タロットの使い方
マルセイユタロットを知って日本を知る。
タロットと聞けば、皆さんは西洋的なものというイメージが浮かぶでしょう。
事実、タロットは基本的には西洋で作られたカードなので、それは間違いないことです。
ただ最近は「タロット」と名のつく絵のついたカードはたくさん創作されていますから、その中には中国風やインド風のもの、その他エスニック的な色合いを持つカードなど、いろいろ存在していると想像されます。もちろん日本的なものもあるでしょう。
ただ、それ(雰囲気や絵柄)とは別に、タロットからそれぞれの民族や私たち日本との、特に目に見えない部分でのつながりを見て取ることも可能なのです。
私の扱っているマルセイユタロットは、それが顕著です。なぜならば、マルセイユタロットは歴史ある伝統的なタロットだからです。
私自身、マルセイユタロットと出会い、これに親しんできますと、最初は西洋的なものへの探究に向かいましたが、次第に日本の霊的ともいえる伝統や特質へも回帰する傾向が強くなってきました。
このようになるのも、実のところ、西洋でも日本でも根源的なものは同じだと感じるようになるからです。
マルセイユタロットは霊的なイニシエーションを含む伝統的なものを内包していると考えられるため、マルセイユタロットを学んでいくうちに、いわば世界共通のシンボル・象徴として元型的なものの理解が進んでくるようになります。
そういう意味では、どの国・どの民族においてもマルセイユタロットの奥底に流れているものは共有されるのですが、自分自身が日本人であるからなのか、私には日本の源流的なものへの関心がさらに想起されるように感じるのです。
講座の中でも、私はタロットカードの名前やカテゴリーの名称について、日本的な呼び名で扱うようにしていますし、受講者の方にもそれをお勧めしています。
一般的にはタロット関連の呼称は西洋的に英語で呼ばれることが普通です。(カップとかコインとかコートカードとか…)
私があえて日本的な呼び方を採用しているのも、前述した伝統性・霊性を理解するうえでは、おのおのの国や民族の伝統性に即したほうが逆に本質を「感じ取り」やすいためなのです。
当然ながら、表面上の名前とか呼び方だけを変えても意味はありません。その心というか精神を感じることが大切なのです。
ここで急にやわらかいたとえになりますが、かつて「美味しんぼ」というグルメ漫画で、主人公・山岡士郎と父親の海原雄山との料理対決において、主人公は「フグの白子」に似たものを表現するため、「タラの白子」を提供したのですが、海原雄山はそれを用意した山岡士郎を嘲笑しつつ、自分は「子牛の脳みそ」を出した話がありました。
海原雄山いわく、「最上の芸術は、同じく最上の芸術をもって語らねばならない」ということで、レベルの落ちた同種の代用品では本物の質を表現できないと言いたかったわけですね。(白子や脳みそが実際に料理としておいしいかどうかは別ですが…(^_^;))
これとはやや趣は異なりますが、西洋の霊流や深奥部分の理解には、日本の伝統に基づいたほうが把握がしやすい面があり、その逆方向もあるということです。
先述の漫画の話でいえば、「白子」や「脳みそ」としては別々のものでも、両者が共有するおいしさ・特質こそは私たちが本当に理解しなければならないものだとなります。
言ってみれば知ろうとしているのは本質や真理であり、それには西洋も東洋もなく、根源的に同じだということなのですが、一方でそれはレベルや表現があまりに違い過ぎると理解に支障を来たすことにもなりかねないのです。
その意味ではマルセイユタロットは他分野の深い部分を整理し、理解するうえでは安心してお勧めできるものです。
ですから、逆説的ですが、「日本(の伝統や古代哲学、霊的なもの)を知りたければマルセイユタロットを学べ」と言うこともできるのです。
占いの「当たる」ということを考察してみる。その2
前回から占いでの当たるということについて考察を進めています。
この前は「実は何を言っても人には当たっている部分があるのだ」という、いわば究極のぶっちゃけ理論(笑)を展開いたしました。
前回の記事を読んで、「な~んだ」と思った方もいらっしゃるかもしれませんが、わかる人にはわかると思いますが、「当たる」ことについて書きながらも、違うこと(別の大切なこと)に対して気付いてもらうために記しています。
だから単純に、「何言っても当たっているのなら意味ないじゃん」と思ったり、「いや、当たるということはそんなレベルや話ではないんだ!」と異議を唱えたりすると、記事の真意が伝わっていないことになります。その時は私の書き方が悪いということでもあると思いますので、お詫び申し上げます。
さて続きです。
占いの「当たる」ということについて、今回はちょっとタロットに限定して話してみたいと思います。
占いでタロットを使えば、どうしても今まで起こったこととこれから起こることの予想、そしてそれが自分にとってよいものか悪いものかという判断が(相談者には)重視されるようになります。
その結果、カードに対してある特定の意味をタロットリーダー側は付与するようになります。もちろん、もともとカードに書かれてある絵柄とその象徴から出る多層かつ抽象的な「意味」はあります。
しかし、この場合はもっと具体的で白黒はっきりしたものということです。
たとえば一般的には「塔」と呼ばれるカードが出れば、不吉(凶)で崩壊が起こるという具合です。さらにそれがある占い師にとっては、「恋愛での別れ」をほぼ必ず意味するのだというようなことです。
これはいわゆる科学的な解釈や理屈では説明つきにくいのですが、「同じ波動的なもの・質的なものの共鳴・引き寄せ」という概念を取り入れば(これも非科学的なものとされますが、考え方として受けってください)、ある程度理解が可能です。
それはこういうことです。
まず占い師が学んだり、覚えたりしてもともと知っているカードの知識(意味)をもとにしながら実占を続けます。そのうち占い師は、「どうもこのカードを引くと、こういう意味になることが多い」と経験則で感じるようになります。
それをふまえて、今度は逆に「このカードが(こういう形式で)出れば、こういう意味なんですよ」と、相談者に占い師が告げるようになります。
この場合、当たらないこともあるでしょうが、当たっていると感じた相談者からは驚嘆めいて、「すごい、当たっている」と言われることでしょう。
さらには占い師が詳しいことを言わなくても、「当たっていた」その実際の事柄を、相談者自らが「自分の出来事(これが具体的なこと)」として思い、話します。
これによって、抽象的な意味合いだったカードが、より具体的な意味を持つようになるのです。この繰り返しによって、カードはその占い師によって個別の意味として強化・ 固定されていきます。
ここで重要なのは、カードの持つ絵柄からの「質」や「波動」的なものが、占い師が実占で意味を強化していくたびに、磁力のようなものを帯びていくようになるということです。
もともと存在しているカードの「ある質」が、占い師によってその質(カラー・色と表現してもよいもの)を濃くしているのです。(実際にカードが出ることによって印象が強められることでもあります)
印象やイメージは、実はこの「磁力のようなもの」として表現したある種のエネルギーや質を強めます。相談者の驚き(感情の波・起伏)もさらに力となります。
つまり、「カードのもともとの絵柄による「質」、「占い師のイメージ・印象」、「カードが実際に出ること、引かれること」、「相談者個人の体験・出来事との合致、驚き」の相互作用によって、カードの特質が非常に色濃くなるわけです。
このようにして磁力を帯び、特質をかなり濃密に表現するようになったカードは、今度は相談者の相談内容の質(波動といってもいいかもしれません)に応じて、同質的に引き寄せられるかのように登場するのです。
そして、意味の具体化(白黒や吉凶も含む)も進んでいますので、そのカードが出たからその意味を表すということもありますが、逆にそのカードがその意味(の現実・具体)を引き寄せるようなことにもなってくるのです。
言ってみれば、まさにカード自体がその意味や事柄そのものになっているのです。
従ってそれ(ある特定のカード)を引くということ、それを受け入れるということは、実際に相談者がその意味や事柄を起こしたということに等しいくらいの状況を呈するのです。
このシステムのもとにカードが出ますと、「恐いほど当たる」というタロットの印象につながります。
「すごいよタロット、当たるどころか、カードの意味そのものを起こすこともできるなんて!」と思ったあなたはまだ真意を理解していません。
タロットはかように、時にすごいパワーを持ちます。それだけに扱いも試されます。
あなたがどのようにタロットを使うのかは、まさにあなた自身に任されているのです。
タロットリーディングの正しさの基準
タロットリーディングは知識と感性、直観やインスピレーションなどが混ざり合って行われます。
そこには思い込みもあれば、神聖さ、純粋な気持ちも反映されます。
ですから「何が正しいか(どんなリーディングが正しいのか)」という観点に立てば、正しいものを正しいと判断する基準(モノサシ)が不明なため、結局わけがわからなくなります。
逆に言えば、混迷に陥らないためには、リーディングの正しさを判断する基準を自分なりに何か持たなければならなくなるということです。
それが占いになれば、当たるか当たらないか、幸運を獲得することかできるかという基準になりがちです。
すなわちリーディングが当たったり、幸運をつかむことができたりすればタロットリーディングは正解だった(正しかった)となるのです。
占いの場合は占い師の信用、営利的な問題もあって、このような判断基準のリーディングになることもやを得ないことは実状としてあると思います。
しかしながら、それだけでは白黒の世界で、いいか悪いかの二元的な判断ばかりとなり、統合の道やいいも悪いも超えたモノの見方、新しい調和の方向、高い次元への進展が難しくなります。
この世の中は白や黒ばかりではなく、その間のグレーやグラデーションが多層に重なってできており、それらを行きつ戻りつしながら循環し、繰り返しているのです。
私たちが幸運だと思っていることの裏には不運が隠されていたり、波のピークとして幸運を見ればそれは不運という下降の始まりでもあります。
幸せ観というのも人によって、また環境や時代によって、まさに「それぞれ」だと言えます。誰かと比べる自分の幸せというものが実は多く、それは最終的には幻想となります。
だからこそ、相対的な幸せより絶対的な自分としての幸せ(自分基準の幸せ感)を感じれられるようになるほうがよいでしょう。それならば、周囲がどう変化しようと自分の幸せ感は変わらないからです。
結局のところ、自分であれ、相手であれ、この絶対的な幸せ感を基準としてリーディングの正しさを追い求めるとよいのではないかと考えられます。
それは換言すれば霊的な向上の道ということが言えるでしょう。ただ、ちょっと一般的にイメージされている「悟り」というものとは異なるものではないかと私自身は思っています。
この道は自分の何かを増やすというものではなく、もともとあったものを思い出すという方向性です。
相対的な幸せを求めると、どうしても「増やす」「追加する」「拡大する」というように想像してしまうのですが、本当は逆だと思います。
もともと「ある」ので「増やす」必要はなく、「ある」ことに気付くことが大切なのです。
それは外ではなく内に目を向けなくてはなりません。しかしただひたすら瞑想して内観するということではなく、外と関わりながら内(自分)を見て「ある」ことを思い出す作業です。
「ある」ことを実感するためには、反対に「ない」と思い込んでいる、あるいは思い込まされている「枠」や「縛り」のようなものに気付いていく必要があります。
これは知識からでもよいですし、感覚からでもよいのですが、できれば両方からのアプローチが理想です。この作業を繰り返しながら、自分を「在る」「満ちている」状態にさせていく(取り戻していく)のです。
これが象徴的に絵柄や道程として描かれているのがマルセイユタロットだと私は感じます。
「学び」の観点を広げるために。
学びの方法と言うと、一般的には本から、人から、環境から・・・となり、具体的にはセミナー・講座などに出たり、目的をもって読書したり、誰か尊敬する人に弟子入りしたり、仕事したりというようなことが思い浮かびます。
ただこれも思い込みに過ぎません。学びのイメージが固定されているのですね。
考えてみれば、私たちの周囲にあるものは皆、学びにつながります。自然や動物、時には落ちているゴミですら、自分の気づきや学びになるかもしれないのです。
こうした学びの対象の幅を広げるには、あるコツがあります。そのポイントをふたつほど挙げたいと思います。
1.見た目や他人の評価にとらわれず、本質を見ること。
2.「象徴」や「シンボル」での見方を獲得すること。
1はたとえば、子どもなど普段自分より下だと思っている人、自分よりわかっていないのではないかと想像している人(それだけでも傲慢になっているのですが・・・)から何か言われた時、最初から「おまえがいうな」という感じで聞く耳をもとうとしないかもしれませんが、実はとてもよい内容を言っている場合があるというようなことです。
言っている人間の年齢や立場をひっくるめて評価してしまうので、話している内容としての本質そのものと切り離せていないわけです。極端なことをいえば、犯罪人でさえ、時には本質的に示唆に富むことを話すことはあるものです。
これは人だけではなく、ものや環境でも言えることです。「とんだ職場に来てしまったものだ」とか、「これはまったく使い物にならないよ」と思いこんでしまえば、そこから学ぶものは何もなくなります。
あなたに与えられた状況、何か自分に気になることが起こっているということは、ことの善悪、好むと好まざるに関係なく、何か意味があると考えるのです。
さて2ですが、これは非常に重要です。なぜなら、現代人の多くはこの象徴・シンボル的見方を捨ててしまっているからです。
偶然見た外でのシーン、たまたま聞こえてきた人との会話、雲の流れ、鳥の羽ばたき、天体の動き・・・そして重なる偶然のような必然の数々・・・これらはシンクロニシティという言葉とともに自分にとって意味あるつながりとして、象徴的に解釈が可能なのです。
自分の思っていることとは一見まったく無関係のモノや状態であっても、象徴としての理解が伴うと、それらは一気に関係とつながりを持ち始めます。
この考えを推し進めると、自分を取り巻く世界にはすべてに意味があり、無駄が無く、バランスも計られているということに気がつきます。
そうするとそれを構築した完全なるもの、いわゆる「神」的な存在を自然に想定し、その偉大さに敬意と感謝を思わずにはいられなくなります。
逆にいえば自分がいるからこそ完全であるのだという気づきにも至り、自分はもとより、一人一人の命の大切さを思うこともできるのです。
そして象徴的絵柄でできているタロットは、こうした象徴的解釈を思い出し、発動させるのには最適なツールなのです。
タロットをよい道具とするためには。
タロットとのつきあい方にはいろいろな方法とスタンスがあります。
ここでも何度か書いているように、ヨーロッパ、特にフランスでは現代でもタロットは一般的に「ゲーム」という感覚が普通で、それは私たちが思う「トランプ」に近いものだと推測されます。
ゲームだと思えば当然ゲームの道具になりますし、日本ではタロットは「占い」と見られていて、そうとらえればまさに「占い」の道具とタロットは化します。
一方、私はタロットを「自己実現」や「霊的向上」の指針としたり、心理的な観察道具に見立てたり、あらゆるものを象徴化し、物事や真理の把握に使ったりするための活用ツールとしてタロットを伝えています。
またあまり知られていませんが、ヒーリングやエネルギー調整、心身の癒しの(象徴ではなく直接的な)道具としてもタロットは使えます。
ほかにも暗記道具、能力開発、願望実現、直感・直観力の向上としても使うこともでき、本当に様々です。
こうして見ると、タロットのツール・道具としての活用性・応用性・柔軟性は際立っている言えます。
ただそれだけに、タロット自体を神だとか、怪しく得体の知れないもの、超越的なものと思い過ぎるのも問題だといえます。タロットの言いなりになったり操られるのではなく、うまく活用することが大切です。
タロットは非常に優れたツールですが、あくまで「道具」なのです。主人公は私たち人間です。
極端なことをいえば、成長や発展が叶えば、いずれタロットから離れてもOKなのです。いや、むしろそうなるのが理想でしょう。
いわば、タロットは私たちの中に眠る崇高な精神や高い能力を目覚めさせる働き、手助けをする天からの使いなのです。言い換えれば神性の発動や回復に向かう自己作用の覚醒装置です。
しかしながら、神とは完全であるため、時として悪魔と称される次元や見方も出てくることになります。
これは私個人の考えですが、神と悪魔は二元で対立するのではなく、神の中に悪魔もいる(悪魔段階を通って神に至る)と見ています。悪魔も神の表現のひとつというわけです。
ですから神性の覚醒が始まると、自分の悪魔的部分も現れてくることもあるのです。
それを超越していくのが向上の道です。しかもそれは次元やレベルがあり、まず小さな悪魔と小さな神を実現して、大きな悪魔と大きな神、最終的には完全へと至るのです。
少し話しがそれましたが、タロットは道具ゆえに、あるレベルになりますとタロットを展開しなくても(出さなくても)タロットが象徴するエネルギーやメッセージが現れてくるようになります。
私の場合は、リーディングで実際に出たタロットとは別に、クライアントの背後や周囲にタロットカードが一枚、もしくは数枚組み合わさって見えるような感覚があります。(見えるというより感じるというほうが近いです)
それはタロットがある種のエネルギーや波動、もしくは物事を象徴しているからで、それが把握できるようになってくれば、タロットの絵柄として感じられたり、クレヤボヤンスのように見えたりするのだと想像できます。
ただ、タロットは道具とはいえ、単なるモノとして扱うことは問題であり、タロット(のチカラ)を発動させることができません。
タロットを人間のように見て、魂と心の存在として扱わないといけないのです。これはタロットの霊(精霊)という存在を知り、感じる必要があります。
ここが物理的な道具と霊的な道具との違いです。
言うまでもなく、タロットは霊的なツールなので、唯物主義の人や、モノや目に見えないものに心があるような感覚が信じられない人には、タロットはただの物理的な紙のカードに過ぎなくなります。
同じ「かみ」でも「神」への道のツールとするためには、タロットに対してそれなりの扱いが必要なのです。