関わる大きな矛盾に陥るようになります。
幸せになるため、愛のため、または時には自己(エゴ)の満足のため、魔法少女という特別な力を得た代わりに、とてつもない矛盾に抱えることになるわけです。
善だと信じた世界が悪に変わり、その究極の輪廻・ループ・牢獄とも思える中で、いかに解放にもっていくのか、これが描かれていきます。
私はこのアニメを見ていて、はっきりとグノーシスを感じました。先述したように、グノーシスをまともに探求していくと、絶望とも思える世界の矛盾に苛まされます。
自己の神性に救済はあるというのがグノーシスですが、なかなか現実的・精神的には大変なことにもなります。
しかし、このようなアニメの世界においても、グノーシスの光があったのです。アニメーションは、イメージの世界だからこそ、イデアに接することができるのだと感じます。
グノーシス神話には、悪や偽の世界においても、私たちの魂を救済するための援助者、神性の光が散りばめられていると言われています。(反対に閉じこめる存在も多数)
苦しい時にあっても、グノーシスを探求する者は、それ(神性の光)を見ることができます。
心理的には自分の作った価値観と世界観の中で、自己を悲劇のヒロインや主人公にして、わざと苦しい世界に自分を設定して、そこで頑張ることで「自己の価値」を偽りのシステムの中で見出している(作っている)、という話もあり、苦労する人、縛りを作りたがる人の心理的理由にもなっています。
グノーシス思想を取り入れる人も、それだと指摘できるかもしれません。
要する、ブロックのひとつ、自己妄想、自己信念、自分の創造するストーリーの一つであると。
バカだと言えばバカであり、もっと楽に気軽に考える世界を選択してもよいのです。
ただ、私のような者は、「愚者」となって、グノーシスの道を歩みたいという思いがあり、それは深く魂の叫びのようなものがあるのだということです。
自分だけがよい世界では、まさに自分一代限りのことです。グノーシスは時間(の概念・感覚)がないともいえ、同時にまた一方では、長大な時間周期を考慮に入れます。
マルセイユタロットの「愚者」には、そのようなシンボル・象徴が描かれています。
そして初めに戻りますが、タロットはこのような、バカげた思想(笑)の探求に使うこともできますし、ライトな占いや、心理的調整道具として使うことも、もちろんできるわけです。
どの次元を扱うかは、その人の選択次第です。
なお、個人(対人)リーディングにおいては、私は主に心理次元を採用しています。
このように、次元の階段を登り降りしながら、タロットは扱うことができるのです。
「思い」と「行動」の関係について
マルセイユタロットでは、特に「女帝」と「皇帝」で象徴されていますが、「思い」と「行動」ということについて、書いてみたいと思います。
「思い」と「行動」は、人間にとって、それが一致することは、実は一般に考えられているより、少ないのではないかと思います。
これが本能で生きる動物となると、ふたつは矛盾することなく、思い即行動、行動=思いの表現・動作ということになるでしょう。
しかし人間の場合、なまじ思考・想像という力をもっているために、なかなか行動に結びつかなかったり、思いと裏腹な行動を取ってしまったりします。
「行動」は、現実・実際においてわかるもの(見えるもの)ですが、逆に「思い」は見えないものです。
この点がまた誤解を呼びやすく、対人関係、人との交流において特に問題となります。
知識と情報は、私たちを進歩させますが、一方で、様々なデータを抱えることで、選択としては難しい状況を生み出していきます。
単純なコンピュータのように、データをある決まったルートで分析し、判断するのであれば、すぐに答えは見つかり、むしろデータはたくさんあったほうが確信を得やすいのですが、人間は、データをもとに、あれこれと想像を巡らし、結論へのルートが多様に散らばって行くため、いわゆる混乱や葛藤の状態を生みやすいと言えます。
ただ経験則によったり、何か自分なりの信念が強くあれば、知識、つまりデータが多くても、明確な答えは早く導き出せるでしょう。
ここのところが、経験を活かすことの良さ、強い意志や信念を抱くこと、あるいは何か使命や目的というものがあったほうがいいという理由につながります。
つまり、データをまとめるためのルート、または分類基準がはっきりしているということです。
こういう人は、悩むことが少ないので、行動も素早く、ストレートなことが多くなります。
そして、行動は自ずと結果を呼びます。
その結果が失敗か成功かというのは、その人の価値観が決めることなので、結局、いずれであっても、結果としてのデータがまた入ることになります。
これは実際の行動に関係したデータですから、あれこれ思考していた時のデータとはまた違います。
よって、かなりフィードバックとしてのものや、経験的・実際的データとして使えることになります。
すると、強い信念や目的意識のある人は、これらのデータをもとに、ますます、物事を有利に進めていく(シミュレーションを改善していき、よい結果にしていく)ことができます。
だからこそ、行動力のある人は、自分の思う、よりよい結果・成果を出しやすいのです。
ここから考えると、行動のためには、思いを整理して、シンプルにすることが重要であることがわかります。
面白いことに、マルセイユタロットでは「女帝」は「3」の数を持ち、同じ「3」つながりでは、そぎ落とすことを象徴する、「13」という(数だけの)カードがあります。
この二枚からも、思考を整理して、そぎ落とし、シンプルにしていくことで、次の数を持つ、「皇帝」の行動や、「節制」の救済につながっていくことが謳われているわけです。
しかし、整理する「方法」も重要です。
たくさん出た思考と想像、これをまとめ、整理し、シンプルにするには、やはり先述したように、目的を絞ることです。
人は多くのことをポジティブにもネガティブにも想像(つまりは創造でもあります)することができます。
それ自体は創造力としてすばらしいことです。(たとえネガティブなことであろうと)
心配性の人は、それだけいろいろなことを想像(イメージ世界の創造)することができるのです。
問題は自分の方向性を決めることができない、それが整理されていないことにあります。
単純な整理法でいうと、「今の自分は何をもっとも大切にしているのか」という「基準」「整理の観点・括り」を入れることです。
迷いは、いろいろなレベルでの正答を求めようとしていることに問題があります。
言ってみれば、たくさんの「自分」が、あれこれ、それぞれの価値観とレベルで意見しているようなものです。
ここでまとめ役として、「テーマ」を自分の中で掲げることです。
そのテーマが、「今、もっとも大切(重要)なこと」となるわけです。
それは「大きな意味での成長」ということかもしれませんし、「今の心地よさ」かもしれません。
また「愛情」の場合もあるでしょうし、「楽しさ」「損得、特にお金の得」「時間の効率」「スピード」「量」「味のおいしさ」などかもしれません。
選択における、その時その時のもっとも重要なひとつの基準を入れることで、思考・想像・感情(思い)を整理し、行動へと進ませます。
それから、「思い」から「行動」への方向を見るだけではなく、「行動」から「思い」へと逆の方向も見るとよいでしょう。
行動していること(外に表現されていること)が、自分の思いと一致しているか、そこに大きな違いがあれば、それは葛藤や歪みとして、自覚がなくても、奥底にねじれの感情として溜まっていく場合があります。
そのねじれがひどくなると、心身のアンバランス・不調として症状が現れることがあるのです。肉体がおかしくなるか、心がおかしくなるか、その両方の時もあります。
あるいは、スピリチュアル的に言えば、これまでのやり方では対処しづらい、外の現象の問題として現れます。
人は「思い」と「行動」が違うことが多くなる生物であることは、最初に述べた通りですが、それゆえ、両者がなるべく矛盾しないよう、整理と浄化(メンテナンス)を図っていく必要もあるのだと言えます。
タロットは心を絵柄として見える形て浮上させますので、まさに思いと行動の間を整理し、調和させていくツールとして、有効なものでもあるのです。
人のタイプ論について。
私たちはタイプ(型)に分けるのが結構好きなようです。
いわゆるタイプ論は、問題の把握や物事(人間)の整理において、とても便利なところがあります。
パターンやタイプ、型に当てはめることで、理解したり、対処したりすることもやりやすくなるからです。
そして、ここが重要なところですが、人には未知なことは既知としたい欲求(知りたい欲求)、不安定なものを安定させたい気持ちが働きます。
そのため、自分や他人がよくわからないような時、「あなたは、なになにのタイプなのよ」とか、「自分はこれこれのタイプだ」と言われたり、わかったりすると、安心するわけです。
これは人間においてだけではなく、問題が起きた時、心身の不調など原因不明のことがある時など、やはりタイプやパターンを調べて、それに当てはめ、どうやらこれと同じ、このタイプだなとわかると、とりあえず、ほっとできます。
また、こういうこともあります。
仕事や恋愛など、ある問題で悩んでいる時に、自分の「人としてのタイプ」を知るだけで、何だか問題か解決したような気分になることもあります。
占いなどでは、実はこういうことはよくあります。
「あなたの気質や運勢はこういう型だから・・・」と言われると、「そうか、今起きている問題はそれが原因だったのか」と、自分で自分を説得させてしまうわけです。
タロットにおいても、数秘的に見たり、四大元素的に見たりして、人間をある種の型・タイプに分けることがあります。
今述べたてきたような習性が人にはあるので、自分がタロットによって、あるタイプに分けられると、何か嬉しくなってしまう人もいます。
ただし、何事も反面要素があります。
タイプ論は確かに便利で、人を安心させたり、問題の把握・解決に利用できたりするところがありますが、「型にはまる」という言葉があるように、タイプに執心してしまうと、そこから「タイプ」が囚われになります。
いわゆる色メガネと言ってもいいでしょう。
タイプは自分や人を知るための技法であるのに、逆に、自分や人をタイプに押しつける、無理からにタイプに当てはめてしまうようになってしまうのです。
タイプこそが絶対で、正しいもので、これに当てはまらない人はおかしいというくらいになり、いついかなる時も、自分の信じるタイプ論で、人を区分けしないと気持ちが収まらなくなる人もいます。
言わば、人のためのタイプ論が、タイプ論のための人になっているわけです。
私はタロットにおける人のタイプ論も、講座で言及しますが、注意点として、それにこだわらないことも伝えています。
要するに、人は、あるタイプに分けられはしても、結局、すべてのタイプを持つ可能性がある存在なので、どれも当てはまらないとも言えるのです。
もともと持って生まれた性質や傾向、そして成長していく過程において身につけた様相というものもあって、それがタイプとして分けられることもあるのは事実でしょう。
しかしながら、それを超えられる可能性を持つのも人間です。マルセイユタロットでは、むしろそのことを伝えていると言ったほうがよいです。
とはいえ、無理して自分のタイプを変えようという意味ではありません。
超えるというのは、タイプを理解したうえで、タイプに囚われないということになります。
平たく言えば、どうだっていい(笑)という心境になるみたいなことです。
どのタイプであれ、自分に必ずどれも内在しており、その反応は人によって違いますが、タイプがわかるということ自体、自分も、そのタイプの一部があるということなのです。
そして、これも大切なことですが、タイプ・傾向して区分けされるのならば、言わば、人の得意・不得意みたいなものとして考え、それぞれの役割の分担、シェアによって全体が成り立つことを思えば、自分が楽になります。
自分が不得意なものに、得意な他人がいて、その逆に、他人が不得意なものが自分には得意なこともあります。
さらには、レベルという縦の発想を入れると、その得意分野を高度にしている、専門にしている人もいれば、一般レベル、平易レベルを得意としている人もいます。
不得意も同じで、不得意がかなり高度(つまり、超苦手)の人もいれば、食べず嫌いのように、少し学べば通常レベルになる人もいます。
そうした様々な分野において、レベルの違いがあるのも現実の人であり、社会です。それらで助け合い、提供し合い、世界が成り立っています。(全体で充足している、ただし、全体として完全でも、配分バランスの問題はあると考えられます)
タイプ論は、自分のタイプを知ることで、自分をよく理解し、安心させることができますが、行きすぎると、言い訳や執着になり、かえって自分の成長を遅らせます。
自分を知るだけではなく、他人を知り、それが自分の中にもあることを理解するうえでの一助となるのがタイプ論でもあります。
言い換えれば、タイプ論は、自分の個性を知り、自分らしく生きる指針として活用すると同時に、全体性への統合(自分自身、そして他人や外の世界との統合)の意味でも、使うことが求められます。
自分が「あるタイプ」だとわかって安心している段階から、次のステップに進みましょう。
マルセイユタロット、小アルカナと親しくなる。
私はマルセイユタロットを習った時に、大アルカナ(22枚の絵柄のついたカード)中心で使う方法と言いますか、流派だったので、どうしても小アルカナと言われる、ほかの56枚のカードたちと疎遠な感じが長い間続いていました。
最初にマルセイユタロットを教えるようになった頃は、まだある流派に属していましたから、あまりその状態は変わっていなかったと言えます。
しかし、そうした中でも、私は探究好きなので、例えば、生徒時代でも、関西における勉強会(これは今でも続いています)の時に、なるべく小アルカナを使用したり、そのリーディングについて、皆で検討する機会をあえて作ろうとしてきました。
そして流派から離脱、独立することで、否応なく、自分自身での研鑽、独自の道を歩まねばならなくなりました。
その結果、小アルカナとも向き合う時間が増え、今では、本当に小アルカナの世界も楽しくなっている自分を自覚します。
大アルカナは深く、また非常に広範囲で高度な内容を示すのですが、小アルカナは単純ようでいて、とてもバラエティに富み、すごく現実的・リアルなのです。身近な存在といってもいいでしょう。
それは頭で理解するだけではなく、心でも感じるもので、その両方が必要です。
マルセイユタロットリーダーや、マルセイユタロットを活用しようとする者は、どうしても小アルカナ、中でも数カードの記号的・トランプ的ともいえる絵柄になじめないところがあります。
いや、なじんではいても、読めない、活用できないといったほうが正しいかもしれません。
ここで、私自身が小アルカナとつきあってきた経験から言わせていただければ、まず、単純に、小アルカナと仲良くなることが重要です。
タロットの世界では、カードを人間のように扱って、自分と関係をつけていくという考え方があります。
そこから言えば、実際の人間関係のように、人を理解し、お近づきになるために、当然、相手とよくコミュニケーションしたり、時間を過ごしたりする必要があります。
ですから、小アルカナによくふれるようにすること、目にする時間を多くすることが大切なのです。
しかも、小アルカナは、実は私たちの現実世界を象徴しているものであり、次元でいえば低いのですが、それだけダイレクトに生活時間と空間に関係してくるのです。
言い換えれば、実際の生活において変化を及ぼすには、打って付けのカードたちなのです。
ここは厳密にいうと、変化を与えるというより、変化を見るというほうがふさわしいかもしれませんが、このあたりの微妙な感覚は講座やセミナーで説明したいと思います。
平たく言えば、小アルカナは占い的に使える世界だということです。
この占い的な世界は、人間のリアルな生活意識を安心させたり、逆にワクワクさせたりする意味では、重要な役割があるのです。
しかしながら、一方で、この小アルカナの世界に埋没してしまうと、意識が現実次元に固定され過ぎ、肉体や物質を超えた心理的・霊的な世界に飛翔することが難しくなります。
だからこそ、大アルカナの世界があり、大アルカナによって次元を転移するように、マルセイユタロットはできています。
マルセイユタロットが大アルカナと小アルカナで絵柄も構成もまったく違うようにしているのは、その違いを明確に示唆するためと考えられます。
その観点では、本当に数あるタロットの中でも、最初にマルセイユタロットを本格的に学べたのは、自分自身にとっては大きな天(と地)からの恩恵だったと実感しています。
もちろん人には個性があり、それぞれの学びや発展において、ふさわしいタロットと出会う(タロット以下のことでも)ようになっているものと思います。
私にとっては、マルセイユタロットが良かったということです。
話を戻しますが、そして今回の記事の終わりになりますが(笑)、マルセイユタロットの小アルカナは現実やリアルな世界と結びついていますので、あまり理想的・宗教的・精神的と言いますか、ピュアで高次に考えていくよりも、欲望渦巻いたり、ちょっとてした夢を見たり、お金やモノなど、実際の生活において関心が及ぶものと意識でとらえていくといいと思います。
そして、私たちの現実世界は、ある意味、ゲーム的なところがあります。
ですから、小アルカナはゲームとしてのトランプのように扱っていくと、なじみやすくなります。
ちなみに、マルセイユタロットの小アルカナは、ほぼトランプカードと同じ構造をしていますので、その点でも共通しているのです
