タロットの使い方

「愚者」になる体験と「13」

マルセイユタロットの大アルカナは、人の型やパターンを象徴している意味あるのですが、言ってみれば、大アルカナ22枚の表現を誰でも内に持つということになります。

これがわかってくると、タロットを自己の人生に活用していくことができるのです。

22枚のカードの中でも、とりわけ特種なカードがあり、それが「愚者」です。

この「愚者」のみ、マルセイユタロットの大アルカナにおいては、数・番号を持ちません。その欄は空白になっています。ある意味、何の数でもないということになります。

さきほど、「22枚の表現が自分にある」ということを述べました。ということは、「愚者」も皆さんの中に存在するわけです。

そして、数を持たない「愚者」には、順序もなけれ階級もなく、何かにならねばならないこともありません。ここでいう「」とは、タロットが絵柄で象徴しているあり方や表現方法だと言うことができます。

「数」のない世界というと、ちょっと想像がつきにくいですが、逆に数のある世界というものを考えますとわかってきます。

例えば時間は数で表せます。いや、数で表すことによって時間を捕捉していると言ってもいいでしょう。

時間が数で表せるのであれば、その長さ・期間、移行する流れ、つまり過去・現在・未来の把握というものにもつながってきます。

またも数によって表すことができます。増えた減った、ある・なし(持っている・持っていない)、大小・増減の世界は数によるわけです。

従って長さ(時間)や量を意識しない世界というのが、「愚者」の世界(観)ということになります。

ただ現実的には私たちは「愚者」のように時間や量・形を意識しない世界に存在することは難しいです。

物質の世界にいる限り、つまりは生きている限りは、人は真の意味で「愚者」になることはできないと言ってもよいでしょう。

しかし、マルセイユタロットの秘伝では、大アルカナの表現をこの世界に表すことは可能と伝えられています。

確かに完璧や全部を表現することはできないかもしれませんが、それに近づくことは可能です。

「愚者」というカードがタロットにあるのなら、愚者の表す状態を自分の内に見たり外に発見したりして、自分自身の愚者的体験をすることで、「愚者」なるエネルギー・状態を自分のものにしていくことができます。

簡単に言えば、時間にとらわれない、量にとらわれないというようなことを意識し、実際にその思いで何かしてみる(行動する)ことでしょう。

例えば行き当たりばったりの無計画を経験したり、ハプニングすらイベントのようにして楽しんだりするようなことです。こうすると、最初は不安であっても、失っていたワクワク感や好奇心を蘇らせることができます。

自分が直接できない場合は、そういうことをしている人や状況を見る(疑似体験する)ことで、できる場合もあります。

量も、特にお金のことにも関係しますので、普段のお金勘定から逸脱した使い方や貯め方をするというのも面白いでしょう。

偶然かどうか、「勘定」という言葉は、「感情」と同じ音であり、あなたの日常のお金勘定が自分の感情と結びついていたり、表現していたりすることもあるわけです。

ということは、囚われたり、マンネリになっていたりする感情を、日常とは異なるお金勘定(数のとらえ方)で、変化させたり解放させたりすることも可能と言えます。

もったいないとか、こんなことしたら恥ずかしい、ばかばかしいとか思うと「数」の世界に囚われ、なかなか「愚者」になったり、愚者的体験をしたりすることができません。

「数」で捕捉された世界は、12の世界観とも結びつき、これを破壊させるには13の力が必要です。つまり、マルセイユタロットで言えば「13」(カードの「13番」)のエネルギーです。

「13」と「愚者」が、22枚の中でも数的・名称的に異質性を持ちつつ、二枚が構図的に共通しているのも理由があります。

日常を安定させることも大事ですが、自分の持つ自由性と破壊性の覚醒によって、次元を上げたり超えたりすることもできると認識しておくとよいでしょう。


タロットカードが物事の理解を進ませる。

マルセイユタロットでは、物事の本質やあることへの方法なとが読み取れます。

学び・学習においても言えることで、たとえば、「斎王」や「法皇」「隠者」などのカードの象徴性を考察することで、基本的で効率的な学習方法と態度がわかります。

もうひとつ言い方を変えれば、自分が身につけたり、知ったりしたこと(情報取得したこと)を、カードが象徴として整理し、自覚しやすくさせてくれると述べてもよいでしょう。

たいていは、人は記憶したことでもうまく場面場面で思い出すことができず、せっかく本を読んだり、セミナーを受けたりして知識を得ても、それを効果的に活用することは難しいものです。

ところが、タロットのよいところは、絵柄の象徴ということで、視覚的にもインパクトがあり、何かを記憶したり思い出したりするのには都合よく働きます。

タロットを扱うようになればわかりますが、それも意図的に思い出そうとせずとも、自然に、まさに「気づき」のように、「ああ、これはこういうことだよね」「ここではあのやり方が使えるわけだ」というようになるのです。

まるで自分の記憶庫やデータベースから、何者か高次の存在が、整理して取り出してくれるような感覚です。

しかも、そのまま取り出すのではなく、本質を悟らせてくれるかのような変換も行われるところが、またタロットのよい点です。

さて、ではさきほど、学習の事例で挙げたカードをもとに、「学び」の効率性についての一部をお話しておきます。

斎王」というカードは本を手にして静かにたたずんでいる女性の絵柄になっており、一般的には「女教皇」とも呼ばれるカードです。

そしてこの女性の態度を観察すれば、まさに自分の中に学びを受け入れること、すなわちインプットしている様子がうかがえます。

一方、「斎王」と対称的(対照的でもあります)なカードである「法皇」は、集まっている弟子か聴衆に向かって話をしているように描かれています。

ということは、外に向けて話をする、すなわちアウトプットしている(学んだものを人に話すことをしている)と取れます。

インプットとアウトプット、学びにおいてはこのふたつは重要な過程でもあり、記憶を定着し理解させるのには両方必要だと言われます。

さらに、インプットにおいて、斎王の細かな象徴を見ると、「繰り返し」をするということが見えてきます。

意外に知られていませんが、この「繰り返し」をして学ぶ、繰り返しインプットするということは、極めて理解において重要な行為です。

同じ本でも二度以上反復して読むと、最初読んだ時とは違う気づきや理解が必ず得られます。人の話でも、一回聞くより二度聞いたほうが確実に理解の深さが違ってきます。

ただし、より効果的にするには、繰り返す材料が優れたものであればあるほど効果を発揮するということです。「斎王」でいえば、手にしている本自体もすごいものなのです。(繰り返す価値があるもの)

こういうようなことで、カードを通して自分の中で記憶や学びが再整理され、物事の理解と直観の研磨が進むのです。


自らを知るための自己の投影。

心の対話、自問自答によって自らを知るという方法は、心理的にも宗教的にも行われていることです。

しかし、いきなり自分に問いかけても、そこに「いつもの自分」として意識している自分しかいませんので、なかなか難しいことです。

また日常生活で「自分を観る」というようなことは、時間的にも物理的にもやはり困難です。

というのは、ほかの作業があるからで、その時にいちいち、「自分が自分だ」「自分は今、これこれをしているところだ」なんて思っていると、何もできなってしまいます。

ところが、このことがまさに自己認識のヒントになるのです。

日常で自分意識や自らが選択・行動しているというような認識はほとんどしません。

せいぜい、重大な決断をする時か、他人と意見が違ったり、著しく外見が異なったりする環境に身を置かれた時などに「自分」を意識するくらいです。(だからこそ、環境の激変選択の岐路に立たされている時は、「自分」というものを理解するチャンスでもあり、反面、自己を失う危機でもあるのです)

ということは、日常から非日常の意識状態になるよう自分をコントロールすると、より自己を考察することができるというわけです。

それが孤独で落ち着いた環境であったり、瞑想したりして得る境地だったりします。(静かにする瞑想だけではなく、自分のしている行動をひとひとつ、「自分がやっているのだと意識してみる」という行動的な瞑想の場合もあります)

重要なことは、通常の時間感覚・流れを断ち切っものを創造するということです。なぜなら時間の異質性は空間の異質性も生み出すからです。(その逆も真なり)

同じ環境にいてはなかなかそれができないので、強制モードとして自分が動いたり旅をしたりして、それを確保するほうが楽です。(それゆえ、「愚者」は意識の移行も意味します)

そのような非日常の意識になれるような時空が設定できたら、次に自己洞察のツールを使います。

それが象徴ツールです。言うまでもなく、タロットがこの大きな役割を担います。タロットカードを自分の分身たちと見て、自己投影してみるという方法になります。

別にタロットでなくても、人形でも木でも雲でも何でも自分の内面を象徴すればよいのですが、タロット、特にマルセイユタロットの場合は、人間の元型的なタイプ・パターンをうまく象徴しているので、使いやすいのです。

言ってみれば誰にでもあてはまるように作られているわけで、「まあ、とにかく当てはめてみよう」という時に便利な「自己認識セットツール」みたいなものなのです。

その上で、全員に当てはまるパターンでありながら、自分だけに意識される事柄や表現・感覚・意味というものも出てきます。

ここがものすごく重要で、全体でありながら個別、個別でありがら全体という構造でカードに自己投影していくと、自分の個性を大なるもの(人類全体・宇宙)まで拡大していくことができるのです。

その逆に、より自分が自分として持っている個性というものも理解できます。(これにはマイナス・プラス両面あり)

自分を見るのに鏡が必要なように、投影する装置があったほうが自己認識はしやすいのです。

もちろん人間(他人)そのものでできなくはないですが、生身の人間の場合、投影する人が限定されがちか、逆にあまりに多過ぎてやりづらいのも確かです。だからツールが求められるのです。

ただ、鏡に映った自分が自分そのものではないように(左右逆転であること、あくまで映し出されたものであること)、投影されたものは自分の本質ではありません。

最終的には「自分なんてものはない」とさえ理解できるでしょう。

しかしながら、このタロットに投影された自己は本質ではないものの、今の自分を成り立たせている材料、表現でもあるのです。

いわば、自分の本質がまとった様々な自分というわけです。

ペルソナといえばペルソナですが、ペルソナにもふたつあり、社会的にかぶる仮面(普通に他人や自分が思っている自分)と、今生(人生そのもの)の演出のためにかぶる仮面です。

前者は意識的につけかえることは可能ですが、後者は通常は無理です。ただ、ある種のエネルギーとパワーの回復と、自己に眠る神性の認識が進むと、それも可能になると想像できます。


カードに見る、声に出すことの重要性

マルセイユタロットの通常の読みでは、「伝えること」「話をすること」は、「法皇」がそのテーマを一番表していると考えられますが、もちろんその他のカードでも象徴することはできます。

深くタロットを見ていくと、声や発声に関するカードがたくさんあることがわかります。

私自身も完全に意味を把握しているわけではありませんが、おそらくそれらのひとつひとつと、さらにカード同士が組み合わされることによって、特別な発声の暗号が見い出せるのではないかと想像しています。

実はそれこそが、カードの単体の図像構成とともなって、特別なマルセイユタロットの奥義として隠されていることを感じます。いわば覚醒の秘密が図像や発声にあると見られるわけです。

さて、声を出すということは、単純に見てもいろいろと効果があります。

人々がカラオケをしたり、日常的にたわいもない会話をしたり、時には愚痴ったりすることで、ストレス発散と解消になっていることは、誰でもわかると思います。

おしゃべりの人は特にそうですが、自由に発言できない、しゃべることのできない環境に長く置かれると、ほとんどの人は心を病みます

では無口な人は大丈夫かといえば、そうとも言い切れません。

なぜならば、人には心の中の声というものがあり、自分は口下手・無口だと思っていても、実は心の中の声は多弁であったり、声にならないつぶやきを多く発していることがあるからです。

そのため、そういう心のつぶやきさえ自由にできない雰囲気(強制的な洗脳モード、何かを無理矢理唱えさせられたり、行動を継続させられたりするような状態)が長期に及ぶと、やはり無口な人でさえ、心を壊すおそれがあるのです。

つまり、人は声を実際に発音して外に出すか、音声にならずとも内に出すかによって、結局のところ、何かを思い主張することのバランスを、誰でも自分でオートマチックに取っているということができます。

それが外向きか内向きかによる傾向の違いがあるだけです。(内向きでも、「思う」ことで思考エネルギーとして、発声したのと同様のエネルギーが、いくらかは内に出ていると考えられます)

あと、思いだけではなく、エネルギーとして声が情報を持つ場合があります。厳密に言えば、発声することのも関係します。

声も音声波動を持つ情報媒体だとすれば、人間が聞くことのできる言葉の意味だけではない情報が、いろいろと詰まっていることがイメージできます。

ということは、たとえば自分の蓄積しているネガティブな情報も、声(と息)にノッて発散していることも考えられます。

よって、声に出すことでスカッとしたり、気持ちが晴れわたったりするわけです。

また出した声の波動によって、自分や周囲の雰囲気を変えたり、破ったりする「祓い」の効果も想定できます。

科学的にも、音によってモノが破壊できることは皆さんもご存知でしょう。それだけ音の威力は大きいのです。

古代には、音声のことが今よりもっと別の意味できちんと認識されており、その活用は場の調整から意識の拡大と覚醒、高次の獲得まで及んでいました。

宗教上で詠唱が重用視されているのも、そうした理由が考えられます。聖典やお経の言葉の意味も重要かもしれませんが、むしろ音の響きそのものに、秘密が隠されていことが多いと言えます。

声に出すことは自己「表現」の大きな方法です。

自分に自信がなかったり、落ち込んだり、元気がない時は、声を出す環境や機会を意識的に作ることで、勇気を得たり、復活を遂げることができます。(このあたりはマルセイユタロットの「力」や「審判」のカードとも関連します)

独り言を言うだけでも、実は考えが整理されてくることもあります。(自分とのコミュニケーション) 

さらに、なりたい自分を音声で表現することは、その状態を音によって生み出していることでもあり、ある種の効果があります。

タロットを展開した時、発声を意識するようなカードが出た時は、そのようなことも考えて実践してみるとよいでしょう。


タロットを継続して扱うことの大切さ。

せっかくタロットを習っても、続かず、止めてしまう人もいます。

別にタロットはリーディングだけが使用方法ではないので、リーディングしなくてもいいのですが、まったく目の前に取り出すことすらしなくなってしまえば、それはお蔵入りと言っていいでしょう。

興味本位で、ちょっとだけかじってみたという程度であれば、そうなってもさほど問題はありません。

もともとがまさに「その程度のもの」だったからです。

しかし、結構本格的に学習していた場合で使わなくなるというのは、非常に時間と経済的なロスでもあり、また目に見えない部分でのせっかくの蓄積を途中で放棄するようなものなのです。

とはいえ、人の選択の幅は広く、またどんなものでも変化するのがこの世の中の摂理というものです。続けようがストップしようが、人の自由と言えばその通りです。

タロット自体に興味がなくなることも、人のことですから、もちろんあるでしょう。

またタロット以外での自己探求や対人援助の自分に適合したものを見つけることもあって、それはむしろ喜ばしいことだと言えます。

けれども、そうではなくて、ただなんとなく面倒だから・・・というのではとてももったいないことです。

その人は気がついていないかもしれませんが、ことマルセイユタロットにおいて、霊的向上、あるいは意識拡大のツールとして学んだ場合、すでに入り口から、あなたのそばにはタロットの精霊が控え、タロットの鍵を持ち、一緒にあなたがタロットの道を歩むことに期待して待っているのです。

そして振り返ってみれば、あなたがこのタロットを学ぶことになった経緯、その時の状況、心理的・内的背景、事情をよく思い出してみるとよいでしょう。

何気なくのようでいて、きっとあなたの中に覚醒を求める心魂の渇望というものがあったはずです。

一見それは気がつかないこともありますし、そうだと認識しないままの「何かの違和感」だったりします。

あるいは対外的(外に起きている自分の状況)に、何かの選択をしなければならない時であったり、人間関係・家族関係に変化の兆しがあるタイミングであったりします。

つまり、これまでの自分をブレイクさせたり、もっと拡大させたり、スピリチュアリティに目覚めたりすることをあなたの内奥が要求し、その環境のひとつとしてマルセイユタロットと出会わせたというケースが、多くの場合想定できるのです。

タロットでいえば、愚者の「犬」です。犬があなたをこの道に案内したのです。

そしてタロットと出会い、あなたは「愚者」となり、またあなたの中にいる「愚者」(同時にタロットの世界にいる「愚者」)とも遭遇したのがタロット学習の真意(神意、自身の神性の意志)です。

それは対人的なタロットリーディングの出来不出来で、あなたのタロットとの関係を止めてしまうものではありません。

もともとタロットリーディングというものは、対人のために使うひとつの技術です。

タロットを使うのは、あなた自身のためが主なのです。これは自身をタロットでリーディングせよと言っているのではありません。

タロットを象徴ツールとして使い、あらゆることをタロットを通じて考察したり、感じたりすることを続けるということを言っています。

そのためのタロットの象徴の土台となる解釈を、細かなところまで説明しているのが私の基礎講座です。

自分の中にある智慧をタロット(の精霊)とともに、共同作業で引き出す・整理する・本当に認識する、これを行うのがタロットを自分使いすることのメインです。

タロットを途中で投げ出さず、もっと真剣に、親身になってつきあってみてください。

あなたがタロットと近づけば、それだけ向こうからも近づいてきます。まさに心の「鏡」なのです。難しく思うのなら、その時はもっとシンプルに・簡単にとらえてみてもよいですし、時には遊び感覚で占いやアテモノもしてもよいです。

学ぶというより、「つきあう」ということが大切であり、時間をかけていくというのが、この現実世界に住む私たちには、精神的なことであれ、必要な場合があるのです。

例えば、習ったタロットではなく、ほかのタロットに切り替えてしまったという人もいるかもしれません。それでもタロットの世界にいることには変わりありません。

タロットにはタロットの大霊という存在がいて、種類毎にまた違う精霊がいると考えられます。あなたがタロットと接している限り、タロットからの智慧は得られるでしょう。

とはいえ、積み重ねたものの利点というものがあり、もし時間と経費をかけて学習したタロット種があるのなら、それを使っていくのが本当はエネルギー効率の意味でも適当です。

タロットには相性もあるので、どうしても最初に習ったタロットと合わない、理解ができにくいというのなら、種類を変えたほうが逆に効率的な場合もあります。

ともかく、あきらめたらその時点で終わりです。もちろんそれでも、今まで習ったものが無駄になるわけではなく、やはり何らかの力にはなっています。

しかしながら、特にマルセイユタロットの場合は、1つの鍵が開けられれば、さらに複数の鍵が必要となり、それらが一気に連続的に使われ智慧の扉が開くという多層模様を描くことがあり、霊的にもバリアーが張られていて、簡単に開くところとそうでないところがはっきりしています。

従って、やはりコツコツとした蓄積と継続は必要なのです。

コップの水があふれ出すまでには、水が満杯になるまで入れていくことが求められるように..です。

タロットを学ばれた人には特に、あなたの継続力と意志に期待したいと思います。

ただ、人間弱いもので、他の誘惑や忙しさなどの理由で、すぐ道をはずしてしまいがちです。(苦笑)

そんな時のために、共に学んだタロット仲間、あるいは同種のタロットを使っている友人を作っておくとよく、勉強会などでは積極的に交流を図って仲間を増やすことが、自身の学習のために活かされることになります。

さら言えば、誰かが作ってくれたり、やってくるであろう機会を待つだけではなく、自分から学びや交流の機会を創造することも大切で、それもまたタロット学習の一環なのです。


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