タロットの使い方

タロットに描かれる動作

安倍元首相が凶弾でお亡くなりになるという衝撃的ニュースで、日本が騒然としています。長期政権を担った元首相の方ということで、様々な憶測があるでしょうが、今はとにかく、ご冥福をお祈り申し上げたいと存じます。

ただ、奈良という、いにしえの土地で、直接的関係はないにしても、安倍姓の方が倒れられたというのは、何か日本において特別なもの(警告)を感じさせる気はいたします。私たちも心して、これからの時代、生きて行く必要があるのかもしれません。

さて、今日はマルセイユタロットにおける(描かれ、象徴される)動き(動作や姿勢)というものにふれたいと思います。

マルセイユタロットに限らず、伝統的な流れを汲むタロットの構成は、大アルカナ、小アルカナに大別され、さらに小アルカナにおいても、宮廷(コート)カード、数カード(スート、数札)に分かれます。

マルセイユタロットの場合、大アルカナと宮廷カードは、ほぼ同じ図柄のニュアンスですが、数カードはまったく雰囲気の異なる、記号的な模様になっています。

ですから、「動き」という点で見れば、あまり数カードにはそれが見えにくいものがあります。しかし、よく観察すると、剣・杯・杖・玉の数カードは、1から10に向かって、まるで細胞分裂する(逆に言えば、何かを形作る)かのように動いているのがわかります。

例えば、剣の組は、明らかに円運動を意識して描かれています。剣そのものは直線的なのに、というのがとても面白いのですが、そもそもマルセイユタロットの数カードの剣は、湾曲している剣が主なので、そういう円的なものに見える構図となるのです。

剣が湾曲しているものが選ばれている理由は、いろいろと推測されますが、運動的なもので見ますと、直線と円を意識させるため(その統合)ではないかという思いも出ます。

というのも、マルセイユタロットには、ふたつのエネルギー(性質)の統合ということが、テーマとして常に描かれているからです。

さて、大アルカナや宮廷カードはどうでしょうか?

これらのカードは、人物が描かれていることが多いです。特に宮廷カードは、人物カードと別称されるくらいですから、すべて人物になっています。

ということは、人間の動きというものを、ひとつのテーマとして見ることが可能です。(ちなみに、私の講座では、宮廷カードの読み方について、人の動きを主眼とするものも教えています)

人間の動きというものは、立つ、座る、歩く、止まる、横たわるなど、基本的動作から、相手や状況により、複雑なものへと変化します。

人は無意識に動作するものもありますし、意図して動作する時もあります。ですが、どちらであれ、体は何かのために姿勢やその動作をする(取る)わけで、意味もなく勝手に動いているわけではないでしょう。

すると、基本動作を中心に、自分が意識(意図)していない場合でも、そういう動作が出ているのなら、自分の中にその動きを取るべき何かが起こっていると見ることができます。

簡単に言えば、体は正直だということです。整体師の方などにとっては、常識的なことだと思います。

私は、野口整体系統の整体をしていらっしゃる河野智聖氏の整体を受けていますが、先生は体癖という表現で、人による体の癖のお話をされます。

体癖にはパターンがあるようで、その体のパターンが思考や感情にも影響を及ぼし、価値観の形成、物事の選択にも関係すると言われています。ということは、極端に言えば、自分の人生を決めて行く要因のひとつにもなると、考えられるわけです。

このように、体の動きとか姿勢というのは重要と言えるわけです。

そこで、タロットに話を戻しますと、例えば大アルカナを一枚引き、その出たカード人物の動き・姿勢によって、隠れたもの(自分の恐れ、不安、期待、好き嫌いなど)を探るということができるように思います。

今、体はどう感じているのか(そう体に感じさせている思いは何か)、それをタロットが見せてくれるような印象です。

もし、正逆を取るとすれば、本来正立の姿勢や動作がノーマルで望まれる状態だとすると、逆向きは何か問題性があり、反対の姿勢や動作になっているということもあるかもしれません。

カモワン流をやっている人ならば、カード人物の視線をしっかり見るはずですから、その視線方向により、何か判断もできるかもしれません。(その場合は、二枚以上展開させると、さらによくわかるでしょう)

大アルカナの人物を見てもわかるように、実は一人としてまったく同じ動作をしている者はいません。確かに、あるパターン分けは可能でしょうが、厳密には一人一人違うわけです。

同じ立ち姿勢とか座り姿勢であっても、あるカードと別のカートではやはり異なるのです。

※「13」と「愚者」は、ともに右方向に動作していることで共通しながらも、ふたつは明らかに異なる雰囲気の絵柄になっています。どちらが出るか、あるいは両方(複数枚数以上展開する時に)出ることで、そのカードに描かれている所作から、示唆を得ることができます。

そうした細かいことも含めて、タロットから、自分やクライアントの心情(本当の気持ちなど)を読み取って行くというのも、興味深く、慣れれば、かなり有用なツールとして活用できると思います。


シンボル・象徴の学習と効果

マルセイユタロットには、様々なシンボル・象徴があります。

それらは、論理的にも感覚的にも汲み取ることができ、ある意味、感性と思考を調整したり、統合したりできる機能があります。

おそらく女性性優位の方は、シンボル(象徴図像)を見て直感的に何かに気づく、あるいは意味を悟ることがあるでしょうし、男性性優位な方は、出ているシンボルを構造的に分析することで、意味を見出したり、確信を得たりすることが可能でしょう。

さて、そのようなマルセイユタロットのシンボルですが、一枚一枚の図像の中にたくさんの種類が描かれています。

マルセイユタロットの学習過程において、そのシンボル・象徴を発見し(伝授してもらい)、理解することが重要になります。

世間では、短期的なタロット学習の場合、それぞれのタロット一枚ずつの意味を、ただ「言葉・単語」として覚えるという方法が見受けられます。

しかし、それでは、一枚の中に描かれている様々なシンボルにふれることもないですし、そうしたものを活用するという発想すら出てきません。

これは非常にもったいないことです。特にマルセイユタロットの場合は、シンボル・象徴図が精緻に描かれ、全体から見ても整合性(論理性)をもって配置されています。

その仕組み・構造・意味を理解せずして、マルセイユタロットの活用はあり得ないと言ってもよいくらいです。

シンボル・象徴というものは、図で表されることが多く、だからこそ、民族や国、言語を超え、さらには時代も、個人による違いも超越して、いわば普遍的とも言える共通な型、本質を示唆します。

マルセイユタロットが多く製造された時代と地域は、18世紀のフランスですが、現代の日本人が使っても機能するのは、そうし理由があるからです。

ましてや、マルセイユタロットに描かれているシンボル・図像は、タロットが広く流布した時代よりも、もっと何世紀もさかのぼることができます。なぜなら、マルセイユタロットの中のシンボルが、実際に古い時代に見受けられるからです。

シンボル・象徴で何ができ、何が起きるのかということは、ほかならぬ、マルセイユタロットにいくつか描かれている「十字」シンボルで示すことができます。

十字、「+」のシンボル・図像は、デザイン的にも相当古いものだと推測されますし、まさに「シンボル」として、現代の我々にもなじみのあるものです。

実際にアクセサリーに使っている人もいるでしょう。

十字と言えば、キリスト教の十字架が思い起こされますが、マルセイユタロットのそれ(描かれている十字)は、「正十字」と呼ばれる上下左右の長さが均等なものがほとんどです。

これ(正十字が使われていること)には、歴史的・宗教的な理由など、隠された話も含めて、かなり深く長い話をしなければならないのですが、それらは講義で説明しているところです。

今、言いたいのは、この正十字のシンボルが、まさに、先述したように「シンボルそのもの」の機能を物語っているということです。

正十字の構造・デザインは、縦と横の同じ長さの線分が交差しているものです。ですから、構造的には、縦と横の線の領域があるわけです。

私たちが、グラフを使用する時も、横と縦の線を引くことをよくします。これは横のふたつの要素、← → と、縦のふたつの要素↓↑が合体したものですよね。

ということは、都合、左右・上下で、四つの区分け、性質があることがわかります。しかし、縦と横で違うように、縦線の二つと、横線の二つの性質は方向性が異なります。

しかしながら、正十字は縦と横という、方向は違っても、線の長さは同じです。

ここから考えられるのは、左右と上下、それぞれふたつの性質が対立していると同時に、それぞれが統合もしているということです。

さらに言えば、すべての線分が同じ長さ(クロスして分かれたように見える4つの線分でさえ同じ長さ)であるので、4つ(の要素・性質)全体を統合していると見ることも可能です。

言い換えれば、書かれてはいない正十字の領域を囲む円のようなものがあると想定してもよいのです。ケルト十字のような図ですね。

左右と上下は、方向が異なるので、何かしらの種類の違いはあるとはいえ、どちらにしても、ふたつのものが行き交い、交流し、両方(両端)をつなげています。(統合)

仮に、左右の両端を女性・男性とか、大人と子供とか、国とか文化の異なりとか、人間の世界による違いによる対立だとします。

ただ、今述べたように、対立ではあるけれど、両端は線としてつながっているわけで、言わば、交流による理解とか創造も生まれると見立てられます。それは「線そのもの」として見れば、ある種の統合と言ってもよいです。

そして、上下の両端についても、仮に、一人の人間の表と裏、顕在意識と潜在意識、さらには神性と人間性、天使性と悪魔性のようなものとします。

するとこれも、両端では対立していますが、ひとつの線だと見れば、ここにも交流が起き、統合されたものとしてとらえることができます。

これら、横と縦が交差(クロス)して、「自分」「自己」というものが形成されていると見るとどうでしょうか。

要するに、シンボル・象徴とは、私たちの内と外、個人と全体において、成長・統合させるために、形や直観的意味として見させてくれるものなのです。

私たちがシンボルを見る時、シンボル自体が私たちにもなり、そのシンボルが表す(シンボルが創造され、蓄積されてきた)世界に連れて行ってくれます。

そういう意味では、シンボルは一種の乗り物とも言えましょう。

ただ、それを活用するには、やはり直感だけでは不足で、きちんとシンボルの意味合いや背景など、様々な知識も必要とされます。

それは丸暗記のような学習とは異なりますので、学生時代、勉強がつまらないと思っていた人でも、面白く学べるところはあるでしょう。(何事も楽には行きませんが)

私自身もそうでしたが、本当にマルセイユタロットのシンボル・象徴図像を学ぶことはとても楽しいものです。知らないことも多かったですし、興味深い、新たな知識が学べるのはうれしいことです。

同時に、シンボルにふれてきますと、十字で説明したような、「交流」が起きてきますから(たいていは自分の中との交流)、自己に対する認識の変化、変容も起き、それに連れて現実も変わって来ることも生じます。

1枚ずつの意味だけ覚えて、すぐ占い師になる、みたいなことを望まれる方は、マルセイユタロットの学習には不向きです。

一方、じっくりシンボル・象徴の意味を学び、それらを活用してあらゆることを探求していきたいという方には、大いに勧められるのがマルセイユタロット(の学習)です。


「特別さ」が与えるもの

一年周期として見ると、やはり、春分・秋分・夏至・冬至は、特別なポイントであると考えられます。

今もって、その四つの時期について、風習的にも、宗教的にも、何らかの行事が行われているのを見ても明らかです。

そして、今月、六月夏至を迎えますので、月単位で観ますと、特別な月であると言えます。

ですから、色々な方が、今月に何かを行うことや、心を決めることについて言及していると思います。

ただ、昨今は動画やSNSを中心に、自己アピール合戦みたいな様相を呈していて、毎月、いや毎日のように、「今(今日、今月)がチャンス」とか、「この時期は特別」「変わりたいなら、今月中になになにをすること」など、言われています。

これでは、チャンスや特別な時期は、設定次第でいつでもなるのだといわんばかりです。(笑)

マルセイユタロットで言えば、毎日、「運命の輪」の特別な回転があるようようなものです。しかしながら、この「設定次第で、いつでも特別日(時期)にできる」というのは、ある意味、真実かもしれません。

私は長年タロットをやってきまして、いわゆる「特別さ」を経験する(あるいは演出する)には、天・地・人の三つが主要素としてあると考えるようになっています。

」というのは、天体とか惑星による条件(つまり時間とも関係します)で、「」というのは地球上の環境、地の利みたいなもの、「」というのは人間が行うことによって生ずる効果などを意味します。

このほかにも、むしろ場合によってはメインになるかもしれない「霊的(高次存在・神的存在)なもの」や「サイキック的な要素」もありますが、それは地や人(人が行う儀式によって、影響させることができる場合があるので)の範疇として、何とか入れることができるかもしれません。

「魔術」とか「呪術」のようなものでは、このサイキック的とも言えるものの条件と影響で、特別感(非日常)を出すことはあると思います。

それでも、たいていは、天・地・人を考慮し、その配置・調整・儀式的行為・象徴性の力の発露などによって、「特別さ」を、どの分野であっても、出していると思われます。

この「特別さ」といのうは、宗教的にはいわゆる「奇蹟」にもなり、宗教からはずれれば「奇跡」として、とらえられる場合もあるでしょう。要するに、普段より特別になることで、非日常的なことか起こる、あるいは起こすことができるわけです。

普段より特別になるというのは、並行世界とか多次元宇宙論の話で言えば、まさに違う世界や宇宙に入る(移行する、あるいはそのフィールドを出現させる)ということであり、だからこそ、日常の時空常識(ルール)とは異なることが可能になると考えられるわけです。

あえて心理的に言えば、実は身もふたもない話かもしれませんが(笑)、自分で自分を洗脳させるみたいなことで、強烈な信念とリアリティある演出があって、自己洗脳、トランス状態になり、あたかも、特別なことが起きる、特別なことを起こす力があると錯覚してしまうということです。

しかしながら、人間、トランス状態や変性意識状態になれば、マルセイユタロットの「力」のカードで象徴される「フォース」の解放が叶い、それこそ超越的な能力を一時的に出すことも可能になることがあります。神がかりの原理です。

また、自分への洗脳が強力であれば、おかしな話(スピリチュアル的な話)ですが、自分が中心軸となって、例えるなら、自分自身が宇宙(の創造の中心)となって、周囲が生成されてくるようになり、つまりは、まさに自分が中心となって地球(世界)が回るというようなことが生じます。(自分に向かって、周囲が引き寄せられてくるようなもの)

マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」の上にいる「スフィンクス」、さらに力が強まれば「悪魔」(「悪魔」のカードに象徴される存在)になってくるわけです。

こうなると、強い魅力と支配力を持つことになりますので、ビジネスの成功とか、注目を浴びて人気者になるとか、カリスマ的指導者、先生、講師、経営者、政治家、タレントなどとして目立つことも可能になるでしょう。

悪い言い方をすれば、自分に従う奴隷がたくさんできることになりますし、よい言い方をすれば、自分のファンやサポーター、共感者(厳密には洗脳者ですが)が増えます。

その恩恵(エネルギー変換)として、自由主義経済のもとでは、お金としての糧も得られ、それにより、自由な時間と選択も持てて、ますます魅力的に他人の目からは映り、いわゆる現世利益的にも多大に恵まれることにもなると想像できます。

話を戻しますが、「特別さ」を獲得する秘儀を得れば、いろいろな恵みを受けることもできるので、古来より、特別さを出す、特別さ(非日常の世界)に自分を移行させる技術は追及(研究)され、隠されてきたこともあったと考えられます。

また、その力(得られる力)が強大であればあるほど、コントロールするのも難しいでしょうから、「特別さ」の経験は、ある種の危険が伴うと見てもよいはずです。

だからこそ、その技術と知識は、隠されてきたところもあるでしょう。

たとえそれが神とは無関係であった(神のような存在がいるのかどうかは別)としても、「神なるもの」を想定し、その介在あって特別さが出現する、あるいは、その力が付与されるとしてきた昔からの宗教的行為には、安全性を担保とした儀式を行う人間への保護の意味があったとも考えられます。

(もちろん、宗教そのものの存続とか、威厳を保つための理由もありますが)神聖さを演出しないと、力を得るものの心得次第では、他人や社会に迷惑がかかってしまいます(利己的な欲望が暴走し、その欲求達成に力が発現されるため)ので、神を信じ、神に帰依して謙虚になれる者が選ばれて、特別さを経験できたのだ推測されます。

実はタロットには特別さを出す力が備わっていると言われますし、そのために作られたという説もあるくらいです。

遊びや気軽な占い目的として、普通に使う分にはそれほど影響はないにしても、真剣にやれば、タロットでも、いにしえの特別さを出現させることができると考えられます。

しかし、先述したように、誰彼なくやっていいものでもなく、特別さの力に自分のほうが負けてしまう(魅了され、支配される)こともあり得ます。

知らず知らず、悪い意味での魔術的方向性(いわゆる黒魔術的目的)や、悪意あるサイキック世界の影響を受ける状態(悪い存在の憑依など)へと、足を踏み入れてしまう危険もあります。

すでに述べました、マルセイユタロットで例えられる「運命の輪」のスフィンクスと「悪魔」に自分がなってしまっている者もいると考えられます。当人たちは気づいていないでしょうが。

※(言っておきますが、マルセイユタロットで表現されている「スフィンクス」や「悪魔」自体は、悪い意味ではありません。すべての意味は中立です。ただし、特別な力をアンバランスに持ってしまった場合の「スフィンクス」と「悪魔」には、問題があるわけです)

しかしながら、自分がコントロールできる範囲での「特別さ」は、自己や他者変容には安全に使えるもので、常識や過去のしがらみなどに囚われ、縛られた自分を解放することにもなります。

そういう意味でなら、時間と場所と人、そして、人が使う道具(この場合はタロット)によっては、とても効果的な「特別さ」が体験できるのではないかと思います。


タロット観、前提として理解するもの。

マルセイユタロットの中でも、日本ではカモワンタロットという名前で、フィリップ・カモワン氏とアレハンドロ・ホドロフスキー氏が共同で製作したタロットがあります。

私も、もともとはカモワンタロットから入った口ですし、一番よく使用しているカードも、いまもってそのホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロット(通称カモワンタロット、現在入手困難)です。

カモワンタロット自体はひとつでも、製作者のお二人の考えはいろいろと異なるところがあるように思います。

ですから、厳密には、同じタロットを使っても、カモワン流とホドロフスキー流とがあり、さらには、カモワンタロットを使う方でも、この両者とはかけ離れた流儀や方法をもってされている人もいます。

しかしながら、それぞれの思想や技法を混同してしまっては、まさに混乱を来すばかりなのです。

それでも「違い」を知る人は実際には少ないですし、カモワン流はカモワンスクールが日本でもありますが、ホドロフスキー流の場合、正式なスクールのようなものは日本にはないと思われますので、ホドロフスキー流技術を日本で駆使されている方は見つけにくいと言えます。

また、技術の前に、思想や考え方、タロットに対する思いのようなものが各人あります。

そのタロットの技術を理解し、使いこなすためには、考え方を知る前提がいるわけです。でないと「仏作って魂入れず」ではありませんが、タロットも技術も活きないと思います。

まあ、そのことは、製作者の思いだけに関わらず、そもそも、あるタロットを活用していくのなら、そのタロットに流れる思想や歴史なども知っておいたほうが、はるかに「魂」が入り、使い方の質が違ってくると考えられます。

人間と同じで、ただの他人だと思っていた人も、その人の背景・内情を詳しく知れば他人事ではなくなり、特別な存在と見ることができるように、です。

一方で、あまり技法にこだわり過ぎるのも考えもので、結局のところ、大きな括りとして「マルセイユタロット」とすれば、自分の目的にかなうならば、誰のどの技術・考えを使ってもOKだという、柔軟な姿勢も大事かと思います。

とはいえ、まったくの無知では、柔軟性を出そうにも、そもそもがよくわからないので、いい(柔軟性ある)選択ができないと言えます。

ですから、やはり最低限の知識はつけておいたほうがいいですし、できれば、学びのうえでも、知識的な分野を多く身に着けたほうが、タロットの扱いに長けることになるでしょう。

言い換えれば、直感だけのタロット活用というものは、しょせん半分(一部だけ)のアプローチに過ぎないということです。(逆も言え、知識ばかりで直感性を無視するのも問題です)

さて、カモワンタロットの製作者のお二人、カモワン氏とホドロフスキー氏のタロットについて、カモワン流では「秘伝カモワン・タロット」という本と、ホドロフスキー流では「タロットの宇宙」という本が、日本で出版されています。(絶版や入手困難にはなっていますが)

残念ながら、本格的で大著である「タロットの宇宙」に比べて、ややライトで入門書的な「秘伝カモワン・タロット」とでは、質の違いが顕著です。(カモワン流が劣っていると言っているのではありません)

しかも、「秘伝カモワン・タロット」の本では、重要で肝心なことがあえて省かれており、説明がないとわからない部分も結構あります。それでも今や、古本でも、とても高額な扱いになっているようですね。

「秘伝カモワン・タロット」の最大の欠落だと私が思うのは、「タロットマンダラ」という、大アルカナのある構図、並べ方説明がないところでしょう。もちろんこれは、ある理由で、わざとだと考えられます。(ちなみにカモワン氏のホームページには「タロットマンダラ」は掲載されています)

一方、ホドロフスキー氏の「タロットの宇宙」には、私自身「風車マンダラ」と名付けている(笑)、タロット78枚による立体的な構図が掲げられています。(スワスティカマンダラとも呼ばれます)

さらに、大アルカナにおいては、両端に「愚者」と「世界」を置き、11から20(「力」から「審判」)と1から10(「手品師」から「運命の輪」)の10枚ずつを、上下二段組にした図も載せられています。

大アルカナにおいて、カモワン氏は「愚者」を当事者・修行者(旅人)として置き、ほかの21枚のカードを、3段×7列に置く「タロットマンダラ(カモワン氏談)」を思想の中心にしています。

そしてホドロフスキー氏は、先述したように、10枚ずつ二段組(下段が11から20、上段が1から10)と「愚者」と「世界」を両端に置く図を示しています。

両者では明らかに、基本とする(大アルカナの)構造図が違うわけです。

もっとも、カモワン氏も、ホドロフスキー氏のような、10枚ずつの二段組を使いますが、これは一見同じように見えて、実はホドロフスキー氏のものとは異なり、10枚ずつの組の上下段が入れ替わっています。(ホドロフスキー氏にもカモワン氏にも、その並べ方には理由があってのことです)

言ってみれば、同じ世界や宇宙を見ていても、その人の見方・とらえ方・分け方があり、カモワン氏とホドロフスキー氏とでは、同じタロットを使っていても、そこは違っているのだということが明確にわかるわけです。

すなわち、その違いこそが、タロット観の違いです。

先にも言ったように、究極的にはマルセイユタロットの表す(象徴する)世界はひとつ(同じ)であっても、見る人・扱う人によって違いが出てくるのですから、私たちも、タロットの技術について、どのオーダー(階層・システム)やレベルで見ているかを知ることが重要なのです。

その区別がついていないと、自分の使っているタロットと技術を人に説明できないばかりか、どの技法がこの場合有効なのか(逆にあまり役に立たないか)を自らが理解できず、困ることになります。(最悪、無知のまま、間違った使い道をしてしまうこともあり得ます)

例えば、上記でふれた二人の「マンダラ」の違いでも、単純に見たとしても、カモワン氏が3段であり、ホドロフスキー氏が2段で、数の違いがみられるわけですから、その区分が同じであるはずがないとわかります。

なぜ3段なのか、なぜ2段なのか、どういう時に、どのような理解のもとで、この区分を用いて活かすべきなのか、なぜあなたはそのどちらかを使用しているのか、何の目的と理想あってのことなのか…こういうことがきちんとわかってやっている人ならばいいのですが、そんなことを考えたこともない、あるいは、タロットを教えてもらった先生からも説明されていないなどのことでは、あなたは形式的にそれを使っているだけと言えます。

私自身は、今は何流でもありませんが、それぞれの違いを説明することができますし、規則性と柔軟性の、一見矛盾したようなタロットの使い方が自分でできるよう、その理由とともに指導しております。

タロットは、ただ占いなどに使われるだけのものではありません。

むしろこれからの時代は、思索のツール、思考道具(しかし、ただの知識ではないもの)として、私たちに宇宙の構造や進化を高レベルで理解していくための「導き(気づき・啓発)の書」のように使っていくものとして提示されると考えられます。

まさに、学び、感じ、「考える(破壊と再生的な思考です)」ことが、とても重要なのです。

「占ったり、リーディングしたりする使うタロット」(それも継続されますが)から、「考える(通常の思考を超えて)ためのタロット」ということが、今後は期待されるように思います。


家族、人間関係、タロット、力

タロットカードの象徴性の力は、一般的な意味での「象徴」(抽象的のものを形や図などで表すとか、比喩的に見るとかの意味)とは別のものがあります。

それはまさしく、「力」と言っていいもので、マルセイユタロットの大アルカナにも、「力(フォース)」というカードで直接表されています。

余談ですが、フォースと聞けば、映画スターウォーズを知っている人ならば、その言葉は聞いたことがあるはずで、そこで描かれている“フォース”は、いわば、このタロットが示している「フォース」の映画的(エンターテイメント的)表現と言ってもよいと思います。

今回はフォースが何かについて語るのではなく、とりあえず、タロットには象徴的な何かの力が宿るみたいな話です。

マルセイユタロットの、中でも大アルカナと呼ばれている22枚のカードたちは、わかりやすい絵柄になっており、まさに象徴としての機能が明確です。

象徴機能としては、個人的にはほぼ万能であると見ていて、あらゆることをカードで表す(理解させる)ことができると考えています。

従って、マルセイユタロットを学習することは、とても物事の理解、把握、整理に役立つことは確実で、さらに言えば、普通のことだけではなく、いわゆる見えない領域(心とか霊的なこととか)にもそれは及びますので、何倍もの価値があります。

さて、私たちの悩みには、いろいろなものがありますが、その中でも人間関係というのが、大きな位置を占めています。

人間関係の悩みを解決するには、タロット的には「愚者」(自分軸の自由の象徴)になるのが一番なのですが、そうなれないから皆さん、悩むわけですよね。まあしかし、今日の本題とは、ずれますが、日本人の場合は、特に自分中心(自分自身を大切にする)考えと行動をもっと取ると、楽になって、人間関係的にも悩みが少なくなる気はします。

話を戻します。

人間関係の悩みの根本的な要因になっているもの、または原因のパターン(型)になっているもので、自分の家族があります。つまりは、自分が育ってきた家族環境や構成、その力学的なものの関係(による影響)です。

それが身の回りの社会の人々(関わる他人)にも投影されて、父や母、兄弟・姉妹のような感じ(対応)で、無意識に自分がふるまってしまうわけです。

それには単なる好き嫌いの感情のレベルもありますし、自分が意識(自覚)できていない部分での、様々な感情・思い・ルール・トラウマのような深いものもあります。

それらが、全部とは言いませんが、やはりひとつの反応パターンとして、対人関係に出てしまうわけです。

そして、知らず知らず、自らで自分の家族を再現し、かつてあった問題性や反対の心地よさを別の人にあてはめようとして、何らかの心理的調整を他の人間関係で図ってしまうということになります。それが問題として生じることもあるわけです。

そこで、タロットの、特に大アルカナを家族の象徴として見立て、関係性を客観視し、偏りや思い込みを浮上させて、カードの世界で修正してしまうことにより、家族から発生させていた、現実の対人的(人間関係)問題を変えていくことが期待できます。

ただ、これには、カードを学び、象徴を単なる思想的なものでなく、本当の力・フォースとして扱う必要が出てきます。

ファンタジー的な言い方をすれば、タロットカードと世界がつながって、カード自体、一種の世界(環境)操作のパネルとなるというイメージです。

周り(世界)のことをタロットにあてはめるのではなく、タロットのことを世界にあてはめる作業と言え、普通の見方(方向性)とは逆になります。

別の言い方をすれば、タロットの象徴世界をリアル空間の情報とリンクさせ、ほとんど同じ感覚にするということになります。

多分に魔術的でもありますが、比較的ライトな段階では、心理レベルで扱うことができ、そのレベルにおいては安全と言えます。(逆に魔術レベルまでにしてしまうと、それ相当のフォースの扱いの訓練がいり、サイキック的影響の懸念もあり、下手に介入するのは危険です)

こう書くと、まるで事象を変えるためにタロットを使うみたいな怖い印象・イメージも出ますが、それはその通りで、タロットと外の世界が同じ次元と情報レベルとして同調させることができると、おそらくそのタロットを扱う人は、かなりの度合いで、自分の望み通りに世界を変えていくことができるでしょう。

※ただ、実際の世界が変わるというより、あくまでその人の世界観が変わる(そのように感じ、見えてしまうようになる)と言ったほうがよいでしょう。とても主観的な世界の話なのです。

まあしかし、そこまでできる人は、先述したように、それなりの訓練、修行が必要ですし、そのような目的(利己的な願望実現)でタロットを使うものではないと私は考えます。

とはいえ、タロットが実際的な力としての象徴性があることを知ると、カードというのは絵空事ではなく、現実と世界に影響を及ぼすことができるものだとわかってくるでしょう。ただし、何度も言うようですが、その扱いには注意が必要ですし、技術的にも難しいところがあり、単にタロットをやっているだけで、そのようになるわけではありません。

ともあれ、家族関係について、カードで象徴させて、それを見直していくという作業が、一般的に自分の人間関係の修正や改善につながっていくという話です。

この反対の、まず人間関係そのものをタロットで見て(象徴させ)、自分の家族などの関係性・力学的なものに実際に入って行く(気づきを得て行く)という修正方法もあります。

これはむしろ、タロットリーディングとかタロットの活用のノーマルな方向性と言え、普通に多くの人(タロット使用者)がやっていることでしょう。

マルセイユタロットの研究家・実践家としても知られている、映画監督のアレハンドロ・ホドロフスキー氏は、家族療法をタロットを使って施しており、それを実際に私も見たことがあります。

氏はまた、独特のサイコマジックという手法で、人の心理的・サイキック的な悩みや問題を癒していますが、それもある種の「力」としての象徴を行使しているのだと見ることができます。言ってみれば、魔術の原理と、とても似ています。

要するに、実際的な力として影響が出る「象徴」なのか、単なる文字とか思考においての比喩、言い換え道具のような「象徴」なのかの違いというわけです。

タロットの場合は、その両方で扱えるわけですが、特に「力」をもった象徴になるということでは、ほかのもの(ツール)とは大きく異なるわけです。

しかしながら、その力も、結局は、タロットというものを自分の中に落とし込む程度によりますし、つまるところ、タロットをどこまで信じるか(リアリティを持つか)にかかってきます。(妄信ではない信念です)

漫然とタロットをやっていてもダメですし、また占いばかりになって、「〇〇になる」というような、託宣を受ける受動的な態度が固まってしまうと、「力」との関係はできず、逆に世界の情報に自分が操られる(環境や他人側のフォースに屈する)ことになります。


Top