タロットの使い方
内的外的、人によって違う様々なサイクル
マルセイユタロットを見てますと、人には内向きの活動と外向きの活動があり、それが交互に現れたり循環したりすること、またそのエネルギーのバランスが示唆されているように感じます。
ただ、内向きの中にも外的なものがあり、逆に外向きの中にも内的なものがあります。
例えば、何かを積極的にイメージしたり、クリエティブな発想をしたり、先の計画をしたりするようなことは、外に向かって実際に活動はしていませんが、内側で積極的になっている(外向きのもの)と言えます。
また、人に教育したり、癒そうとしたりする活動は、行動的ではありますが、内向きな(人の内側を豊かにする)ところもあるでしょう。
人は物質的・人的な環境のもとで生きており、そしてもちろん、大自然の中にもいます。
自分の身の回りだけで見ていたら小さな世界ですが、全員、地球に乗っている存在であり、太陽系の星に存在し、宇宙の中のひとつとしてみれば、とてつもなく巨大な環境に囲まれているのがわかります。
ということは、結局は大きな宇宙の法則のもとで生かされていると言え、その法則は個人レベルでは無視できるものではありません。
しかし同時に、あまりにも巨大な法則は、個人レベルにダイレクトに影響する感じでもないのです。(実際は影響しているのですが、そう感じない)
言い換えれば、大きな法則は、当たり前すぎて、自分個人に働いていると自覚しにくいということです。例えば、重力があることや、毎日の太陽の動き、つまり昼夜が規則的に続いていくようなことは、特に意識しません。
そうした大きな法則のひとつには、物事が生じて滅ぶという宇宙のサイクルがあります。
創造・維持・破壊の言葉で表される回転運動のような、波のような法則です。
3つの現象・状態が循環するわけですから、数としては「3」と関係しますが、詳細に見れば、4にも7にも10にもなります。
それはさておき、要するに、すてべのものは発生すれども、やがてはピークを迎え、消滅していく流れにあるということです。
ただし、大は宇宙から小は人間の細胞まで、そのサイクルの基本法則は同じとしても、それぞれの固有のリズムは違うことになります。いわば波の細かさが違うわけです。
従って、自然の環境、人工の環境、個人の思考や感情によって、各々がバラバラなリズムの生成消滅を繰り返していることになります。
建物ひとつ取っても、木造建築に住んでいる人と、鉄筋コンクリート造の建物に住んでいる人とでは、例えば耐用年数が違い(と言っても木造のほうが長い場合もあります)、それによって、生活(人生)のリズムも変わってきます。
これが私たち個人の違いを生み出しています。
だから、よく生年月日・生まれた時間まで同じでも、まったく違う人物になるのです。
何が言いたいのかと言いますと、最初に戻りますが、人にとって今は内向きがいいか、外向きがいいか(それは3サイクルのどれを進んでいるかと同意義のところがあります)は、本当に人それぞれだということなのです。
また多くの人は、自分でどのような波にいるのか、よくわからないところかあります。
本当は感性が鋭敏になれば、自分でも自覚することができるのですが、今は人工的な環境も多いですので、単なる自然のサイクルでの予測は難しくなっています。
ちなみに古い時代の占い技法が当たりにくくなっているのは、自然環境が主たる相手だった、文字通り「古い」技法のままだからです。ですからそうしたものは、象徴・シンボルとしてのとらえ方が重要です。
象徴になれば、個別性・具体性を超えるからです。
ということで、象徴的に、自分の流れ(サイクルへの望ましい対応)をタロットで見ることにより、ぶれがちな自分の感覚の補正にもなるわけです。
タロットリーディングにおきましても、本人が外向きに行きたいと願っていても、今は内向きに待機や準備をしていたほうがいいと出ることや、その逆のこともよくあります。
スピリチュアルな人は自分との対話や瞑想が必要だと述べますが、もちろん、それは重要なことではありますが、あまり内向き過ぎると、機会(チャンス)を失ったり、妄想や自己欺瞞・自我肥大に陥ったりすることもあります。
心の声の堂々巡りと言いますか、独りよがりと言いますか、もっと悪くなると魔境を見る(精神異常や憑依とも関係)と言いますか、そうならないように、外側(他人や師)からのチェック、あるいは現実での実践を通して、自分の心境が確実なものかどうかを確認することが求められるのです。
タロットは自分を客観視することに、とても有効なツールですが、それでも、私は同じタロットを学ぶ学習者同士の交流を図り、ともに励まし合ったり、チェックし合ったりする関係の構築を勧めています。
そうすることで、バランスがうまく保て、様々なサイクルの波に混乱してしまうことから逃れることが可能になるのです。
自分にいる別の自分・性格
あなたはこんなことありませんか?
人から「いつも幸せそうでいいですよね」とか、「あなたは悩みなんてなさそうね」とか言われると、「そんな脳天気じゃないわよ!」「「私にも悩みはある!」と反発したくなるとか、
また逆に、「あなたはいつも疲れているみたいね」とか、「精神的に弱そうに見えるものね」「あなた、大丈夫?」なんて言われると、「いえいえ、こう見えても結構強いところありますよ」とか、「私、案外、大らかな面あるんですよ」と、反抗したくなることもあるかもしれません。
何と言いますか、悪く言えば「へそ曲がり」や「天の邪鬼」の部分が、違う言い方をすれば、他人から指摘される部分とは別の部分があることをわかってほしいというような、そんなところが人にはあるようです。
もちろん、他人から言われた通りの部分が素直に認められることもあるでしょうし、指摘されてもまったくその通りだと肯定できる場合もあると思います。
しかし、先述のように、他人からの見た目の印象とは違う、まったく別の部分もあることを自らアピールしたくなるのも人間です。
ということは、自分自身、正反対(人が見たり、感じたりする自分の印象とは反対)の自分が存在していることがわかっているわけです。
その反対部分とは何者なのでしょうか?
やはり、これも自分の中の自分と言えるでしょう。
それも普段はいなくても、他人に反対のことを言われて登場してくるような人物、詳しくは内在する性格(パーソナリティ)のひとつとも言えましょう。
このように、自分の中には様々な性格・人格が同時に存在し、自分というのは単一の性格存在ではなく、結構複雑で輻輳したもので成り立っていることがわかります。
そうした自分にある(いる)数々の者たちが、自分の中で争わずにいれば、それほど問題ではないのですが、さきほど「正反対」と言ったように、時にはまったく反対同士のパーソナリティを持つ(出てくる)こともあるわけです。
そうなりますと、それ同士の戦いも起こりえます。これが心の問題や葛藤、現実の何かの選択に影響を及ぼすことがあるのです。
一方で、それらのパーソナリティをまるでひとりのそれぞれの人間として考えると、その存在を認めて欲しい人間(性格)もいたり、いつも出ている人格なので認めるも認めないもなく、でも主人公でいたいという者もいるわけです。
そのどれも自分ではあるわけですが、真実はどれも本当の自分ではないとも言えます。
生きるための便利な仮面(ペルソナ)になっていることもあります。
ではどうすればいいのかと言いますと、結局、それらを統合して、完全なる統合人格・人間になるのが一番です。
ですが、そもそも、どういう人格・性格・パーソナリティが自分に存在するのか、存在しているのかを発見しないと始まりません。内在人格の自覚といってもいいですね。
特に普段隠れていて、天の邪鬼のように出てくる性格は、存在を認められたがっており、きっちり受容してあげないと、暴れたり、変なところで登場して悩ませようとします。
よく、悪さをする子は、実は寂しがり屋で、かまってほしいから、存在を認めてほしいから、ということがあるのと同じです。
そして、王様・主人のようにふるまい、偽善ぶって、いい人や力があるように見せかけて、メインとして出てしまっている性格も、調整が必要です。
とにかく、認めるものは認め、受け入れ、強く出過ぎているものは控えてもらい、自分の中の様々の性格を飼い慣らしていくことが大切です。その第一歩は様々な性格の自覚(受容、さらにはその性格を持つことの許し)となります
飼い慣らすというと、ちょっと力ずくのような、支配するようなイメージですが、友人のように仲良くしていくというもので、媚びたり、抑圧したりするものとは違うという意味です。
ちょうど、そのための示唆となるのが、マルセイユタロットでは「力」のカードでもあり、「戦車」のカードでもあります。
そして大アルカナと呼ばれる22枚のカードはこのような人格やパーソナリティも象徴します。
ところで、パーソナルカードという数秘術から出たタロットカードの技法がありますが、これも深く使えば、パーソナリティ統合に使えますが、表面的に扱うと、数秘とカードの象徴を混乱させ、逆効果になります。ソウルカードという技法も同様です。
この両者(ソウル・パーソナル)は実は慎重に扱うべき技法と言えます。
ですから、まだ単純に数だけで表したほうが、象徴性がわかりやすいかもしれません。この話は象徴の適用フィールドの差ということで、またいつか別記事で書きたいと思います。
タロットは、タロットの絵柄の象徴を中心に使っていくのが無難と言えます。
それはともかく、自分の中にある様々な性格・人格を発見し、統合していく作業は、自分を生きやすくするためにも、霊的な意味でも重要だと考えられます。
あえてペルソナをかぶる
最初にお知らせです。
以前から、ちらほらご要望をいただいているのですが、関西まで通えない方のための入門的な講座を検討しています。
現在も遠方の方には、基礎講座的なものをスカイプで行っていますが、これを入門講座レベルで行うというものになります。
いきなりがっつり学ぶのも時間と料金と内容に躊躇するという人もいらっしゃいますし、その点からでも、こうした講座は受けやすいものではないかと思います。もちろん、これだけを学んでも、自分や他人にマルセイユタロットをシンプルに使うことはできます。
私としても、マルセイユタロットの魅力とその力をもっと知ってもらいたいという思いもありますので、こうした企画もいいかなと考えています。
もし実施するとなれば、総合で10時間程度、だいたいイメージとしてスカイプにて2時間単位×5回、平日午後、料金は2万円程度を想定しています。
「ちょっと興味がある」「「受けてみたい」と考えているという方は、お問い合せいただければうれしいです。
お一人でもご希望があれば、やってみたいと考えていますので。運良く、あるいは運悪く(笑)マンツーマンになった方は、入門レベルを超えて濃い講義してしまうかもしれませんが。(^_^;) 私自身、少人数でその人の個性を考慮しながら、じっくりしていくほうが講義の性質としては合っていると思っていますので。
さて、本日の記事です。
最近は、よく指摘されることでもありますが、いわゆる二極化というものが進行していると言われます。
スピリチュアル的には統合の時代とか、融合が進むとか言われていながら、対極的な、二元、二極、ふたつの差が広がるような状態が現実味を帯びているわけです。
深い意味では、マルセイユタロットでも、「月」から「太陽」という象徴的段階において、統合の前の分離ということはあり得ますが、それにしても、二極化するというのは結構大変なことです。
加えて、生活が一見、とても便利になったようでいて、精神的にも経済的にも苦しい人が増えているように思います。
職場でも、生き甲斐をもてて、人間関係的にもよい職場と、劣悪でブラックともいえる職場とに分かれ、それもフィフティ・フィフティのような二極化ではなく、一対多のような関係で、悪いほうが増えている気がします。
そうした中で、穏やかに平和に、周囲の人と調和して暮らしたいと思っていても、実際に職場や地域社会においても、心を乱されたり、搾取されたりするようなことも少なくないわけです。
となりますと、心優しい人とか、スピリチュアル傾向の人は、自分を責めたり、すべては自分の投影、自分が世界を創っているなどと思って、結局自分(の意識・心)が悪いのだと、一層、自分を追い込むようになってしまいます。
しかし、傷つくのは心であり、自分自身なのです。
人を責めたり、環境や人のせいにしてはいけないと言われますが、自分の身を自分で守ってあげることも、時には必要です。
何の落ち度や悪い理由もなく、それでも理不尽に殺されたり、迷惑をかけられたりすることもあるのがこの世です。
もちろん輪廻転生を含む長大な周期やカルマ的なことを考えると、理由があるのかもしれませんが、大事なのは現実・現世で生きる今の自分です。
そうした時、「ありのまま」、いや、誤解を受けるので、言い方を換えると、「むき出しのままの自分」を無防備にさらすことは、危険なこともあると考えてみましょう。
ところで、ペルソナ(仮面)という心理用語があります。
シチュエーションや役割によって、つけ換える仮面のような別の自分で、これは結構、悪い意味でとらえられている人がいますが、ものは使いようというか、使ったほうが人や自分のためにもいいことがあるのです。
むしろ、それができるから人間であり、社会がうまく機能している部分もあると言えます。
何事もやり過ぎはいけませんが、今の時代、特に職場や外に向けては、ペルソナをかぶって自分を守らないと、たちまちダメージをもろに受けてしまうことになります。
もはやペルソナというより、鎧と言ってもいいものです。それほど、ひどい環境にもなっているところがあるわけです。
割り切りと言いますか、この時の自分は本当の自分ではない(怒られたり、苦しんだり、つらかったりするのは本質の自分とは違う別の自分だと思う)、仕事モードの自分であると自覚して使い分けます。
これが無自覚だと、多重人格や解離性人格障害みたいになりますので注意は必要ですが、普通は自覚してつける(かぶる)ことが可能でしょう。
言ってみれば、一種の変身です。
タロットカードを使うようになると、その変身をカードを使って儀式的に行うことができ、結構そのパワーを身にまとうことが可能になります。
私自身、うつ病になった時に思いましたが、自分の仕事や対外的(作業的)な代わりはいくらでもいるのですが、自分自身や内的な代わりは存在しないのです。
自分本体、本質がつぶれしまっては元も子もありません。そのための防衛策として、ペルソナを意識的にかぶるということも、場合によっては有効です。
自分本体さえ無事ならば、復活や変容は、いつからでも、いくらでも可能なのですから。
マルセイユタロットを学ぶ人のタイプ(事後編)
気がつけば、たくさんの人にマルセイユタロットを教え、伝えてきました。
まあ、ほかの人から見れば、大したことのない人数ではありますが、自分が思っているより、特に関西では広まっているのかもしれないと感じさせることはあります。
このマルセイユタロットは日本ではマイナーな部類のタロットで、それでもここ10年くらいは、だいぶん知られてくるようにはなりました。その分、興味を持つ人、使ってみたい方も出て来ています。
ただ、あまりマルセイユタロットを教える人が少ないので、どうしても行き着くところ、決まった人になってくるのかもしれません。
そんな中で、マルセイユタロットを学びに来る人の傾向が、やはりあります。
今回は、むしろマルセイユタロットを学んだあとに注目して、そのタイプ分けをしてみます。
A.マルセイユタロットをメインに、自己探求的に使う方
B.マルセイユタロットを学んだのは、あくまで、ある目的のための手段の方
C.マルセイユタロットと、他の学びや技術を融合、あるいは一芸として持つ方
D.その他
という感じでしょうか。
それぞれ、簡単に説明します。
Aタイプの人は、マルセイユタロットを学び、いわば、このタロットに惚れ込んでしまった人(笑)で、これ以外にはあまり象徴ツールとして関心が行かず、特に精神や心の分野において、マルセイユタロット中心で考察していくような人です。
大げさに言えば、マルセイユタロットと出会うことが人生の大きな目的のひとつ、みたいになってくるタイプです。
何を隠そう、私自身がこれです。(^_^;)
Bタイプの人は、ある目的、例えば成功したいとか、人を癒したいとか、自立したいとか、真理を悟りたいとか、心を楽にしたいとか、とにかく、自分なりの目標や目的があり(当初はおぼろげなからでも)、そのための一環、手段としてマルセイユタロットを使っていく(あるいは学んだ)というタイプです。
タロットリーダーやタロット占い師になる人もいれば、マルセイユタロットを学習したことで、もっと別の技法やツール、また、人や新たな機会と出会うことになったということもあります。
つまりは、マルセイユタロットを習うことがひとつの過程である(あった)というタイプです。
Cタイプの人は、Bタイプと似てはいるのですが、そう強い目的意識があるわけではなく、マルセイユタロットを学ぶのは、自分の知識や持つ技術の幅を増やすという感じで、いろいろと学びだかる性質があります。
ですから、まさに学びのひとつ、身につけた技術のひとつとしてマルセイユタロットを位置づけています。そのような人は、言わば、マルセイユタロットは特別なものではなく、多くの中のひとつ、あるいはほかにメインのものが自分にはあるという方になります。
たくさんのものを活かしてセッションする人もいれば、ただコレクションとして持っている人もいます。
Dタイプはその他で、たまたま友人が学習していたからつきあったとか、何か趣味や新たな友人でももとうかと思って習ったとか、ヨーロッパが好きでとか、絵柄にひかれてとかの人で、ほかのどのタイプにも属さない人です。
タロットへの興味というより、コミュニケーション・機会として偶然出会ったという印象が強くなります。従って、学習後は、マルセイユタロットがお蔵入りすることもしばしばです。
もしマルセイユタロット学習後、誰かにこれを伝えたいとすると、上記の各タイプ別で、やはり伝え方は変わってくるでしょう。
熱意ということでは、Aタイプの人が一番ですが、あまりに力が入り過ぎることもあるので、マルセイユタロットを使う相談セッションや講師を仕事として行うとすれば、案外、BタイプやCタイプの人が現実的には優れているかもしれません。
ただ、マルセイユタロットには、ある種の意志や縁が強く働くと見ています。
マルセイユタロットを伝達するには、逆にマルセイユタロットから選ばれるようなところもあると言えます。
単に商売の道具として扱うと、マルセイユタロットがあなたから離れるか、あなた自身がこのタロットへの関心を失うでしょう。
実は、今後、私も一人でマルセイユタロットを伝えていても限界があると思い(ややおこがましいところもありますが)、マルセイユタロットが教えられる人を育てたいう方向にシフトし始めています。
それには、マルセイユタロットへの愛がある人を対象するのが、まずは基本だと考えています。
ひとつのシンプルな悩み脱出法
何か心配ごとで不安になったり、時には思うようにいかない事(人)に対して、腹立ちや怒りが起こったりすることは、誰にでもあります。
悩むことは悪いことではありませんし、そもそも(ネガティブな)感情や思いが出ること、悩んでしまうことを止めるのも難しいことです。
ですから、これに対処するとすれば、起こる前から対策することと、起こったあと(感情が出た)の処置を工夫するということになるでしょう。
起こる前から対処するというのは、ひとつには、自分(の考えや枠、囚われなど)を変えて、従来だと不安に思ったり、心配したりするようなことでも、今は、前のようにはならないとする方法があります。
次に、起こったあとの処理の工夫ですが、これは意外と効果のある方法と言いますか、すごくシンプルでありながら、案外、私たちはやっていないことを述べます。
それは、起こったことは仕方ないと諦めることです。まさに諦観と言えましょうか。
何かの状況に対して、程度の差こそあれ、感情が出る(起こる)ことは仕方ありません。それを現在進行形(感情が起きている状態)でコントロールすることは極めて難しく、不可能に近いです。
ですから、いっそのこと、その出た後に注視するわけです。
そして、すでに起きてしまったこと、そのような状況になってしまったこと、経験してしまったことは元に戻らない(時間を物理的には戻せない)と、当たり前のことを当たり前に自分に言い聞かせます。
例えば、旅行を計画していて、晴れを願っていても、実際その日に雨になってしまったら、それが悔しかったり、残念だったりするかもしれませんが、それはそれで感情としては当然です。
しかし、ここで「天気なら良かったのに・・」「もしかすると、午後からは晴れるかもしれない!」「あいつが雨男・雨女だから、こうなったんだ!」「ああ、なんて不運、私はついてないわ・・」など、雨であることを悩んだり、雨になってしまった要因などを気にしたりしても、実は何も始まらないわけです。
とにかく、現状は「雨である」という、そのこと自体をしっかりと「受け入れる」ことです。
これらはシビアな現実視点ではありますが、だからこそ、一時の感情の嵐からも抜け出やすくなります。
マルセイユタロットでいえば、「正義」や「皇帝」の視線、あるいはその反応やアクションと例えることもできるでしょう。
余談ですが、マルセイユタロットは実にうまくできており、混乱した時の精神的・実際的対応が、きちんとカードの順番通りに象徴化されています。
言ってみれば、トラブルに対する処置がモデル図案化されているようなものなのです。本当に私もこれで何度も救われています。別にカードをシャッフルして引かなくてもいいのです。
さて、話を戻しますが、先の例のように、起こったこと、今の状況・事実をありのまま受け入れることで、ずいぶん問題意識は軽くなります。
ところが、この、「ありのまま事実を受け入れる」ということが、簡単なようで、私たちはなかなかできません。いや、忘れがちと言ってもいいでしょう。
それは、「思うようにならなかった」あるいは「想定外になった」「不快な状況になっている」ということで、理性よりも感情が先に立ち、いつものバランスを失い、一種の落とし穴のような、傾いた場所に入り込んでしまっているからです。
ただし、いきなり冷静になれ、というのも無理な話です。
冷静になれないのは、それだけ期待していたことではなかったということや、想定外のことが起こり、本人にはショックだった、感情的にどうしてもならざる得ないことを物語っているからです。
他人から見たら、なんでそんなことに不安になるの?、怒るの?みたいなこともあるかもしれませんが、当人にしてみれば、やはりショックでナーバスなことなのです。
従って、すぐに事態が受け入れられないということも、人間としては普通であり、自分がもしそうなっても、過剰に「ダメな人間だ」「何とかしなければ」と思う必要はないのです。
ショックに対して、さらにネガティブに自分を評価する(自分を下げる)ことこそが、実は抜けられないループを生み出す大きな要因なのです。
とにかく、習慣として、今からでも、「起きてしまったものは仕方がない」と、事実をありのままに受け入れ、そのこと自体(起こったこと自体)への後悔の念などは、あきらめるようにするとよいでしょう。
これは非常にシンプルなのですが、心を落ち着かせるには絶大な効果が、人によってはあります。
だからと言って、「仕方ない」とそのまま放置するのではありせん。
ひとまず、時間は戻せないことを強く思い直して、「ではこれからどうしたらよいか?」「この状況はひとまず受け入れた、次に自分はどう動こう?」みたいなことを考えていけばよいのです。
先のお天気の例でいえば、「雨が降っているのだから仕方ない」と雨天の事実を受け入れ、そこから「傘を持って出かけよう」とか、「訪れる場所を一部変えてみよう」とか、「旅行は今回はキャンセルし、次の機会にしよう」とか、仕切り直していけばいいのです。
言ってみれば、自分で変えられることと、自分ではもう変えられないこととを、きちんと分離して考え、行動するという方法です。
「体重が増えてしまった」そのことは今の瞬間に「痩せろ」と言っても、魔法使いではありませんから、そんなことはできません。
太ってしまったことを悔やんだり、スタイルが悪くなったことを悲しんだりすることはあっても、それをずっと思い続けれぱ、何も変わらないだけではなく、そのネガティブなエネルギーが自分を攻撃したり、執着となったりして、余計事態を固定してしまうことになります。
上の例で言いますと、太ったまま、ますます変わらないか、余計に自分の思うネガティブな(悪い)姿になってしまうというものです。
何事も、予防したり、あらかじめ悪くならないようにしたりすることは大事ですが、気をつけていても不測の事態は起こりえますし、すべて自分の思い通りにいくものではないのが世の常です。
そこで、なってしまたものは仕方ない、起こってしまったものは仕方ないと、一度事実を受け入れ、諦めることで、新たな打開策や解決策も見えやすくなります。何より、深刻になりすぎることを防ぎます。
この一時的な諦観をすると、問題は意外に自分が勝手に重くしていることに気がつくことがあります。
そして自分を縛ったり、強く規定しているルールや法則、思い込みのようなものに思い至ります。
さらには、そうした自分ルール、自分のいい・悪いの価値観が、実は自分の運命も回しているのだと、発見できればしめたものです。
マルセイユタロットの「運命の輪」の表すところから言いますと、先述の旅行と雨の関係の場合、「雨を降らせている」のも、「自分自身の作る運命」がそうさせているとなるのです。