タロットの使い方
成功とは何か その2
昨日は 成功概念についての記事を書きました。
今日はその続きです。
成功概念やイメージは商業的に外から植え付けられることが多く、それに踊らされることになりがちだということを述べました。
そうならないためには、無自覚でいるより、何事も自覚していることが大事であり、また成功を商業ベースではないものによって概念化したほうがよいことになります。
とはいえ、昨日の記事でも書きましたように、外部からではなく自分の中で成功(イメージ)を作り上げようとしても、自分の思考自体も常に変化するものなので、結局成功概念はコロコロと変わってしまい、気がつけばまた外からのイメージによって支配されていたということにもなりかねません。
そこで商業や購買目的ベースではない成功のモデルが必要となってきます。
モデルと言っても人ではありません。人の場合は先述したように、たとえモデルになった人でも、その人自体変わって行くおそれがあるためです。
それでは何をモデルとすべきでしょうか?
一言でいえば象徴です。象徴は象徴であるからこそ具体的なものではありませんが、逆に抽象的なために、誰にでも普遍的にイメージすることが可能です。
モノや形として手に入れたり、実際にその場所へ行けたりするようなものではありませんが、目標・イメージとして見失うこともありません。
いわば簡単に手に入らない境地・モノだからこそ、目標としていつも置いておけるということです。つまり「変わらないもの」なのです。
しかしあまりにも遠い目標や理想は、人は無理だとあきらめてしまうこともあります。
この「遠すぎず、そして近すぎない」象徴的目標が成功イメージとしては重要なのです。
たとえば、いきなり「悟り」か成功だと一般的に言われても、「はあ?」となるばかりでしょう。
たとえ「悟り」が究極的な「成功」だとしても、その次元を落とした成功目標は必要となってきます。
そしてマルセイユタロットの場合は、この究極目標ともう少し次元を下げた成功のことを、「世界」と「戦車」で象徴させています。
ですから私たちはマルセイユタロットの「戦車」を成功イメージとして持てばよいのです。
「戦車」の画像の最大の特徴は、二頭の馬と一人の御者の関係です。
実はその前の数を持つ「恋人」さらに前の「法皇」から、マルセイユタロットは二人の人間と一人の人、あるいは複数とひとつの高みの存在という構図が描かれています。
ここからも「成功」とはひとつの要素だけではないことがわかります。
では「戦車」の示すところの成功とは何なのでしょうか?
それは皆さん自身で考えてみてください。マルセイユタロットを学べば、自ずとわかってくると思いますし、すぐにわからなくても、それを追求することが大切なことでもあります。
「戦車」という画像イメージは不変であり、そこから象徴される「成功」もまた不変(普遍ともいえます)です。
このためにタロットから自分なりの「成功イメージ」を持つことが可能になり、外部からの成功イメージの植え付けも少なくなります。
もちろん人の思いや心は変わって行きますので、同じ「戦車」を見ても心境や経験によってはその「成功」イメージも変化するでしょう。
しかし、その「戦車」に表現されている根源的なもの、核となるものは変わりません。言ってみれば「イデア」であり、「元型」だからです。
このことからも、人や世間の価値観の変動に応じながらも普遍的なものを見せてくれることのできる「戦車」の示す成功は、人がイメージするものとしては、非常にモデルとして有効であることがわかると思います。
マルセイユタロットはこのように活用できるものなのです。
今年の記事はこれで最後となります。この一年、ブログをお読みいただきありがとうございました。
修行系、清貧系の人に。
何かいいことが起こってもすぐに邪魔が入ったり、自分の学びを深めようとするとそれができなくなったり、お金を稼ぐことはいけないと思っていたり、ノホホンと過ごしているように見える人や、棚ぼた的な成功を収めた人に無性に腹が立って仕方がないと思ったり・・・
そういうあなたは、もしかすると、修行系・清貧系というタイプかもしれません。
修行系・清貧系って何?
簡単にいえば清く、正しく、「苦しく」生きようとしてしまう人種(苦笑)です。
これがひどくなると、幸せであってはいけない、楽しくなってはいけない、苦しいことがなければいいことは絶対起こらないと考えてしまうようなります。
いえ、自分では幸せになろう、楽しく生きたいと頭では思っているのですよ。
ところが、心の中、潜在的にはそうした自分になることが許されないのです。
なぜ許されないのでしょうか?
これもいろいろな原因があるのですが、一言でいえば自分の存在理由やアイデンティティがなくなるのが恐いからです。
えっ、幸せや楽しくなっては自分がなくなってしまうのですか? と疑問に思われるでしょう。
修行系・清貧系の人は概して努力家なのです。何事も一生懸命やろうという人が多い。
それは自分が修行しているから、あるいはつらいことをやっているから報われる、糧が得られるのだという思いこみで出来上がった世界に住んでいるためです。(逆にいえば「報われるためには、つらいことをしなければならない」となります)
もしここで、「修行しなくもいいんだよ」「そういう方法でなくても楽になることはできるんだよ」と言ってみたところで、「じゃ、今までの自分は何だったのだ、骨折り損のくたびれもうけかい!」となってしまい、容易にほかの方法を認めることができないのです。
認めると、これまでの自分の努力が無駄となり、それは生き方の否定につながり、つまりは自己の否定と喪失感に行き着くのです。
ということは裏を返せば「プライドが高い」ということです。そのプライドが努力や苦労そのものなのです。
努力によってある程度望んだ結果や報酬を得ていれば、極端に修行系や清貧系にはなりません。
その努力の分、報われない時に余計にそれにこだわり、成果(結果)が出ないことの不満を、今度は過程(やってきた時間・量そのものの評価)で補おうとします。
それ(過程)さえ否定(別に否定するわけではないのですが)されてしまうと、もう自分を評価するものがなくなって、逆に自己否定に向かう人もいます。
通常は自分を否定するより自分を守りたいと思うものなので、相変わらず別の形や事柄で苦労を続け、成果が出るのを期待しつつ、努力する自分に酔いしれます。
もちろんプロセス・過程、努力と労苦も大切で人を成長させるものですが、結果や成果が出ないのならそれはおかしいことにも気がつかないといけません。
もしかして、あなたのしている努力とは努力そののもをマゾ的に楽しんでいるおそれもあります。それは努力というより我慢や逆説的な自己への過大評価でしょう。
そこで修行系・清貧系の人は、ひとまずプロセス重視型から発想の転換を図り、結果や収穫に重点を移すことがよいでしょう。
それに何よりも、自分が幸せ、豊かにになってもよいのだという許可を自分にすることです。
許可ができないのは、おそらく誰かへの過度な(バランスの崩れた)愛情があります。また誰かからの幻想による縛り、制約もあるでしょう。
マルセイユタロットでいえば「悪魔」と「13」、「星」や「節制」にも関連してきます。
これは自分では気がついていないこともありますので、カウンセラーやセラピストなどの手助けを借りたり、自分を客観視できるツールなどを持ったりするとよいでしょう。
結局は人には自分が決めている暗黙のストーリーが潜在しており、それによって無意識のうちに動かされ、自分の現実を作っているのです。
そういう意味では、人は誰でも自分の信じた思想・理由の世界に生き、それをきちんと実現させているとも言えます。皮肉ながら(^_^;)、人間の創造力はまさに神と同等です。
修行系・清貧系の人は、まず「なぜ苦労しなければ得ることができないと思っているのか」「清いことは本当に=貧しいことであるのか」ということを検討してみるとよいでしょう。
何のためにこの世界がバラエティに富んでいるのか、そしてあなたが修行系でいることで恩恵を逆に受けている人や層がいないか、冷静に見ていってもよいでしょう。
同じ努力するのなら自分の解放に使うほうがよいでしょう。タロットでいえば「太陽」です。
余談ですが、過去生というものを信じるとするのならば、過去にも同じような修行系・清貧系であったことがあり、その時報われず、今度は修行の成果を得ようと転生し、現在また遮二無二苦行している状況を造ってしまっている人もいるように思います。ご注意ください。(^^;)
4大元素で健康を考える。
今年はどうも、疲れか、はたまたエネルギーに敏感になったのか、冬至の近づくこの時期にまた風邪を引いてしまいました。
土日と四国に行っていたのですが、生徒さんの皆さんからいろいろと温かいお気遣いをいただき、何とか講義はクリアーしましたが、今も声がほとんど出ない状態です。前もこういうことがあって声帯を悪くした経験があるので、ちょっと慎重になっています。
四国の生徒さんのお一人が私のためにカードを引かれたようで、その時出たのが「星」だったとのことですから、やはり浄化と関係していそうです。
それはともかくとして、健康を考えるとき、四大元素で見るとバランスとしてもわかりやすい面があります。
四大元素とは、ここでも何度かご説明しているように、風・水・火・土(地)のエレメントを意味し、古代西洋からの「性質で世界をとらえる考え方」と言えます。
四大元素はきっちりと4つで区分されるものではないので、現代風の元素のとらえ方ではわかりにくい代物なのですが、ここは逆にあえてシンプルに4つの要素という形で説明します。
何事も4つのことで分析すると、物事がクリアーに把握できてきます。健康問題もしかりです。
まず「風」としての知性・知識・情報は必要ですよね。正しい知識を入れることは迷信や俗説で勝手に自己診断しない意味でも重要です。そして、そもそもこれが「医者」や「医学的」診断・診察ということに関わってくるでしょう。
そして「水」、「水」は心・感情の部分だとすれば、やはりストレスのかからない、心が平穏なことが何よりも健康には大切です。「病は気から」といわれるように、気持ちがよくないと健康にも支障を来すことは皆さん知っての通りです。
次に「火」、これはモチベーションや情熱ということも言えるのですが、端的にエネルギー・運動だともとらえることもできます。
要は日頃からの運動や、エネルギーを保っておくということですね。ここは現代人が結構ないがしろにしているところではあります。また情熱が持てるようなことをもっておくのも健康にはいいことなのでしょう。
最後に「土(地)」、「地」は安定した大地、物質的なものを象徴していますから、肉体そのものを表していると見ていいでしょう。
肉体・土台がしっかりしていないと、いくら栄養を取ったり、運動したりしても効果はあまり期待できません。また衣食住などのベース、生活習慣を整えておくということもこの分野に入ってくるかもしれません。
こうして四大元素的区分を考慮しながら健康を考えてくいとく、健康のバランスを図ることもできるうえに、タロットの小アルカナの訓練にもなるとい一石二鳥の面があるのです。
「女帝」と「皇帝」との関係
マルセイユタロットに、「女帝」と「皇帝」というカードがあります。
この二枚はペアでカップルとも言えます。実際、夫婦やパートナー同士を象徴することもあります。
しかしもっとも原義的には「創造」における精神と現実の組み合わせ・ペアを表していると見えます。
難しくいえばイデアと現実の対応・照応なのですが、簡単に言えば思考の現実化と言ってもいいでしょう。
ただその思考はイデアであることが大切なのです。
イデアとは哲学者プラトンによる言葉で、後世の解釈も様々ですが、ひとまずここでは、「心で思える最高度のもの、その世界」と表現しておきましょう。
良い(善い)ものを思えば良い(善い)ものが形として現れる、その関係が「女帝」と「皇帝」であると言及できます。
ただ実際の世界(現実)に現れるのは、思ったこととは多少違うのが当たり前です。
それは現実ではイデアは反映されても、実際の制約条件により、そっくりそのまま同じものにはならないからです。
とはいえ「思う」ということがないことには、実際に現れることもできないことになりますし、思いやイメージが不明確であればあるほど、実際の現れるものも混沌としたものになる道理がわかるかと思います。
ということは、いかに思い・思考・イメージが大切であるかということですが、実のところ、人はそもそも何を思えばよいのかということがわからなくなって悩むものです。
この先私はどうすればよいのか?と悩む。
それはつまるところ先見ができない、イメージができないことに問題があります。
なぜイメージができないのかといえば、いきなり「皇帝」の作業から入ろうとしているからです。それは具体・形・現実の結果を探そうとしているのです。
現実に何を残せばいいのか、何を創造すればいいのか、それはよほどやりたいことや自分の意志が明確になっている人以外は、普通は難しいものです。
どの仕事をすればよいのかと悩むのは、実際で具体的な仕事をしていることのイメージが自分にできないからで、それはいわば具体(形)を思ってしまうと「決まってしまう」「限定される」ことへの恐れでもあるからです。
「まだ私には可能性があるのではないか?」「それが本当に望んでいるものではないのかもしれない・・・」という期待と不安、恐れが入り交じって、具体的なものをイメージするのが恐くなってしまう(避けようとする)のです。
これを解決するには、やはり「女帝」から入ることです。
「女帝」はイデアを見ると述べました。
イデアは精神や心で思う最高度のものですから、具体的ではなく抽象的です。
ここではっきりと現実や形にまだ限定しなくてもよいのです。
ただ次元の低いものはイデアではありませんから、理想的なもの、最高のものを思うようにするのです。
それは漠然と「こうなりたい」とか「こういう気分でいたい」とかということからでも構いません。
ですが、そうした自分一人で思おうとする行為は、いろいろな次元やレベルが入り交じり、結局イデアにたどり着けない場合があります。
そこで古代から人は最高で整然とした宇宙とか神とかを想定し、その動きや象徴を図形や天体の動きに反映させて見てきたのです。
マルセイユタロットはそのイデアに関連した図柄を記していると考えられます。
ですからマルセイユタロットでもって、イデアを思い、目標や夢を次第に現実に段階的に下ろしていく(地上化する)ことが可能になるのです。
イデアを思いながら、「皇帝」として現実に進んでいくと、やがてこの実際の世界に実現すべき自分のイデアがわかってきます。
イデアの地上的表現、つまり「女帝」の皇帝化は先述したように、そのまま理想が現実になることではありません。
最高の心の想像(創造でもある)が、この現実世界での材料を得て、個別・具体としてそれぞれに応じて実現されるのです。
その意味では、すでにあなたは大なり小なりイデアを地上にもたらしていると言えましょう。
あとは再びイデアを思い、地上における表現方法を変えたり、選択し直したり、洗練させたりして、イデアに近づける努力をすることなのです。
過去を見つめる。振り返る。
以前にも書きましたが、最近のポジティブシンキングや未来・積極志向がもてはやされる傾向で、過去を振り返ったり、今までのことを見直してみるという考え方が置き去りにされているような気がします。
「何が何でも前に進むのだ!」というその気概はよいのですが、時にはそれが危害になってしまうこともあるのです。
準備や整理もせずに、新しいところに飛び込むのは無謀のこともありますし、問題を棚上げしたまま進むことになりますので、再び同じ過ちを繰り返すはめにもなりかねないのです。
マルセイユタロットではこの準備や振り返りの大切さが、カード単体と22枚の大アルカナの構造によって示唆されています。
単体でいえばマルセイユタロットにおける視線(の方向)に関係します。
大アルカナを観てもらえればわかるように、絵柄の人物によって右や左へと視線を向けていることがわかります。
この視線の方向に時系列な意味も込められているのです。それゆえ、カードの象徴する意味とともに、視線の方向性も重要であり、それが両方整合性のあるものとなっていないと混乱することになります。
その点、マルセイユタロットは極めて合理的ともいえる整合性と理由があり、それがカード単位だけではなく、全体として非常に練られたものとなっているところが恐るべきところです。
それはともかく、未来だけではなく、過去もきちんと整理したり、精算したり、蓄積させたりしておくことがタロットからも言われているわけです。
ちょうどこの12月という時期は皆さんが一般的に意識する「一年の終わり」ということと、さらには冬至(この日を境に北半球では日が長くなっていく切り替わり)も重なっているので、一年やこれまでを振り返るにはとてもよい時節なのです。
タロットを学習された方は、この一年をテーマとして、タロットを展開してみるのもよいでしょう。その場合、過去パートをよく読まれることをお勧めいたします。
またひとつひとつの月や、全体の流れとしてカードをそのまま展開していくと、出たカードの象徴と自分の記憶が重なり、意外な気づきや整理が行われます。
さらに冬至にタロットを引くのも重要な意味があります。
こうして自分にとっての過去を改めて認識することで、新年や未来に向かっての力に変えていくことができるのです。(マルセイユタロットの「力」に注目)
嫌なことや楽ではないことがあったかもしれませんが、それはそれで見方を変えれば恩恵であり、また自分がそうなってしまったことの反省を促したり、あるいは他人や環境への洞察・さらなる配慮が必要であったことの喚起であったりもします。
それは結局、生きていること、生かされていることの感謝につながるものでしょう。
過去を切り捨てたり、無駄なものといってないがしろにしたりしている人は、過去の自分から恨まれ、エネルギーを統合することが難しくなります。
その分、たとえ積極志向をしても現在と未来にエネルギーを十分送ることができず、努力に見合わない結果を迎えたり、満足のいくものが得られにくかったりします。
皆さんも是非を過去に感謝して浄化し、力に変えていきましょう。