タロットの使い方
世界と世界、そしてその間。
私たちは「自分の世界」にいる限り、その世界がすべてだと感じますし、その世界における常識をもって普段行動します。
正しいと思うことや規範も、いわば自分の住んでいる(属している)社会や世界によって形成されると言ってももよいでしょう。
ところが、自分たちのいる世界の外に別の世界(社会)が存在していたと気がつけば、一気にそれまでの「世界観」が崩れます。
最初に述べたように、世界観によって価値観も生まれてきますから、世界が変われば価値観も変化し、自分のよいと思うもの、正しいと考えることも変転していく可能性が高いと言えましょう。
簡単な例で言いますと、国内しか知らなかった自分が、海外旅行をしたり、海外に暮らしたりすることによって、考え方がガラリと変わるというようなものです。
もっと範囲の狭い例では、田舎から都会に出てきた、学生から社会人になった・・・というようなパターンでもレベルは違えど同じようなことが起こります。
これは実際に見たり聞いたり、さわったりできる現実の世界での話ですが、もし仮に精神の世界も同様だとすればどうでしょうか。
まず、私たちは常識で縛られた「ある精神の世界」に日常的に住んでいるのだと見ます。これは普段の私たちの心の世界だと言ってもいいでしょう。
ところが、その外に、あるいは横でも裏でもいいのですが、また別の精神の世界があると想定しますと、仮に新しくその世界を知ることになれば、まるで初めて海外旅行でもしたかのように自分に衝撃や変化が訪れることは想像に難くないことです。
別の精神の世界は、実は日常の私たちの心の世界と根底では同じ法則を有しています。しかし同時に、その世界固有のルールがあると考えられています。
そのため、共通の法則によって世界の移動が可能ではあるのですが、ひとたび別の世界に移行すれば、それまでのルールとは異なるところがあるので、かなりのとまどいと混乱を迎えることになります。
これは精神的なものであるがために、余計にイメージや想像の世界に迷うことになりかねません。
たとえば、盲目であっても手足で感じたり触れたりするものがあれば、壁や通路を伝って戻ることも可能かもしれませんが、その感覚もないとすれば非常に不安で闇も深く感じることでしょう。
だからこそ精神世界への移行や経験には注意が必要でもあるのです。しかし逆に物理的なものでないだけに、万人に平等に開かれた窓口でもあります。飛行機や船に乗らなくても、お金がなくても行くことは可能なのです。
しかもイメージや思考の変化を伴いますから、現実が思考による反映を受けての結果と考えますと、自分の物理的な現実も変容する可能性が高くなると言えます。
とはいえ、今までとは違う世界に出る時はどんな場合でもそれなりの準備が必要なように、無謀に飛び出すことは危険でもあります。ですからガイドや標識があれば(いれば)いいわけで、そうすれば、より安全に楽しく経験することができます。
そのひとつのツールがタロットであると考えられるのです。
タロットは高度には精霊によるガイドがつき、一般レベル的には別世界への窓口や入り口を提供します。
タロットがなくても、私たちはたとえば時間の狭間(朝と夕、一年での特別な時期など)や強い衝撃(喜怒哀楽に関わる強い事件など)によって、その入り口に至ることがあります。
あるいは別のツールや方法もたくさんあるところです。それでもタロットはカードという利便さなどもあって、とても使いやすいツールであることは間違いないでしょう。
捨てられないモノにあるもの。
先日、妻が面白いことを言っておりました。
「モノが捨てられないのは、それがモノではなく、そこに思い出があるからかも」と。
物が溜まって捨てられないことを正当化する言葉のようにも聞こえましたが(^_^;)、「なるほど」と思わされる部分もありました。
唯心論(心がすべてである立場)的に考えますと、モノにも心があり、その心はそのモノ自体が持っているのではなく、私たちの意識や思考にあると見ますと、捨てられないモノというものは、ただの物質ではないのでしょう。
そうして物がモノではなく、ひとつの自分の心となってしまった場合、確かに簡単に捨てるようなことはできなくなって、やがてモノに囲まれることになるのかもしれません。
しかしながら、普段は物置かどこかにしまわれているわけで、いつもいつもその品を見て、その品にまつわるスートリーを思い出しているわけでもないでしょう。
引っ越しや大掃除などで荷物を整理しなければならなくなった時も、今まで忘れていた写真や品物が出てきて、急に思い出に浸るようなケースもあります。これなどは、よく歌の歌詞や映画の一シーンなどで使われるものですよね。
結局のところ、そのモノが契機となり、自分のしまっていた記憶の扉を開ける作用があるということです。モノはきっかけやスイッチに過ぎないことになります。
記憶を取り出すスイッチとして考えるのなら、モノを写真に撮って、それこそ「アルバム」として整理しておく方法もあるでしょう。そうすればずいぶん物理的スペースは空くはずです。
とはいえ、それがモノとして現物そのままであることに意味がある場合も少なくありません。手触りや質感、匂い・・・これらが人間の記憶をさらにリアルに再現させるのでしょう。スイッチ効果が高いということです。
けれども、やはりいちいち思い出の品を保管していたのではキリがありませんし、思い出したくないモノもあるはずです。
少し懐かしい気分になるくらいならばよいでしょうが、あまりにも過去や思い出にこだわるのは、執着となって「今」と「これから」に力を入れることができなくなります。
ある程度の切替や断ち切りも時には必要です。新しいものが入るためには古いモノを捨て去る決意がいるのです。
また今は映像や絵として記録することはも可能であり、しかも大容量で収めることができます。また人は忘れているのではなく、思い出すことができないだけであると考えるのなら、思い出せる力を養うこともありでしょう。
先述したように保管するモノにこだわるのは、それにある価値を自分が仮託しているためです。
いわばモノに心が入っているということなので、そのモノに入っている心を再び回収すればよいのです。
そのモノを手にし、自分の心の箱に再度しまい込む儀式を行ってもよいでしょう。魂を抜く行為です。供養でもあります。そうしないといつまでも倉庫で亡霊(あなたの入れた心)がさまようことにもなります。
タロットを習った方は、この思い出をタロットに置いておくということもできます。別にカードに記憶を保管するのではなく、カードの象徴を通して思い出しやすくするということであり、思い出自体はあなたの心の中にあるものです。
ですからカードを捨てても、新しい同じ絵柄のカードがあれば思い出すことができますし、たとえカードがなくてもカードの象徴が心にある限り、記憶を想起することは可能なのです。
こだわりはなかなか捨てられないものなので
世の中、こだわりを持つことはいいことのように解釈されることが多くなりました。
もちろん私も職人さんや料理人のこだわりによる作品、その他数々のこだわり商品などはとてもよいものだと感じております。
ところがそもそも「こだわり」という言葉は悪い意味でのことが多く、本来気にしなくてもよいことを気にしてしまったり、執着したりすることで使われていたようです。
それが反対にいいことにこだわるという意味になり、品質にこだわるなど、現在ではむしろよいことで使用されていますね。
しかし、ここでまた昔の意味に戻ってみるのも面白いかと思います。
マルセイユタロットの「愚者」と「13」などを見ますと、本当にそれを感じさせます。
「愚者」は細かいことを気にせず、どんどんと次へ移り変わる人であり、「13」はその絵柄からもわかるように、無駄なものをそぎ落としている段階でもあります。
私たちは結局、こだわることで次のステップや段階、果ては自由になることさえ放棄していることもあるように思います。
こだわりがあるのも、それを失うことへの恐怖や不安があり、それは自分が失うこともあれば人から奪われることもあるという恐れが存在しています。
そこでよく言われることが、愛や全体性(大いなるもの)への回帰、視点の変換による自身の変化なのですが、それはいきなりできるものではなく、案外と最初は難しいものです。
なぜならば、失いたくない思いの底には、人間の基本的な欲求や生存の土台に関わるものが潜んでいるからです。
人から見ればなぜそんなことにこだわるの?と思えることでも、その人にとっては生死に匹敵するほどの価値がその時にはあるのです。少なくともそう感じています。
これを無視して上から目線で「こだわりを捨てて楽に生きれば?」「それを捨てなさいよ!」と言ったところで、それが簡単ににできないから困っているわけで、当人はますます苦しむことになります。
前にも書きましたが、「あなたにはできても、私にはできない」と当人は思うのです。
タロットでいえば、「愚者」は「愚者」だからこそ軽々と移行できるのであって、現実的にそこで生活し、生きている私たちには「愚者」のように身軽に無宿のような旅はできないのだという思いです。
そこで段階や次元による歩み(ステップ)が必要となってきます。いわば一歩ずつの訓練です。
「それを失っても大丈夫である」「実は失ってはないのだ」と気づくためには、その次元やフィールドでの小さな成功体験が必要です。
たとえば服を全部失えば困るわけですが、不必要なものから捨てることはありでしょう。この場合、ちょっと惜しいと思うことから始めていくとよいのです。
つまりはほんの少しの自分の現状の殻を破っていくというステップです。これが「愚者」や「13」の実際的(現実的スモールステップ)作業になり、小さな「戦車」としての成功体験にもなります。
すると最終的には自分にとって服などどうでもによいのだという境地(ただし服がいらないとか、服装に気を遣わないということではなく、本当の自分に必要なものや様式がわかるということです)に至ると推測されます。失うのではなく、変容するだけです。
こうしたことには非常にタロットは有効です。
なぜならば私たちはいきなり「愚者」的人間にはなれませんが、自分の中に「愚者」がいることを発見することは可能だからです。
そのことをカードを通して象徴的に実感することになり、エネルギーとしてもたとえば自分の中の「愚者」が発動することにもなるからです。
私たちはとかくすでに「愚者」になっているような、あるいはもともと「愚者」のような気質でいっぱいの人からアドバイスされがちです。そのためにそうなれないことに、逆に苦しくなることがあります。
しかしタロットの場合は少しずつ自分自身で認めていくことができますので、ある意味楽でもあります。こうしてタロットはその活用度が広がります。
何度も言うようですが、タロットは占いだけに使うのはとてももったいないことなのです。
あなたの希望をタロットで後押しする。
人間の一生というものを考えてみますと、長いようでいて非常に短いものです。
その時その時は時間の感覚はあまりありませんが、振り返ると短くなってしまうのも人の感じる時間の特徴かもしれません。
結局、亡くなる時は振り返ることになりますから、自分の過ごしてきた時間や一生というものも一瞬となるのでしょう。
とすれば年を重ねれば重ねるほど、過去は短いものとなってくるのです。心のバックタイムマシーンのスピードが速くなると言ってもよいでしょう。
一生とはそんなわずかの間のことなのですから、今後の人生でもっと濃密な時間を過ごしたいと思ってその充実を図ることは、ある意味、人にとっては必須なことなのかもしれません。
ということで、年の初めにいろいろと計画される方もいらっしゃるでしょうが、やりたいことを行うこと、行きたい場所へ行くことなどは、なるべく今まで以上に実行されるとよいのではないかと思います。
そこでタロットを使って、その後押しをしてくれる方法をひとつご紹介します。
まず今年に行きたい場所、あるいはやってみたいことを数個(できれば4つ以上)挙げます。これは複数挙げること自体にも意味があります。
また選択する事項は、あまりにも実現が難しいものよりも、少し手を伸ばせばできそうなもの、行けそうなものにするとよいでしょう。でもお金や時間を制限にして、現実的に考えすぎないことも大事です。
ちょっと無理目だけどできるかもしれない、かねがねやってみたい、行ってみたいと思っていたけれども、これまでいろいろな理由で無理だった・・・というようなものも選択されるとよいでしょう。
そしてその選択した事項や場所を大アルカナでそれぞれ表します。たとえば海外旅行ならば「世界」のカード、占星術は「星」のカードという具合です。(マルセイユタロットを事例としています)
そしてそれら(願望を一枚で表現したそれぞれの大アルカナのカード)をシャッフルして、最初に一枚引いたカード(正逆は取りません)を第一の実行目的とするのです。
以下、二番目のカードがその次に考えるべきもの、三番目がその次・・・というように、引いた順番のカードが、自分にとっての必要度や気づきをもたらせる選択や場所だと考えます。
正逆をどうしても取りたい人は出たカードの中で、順番よりも正立をもっとも重視し、次に出た順番とするやり方もあります。
次に、その選択ひとつが決まったら、今度は22枚の大アルカナすべてをシャッフルして、実現可能にするための重要な要素(行動や方策、心構えなど)として、一枚もしくは二枚程度カードを引きます。
そしてそれらのカードをヒントにしてリーディングし、最初に引いて決定した選択事項を確実にするためのエネルギーと見ます。
以降、忘れないように、ことあるこどに選択事項としてあてはめたカードを意識しておき、その度にあとで引いた実現ための要素となるカードと併せて思い出すようにしてください。
これが無意識に浸透し、漠然と目標を立てていた時よりも、かなり実現が速まることでしょう。
人生後悔なきよう、何歳になってもチャレンジして行き(生き)ましょう。
タロットと自由
タロットには色々なスタイルがあります。
タロットの種類から始まって、その使い方、スプレッド(展開法)、活用法に至るまで、実に様々です。
これにこだわりを持たず、ありとあらゆるスタイルを楽しむ自由さを満喫する方法もありますし、あるタロット・メソッドを追求し、極めていくやり方もあります。
タロットは元来、自分の枠組をはずしていく作用があると想定されますので、「自由(になる)」ということがテーマともなり、その観点ではいろいろなものを自由に使い、思いの通りに解釈していくのもありだと思います。
しかしながら、人間、いきなり自由になれと言われても難しいものです。
自由を実感し、これを得ていくのには実は制限や縛りが最初には必要です。
ヨーロッパの市民が自由や権利を獲得することができたのも、強大な支配からの独立、市民革命というものを経てきたということがあったためです。
また無法地帯では、身の安全すら保障されず、無秩序ではありますが自由とは言えません。
よってルールや規則は自由を味わうためにも最初の段階では大切なことになります。
要は「自由」とは、何もない状態のことを言うのではなく、何らかの秩序があるものと定義できるものです。
自分における秩序の進展が、今までの狭い枠からの脱却につながるのと同様の意味だと考えられます。
ということで、元に戻りますが、このように考えてきますと「タロットは何でもあり」ではありますが、そこにはある種の秩序やルールが伴ってくることが前提となります。
大切なのはそのルールにずっと自分とタロットの解釈・活用法を閉じこめておくのではく、そのルールを今度は破壊し、新しいルールを採用することができないかを考えていく(創造していく)ことにあります。
一方では、自分が思っていたルールが絶対ではないということに気付くことでもあります。
結局のところ、そのためにはひとつの「型・形」の習得が求められるのです。自由のために不自由を経験するのです。
それができて、今度は次の型に移行していくわけです。
いわばこの過程は、テーブルの上に一見無秩序に散らばったモノを、特徴によってグループ化し、それぞれに型を見い出し、さらに大きなグループへと統合化していく作業に等しいものです。
表現を変えれば、無秩序に見えるものから秩序を発見するということです。
これが実は世の中と自己の把握につながるのです。
でたらめに見えるこの世界が、実は真理によって極めて秩序立った世界・宇宙であることを感じ、それに自分を再び当てはめ直して自らを調和に導くということです。
それは世間の常識や現代の科学的なもの、目に見えるものだけではわからないことでもあります。
そして、この理由のためにタロットは勝手に使っていくことよりも、やはり学習して検証し、実践していくことが必要だと考えられるのです。