タロットの使い方

芸術鑑賞術

芸術の秋ですね。

今、私の住んでいる関西地域でも京都や大阪、神戸の美術館・博物館などで特別な展覧会等が開催されており、有名な画家の絵も披露されています。きっと皆さんの地域にも、いろいろな展覧会は企画されていることでしょう。

ところで、「タロット」もでできています。それも単なる無造作に描かれているわけではありません。

象徴」として意味をもたせて、意図的に描かれているものがほとんどです。特にマルセイユタロットではそれが顕著です。

マルセイユタロットは普遍的な意識の元型ともいうべき対象を象徴化しているため、シンプルで時には平板に絵が見えます。いわば、芸術的な感じがしないと言ってもいいでしょう。

芸術鑑賞としての目的で作成されているわけではないので、それでいいのですが、絵を芸術的に見るということも心にはとてもよく、そうした雰囲気で描かれているものは、象徴というより、自分の感情に訴えかけ、心をなにがしか動かす仕組みがありますので、マルセイユタロットにはない芸術性の感性を、ほかの絵で見ることもよいことです。

タロットには別の意味で心を動かす作用がありますが、それは芸術的な絵画のそれとは違う面があります。

そこで、自分の心に潤いや動きをもたらせるため、美術館などに行って絵画等を鑑賞するとよいです。

そして、ここからがタロットとも関連するのですが、タロット、特にマルセイユタロットを学ぶと、カード一枚一枚の全体性の象徴性以外に、一枚それぞれに含まれる細かな象徴も知識と感覚の両面で、自分の中に蓄積されていきます。

これが今度は、芸術的な絵画を観ることでも生かされてくるのです。

さきほど、タロット、特にマルセイユタロットと普通の絵画の違いについて、その芸術性において指摘したところですが、マルセイユタロットにない芸術的な感応力をほかの「芸術」的な絵画を観ることによって補うことができます。

またタロットを知ると、さらには絵画からはあまり得ることが難しい象徴性による理解も、同時に美術鑑賞しながら叶えることができるようになります。

それは象徴・シンボルの意味をタロットで学ぶからです。

実は、特に西洋画において、ほとんどはキリスト教のモチーフが多く題材として取り上げられ、さらにはギリシア・ローマ神話もよくあるモチーフです。

そしてこれらには共通する「象徴・シンボル」がお約束のようにあり、たとえば天使や神などの描かれ方には決まりがあったりします。タロットも西洋をもとにした絵でできている以上、これと関係してきます。

ほかにも一般的には知られてはいないものの、おそらく作者はその象徴や意味を意識して描いたと思われる部分が、よく観ると結構絵に存在することがあります。隠された絵のメッセージという類のものです。

タロットを知っていると、「なるほど!」とか、「もしかして、この作者の訴えたいことはこれではないか?」とか、推理ドラマのように想像したり、思いを巡らせたりして、ただの絵の解釈だけには留まらない知的好奇心を得ることができます。

象徴の知識で観る美術・絵画の鑑賞は、心の感じ方を中心とする芸術的な見方とはまた別物です。

それは同じ絵でありながら、ふたつの別の絵を見ているかのようなものです。

知識を得るということは、実はこのように、多様なモノの見方を獲得するという意味でもあります。

単純に美しい、きれい、すばらしいという感動をもって観ることももちろんいいわけですが、美術の知識(歴史、時代、背景、価値、構図、色彩、ルール、作者、象徴、審美、神秘などいろいろな知識)を入れて観ると、その数だけあなたは見方を得たということになり、まさに多彩なものをあなたは「感じ」「見て」経験することになるのです。

ということは、何も知識のない人より、何倍もの経験(厚みのある経験)を、あなたは同じ時間にしていることになります。

ただし、知識があることを人に自慢したり、自分はそれだから人より優れていると思ったりすると、逆効果になるので注意です。

知識は自分の経験を膨らませるためにあると思って、やはり素直に、謙虚になって、知識と同時に、心の感じるままに芸術を鑑賞することも大事なのです。

そして一般的な評価は気にせず、人と自分の見方が違って当たり前ですから、自分の感性を大切にし、必ずしもよいと言われている作品があなたにとってすばらしいわけでもなく、その逆に、一般的には有名ではなくても、あなたにはたいそう心に響くものもあるはずです。

それでいいのです。

さらには知識として、一般評価的なモノの見方、価値も比べてみると、ますます面白くなってきます。

正しい・正しくないで見るから一緒に見ている人と争いになったり、優劣を競うようなことになったりします。

芸術鑑賞とは、つまりは、物事の「味わい方」を私たちは学んでいることなのです。


数を見て、タロットをイメージする。

象徴(シンボル)のもっともシンプルなものに、「」というものがあります。

数字」と言ってしまうと、まさにただ数えるためだけのものになってしまうので、ここでは象徴としては「数」と表記することにします。

数を象徴として扱うようになると、いろいろなことがわかってきますし、実際に自分の周囲に意味ある数がよく目につくようになります。

ただ、それは今までも周りに存在していたものですが、意識することによって、それが目に入るようになってきたということに過ぎないこともあります。

しかしながら、この意識して象徴の世界に入ること(象徴によって関連づけしていくこと)こそが、とても意義のあることなのです。

ところで、タロットにも数があります。たいていのカードには数がふられており、それゆえ、数とタロットとの関係は昔からいろいろと考察されています。

個人的には、前にも書きましたように、数、数秘的なものとタロットとの関係は、一面では関連するものの、数とタロットの絵柄(の象徴)が全部一致するわけではなく、象徴体系としては別物だと見るほうがいいと考えています。

しかし、タロットには無意味にその数・ナンバーが配当されているわけではなく、やはり数の意味とも関係させていると見るのが妥当だとも思っています。

ともかく、タロットカードに深く関わってきますと、そのタロットにあてがわれている数とも自然に仲良くなり、たとえば、14という数を見れば、大アルカナの「節制」という具合にイメージを持つようになります。

そうなってくると、数秘的なこととはまた違った意味で、数はタロットと完全にリンクするようになります。

つまり、ある数自体が、その数を持つタロットカードの象徴にもなるということです。

そこで起こってくる面白い現象のひとつに、ある特定の数が、決まった期間に頻出してくるというものです。

「このところ、やたらと18が目につく」「18という数に当たる」・・・というよう感じです。タロットと数がつながっている人にとっては、それはタロットの「月」(が象徴していること)であると言ってもいいものになります。

いわば、今のその時期、あなたにとっては「月」の象徴の意味がありますよ、ということなのです。

特定期間に縁のある数は、ひとつとは限りません、複数あることもあります。それもカードとつなげてみると、タロットのコンビネーションリーディング(タロットカードの組み合わせで読むこと)と等しくなります。

さらに、目につく大きな数を合計してひと桁にしたり、見え方によって単数的にとらえたりする場合も、その出てきた数とタロットの意味が関係することがあります。

ただここで注意しなくてはならないのは、タロットは特に大アルカナは22枚によって完全とする体系ですので、ひと桁の数のみで考察していく場合のシステムとは相容れない部分があります。

マルセイユタロットでいえば、「手品師」から「隠者」ですべてを象徴させることになり、これは難しいというか、タロット的には成り立たないことになるのです。

ですから、タロットと数を関連させる場合は、根源的な数の象徴と、タロットの絵柄の示す象徴とは部分的に一致することはあっても、やはり切り離して見ることが大切です。

これに留意さえしておけば、数を見てタロットを感じることは、とても有意義で楽しいことになってくるでしょう。


直感と理性の対立は、実は低次のものに起きる。

一般に直感と理性(論理・思考)は一致せず、対立することが多いと言われます。

しかし本当の意味では対立するものというより、それぞれ本質を別の見方でとらえる方法であると私は考えています。

実は対立してしまうのは、深いところでの直感や理性が相争っているのではなく、もっと低次での直感と理性であるからこそ、葛藤が起きるのだとも言えます。

低次の直感と理性とは、わかりやすくいえば、前者(低次の直感)が「好き・嫌い」の感覚、後者(低次の理性)が「損・得」の判断に基づいていると考えられるものです。それを本物の直感と理性だと誤解してしまっているのですね。

たとえば、旅行先を決める時、自分としては温泉のある旅館に泊まってのんびりとしたいと思っている(それが好きだと今は感じている)のに、いざ検討を始めると、安いツアーやお得感のある宿泊先のプランなどを見てしまい、結局旅館ではなくホテルになったり、ゆっくりするどころか、有名所を駆け足で回ったりするものを選ぼうとしたりします。

こうなってしまうのも、最初の感情とは違う、「お得感」という損得による線引きで見る視点を入れるからです。

ほかにもこの逆のパターンもあり、明らかにこれは自分にとって得だなと計算できるものがある(損得を考えるのは悪いことではありません)のに、「あの人が参加するから嫌だ」とか言って、せっかくのチャンスである講座を受けないといった人もいるでしょう。

結局のところ、「好き嫌い」と「損得」を比べている限り、もともとふたつは観念と概念の違いとも言える、かなり異なったものですから、なかなか一致させることは難しいと言え、そのレベルでいる限り、いつも対立や葛藤が起きてしまうことになります。

ではどうすればいいのかと言えば、まずこれら両者は平行線のまま交わらなくてもよいと考えることです。何でも一致させたり、融合させたりすることが解決策ではないのです。

好き嫌いと損得は一致しないことがあるのが当然だと思うのです。「偶然重なればラッキー!」的なのものと認識していると楽になります。

ですから、選択の結果として、完全満足といのを目指すのではなく、どこか一部犠牲があったり、不満があってもよいと割り切ります。優先順位を「好き」の感覚にするのか、「お得」にするのかをはっきりさせてもよいでしょう。

※実はこの両者はつまるところ、「感情」に基づいていることがほとんどです。その意味では理性との葛藤とは言えないのです。そこが低次とし呼ぶゆえんでもあります。従って一番感情的には譲れないところを選択として決めるという態度が、このような対立では有効です。※

次に直感と理性をそれぞれ、好き嫌いと損得から離れるようにしていきます。

「自分はもしかして、これを好き嫌いで選んでいるのじゃない?」「損得って言っても、広い視点や長い目で見れば、本当に損得と言えるのしから・・・」と自分の選択の感覚や基準を疑っていることからそれは始まります。

おそらく真の直感、深い智慧の理性というものに到達するには、まず日常の自分意識を疑うことからが出発点だと考えられます。

特に直感は「信じることから始める」「信じることが大切」と巷では強調されていることが多いので、私の言っていることは非常に逆説的でもありますが、それが反対に直感に至る近道だと、タロットも述べています。

そうすると、理性も決して直感を邪魔するものではなく、むしろそれに至るための正しいサポート役であることがわかってきます。

そして直感も理性をぼやかせるものではなく、理性に確信(心・魂)をもたらせるものであることも気が付いてきます。

そうすると、両者は結局のところ、直観という、物事の本質を悟ったり、得たりするための車の両輪だということに得心がいきます。

マルセイユタロットの活用のひとつは、その直観に至るプロセスを導き、強化することでもあるのです。


「悟り」を考える

マルセイユタロットの教えの(目的の)究極には、「悟り」を得るということがあります。

しかし、一口に悟りと言っても、これはなかなか実際的には難しいものです。

そもそも悟りとはどのような状態を示すのかさえ、悟ったと言われる人が表立って出てくることがないため、うまく説明してくれる人もなく、我々凡人にはわからないものです。

もしかすると、悟った人など、実はいないのかもしれないという思いすら起こります。

ブッダとかイエスとかいらっしゃるじゃないかと言われる方もあるでしょうが、かなりの昔のことなので、実際にはどういう状態であったのかは今では誰にもわからないというのが真実でしょう。

ということで、悟りといったものの定義をすることは難しいわけですが、逆に低次ともいえる小さな悟りというものを考えることはできそうな気がします。

それはいわば、「気づき」とか「自覚」とか「覚醒」とかいった言葉で表していいかもしれません。

実は、私が最近思うのは、人は皆、一瞬一瞬かもしれませんが、小さな悟り体験はしているのではないかということです。

そしてその積み重ねやレベルの違いによって、悟りそのものの次元も変わってくるような印象があります。

とにかく、「小悟り」みたいなことは、誰しも経験しているのだということです。

それは、たとえば散歩していて、ある日、突然「こうだ!」「そういうことだったのね!」と気付いたり、旅先の景色を見て、「ああ、なんて世界は美しいんだろう」と感嘆したり、大きな仕事を成し遂げ、感謝と成長を心から実感したり、恋愛をして異性との限りない融合感を体感したり・・・様々な人生のシーンで起こることではないかと考えられます。

問題はまたすぐに、元の状態に戻ってしまって、体験したことを忘れ、日常に感覚的にも埋没してしまうということですが、それでも、その気づきや覚醒が、これまでの自分とは違うレベルに自分を押し上げることになるのではと想像されます。

ただ、やはり「忘れてしまう」ということが引っかかることではあります。人間はとても忘れやすい生き物なのですね。

そこで、マルセイユタロットを活用することをお勧めします。

マルセイユタロットは、特に22枚の大アルカナが人々の意識や世界のあらゆる物事を象徴しており、しかもレベルや次元の相違としても表現しているため、自分の「小悟り」的な気づきや体感を、カードに記憶しておくことができます

そして逆に、カードから気づきを起こすこともできます。

それは絵柄が極めて元型的ともいえる象徴で構成されているため、あらゆることにカードが合致し、表現を確かめることができるからです。

たとえば、簡単にいえば、今の自分の気持ちや感情を、あるカードが表していることを感じられるという具合です。

つまりは絵柄として、目に見えないものを目に見えるものとして確認することができるようになるということです。

しかも段階やレベルまで整理されて象徴となっているので、悟り具合のレベルや次元も確認することができます。また目標や指標とすることもできるのです。

私も最初はマルセイユタロットが悟りのツールであるということは、具体的にはわかりにくかったのですが、今は段々とそれが明確になってきました。

もちろん一番最初に言いましたように、真の悟りというものは誰にも私にもわかりませんし、それが何なのかも難しいことですが、気づきや覚醒、解放といったことでは、「小悟り」みたいなことは確認でき、それをカードによってさらに強化したり、発見したりすることは容易なのです。

それは結局、「小悟り」を繰り返しながら、「中悟り」「大悟り」へと進化していくことでもあるでしょうが、究極的な「悟り」はどんな状態なのかは不明です。

しかしながら、自分の心の成長や発展、それに伴う現実のいい意味での変化を体験していくことができるということは確実に言えると思います。

何かわからない「悟り」という実現不可能に思えるものを目標にすることであっても、目的が壮大で崇高であればあるほど、自分を謙虚に保つこともでき、成長の楽しみもあるというものです。

重要なのは、プロセスを楽しむ心だと私は思っています。


「運命の輪」から見る「運命」

占いなどでは、人には「運命」があると考えられています。

タロットカードにも、一般的に「運命の輪」という名前がついているカードがあります。

運命というものは、まさにくるくる回っているように感じられるので、「輪」として絵が象徴的に描かれていますし、たとえばマルセイユタロットならば、その輪の中に犬と猿といった二匹の動物も登場します。

かように運命というものは、流動的で、人間というより動物的でもあると古来からとらえられていたのでしょう。

一方、人によっては、自分の人生は自分で好きなように作っていくことができるのだという信奉もあります。

これは運命という不可思議なものにふりまわされず、人は自由に生きていくことが可能であるという、人間中心的な立場となります。

見方を変えれば、運命というものは外側にあるか、内側にあるかという二つの視点があると言えます。

私は実はこれは両方ではないかと考えています。しかし最終的には内も外もないということだとも見ています。

いったい何を言っているのかわかりづらいと思いますが、運命(の輪)は外で回っているようでいて、実は内でも回っています。

しかし、では人が影響を受けるような「外側の運命」というものはないのかといえば、そうとも言えますし、あるとも言えます。

言い換えれば、ある段階では確実に(外側の運命は)やはり存在しており、それに支配されたり、影響を受けたりすることはあります。

ところが、さらに段階が進むと、今度は外の影響が少なくなり(しかし微妙に残っている)、内に「運命」の関心が向いていきます。

そうなると実は自分こそが、外側と思える(自分の)運命を作り出しているのではないかと気付いてくるのです。

けれどもこの段階でも、やはり外側の運命の影響から逃れることはできません。

さらに高次へと到達すると(このあたりは想像の世界での話になります)、おそらく外側の運命という概念は消え、すべて内側であることが実感できるのでしょう。

その時こそ、運命の輪から本当の意味で逃れることができるのだと推測されます。

ですから、普通の場合、やはり占いなどで言われる運命や運勢の波のようなものはあると言えます。(本当はないのですが、あると感じ、影響を受ける段階にあるということ)

究極的にはすべては自分の思いで人生を創造することは可能でしょうが、現実的には、たいていの人は外側の運命によって、自分が支配されることにもなりがちです。

とはいえ、最後はすべて内側(自分)にあるのですから、内に探究が向かう時、自分の「運命の輪」も外側から内に入る(内なる輪を見つけていく)ことになります。

そうして、自分の内なる「運命の輪」と外側の「運命の輪」の照応を少しずつでも実感し、合一させていくと、自分のコントロールによって外側の「運命の輪」を動かす(作用させる)ことが可能になってきます。

もちろんすべてということは難しいのですが、それでも確実に、自分の意志で自分の運命を変えていく(ように見える)ことができ始めます。

これがマルセイユタロットの「運命の輪」の力と効果なのです。

私の言っていることは、想像やイメージの話のように思えるかもしれませんが、しかしかなり実際的ものです。絵空事や夢物語ではないのです。現実に効果があります。

タロットは確実に自分(人)の人生を変える力があります。

それはタロットをよく理解し、作用とエネルギーを自分に還元しはじめた時に、自分の周囲の世界も動いていくからなのです。


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