タロットの使い方

ロマンと現実 そしてマルセイユタロット。

先にお知らせです。

4月から計画している東京でのマルセイユタロット講座ですが、開講が決定しております。

もともと少人数制の講座ですので、当然と言いますか、開講決定と同時に、残席わずか(ほぼあと1名)となっております。

個人的にはここのあたり(今月の新月)を境目にして、変化の波に来ている方が多いように感じており、この講座開講も、その流れの一環にあるように思います。受講を検討されている関東の方、どうぞ、この機会をご利用ください。

では本日の記事です。

今日は、ロマンと現実のふたつの必要性を考えてみたいと思います。

ところで、ここで述べる「ロマン」とは、小説の形式とか学術的定義とかではなく、単に夢とか空想、非現実的な状態を指すとします。

さて、ロマンにしろ、現実にしろ、それはどこに存在すると思いますか?

私たちの見ている場所・外側の環境にあるのでしょうか。

確かに「現実」に関しては、そうと言えるのかもしれません。

ではロマン(夢や冒険的なもの)はどうでしょうか。

こちらは見ている場所には存在しないからこそ「ロマン」と言えるのかもしれませんが、しかし、例えば恋愛モードになっていたり、願望がかないそうになったりすれば、外にロマンを見ている状態のようにも思います。

ですが、より詳しく探っていくと、結局、現実もロマンも、自分の見方・思いのなかに存在していることがわかります。

まったく同じ状況が外側で起こっていたとしても、それを夢のように思えるか、シビアな現実だと感じるかは個人次第と言えるからです。

となると、すべては現実でありながらロマンでもあり、その境目は実はなく、自分が創ってる、決めていると考えることもできます。

ただ、今日はそういうお話ではありません。

言いたいことを先に言います。

それはロマンは解放と束縛を生み、現実は生きる実感を感じさせるものであるということです。

こう書くと、何か、よくわかったようでわからない印象かもしれません。

まず、ロマンから説明します。

ロマンは夢や空想、文字通り、ロマンチックなものなので、フワフワしたものとなるのはわかると思います。

場合によっては、現実として実現していないこと、現実にはないがロマンというケースもあり、それだと尚さら(フワフワしたもの、実体のないもの)です。

しかし、非現実的だからこそ、現実を超えたものに接する機会がロマンにはあるのです。

現実とは、言い方を換えれば、その人がリアリティを覚える状態(現実感・実体感・本当にあると信じている感覚)のことです。

つまり個人の常識感覚で構築される世界でもあるので、いわば、その人の固定観念や価値観が反映されます。

しかし、ロマンはその人のリアリティとは異なるので、その人にとっては「ロマン」なのであり、それ(その人のロマン)は解釈を変えれば、まだ自分が感じていないリアリティでもあるわけです。

ということは、今のリアルを超えるリアル(まだ訪れていない、味わっていないリアル)がロマンには可能性として存在します。これをプラトン的に言えば、「イデア」と表現することもできるでしょう。

そして、マルセイユタロットを使って、イメージや象徴の世界に飛ぶ時、この究極のロマンともいえる「イデア」を見ることにもつながってきます。

そのことで、固定されていた自分のリアリティが一度破壊され、再構築されます。このことはマルセイユタロットの「女帝」「13」などでも象徴されていることです。

こうして新しいリアリティを獲得していきますが、それは前の自分の時よりよりも統合された状態であることが多く、つまりは次元の上昇や拡大と言ってもいいものです。

しかしながら、反対に下降と限定(固定)という方向になってしまうおそれが、ロマンにはあります。

こちらのほうがわかりやすいと思うのですが、ロマンは現実と違いますので、幻想や思い込みの世界にも通じるわけです。

現実逃避と言われるように、人は自分が感じているリアルの世界に苦しみやつらさを過大に味わうと、そこから逃れたい、不快を通常に戻したい、快にしていきたいという思いに駆られます。

身体的な作用でも当然現れますが、心の面でも同様です。従って、非現実的な世界を信じることによって、心の均衡を保ったり、それ以上傷ついたりしないようにロマンに逃げ込んだりするわけです。

ほかにも、現実では自分が認められない世界だと思うと、自分が認められている(存在する価値が多大にあると思う)ロマンの世界に固着(執着)することもあります。こちらは典型的なものとして、「中二病」が有名です。(笑)

こうした方向にロマンが利用されてしまうと、解放とはまったく逆の、束縛や閉じこもりになってしまいます。

一方、現実はロマンとは反対のものですが、本質的には、実体の世界(実体があると信じている世界)と言えます。実(じつ)がある、身(実・み)があるということで、形も大事です。

また先述したように、「現実」とは、一見、客観的で皆が同じく感じていることのようでも、本当は自分がリアリティを覚えている個別的なものでもあります。

ですから普遍的な現実と個人的な現実のふたつがあると考えることも可能です。

これは時間の感覚とよく似ています。

「時間」は大きく分けると、時計で計る、言わば惑星の回転を客観的・普遍的に見た時間と、個人個人の内面で感じる質的な時間とのふたつがあります。

これと同様に、全員が等しく感じる現実と、個人特有の現実があるということです。

それはともかく、いずれにしても、現実は実のある世界なので、それは言い換えれば、自分がリアルに生きていると実感する世界だと言えます。

地に足をつけているとか、確かに生活している、生きていると感じる実体(実態)感覚の世界です。

ロマンは夢の世界でもあるので、そこではリアルに生きているという感覚とは違ってきます。

「そこ(ロマン世界)にいることもある」というような一時的、待避的、特別的なのがロマンです。

対して、現実は日常であり、普通であり、ノーマルな状態です。だからこそ、そこに実(じつ)、生命・ライフ感覚があります。

もしロマンに実(じつ)を感じ、ロマン(空想やイメージの)世界の住人・生き物たちが生命感覚を持ってリアルに感じられるとすれば、それはその人にとってロマンはもはや現実に近い状態となります。

一時的にはそれでもいいのですが、きちんと万人の感じる共通現実(個人の現実とは別)と区別しておく必要があります。

そうしないと、混乱しますし、とても生きづらく、場合によっては危険です。

しかし逆に言えば、その区別さえしっかりすることができれば、現実を超えた多重の世界の情報と生命に接することができ、人生の色合いが増えます。

タロット(に描かれるもの)は、ロマン側のものでもありますが、その調整と活用によっては、現実(特に個人の思う現実)を豊かにしたり、生きやすくしたりします。

ロマンのうまい現実への活用と言い換えてもいいでしょう。

人は強固な現実感覚だけでは息がつまり、ライフ感はあっても、続けていると消耗感も発生します。

ですから、適度なロマンが必要なのです。それは逃避であってもいい場合があります。

また一方で、ロマンや夢だけでは、まさに非現実を生きることになり、厭世観が強まって生きる力をなくしたり、「タナトス」という死や破壊に向かうのエネルギーに翻弄されたりします。

マルセイユタロットのような象徴道具を正しく使うことで、このロマンと現実の間をスムースに移行・交流することが可能になります。


カードの第一印象から脱却・超越する

マルセイユタロットの大アルカナを見ていますと、特に女性的なカード中で、とても優しく、慈愛に満ちたカードがあります。

それはたいてい、天使的・女神的な絵柄であり、また象徴的に「」に関係するものが描かれています。

水は流れるものであり、形があればそれに沿い、器に注がれれば満ちていき、やがてはあふれ出ます。

このことから、満ち足りること、浄化すること、流れに任せていくことなどが浮かびます。

もちろん、そのような「水」でも、多すぎて溺れたり、つかみどころがなかったりと、マイナス面もあります。

とはいえ、全体的には、「水」に関係する絵柄のカードは、ほっとするものが多いです。

一方、これに対し、剣や刃物状のものが描かれているカードは、厳しいところがあります。

マルセイユタロットの大アルカナでは、「正義」とか「13」のカードが典型的でしょうか。

また剣が描かれていなくても、厳格に見えるカードはあります。

それは男性的なカードに、やはり多いかもしれませんが、女性のように見えるカードでも、それはあります。

ちなみに「正義」の人物は「女神」として表され、女性であると言われます。

タロットカードは、「絵」なので、このようにまず、見た目の第一印象ともいえるものが、どうしても強く見る側に入ります。

それは重要なことではあるのですが、実は、それ(見た目)だけではないのです。

むしろ、第一印象から逃れる意味や象徴性というのを会得・理解することが、次の段階に進むために、非常に大切なことです。

このことは、私たちの日常生活の場面においても言えることです。

第一印象・外見は、その人となりを表すことが多いものですが、しかし、つきあったり、深く交流したりしてみないと、その人の本当のところ、あるいは別の面はわかりません。

怖そうに見えても、意外にシャイで優しい人だったということもあれば、いつも笑顔で穏やかな人が、腹黒かったり、かなり葛藤を抱えていたりして、人に嫌われないよう、癖のように作り笑顔で過ごしていたということもありえます。

こうした二面性、多面性(多重性)は、当たり前のように、人にも物語にも社会にも、構造として存在します。

単純に現れている一面だけを見て、判断することは、素直なようでいて、実は危険でもあり、未熟でもあると言えます。

物語・ストーリーでも、わかりやすい勧善懲悪スタイル、最初から悪者と善人が明確で、最後は正義の味方によって悪者が退治されるみたいなお話は、スカッとするかもしれませんが、ストーリー作法としても入り口ではあっても、最低レベルのものです。

現実の人間・社会がそうであるように、人はそう単純なものでなく、悪人にも善に見える理由があり、善人も立場や状況、見る人の価値観によって悪となります。

「正義」ひとつとっても、ある人の正義は、ほかの人の不正義や悪にもなり、時代や国、社会の一般的価値観によって、いかようにでも「正義」の概念と定義は変わります。

そうすると、本質的には、世の中にいい人なんていませんし、悪い人もいないのです。

それを決めているのは、自分自身であり、その線引きこそが、あなたのルールであり、「正義」ということになります。

ということで、タロットカードの大アルカナ一枚一枚を見ながら、見た目の第一印象をまず感じつつ、それとは異なる意味合いを見出すことで、世の中の多重構造を知ることができます。

それは結局、自分自身の多重性でもあるのです。

ただ、当然ながら絵柄の最初の頃の印象(見た目・イメージ)だけでは、それを探ることはできません。

だからこそ、感覚だけではなく、一枚一枚の象徴的知識が必要となるのです。それがないことには、単純な絵柄のイメージだけの印象と意味に留まります。(逆に知識に引っ張られ過ぎるのも問題ですが)

それは人間でいえば、ひとつのペルソナだけ見て、その人を判断しているようなものです。

これはまた、最近のネットやSNSから発せられる情報を、そのまま鵜呑みにして信じてしまうことと似ています。

特に裏や陰謀論を明かすと見せかけているものが表面的なものであり、普通の情報・表の情報ののように見えるものに、裏や陰謀があるというような反転構造などにも気がつくことができません。(もちろん、様々なケースが存在します)

タロットはいろいろな面で、神性的な自分自身を取り戻すための象徴体系であると実感します。

しかしそれも、人によってどれ(どの状態)を志すか、タロットをどの次元に置いて活用するかによって変わってくるものです。

少なくとも、怖く見えるカードに、とても有り難い救いを見たり、柔和で優しく見えるカードに、厳しい面を見たりすることができるようにはしたいものです。


不安やおそれを感じること。「13」

タロットカード、アルカナナンバー「13

マルセイユタロットで、名前のない「13(番)」として、極めてインパクトの高い絵柄のカードです。

見た目がいわゆる、ヨーロッパにおける「死神」装束みたいなので、恐れをもって見られるカードでもあります。

実際、恐れというより、「畏れ」はこのカードにおいて、むしろ強く感じるのが自然であり、その必要性もあります。

しかし、一方で、怖いことばかりでもありません。

そもそも私の考えるマルセイユタロットの意味においては、いいも悪いも元来なく、それぞれこの世界と見えない世界で表現される質やエネルギー、象徴だと見ていますから、「13」においても同じで、中立なものです。

と言っても、それは統合レベルや高い次元、イデア的理想での話であり、低い次元、一般の現実意識レベルにおいては、やはりネガティブのものを感じて(想起して)しまうこともあり得るでしょう。

それは、この絵柄によって浮かび上がる人類の恐怖の記憶というようなもので、なかなか根強いものと、たくさん蓄積されてきたものがあると考えられます。

ですから、逆に考えれば、潜在的にあったその思い・エネルギーのようなものを浮上させることで、むしろ浄化として、このカードが利用できるわけです。

カードの個人(他人も含む)活用の意味において、「13」の役割は、そういうところ(浄化の役割)が強いのではないかと考えています。

「13」はネガティブな方面で言えば、感情的には不安や恐れを特に意味します。

それ(不安)が何に基づいているのかは、実は強い生命願望(生存本能)と保守性から出ていると想像できるのですが、今は詳しくは置いておきます。

とにかく、生きるエネルギー、自分が存在したいという思いがあるからこそ、逆にそれが脅かされる感覚と思いを持つことで、不安が出るという仕組みとして見ることができます。

そして、何かに不安を感じる時、そこから逃げようとしたり、感じないように無視しようとしたりすると、逆に不安に追い込まれます。

この状態を、カードの「13」では、逆向きの状態(カードが逆位置になった状態)として表され、そうすると、まるで「13」の巨大な鎌が、自らに振り下ろされてくるかのように感じる配置になります。

自分が感じた不安という「存在」が、次第に成長して、自分に鎌を振り下ろすのです。

逃げているのに、感じないようにしているのに、なぜ「不安」は大きく成長していくのでしょうか?

それは、逃げるということと、無視するということは、意識していないようで実は意識している態度だからです。

同時に、逃避と無視によって、自らのパワーを「不安」存在に明け渡しているからでもあります。

強く意識して気を発しているのに、無視する態度であったら、「不安」のほうも気になって追いかけてきますよ。(笑)

そうして、そのあなたのパワーを得た「不安」は、ますます成長していくことになります。

では、どうすればよいのでしょうか?

それはまた「13」のカードが伝えてくれます。

カードを逆さの状態にさせるのではなく、きちんと正立させ、不安に立ち向かうのです。

立ち向かうというと抵抗するような印象ですが、そうではなく、不安を正面から感じ取ることを決意するのです。

具体的には、目一杯、限界まで「不安」を自分の中で感じてみる、怖がっている、恐れている自分の気持ちをとことん味わい尽くすということになります。

この時、ブルブルと大きく震えがあったり、何か奇妙な気持ち悪さがあったり、胸が締め付けられるような感覚があったり、お腹のあたりが空虚な感じになったりするかもしれません。

しかし、それが不安のエネルギーなのです。

これを感じきってしまえば、不安は成長を止め、あなたのコントロール下に入ります。

「13」のカードで言えば、正立し、鎌は新たなフィールドと境地を開拓する大きな力となり、また杖のように、あなたを支える存在にもなります。

言ってみれば、「13」に象徴されている人類の不安や恐れのデータ・記憶を、あなたが代理として請け負い、浄化したわけなのです。

怖いこと、不安なことは誰にでもありますし、それは本当にあなたにとって、やはり怖くて不安なものなのですから、否定しなくてもいいのです。

ただ、それを無理矢理打ち消そうともがいたり、強がったり、逃げたりせず、素直に十分感じる覚悟をもって臨むことです。

不安を起こしている原因や事件は確かにありますが、「13」のカードから考えて、原因そのものの解決の前に、「不安」を感情的に味わいきる(感じきる)ことも、浄化の意味で重要だと考えられるのです。


ネガティブシンキングの修正

私は基本的にはバランス思考(志向でもあります)を重視しますが、そのバランスも、いろいろな見方をすれば、一時的にはバランスをあえて傾かせることもアリかと思っています。

そういう一例として、ポジティブシンキングへの傾きというのがあります。

このところ、たくさんの人が指摘しているように、ポジティブ過ぎるのは、確かにバランス的には問題です。

人間の感情や思考は、いつも明るく前向きにあるわけではなく、時には落ち込んだり、暗くなったり、まさにネガティブシンキングに傾くことは誰にでもあるからです。

それを無理にポジティブにしようとするのは、重力に逆らうようなもので、かえって多大なエネルギーを浪費し、疲れたり、ますます自己嫌悪に陥ったりします。

しかしながら、一方で、人にはというものがあります。

これは生まれながらという素養もあるにはありますが、たいていは育成環境、今まで過ごしてきた経験によってついてしまったものと言えます。

それは身体的なものとして体の癖にもなりますし、感情や心、思い方の癖、思考癖のようなものも形成されるのです。

脳内的には、同じ神経回路を通る固定ルートのようなもので決まっている状態かもしれません。

そのような癖として考えると、ポジティブシンキングの傾向になる人より、ネガティブシンキングに傾く人のほうが問題が多いのではないかと想像できます。

もともとポジティブな人は、前述したように、人として落ち込んだり、へこんだりすることはあるかもしれませんが、あまり無理に思い直すということはないように思います。

まあ、言ってみれば、何事も楽観視できるので、事態を必要以上に重たく考えずに済みます。

重たく考えないということは、そのままその人から見た世界観(事象・物事のとらえ方)となり、「世界は重たくない、明るいもの、楽しいもの」として形成されていきます。

ですから心理的・スピリチュアル的に見れば、現実は自分の投影した世界となって、実際に人生や生活は重たくないものになっていくものと考えられます。

ということで、ネガティブ思考癖の人のほうが、現実の幸せ観(一般的な幸せ基準)から見れば、その癖を修正していくほうが望ましいと言えます。

しかし癖というのは、意識しないとなかなか変えることが難しいものです。

特に体癖と違い、目に見えない心の中の思考癖ともなると、自分ではわかりづらいものです。

それでも、やはり修正の第一歩は、自分で意識する時間を増やすということになるでしょう。

この場合でも、マルセイユタロットは役に立ちます。

マルセイユタロットは心の元型として、人の感情や思いのパターンを絵柄で象徴しています。

人の共通パターンとしての象徴があるので、言わば、思い(方)をチェックするのにはうってつけなのです。

見えない思考や感情の部分を、絵柄として見える形で映し出す機能がありますので、そういう意味でタロットは見えない部分を把握するのには有効なのです。

カードにはもともと楽観的なことを象徴しているものもありますが、逆に、どうしても一般的にはネガティブにしか思えないものもあります。

例えば、一般的なタロットカードの名前で言えば「死神」とか「悪魔」とか「塔」と呼ばれるカードなどは、その典型でしょう。

ただし、マルセイユ版では、それぞれ、「死神」は「13(番)」、塔は「神の家」となりますので、かなり違ってはきます。(そもそも、本来はいい・悪いの意味で区別してカードは見ません)

しかしそれでも「悪魔」のカードなどは、私たちのイメージにすり込まれたまさに「悪魔的」なイメージから、最初は普通にポジティブに考えることは難しいでしょう。

だからこそ、とてもネガティブな人がポジティブシンキングに変えるよい訓練にもなるのです。

タロットがなくても、先にも述べたように意識的になって、自分のネガティブ思考癖に気がついたら、その都度修正していくようにすればいいと思います。

ここで未来のことを思ってみましょう。今の現状に左右されるかもしれませんが、未来を予想した時の、あなたの「思い方」はどのようなものだったでしょうか?

先行きのことを予想して対処するのは、人間の想像力による知性とも言えますが、それも行き過ぎると取り越し苦労となり、まだ起こってもないことに心配したり、解決策や別のよいことが起こる可能性を排除したりという、ポジティブな「想像力」のほうが欠如してしまう人がいます。

不安(な状態)があるから、悪いほうに考えるのは仕方ないこともあるのですが、実は不安があってもなくても、癖によって、そのように思いがちな自分になっていることもあるのです。

まったく同じ状況であっても、思考癖により、ある人は楽観になり、ある人は悲観にもなります。

ネガティブ癖の人は、幸せなことが続いても、「いやいや、これはあとから悪いことが起こるに違いない」とか、「こんなに楽しいことが続くはずがない」とか、やはり癖によって、どんな時でもネガティブなシンキングを忘れない(笑)ようになってしまうのです。

その律儀さたるや、自分でもびっくりするくらいだと思います。

ネガティブシンキングの人は、その癖によって、一種のネガティブループの状態に陥っていますので、その根本の癖を修正する意識と同時に、ループから抜け出すきっかけとしての、環境チェンジ、思考の堂々巡りをストップする外側から働きかけ、自らの切り替えの作業・行動が重要です。

その点では、思考癖も一種の体癖ととらえることが可能で、体(環境)を変えたり、運動したりすることで、思考も変化すると考えられます。

つまりは、癖はいろいろな方向から修正することが可能なのです。

また体癖と同じく、癖はすぐに元に戻ろうとする傾向がある(その癖の大元を修正することも重要なのですが)ので、何度も修正を繰り返していくことが、もうひとつのポイントとなるでしょう。


タロットの抽象・象徴世界の解放性と束縛性

タロットの世界もそうですが、こういうものは言ってみれば、目に見えない世界や心理、スピリチュアル、さらには神や仏、宇宙、根源、全一などといった究極まで扱います。

それは私たちが普通に意識し、生活する次元(レベル)とは異にした「抽象的世界(次元)」に飛ぶことでもあります。

従って、言い換えれば、普通の「現実」(意識)から離れるということであり、そこにはふたつの「遊離」「移行」といったものが出ます。

ひとつはいい意味での自由や囚われからの解放、または真理への到達や悟りという方向性で、そしてもうひとつは解放の逆になる形で、現実離れ、中二病、悪くすれば妄想、精神異常、病理的な思い込みの世界に閉じこめられるといったものです。

精神や行動の自由の獲得、自分の霊性を高めるものが、一方では反対に、自分を閉じこめたり、自己洗脳、自己肥大、現実や他人への侮蔑のような極端な世界観に封鎖されるようなことになるのです。

探求が過ぎると、それは孤独になり、自分だけが本当の世界を知っているとか、オレはワタシは特別だとか、傲慢な状態にもなることがありますし、それとは真逆の、深く求めるレベルに達成できない自分にいい評価ができず、ますます自己否定・自己卑下になる人もいます。

このように、抽象世界、イメージの世界、現実の意識とは別の世界を知ることは、楽観と悲観、解放と束縛、安全のようでいて危険でもあるという矛盾を抱えています。

よく狭義のスピリチュアルや心理レベルで、最近は自分を愛すること、自己の価値と評価を高めることが大切だと言われていますが、現実と非現実の狭間の段階においては、そのことは確かにとても重要です。

しかし、抽象世界に奥深く分け入ると、巷で言われるような自己評価など吹き飛び、底なしの自己否定感に囚われることもあるのです。それは易々と「あなたは宇宙から愛されている」などといった言葉で肯定できるものではありません。

しかしながら、抽象世界は、底なしの自己否定が反転して、底なし、いや、あえて別表現をしますが、際限のない自己肯定に変化します。

それこそが自我・自分という意識を失う究極の「全」的感覚、感覚のようで感覚でないものといったものでしょう。

それは、「わたくし」がない世界なのですから、自己の否定も肯定もないというものなのです。

それはさておき、前置きが長くなりました。今日言いたいのはこのことでありません。

要するに、抽象的世界(感・観)は、現実を色々な意味で超える力を持っているということです。

それを活かすも殺すも、自分の活用次第なのです。

イメージや抽象、象徴の世界にふれることで、神や宇宙、見えない心や存在というものを、何とか人間の意識レベルで置き換えたり、把握できたりが可能となります。

それは現実という枠組、一般的価値観からあなたを解放するものです。

わかりやすく言えば、今の世の中でいいと認められる人やもの・状況、反対に悪いと思われることやダメな状態、負け組や落ちこぼれ、失敗者と思われてしまう人など、こうしたいい・悪い、幸・不幸、成功・失敗の価値観・基準で判断される世界とは別の価値・見方を得られるのです。

例えば、人生を短期間で見るのと、亡くなる直前から振り返るのとではまた違います。

いろいろとあったけど、最後はいい人生だったと思えたとか、何事もなかったのが実は大きな幸いの連続といえる人生だったとか、終わりからの視点で人生を見ることもできれば、短期的に、「記録への挑戦へ、この一瞬にかけた」とか、「あの人との恋に燃えたひとときの時期がすばらしかった」という「その時」だけを見て、よい人生だったと言えるかもしれないのです。

こういう多角的視点、特殊な視点で自分(の人生)でなければ見えてこないものがあり、今の現実や一般的価値観・幸せ観だけで判断していては、いつまでも苦しいまま、成長しないままの地獄、固定観念に縛られやすくなります。

そう、自分を大きな次元、宇宙とか神のような目線、あるいは地球の視点、動物たちの目線、他人側からの思いに浸るなど、別次元、別意識に飛ばないとならないのです。

それが抽象・象徴の世界によって可能となるのです。

マルセイユタロットは、実際に存在する絵のついたカードという物質性・現実性とともに、その図柄と構成によって、目に見えない世界、抽象的・イメージ的世界、別の次元、究極の状態を想起させられるようになっています。

言わば、現実と非現実のゲートや架け橋でもあるのです。

ここで囚われからの解放を目指すのもよいですし、様々な自己の統合を図っていくことや、真理の探究を進めていくのもよいでしょう。

ただ、先述したように、一方で非現実の世界(観)は、逆に自分を妄想や空虚な世界、生きるエネルギーの喪失、一切合切を同一に見てしまう危険性に閉じこめ、現実逃避の手段としても利用されます。

そうならないよう、架け橋を行きつ戻りつする場合でも、いつも意識的になり、非現実の世界で考える場合でも、どこかに現実性を持たせて飛翔することです。

つまり、行ったきりにならずに、現実に戻る(通常の意識世界に還元する)ことが必要なのです。それも、ただ同じ意識で戻るのではなく、飛翔した世界で見たものを活かす意識です。

そういう意味でも、何か特別な体験をして日常に戻った時、海外旅行を終えて国内の普段の生活に戻った時、研修を受けて通常の業務に戻った状態のような感覚に近いでしょう。

マルセイユタロットの場合、どちらかに傾き過ぎないよう、見事に精神性や現実性のバランスを、象徴的にカードに配置しているように思います。

と言っても、最終的には、それ(タロットのような現実と非現実を架け橋する象徴ツール)を扱う「人」、その「人」の求める方向性、バランスの問題が重要となるでしょう。


Top