タロットの使い方
私たちは緊張し過ぎている。
知り合いのタロット仲間の人で、お坊さんの方がいらっしゃいます。
その人はいろいろな知識も深い方ですが、身体的な面でも強く、台湾で太極拳も修めていらっしゃいました。
私がこの方のお家に訪問した時、太極拳的な身体の使い方を少しだけ教えてもらったのですが、その際、脱力することの重要さを、実践とともにお話されました。
「宮岡さんは力が入りすぎていますよ、もっと力を抜いてみてください」
と、私の腕を持って言われるのですが、私は自分では力を抜いているつもりでも、お坊さんは、
「まだまだ、全然力が入っています」と指摘されます。
実際に体験してもらうしかないとお坊さんは思われたのか、
「じゃ、私が脱力した状態というのをやってみますから、私の腕、持っていてください」
と、立場を逆にして、私の前に腕を差し出しました。
「いいですか、行きますよ」
お坊さんは一気に腕の力を抜かれます。
その瞬間、ものすごい重みを感じて、私はお坊さんの腕を支えきれなくなり、手を放してしまいました。
「そうなるんですよ、本当に力を抜いたら」
驚いている私を見て、お坊さんは言われました。
この時、私はいかに自分が力を入れたままにしているかを悟ったわけです。
思えば、現代社会、いつも私たちは緊張状態に置かれているようなものです。
緊張すれば、身体は当然身構えて硬く(固く)なり、柔軟性を失います。
また力をずっと込めているので、どこかに負担がかかり続けるのも当たり前です。
緊張した人に声をかけたり、動くことを要求したりするとどうでしょうか?
その人はおそらく態度はぎこちなく、場合によっては怒って(怒り気味に)返答されることもあるでしょう。
そう、緊張すると、スムースな行動ができなくなるばかりでなく、怒りやすくなるということも重要です。
それは怒りの感情を持つ時、私たちは身体が攻撃や防御の反応へと準備するため、緊張した状態になるからだと考えられます。
鶏が先が、卵が先かみたいな話ですが、怒りと緊張は密接な関係があると思います。
翻って考えてみますと、さきほど私は現代は緊張状態に常に置かれていると指摘しました。
簡単に言えば、刺激の多い世界なのです。緊張というのは、刺激によって起こるケースが少なくありません。
刺激と緊張は興奮状態にも通じます。つまり、悪いことで緊張するだけではなく、ポジティブに興味あること、興奮することでも緊張するわけです。
今は、緩めたり脱力したりする弛緩の働きが、絶対的に弱く、少ない時代だと言えます。
あまりの緊張に、弛緩の効果を逆に求めすぎるがゆえに、劇的な弛緩に向かい、それがかえって過度の快楽を欲しがることにつながっています。
私たちはメリハリのない時空間に放り込まれているようなものなのです。
先述したように、緊張と怒りは結びついていますので、怒りがエネルギーを消費し、いろいろな弊害をもたらせます。
よって、緊張を解く必要性は、怒り(の浄化・緩和)からの観点でも言えます。今の私たちは、意識的に自分から脱力の機会を作らねばなりません。
心の脱力や弛緩は、最近はよく言われるのですが、身体・肉体から入る方法もあるでしょう。
私は整体に行っている経験から、意外にも、身体からのほうがアプローチがしやいこともあると感じています。
単純に運動やウォーキングなどでもよいでしょうし、身体と心が連動していくようなメソッド(ヨガなど)を利用するのもよいでしょう。
マルセイユタロットならば、「愚者」や「吊るし」が関係してくると思います。
とにかく、何かイライラしている感じがあったり、腹が立ちやすいことがよく生じたりする場合は、自分でも他人でも、緊張が働いていないかを確認してみるとよいでしょう。
本当に自分でも気がついていないほど、普段から私たちは力を入れすぎて、緊張しているのです。それはもう、びっくりするくらいの「力」です。そりゃ、自分の身体も精神も壊れるよな、と思うほどのものです。
完璧主義の人や不安の高い人は特に緊張が多いので(私ももともとそういうタイプです)、普段に力を込めすぎていて、パワーを浪費していることに気がついたほうがよいでしょう。緊張するパワーにほとんど使っているので、疲れやすいのも当たり前なのです。
ちなみにタロットになじんできますと、タロットの絵柄からのエネルギーでも力を抜かせることができるようになります。(反対に緊張させることもできます。緊張も弛緩も、それは単に状態であって、よいも悪いもありません。バランスや意味づけ、選択の問題です)
脱力すれば力は戻る、矛盾するようですが、ある意味、真理ですね。
潜在意識に到達したかどうか。
昨日は蟹座の新月でした。
蟹座と月と言えば、マルセイユタロットでは「月」のカードがイメージされます。
占星術上でも、蟹座と月は密接な関係にありますが、奇しくもそのまま月とカニ(ザリガニのような甲殻類)が描かれているのがタロットの「月」のカードです。
この理由(月とカニの関係)を探っていくと、非常に奥深いものがあり、単なるリズムや周期・本能的なものだけではないことが感じ取れます。
しかし、なかなか言葉では説明しづらいもので、一人一人がタロットを見ながら、自分の心で受け取っていくしかないものだと私は思います。(もちろん象徴の意味は最初に知識として入れての上です)
さてこうして「月」のカードを見ていると、何かしらまた新たに伝わってくるものがあります。
今日は出てきたのは「潜在意識」についてでした。
余談ですが、このようにマルセイユタロットは、自分の蓄積した知識や経験、さらには人類が集合投影させているイメージもカードの象徴として組み合わせることで、まるで自分自身と問答しながら、別の人と心で会話してメッセージを受け取ったり、自分の考えを整理して行ったりするような働きを見ることがあります。
それはさておき、「月」が示したのは、潜在意識に浸透したかどうかの確認の点でした。
まあ、ここで言う潜在意識というのも、実は不確かなもので、マルセイユタロットの「月」のカードに描かれている「水たまり」のように波を打ち、顕在(表面)意識と呼ばれるものと、どこで線が引けるかとなると難しいものではあります。
またそもそも潜在意識と一言で言っても、それは多層になっていることがあり、どの層を表すのかも一概には言えません。
しかもよく言われるように、真の意味では潜在意識が力(パワーではなくフォース)を持つというわれますが、それも、どのあたりまで力があるのか、現代ではまだ科学的にわかるわけではないと思います。
ということで、あくまで推測の範囲、イメージや想像でのものとお考えいただき、ここの仮定として、私たちが普段意識している表の意識とは別に裏の意識層があり、それは普段の思考で気がつかないけれども、全人格的意識(通常意識だけではない、高次や低次も含む一人の人間にある多様な全体意識)ではとらえることのできるものがあるとしておきます。
そして裏の意識は物事を実現化させたり、表面化させたりするのに多大な影響力を持っている(いわゆるブログラミングの力を持つ)と設定しておきます。
ということは、自分を変えたければ、裏の意識・潜在意識までその意志が伝わらないといけないということになります。(反対に悪癖や習慣も、潜在意識にそれをさせる何かがあると見ます)
意志が伝わるというより、潜在意識のほうで今まで働いていたプログラムを変更するようなエネルギーの組み替えが行われるような状態になる必要があると言ったほうがいいかもしれません。
それで、そうなった(潜在意識まで浸透したか)かどうかを調べる単純な顕在意識(表の意識側の)判断は、実際に物事が変化してきたかということになると思います。
つまり、潜在意識まで顕在意識の思いが伝わる(浸透した)かは、自分の外の実際の変化を見ればよいということです。
潜在意識に力・フォースがあるとするのなら、そういうことになります。
従って、潜在意識への働きかけには、「浸透」が重要なキーワードになります。
浸透する、染みわたる(これも象徴的表現です)ためにはどうすればよいでしょうか?
すぐ思い浮かぶのは「繰り返し」「反復」です。ずっと続けていれば、少しずつでもいつかは到達するでしょう。
あとは少ない回数でも衝撃やインパクトということになるでしょうか。これはマイナス的ではトラウマということで言い表せるかもしれません。反対に、よいこともインパクトがあれば、浸透する可能性は高いです。
しかし、衝撃の方法は必ずしも顕在意識の思っような影響で浸透するとは限らず、それだけ強い刺激ならば、エネルギーの組み替えやプログラミングに何か傷がつくことも危惧されます。
安全に浸透させるためには、少しずつやっていくのがよいと思えます。
ただ何でもいいということではなく、まず顕在(表面)意識が納得(思考と感情の納得)することは当たり前の前提であり、そして浸透しやすいということであるならば、「水」のようなものがイメージされます。
「水」のようなものというのは、これも象徴で、まさしくイメージや図像、音声などの響き、場合によっては感覚的なもの、感情を刺激するものとなるでしょう。またその人がもともと納得しやすい、腑に落ちやすいと思う方法です。
腑に落ちるためには、人によって4タイプの個性がありますので、誰かがよいという方法でも、自分では合わないこともあります。ここはとても大事なことです。
そうしていくうちに、潜在意識に顕在意識の思いが浸透し(すべて受け入れられるわけではないのですが)、外の実際の変化(自分の行動や環境の変化)によって、その到達具合、プログラムの変容状況を判断することができるでしょう。
逆に言えば、何かをやっていても一向に外(または自分)が変わらないというのは、潜在意識で変えられないルールにふれていたり、潜在意識まで浸透していなかったり(まだ続ける時間が必要であったり)の状態であるということです。
また自分には浸透しにくいツールや方法である場合もあります。
心や潜在意識への働きかけによって自分を変えたいという人には、現実(実際)をよく観察すると効果的です。
神殿になるもの。
マルセイユタロット講座に来てくれた方には秘伝や口伝としてお伝えしていますが、マルセイユタロットカード自体、特別な図案でもって構成され、それそのものが神殿といっていいものになっています。
これが他のカードと決定的に違うところでもあるのですが、見た目はむしろ、マルセイユタロットが平板で拙い絵のように見える人もいるかもしれません。
これは意図的なものです。その理由も講座ではお話しています。
今日はそれに関連したお話です。
神殿というと、あなたは何を思い浮かべますか?
異国の荘厳な施設、宗教センターといったところでしょうか。
言葉の原義的にも、「神の住まう(神のエネルギーの宿る)場所」ということになります。
ちなみにマルセイユタロットには、「LA ・MAISON ・DIEV」と書かれた、文字通り「神の家」というカードもあります。(ただフランス語を知っている人には、これはおかしいと気がつくでしょうが、実はそれも意図的なものです)
神殿は、あえて低いレベルでいえば、今風のパワースポットでもあるということです。
しかし、パワースポットというと、あたかも、その場所からエネルギーのようなものが流れ出ているというようなイメージでとらえられるでしょうが(これはカードでいえば「星」に近いでしょう)、神殿的なパワースポットでは、ちょっと違います。
これはあくまで、マルセイユタロットから導き出した私の推測ですが、神殿は、もちろんその土地にも意味があると考えられますが、それよりもむしろ、神殿そのものの設計・構造が重要なのではないかということです。自然というより、人工的なものも入るのです。
言い換えれば、神殿はもある特殊な構造・作り・設計になっているので、神のパワーが宿るようになっているということです。
スピリチュアルの世界では、「心が変われば世界(現実)も変わる」ということがよく言われますが、その逆もまたしかりで、形が変われば心も変わるということが想定できます。
私たちは日常でも、移動したり、旅したり、引っ越ししたりして、住居や過ごす場所を変えます。
その時は印象や文化・雰囲気の違いで心が動かされますが、その場所や建物からの影響もあると考えられます。
中国ではこれを「風水」として、体系的にひとつの学問や実践的な現実変容の手段として使っていますよね。
言わば、私たちが属する空間は少なからず、自分の内に影響を及ぼすといいうことです。
では、もっとも身近な「心に関係する」空間は何だと思いますか?
それは自分の肉体です。肉体は心や魂を包み込んでいるものであり、とても緻密で高度にできています。
つまり、肉体も神殿なのです。例えば、有名な話ですが、手足を広げると、肉体は五芒星をきちんと描きます。
ということは、肉体を大切にし、肉体がある種のエネルギー的に覚醒すると、本当に神殿として機能するのだということになります。(肉体と精神を交流させる高次の性にもつながります)
古代では外部の神殿と自分の肉体の神殿とを共鳴させることによって、まさに自分の内なる神を呼び起こさせ、高次の意識に至ったと理解できます。
その共鳴の仕方や外部神殿の建築方法には秘儀・秘密があったと想像できます。
マルセイユタロットを研究していくと、こうしたものに関係していることが、ほかならぬ画像そのものによって証明されてきます。
こういうところが、マルセイユタロットの非常に奥深く、興味深いところのひとつなのです。
混沌とした中に秩序を見る。
混沌として秩序のない世界という状態があります。
不思議なことに、いや、むしろ当然なのかもしれませんが、自分の心が落ち着いていない時は、外の世界もぐちゃぐちゃになって整っていないかのような感覚を覚えることは多いものです。
その逆もあって、新しいところや慣れない場所では、環境的に落ち着かず、心も混乱しているように感じます。
スピリチュアル的に内も外もつながっているのだと考えるまでもなく、自然に人間は環境と心がリンクしてしまうようになっています。
ただし、よく考えてみると、結局、自分がどう感じているか? どう思っているのかで落ち着きや安心、安定感は変わると言ってもよいので、ここが唯心論(唯一、心あるのみの考え方)の、また根拠になっているようにも思います。
とはいえ、あまりに自分のいる環境が酷で大変なものであれば、普通の人は平静に保ってなどいられないのが当たり前でしょうから、心ですべて決まると言うのにも無理があります。
食べ物も水もない状況で、心身ともに平常でいられるような人はまずいません。幸いか、あるいは不幸か、人は肉体を持った文字通り「具体的」な存在でもあるからです。
ですから、心と物質的なものとのバランスを見たり、どちらも大事だとしたりするほうがいいと言えます。安心や幸せに、ふたつ保険をかけるようなものでもあるからです。
ただ、どちらも弱かったり、資源としての力(簡単にいえば懐の深さ・大きさのようなもの)が少なかったりすると、その保険もすぐ切れてしまいます。
心理的にいろいろな考えを許容していけるレベルの拡大をしておくか、物質的に豊かにしておくか、そのふたつの力が増せば、かなりその人の感じる幸せ度は高くなり、アクシデントがあっても、うまく乗り切ることの出来る確率は上がるでしょう。
さて、最初に戻ります。
これは心の豊かさのほうにつながっていくことになりますが、世の中や世界が混沌として無秩序(自分にとって無意味)であると思っているか、反対に秩序あり、自分にとって意味と理由があるものだと認識できるかの違いによって、まったく生きる力が変わってきます。
最初にも述べたように、混沌の中では不安も高まり、居づらさを感じるものです。逆に整った環境では安心できます。
また、世界には法則があり、自分もある大きな法則性のもとに生かされており、自らの人生は一見ランダムに起こるイベントの中でふりまわされて生きているように見えて、実はそれらがすべてつながっており、意味あるものだと感じることができれば、自分の存在感が強くなります。
同時に、自分というものが自分でありながら、大きなものの一部であるという感覚も得ます。
この世界はめちゃくちゃな世の中で、ただ偶然生まれて生きているに過ぎないと思うのと、世界には統一された秩序があり、自分は必然に存在し、だからこそ人生には価値があるのだと思うのとでは、すべてが異なって見えてくるのはわかると思います。
全部に意味を見い出せなくても、そう感じようとする意識になったり、一部でも驚くような必然性に気がついたりするだけでも、今までの世界観は変わります。
しかしながら、混沌とした中で秩序や法則性を見つけて、意味あるストーリーにしていくのは難しいところもあります。
実はマルセイユタロットを知ると、これができてくるようになるのです。
それはタロットが一見デタラメに作られているようで、ある法則性と統一性をもって描かれ、さらに一枚とグループ、そして全体へと構成されているからです。
これは宇宙そのもののモデルと言ってもよく、ある種のパターンや物語を典型的に象徴しています。
神話や伝説が、結構人の心をとらえるのも、それが民族的かつ人類の全体的パターンを踏襲しているからです。
そして、ここが大事な点ですが、その型が自分(個人)の中にもあり、自分が勇者であったり、お姫様であったり、老賢人であったりすることを無意識の中で感じる(その魅力や能力が自分にもあることを感じている、その部分を響かせている)ようになっているのです。
何か混乱にあるものをまとめていく(把握する)には、グルーピングしたり、型やパターンにあてはめて分析する方法があります。
それと似たようなもので、タロットに描かれる規則性・法則性を自分にあてはめてみることで、乱雑で無意味のように思えた自分の人生や世の中の出来事に、必然性を見い出していくことができます。
それはマルセイユタロットが、体系的(システム的)に象徴化されているツールだからできることなのです。
こうして、実は世の中は象徴に満ちあふれていることに気がつきます。
いや、言い方を換えれば、象徴で見る世界と普通の感覚で見る世界とのふたつがあることに気がつくと言ってもよいでしょう。
このことは非常に重要なことです。マルセイユタロットの「愚者」になることは、それを表していると言ってもよいくらいです。
なぜ重要なのかは、また機会を改めて書いてみたいと思います。
三つの世界意識
マルセイユタロットを通していろいろな考察ができるのですが、その代表的なものに、世界観の考察(洞察に近い)というものがあります。
私たちには普段意識はしていませんが、大きくわけて三つの世界観があるように感じられます。それはまた、マルセイユタロットでも表現されていることです。
その三つとは以下のものです。
●個人的な意識(私)
●社会的な意識(公)
●宇宙的な意識(全)
もちろん細かく分ければもっとたくさんありますし、一概には言えないところではありますが、タロットから見るとこうなってきます。
それぞれ簡単に説明しますと、かっこ書きで表している単語がその階層をよく示しているのですが、まず個人的な意識というのは文字通り、自分というものを強く感じている意識です。
ある面、わがまま意識と言ってもよいでしょう。その認識する世界はとても狭く、自分のためというのが第一の価値となります。しかしながら、ここをよくわかっていないと、自分が何者であり、どのような個性や特性をもっているのかわからず、迷いがちの人生ともなります。
二番目は社会や外に向けて拡大した(拡大する必要のある)意識で、人間社会で生きている限り、この意識を持たないわけにはいきません。なかなか心理的にも重要な意識と言えます。
ポジティブに見れば、世のため人のための意識といえますが、ここがあまりにも強いと、自己犠牲が行き過ぎたり、組織に縛られたり、自分ではなく人の人生を生きようとしたりしてしまいます。
三番目は全体意識であり、すべてのものはひとつという、いわゆる「ワンネス」的な境地です。この意識に至ると、ほとんどの問題は消え失せ、愛に包まれる状態になるでしょう。
反面、抽象的であるがために具体性に欠け、個別の問題に対処できなかったり、すべては同じように発展していくものという幻想にとらわれやすくなったりもします。(ただし本当の全意識に至っている場合は、幻想にとらわれることはないと考えられます、あくまで概念上で見る「全体意識」でのことです)
実は、私たちはこの現実世界で生きているうえでは、肉体的、精神的、霊的な存在(を同時に生きている状態)であると考えられますので、この三つのすべての意識はどれが優れているとか、どれでなければならないとかではないと言えます。
重要なのは、この三つを通して共通の意識で動くということです。
共通と言っても、3世界を全く同じアイデアややり方で生きなさいというのではありません。それぞれ表現方法は違えど、一本の芯が通っているような共通のものを持ちましょうということです。
いわば三世界にわたって、どれも理屈が通る生き方をするということです。
自分のやっていること(やろうとしていること)が、自分のためであり、世のため人のためであり、宇宙のためであるという見通しと確信が得られれば、それが一番強力なわけです。なせならば、三世界(三つの自分自身)の合意できるからです。
すべての考えや行動に、この三世界の合意がなければならないとは言いませんが、せめて自分の生きる目的(使命のようなもの)は、筋を全部に通しておくことが望ましいでしょう。
その筋の通し方、あるいは合意形成ができるアイデアは、マルセイユタロットならばとても作りやすい(発見しやすい)のです。そもそもが、そのためにできていると言ってもよいところがマルセイユタロットにはあるからです。
人は、自分のためだけに生きていてもその人生はつまらなく、充実感や輝きを感じられないでしょう。
また宇宙や社会のためと言って生きていても、自己の存在が希薄になったり、特に肉体的・物質的満足感・達成感は得られにくかったりします。
両方(もっと言えば、三つ)あっての真の生き甲斐感といえるでしょう。
さらに、4つの目の世界観がタロットにはあるのですが、それはタロット講座などでお伝えします。