タロットの使い方
愚者の道と常識の道
私が思うに、一般的に「スピリチュアル」と言われるような傾向や興味を持つ方向に行きますと、マルセイユタロットでいう「愚者」化が始まります。
実はそれは眠った状態からの覚醒であり、自己を回復させる意味での本当のスタート・始まりでもあるのです。
ただ必ずしも全員がそうとは限りません。スピリチュアル志向が逃避そのものであったり、一時的な幻想状態・麻薬のようなものであったりすることも存在します。
とにかく、いったん「愚者化」が始まると、その名の通り、自分が「愚か者」のように感じる段階がやってきます。
ここで言う「愚か者」とは、ふたつの意味があります。
ひとつは自分がまさしく「愚か者」だと思う意味での「愚者」、そしてもうひとつは、他人から見て、「自分は「愚か者」だと見られているであろうと思う意味での「愚者」です。
いわば主観と客観の「愚者」があるのです。
最初の主観の「愚者」ですが、これは自分が本当に「愚か者」であったことに気付く意味での「愚者」ということです。
自分が「愚か者」である(あった)のは確かだけれども、それは「無知の知」のようなもので、やっと自分が何も知らずの、あるいは何かを信じ込まされていたことに対する「愚かさ」に気がついたという段階です。
一方、少しやっかいなのが第二の「愚者」、すなわち人から見て愚か者に見られている状態(人が変に見ている・思っている)というものです。
たとえば「タロットなんかやっていてバカじゃないのか」「見えないものを信じるなんて変な宗教に欺されているのよ」とか、白い目で周囲や家族・知人から見られるようなことです。
ここで自分のやっていることや、進み始めた道のことを躍起になって説明したり、主張したりしても、「愚者」になっていない人には、かえってその不信に拍車をかけるような結果となります。
もととも価値観の異なる、いわば異世界同士の人間になってしまっているからです。
しかしながら、ここが重要なことですが、だからと言って、文字通り自分が「愚か者」となり、周囲の人に迷惑をかけたり、心配をさせたりしてしまうのは低レベルの「愚者」化と言えます。
それならば、いきなり山奥に籠もって修行するようなもので、実はそのような形は修行自体は大変厳しくても、道としては単純なものと言えます。
マルセイユタロットの教義のひとつでもあるのですが、「愚者」化していく道の醍醐味は、通常の意識世界(いわゆる普通の常識・現実の世界)で、巧妙に二重の道を歩んでいくことなのです。
そのことはマルセイユタロットでは、「手品師」で象徴されています。(※言っておきますが、ほかのタロットの同じ番号を持つ「魔術師」では、このことは象徴化されていません)
愚者化の道を辿る時、私たちは今まで普通に教育を受け、信じられてきたことに疑い持ち始めるようになります。
そうして、いろいろな思い込み・信念によって自分が形成されていたことを知るようになります。
今度は自分をその思い込みの枠から解放していくようになるのですが、ここでたくさんの自分の信じていた・思い込まされていた「正義」の枠を認識します。
その過程で、自分の枠がどんどんはずれて行くと、ある過程によっては、非常に自分がわがままになってきます。
一般的にいう「よい人間」ではなくて、むしろ自分が悪い人間になっているかのような錯覚に陥ることさえあります。
これはマルセイユタロットでいえば「戦車」の馬として、自分を拘束、または守っていたある「規範」が取り払われ、むき出しの本能・欲求が出てくるからでもあります。
従って、場合によっては横暴になったり、上から目線になったり、奢ったり、また他人や周りのことを顧みずの自分勝手な人になったり(見えたり)することになるのです。
ここで自分をコントロールしていかないと、破滅の道に進んでしまうことにもなりかねません。
さらには人から「愚者(愚か者)」と見られることがますます強くなり、本当の愚者の道が環境的に阻害されることもあります。
そこで、最初の段階から通常との折り合いをつけながら、自分は密かに愚者の道を歩むという方法を採用していくとよいのです。
簡単にいえば少しずつ、ゲームとして愚者化を試みるということですね。これには「悪魔」のカードが参考になります。
しかしなかなかマニュアルや指針のようなものがないので、難しいことでもあります。
そこでこのような霊的ともいえる覚醒の道には、自分を客観視したり、冷静に意識をコントロールしたりするための基準となる象徴ツールが必要となるわけです。
意識の世界のことなので、文字情報とか、現実的・具体的すぎるものはあまり役に立ちません。だから「象徴」が重要なのです。
通常・常識世界で愚者的意識をも共存させようとすると、いわば最低でも二重の自分を持つ必要があります。
悪く言えば多重人格であり、意識のうえでの次元移行を繰り返す意味にもなります。
こういうことをスムースに行うには、やはり優れた象徴ツールがいるのです。
ここまで書いてくればおわかりのように、そのツールのひとつが「マルセイユタロット」なのです。
ほかのタロットでもできないわけではありませんが、マルセイユタロットのほうがこの使い方のツールとして、実はノーマルで使いやすいことは述べておきます。
いかにして周囲との調和を図りながら、一般的な意味では変り者、変わった道である「愚者」の道を進むのか、それがまた楽しいことでもありますし、それを考え実行すること自体が、安全に覚醒の道を進ませることになるのです。
人生の目標・目的の多数化
私たちは人生に意味を見いだそうとします。
これは究極的には「生きる意味は何なのか」というテーマにもつながってきます。
人生はまさに人の数だけ存在し、同じ人生の人は一人もいません。そう考えると、実はすごいことのように思えてきます。
一方、私たちは同じ宇宙・世界に住んではいますが、そのとらえ方は人によって千差万別で、心の問題だけではなく、物理的にも一人一人違う世界を認識しているという説が言われてきています。
ということは、みんな人生も違うし、世界も異なるのだということになります。
スピリチュアル的には、ひとつの意識が無数にわかれた個性を持ち、一瞬一瞬に合意と選択をそれらが行いつつ、そうして紡ぎ出された連続の世界に自分を存在させていると言ってもよいかもしれません。
こう書いてきますと、リアルとか個人とかそれぞれの人生とかいうものは、一体何なのかということを考えてしまいます。
しかし、一方で面白い考え方も登場させることができます。
それは「人生の目的・目標」ということに関係します。
ここでいう目的・目標とは、「人生とはなんぞや」という哲学的なことではなく、もう少し次元を落とした、人生の途中での目的もありとするものです。
私たちはともすれば、「人生の目的はひとつ」だと思いがちです。
もちろん単純に言ってしまえば「生きて死ぬこと、それ自体が人生」であり、「過程が目的」という不思議な見方を採用することも可能です。
けれども、個別的・具体的に見た場合、仕事の目標達成とか、家族と仲良く暮らすとか、経済的に成功するとか、幸せに感じ続けたいとか、知らない土地をたくさん訪れてみたいとか、知識をできるだけ深めたい・広げたいとかあると思います。
それらは別にひとつだけとは限らないでしょう。なぜならば、これらは人の欲求や欲望に根ざしているものがほとんとだからです。人の欲求はひとつではないのが普通です。
「いえ、私はそんな低次の、欲求から来る目的を人生の目的や目標にしたくありません」と言われる方もいるでしょう。
やはり、「悟りが目的」とか、「社会や人類に貢献したい」などと、大きな目的を掲げることのほうが自分の人生が崇高に見えてきます。
そう、実は目的には次元の違いがあり、それらを混同させるより、分けて考えたほうがいい場合もあります。
分けて考えると、自分が思うべきことと、なすべきことの区別も明確になり、変にあせったり、逆にのんびりしすぎたりして人生を無駄にしてしまうということが少なくなるからです。
さらにいえば、次元の違う目的別にそれぞれが関連していること(リンク)していることを発見するようにすれば、それこそあなたの「使命」というようなもの、裏に隠された「生きている目的」のようなものも見えてくることもあるのです。
たとえば「悟る」ことが大目的であれば、食事という次元に限定して考えた場合、一般的には「心身によいものを食べる」とか、時には「断食して・・・」みたいに思うかもしれません。
しかし逆に、「グルメに敢えてなることで、悟ることができないだろうか」?と考えることもでき、おいしいものを食べながら、悟りの道を進むということを探るアイデアが出現します。
大目的によって、低次に見えた目標も、崇高なものの一方法・一表現に変貌するのです。
逆に低次の欲求を満たしつつ、途中から中次・高次へ、おのおのの次元をリンクさせていけば、自分のしている行為の浄化が図られます。悪魔が天使に変身するようなものです。
また、次元を平行(同じフィールド・レベル)のままで、目的を複数持つということもできます。
それは同じ世界に生きながら、別の人間にもなる(複数の人格を持つ)という意味にも近くなります。
たとえば仕事での成功と同時に、趣味のサーフィンでも優勝するとか、有名になるとかという形です。これは結構、多くの人が知らず知らずにやっています。
平行世界では全部同じレベルの目的にしなくてもよく、たとえば職場ではセクションの長への出世が目的でも、旅行では国内の有名寺を10箇所くらい回れたらよしとするというようなものでもいいわけです。
ひとつのフィールドや次元では自分はダメな(目標や目的が達成されない)状態であっても、違う場所の別の自分ではそこでの目標がきちんと達成されていれば、それはそれで成功と言えます。
マルセイユタロット的には22の目的・目標があり、それだけあれば、誰でも何らかの成功者になるのです。
こうすると、皆と同じ材料の世界にいながらも、人生に何倍ものチャンスと楽しみが増えてきます。
ブログを書き続けるには。
ブログを書き始めたはいいものの、何を書こうか困ってしまっている、ネタがないという人も少なくないと思います。
さて、改めてそういう人に問いたいと思いますが、「あなたは何のためにブログを書いているのか?」ということです。
目的がはっきりすれば、書き方も決まってきます。もっというと引き際、やめるかどうかもわかります。
たとえば「特に目的はないです」「ただ何となく・・」という人ならば、そのままにすればよいのです。
つまりは、書くことがなかったら書かなくてもよいということです。目的がないのですから、どうあなたがブログを運営しようが自由です。
ブログのもともとの活用法といえる「日記」が目的であるならば、何とかして毎日日記として書けばいいですし、週間日記(こうなると「週記」ですね(^^;))ならば、土曜日など週末に一週間のことを書けばいいのです。公開ラブラブ交換日記がしたければ、相手と一緒にひとつのブログをしてみるのもよいでしょう(笑)し、公開がいやならば限定公開やパスワード制のブログでできます。
また極端なことを言えば、何も書きたくなくなったらブログをやめればいいですし、また始めたくなったら始めればいいわけです。
それじゃ身も蓋もない・・ということであれば、今一度、あなた自身のブログを書く目的をはっきりさせましょう。
「目的」というと大げさになりますから、「ブログでどうしたいのか」「どう思われたいのか」という気持ちを確認すると言い換えてもよいですね。
すると、「ブログをたくさんの人に読んでもらって、反応してほしい・・」というものかもしれませんし、まさに「商売や集客」という、はっきりとした目的の人も出てくるでしょう。
後者の場合は目的が明確ですから、書くネタがなければ書き方をコンサルタントに教わったり、自分から集客目的の本やセミナーなどに参加したりして、勉強すれば書く能力の進展があります。
問題は前者の(人に反応してほしい)人です。ではさらに、自分の希望をつきつめてみましょう。結局、どうなのかを探るということです。
その結果、もしかすると自分は、「人とつながりたい」だけなのかもしれないとわかるかもしれません。
それならばブログでなくてもよい場合があります。SNSなど、ネットでも今はいろいろな方法で人とつながるやり方があります。
またネットを介してではなく、直接のリアルでの交流もあるでしょう。
古典的ですが、やはり相手は生身の人間ですから、直接会える交流の場所に行く(参加する)のは、不安もあるでしょうが、結果が得られれば有益で、ネット交流のレベルを超えるでしょう。
さて、ここで人とのつながり・交流がメイン(それ意外でも通用しますが)の人に、書き添えておきたいことがあります。
人とつながりたいと思えば、一方的なものではダメです。
何せ相手を欲していることであり、お互いのものなのですから、双方向にしていく表現(エネルギー)が求められるのです。
つまり、自分がしてほしければ同じことをまず自分からするということです。これは結構よく聞く言葉だと思いますが、それが宇宙の理にかなっているからなのです。
またエネルギー保存の法則とも言えます。
自分が得たいというエネルギーを出せば、自分に引っ張るエネルギーですから、その分自分からも出さなさいと中立性が保てず、バランスが崩れているものは宇宙の表現としては成り立たないか消滅するしかないので、一方向だけでは叶いにくいのです。
ということで、クレクレ星人(笑)になっていると、自分の存在すら消滅したようになりかねません。(実際的には無視されるような状態)
それから、書くネタがない人にある技術をお伝えするとすれば、ひとつのこと(ネタ)を違う角度(見方)から書くというものがあります。
これもよく聞かれることなので、今更「なんだそんなことか」と思うかもしれませんが、シンプルですが実は非常に有効な方法です。
ただ、別の角度を持つというのが意外に難しいことがあります。そのためよく言われる技術なのに、実際に活用できるている人が少ないのです。
ところが、マルセイユタロットを知ってこれを活用していくと、簡単にできる(別の視点を持つことができる)ようになります。
たとえば、小アルカナには剣・杯・杖・玉(ソード・ワンド・カップ・コイン)と4組ありますが、それぞれの組別の視点を持てば、少なくともこれで4つの目を持つことになります。
複数の視点を持つということは、旅行ネタを書いて、食べ物メインで行くか、場所でアプローチするか、ホテル・旅館を中心に書くか、旅そのものをテーマにしたためるか、節約術やお金のことなどでお得情報を提供するか、子供を持つ親の視点で書くか、大人の楽しみのほうで書くか・・こういうようなことですが、タロットはその複数の見方をサポートします。
私がブログを書き続けられるのも、タロットのおかげによるところが大きいのです。
タロット学習に、タロット本は読まない。
4月になって、気分的にも新しいことを始めたいという人も多くいらっしゃると思います。
私のタロット講座でも、カルチャーセンターはじめ、新しい受講生の方が入られます。
そうすると、よく質問があるのが、「どんなタロットの本(解説書)を読めばいいですか?」
というものです。
また、こちらからお伝えるする前に、すでにもう書店に走って、自分でタロットの本を購入され、読まれる方もおります。
以前にも書いたかもしれませんが、私はこうしたご質問や対応には、
「タロットの本は、今の段階では読まないように」
というアドバイスをしています。
世にタロットのことを書いてある本は、それこそ山のようにあります。日本だけでもそうなのですから、世界中となるとどれくらいのものになるか、想像がつきません。
まあ、それだけタロットは、たくさんの人に関心をもってもらえるものだということがわかります。
しかし、ほかのタロット種のものは別としても、ことマルセイユタロットに関しては、日本において、現在マルセイユタロットをメインに扱って出版されている本は、ごくわずかです。正直一冊だけかもしれません。
今出ているものもどちらかというと、占い向きというもので、私の伝えるマルセイユタロットの趣旨とは異なるところがあります。
ですから、勢い、人によっては、ほかのタロット種の本までに手を出してしまうことになるのですが、マルセイユタロットとほかのタロットでは絵柄も違いますし、意味も違ってくるところがあります。背景や思想も異なります。
深くタロットそのものを追求している本ならばまた別かもしれませんが、たいていは「楽しく占う・・・」という、カードの意味と占い方だけを書いた軽めの売れ線スタイル本ですから、読むとかえってわけがわからなくなるおそれがあります。
これは巷に出ている本が悪いというのでなく、まさにスタイルの違い、表現と目的の違いですので、仕方のないことです。
トランプを「ゲーム」として使うか、「占い」で使うかによって、同じ「トランプ」という道具ではあっても、使う目的によって書かれている内容が違ってくるのは当たり前です。
これと似たようなことがあるのです。
では難しい象徴学や西洋魔法の専門書など読むとよいのかということになりますと、これもまた難しすぎて最初の段階では不適当です。
ということで、私の講座を受講していただく方にお勧めしているのは、スピリチュアルや精神世界系の本、自己啓発などの本です。また時には簡単な哲学書や心理学の入門書もよいと思っています。
タロットとは関係ないようでいて、実は大いに関連しており、こうしたやや近接した世界の書物から入ることで、マルセイユタロットを別の角度から、より理解することができるのです。
タロットそのものを学習しようとしても、そこにあるのは、ただのカードであり、絵柄です。
タロットが人間のように教えてくれたり、語ってくれたりするわけではありません。(本当は語ってくれるのですが・・・それは秘密です。(笑))
ですから、どうしても講師の言うことや、講師の提供するテキストなどの意味を覚えようと受講側はします。
それはそれで最初はいいのですが、こうしたことだけで学ぶのではなく、ほかのことからタロットに描かれているものが何なのか(つまり何を象徴しているのか)をとらえようとする思考活動が、タロットの理解を深める(補う)のです。
この観点から言えば、何も書物だけからとは限りません。人生におけるすべてのシーンがタロットの学びにもなるのです。
そして、実際はその逆(逆転構造)なのです。
タロットを学び、あらゆるものでタロットの象徴をつかもうと努力する時、あなたはタロットによって、再び自分の経験している今の世界を再構築・整理していくことになります。
これこそがタロットの最大の効果で、知らず知らず、あなたは自分の世界をタロットの象徴で把握していく能力に長けてくるようになります。
そうすると、自分の手中(タロットカード)に、外の世界が投影されるようになるのです。
つまりはコントロールしやすくなるというわけです。
私の目指すタロット学習とはこのようなことです。
一方的に講師から教えを受けて聞いていればいいというものではないのです。もちろん基本的な考え方・扱い方はお伝えいたします。
まずは皆さんには、「タロットが占いである」という思い込みの次元から脱却していただかねばなりません。
タロットが占いであるというのは、これまでの(特に日本の)社会が作った幻想(実体でもありますが)に過ぎません。もちろん占いの効果的なツールですが、真実は「占いにも使える」という言い方にあります。
マルセイユタロットとの出会い、そして私の講座に来ていただく皆さんには、新たなタロットの使い方・考え方を学んでいただき、自分の人生を有意義にしていただきたたいと思っています。
カードとエネルギー存在の関係
タロットはある種のエネルギーや状態を、一枚一枚のカードでも表す場合があります。
私はずっとマルセイユタロットばかりを扱ってきましたので、ほかのタロットのエネルギーの質は詳しくはありませんが、おそらく根源的には似たようなところはあるでしょう。
中でもマルセイユタロットは特別なデザインで統一的に作られているため、こうした特徴が顕著に感じます。
だからヒーリングに直接使われたり、展開を出すだけ、見ているだけでも効果が出たりすることもあると考えられます。
ところでタロットは、人々が神々とか天使、あるいは仏とか菩薩などと呼ぶエネルギーも象徴しています。
ですから、そうした存在(エネルギー)とつながりたいという人にも、タロットが使えるのです。
しかし、これにはレベル(次元)や段階があると私は思っています。
たとえば、マルセイユタロットの「節制」に観音的なエネルギーを感じたとします。
そうすると、カードの「節制」を見ることで、いわゆる「観音様」のすべてとつながるのかといえば、そうではありません。
「観音様」と呼ぶエネルギーの一部が「節制」に生じると見ます。(「節制」が観音様のエネルギーの何かを象徴している)
これは表現の違いでしかないのですが、正確には、「自分の中の観音エネルギーに応じて、「節制」の観音力が表される」と言ったほうがよいでしょう。
ということは、観音様を「節制」に降ろせるかどうかは、まさに自分次第なのです。
では、自分がまったく観音的なエネルギーを持っていない場合は、その人にとっての「節制」の観音力はゼロなのかと言えば、これまたそうでもないのです。
ここが非常に大切な部分なのですが、「自分には観音エネルギーなどない(感じない)と思っている人」でも、「節制」というカードの象徴と意味を理解し始めると、次第に自分の中にある「観音」力が感応してくるのです。
つまりは、もともとすべてのエネルギー質は自分にあると見るのが、マルセイユタロットの(私の)考え方なのです。
ですから、それをカードから発見していく、(自分の中のそれと)つなげていくということになります。
「鶏か先か、卵か先か」の問題に似ていますが、自分の中の観音を「節制」に見る場合は、「節制」の理解とともに、「観音」という概念(知識と感覚)が自分に存在していることが必要です。
そして観音力(認識含む)のレベルが上がれば上がるほど、「節制」を通してつながる観音のエネルギーも拡大していくことになります。
この時「節制」は、その(観音力)拡大のツールとして使えます。
観音ではなく、西洋的にたとえば天使の「ラファエル」のほうがなじんでいるということであれば、その人にとっての「節制」は、ラファエル的エネルギーとつながることも可能になります。
それから、またさらにレベルが変化してくると、今まで「節制」だと思っていたある種のエネルギーが、カードの「審判」だったり、「星」であったりしたということに気付くこともあります。
これもまたタロットカードによるエネルギー理解の次元上昇とも言えます。
今までは天使や菩薩のような存在を例として書いてきましたが、反対の悪魔などのエネルギーをカードが表現することもあります。
使い方によっては、そのような存在とエネルギー的につながることにもなります。
ですから、私の場合は、カードはどのカードも均等で中立なものとして最初から見ていくことを推奨しています。
いいカード・悪いカード、吉凶カード的なことで見ていくと、自分の中の極端なエネルギーの表現と、ある存在との歪なつなげ方を起こしかねないのです。
最初のうちの次元の低い段階では、そのような見方もほとんど問題はなく、むしろ吉的なこととつながることもあって、うれしくなることもあるでしょう。
しかしタロットを極めていくと、このような見方の危険性や意味のなさに気がついていくことになります。