タロットの使い方
あなたの希望をタロットで後押しする。
人間の一生というものを考えてみますと、長いようでいて非常に短いものです。
その時その時は時間の感覚はあまりありませんが、振り返ると短くなってしまうのも人の感じる時間の特徴かもしれません。
結局、亡くなる時は振り返ることになりますから、自分の過ごしてきた時間や一生というものも一瞬となるのでしょう。
とすれば年を重ねれば重ねるほど、過去は短いものとなってくるのです。心のバックタイムマシーンのスピードが速くなると言ってもよいでしょう。
一生とはそんなわずかの間のことなのですから、今後の人生でもっと濃密な時間を過ごしたいと思ってその充実を図ることは、ある意味、人にとっては必須なことなのかもしれません。
ということで、年の初めにいろいろと計画される方もいらっしゃるでしょうが、やりたいことを行うこと、行きたい場所へ行くことなどは、なるべく今まで以上に実行されるとよいのではないかと思います。
そこでタロットを使って、その後押しをしてくれる方法をひとつご紹介します。
まず今年に行きたい場所、あるいはやってみたいことを数個(できれば4つ以上)挙げます。これは複数挙げること自体にも意味があります。
また選択する事項は、あまりにも実現が難しいものよりも、少し手を伸ばせばできそうなもの、行けそうなものにするとよいでしょう。でもお金や時間を制限にして、現実的に考えすぎないことも大事です。
ちょっと無理目だけどできるかもしれない、かねがねやってみたい、行ってみたいと思っていたけれども、これまでいろいろな理由で無理だった・・・というようなものも選択されるとよいでしょう。
そしてその選択した事項や場所を大アルカナでそれぞれ表します。たとえば海外旅行ならば「世界」のカード、占星術は「星」のカードという具合です。(マルセイユタロットを事例としています)
そしてそれら(願望を一枚で表現したそれぞれの大アルカナのカード)をシャッフルして、最初に一枚引いたカード(正逆は取りません)を第一の実行目的とするのです。
以下、二番目のカードがその次に考えるべきもの、三番目がその次・・・というように、引いた順番のカードが、自分にとっての必要度や気づきをもたらせる選択や場所だと考えます。
正逆をどうしても取りたい人は出たカードの中で、順番よりも正立をもっとも重視し、次に出た順番とするやり方もあります。
次に、その選択ひとつが決まったら、今度は22枚の大アルカナすべてをシャッフルして、実現可能にするための重要な要素(行動や方策、心構えなど)として、一枚もしくは二枚程度カードを引きます。
そしてそれらのカードをヒントにしてリーディングし、最初に引いて決定した選択事項を確実にするためのエネルギーと見ます。
以降、忘れないように、ことあるこどに選択事項としてあてはめたカードを意識しておき、その度にあとで引いた実現ための要素となるカードと併せて思い出すようにしてください。
これが無意識に浸透し、漠然と目標を立てていた時よりも、かなり実現が速まることでしょう。
人生後悔なきよう、何歳になってもチャレンジして行き(生き)ましょう。
タロットと自由
タロットには色々なスタイルがあります。
タロットの種類から始まって、その使い方、スプレッド(展開法)、活用法に至るまで、実に様々です。
これにこだわりを持たず、ありとあらゆるスタイルを楽しむ自由さを満喫する方法もありますし、あるタロット・メソッドを追求し、極めていくやり方もあります。
タロットは元来、自分の枠組をはずしていく作用があると想定されますので、「自由(になる)」ということがテーマともなり、その観点ではいろいろなものを自由に使い、思いの通りに解釈していくのもありだと思います。
しかしながら、人間、いきなり自由になれと言われても難しいものです。
自由を実感し、これを得ていくのには実は制限や縛りが最初には必要です。
ヨーロッパの市民が自由や権利を獲得することができたのも、強大な支配からの独立、市民革命というものを経てきたということがあったためです。
また無法地帯では、身の安全すら保障されず、無秩序ではありますが自由とは言えません。
よってルールや規則は自由を味わうためにも最初の段階では大切なことになります。
要は「自由」とは、何もない状態のことを言うのではなく、何らかの秩序があるものと定義できるものです。
自分における秩序の進展が、今までの狭い枠からの脱却につながるのと同様の意味だと考えられます。
ということで、元に戻りますが、このように考えてきますと「タロットは何でもあり」ではありますが、そこにはある種の秩序やルールが伴ってくることが前提となります。
大切なのはそのルールにずっと自分とタロットの解釈・活用法を閉じこめておくのではく、そのルールを今度は破壊し、新しいルールを採用することができないかを考えていく(創造していく)ことにあります。
一方では、自分が思っていたルールが絶対ではないということに気付くことでもあります。
結局のところ、そのためにはひとつの「型・形」の習得が求められるのです。自由のために不自由を経験するのです。
それができて、今度は次の型に移行していくわけです。
いわばこの過程は、テーブルの上に一見無秩序に散らばったモノを、特徴によってグループ化し、それぞれに型を見い出し、さらに大きなグループへと統合化していく作業に等しいものです。
表現を変えれば、無秩序に見えるものから秩序を発見するということです。
これが実は世の中と自己の把握につながるのです。
でたらめに見えるこの世界が、実は真理によって極めて秩序立った世界・宇宙であることを感じ、それに自分を再び当てはめ直して自らを調和に導くということです。
それは世間の常識や現代の科学的なもの、目に見えるものだけではわからないことでもあります。
そして、この理由のためにタロットは勝手に使っていくことよりも、やはり学習して検証し、実践していくことが必要だと考えられるのです。
成功とは何か その2
昨日は 成功概念についての記事を書きました。
今日はその続きです。
成功概念やイメージは商業的に外から植え付けられることが多く、それに踊らされることになりがちだということを述べました。
そうならないためには、無自覚でいるより、何事も自覚していることが大事であり、また成功を商業ベースではないものによって概念化したほうがよいことになります。
とはいえ、昨日の記事でも書きましたように、外部からではなく自分の中で成功(イメージ)を作り上げようとしても、自分の思考自体も常に変化するものなので、結局成功概念はコロコロと変わってしまい、気がつけばまた外からのイメージによって支配されていたということにもなりかねません。
そこで商業や購買目的ベースではない成功のモデルが必要となってきます。
モデルと言っても人ではありません。人の場合は先述したように、たとえモデルになった人でも、その人自体変わって行くおそれがあるためです。
それでは何をモデルとすべきでしょうか?
一言でいえば象徴です。象徴は象徴であるからこそ具体的なものではありませんが、逆に抽象的なために、誰にでも普遍的にイメージすることが可能です。
モノや形として手に入れたり、実際にその場所へ行けたりするようなものではありませんが、目標・イメージとして見失うこともありません。
いわば簡単に手に入らない境地・モノだからこそ、目標としていつも置いておけるということです。つまり「変わらないもの」なのです。
しかしあまりにも遠い目標や理想は、人は無理だとあきらめてしまうこともあります。
この「遠すぎず、そして近すぎない」象徴的目標が成功イメージとしては重要なのです。
たとえば、いきなり「悟り」か成功だと一般的に言われても、「はあ?」となるばかりでしょう。
たとえ「悟り」が究極的な「成功」だとしても、その次元を落とした成功目標は必要となってきます。
そしてマルセイユタロットの場合は、この究極目標ともう少し次元を下げた成功のことを、「世界」と「戦車」で象徴させています。
ですから私たちはマルセイユタロットの「戦車」を成功イメージとして持てばよいのです。
「戦車」の画像の最大の特徴は、二頭の馬と一人の御者の関係です。
実はその前の数を持つ「恋人」さらに前の「法皇」から、マルセイユタロットは二人の人間と一人の人、あるいは複数とひとつの高みの存在という構図が描かれています。
ここからも「成功」とはひとつの要素だけではないことがわかります。
では「戦車」の示すところの成功とは何なのでしょうか?
それは皆さん自身で考えてみてください。マルセイユタロットを学べば、自ずとわかってくると思いますし、すぐにわからなくても、それを追求することが大切なことでもあります。
「戦車」という画像イメージは不変であり、そこから象徴される「成功」もまた不変(普遍ともいえます)です。
このためにタロットから自分なりの「成功イメージ」を持つことが可能になり、外部からの成功イメージの植え付けも少なくなります。
もちろん人の思いや心は変わって行きますので、同じ「戦車」を見ても心境や経験によってはその「成功」イメージも変化するでしょう。
しかし、その「戦車」に表現されている根源的なもの、核となるものは変わりません。言ってみれば「イデア」であり、「元型」だからです。
このことからも、人や世間の価値観の変動に応じながらも普遍的なものを見せてくれることのできる「戦車」の示す成功は、人がイメージするものとしては、非常にモデルとして有効であることがわかると思います。
マルセイユタロットはこのように活用できるものなのです。
今年の記事はこれで最後となります。この一年、ブログをお読みいただきありがとうございました。
修行系、清貧系の人に。
何かいいことが起こってもすぐに邪魔が入ったり、自分の学びを深めようとするとそれができなくなったり、お金を稼ぐことはいけないと思っていたり、ノホホンと過ごしているように見える人や、棚ぼた的な成功を収めた人に無性に腹が立って仕方がないと思ったり・・・
そういうあなたは、もしかすると、修行系・清貧系というタイプかもしれません。
修行系・清貧系って何?
簡単にいえば清く、正しく、「苦しく」生きようとしてしまう人種(苦笑)です。
これがひどくなると、幸せであってはいけない、楽しくなってはいけない、苦しいことがなければいいことは絶対起こらないと考えてしまうようなります。
いえ、自分では幸せになろう、楽しく生きたいと頭では思っているのですよ。
ところが、心の中、潜在的にはそうした自分になることが許されないのです。
なぜ許されないのでしょうか?
これもいろいろな原因があるのですが、一言でいえば自分の存在理由やアイデンティティがなくなるのが恐いからです。
えっ、幸せや楽しくなっては自分がなくなってしまうのですか? と疑問に思われるでしょう。
修行系・清貧系の人は概して努力家なのです。何事も一生懸命やろうという人が多い。
それは自分が修行しているから、あるいはつらいことをやっているから報われる、糧が得られるのだという思いこみで出来上がった世界に住んでいるためです。(逆にいえば「報われるためには、つらいことをしなければならない」となります)
もしここで、「修行しなくもいいんだよ」「そういう方法でなくても楽になることはできるんだよ」と言ってみたところで、「じゃ、今までの自分は何だったのだ、骨折り損のくたびれもうけかい!」となってしまい、容易にほかの方法を認めることができないのです。
認めると、これまでの自分の努力が無駄となり、それは生き方の否定につながり、つまりは自己の否定と喪失感に行き着くのです。
ということは裏を返せば「プライドが高い」ということです。そのプライドが努力や苦労そのものなのです。
努力によってある程度望んだ結果や報酬を得ていれば、極端に修行系や清貧系にはなりません。
その努力の分、報われない時に余計にそれにこだわり、成果(結果)が出ないことの不満を、今度は過程(やってきた時間・量そのものの評価)で補おうとします。
それ(過程)さえ否定(別に否定するわけではないのですが)されてしまうと、もう自分を評価するものがなくなって、逆に自己否定に向かう人もいます。
通常は自分を否定するより自分を守りたいと思うものなので、相変わらず別の形や事柄で苦労を続け、成果が出るのを期待しつつ、努力する自分に酔いしれます。
もちろんプロセス・過程、努力と労苦も大切で人を成長させるものですが、結果や成果が出ないのならそれはおかしいことにも気がつかないといけません。
もしかして、あなたのしている努力とは努力そののもをマゾ的に楽しんでいるおそれもあります。それは努力というより我慢や逆説的な自己への過大評価でしょう。
そこで修行系・清貧系の人は、ひとまずプロセス重視型から発想の転換を図り、結果や収穫に重点を移すことがよいでしょう。
それに何よりも、自分が幸せ、豊かにになってもよいのだという許可を自分にすることです。
許可ができないのは、おそらく誰かへの過度な(バランスの崩れた)愛情があります。また誰かからの幻想による縛り、制約もあるでしょう。
マルセイユタロットでいえば「悪魔」と「13」、「星」や「節制」にも関連してきます。
これは自分では気がついていないこともありますので、カウンセラーやセラピストなどの手助けを借りたり、自分を客観視できるツールなどを持ったりするとよいでしょう。
結局は人には自分が決めている暗黙のストーリーが潜在しており、それによって無意識のうちに動かされ、自分の現実を作っているのです。
そういう意味では、人は誰でも自分の信じた思想・理由の世界に生き、それをきちんと実現させているとも言えます。皮肉ながら(^_^;)、人間の創造力はまさに神と同等です。
修行系・清貧系の人は、まず「なぜ苦労しなければ得ることができないと思っているのか」「清いことは本当に=貧しいことであるのか」ということを検討してみるとよいでしょう。
何のためにこの世界がバラエティに富んでいるのか、そしてあなたが修行系でいることで恩恵を逆に受けている人や層がいないか、冷静に見ていってもよいでしょう。
同じ努力するのなら自分の解放に使うほうがよいでしょう。タロットでいえば「太陽」です。
余談ですが、過去生というものを信じるとするのならば、過去にも同じような修行系・清貧系であったことがあり、その時報われず、今度は修行の成果を得ようと転生し、現在また遮二無二苦行している状況を造ってしまっている人もいるように思います。ご注意ください。(^^;)
4大元素で健康を考える。
今年はどうも、疲れか、はたまたエネルギーに敏感になったのか、冬至の近づくこの時期にまた風邪を引いてしまいました。
土日と四国に行っていたのですが、生徒さんの皆さんからいろいろと温かいお気遣いをいただき、何とか講義はクリアーしましたが、今も声がほとんど出ない状態です。前もこういうことがあって声帯を悪くした経験があるので、ちょっと慎重になっています。
四国の生徒さんのお一人が私のためにカードを引かれたようで、その時出たのが「星」だったとのことですから、やはり浄化と関係していそうです。
それはともかくとして、健康を考えるとき、四大元素で見るとバランスとしてもわかりやすい面があります。
四大元素とは、ここでも何度かご説明しているように、風・水・火・土(地)のエレメントを意味し、古代西洋からの「性質で世界をとらえる考え方」と言えます。
四大元素はきっちりと4つで区分されるものではないので、現代風の元素のとらえ方ではわかりにくい代物なのですが、ここは逆にあえてシンプルに4つの要素という形で説明します。
何事も4つのことで分析すると、物事がクリアーに把握できてきます。健康問題もしかりです。
まず「風」としての知性・知識・情報は必要ですよね。正しい知識を入れることは迷信や俗説で勝手に自己診断しない意味でも重要です。そして、そもそもこれが「医者」や「医学的」診断・診察ということに関わってくるでしょう。
そして「水」、「水」は心・感情の部分だとすれば、やはりストレスのかからない、心が平穏なことが何よりも健康には大切です。「病は気から」といわれるように、気持ちがよくないと健康にも支障を来すことは皆さん知っての通りです。
次に「火」、これはモチベーションや情熱ということも言えるのですが、端的にエネルギー・運動だともとらえることもできます。
要は日頃からの運動や、エネルギーを保っておくということですね。ここは現代人が結構ないがしろにしているところではあります。また情熱が持てるようなことをもっておくのも健康にはいいことなのでしょう。
最後に「土(地)」、「地」は安定した大地、物質的なものを象徴していますから、肉体そのものを表していると見ていいでしょう。
肉体・土台がしっかりしていないと、いくら栄養を取ったり、運動したりしても効果はあまり期待できません。また衣食住などのベース、生活習慣を整えておくということもこの分野に入ってくるかもしれません。
こうして四大元素的区分を考慮しながら健康を考えてくいとく、健康のバランスを図ることもできるうえに、タロットの小アルカナの訓練にもなるとい一石二鳥の面があるのです。
