タロットの使い方

目に見えないもの、見えるものの同質性。

先日より「毎日」のブログ更新から「隔日」に変えたため、うっかりペースを間違えてしまい、あやうく本日(3/1)分を忘れてしまうところでした。(^_^;)


ということで時間はずれましたが、今日の記事です。(まあ、今後もそういうことはあるかもですが、ご容赦くださいませ^^;)


あ、そうそう、メルマガ(私の講座を受講された方限定)も昨日(2/29)発行しておりますので、登録されている方はメールボックスをご覧ください。届いていない方は私までお知らせくださいね。


では記事に移ります。


昔、私も物質といえば固いものであり、心や精神(いわゆる目に見えないもの)とはまったく別のものだと考えていました。


その後精神世界やタロットのことを学んだり、量子物理学のことを知るに及んで、どうやら本質的には物質も精神もひとつのもの表現の違いであることがわかってきました。


ただそれでも、まだ実感としてはやはり固いもの・触れるもの・目に見えるものと、抽象的なもの・目に見えないものとはひとつであることは理解がしにくい状態ではありました。


今もそれらは完全に真から感じ取っているかといえば、そうとは言えませんが、そんな状況でも少しずつ両者が同じことが感覚としてもわかるようになってきました。


やはりそれはマルセイユタロットをやってきたところが大だと思います。


というのも、タロットカードもまた物質カード(紙)としてモノですが、描かれている構図・象徴からは単なるモノではないことが表現されており、実際に使っていくなかで、カード自体にエネルギーを感じることもあるからです。


いや、正確にはカードがエネルギーを持つのではなく、すべてがエネルギーであり、カードの場合は特定の絵図の効果によって波動(波長)が変わり、そのことによって、ただの紙から「感じる」ことのできる物質へと変化しているのではないかと考えられます。


かつてアインシュタインはすべて(物質やスピード)がエネルギーに変換できる(言い方を変えれば)と数式で表しました。


ということは、やはり私たちが物質上のものと思っている「形」「固体」もエネルギーであるということです。


もし「エネルギーメガネ」みたいなものがあるとすれば、それをかけると、そこには私たちの見ている形の世界はなく、すべてが波動のようなものに映るかもしれません。


このように考えると、私たちが心で思っていること、また精神的な葛藤や悩みもある種のエネルギー状態であり、物質のいち表現であると見ることができます。


「心が変われば現実も変わる」と、よく精神世界や心理の世界では語られることですが、すべてをエネルギーだと見れば、それもありだとなりますし、逆も(現実・物質・形を変えると心も変わる)また真なりとなるでしょう。


ここに、心だけではなく、場所や空間、そして時間(これもひとつのエネルギーの表現と見ることができます)の重要性も出てくることになります。(時空が心に影響を与えるということでもあります)


心も現実も「固い」となかなか変化しないのは、同じ波動状態にともに近いことになっているからかもしれません。


これ(心と現実の固さの影響)についてはまた別項で考察してみたいと思いますが、このようにあらゆるものをエネルギーとして考えると、目に見えないものも実際に想定することができ、想定(想像)ができれば現実に創造(想像ではなく)することが可能で、つまりは目に見えないものをキャッチする感覚が生まれやすいということになります。


この促進ツールとしては、マルセイユタロットは大いに役立つものと考えられるのです。


タロットの展開法(スプレッド)を選ぶ重要性

私の教えているマルセイユタロットとその展開法には、そもそも「どうなりますか?」という状況判断や、「いい悪い」の吉凶的な診断を求めることにはなじまないものです。


詳しくは書きませんが、展開の構造やルール自体がそうなっているのです。


ということは、もし逆に「この仕事をすればどうなるの?」「この人とつきあうとどうなる?」「これを選ぶといいの?悪いの?」というような質問をする場合は、展開方法を変えたほうがいいということになります。


また、質問が上記のような状況判断を求めるものになっていて、スプレッドがそれになじまないものならば、今度は質問のほう(質問の形)を変えたほうがいいことになるわけです。


タロットをする人でも実はあまり気がついてない人もいるのですが、選択する展開法(スプレッド)によって質問が変わることがあるのです。


質問が変わるということは、通常思われているよりも重大なことなのです。


「質問」それ自体のセミナーや学習・書籍があるように、問いは自分の人生をどう生きるのかに深く関わってきます。


普段発する質問・問いによって、自分の生き方さえ変わってくるのだと言っても過言ではないかもしれません。


たとえば何か問題や困ったことが起きたとき、自分はどのような質問や言葉(心の中でも)を発しているかを注意深く観察してみるとよいでしょう。


「困った、どうしよう?」「どうなるんだろう、これ」「大変だわ」「どうしようもない」「神様お願い、何とかして!」・・・


こういう言葉や問いの類が頻繁に出るようでは、まさに自分の人生の舵取りを、他人や環境・運に任せているようなものです。


「どうすればよいか」「何か方法があるはず」「このことは、善き人生にするためにはどう解釈したらよいか?」などの問いと比べてみるとよいでしょう。


注意しなくてはならないのは、人生には確かに選択の連続ではあるのですが、いつもいつも「いいか悪いか」の二者択一的にタロットを展開し、解釈していくと、自分はその二者択一・白黒・正義不正義二元的な世界に縛られていくようになります。


二元的な世界というのは分離や独立的傾向を持ちます。周囲や他人と常に比べ評価しないといけなくなります。「比べて評価する(判じる)」ということは、そのまま文字通り「批判」気味にもなります。


そもそも、いい悪いという自分の基準も変化していくものです。変化しない基準となれば、それはより高次の宇宙的なものとなります。ここに高みを求める霊的な意味が生じます。


選択するべき現実的必然も人生の場面において当然ありますが、「よい選択をした」「失敗のほうを選んだ」という結果ばかりを見るのではなく、迷いや選択の機会を与えられていること、選択の材料の特質などに思いを馳せることも大変重要なことでもあります。


こうしたことにタロットで気がつくためには、タロットそのものの理解も必要ですが、自分が普段使うスプレッド(展開法)にも気を遣う必要があるのです。


立春 この時期の影響と特徴

今日は立春ですね。


東洋的な占いではこの日から新しい年の運気になるという見方がありますが、確かにこのあたりの季節のポイントは重要だと感じます。


特に今年の場合、占星術上、海王星が水瓶座から魚座に移行する時期と重なっていますので、その点からも強調されるところだと考えられます。


海王星と魚座の感覚をタロットで象徴すると、「月」「吊るし」が浮かんできます。(その他のカードももちろんあります)


一方、節分から立春となる面でも「月」と「太陽」などがイメージされます。ということは、太陽と月(これは象徴的に言っています)のせめぎ合いもあるとも想像できます。


わかりやすく言えば、過去のあなたのとらわれと、新しく生まれ変わろうとするあなたの中で葛藤が生じやすくなる時期でもあるということです。


すでに浄化や変革がスムースに進んでいる方は、まさに今日から新しい自分へと加速度的に変化していくことでしょう。


しかし、おそらくたいていの人は急には切り替わらないところもあり、過去の積み残しのような処理がしばらく続くものと想像できます。


また特に、節分の昨日までに遡る短期間の間に、何か自分の中で前に残っていたようなことが想起されたり、実際の事柄として身に起こっていたりすることもあったと思います。


忘れていた習慣や行動の復活とか、昔のこだわっていた人や考えのことを思い出すといったようなことです。


これも今の時期(切替)の特徴なのです。ですから、過去のことが蘇ることに嫌悪感を示さず、むしろ浄化のための再生だと思って、淡々とこなしていくことです。楽しむくらいでもいいでしょう。


大切なのは執着しないということです。「そういうこともあったね」と、アルバムの写真を見るような気持ちです。


その写真でも鮮明なカラーであったものが、次第にセピア色になり、よいも悪いも人生の一ページとして彩られるというような感覚です。


今後、海王星がうお座に入ることにより、目に見えないものへの信仰、スピリチュアル的な傾向がますます進むといわれます。


けれども私個人としては一般的にいわれる占星術での「星の影響から来る社会や個人としての方向性」で見るより、「個人や社会の状態を星の影響に反映させる」という逆方向で見ることが多いです。


このことはまた日を改めて書きたいと思いますが、天体がこう動いているから私たちもこうしなければならない、こうしたほうがスムースに行くという占い的な見方で占星術を使うのではないということです。


ですから、さきほどは海王星や魚座での影響を述べはしましたが、実はこうした中で自分をただ天体の影響化にさらすのではなく、どう主体的に生きるのかを問うのが天体の影響を説明した意図になります。


たとえれば、特徴ある家・家(天体の運行)に自分が入るわけですが、その家の影響に染まってしまうのではなく、その家が何なのか、自分はその家に入ることで何を学び、どう行動し、自分の総合的な向上のための糧や指針とするということなのです。


このことはタロットでも同じで、タロット・占星術に限らず、自分のための現世的な利益のよしあしの選択のためにカードや星の指針を使うのは、自分をあるものの奴隷にしていることに気がつくべきなのです。


タロットセラピーはまず自分に使う。

タロットを学習することは、昔は占いの勉強や占い師になるためのものでしたが、今はセラピーやカウンセリング的な傾向が強くなっているように感じます。


そうなってきますと、タロットを学ばれる方は人を癒すセラピストになりたいと思う方も増えてきますし、実際に目指されている方もたくさんいらっしゃるでしょう。


広い意味においては、確かにタロットもセラピーとなる面がありますが、私自身は自らをセラピストとしては名乗っていません。


それはセラピストという仕事を広い意味よりも狭い意味といいますか、かなりまじめにとっているからです。人を職業的に癒すことはそう簡単なことではないと思っています。


タロットを対人相談に使うに当たっては、その人を癒さなければならない時は癒しますし、癒しよりもすぐに問題や課題の解決や取り組みを必要としている場合にはそうしたアドバイスにつなげます。


セラピストと限定してしまうと、スタイルが固定されてしまいがち(自分というより外からの印象)ですので、あえて名乗っていないということもあるのです。


ところでセラピストを目指すのであれ、占い師を目指すのであれ、そこには相手を想定したタロットの使い方を意識したものがあります。


それでも、私はまず最初は自分のためにタロットを使うことを実践してもらいたいと思っています。タロットを使って人をセラピーするのなら、まず自分を癒し、心を整理してほしいと願っています。


人が癒されるのはやはり人、つまり自分ではなく他人によってのことが大きいのですが、それはあくまで手段といいますか、最終的には人も癒しの「方法」となります。


その前に自分が癒やされるという意識、癒されてもよいという取り組み(行動)が大切なのです。


変な話ですが、癒されるのでさえ、実は自分の創造意識に火をつけねばならないのです。小アルカナでいえば、杯の前に剣や杖の段階があるようなものです。


皆さんも癒された経験を思い出してみると、つらいことがあった、苦しいことがあった、混沌とした状態にある・・・という何か自分の困った状態の時に、セラピーを受けたり、本や小説を読んだり、映画やドラマを見たり、芸術や自然にふれたりした時に心が癒されたと思います。


そして偶然よりも、自分が「癒されたい」という思いを抱いている「目的意識」があったほうが、癒され度合も大きかったのではないでしょうか。


「癒されたい」という思いは、表面的にではなく無意識のこともあります。ただそれでも癒しのための行動を取った結果、あなたは癒されたはずなのです。


ということは、自分が癒される状況にあり、癒されたいという思いの発動があってこそということになります。それが実は創造性の火花でもあるわけです。


なぜならば、癒されたいと思う心にの奥には、癒されたあと、自分の人生を気持ちよく過ごしたい、創造的に生きてみたいという欲求が働いているからです。


従って、セラピーをしたいと思う人も、他人からではなく、まず自分に対して行ってみるよう勧めているのです。自分で自分を癒すことは難しいかもしれませんが、その志や行動自体に大きな意味があるのです。


またタロットのようなすぐれた象徴ツールがあれば、何もないよりかは、格段にやりやすくなります。


偶然や無意味に思えるものを象徴的に見るという行為。

通常、一般的に意味がないように思うものに対して、意味があるように考えることができた場合、何の得があると思いますか?


この質問自体、何を言っているのかわからないかもしれません。(笑)


実はタロットにおける象徴やその他、タロット以外のものでもシンボル的に扱うことによって意味を見いだすことの利点を説明しようとしているのです。


たとえば恋愛をしていて、空を見上げたら雲の形がハートに見えたとか、今年だったらお正月に龍の姿を雲の形に見たとか、ある事業の契約日を3日にしようと考えていたら、看板にある3という数字が目に飛び込んできたとか・・・また、壁や天井の模様を見ていたら人の顔に見えてきた、偶然見たテレビ番組の特集が自分の心配事と同じだった・・・などなど。


上記のことは、ケースによっては、(スピリチュアル的に)事象をシンボル(象徴)として扱って解釈できるシンクロニシティ的な事柄になりますが、世間一般の常識的な考えでは単なる偶然、思いこみということになってしまうでしょう。


ここでどちらが正しいのかと議論しても始まりません。というか終わりません。(苦笑) そもそも、もとともの前提や出発点、世界観自体が異なるからです。


そこで発想を変えて、偶然や一見無意味に思えるものに対して意味を見い出そうとすることに、何かいいことや効果があるのか?という観点で述べてみます。


結論からいえば、人生を積極的にとらえられるようになると言えるでしょう。言い方を換えれば自分が人生の主人公として意識できるということです。


なぜかと言いますと、世に現れることをシンボルとして意識することができれば、たとえそれが思いこみであっても、自分の中では世界が統合性・整合性のとれたものになってくるからです。


つまり理不尽で無茶苦茶な世界ではないと知る(思う)ことで、この世界に生きる自分を肯定的にとらえることができるためです。


わけのわからない世界に生きて翻弄されるより、きちんと意味のある世界だと思うほうが前向きになれます。


人は理由のわからないことには、とても不安になるものです。思いこみであったとしても、自分の中で整合性が取れたり、理屈を立てることができたりすれば、納得してすっきりとするものです。


また「何か意味があるのでは?」と考えることで、好奇心と探求心も刺激され、精神的に活発になり、若さを保つこともできます。それはまるでパズルを解くかのような知的興奮さえ想像させます。


さらに象徴やシンボルを見ていくようになると、それらによってあらゆるものがつながっていることが次第にわかってきます。


それは理屈のこともあるのですが、直観的なものが主なので、理解の早さや感動の度合いも普通の認識とは異なってくるものなのです。


すると最終的には自分は一人ではなく、大いなるものに生かされているという感謝の念にたどり着くようになります。その繰り返しが象徴やシンボルによって世の中を見るシステムみたいなものです。


こうしてシンボルによってすべてのものが自分とつながってくるようになれば、自分にエネルギーが流入するようになって、知らず知らず自分自身が内的な部分で強くなってくるのですが、そうしたことはわかりづらいので今回は詳しく述べません。


いずれにしても、一見無造作で意味のないと思えるものに意味を自分と関係づけて見い出すことは、自分の創造性(意味を作り出す=創造)を刺激し、この世界を秩序ある意識的(魂的)なものへと変化させ、自分の中に世界があるという感覚を認識することにつながってきます。


そして意味のないと思われていた自分の人生に、積極性や目的意識を持つこともできるようになります。


結局、「人生、思ったもの勝ち」なんですか? と聞かれればその通りだと言っておきましょう。(笑)


Top