タロットの使い方
タロットによる想像力の向上
マルセイユタロットは、目に見えない世界を象徴すると同時に、現実的な目に見える世界も象徴します。
どちらの世界も考えることができるので、とても面白いわけです。
これは別にタロットでなければならないというものではありませんが、タロットは絵柄のツールなので、形でないものをあえて視覚化し、構造分析するのに適しています。
これは逆に言えば、視覚的な表現と感覚が難しい人には、タロットは適さない、あるいは相応の訓練が必要だと指摘することもできます。
視覚的な表現でも、実際に「思ったこを絵にする」というようなものよりも(それはトレーニングとしては大事ですが)、そもそも、まずは心の中でイメージを思い浮かべることができるかということのほうが重要です。
一言でいうと、想像力・イメージングの能力の発動です。
人間なら誰しもこれは備わっているのですが、空想すること、想像することが、現代社会ではますます機会が失われてきているので、昔より、劣ってきているのです。
例えば、携帯電話がなかった時代、これはそんなに大昔のことではありませんが、携帯やメール(を送受信する機器)がないので、待ち合わせとか、連絡には、固定電話を使うか、直接会っている時に約束するか、手紙やハガキで知らせるか、誰かに言づてするしかない状態でした。
電話をかけたり、連絡したりする前に、今家にいるのだろうか、いても電話に出ることができる状態なのだろうか、ほかの人が出ないだろうか・・・など想像することは多かったわけです。
待ち合わせがうまく行かない時にも、いろいろと交通のことや相手のことなど、イメージせざるを得なかったのです。
ということは、今よりも格段に、想像する機会があったということです。
もっと時代を遡ると、電話もありませんでしたので、本当に想像・イメージ・予想するしかなかったわけです。
ただ、闇雲に想像するよりも、自分の想像したことが実際にはどうなのかということを調べたり、比較検討したりする手段も必要になったと考えられます。
それが占いの原点でもあっただろうと想像できます。
星の動き、自然現象、偶然に出たしるし、これらを象徴的に読み解き、実際に見たり聞いたりできない分野(地理的・時間的制約のもの)について、適用していたのでしょう。
それは、自然や現象が、すべて秩序ある神なるものがコントロールしているという前提の考えがあって成り立つものです。
つまり、私たちは神に囲まれているということであり、神の意志や法則(神が表すと見る自然や宇宙の法則)と人が想像するものとが調和してこそ、いろいろなものが正しく見通せると見ていたわけです。
私たち人間は、いわば動物性も悪魔性も神性も同居する複層的な生き物です。
ですから、想像すること・イメージすることにも、低次から高次まで、様々のものが思い浮かぶわけです。
しかしそこは物理法則(宇宙の法則)や、人に備わる理性や神性などによって、暴走しないよう、思ったことがすぐに実現できないよう制御されています。
ところが、理性や神性だけではなく、人が作ったルールや規則・制約、さらには自分自身が作ってしまったそれらのものも存在するようになり、いつの間にか、人の持つ想像力はかなり自由性を失い、能力そのものも減退していくことになったのです。
また先述したように、時代が進むにつれ、想像する機会がますます失われることになり、人々は何かをイメージしなくても、生活できる便利な状態に慣れてしまっています。
ところで日本語で言えば、「想像」は「創造」と音が同じであり、ここは言霊的にも、「そうぞうすること」「生み出すこと」に、想像が結びついていることがわかります。
神はあらゆるものを創造することができる存在ですが、人も神の似姿として、神が創造し、さらに人自身も創造する力を得たと言われています。
その創造する力の源こそが想像力なのです。
タロットには作られた目的には諸説あり、どれかひとつとは言えないところがありますが、いろいろと考えられるタロットの目的のひとつに、失われつつある人間の想像力を復活させる意味があるのではないかと私は考えています。
想像力が衰え、普段何も思い浮かばない人は、タロットの絵柄という補助を得て、まずは自分や人の、あるいは物事・現象についての思い・感情・感覚を、タロットにあてはめます。(「私の思いは、タロットで言えばこんな感じ」という具合です)
そして、タロットの絵柄の象徴性を学ぶことにより(知ることにより)、なぜそのカードの絵柄を選択したのか、気になったのかということを理解し、自分がある事に対してイメージしようとしていたものをつかむことができます。
タロットによって、当初はわからなかった自分が想像しようとしていた「絵」を、今度は自らの力で心の中で描いていくことになるのです。
そうやって、今度は自分のイメージ力を向上させていくのです。
想像力が回復してくると、自分自身が、より自由で、創造的な生き方を望むようになり、人や社会から支配されていた自己の力と魂の解放が進んでいくことになるのです。
ソウル・パーソナルカードを使う次元
マルセイユタロットを使う人で、ソウルカード・パーソナルカードという技法をよく紹介する人がいます。
いろいろな方のブログに、カードの出し方も含めて、書かれていたり、説明されていたりします。
ちなみにソウルカード・パーソナルカードという技法は、22枚の大アルカナのナンバーを、自分の生年月日から割り出したナンバーと符合させて、9タイプ(ソウル)と22タイプ(パーソナル)に分ける方法です。
カモワン・タロット(マルセイユ版カモワンタロット)ということでは、旧タロット大学時代に、私も講師としてその技法を教えていたことがあるので(今の私の講座でもふれていますが)、いわゆる「カモワンタロット」使いの人には、多く広まっていることは知っています。
しかし、本来この技法は、数秘術のジャンルに属するものと言ってもよく、ナンバーがふられているタロットならば、どれでも通用するものです。
ですから、マルセイユタロットという単体で見た場合、あまりマルセイユタロットそのものと関係ないどころか、むしろほかのタロットの技術の一つとして採用されてきたものと考えられます。
ということで、私の現在の講座においては、結構、明確にマルセイユタロットそのものの教えとは切り離して解説しています。
また私自身は、ほとんど、実際のリーディング場面でこのテクニックを使うことはありません。
というのは、タロットは確かに数との関連は強いのですが、絵柄がメインであり、特にマルセイユタロットの場合は、数の論理というより、絵柄の象徴性が重要だと私は考えているからです。
ただ、タロットを数から見る形で、入り口のようにして、関心をもってもらう技法としてはなかなか面白いものです。
そうすると、ほとんど一般的な意味においての「占い」みたいな次元の扱いになってきます。
占い(あくまで一般的な意味でのです)は、実は楽しいものです。
まず当たる・当たらないということがあり、それは人間にとってはかなり古くからある「ゲーム」(感覚)の一種といえ、未知のもの、まだ確定していないものの予測(予想)と、その結果を突き合わせは、やはりワクワクするものです。
また性格のパターン分けなども、占い(本当はこれは「占い」ではないですがが、やはり一般的な意味で言っています)、例えば「血液型占い」に見るまでもなく、結構、多くの人に興味をもってもらえるものです。
みんな、自分のことが知りたいですし、誰と誰が相性がよいとか、どんなパターンがどんな仕事や人と合うのかなど、「現実」や「生活」とリンクするものは、それだけ好奇心をもって聞きたくなるものです。
自分は何タイプか、「あてはめてほしい願望」(笑)みたいなものがあるのですね。「あなたはこういう人だ」と、(自分ではない)人に言ってもらいたいわけです。
そこにはもちろん「自分を知りたい」という気持ち(欲求)と、「自分を認めてもらいたい」「人と自分は違っている、あるいは同じところがある」「自分には特別なところがある」と思いたい、というような心境が反映しています。
私はこうした人の部分は結構好きなのですが、同じくらい嫌いな部分もあります。(笑)
とにかく、こうした占いや、「型はめ」的な次元での使い方に、ソウルカードとパーソナルカードはうまくマッチするのですね。
ですから、あるソウル・パーソナルナンバーのカードの組み合わせが、どういう性格を持ち、どういう人生を送るのかとか、あるナンバーの組合せの人と相性がいいとか悪いとか、自分はどういう組合せの人に囲まれやすいかとか、苦手だとか、まあ、そういった話題が起こって、鑑定場面や学習の場において、和気藹々な雰囲気になることもあります。
それがよいとか悪いとかいうのではなく、そうした次元(レベル)を楽しむ心も持つと同時に、もっと別の次元でも楽しめる、味わえるようにするとよいと考えています。
マルセイユタロットを人の相性とか、性格分析とか、吉凶判断とか、結果予測占いなどに使わず、それは早くに卒業するか、遊びや直感力を磨くトレーニングとして使い、いい・悪いを超えた、あるいは統合した次元で活用するようしてもらいたいと思っています。
一方、ソウルカード・パーソナルカードも、カードから離れ、純粋にまたナンバー・数に戻して行くと、実は深奥なる「数」の象徴の世界になってきますので、次元は高度になります。
下手に、絵柄のあるカードと強引に結びつけることで、かえってまずい部分が出てくるわけです。(タロットの絵柄と「数」は無関係ではもちろんありませんが)
自分を愛することからの自由や幸せ
対人的なタロットリーディングでは、一人一人への問題と、それに対するタロット展開となりますので、もっぱら個別的なものとなります。
個別的というのは、当たり前ですが、一人一人違うということです。
相談というものに対して、たとえばプロ養成の講座などでは、どうしても概論的なものや、相談内容の種類・タイプ別に講義することもありますが、実際の相談は、まさしく個別的なもので、一人一人違うのが当然です。
従って、机上の空論では通じないところもありますし、場数を踏む必要性もあります。
しかしながら、だからといって、理論やタイプ・ケースを学ぶ必要がないのかといえば、そうではなく、それらを学ぶ重要性ももちろんあります。
それは色々な理由はあるのですが、一言でいえば、タロットの全体構成・構図と同じで、人それぞれは個別的でありながら、「人間」として象徴的に型や同じような傾向もあるからです。
相談スタイルを学習することは、実は相談への適応スピードを速くすることであり、個別的な応用力を発揮するための王道でもあるのです。
矛盾するようですが、このことがわからなければ、タロットが表していることそのものへの理解も深めることができないでしょう。
さて、そうしたタロットを使った相談をしている中で、人の大まかな傾向を挙げるとすれば、以下のようなことが、ひとつ、言えると思っています。
それは、
「自分を愛せるようになればなるほど、自由になってくる」
ということです。
これは最近に始まったことではなく、スピリチュアル系でも心理系でも、「自分を愛する」ということや「感謝の気持ちを持つ」ということはよく言われます。
ただ、これでは言い方があいまいでもあるので、もう少し解説的に言えば、「自己への評価が高まれば高まるほど自信が持て、自分自身を生きる実感が増える」ということになるでしょうか。それでもこれは、少し次元を落とした(具体的にした)言い方です。
実は「自己の評価が高まる」と言い方もまた曲者で、えらそーになるわけではもちろんありませんし、ポジティブに、「私すばらしい!」「オレ(ワタシ)ってできるヤツ(ヒト)」というような感じ方とも違うのですね。
感覚的に言えば、いいも悪いもひっくるめて、全部私だと認めたうえで、そんな私は私として生かされている、生きている、みたいなものと言ったほうがいいでしょうか。
問題や迷いが生じると、「何のために生きるのか?」というより、「自分を生きているか?」「どんな人生を送りたいか?」という質問を問いかけると、自ずとわかってきます。
その答えを全うする人生こそが、結局のところ、自己評価を上げることにつながり、自分を愛することになってくると考えられます。
そのあとで、何のために、そして、どのように生きるのかという問いをして、答えていく(応えていく)とよいでしょう。
最初から「何のために生きるのか?」と問いかけると、かなり哲学的になったり、余計考えすぎたりして、泥沼にはまる場合があるからです。
またこの問いは、多分に自己犠牲的な危険性もはらんでいます。
ただ、現実的なことに空しさを感じたり、俗物的な状況にまみれたりした時には、この問いかけも有効になってきます。
人は肉体を持ち、感情を持ち、魂(スピリット・高次の部分)を持って現実世界で生きています。
肉体的・物質的欲求をかなえるためだけに生きたり、他人のために過度に生きたり、肉体や現実を忘れて抽象的に生き過ぎたりすると、バランスが崩れ、その修正のために事件や問題と思える状況が発生します。
結局、自分を愛するということは、少なくとも自分のこの3つの部分(肉体、感情・精神、霊・魂)を愛する(3つの部分にかなう)ことが必要です。
言わば、天(全・神・宇宙)に、人(自分・他人・関係する人々)に、地(物質・環境・自然)に、そのどれもかなっている、筋道が立つみたいなものが、現実的に生きる場合において、もっとも「自分を愛する」ことにつながるのではないかと思っています。
全部に完璧というのではなく、生き方の個性として、個や地に根ざしながら、天と人を意識する場合もあれば、人にベースを置きながら、天と地を考慮するという方法もあります。
家族ために生きるのもよし、ビジネスで稼ぐのもよし、ボランティアで恵まれない人に援助するのもよし、です。
それは、まさしくそれぞれの個性的な生き方によりますし、それが許されているのがまたこの現実世界と言えましょう。
ただ、それが一つ所に偏って、お金だけとか、過度な他人の幸せのためにとか、自分の欲求が満足することに集中(人に貢献がない)とか、そうなるのが問題だと言っているのです。
マルセイユタロットでは特に「正義」と「節制」、そして「悪魔」と「手品師」、「世界」と「戦車」のそれぞれの二組を意識しながら、「力」を中心にすえるようなイメージです。
自分の中の神を愛し、悪魔も愛します。そうすると、人の中の神や天使、悪魔も見えてきます。
自分から愛せない人は、他人に愛してもらうことで、他人が愛してくれる「自分」というものに気がつきます。
人から愛を注いでもらえるくらい、肉体も心もスピリットも、価値があることを意識するのです。
人からの愛を実感できない人でも、動物や自然などから感じることはできます。
例えば自分にすり寄ってくる猫に、自分が愛される(すり寄ってこられるというだけでもよしとする)価値を見出すというような具合です。
自分が愛せないと自分を愛せるようになるまで、自ら苦しい状況を設定させます。他人からの自分への扱いが、まるで価値のない人のようになるのです。
お金の面でも同じかもしれません。自分が無価値だと思えば思うほど、あなたに支払う(支払われる)エネルギーとしてのお金も少ないものとなっていくわけです。
マルセイユタロットは、自分の中に愛や神性を発見していくカードとも言えます。
一枚一枚、象徴を理解してくと、突如、自分の中にカードに表される神性や愛が存在することに気づき、それがわかった時、実際にそれを味わうことが現実で起こるのです。
ふたつの時間とその統合
3月に入り、「すでにもう3月か」という気分の人もいらっしゃるでしょう。
本当に時間が経つのは速く感じます。一説には、実際にスピードが上がっているのではないかという話もありますが、年齢のせいもあるのかもしれませんね。(笑)
さてタロット講座についてですが、しばらくしましたら、4月から始める基礎講座の新規募集を予定しております。場所は新大阪になります。(その他の場所がご希望の方はお知らせください) 今なら先申込みされますと、その方のスケジュール優先で日程を設定することもできますので、お問い合せください。
あと、現在も行っていて好評な入門講座も、また新規募集を企画しております。いきなり本格的に学ぶより、まずはシンプル、リーズナブルに始めたいという方は、こちらをご選択ください。入門コースにつきましても、新大阪を予定しています。※なお、カルチャーセンターの講座は神戸は7月からの予定、京都はまだ未定です。
では本日の記事です。
さきほど時間のことが出ましたので、時間に関係すると考えられるタロットの「運命の輪」もアピールしてきているように感じますので(笑)、時間をテーマに少し書いてみようと思います。
スピリチュアルでは、よく時間というのは幻想だと言われます。
と言われても、実際には時が経過するのは感じますし、今日が終われば明日が必ず来ることで日が経ち、それが重なり年も過ぎていくことを私たちは経験します。
時間がない、幻想だと言っても、あるものはあるのです。
一方で、これもよく言われることですが、時間には大きく分けて2種類あり、ひとつは時計的時間と言いますか、普遍的に刻まれていく一般の時間と、もうひとつは、一人一人個人が感じる感覚時間のようなものがあるとされています。
後者の、いわば個人時間というのは、つらい時はとても長く時間を感じ、楽しい時はすぐ過ぎるといった例えで見るとわかりやすいでしょう。
要するに、普通の時間とともに、個人の意識や感覚で流れる時間もあるのだということです。
ところでマルセイユタロットでは、二元とその統合というテーマが入っているのですが、これは簡単にいえば、宇宙の表現である「ふたつのもの」を「ひとつに戻す」「ひとつに統合する」というようなことになります。
陰陽に分かれているものを、どちらでもなく、またどちらでもある太極に還元すると言い換えてもよいでしょうか。
ふたつのもの、二元というのは、様々な表現で現れ、例えば物質と精神という対比も二元になります。
これ(二元)が時間にもあると考えてみましょう。
そうすると一般時間と個人の感覚時間があるわけで、いわば、物理時間と精神時間のようなものといえます。
物理的なものは、ある種のこの世(私たちの生きる次元)のルール・規則であり、なかなか普通には変えることができないものです。
持っていたモノを上から放すと地面のほうに向かって落ちるというのは万有引力の法則で、磁場とか電気とか、風力とか、ほかの何かのエネルギーの影響を受けない限り、必ず落ちます。(地面に引かれます)
これと同様に、一般時間、物理的時間も容易には変えることができません。
従って物理的時間は全員が従わなくてはならないルール、個人の意志とは別に集合的意識の合意の上に決定している事項での時間といえましょう。
ですから万人に共通ですし、個人が勝手に変えることはできないわけです。
とはいえ、例えば本当の私たちが目にする法律でも、厳格な法律の抜け道(穴)を利用することもないわけではありません。
しかしながら、それはとても労力と知識のいることであり、投資の割には利益は少ないことが多いでしょう。ただし抜け道を見つけた人は、すごい力を発揮することにもなります。
またそこ(抜け道を見つける)までせずとも、与えられたルール・規則の中で、効率よく活用したり、活動したりするということは普通に考えられることです。
同じ条件であっても、それでも知恵や工夫によって変わってくる部分はあるということです。これが「時間」をテーマにすれば、例えば時間の有効活用、時間の効率的な使い方みたいなことになります。
それを本を読んだり、セミナーを受けたり、コンサルしてもらったりして、学び身につけることは可能です。
ということで、物理的時間への対策は、あることはあるのです。
しかしながら、やはり物理的時間へのアプローチは、決まりのある中のものなので限界があります。物理的に、一日24時間を36時間にすることはできないのです。
そこで、現実に生きている(からこそ)私たちが働きかけるのは、物理時間よりも個人(で感じる)時間のほうに目を向けるほうが、自由度においても効果があるのではないかということが言えるわけです。
これは結局、「生きることをどう感じるか」ということになってきます。
言い換えれば、人生が充実している、生きていることはすばらしい、人生が楽しいと思えることが重要だということです。
少なくとも、つらいと感じる時間をこれ以上増やしたり、続けたりすると、個人時間において、あまりにもったいないことをしていると言えます
もうひとつ、非常に大事なことは、さきほど出た「二元」の話と関係することです。
説明すると長くなるのでまたの機会に譲りますが、物理(一般)時間と精神(個人)時間を統合すると、時間の本質が現れてくるのです。
それは一言でいうと、時間があるようでない、ないようであるみたいな、幻想である時間の実体の自覚です。
ふたつの時間の統合とはどのようなものかは、ひとつ例にしますと、精神時間に物理時間がついてきているような、あるいはその逆の、物理時間の中で精神時間がコントロールされるような不思議な感覚です。
これは「夢中になって気がついてみると、あっという間に一時間経過していた」というのとは違います。
この場合は、精神時間に移行して物理的時間から離れている状態といえます。
私のいうのは、物理時間の1時間というのをきちんと意識しながら、同時に精神時間で2時間も3時間も体験できることを確信するような状態です。
普通1時間で終えられない(2時間はかかる)と思う作業が、自分には1時間でできることが直観でわかるというものになるでしょうか。
物理時間は物理時間で、きちんと24時間あることをわかっていて、それでも精神は自由自在に時間を体験しているようなものです。
一見これは時間に縛られているように見えますが、ある意味、内的には自由で、物理時間という制約が制約でなくなってくるので、制約状態のものを制約ではないと強く認識し、確信ができてくると、それ(制約)はあやふやなものに変化して固定場が緩み、実体として存在しにくくなっていくのです。
つまりは、マルセイユタロットでいえば「正義」で象徴される制約や規則のような状態から、不透明な「月」のようなものに変わるということです。
すると自分自身はますます愚者(自由)化していくようなことになるでしょう。(「愚者」と「月」の関連もあるのです)
いずれにしましても、まずは精神時間をどのようにとらえ、活用するのかということは、とても現実的にも重要であることがわかります。
簡単にいえば、内的・精神的なものの考え方・思い方の幅を増やし、多様なモノの見方を獲得することが、まずは鍵となってきます。
そのためにマルセイユタロットは使えるのです。
類友の法則とタロット
「類は友を呼ぶ」ということわざがあります。
私は、これは結構、真理に近いものではないかと思うことがあります。
最近では、いわゆる「類友の法則」などと略されて、スピリチュアルなことや願望実現、成功法則の手段・論拠に使われることもあります。
このことわざでいうところの「類」というのが、周波数や振動数、波動ということになるのかもしれませんし、もっと別なものであったり、総合的なことを指したりするのかもしれません。
例えば同じような性格・行動パターンということもあるでしょうし、収入や金銭的価値で計れる同じレベルということもあるでしょう。
とにかく同じ「たぐい」のものが引き寄せあったり、集まったりするわけです。
ですからそれは「人同士」だけではなく、人と現象(事柄)、現象と現象同士という場合もあるように思えますし、もっと言えば、見えないもの同士ということもあると考えています。
結局のところ、類が友を呼ぶのですから、逆説的に見れば、友を変えたければ自分の「類」を変えればよいということになります。
ここでいう「友」とは実際の仲間や友人というだけではなく、現象(環境や出来事、状況)と見てもよいです。
自分の類、つまり種類や属性を変えればよいのですから、それを具体的なもので表現すれば、仕事や土地、性格みたいなことになるかもしれません。
ただ、タロットでも言われていますが、外側のものを変えるより、まず内側のものを変えた方が実質的には早い場合があります。
そういう面を示唆しているという意味では、マルセイユタロットの大アルカナと小アルカナの構造はよくできていると思います。
内面というのは、いわゆる思考(考え方)とか、感情(におけるデータの見方・とらえ方)とかの部分になってくるわけです。
内面から変えるということは、例えれば「体癖」を直すというのに似ているかもしれません。
どこか体に不調や故障、あるいは無理に負担がかかっている部分があるので、それをかばったり、バランスを取ったりするために、変な癖がついてしまっている場合があります。
だから、いくら歩き方が変だからと歩行スタイルを修正したところで、根本原因が治っていないので、またぞろ、今の自分にとって楽なスタイルに戻るわけですが、それが「変な姿勢」で歩いているように見えるわけです。
従って、いくら外側の「類」を変えたところで、自分の根本やパターンが変化していない限り、またそれと合う「類」とつるむことになります。
まあ、ただ、外側からの影響が皆無というわけでもなく、例えば正しい姿勢で歩いているうちに、大元の原因のほうまで修正されてしまうようなことが、実際に身体でもありますので、これと同様に、環境や外側からのアプローチによる「類友変化」もあるとは考えられます。
さて、最初のほうにも書きましたが、「類友の法則」は、人同士や物質的範囲だけではなく、非物質的、いわゆる目に見えない領域までは適用されると思っています。
すでに思考や感情の話もしたので、これだけでも、目に見えない世界に入っていると言えないこともないのですが・・・
この場合の「目に見えない領域」というのは、いわゆるスピリチュアル的なものであり、エネルギーとか霊的な領域とかというイメージです。
いや、むしろ大元は実はこの領域にあり、現実・現象界においては、この映し姿が見えているだけなのではないかと思うこともあります。
まあ、照応のルールも考えられますから、この逆の、見える世界から見えない世界への影響もあるとは思います。
どちらにしても、スピリチュアル的といいますか、あえてファンタジー的な例えで言いますと、悪魔的な人には悪魔的なエネルギーや存在がつき、天使的な人には天使的な存在がサポートすると表現すればわかりやすいかもしれませんね。
また見えない世界の中でも類友法則が働き、見えないもの同士の同じ類のものと結びついていると想像できます。
ちょうど、見える世界と見えない世界のそれぞれに横のつながりとして類友法則が働き、さらには見える世界と見えない世界の縦の関係でも類友法則が働いているというようなクロス・十字的なイメージを持てば理解しやすいでしょう。
ただこれも類友法則ですから、自分が変われば、目に見えない存在やエネルギーの領域との関係も変わると考えられます。
要するに、自分の意識や心次第ということになるでしょうか。
やっかいなのは、現実の類友もそうですが、同じ類の中では自分の状態が客観的にわかりづらいということです。
周囲の皆が自分と似たような「類」ですから違いがわかりにくく、自分が異常な状態(何をもって異常か普通かも本当はわかりませんが)であっても、気がつきにくいのです。
犯罪をする人が犯罪者集団の中にいれば、それはそれで居心地がよく落ち着いているでしょうが、しかしそれは普通の人からすれば、おかしな、まさに犯罪する悪いグループや人たちという風に思います。
同じ類の中にいながら、自分の存在が浮いたり、なぜか違和感が出たりしてくると、それは自分の「類」と、今の仲間や集団・友人たちとの「類」の違いが出ている(出てきている)ということになります。
もしそれが自分の成長の足を引っ張っている類友集団であるのなら、それは今の類友からの脱出や、類友を変化させるチャンスになります。
もちろん反対もあって、本当は成長させてくれるグループにいながら、違和感を覚えて出てみると、新しい類友たちは、自分を堕落させる者たちだったということもあるわけです。
と言っても、とても大きな視点で見れば、すべては自分の選択であり、やはり自己成長のための必要な道筋であったり、魂の様々な経験のための必然選択であったりします。
反対のものを経験することでその逆のことを強く実感させるなどのことは、こういうパターンではよくあります。(だからといって、どちらかが正統でどちらかが悪いものという意味でもありません。拡大や幅を増やすというのが目的と考えてよいでしょう)
マルセイユタロットを使って類友を変調させる(自分を変化させる)ために使うこともできますが、類友の変化の兆し(それは自分の変化)をカードの象徴によって知ることもでき、あるタロットの並びの法則に、それは顕著に表されています。
またタロットの展開において、変調に関わるカードが出現したり、強く特定のカードの印象が意識されたりする時(これはカードの象徴と意味を知っておかないとできません)も、それはあなたの類友が変化する時であり、自己の成長に基本的には根ざしているものと考えることができます。
人生にただ翻弄されるのと、こうしてカードで指針を得ながら(象徴として自己の認識整理・統合しながら)進むのとでは、大きく違ってくるのです。
余談ですが、タロットの種類によっても類友法則が働き、例えばマルセイユタロットが好きな人と、他の種類のタロットが好きな人とでは、それぞれに人も同じ類の人が集まることが多いように感じます。
ですから、自分がこれまでとは違うほかのタロットを学習したいとか、興味を抱いてきたとかという場合は、自分の類が変わってきたことを意味することもあるのです。