タロットの使い方
タロットを描く学習法
タロットを教えてきて思うのは、タロットにはいろいろなアプローチ、学び方があるということです。
そもそもタロット自体があらゆるものを根源的に象徴している(象徴化できる)ツールなので、接し方・学習法が多岐に渡るのは、ある意味当然とも言えます。
結局のところ、「タロットの表すエネルギー」、あるいは「心でつかむ意味」のようなものを会得するのがタロット学習の目的と言えます。
ということは、大まかにわけてふたつの方向性があります。
ひとつはタロットの象徴するものを直接シンプルに理解しようとする方向。
そしてもうひとつは、自分の周囲・環境・事柄にあるものをタロットに比定・類推して、逆にタロットの本質をとらえるという方向です。
難しい表現になりましたが、要は外から観察するか、内にダイレクトに入るかの違いですね。
この、内に直接エネルギーを感じるというのでは、まさにタロット(の世界)にそのまま入ると言えるタロット瞑想・パスワーキングなどが有効ですが、一人でするのには難しいところがありますし、やや問題がないわけではありません。
そこで、特殊な方法ではなく、しかもシンプルなものとしては、タロットを自分で描くという作業・学び方があります。
これはタロットが表している「何か」を、絵として再び自分流で表現してみるという方法です。
まずはタロットをそのまま描写(転写)してもよいですし、いきなり一枚のカードから画用紙に自由に書き殴ってもよいです。
確か、こういったことのために、白紙のタロットがあったように記憶していますが、今も販売されているかどうかはわかりません。
別にそういうキットを購入しなくても、自分でタロットのサイズに紙を切り、一枚一枚、特に大アルカナ22枚を自分なりに描いてみるとよいでしょう。
最初は自由に描いていいのですが、できればそのまま写すのではなく、自分なりに理解したもの・感じたものとしてタロットを表現してみるのがよいです。
そして描く時は極めてシンプルに、「→」とか「○」とかの組み合わせのような、記号的にしてみるとなおよいです。
そのほうが実は難しいのですが、かなりタロットの学習になります。
これは何をしているかといえば、タロットから(が示す)流れるエネルギーを削ぎ落とし、さらに単純なシンボルにしていることになります。
これができれば、あとはは外側(周囲)のものに、そのシンボルが現れていないかを見ます。
するとそのままにシンボルが本や町の看板で出ていたり、ある瞬間の光景(流れる雲とか人の流れとか)になっていたりすることがあります。
全部は大変かもしれませんから、「愚者」から「戦車」くらいまでやってみるとよいでしょう。
ちなみに何人かの同じタロットを学んでいるグループがあれば、みんなでそれをやってみて、比べてみると大変面白いことがわかります。まあ、私の学習会でもいつかやってみようかとは思っていますが。
マルセイユタロットは実は一枚ずつでもたくさんの細かな象徴があり、それが絵柄の人物や建物などと集合して、ある種の複合したエネルギーを表現しています。(でも「ひとつ」でもあると言えます)
ですからなかなかシンプルにとらえようとすると、難しいところがあるのです。
しかし、それができると非常に物事を統合化したり、反対に分析・具体化(解体にもつながる)したりすることに長けてきます。
言ってみれば、いろいろなことの把握力が増すということです。もちろんタロットを理解する手助け・訓練にもなります。
ぬいぐるみの大人活用
このブログをご覧になっている方は、ほとんど大人の方だと思います。
ですから今回のテーマは「ぬいぐるみ」だと言うと、大の大人が「ぬいぐるみ」なんて・・・と笑われるかもしれません。
しかし、これが意外にも、「大人のぬいぐるみ活用」というのがあるのです。
まずそれにはやはり、子供と同じように、モノにも心があるというような、唯心論(そういう純粋な気持ち)に戻る必要があります。
いわば、「ぬいぐるみ」と会話する決意(^^;)を自分がするです。それができない、ばからしいと感じる人は、残念ながら今回の記事を読まれるのはやめたほうがいいです。(別にそれが悪いわけではありません)
さて、こうして子供心に戻ったところで、あるいはぬいぐるみと会話してもいいという気分(笑)にある程度なったところで、町に出てぬいぐるみを探しにでかけましょう。探すというより出会うと言ったほうが近いかもしれません。
さすがに大人一人、それも男性では恥ずかしいという方は子供さんや奥様と一緒にでかけるなど、工夫してみてください。(苦笑) 別に通販から入手されるのもいいのですが、やはり現物を見たほうがその後の活用にはスムースです。
するとですね、ぬいぐるみのほうからあなたに語りかけてきます。何かまるで、「ぼく(わたし)をあなたのところに連れって行って!」と訴えかけてくるようなぬいぐるみが見つかるのです。
たとえたくさんの同じ種類のぬいぐるみ中でも、なぜかそのぬいぐるみだけが気になるということがあります。
ただ人の所にいた中古のものではなく、新品のものにしてください。(古いモノはなにがしか前の人の情報が入っていることがあり、その影響を受けるおそれがあります)
こうしてあなたの家に来たぬいぐるみは、実は特別な縁があり、すでにあなたと反応ができやすい状態にあります。
簡単に言えば、そのぬいぐるみはあなた自身でもあり、あなたから現れた別の人格・心のようなものをもった存在と言い換えられるものです。
そのぬいぐるみには魂があると思うことで、まさに本当にそのような存在になるのです。
こうすると、それはモノではなく人のような存在になりますから、あなたとコミュニケーションが可能となってきます。
何かあるとそのぬいぐるみに語りかけるようなことをしていると、反応や答えもありありと還ってくるかのように感じてきます。
もちろんぬいぐるみ自身が意志を持って動いたり、物理的に外見上変化があったりするという(そういうこともないわけではありませんが)わけではなく、心でわかるというようなものです。
そして時々、ぬいぐるみの性格が入れ変わったり、反応に変化があったりすることがあります。
この時は自分に起こることの予知(そうした事態か人間が実際に現れる)であることが結構あります。また自分の投影として、自分自身の今と今後を知ることにもなります。
これはいわば、自分の世界を、ぬいぐるみというものを通してスクリーン化している感覚なのです。
実は同じようなことはタロットでもできますし、タロットカードを人格的に見ることの実感訓練に、人形やぬいぐるみを使うことがあるのです。
それからぬいぐるみを第三者として、自分やパートナー・相手との間、家族間の仲裁や中和の存在として扱うこともできます。ぬいぐるみに別のモノの見方をもった人として登場させるのです。
「あなたはそう言うけど、○○さん(ぬいぐるみの名前)にも聞いてみましょうか」
「(ぬいぐるみがしゃべるように) えー、わたくしはですね、それについてはこう思いますよ、かくかくしかしが・・・」
というような腹話術みたいな使い方です。
これと少し似ていますが、自分の代弁者としてぬいぐるみを活用することもできます。たとえば自分が素直になれない時に、ぬいぐるみを自分にして、本当の気持ちを語るような感じです。
こういうことも、結局は自分(やその場にいる人の誰か)の分身を見ることによって、自分の確認作業を行っているのです。
ですから分身のような(ぬいぐるみ)のような自分がいることにも、驚きと発見があります。
たとえは悪いですが、多重人格を自分で演じて自分で統合・治癒するような使い方に、ぬいぐるみは活用できるのです。
それから自分の中にある多重な人格を統合コントールするには、それぞれに名前をつけることがまずは有効です。
ですからぬいぐるみと会話する前(あるいは過程においても)、ぬいぐるみに名前をつけること、名前を知ることはとても大切です。
タロットと数
先週末から東京に出張し、マルセイユタロットの講座を開始しました。
学び熱心でタロットセンスのあるすばらしい受講生さんたちに囲まれ、今後の講義も私自身楽しみになっています。
今までも四国へ行ったり、私のフィールドである関西でも結構遠方まで出向いたりしておりましたが、改めてこういうのもよいなと感じました。何より、講座ができる環境、受けていただく方とのご縁の有り難さが身にしみます。
以前私はタロットの講師になることを考えていた時、「愚者」のようにタロットを袋に入れて(笑)、全国に伝え歩くようなイメージを、それこそ「愚者」のカードの中にイメージを没入させつつ体感していました。タロットを使うと、本当に実現力が増すのですごいです。
さて、その東京での講座の時にもご質問があったのですが、数とタロットとの関係について、少し私の考えとともにお話してみたいと思います。(あくまで私の考えですから、正しい・正しくないと見るのではなく、参考意見として読んでください)
タロット(ここでいうタロットはマルセイユタロットと考えてください)には、「数」を持つカードがあります。そのため、タロットと数の関連は古くから秘伝も含めて研究されてきました。
有名なのは22枚の大アルカナの数と、ヘブライ文字などとの数の符合ですね。
また特に大アルカナにはナンバーがふられていますので、生年月日による計算などによって、数秘術的にもカードと関係をつけられることがあります。
この中のひとつの技法として、計算によるソウルナンバー、パーソナルナンバー、イヤーナンバーを導きだし、それぞれ、その数を持つカードと関係づけるというものがあります。
ここで問題となるのが、まずここで述べられている「数」とはシンボル(象徴)の「数」であるということです。私たちが通常扱っている数字とは異質なものです。
そして、カードの絵柄もシンボルです。
数もシンボル、タロットの絵柄もシンボルなのですが、シンボルというものはまったく同じというものではありません。
ただ同じ根源的な何かを表してはいます。
たとえば、「日本」というものを象徴するものには、「日の丸」もあるでしょうし、「着物」かもしれず、また「刀」かもしれません。
ですけども、それらを単独で見れば、着物からは成人式をイメージする人もいるかもしれませんし、刀からはゲームを連想する人もいるかもしれないのです。
つまり、シンボル・象徴は「何か元なるもの・一つのもの」を想定するとシンボル同士共通しますが、それらがないと、シンボルはほとんどバラバラに想起されてしまうものでもあるいうことです。
これは実はタロットの絵柄と数にも言えることです。
たとえば、「隠者」というカードにはローマ数字で9(表記の関係であえてアラビア数字にしています)という数があてがわれていますが、だからと言って一般的な「9」という「数」が象徴するすべてを「隠者」が表しているわけではないのです。
「隠者」が象徴していることは、確かに「9」という数にもシンボル的に有しているものがあるのですが(その逆もあり)、それがイコールではないのです。(タロットの場合は、数の象徴的な意味だけではなく、単純に順序・番号としての「数字」の意味もあります)
もちろんタロットは、でたらめに数を配置しているのではありません。やはりその数を持つ意味があって数が配当されています。
しかしながら、数そのものをシンボルとしてタロットの絵柄を見ていくと、そこに微妙な違いや齟齬が生じます。(このために、ソウルカードなどの技法に違和感が出ることがあります)
「数」だけではなく、カバラーの生命の木や占星術的配当をタロットにあてはめていくと、やはりなにがしかのずれが見られると思います。(こられを修正・調整するために、数などが入れ替えられたりすることが他のタロットではあります)
いわば、タロットはタロットとして完成されているひとつの「世界」なのです。
宇宙や神、真理の構造を、カードの絵柄と枚数によってモデル化したものがマルセイユタロットだと考えられます。
同様に「数」は数そのもので世界や神を象徴しているのです。
数はそのシンプルさゆえに、もっとも合理的で削ぎ落とされた象徴・シンボルだといえ、だからこそ他の分野にも「数」さえ見い出せれば連関・コラボしていくことも可能になります。
ただし、「数」は逆にあまりにシンプル(つきつめればひと桁の数になります)で、絵もなく文字(数の表記・記号)もあっさりとしているので、いろいろな想像の対象になります。
様々な世界観が数に投影され、混交されてしまうということです。一言でいえばおおざっぱになります。(よい意味では統合性があることになります)
数は計算によって出すことが可能ですので、個別性もあるとはいえますが、その本質は極めて全体的です。
それは誰にでも当てはめることができる反面、個別的・具体的には慎重に本質を見極めないと、ただ表面的な占い判断になるということでもあります。
タロットとの関係に戻りますが、要はタロットと数はある意味、大変共通性を持つと言えますが、ずれや異なる部分もあると認識しておくとよいということです。
ただし、タロットも「数」も、究極的には宇宙や神、真理といった根源に我々が近づくためのツールであり、象徴という点では同じです。
そしてそれは反対に考えれば、根源からの個別表現(タロット・数による分波エネルギー)でもあります。
タロットでも「数」でも、その表現しているものが何なのかを深奥(知識と心)で把握していくと、やがてそれらはあまねく私たちの世界に別の形(表現)で存在していることに気が付きます。
そうなると、タロットも「数」もこの世界をコントロールする(識る)ためのツールであることを発見し、シンクロニシティ(偶然の必然、世界を識る手がかり、ヒント)にも頻繁に遭遇する(もともとあったのですが、見方が変わって意味ある世界に気がついてくるということ)ようになります。
これがタロットや「数」を「使いこなす」ということにつながってくるのです。
「数」で自分の運命や流れ、個性を知ることはその第一歩ですが、あくまでそれはほんの表面にしか過ぎません。
タロットに「数」があるということは、それによって「数」を考えるきっかけ(根源としてはイコールだが、表現としてはイコールではないことに留意)ができるということで、その意味でタロットから見た「数」を活用するとよいでしょう。
その時、「数の表現」と「タロットの表現」とを混同しすぎてしまわないよう注意すればよいのです。
あなたの内にいる「たくさんの自分」たち
現実を変えるには、まず自分を変える必要があるとよく言われます。
しかしあまりに自分を変えることばかりに意識が向きすぎ、今の(これまでの)自分自身を卑下したり、否定したりすることになっては本末転倒です。
変えるために最初に行うのは、過去と現在、時には未来の自分も認めることであり、究極的には愛することでもあります。
とはいえ、自分の肯定は易しいようで、意外に難しいものがあります。
それはいいいところも悪いところもすべて受け入れなくてはならないからです。
いいところを認めるのは気持ちがいいものですが、悪いところは誰でも認めたくないものですよね。
また、人によってはいいところを認めることすらできにくい人がいます。
これはいつも自分が悪い、自分は不幸だ、自分はよいところが何もないと、まさに自己否定の人生を歩んで来た方、あるいは歩まされてきた方にいらっしゃいます。
そこまでではなくても、何かひとつやふたつのことがひっかり、自分を肯定することができないという人も少なからずいます。
こういう人は完璧主義であったり、長男長女的に真面目で親や周囲の期待に応えなければならないと生きてきた方にありがちではあります。
人から見ていい人、できる人、問題ない人で「なければならない」と、自分に縛りをかけてきたので、少ないものでも欠点として拡大解釈し、自己否定して落ち込むわけですね。
人には生きていくための仮面(ペルソナ)的人格が、多重性人格障害ではなくても、誰でも程度の差こそあれ存在していると言われます。そうしないと自分を守る上でも生きていけない面があるからです。
しかし、時に仮面が多くなりすぎたり、仮面の一部が強くなりすぎたりして、自分の本質がどれかわからなくることがあります。
ただ実はどの仮面も自分(の一部)ではあるので、すべては本質だとも言え、本質を特定することは矛盾することでもあるのですが、大切なのは仮面をコントロールする本体や制御装置のような自覚体を持つことだ考えられます。
仮面たちはあなたを守り、生きるために必要なものとして出現したきた者たちでもあるので、彼ら彼女らを認め、労いの言葉をかけることです。
最終的にはそれぞれの仮面の役割を認識し、今後も必要なのか、あるいはもう必要ないのか、必要であっても従来のままのエネルギーの仮面がいいのか、エネルギーを少なくすることが求められるのかなど制御していくことで、本当の意味であなたは変わることができます。
こうした自己の一部でもある仮面たちを否定、あるいは無視したまま変革を試みようとすると、必ずあとであなたは潜在する仮面たちに苦しめられることになります。(直接的な抵抗に遭う場合もあります)
このような仮面の抵抗によって改革が進まない時、マルセイユタロットでは「13」(逆)がよく出ます。それから過去を向くべきカードが解決に出たり、未来に行くべきカードが問題状態となったりすることもあります。
マルセイユタロットでは、こうした仮面たちそれぞれを、カード展開やカードそのもので確認することができます。
心理的にはあなたに内在しているペルソナを、絵のカードとして外在化させる作業と言ってもいいでしょう。
さらにはその仮面・ペルソナを受容させていく方法がタロット自体にあるのですが、それはまた講座等でお伝えできたらと思います。
とにかく急がず慌てず、あなたの内にあるひとつひとつを認めていく作業を試みていくと、それぞれの仮面たちが今度は天使・協力者としてあなたの作業の応援に回るようになりますので、決して自己を見つめることは無駄にはならないでしょう。
マルセイユタロットを学ぶひとつの意義は、この作業のツールとして活用するということなのです。
あなたは周囲に反応し過ぎていませんか?
タロットには「隠者」というカードがあります。
その名の通り、「隠れている者」と解釈してもいい人物ですが、ではなぜ隠れる必要があるのかということを考えてみるとよいでしょう。
もちろんこれにはいろいろな理由が想像できます。
またタロットの種類によって、同じ「隠者」であっても微妙に意味も違って来るでしょう。つまりは絵柄による違いが意味の相違も導き出すということです。(これは結構重要なことです)
そうした様々な違いはありますが、今日はひとつの意味を取り上げて、現実に活かすということを書いてみます。
「隠者」は世間から隠れているわけですから、言ってみれば、山の中や誰も近寄らない場所などで一人籠もっている状態といえます。
ということは俗世間には興味がないことになりますし、その必要性もないのでしょう。
ただ一般の我々、普通の人間からすれば、孤独に一人、人里離れたところにいるというのは生活もしにくいですし、現実的ではありません。
ということで、このカードをそのまま「山に籠もるべし」などと読むのではなく、精神的なこころのあり方、実際環境でできる「隠者」的行為として考察すると、カードを現実に活用できることになります。(これはほかのカードにも言えることです)
「隠者」の場合、簡単にいえば、「外にある状況の影響を受けずに、内なるものに集中せよ」ということが浮かんできます。その意味では「吊るし」とも似ているでしょう。
たとえば先日までオリンピックが開催されていましたが、もしそうした世間一般の情報や状況から自分を遮断していれば、オリンピックの選手の結果に一喜一憂することはなかったでしょう。
このように、何かを見たり、何かに反応しようとしたりすれば、普通は必ず心の変動(波)が生じます。言い換えれば感情が起こるということです。
人は実は感情によってふりまわされもしますし、「感動」という言葉があるように、心が動いてすばらしい体験をすることもあります。
オリンピックを見ていて、生活リズムを崩した人がいたり、まさに「感動」したりした人がいたことがそれを物語っています。
ここでは「感情」が悪いと言っているのではありません。ただその感情に自分を支配されてしまっては、自分の人生がまったくのノンコントロール状態の奴隷と同じようになるということに注意をしているのです。
そのためのひとつの対策としては、自分を静かな環境に置くということが挙げられます。
現代では多くの行事やイベントへの参加要請と情報、さらには広告宣伝による日常的な心への刺激攻撃にさらされていますので、不必要な行動と騒々しい環境に身を置くことがよく起こります。
そのため、さっきまで安定していた心も、周囲からの刺激によって、自分の心に変動(波)が起きてしまい、抱えなくてもいい悩みや不安、思いや考えを持ってしまうことになります。
これがあなたをさらに迷わせることになったり、エネルギーを浪費したりすることになるのです。
ただ逆にいえば、心が動かない環境は味気ない生活でもあるので、刺激に慣れている人にはとても退屈だと感じるでしょう。
実は心を波のように動かすことで、逆にある種の自分のエネルギーにしていくことが秘伝では言われていることですが、それはなかなか難しいことなので、今回は無闇に波風立てないほうを書いています。
「隠者」に戻りますが、「隠者」と「吊るし」で違うところは、「隠者」は蓄積された智慧をもって探求(探究)しているところにあります。
あえて社会や周囲から隔絶した時間と環境を持つことで、自分の心(内側)を穏やかにするという点では、「吊るし」も同様だと言えますが、「隠者」では一方で能動的に、そうした静かな環境を確保したうえで自分の探究を行っているところが重要です。
今まで自分が培った知識や経験をもとに、周囲の雑事にふりまわされることなく、一人の時間をもつことによって、本来自分がなすべきことがよく見えてくるのです。あるいは本分に集中できると言ってもよいでしょう。
ですから時には人の誘いを断ったり、予定していた計画が本当に必要なのかを吟味したりして、無駄な刺激のままに過ごしていないかチェックし、孤独な一人の時間、静かな環境を持つことが勧められます。
そうすると、いかに普段、私たちは外からの働きかけで心が反応し、それにふりまわされているかを知ることになるでしょう。
現代人の心労や心の定まらないような意識は、多分に環境にそのままに反応している点が多いと感じます。