タロットの使い方

タロットカードで決めることについて

タロットを扱う者として、素朴ながらも極めて重要な質問について考えてみたいと思います。

それは「タロットカードで物事を決めるか、どうか」です。

えっ、タロットは選択やイエス・ノーを決める時に使うのが当然なのでは・・・と一般的に思うかもしれません。

この方向に進んでよいのか? このセミナーを受けてよいのか? この人とつきあっていいのか? この仕事を選ぶべきなのか? こちらに引っ越しするのはOKか?・・・などなど。

タロットを使うということをイメージする場合、普通はこのような質問をタロットにして、タロットの展開や選ばれたカードに従って、方向性を決定するという感じになるでしょう。

それがタロット「占い」であり、タロットを活用することだ考えている人は多いと思います。

私もそれは間違いではなく、確かにそのようなタロットの使い道もあると考えています。

ところが、ここには落とし穴があります。

それはまずはタロットをどこまで信頼(信用)するかという問題です。

タロットについて知らない人、関心のない人、またはうさんくさいとか、占いは信用できないと考えている人には、タロット自体がただのカード、もしくは迷信・遊び道具の類だとしか思っていませんから、当然タロットで物事を決めるなんてことにも真剣には思わないでしょう。

もちろんそういう人は、「タロットがそちらの道がいいと示しているから、そちらにすべき」などと言われても、タロットが情報源として信頼できるものではないと考えていますので、重要な指針とはまったく見なさないはずです。

今のは極端な例ですが、つまりはタロットへの信頼度が、そのままその情報の取り扱いの重要度にもなってしまうということです。

もうひとつ、これが結構大切な視点ですが、もしタロットの示唆を実行して、それが結果的にまずいものであったり、不幸な形で終わったりした場合、タロットは間違ってるのではないかと疑いが出るということです。

反対にとてもよい結果を生んだり、まさに当たっていてその通りだったということもあり、つまりは当たる時もあれば当たらない時もあって、やればやるぼと自分の中でタロットに対する思いが混乱していく問題もありえます。

しかし、突き詰めてしまえば、当たらなかった場合の問題と言えます。

タロットに従ったのに、うまく行かなかった・・・この時が危険なのです。

ではなぜ当たらなかったのでしょうか。

その理由を見つけようとしても、そもそもタロットは科学的ではもちろんありませんし、理論的に納得ができないことが多いのも現実で、そうすると、結局、まさに「当たるも八卦、当たらないのも八卦」として思考や探求を放置・停止する状態になりかねません。知性の放棄と言ってもいいです。

これは、1.タロットが自分の現実の次元の選択において、正しいことを示してくれているはずと思い込んでいることに、ひとつの原因があり、

そしてもうひとつは、2.そもそもタロットの活用を、「吉凶判断」「未来予測」の二者択一レベルで、アテモノ判断に適用しようとしているところに問題があるのです。

1の場合は、タロットが示す「正しい情報」の次元と、自分の求める正しい情報の次元が食い違っていることがあるということです。

簡単に例えれば、自分はそれで満足するかもしれませんが、宇宙や神レベルでは、その選択には満足しないというギャップです。

まあ平たく言えば、結局は自分の都合のよい色メガネでもってタロットを解釈して、結果的には思ったほどではなかった、自分が期待したものではなかったという自己感覚と自己責任の問題みたいになります。

自己リーディングが難しいのは、利害関係・現実問題という「メガネ」をその場合にかけやすくなるためです。

他人リーディングは、言い方は悪いですが、しょせん「他人事」なので、利害関係や生々しいことを超越して、より天使的・神的に判断(つまりは客観的ということ)しやすくなるのです。

2は、アテモノや二者択一でタロットからの情報を判断しようとする限り、イエスを選択すればノーという答えが必ず存在するように、「どちらか」という問いには、純粋な意味では50%の確率で間違いが出ます

その観点からすれば、タロットであれ、何であれ、選択に必ず確率的には間違い(の選択)が起きます。

正確には、自分(やタロットリーダー)の判断(タロットの提示された情報をもとに下した判断)に間違いが出るということです。

いい・悪いにしても、タロットがどんな形で出たのであれ、1のことにも関係しますが、そこから判断を下すのは、自分の今の価値観、もしくは多くの人が思う「よい・悪い」の価値観に従った判断なのです。

もちろんタロットには出る位置や展開(並べ方・スプレッド)に意味があり、そこからの判断も大きいです。

とはいえ、それも「(スプレッドの意味を作った)人間が設定した」ものです。

例えばカードが正立で出たのがいい、逆位置で出たのが悪いという見方をする方法が一部ではありますが、それもそういう設定をあらかじめしていただけのことであり、正逆での「いい・悪い」設定をはずせば、判断もまた違ってきます。(ただし、展開での意味設定をして判断することは悪いことでなく、これをしないとタロットリーディングが成り立たない点もあります)

今まで述べてきたことを総合的に勘案して私が言えるのは、タロットリーディングやタロットの活用において、あまり二者択一的なこと、白・黒をつけたいことに中心的に使うのは止めたほうがいいということです。

やってはいけないいうことではありませんよ。ただ、したとしても、ひとつの情報として取り扱い、盲目的に奴隷のような態度にならないことです。そうしないと、逆にタロットの信頼性を失います。

問題を解決するということは、一見、どちらがいいかを選ぶことのように思うかもしれませんが、根本的に自分の選択の意味がわかっていないと、人や世間の価値観で自分の選択を決めてしまうか、自分の意志を持たずに依存的に何かに寄りかかって選択してしまうかになりがちです。

それではタロットを使う意味がありません。むしろ弊害と言ってもいいでしょう。

タロットは本来、自分に創造の力があり、それが神性なものに由来することを思い出す、回復させるためのものでなのですから。


人にタロットを当てはめることで。

最近は、タロットの、「占い使い」以外のことも多くの人に語られるようになってました。

そういったことを趣旨としてお伝えしている私としては、それはうれしいことです。

そして、これも、そうした方法のメジャーなものとして、よく知られていることになりましたが、「タロットカードで自分を見つめる」というものがあります。

だいたいは、大アルカナと呼ばれる22枚のカードを使用します。

簡単に言えば、自分の中に、タロットが表現する22枚の自分の心やエネルギー、表現方法があると見る向きです。

その具体的なやり方は、いろいろとありますし、教える人によっても違いますので、ここではふれません。

これは意外に簡単なようで難しいところもあるのです。しかしやれば自分のためには必ずなるでしょう。

一方、自分に向けるだけではなく、人に対してタロットを割り当てるということもできます。

リーディングにおいても、基本は出たカードに自分や人、状況を当てはめるということがありますので、人とカードを結びつけるのは、タロットにおいてはごく普通の方法です。

ですが、ここで述べているのは、自己分析することと実は同意のやり方なのです。

つまり、人にカードを当てはめることが、自分の中にカードを見るのと同じことになるということなのです。

例えば、22枚の大アルカナを一枚一枚、他人に当てはめて行きます。

22人もいないという人がいるかもしれませんが、知人だけではなく、とにかく見た人とか、芸能人でもいいので、知っている人を当てはめていきます。

そうすると22枚(人)の勢揃いした軍団(笑)ができあがります。

それはもう見事なものです。

この作業中、面白いことが起きます。一枚のカードに何人も当てはめやすいものがあると思えば、まったく当てはめる人物が思い浮かばないカードもあります。

その偏りは偶然ではありません。

当てはめる人物が多くなるカードは、それだけあなたになじみがあり、理解しているカードと言え、つまり自分自身が特徴的に持っている、もしくは欲しいと思っているエネルギー(表現)です。

当てはめにくいカードはその逆で、なじみがなく、違和感があったり、自分が表現できていなかったり、あるいは無自覚であったり、表現したくなかったりするものです。

まあ、どうしても22枚で多い場合は、7枚ずつくらい分けてもよいでしょう。

こうして作業していくと、結局のところ、あなたは自分自身を知ることになるのです。

シンプルな方法ですが、奥深いものです。

一度試してみてください。

あ、どの方法にしても、タロットのことは一応簡単でも象徴的に知っておかないと、使うことはできませんよね。

ちなみに、今なら新大阪で入門コースも募集しています
よ、と宣伝してみます。(笑)


潜在的リアリティの効果

タロット研究家でも有名な、映画監督アレハンドロ・ホドロフスキー氏はセラピストでもあります。

彼の行うものに「サイコマジック」と言って、魔術的ともいえる一見荒唐無稽な行為をすることによって、クライアントの潜在意識にその「儀式」を到達させ、今起きている問題や悩みを治療していくというものがあります。

現代の常識的な目線の私たちからすると、それはまるで不思議で滑稽とも言える、まさしくマジックのような「儀式」なのですが、その非常識とも思える行為が、本人にとっては心理的(霊的)に有効になるというのも興味深いところです。

ここで考えられるのは、見た目や表面的意識でとらえている事柄よりも、特に心理的な問題については、そのエネルギーや本質が重要であるということです。

言い換えれば客観的な事実ではなく、主観的な思い込み、ダメージ、傷、印象・・・などが実際に何かの影響を外側の現実に引き起こすわけです。

しかし、原因が単なる本人の思い込みや感覚だけではないのが難しいところです。このあたりがアカデミズムの心理学的なアプローチの限界ではないかと感じております。(決して否定しているわけではありません、むしろ認めているがこそです)

例えば、ホドロフスキー氏のサイコマジックを受けた人の事例では、世代に伝わった心理的トラウマや強い思念の影響(もはや霊的と言ってもよいもの)も伺えたからです。

さすがに世代を越えてくるものには、なかなか常識的なアプローチでは要因を発見することは難しいでしょう。

親やそのまた親とかなら、ある程度はわかることもあるでしょうが、もっと長く引き継がれていたものも存在し、それはなかなかわかりにくいです。いわゆるこうしたものが「因縁」と呼ばれているものでしょう。

ここに、ひとつのデータや記憶庫のようなものを想定してみると、少し理解のヒントが得られる気がます。

おそらく私たちは肉体のどこかに、見た目だけではない、先祖から受け継ぐ情報をデータとして持っているのだと想像できます。

しかしデータはあくまでデータであるので、それが本人に影響を及ぼすかどうかは、本人の置かれた環境や生じた事件、環境設定、一定の条件などで変わり、発動も変化すると考えられます。

この点が、誰もが先祖からの影響を受けるわけではないことの理由にもなる気がします。

影響が発動しやすい条件とは、ひとつ考えられるのは、その元のデータが書き込まれた起因となったもの、すなわち先祖の人と同様な状態です。

例えば、同じ女性であるとか、職場や学校での嫌な気分になった状態が同じ(時代が違っても、本質的なものが同じ)とか、子供の数や性別・順序、子供が出生した時のご主人の態度や言葉など・・・そうした感じのものです。

つまり、もっといえば、データの影響が発動するのは、潜在意識的に事実・リアルだと認識した時と言えましょう。

潜在意識的に事実だというのは、例えばホラー映画を見て恐怖を感じたとしても、普通は「映画」だと思っていますので、映画館から出れば元に戻りますが、映画を映画だと思わず、目の前の映像が本当のことだと錯覚している状況、あるいはあまりに映画の印象が強くて、外に出ても映画のことが忘れられず、いつも恐怖に苛まされているような状態です。

潜在意識にリアリティを感じさせるのは、論理や常識だけでは難しく、強い感覚や感情、インパクトある出来事、特殊な音とか形から生ずるある種のエネルギー、似たような環境設定などです。

神や仏の奇蹟というのも、一部はこうした潜在意識のデータに届くような印象深い出来事だと、本人の潜在意識が「事実」的に確認したからこそ、スイッチが入ったものだと考えられます。

よくマルセイユタロットリーディングで、カードを見ただけで癒されるとか、展開しただけで物事の進展が早くなったとか言われるのは、マルセイユタロットの絵柄に、特別な形状と色などの効果があるよう作られているからだと言えます。

もっとも、マルセイユタロット以外のタロットでも、ほかのセラピーカードの類でも、本人の潜在意識的にリアリティを感じていれば、効果は高くなると思います。

ただマルセイユタロットには、ほかにはない形の理由があります。

結局のところ、カードでも何でも、本人の奥底のデータに届くインパクトがあれば、問題の解決や解消、変化に影響するのだということです。

それが常識や見た目のこと、表面的な言葉のようなものでは判断がつかず、本人にすらそれが適切かどうかも判定しにくいものなのです。

ですから、突拍子もないアドバイスであっても、本人にはそれが解決の糸口になることもあるのです。

それが「象徴行為」というものです。

失恋した人が髪を切る、旅に出る、思い出の品を捨てたり燃やしたりする、そういう象徴行為が、本人的には「恋の終わり」と「自己の再生」を潜在的に象徴させ、実際に効果が現実として反映されるのです。

そんな行為がばかばかしい、真実味もないと思う人には、当然効果はほとんどないものとなります。

ところが、今回の記事の肝になりますが、そう思っていても、本人の潜在意識では、その行為にリアリティある場合は効くのです。

口で言っていたり、本人が表面的に思っていることだけではわからないのが、相談の世界では多々あるのです。


人間関係とマルセイユタロット

まず、お知らせですが、マルセイユタロット基礎講座神戸教室
の早期お申込み割引は、今月末までです。

それから新大阪教室は土日ベースの月ワンセットを3回で、合計6日間で10月からの開催を検討いたしております。ただ、神戸はすでに開講決定しておりますので、そちらのほうが確実です。

タロット講座はタロットの秘められた象徴の知識が得られるだけではなく、リーディング演習を繰り返すこで(講師からの解説がもちろんあります)、自分の課題とも向き合うことになり、自身の抱えている問題の解決、自己発展、人に癒しやサポートをしていく仕事へ踏み出すきっかけなどにも役立てることができます。

さて、本日の記事です。

マルセイユタロットは一言で言えば、宇宙やこの世界、人間のモデル・縮図・構図として描かれているものだと私は考えています。

ゆえにマルセイユタロットをそのものが世界であるわけです。この仕組みが頭と心でわからないと(つまり理論と実感)、なかなかマルセイユタロットへの信頼がおきません。

例えば意味を理解しても、自分にとって衝撃的ともいえるタロットの展開と実際の体験が結びつくようなことがないと、今ひとつ「生き物」的な感じがしません。(タロットは物理的にはカードですが、象徴的に生き物でもあります)

逆に、「うわー、タロットって本当に自分のことが出るんだ!」とか、「いやー、タロットはすごいよね、このカードでこのことが描かれているんだから」と驚くようなことがあっても、その体験が自分だけに留まらず、いわば全体や宇宙を貫いているかのような法則性・普遍性まで気がつかないと、本当の意味でのタロットを識ることにはならないでしょう。

そのようなタロット的考察でもって人間を見ていきますと、面白いことに気がついてきます。

タロットが人の共通の元型を象徴しているとするのなら、人はタロットカードに表される22枚と56枚のパターンを持ちます。(タロットをする人で22枚の大アルカナだけでよいという人もいますが、私は78枚すべてで考察しない成立しえないものと考えています、ただしタロットリーディングにおいて、必ずしも全部使用しなくてはならないという意味ではありません)

すると、結局、人は違っても全員同じ部分を持つという、よく言われる当たり前のことが理解できます。

同時に、ここがとても大切なことですが、全員同じではあっても、まったく同じ表現の人はいないということです。

カードで言えば強弱解釈であったり、位置の正逆であったり、展開した場合は出るカードの違いであったりすることで表されるでしょう。

そして人というものは、トータルでは同じものを誰しも持ちながら、自己表現ではそれぞれが全然異なるので、意見の食い違いや価値観の相違、好き嫌い、争いなどが生じると考えられます。同時にそれがまた魅力や関心、引き合うこと、多様さにつながっています。

ここで、だから自分と人との同じ部分を見ていき争いをなくしましょう・・・という主張をするつもりはありません。(それも悪いことではありませんが) 

人とのことより、まずは自分の構造を知る方が重要です。

そして対人関係においては、その人をトータルで見ようとする時と、一部(表現)で見ようとする場合とを区別したほうが現実的です。

大アルカナと小アルカナでいえば、大は同じで小の使いこなし方が異なると言ってもいいかもしれません。

対人関係の問題のひとつは、他人をトータルに見ようとし過ぎることと、逆に表現や価値観が同じ、あるいは違うとして、一部を強調し、その人を曲解して見ていることにあると言えます。

トータルで見ようとし過ぎるというのは、誰しも全部を他人には見せていないのに(本人ですら、全部ということがわからないのに)、全部だと誤解していることです。

タロットでいえば、78枚のカード全部を使ってあなたといつも対してはいませんよ、となります。Aさんには14枚、Bさんには8枚ということもあるわけです。また同じ枚数であって、カード種が異なります。

ですから、あなたの見ている誰それさんは、ほかの人の前で表現が変わり、極端にいえば別人のようにふるまっていることもあるわけです。

家族でも父親や母親としての部分、自分が子供の立場としての部分、兄弟関係での自分、職場では上司の部分、部下の部分、同僚としての部分、はたまた友人や趣味仲間と過ごしている時の自分・・・パーソナリティとしては各種自然に演じ分けているのです。

従って、人には表や裏を含めて様々にあると思えば、人格や行動すべてが自分のイメージ通りの人であるということはまずありえず、自分の見たい投影像が表されているのだと思うことで、あなたの知らない、あるいはイメージや理想とかけ離れたふるまいをその人に見たとしても、動揺が少なくなるわけです。

そして、自分が信頼したり、尊敬したりする人は、自分が持っている部分でもあり、表現したいものだということに気がつきます。(逆もまた然りで、嫌っている人にはその逆となります)

あと、一部だけを強調して見ようとすることも然りで、人はトータルにはタロットカード的に言えば78枚あるところ、私はあの人に「戦車」しか見ないとか、「星」があるから大好き、「悪魔」の部分があるから嫌だというような見方をすることであり、まさにその人の一部が好き・もしくは嫌いなだけで、それが極端になりすぎると、人というよりモノのようにその人を見ていることになります。

言い方を変えれば、その人自身ではなく、その人の持つ機能や所有物に興味や関心があるということになりますね。

ということは、それがなくなると、その人の魅力も失い、こんなはずではなかったと思うことにります。(反対に一部だけがものすごく強調されて、他の場面でのその人を想像することができず、鼻から嫌悪している場合もあります)

タロットは象徴なので多層な読み方ができますが、人間関係に特化して読み解くと、カードの枚数と象徴によって、非常に興味深いことがわかり、さらには改善方法(改善とは必ずしも、相手と仲良くなることだけを意味するのではありません)を見ることもできます。

それはタロットが全部をもって「人」を表しているからなのです。いや、おかしな言い方に聞こえるかもしれませんが、「人」が「タロット」をも表しているのです。


タロットによる世界移行

マルセイユタロットを学ぶことは、実は信じることと疑うことの両方を意味します。

そもそも、タロットを信じるかどうかという、出発の時点からして問題です。

タロットなんかを信じている人は、バカだと一般の人は思うかもしれません。

占いや狭義のスピリチュアルにかぶれた盲信・迷信のカードでしかないと。

おかしなことを言うようですが、タロットを教える私も、そうだと思っているのです。(笑)

いえ正しくは、そうだと思う自分も存在する、あるいは言い方を変えれば、そうだと思う次元に位置することもできるということです。

ですから、もちろんタロットを信じ、信頼している自分も存在します。

私は基本的にタロットを信じている次元に自分を行かせて(生かせて・活かせて)います。タロットを信じずしてタロットを扱えませんし、タロットを教えるなんて、もってのほかです。

しかしながら、タロットを信じない世界があることも受け入れているということです。

正直言いまして、タロットを信じるかどうかは、ほぼ突き詰めてしまえば宗教的感覚に近く、われわれが普通信じる科学と、現実的理解のもとでは、タロットが正しいかどうかなど、証明することは難しいです。

むしろ、間違っている、迷信と断定されるように持って行かれることでしょう。

言ってしまえば、タロットを信じる・信じないは、住む世界の違いなのです。

ですから、同じ土俵(世界内)で議論しても始まらないし、終わらないのです。

さて、幸か不幸か(^_^;)、タロットを信じない世界から信じる世界に移行してきた人は、ここでめでたく(笑)、新たな葛藤の世界にも足を踏み入れることになります。

「めでたく」と言ったのは、この過程をうまく通り過ぎると、すばらしいことが待っているからです。

葛藤(混乱でもある)は、次元移行をスムースに切り替えられないことから起こります。タロット学習の初期には多いことです。

(タロットの世界を)感性で理解しようとしたり、論理で納得させようとしたり、それはもう迷い道です。

ただ、いずれにしても、今まで生きてきた世界の感覚や知識のもとに凝り固まっていては、なかなかタロットの世界を理解することはできません。

タロットはそれだけを見れば、紙に絵が描かれた、ただのカードですが、そのカードに、ある種の意味や象徴を見るのがタロットの活用であり、その状態は物理的な紙を超えた何かとして、別の存在になっています。

これは、現実の形を見ながら、その形そのものとして見ないことでもあります。

現実(と思うもの)を見ながら、そうでないものも見る(思考する、感じる)。この作業をタロットで行っているわけです。

もし、「カードは、あくまでカードに過ぎないじゃないですか、何の意味があるんですか?」と考えるだけなら、その人は普通の常識・現実世界にいる状態になっています。いわゆる「見たまま」の把握です。

ところが別の見方や考え方をもって見ますと、カードはカードではなくなります。

そのためには、カードに描かれた象徴の知識と、自己の感性も交えた直観的洞察が必要です。これが、タロットの世界への次元移行の鍵となります。

ギリシア時代の哲学者プラトン流に言えば、現実のものを見ながらも、その本質そのものであるイデアを観照するということになるでしょう。

イデアを見ようとせずに、ただそのままの世界(カードだけ)を見ても、本質は理解できません。起こっている現象に振り回されるだけです。

タロットを知ることで、常識的・現実的枠の中の見方と、イデアを志向する見方との間で葛藤が起き、時には現実逃避になったり、反対にリアリズムを極端に追求したりする振り子が揺れるようになります。

ところがそれは、タロット的(の理解)には、正しい道を進んでいると言えます。

ふたつの間の世界移行の最中では、葛藤や迷いが生じるのが当たり前だからです。

理想はその両者間の統合や、自在に世界を行ったり来たりできる制御です。これはマルセイユタロットの「力」や「戦車」に関係します。

タロットの世界になじんできた時、モノの見方は確実に変わりますし、別の世界があることを知ります。

その目をもって、優れた芸術や映画・映像などの創作された作品を見ますと、リアリティ(現実感・個人としての実在)を自分の中に感じることができます。

創造や空想のものなのに、現実感を得ることができるのです。

それは逆に、現実の中にも、実は空虚なものもあることが、よりわかってくるようになります。

こうした関係に理解が進むと、非現実(創作の世界)が現実にも効果を及ぼすことに気がついてきます。

これが次元移行をタロットで繰り返して行くことの、ひとつの効果です。


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