タロットの使い方

好きなものを発見する方法

自分のやりたいことや好きなことがわからないと言った方が少なからずいらっしゃいます。


ここで注意しなければいけないのは、それは必ずしも仕事や使命・社会貢献といった「いい意味」だけで考えようとしないことです。


また好きなことだから「永遠に熱中できる生き甲斐のようなもの」だととらえすぎるのも問題です。


要は広い考え方で見る態度が必要だということです。


そしていきなり具体性や個別に絞っていこうとするのではなく、まずは抽象的、漠然としたとらえかたからしてみるのがよいです。


たとえば最初から「私はサーフィンが好きかもしれない」と考えるのではなく、「海が好き」「乗ることが好き」「波やゆらぎが気持ちいい」「スリルを味わうのがいいのかも」と大まかに拡大してとらえるのです。


これはタロットでいえば、小アルカナの世界から入るのではなく、大アルカナから考えていこう、しかも大アルカナの中でも抽象度の高いカードから見ていこうという手法と同じです。


話が横道にそれますが、タロットはこの抽象から具体、具体から抽象という思考やとらえ方の訓練が自動的にできますので、とても優れたツールなのです。


ただし無意識でやるよりも、その原理を教えてもらって自分で意識するほうがさらに効果的ではあります。


さて話を戻します。


自分の好きなことを見つける方法に、もうひとつ面白いやり方があります。


それは自分が感動してきたシーンを思い出すことです。


単純にいえば「自分が涙を流した場面は何か」を探るのです。


それは映画やドラマ、本など何でもよいので自分はどのようなシチュエーションで涙を流した(悲しみというより感動の涙、心を震わせてこぼした涙)かを調べると、実は同じような設定や意味だったということがわかってきます。


たとえば苦労が報われたシーン、正義が通ったシーン、人や動物が成長したシーン、優しさが伝わったシーン、愛が成就したシーン、と人にとってはいろいろな特徴があります。


そしてそれが実はあなたの好きなことと結びついているのです。


ただそのまま額面通りに受け取るのではなく、ここもまた抽象化(考え方を広げます)します。


そのコツは「結局○○で感動するんだ」「要するに●●で私は喜ぶのね」という「○○」「●●」に当たる言葉を漠然と表現することです。


たとえば「生み出す」「通じ合う」「伝わる」「ふれあう」「愛する」「愛される」「すっきりする」などが出てくるかもしれません。


そのことが実際に(のフィールドで)表現できるとするならば、どういうことだろうと考えていけば、ひとつならず二つ・三つと思い当たることも出てくるでしょう。


最初にも述べましたように、ここで具体的なことをいきなり絞りすぎたり、これしかないと思ったりしないことです。


複数出てきたのならば、それを習ったり、見に行ったり、体験したりしてチャレンジして行くこと、行動や実感することも大切です。


そうすると「何となくこれを続けてみたい」と思うものが出てきます。この段階でもはっきり「これだ!」とならなくてもよいのです。


「好きなもの」とは結局「好きになっていくもの」ということが多いからです。(「もの」のところを「人」に変えても同じです)


そして好きなものがないことに自分を責めてもいけません。


好きなものがないのではなく、自覚されていないか、今の状態で心が動くものがないか(自分の中にあるものと実際の出会いや結びつきがないか弱い)の違いだけです。


あなたの中には好きになるものは無限にありますが、現実が追いついていないということもあるので、あまり気にしないことです。


タロットリーディングの様々な効果

昨日はリーディングの固定化を防ぐいろいろな方法をお伝えしました。


今日も少しそれと関連するお話をしたいと思います。


タロットをリーディングするということは、占いや人の相談・問題解決を行ったり、自分の心を見つめたりすることだと思われている方が多いでしょう。


確かにほとんどはその通りなのですが、それだけではありません。


実は知らず知らずのうちに、リーディングを行うことで自分の枠組をばすしたり、思考の柔軟化が図られたり、コミュニケーションの修練を行ったりしているのです。


そのほかにもあまり知られていない効果もあるのですが、それは置いておきます。


思考の柔軟化という点に絞りますと、まず第一にカードを展開することで、自分の考えだけにはとらわれなくなる効果があるということです。


どういうことかと言いますと、たとえば人の相談を受けて、最初自分が考える解決方法や推測が出るのが普通ですが、いざカードを展開してみると、当初自分が思ったものとはまるで正反対の意味のカードや展開が出ることがあります。


そうすると、一瞬リーダーは混乱はするのですが、素直にカードを受け止めてリーディングしていくと、今までとは違った発想やアイデア、考え方が導かれるのです。


世の中はそうそう右か左か、白か黒かなど、人が単純に予想した結果通りになるということは少ないものです。


灰色・グレーゾーンであったり、まったく逆のことが同時に起こっていたりしていて、とかく矛盾に満ちたことの多い世界です。


この相反するものを統合していく価値観や思考、感覚をタロットカードは与えてくれるのです。この点からしても、タロットカードによる思考の柔軟化は大いに期待できるところなのです。


言ってみれば、タロットカード(マルセイユ版)の「吊るし」を私たちはカードを使うことにより体験します。


「吊るし」は逆さまの姿勢で吊るし状態を楽しんでいる人物が描かれているカードです。すなわち、「逆転の発想」「別の観点」で彼は存在していると言ってもよいでしょう。


モノの見方が変われば考え方も変わります。


たとえばタロットにおいても、私たちは通常色のついた人物や形のほうを見ます。しかし絵の描かれていない白色の背景部分を主としてカードを観察してみると、非常に面白いことが一枚一枚でわかってきます。


たとえばマルセイユ版の「手品師」の足下の草の芽のようなものが普通は突起に見えるかもしれませんが、背景・バックを主として観察すれば、くぼみにも見えるようになるということです。


またぼんやりとタロットを観察していれば平面であるカードの絵柄が、立体的に見えてくることもあります。これもまた見方の違いです。


先述したように見方が違えば、考え方も違って(たとえば相手の立場でものを見れば、自分中心で見ていた時とは違うようにです)くることになりますので、タロットの多層な見方自体が思考の柔軟性を呼ぶことになるのです。


タロットの数と「世界」

タロットの大アルカナにはナンバーがふられているように、数の進行に従って拡大や発展をしていくと見ることができます。


タロットはゲームとして使われていた歴史が長いですので、おそらくはゲーム性を考慮して、ナンバーが機能していたと考えられます。


たとえば数(ナンバー)が上がるほど強いカードになるという具合に。


しかしこれをそのままタロットの理解やリーディングに流用してしまうと、単純に数の少ないカードは悪いカードみたいな認識になるおそれがあります。


もっとも、吉凶的判断での「占い」として活用する場合は、それでもOKでしょう。というより、おみくじ的に引くことができて余興としては面白いかもしれません。


ですからやはり数によっての優劣を決めると、どこかゲーム的になるのです。


とはいえ、数の大小によって変化してくるという観点も悪いことばかりではありません。


ひとつには「数」を宇宙や神の象徴・表現として秘術術的に絵柄と併せて解釈することにより、タロットリーディングに深みを与えることできます。


ただこれも両刃の剣で、深みが増す反面、カードの絵柄から出る解釈(象徴)と数そのものの持つ象徴とが統合できず、余計に混乱することにもなりかねません。


このことはソウルカードテクニックによって問題が顕著になることがあり、ソウルカードテクニック(技法)がうまく使いこなせない、理解に矛盾を抱えている人というケースも少なからず見てきました。


この問題については、私自身はある決着を見てますので、それは私の講座でお話しています。


さて、数の進みによってカードの意味も変わってくるという発想を持てば、ふたつの大きな示唆が得られます。


ひとつにはカモワン流などでも主張されている「大アルカナが人間完成の図を示す道程である」ということ、もうひとつは同じようなことなのですが、数の進行によって私たちの物の見方が拡大されるということです。


一言で言えば、「数が進めばより解放される」と言ってもよいでしょう。


ということで「世界」は最高度に到達した解放であり、完成となるわけです。


ただ現実的に適用するとすれば、「多様な見方を獲得した状態」と考えてもよいでしょう。多様な見方ができるということは、それだけ経験が豊富か思考が柔軟であるということになります。


よく「経験しなければ本当のところはわからない」と言われますが、それはまさにその通りだと思う反面、世の中のすべてのことを一人の人間が経験できるわけではありません。


従って、むしろ思考の柔軟性を得たほうが実際的だということになります。ただなかなか普段の考え方を変えたり、柔らかくしたりすることが「頭」だけではできにくいので、実の体験があったほうがよいと言われるのです。


たとえば「痛み」を考えろと言ってもわかりにくいですが、怪我をしたり、心が苦しかったりすれば「これが痛みだ」と悟ることができます。それゆえ、実際の体験は思考を変容させるのに極めて重要なのです。


また一人の人の体験は限界がありますから、自分がただ一人で考えているよりも、他人の経験を話してもらう、他人から伝授してもらうほうがよほど物事の理解が早まるでしょう。


このようにして私たちは多くの人・モノの中で、自動的にたくさんの経験を積む(積まされる)ようにできていると考えられます。


それは結局タロットでいえば「世界」に至る道であり、自分の物の見方を多様にするためにあると言ってもよいのではないでしょうか。


タロットの優れた象徴性

西洋の秘儀的な教えのモデル(象徴体系)として、タロット・カバラー・占星術と三つの大きなものがあると考えられます。


ただカバラーはユダヤ密教からの流れだったり、占星術もメソポタミア発祥などと言われたりするように、これらは厳密に言えば西洋だけのものとは言えません。またこれら三つを使う西洋魔法の分野もあります。


ただ、巷で知られている万物の象徴モデルとしては、カバラーの生命の木、タロットカード(特に大アルカナ)、占星術の図(惑星やサイン・ハウス、それらを使うホロスコープ)は非常によくできていると感じます。


これらひとつひとつがそれぞれすばらしく、それ単独で完成された体系だと思いますが、先述したように三つを使いこなす方法もあるでしょう。


また人によっては相性のようなものがあり、「自分にはタロットが合う」とか「私は占星術がいい」などあるように思います。


カバラーの生命の木にしろ、タロットの大アルカナにしろ、優れた象徴体系をたとえ最初は深くは理解できないとしても、知っているだけでもずいぶん人生観が変わると私は思っています。


たとえば生命の木のセフィロト(単体ではセフィラー)でも、タロットカードでも、「このような状態・エネルギーがある」と思っていれば、それが実感できていなかったにしても、今の自分や自分を取り巻く世の中に起きていることを、それらの象徴で考えることができます


優れた象徴のすごいところは、思考(考え)しているだけで、次第に感覚もわかってくるようになるということです。


それは、「もしかすると、これがこの象徴のことかもしれない」「いや、あのこともそうだろう」と、自分の体験を知っている象徴に当てはめて、観ようとするからです。


帰納的な手法ともいえるかもしれませんが、そうしていろいろな現実のものを比較検討しながら、タロットやカバラーの象徴体の根源を把握していこうとするのです。


つまり、天や真理を理解する材料は私たちの住んでいるこの世界にあるということです。


こられの象徴には次元という考え方ができるので、たとえばあるAという象徴があったとしても、このAにはA’やA’’のようなレベルの異なった階層を想定することができ、そのため卑近でまさに現実的に感じられる事柄と、高次で極めてとらえがたい抽象的な精神の世界とが同じ要素(前記でいえば同じ「A」という要素を持っているということ)でつながっていることを理解することができます。


すると、今感じていることはまだ低次であることもわかり、さらにいえばそこから高次のものがあるのだと知っているので、いつも高みを目指すことができるようになるのです。


さらに高みを目指すだけではなく、地に足をつける逆方向の流れも大切だともわかる仕組みがあります。


私の書いていることはちょっと難しいかもしれません。わかりやすく書ければよいのですが、象徴はなかなか言葉で表すことが困難なところもあるのです。


タロットでいえば「これが運命の輪なのか!」とか「これが太陽のことなのだ」と思うことを、実際に今住んでいる私たちの世界で体感していくような感じでしょうか。


それがわかってくれば、人生や世界に意味を見い出すことができると言ってもよいでしょう。


タロットを占いやリーディングとして使用する方法ももちろんありますが、象徴として真理の探究、霊性の向上、自己洞察に活用していくことはとても価値ある大きな使い方だと私は考えています。


「恋人」カードに見る「惚れる」こと。

 マルセイユタロットの大アルカナの図像は、単純なようでいて実に奥深くのことを考えさせてくれる絵柄と構造に一枚一枚がなっています。


たとえば「恋人」のカード。


常々私はこの一枚に恋愛や人間が悩む様子のこと、さらにそれにどんな意味があるのかといったことをほとんど網羅しているすばらしい絵柄だと思っているのですが、ほかのことももちろん示唆してくれています。


マルセイユタロットの「恋人」カードの絵柄構造は、大きくわけると二部構成になっていることがわかります。すなわち、上空の天使と下の三人の人間たちです。


このために、「手品師」から「戦車」としてのひとつの区切りを大アルカナの中でつけた場合でも、「恋人」は異質な構成のカードとなっています。


なぜならば、ほかの「手品師」から「戦車」のカードは、人間中心で天使的なものは描かれていないからです。


そこがある意味、「恋人」の解釈の鍵を握っているとも言えます。


それはさておき、「恋人」カードからの気づきに移ります。


人はよく「飽きの来る動物」だと言います。熱中することも多いのですが、それと同じくらい飽きてしまうこともあるものです。


それが人であれ、物事であれです。ここにひとつの人の不幸(または幸福)があります。これではまるで「運命の輪」の解説をしているようですね。(笑)


飽きが来ることと「恋人カード」が、いったい何の関係があるのかと思うでしょう。実は大ありなのです。


飽きが来るということは、言い換えれば「もうわかってしまった」という安心感、日常感覚に戻るということでもあります。


ということは逆に未知なるもの、まだ秘密や神秘があると対象物(人)に感じられれば興味は持続し、飽きは来ないことになります。


これが「惚れている」状態とある面同じなのです。


惚れている場合は、惚れているために冷静・客観的に対象を見ることができず、いわば偏った見方や目隠しをされているようなものと言えます。


ということはわからない部分がたくさんある状態でもあるということです。なぜなら「ふさがれている」分、見ていないところが多いからです。当然魅力的であり、飽きが来ません。


しかし惚れていることはもうひとつの効果ももたらします。それは対象の良さ(ポジティブ面)が拡大されるということです。


小さな光が太陽のように見えるのですね。(ちなみに「惚れ」は「恍惚」につながり、心と光が合わさって「恍」にもなりますね)


これが人への賛美、世界のすばらしさに感動することにもつながります。まさにワンダフルの実感です。


惚れる状態を作ってくれるのは、「恋人」カードでいうキュピーッド(クピドー)であり、エロースの神、天使です。彼のこそが対象への「惚れること」を生み出します。


しかしながら「恋人」カードには人間達が描かれていることで、この矢は天使だけで一方的に放たれるものではないことがわかります。


そこには人間の交流があるのです。だからこそ、自分が何かに惚れる現象を生じさせるためには人との間に自分を交わらさせなければならないのです。


そしてそれが天使の矢を運ぶフィールドを作ることにもなるのです。これは「」が作られる(運ばれる)ことと同じと言ってもよいでしょう。


惚れる物(者)には自分から見て未知なるものがあるのは先述した通りです。


こうして人は好奇心や探求心をもって惚れたものへと向かうのです。


それでも自分が「もうわかってしまった」というような状態になった時、天使は去ります。「惚」れがなくなったのですね。


ただ中途半端な「わかり方」だと、非常にもったない惚れ方をしたことになります。


なぜならば、この「惚れ」は「恋人」カードの天使(神)の裏に描かれていることに気づくために起こるからです。


人が日常に埋没したり、逆に何かの変革を求めた時、人を介して「恋人」カードの天使がふいに登場します。そしてありえなかった「惚れ」があなたに訪れます。(対象は人だけではなく、事柄、技術、学習、探究など様々です)


それに溺れるのもよいかもしれませんが、それは表面的なことなのです。その奥のものに気づき、あなたを飛翔させるために天使の本当の目的はあるのです。


単純に惚れたモノや相手のことを「わかった」として飽きてしまうことは、チャンスをふいにしてしまっていることと同じです。


それゆえ「恋人」カードはやはり「運命の輪」と非常につながることになるのです。


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