タロットの使い方

変わりダネ。直感力を上げる方法。

自分の直感(直観ではありません)の精度がどうなのか、結構悩むと思います。


直感が正しいことを証明するには、結果が必要です。結果が出る前では、その直感がどうなのか判断はつきにくいものです。


人はもともと選択をスムースに行える直感としての優れた感覚を持っていると思うのですが、次第にそれらを使わなくても便利な世の中になってきましたので、鈍ってきていると言えます。


さらに現代人は特に頭、つまり思考で考える情報社会に生きていますので、なかなか感性をオープンにしたり、信頼したりするというのは簡単には行かなくなっています。


ですから皮肉なことですが、直感力や感性を高めるためには、情報を遮断したり、静かな生活を心がけたり、自然とふれあったりと、今の普通の生活から若干離れなければならないことが生じます。


さらに笑えてしまうのは、感性を取り戻すためにあえて訓練や修行までしなくてはならいなこともあるという事態です。変な話ですが、元に戻るためにわざわざ訓練するようなものです。


とはいえ、そうした訓練したり、閑静な空間を確保したりするのが面倒だというのも今の我々でもあります。(笑)


そこで、誰でもできるやり方で、このブログお読みになっているようなタロットに興味のある現代人にマッチした直感精度の確認方法をご紹介しましょう。これはそれほど苦労はいりませんが、場合によっては少々お金がかかってしまうかもしれないのが難点です。。。(^_^;)


まず何か自分の選択すべき問題や課題が出たとします。


その時、ふっと自分の選択肢や答えらしきものが浮かぶと思います。直感で「これだ」と思うものを想像してみてください。


その直感が正しいかとか間違いかも?とか、ジャッジしたり考えたりする必要はありません。とにかく何か思うことです。


次に占い師(できれば卜占系の占術の人)やチャネラーを探します。一人だけではなく、少なくとも二人以上確保しましょう。すでになじみの人でも新しく発見した人でも知り合いでも、自分がいいと思った人ならばOKです。


その人たちに自分の問題を提示して、占ってもらったり、チャネリングをしてもらったりします。


すると、おそらくひとつの答えや傾向が多数派を占めるでしょう。またたいていは、その多数派のものは自分の最初に思った選択や答えとほぼ似通っていることに気がつくはずです。


もちろん違う場合もあります。自分の最初のものと別の占い師やチャネラーたちの多数意見と異なっていれば、自分の直感を少し修正してみるとよいでしょう。


「なんだ、それでは多数決原理じゃないですか」と思うかもしれませんが、客観の場合は多くの人が思ったことが正しいことが多いのです。


自分の直感の裁定が難しいのは、自分で判断しようとするからです。


人は自分に一番関心がありますから、逆にそれが過剰な意識となって、純粋な感性の判断をにぶらせるのです。自分の利益による思考が入ることが多いからですね。


ですから自分の利害があまり絡まらない他人の、さらに感性をウリにしている占いとかチャネリングを参考にするならば、自分の本当の直感に近づく可能性は高いのですね。


もうひとつの方法はタロットがある程度自分でできる場合は、自分でタロットを引いて感じたものと、タロットができる仲間に同じ課題をリーディングしてもらって比べるというものです。タロット仲間によるリーディングが、前述のチャネラーや占い師に観てもらうことと同じになります。


こういうことを何回かやっていると、自分の直感具合が最初からどうなのかが次第にわかってきます。自然の訓練になっているのですね。


占いを受けるにしても、ただ受動的にお告げをもらう感じで受けるのではなく、自分でもある程度の予想や直感での選択を仮定していおいてから占いで確認するという形を取ると、占いを依存にしてしまうことはなくなりますし、直感力を養うことにもつながるのでお勧めです。


まあ、タロットを学習すれば、特に女性の方ならば直感力は上がります(もちろん男性もですが)。


しかし感覚的な直感よりも、蓄積された経験や智慧をも含む直観力を向上させるのがタロットの本来の目的には近いものです。


「答え」を自分は知っているのか?

タロットによって、なぜいろいろなこと(問いや課題についての事柄)がわかるのかということつにいては、考え方として諸説あり、また科学的に説明できることでもないので、シンプルには答えられないものです。


ただ大まかにわけて、「もともと自分が答えを知っていて、それをタロットが示してくれる」というものと、「タロット自体に神秘的な働きがある」というものがあるように思います。


この両方ともタロットリーディングにはあると考える人もいます。私も、これはケースバイケースではあるものの、両方が機能していると見ています。


それはともかく、今日は前者の考えである、「自分が質問や問題に対して、すでに答えを持っている」というスタンスについて考察してみたいと思います。


この立場(自分の中にあらゆるものの答えがあるとする考え)は魅力的です。


そうすると、人は大変な可能性をいつも秘めていることになりますし、すべて自分に起こることは対処可能だということになるからです。


とはいえ、何か問題が起きた時、ほとんどの人はすぐに解答を見つけることができず、悩んだり、苦しんだりします。


そうなると、本当に自分の中に答えはあるのだろうかという疑いが出ることもあるでしょう。人はもしかすると未熟で、未完成な存在なのではないかと。


だからこそ学びが必要てあり、自分より物事を知っている人や体験をしている人と交流し、教えを受けることが有効になると考えると、合理的な説明にもなってきます。


それは逆にいえば、元に戻って、「人は未熟なものであり、答えはいつも自分の中にあるとは限らない」という設定にたどり着きます。


では「人はもともと完全であり、どんな場合でも答えは自分が持っている」という設定は無理なのでしょうか?


この矛盾を解消するためには、ハンディや制約といった概念を取り入れると突破口が見えてきます。


つまり、人は元来、本当は完全な存在ではあるものの、あえてハンディをつけて生まれて来ているということです。それによって不自由さと不完全さをわざと味わっているのだという想像です。


なぜわざわざハンディや制約をつけなくてはならないのか。


一言でいえば、制約がないと楽しさや成長を実感することができないからでしょう。


ゲームに例えるのはちょっと軽薄なところもあるとは思いますが、ゲームにおいても、あまりにも自分の能力が最初から高すぎれば面白くなくなり、ハンディをつけたほうが楽しめることになります。


ハンディがあって実践すると意外な反応が期待できます。


たとえどうすればクリアーできるかがわかっていたとしても、自分が自由で完全ではないので、その場でのアイデアと反応が必要となり、その工夫と発揮するタイミングがリアルタイムでの楽しみや喜びになります。(ゲームや遊びで、ハンディをつけてやったことがある人にはわかると思います)


しかし残念ながらゲームと現実が違うのは、自分が完全であることさえ忘れている高度なハンディをつけられているということです。


ところが、また面白いことに、現実でもそれを思い出させるための様々な仕掛けやサポート道具、アイテムが至る所に配置されています。


しかもそれは時として、その世界においては「自分の完全さを思い出す道具」というように明らかな目印をつけて存在していないということです。


ただの生活道具であったり、遊び道具だったり、場合によっては「悪いもの」とこの世界では決めつけられているようなものであったりします。


それもまたハンディ、仕掛けであると言えるでしょう。


タロットもそうした道具のひとつだと考えられます。ですからこれをただのカードとするか、遊技道具としてしまうか、はたまた自分の完全さを思い出すためのツールとするのかは自分次第だということになります。


コミットすることの効果。

自己啓発やスピリチュアルなセミナー、メソッドなどでは、よく「コミットする」という表現が使われます。


単に意味的なことならば、「関係する」「関わり合う」ということになるようですが、だいたいにおいては「公約する」「確約する」みたいな意味で使われます。


言ってみれば決意表明でもあるわけですが、これはシンプルなことですが効果があります。だからこそ、よく使用されるわけです。


年の初めにあたり、目標や計画を立てた人も多いでしょうが、それだけではなく、何か自分にとって「これからはこうする!」「こう生きる!」というような決意をするとよいです。


たいていの人は、何か自分に事件や問題が起きて、それが解決したり快方に向かったりした時に新しい自分になって決意することが多いと思います。

いわば痛みによって強制的に生まれ変わらされている状態なのですが、何も痛みや苦しみからによって自分を変化させなくても、最初から自分に「こうする」と言い聞かせて積極的に変えていくことも人間には可能なのです。

ただ、課題は「どうしたいのか」「どう生きたいのか」ということが不明瞭であるということです。

ここでよく言われるように、具体的で鮮明なイメージを伴うものが必要とされるわけではありません。そのようなことを求め過ぎるとかえって難しくなるのです。

もっと単純に抽象的でも、この決意する言葉の内容はOKだと私は考えています。

たとえば「自分に対して正直に生きる」とか、「社会に貢献できる自分になる」とか、「自分の創造性を発揮した生活をする」とか、まあそのような感じでいいと思います。

肝心なのは、そう宣言することにに対して責任を持つということです。

どこぞの政党や政治家の言葉、マニフェストのようにならず(^_^;)、偽りなく誠実に実行しようと心がける態度が重要です。それが単なる「つぶやき」と「コミットメント」との違いだと言えます。

英語でのcommitも、もともとは神にゆだね、任せるところからきているようですから、これの語源的な部分に注目してみれば、日本語では「人事を尽くして天命を待つ」みたいなニュアンスがあるのかもしれません。

グノーシス的にいえば、神とは自分自身の高次でもあります。とすると、コミットすることは自分自身との約束になります。


その認識で決意し宣言すれば自分の神性と共鳴して、コミットに即した人生へと自動的に軌道修正されていくことでしょう。

結局のところ、自分の言質にいかに責任を持つかということに関わっているのです。

コミットしても何も変化がないという人は、それはコミットではなく、先述したようにつぶやきレベル、希望を述べたにすぎないものであったという証拠です。自分自身に誠実さを貫いていたか、確認してみるとよいでしょう。

言霊というように、言葉に霊力を込めるがごとく、力強く責任をもって宣言することにより効力は発揮されていくのです。

責任ある宣言ができない時は、その宣言内容自体に自信がなく、そうなりたいという思いに抵抗や遠慮があるのだと推測できます。その場合は、宣言の前に自分の心を整理する必要があるでしょう。

マルセイユタロットを学習している人は、コミットの時に、それにふさわしいカードを選択してイメージとともに刻印しておくと、通常よりも思い出しやすく、また無意識にも浸透しやすいでしょう。


タロットカードの印象の多様さ。

マルセイユタロットの大アルカナを見ていますと、いわゆるニュアンス・雰囲気というものが最初に伝わってきます。


これは別にタロットのことを知らなくても、誰でも感じるものです。


たとえば恐そうとか、明るいとか鮮やかとか暗いとか・・・そんな感覚のものです。


この印象は実は結構大切なものです。ただそれがすべてではありません


よく直感的にタロットを感じたらそれでOKとか、それが正解と言われることがありますが、それは必ずしもそうとは言えない部分があります。


人の感性はクリアーになっている場合と、いろいろと混ざっている時があり、それによってブレを伴うからです。


この場合、やはりタロットの象徴の知識やタロットと向き合う蓄積がものを言います。


言って見れぱタロットは右脳と左脳の統合に真の理解があると考えられるわけです。


それとは別に、タロットの絵柄を注意深く観察してみると、最初の印象とは異なった図柄や意味を発見することがあります。


これは言われないとなかなか難しい部分ではあるのですが、ひとたびそのことを知れば、単なる全体のイメージからだけではないタロットの複層した図柄の特徴に気付くことになるでしょう。


たとえば「隠者」は一見、その名の通り、暗くどこかに隠れている気難しそうな印象のある人物と写りますが、ある面では、とてもお茶目ともいえる楽しい人物像が浮かび上がるようにできています。


同様に「吊るし」も吊られているようで、最初の見た目には苦しそうに見えますが、よく見るとそうではないことがわかりますし、四方が囲まれて閉じこめられているようでいて、出口があることも注目すべき点です。


「13」においても、その人物は骨と皮で不毛の大地で死を迎えているように見えますが、生命の息吹はここかしこに見受けられるものです。


ほかにも楽しそうに見える「悪魔」に、ある部分では深刻な状態が刻まれるなど、カードはただの一印象に留まらないような工夫が一枚一枚に施されています。


このことは私たちに示唆を与えてくれます。


それは人間や事象も一面だけではないということです。


私たちは常に相反する要素や矛盾したものを抱えますが、そのことは取りも直さず、逆の要素や他の側面がいつもあるということです。


ということは、同じ状態がずっと続くのではなく、いつかは振り子が逆に傾くように反転していく可能性が高くなります。


そうならば、問題である今の状態も、最高と感じている現在の時も、やがては必ず変化を来たし、解決に向かうこともあれば問題化することもあるということになります。


結局のところ、多様と波という観点でタロットを見つめながら、私たちは人生をうまく泳げるように自分をコントロールしていく術を学ぶことでしょう。


そしてその波(海)は実体ある世間(物質的なもの)ではなく、自分が作り出しているということがタロットにも描かれていることなのです。


ですから波を統御することが自分にも可能なのです。


数に関する当たり前で特別な効果。

タロットでは一般的に大アルカナ小アルカナというカードの構成に分かれます。


このふたつがどのように関係するのかは一概には言えないのですが、マルセイユタロットの場合は大アルカナと小アルカナ、特に数カードと呼ばれる小アルカナのパートは明らかにスタイル(絵柄)が異なるので、大と小の使い方や考察にも自ずと違いが出てきます。


一方で大と小は同位であり、何の違いもないという考え方もあります。大でも小でも絵柄や構図は均一という種類のタロットカードもあります。


それはともかく、私の観点では大アルカナは抽象的・統合的なものを表すのに対し、小アルカナは具体的・個別的なものを示すととらえています。


そして小アルカナの中でも先述した数カードの場合は、「」と名前がついているだけに、数と関係してきます。


長々とタロットの構成の話をしてきていますが、実は今日の話題は「」の話なのです。今までは前振りでした。(^_^;)


小アルカナが具体的なものを表すということならば、数カードは数に関係した具体的な事柄が象徴できるということです。


数に関係する具体的なものと言えば、まずは数値であり、数量であり、月日や時間となります。


本当はここに「質」や「様態」ともいうべきものも入るのですが、それは「数」の概念について古代の考え方を説明しなければならず、今回はあえて省きます。(いわゆる「数秘」的な考えはこちらの範疇に入ります)


要は、私たちが数字を見れば思いつく身近なことです。たとえば今月は1月なので、「1」という数が今月を示すという単純なものです。


単純ではありますが、数(数字)だから具体化・個別化できるという点が大切なのです。


数と物事が結びつくことにより、ある特定のものを具体的にピンポイントで示すことができるからです。


先の例でいえば、単なる歳月(としつき)という概念があって、それに「1」という数字が合わさることによって、「1年」なり「1月」が特定できるわけです。


また数量としてみれば、図式化することで「」になり、グラフのようにして一目瞭然に目で認識することも可能になります。


何が言いたいのかといえば、私たちは忘れがちな事や、言葉ではわかりにくい事柄を、数字によって表すことにより、心に留めておくことができる(記憶しやすい)ということなのです。


今日は1月17日です。1.17といえば神戸では今日の日を指し、阪神大震災の祈念日になっているのです。


同様に、昨年起こった3月11日の東日本大震災による数々の被災・被害も3.11として皆の記憶に残るものになっています。アメリカの9.11もそうです。


単なる日付ではありますが、特別な意味を込めることができ、この日付という数があるからこそ、風化はあれど毎年月日は巡って人々の印象を促すのです。


それはつまるところ、「数」の具体化から来る象徴のおかげです。


私たちが1.17や3.11を通して震災のことを想い、亡くなった方々を悼み、命のありがたさを感じて防災や復興に意識を向け、日本や世界の変革を思う時、それはもう大きな象徴へと数が変化しているのです。


タロットでいえば小アルカナから大アルカナへ移行し、心や魂を大いなるものへ融合して高めていく作業と同じです。


その時数は、単純な数値を超え、全体としての心のシンボル・象徴ともなりうるのです。


私たちは、このように「ある日付によって象徴される特別な日(内容)」は、少なくとも忘れないようにしたいものです。


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