タロットの使い方
タロットの4組と願望(目標)達成
マルセイユタロットと言いますか、ほかのタロットでも西洋占星術でも共通していますが、四大元素という思想体系があり、4つのメレメント、4つ組、4つのグループ、4つの枠組という概念で物事をとらえることができます。
このことから、私たちは最低でも4つのとらえ方、4つのパターンが、あらゆるもので透徹しているのではないかと、古代思想的には考察できます。
これは個性というものとは少し違うのですが、それでも、4つのタイプということに、人を分けることは可能でしょう。
そこで、意外に思うかもしれませんが、目標達成や願望実現にも、実は4タイプがあることが想定できるのです。
これについて詳しく語ろうとすると、4つを10の構造に細かく分けて語らないといけませんので、省略します。
ここでは4をふたつに分けて考えてみましょう。
そのふたつとは、どれをもって中心や焦点とすれば自分にとって効果的となるかという点と、達成しやすいフィールドや表現方法という観点です。
そのふたつが、それぞれタイプとして4つに分かれると考えます。
4つは、つまりは四大元素のわけですが、これは風・水・火・地(土)というエレメント(元素)です。
それをタロット的に見れば、4つとは剣・杯・杖・玉、一般的にはソード・ワンド・カップ・コインという名称(モノ・道具)で表現されています。
モノや道具に置き換えられているのは、それをツールとして扱うという意味が込められてもいる(と考えることもできる)からです。
さて、先述したように、ふたつの観点で見ると、人によって4タイプあるわけですが、まず、自分にとっての効果的なポイント、つまりは得意技みたいなところは、簡単に言えば、剣(風)タイプは思考であり、杯(水)タイプは感情であり、杖(火)タイプは直感であり、玉(地)タイプは感覚となります。
つまり、自分が信用する(信用がおけると思うもの、なじむもの)は、それぞれその4つのうちの一つだということです。
このタイプを間違って、別の焦点で物事を見たり、扱ったりすると、なかなか対象の本質がわかりにくかったり、補足や理解に当たって非効率になったりするのです。
例えば理屈で理解したいタイプの人が、感覚で理解しようと無理にしても難しく、反対に感情が納得しなけば、いくら理論(勉強)で学んで正しいとわかっても実行できないなんてことがあるわけです。
まあ、こういったことはユング派などの心理学でも言われていること(上記の4タイプはユング派の語るところでもあります)なので、比較的よく知られている話でしょう。
あと、付け加えれば、自分の得意タイプが逆に自分を縛ることにもなるので注意が必要です。自分の得意技だからこそ、それにこだわって周りが見えなかったり、逆に効率を悪くしたりすることもあるということです。
さて、ここからがあまり聞いたことがない話だと思います。
私はタロットを見ていて、そしてこれを使い人の相談をしている中で、気づいたことがあります。
どうも、人によっては、叶いやすいフィールド(分野)と叶いにくいフィールドというものがあり、それは4つのタイプと関係しているのではないかと。
世の中には様々な願望達成法や、目標に到達するメソッドが紹介され、また日々生み出されています。
読者の中にも、そうしたものを幾つかお試しになった方もいらっしゃるでしょう。
今のところ私自身は、そうしたものにはあまり関心はないのですが、ただ仕組みについては興味があります。
それで現時点の私の結論として、願望実現法は、ある程度普遍的なもの、普遍的レベルで到達できるものもあるにせよ、やはり個人によって違ってくる(個々によって効果が違う)というものになっています。
この考えからしても、4つのタイプで達成しやすい分野が分かれるというのもうなずけるのです。ただ、この4タイプは、上に書いた4つのタイプ(思考とか感情とかのタイプ)とはあまりリンクしません。また別物の4タイプと思っていただくとよいでしょう。
このタイプ別が現実的に表れれば、例えば、恋愛においては比較的望み通りうまく人、仕事で目標が達成しやいすところがあるという人、健康や身体能力のことでうまく行くという人、お金や成功という分野で願望が実現したという人もいるかもしれません。
もちろん、どれ(どの分野)でも願望が実現したという人もいるでしょう。そういう人は、おそらく、最強のフィールドを得意としています。
それ(最強のフィールド)は「運」という分野です。
こうなってきますと(運を味方につけますと)、総合的にどの分野でも、望みは叶いやすくなるでしょう。
実は四大元素ではこの4つのエレメントを超える、第5元素(フィフスエレメント)があると考えられています。
面白いことに、マルセイユタロットの「運命の輪」(運命を象徴するカード)には、四大元素と第5元素との関連が盛り込まれています。
望みが叶わない理由は、自分の中のブロックや思い込み(これは自分の守護や本当の成長のための恩恵の場合もあり)、現実感やセルフイメージの限界、カルマ、他人の思念や社会・環境の障害、果ては物理法則や普遍的な宇宙と地球の法則など、いろいろと原因は考えられますが、個人個人のタイプ(言い換えればモノの見方・とらえ方の特徴)によっても変わってくると想像できます。
その個人個人のタイプとして、4つのタイプも影響していると見ることができそうです。
ということで、自分の叶いやすいフィールド(分野)をまずは見つけてもらって、そこに集中して行き、幸運の輪を回して、ほかの分野に好影響を与えていくか、すべてに影響する「運」そのものをつかんで、全体に降ろしていくかによって、現実的な意味での望み通り(望みに近い)人生が送りやすくなるのではないかと思います。
実は書いた本人が言うのもなんですが、現世利益的な願望達成(法)そのものと、運勢をよくするというなことには、個人的にはあまり興味がありません。(笑) いい・悪いの問題ではなく、単に私の興味や価値観は別にあるからです。
ただ先ほども書いたように、そのシステムや働きには注目したいところがあります。なぜならば、タロットで言えば、「力」のカード以上のことの考察と実現には必要のことだからです。
タロットの象徴的・神話的部分の重要性
タロットリーデイングやタロットを活用すに当たり、大切なことは象徴的神話的世界観(を感じること)を豊かさにするということです。
特に人様に行うタロットリーディングになりますと、悩み事の相談ということが多くなりますから、その悩み事とは、つまりは仕事や恋愛など、生き方に関わる現実的なことがメインとなりますので、タロットにおける神話的な概念や意味合い(抽象的で非現実的なストーリーや意味)は、知っても役に立たないのではと思われる人もいます。
言ってみれば、カードの意味を単語的に暗記したほうが確実に、しかも具体的にアドバイスできるのだと考えてしまうわけです
この観点にとらわれてしまうと、例えばマルセイユタロットの「愚者」というカードに、サン(聖)・ロックという聖人伝説をあてはめて考察してみる、などのことをお話ししても、「そんなことはいいから、愚者が出ればどのように読んで、実際的なアドバイスをするのか教えて欲しい」と思ってしまいます。
だから、単語的な意味や、具体的なケース事例(つまりは読み方のパターン)に、こういう人は関心が行きます。
その気持ちはわかります。私も以前、ことタロットリーディングの技術向上という点では、いろいろな読み方・アドバスの事例集のようなものがほしいと思っていた時もありましたから。
しかし、ずっとマルセイユタロットに関わってきて今思うのは、それは次元を固定しまうことであり、相談者と同じ見方(同じ現実的・個別的次元)で考えてしまうのは、むしろ(解放において)問題であるということです。
ケース事例集もあるにはあったでよい部分もありますが、結局、そういった読みやアドバイスの個別事例にこだわることは、タロットを本当の意味で使いこなすことからは、ズレていくものになります。
ここが狭義の占いやカウンセリングと、タロットリーディングとの違いだと思っています。
マルセイユタロットでリーディングをする人は、このタロットの特徴と展開方法・読み方からしても、占い的ではなくなることが多いのですが、かといって、カウンセリング(心理の世界でいわれる狭義のカウンセリング)でもないということです。
※リーデイングには、いろいろな考え方がありますし、様々な方法と活用スタイルがあのますので、結果的に占いであったり、カウンセリングであったりする場合もあります。
ひとつひとつの具体的なケースよりも、統合的・全体的・神話的・象徴的なストーリーがまずは基本にあって、それがタロットが表したり、接触したりする世界なのです。
その大きな、そして抽象的とも言える型やスートリーが、実は私たち人間の生活と現実を創造しています。
創造するということがわからなければ、関係していると言ってもいいでしょう。
もっとわかりやすく言えば、人は同じような思考や行動を、時代や立場が変わってもいつも行っているものだということです。同じことを時代を変え、人を変え、繰り返しループのように続けています。
だから、扱うモノや人は変わっても、問題としては根本的に同じであり、そのパターンを理解して、そこから超越する目的を持たないと、また繰り返しの牢獄に閉じこめられたままになります。
実は象徴的神話的世界は、その救済についても語っています。マルセイユタロットを次元を上げて扱っていくと、そうしたスートリーとつながることができます。
私たちは現実に起こることに振り回されすぎて、生きるに精一杯であり、現実を超えた次元の世界を象徴的でも想像することをしなくなった(ふれられなくなったこと)こと、そういったことにに無自覚であることが問題なのです。
具体的・個別的次元(個人的フィールドとその表現)になると、個性によって数多くわかれてきますので、元はひとつであっても、ずいぶん違うものに見えてしまうようなります。
ということは、タロットの接触する大元のような、統合的神話的世界の原理や仕組み、ストーリーパターンを知っておけば、現実的にも、どう思い、考え、受け止め、開始し、改革して終わらせ、また創造していくのか、その人個人の問題や悩みに応じて適用していくことが可能になってくるのです。
一度大元に還って地図を上から眺め、整理してまた現場に戻るという表現が適切でしょうか。
そのため、個人の情報は必要です。それ(個性)が元の象徴的・神話的で表される大きなエネルギーを、現実的・具体的なものへと変換させていくからです。
これが相談者自身に答えがあるという理由であり、実は、答えがあるというより、答えを決めている(現実化している)と言ったほうがいいでしょう。
ここで問題なのが、象徴的・神話的世界とそのエネルギーへの接触のためにタロットを使うにしても、タロットに対する豊富なイメージ・芳醇な想像を促すための知識と感覚がいることです。
つまり、タロットは異世界へのゲートでもあるのですが、そのゲートを本格的に起動させるにはは、タロットに対する信頼はもちろん、タロットへの豊かなイメージ(形成)が必要なのです。
そうすると、ある種の磁力・電気力のようなものをタロットが帯びたようになり、ゲートがゲートとして機能します。
単純に単語やカードの意味を覚えたところで、それではゲートを開かせ、機能させるには力不足です。
言い方を換えれば、タロットを生き物のように生命力をあふれさせるためには、タロットの描く、その象徴的で壮大な背景・ストーリーを知る必要があるのです。
例えばカタリ派やテンプルナイツ(神殿騎士団)とマルセイユタロットとの関連性を知ると知らないのとでは、やはりマルセイユタロットそのものの力が変わってきます。
ただしこれも知識としてただ単に覚えてもあまり意味はありません。(歴史の丸暗記みたいなもの)
それらのものや言葉の示すエネルギー、心でとらえるスートリーを理解し、自分に採り入れていくことで、マルセイユタロットの磁力が増してくるのです。
つまるところ、いかに想像や精神・イメージの世界を、秩序だって(ここが重要)、自分の中で豊かさにするかが大切で、それが実はリーディングの実践における読みの効果と関係してくるのです。
実践リーディングは、現実的選択をアドバイスしたりサポートしたりするように見えて、その相談者が混乱して失った神話的・元型的・精神的イメージとスートリーを回復させることにあるのです。
従って、マルセイユタロットリーダーとなる者は、自分のイメージや精神の世界を豊かにして、さらに整理しておく必要があるのです。
イメージや心の世界を豊かにする必要性は、こうも言えます。
タロットリーディングやタロット活用するにしても、元型的世界との接触があり、同時に、相談者や自分の具体的・個別的次元というのがあります。
このふたつに橋を架けめためには、中間段階として、様々な元型から派生したストーリーやイメージを持っておいたほうがいいのです。
マルセイユタロットを一度習った人でも、その単語的意味や読み方を覚えようとこだわらずに、もう一度、一枚一枚の大アルカナの示すストーリー、象徴の背景、付随する神話体系などを思い出し、わからなければ自分で調べて空想してみるとよいでしょう。
また自国の神話や伝説を読むのもいいですし、好きな国のそれにふれてもよいです。
そして、それがタロットにどう現れているか、現実の背後にどうストーリーが流れているかを観察します。
すると現代にもアマテラスやスサノオ、ゼウスやアフロディーテー(ヴィーナス)、ヘルメスなど神々とその神話が至る所に存在していることがわかります。
私たちは(特に問題状況にある時は)、その(神々や天使の)象徴的力と秩序、理性や神性を内に持ちことを思い出すことが鍵なのです。
現実・具体レベル同士で考察したり選択したりしていても、それはタロットでいえば全部で22枚ある中の、5番止まりでしかないのです。
戦車、節制、世界の調和レベル
マルセイユタロットの「戦車」「節制」「世界」は、ある種のテーマを共有しています。(ほかの組合せも、それぞれテーマを持っていますが)
テーマと言ってもひとつではなく、見方によって複数のものを考察することができます。
今日は、「調和の完成」について、換言すれば「統合」をテーマに、この三枚を語りたいと思います。
もっとも「調和」といえば、「星」など、マルセイユタロットのほかのカードでも表すことが当然できますが、今回はあえて「戦車」「節制」「世界」においての調和を考えます。
さて、まずは「戦車」です。
マルセイユタロットの「戦車」の絵柄を見ますと、一人の御者が二頭立ての馬車を操っている様子が描かれています。
この二頭の馬にはいろいろな解釈が可能ですが、ひとつには、この馬は自分自身(の二人)を表すと見てもよいでしょう。
そうすると、御者も自分ということになるのですが、御者の自分から見ると、自分の中に葛藤する二頭の馬がいるわけです。
ともかく、その馬に象徴される「心を御すること・操ること」が、前進や勝利につながると解釈できます。
詳しくは述べませんが、この「戦車」は実は現実的な意味(意識的な世界)での成功や完成を象徴すると言われるのですが、その鍵は、つまるところ、馬を巧みに操る御者になることだと言えます。
すなわち、自己を統御することが重要なのです。
そうすると、私たちがこの現実の世界で行う目標は、自己を統べるということになりますから、調和の意味において、何をまず大切にしなければならないかと言えば、「自分との調和」ということになります。
ここで言う「自分との調和」というのは、外向けだったり、内向きだったりする自己の相反する心(二頭の馬に相当)を統合し、わだかまりのない本当の自分の気持ち(になって)で進んでいくというのに近いでしょう。
それは自分の価値観を知り、それに従って躊躇なく生きる状態と言ってもよいです。
このことは心理系・スピリチュアル系の方々の多くが述べていることですが、これがいわゆる「自分のありのままでいる状態」というものになるかと思います。
こうして結局、「戦車」が示しているように、現実的な意味でも「成功」というのに向かっていくわけです。
次に「節制」です。
「節制」は天使の姿の者が、ふたつの壷を扱い、水を混ぜ合わせている様子が描かれています。
こういった象徴性から、他者と自分との交流ということが見えてきます。
人は自分だけで生きているものではありません。他人がいて、属する集団や組織・社会があります。大きくなれば、地域・国というようにもなってくるでしょう。
ですから、「節制」は、人との調和、社会との調和というものを実現するレベルと言えます。
私たちは、案外と、最初からこのレベルの完成を目指そうとしてしまうので苦しいのです。
「戦車」レベル、つまり自分との調和ができていないのに、いきなり他人との調和、社会との調和を完璧にしようとするので、自分を追いつめてしまうわけですね。
「節制」レベルは、言わば、世のため・人のためなのですが、これはもちろん悪いことではなく、反対によいことと一般的に認識されています。
ですが、あまりに自分を偽ったり、本当に素直にそれができる状態でなかったりすると、自己犠牲を払い過ぎる感情となり、世のため人のためではなく、世のせい・人のせい(自分のせいと思うこともあり)(でうまく行かない、苦しい、つらい)という気持ちにもなり、やらされている感(強制感覚)や、社会や人に貢献できない自分に無力感も覚えてしまいます。
従って、まずは「戦車」レベルで自己との調和を図って自分の特質・自己の価値を知り、その延長線上(「戦車」風に言うと、「戦場」となります)で、世のため・人のために動くとよいのです。
自分との調和が図られていれば、自分でできることとできないことの区別、自分が面白いと思うことと面白くないと感じることも、よくわかる(できる)ようになっているので、心と行動との間に矛盾も少なくなってくるのです。
もちろん、私たち人間は社会的な生き物であり、普段も仕事をしたり、地域社会で活動せざるを得なかったりと、対人関係・対社会的に行動します。
自己との調和・統合を図るより、無理矢理でも対人・対社会との調和を図らねばならないことがあるかもしれません。
理想的には「戦車」レベルでの調和の完成を終えて、「節制」レベルの調和を目指すべきといえますが、同時進行で行うのが現実的という可能性もあります。(とはいえ、「戦車」のほうが重きが置かれます)
さて、こうして「戦車」と「節制」、つまり自己との調和、人や社会との調和が図られれば、ついには神や宇宙と言われる、大きな世界との調和が待っています。
これが「世界」カードレベルの調和であり、最終的な全統合と言ってもよいでしょう。いわゆる現実と精神の融合であり、スピリチュアル(霊性)の完成でもあります。
「戦車」が地(自分)、「節制」が人(社会・他人)で、「世界」は天と言えます。すなわち、天・地・人の調和と統合なのです。
ただ、見方を変えれば、「世界」の調和も他のレベルと同時進行できます。
枠組・段階としては「戦車」「節制」「世界」の3つがあるわけですが、宇宙構造の基本として相似形のフラクタルな関係にあり、それぞれにさらに3つのレベルがあると見ることができ、それゆえに同じ次元であっても、その次元に応じた3つの調和を考えることができるために、同時進行が可能となるのです。
よくありがちな誤りとして、自己との調和・統合の過程で、わがままがよいというようになってしまうことがあります。「わがのまま(ありのまま)」と単なる自分勝手・利己的な「わがまま」とは違います。(「戦車」でいうと、片方の馬だけが暴走しているのが単なるわがままです)
実は多重構造として、「節制」の中にある「世界」レベルの調和を見ることで、悪い意味での「わがまま」にはセーブがかけられます。
わがままでなく、「わがのまま」であると、人からみてもスムースに見えて(反感を買わない、みっともなく見られない)、もちろん自分の心も葛藤がなく晴れやかに(楽しく)行動できているという状態になれるのです。
カードの象徴性を使って、自分をコントロールし、自己実現を図っていくと、自然に人や社会、宇宙と調和していくように、マルセイユタロットのシステムは設定されているのです。
タロットの不思議体験と自己成長
マルセイユタロットを学び、使っていくと、いろいろと面白いことが起こってきます。
それは不思議とも言えるものですが、それを検証したり、考察したりせず、ただ「不思議」だと無分別に受け入れることは、私自身はしていません。
不思議だ、神秘だ、ワンダーだと驚嘆する心はあっていいと思いますし、それが人の感応力のすばらしさでもあり、また大いなるものへの敬意や感謝にもつながります。
しかし、不思議なことにただ驚いているばかりでは、進歩もありません。その気持ちが洗脳や、コントロールに利用されることもあります。
不思議は、これまた不思議なことを言いますが(笑)、不思議だからこそ理解と智慧が獲得されるような仕組みがあるのです。
「驚き」「不思議」「謎」は理解や探究とセットでもあるのです。
さて、自分使いのタロット(他人にリーディングするなど以外の、自分でタロットを使うもの)で、(起こる)不思議なことを幾つか述べてみましょう。
まず、自分で、問題や状況についてタロットを展開した時、出たカードと展開が、あまりにもぴったりで衝撃を受けることがあります。
私は今はこの現象(の理由)について、驚くべき気づきがあり、それを説明することができますが、ここではふれません。
説明しても、受けいれられる人が少ないと思うからです。ちゃんとタロットを学んで、段階を追って開示しないと無理でしょう。
それはそうと、とにかく、タロットと自分とのつながりが、偶然引いた中でもある(生じる)ことに、驚きや不思議さを感じます。
偶然の中の必然、それこそ、シンクロニシティをここで体験するわけです。
次に、タロットをさらに学んで使っていくようになると、人によってですが、ふいにタロットが映像として出て来たり、まるで人格をもって語りかけてくるかのように感じたりすることがあります。
「タロットの聖霊」という概念を信じるか信じないかによって、このことの説明は変わってくるのですが、まあ、ともかくこれも不思議な体験です。
そして、タロットの象徴について理解が進むと、今度は、カードのある並び(順番)や、学ぶべき事柄として、まさにタロットカードの示す象徴内容そのもののが、現実に起こってくるようになります。
もちろん逆から考えることもでき、タロットが理解できてきたからこそ、自分に起こっていることがその象徴として把握できてくるとも言えます。
とはいえ、その考え方よりも、むしろ「タロットにより経験させられている」としたほうが納得できるかのような感覚と言ったほうがしっくりきます。
これが「不思議」と感じる部分になってきます。
こうして、最初にタロットに接し、その意味を理解した時とは別の、さらに次元やレベルの異なるタロットの示唆するところの多重性の意味を、知性と感情、さらにその他の知覚でもって、体験的に知ることになります。
これが連鎖反応的、螺旋状的に続いていくのです。
もちろん一枚だけの象意ではなく、カードの組合せや全体性による体験と理解もあります。
それはすなわち、自己の成長や向上とつながっているのです。
言わば、自分にある内的宇宙と、外に存在していると錯覚している外的宇宙を、マルセイユタロットをモデルや核として、統合していくような作業と述べてもいいかもしれません。
このプロセスは、他人と比べるものではありません。
あくまで自分中心に、自分の成長レベルで体験していくものです。
ですから、自分が知ったカードの象徴や意味も、他人と共有できる部分もあるとはいえ、やはり自分だけにしか通用しないものもあるわけです。
言葉尻だけをとらえると、いかにも一般的な意味のように思えても、その真意は、その人が自分の知識と体験から導き出し語られる内容のもので、他人にはわからないものなのです。
例えて言えば、一枚のカードに象徴される自分の中にある何階層にも及ぶ建物(意味・智慧・理解)があり、その1階と10階とでは、まったく言葉としては違っていても、建物としては共通しており、しかしながら、この建物はあくまでこの人の「マンション(メゾン・メーソン)」であるというところで、他人には理解できないということなのです。
と言っても、建物自体は似ているというより、実は共通基盤・設計・施工は同じ建物と建設会社によるものなので、別の人の建物同士でも理解しあうことや、共通点はあるとも言えます。
矛盾しているようですが、これもタロット的には言えることなのです。
違っているけれど同じ、また同じだけれど違っている、これが自分と人との関係でも言えますし、自分一人だけの基準においても適用されるのが、タロットで物事を見る時の基本ルールみたいなものです。
しかもそれこそが、宇宙を見る時のルール(仕組み)と同じであるとも考えられます。
ですから、タロットは自分使い(自分自身と比べる)だけのように見えて、人と比べることも可能で、他人とカードについて比較し合い、気づきと意味を述べ合うことでも、自己成長が促進されるようになっているのです。
この時の「他人との比較」というのは、差を意識しつつも、差に引きずられるのではなく、あくまで自分の理解と成長のために、人の考え・気づきと比べるというものです。
一言でいうと競争ではなく、他人と融合や統合するための使い方です。(しかしながら、他人と違う自分の個性も理解する方向でもあります)
ですから差だけではなく、むしろ共通部分も発見することが鍵となってきます。
このように、マルセイユタロットを学び、使っていくというのは、不思議体験とそれへの理解による螺旋的な自己の進化(深化)・拡大を意味するのです。
カードによる自己世界と全体世界の融合
マルセイユタロットは、いわばユング風に言うと、人間の集合意識の元型とでも例えられるものが象徴されていると見ることができます。
簡単に言えば、誰しも持っている思考や感情と、その反応のパターンと表現できるでしょう。
特に大アルカナ22枚でそれを表すことができます。
一方、もっと大きな意味で、霊的な進化のナビゲーションような形を象徴させることも可能です。
これらのことは私の講座で詳細に語っているところであり、またそれらの見方と活用についても述べています。
タロット(に限らないことですが)の象徴というものには、レベルや次元があり、全部同じ見方・とらえ方をしてしまっては、余計混乱するばかりなのです。
この次元の区別ができていないので、タロットリーディングにおいても迷うことになります。
またタロットという絵柄から何かを想像し、象徴として現実と関係させるという理屈もわからず、タロットなんてものはスピリチュアルや占い好きな人の迷信による道具にしか過ぎないと、頭の堅い人は思ってしまうことになるのです。
それはさておき、いずれにしても、どの次元の使い方をしても、マルセイユタロットはバランスが働くように構成されています。
例えば自己の内観や認識、調整・調和にマルセイユタロットを利用する(そういう次元で活用する)時、大まかに言えば、22枚の大アルカナに象徴される自己が内在していると考えることができますが、それぞれは、全体として何かに偏っているわけではありません。
ただ、不思議なことに(本当は当然のことです)、ひとつひとつカードと自分とを検証していく過程では、ある種の偏りが見られるのが普通です。
それは特定のカードたちがわからない、なじめないとか、こういうタイプのカードは好きだ、感じがいいというものであったり、カードを見て言葉がたくさん出るものもあれば、まったく出ないものもあったりするような感じです。
また感覚や感情とカードが結びつくと言いますか、気持ち・感じのようなものでカードをとらえたり、読んだりすることが向いているという人もいれば、反対に象徴の意味や言葉などから、理屈や論理が通って初めて、カードのことがわかってくるというタイプの人など、カードに対する自分の向き合い方・読み方にも個性が出ます。
それも、言わば、カードを通した自己の偏りの確認と言ってもいいでしょう。
実は「偏り」は個性でもあるのです。
偏りと聞くとネガティブなものに思えますが、反対に長所と言いますか、自分だけにある特別なセンサーと言ってもよく、ホジティブに解釈することもできます。
しかしながら、その偏りも、次第にそのどちらでもないとか、どちらでもあるとか、カードで象徴される自己認識をさらに拡大、受容していくことになり、偏りそのものが最後には修正されていきます。
言い換えれば、バランスが完全に取れた状態です。
さらに付け加えれば、「修正」というより、もともと偏りや個性はあるようでなかったことに気づく段階と言えます。
そして、個性や偏りは、次元を別にすれば、また登場してくるものなのです。
ただしここでいう「バランス」は、数値で計るようなフィフティ・フィフテイのバランスではなく、個人の特性に応じたバランスです。
食事でも、全員同じ数値的な栄養バランスのものを摂取していれば、皆が皆、健康になるとは限らないのと同じです。その人に合ったバランスというものがあるのです。
一方、実は全体を貫いている定理のようなバランスもあり、それは数値的なものではないとはいえ、普遍的・全体的なもので、いわば陰陽などの宇宙原理と言ってもいいものです。
マルセイユタロットをきちんと活用していけば、自分の個人バランスと、全体の大きなバランスとの融合点・調和もやがて理解できてくるようになります。
それは例えれば、わがままのように見えて、全体との調和も保たれているような生き方・自己表現です。(外からはわがままとは見えず、むしろ洗練された風に見え、そして内側・自分からは自分自身を出している・生きている・「わがのまま」にいる実感の状態です)
カード単体においても、最初は吉凶とか、いいカード・悪いカードという見方から入り(それは私は勧めていませんが)、やがてそのどちらでもないことに気づき、さらには精神的な雰囲気のカードに物質的なものを見たり、その逆をとらえたりという相互のエネルギーの循環を悟り、カード一枚でも宇宙を象徴することがわかってくるという過程を経て、全体と個別のバランスが調和されてきます。
そしてカード(マルセイユタロット)を扱うことが、自分や世界、ひいては宇宙をモデルとして観察し、自分自身が宇宙そのものであることを認識するための、プラクティスと遊技(ゲーム)をしていることに気がついてくるのです。