タロットの使い方
タロットを楽しむのもまた一興。
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では今日の記事です。
このブログで書いていることや、私のタロット講座では「自分の人生の質を向上させるためにタロットを使ってほしい」と述べています。
んがっ! そう堅苦しいことばかり言っていても、しんどくなって始まらないこともありますね。(^_^;)
それはあくまで理想論のことであり、自分の目指す目標、核として置いておく設定みたいなものなんです。
そしてタロットは次元やフィールドを変えるてみると、いろんなことに使えてくるのです。
その発想と活用がまた、凝り固まった自分の考えや枠をはずすことに役立つんですよ。
たとえば、わが家では妻は積極的にタロットを活用しています。
いや、私が活用させられている(笑)と言ってもいいです。。。
皆さんの中には、「タロット講師の妻だから、さぞかし高度な使い方されているのだろう・・・」と想像される人もいらっしゃるかもしれません。
でも妻がタロットを使うのはこんな時なんです。
「明日友人と会うのだけど、どこに行けばいい?」「髪を切りに行くのはどの日が適当?」「迷っている化粧品に判断をつけたいんだけど・・・」
まるで占いそのものですよね。。。(^_^;)
それで自分でやればまだいいのですが、占うのは・・・実は私です。(笑)
最近はいちいちタロット出すのが面倒なので(^^;)、iPhoneのマルセイユタロットアプリで占わせています。(解説は私がしていますが、行動を選ばせるのは妻自身にさせています)
オレはおまえの専属占い師かっ!て時々思いますが(^_^;)、でもこれもまた楽しいタロットの活用法なんですよね。
あ、けど、皆さんこれを聞くと、たぶんこう思っているでしょう。「やっぱり簡単な占いでタロットを使ってみることもいいんだ」って。
はい、確かにその通りです。実際、妻にする「タロット占い」は結構当たっていますので、妻は気分よくしています。はずれてたら怒られますが。(笑)
でも、私の意図している本当のところは占いが目的ではないのです。
では何かと言いますと、妻のご機嫌取りです。(苦笑)
もっといえば 夫婦間コミュニケーションの道具としてタロットを使っているわけです。
タロットがあるから、ちょっと険悪になっても和めることができる(こともある(^_^;))のです。
あ、別にもちろん占いそのものを目的としてもいいんですよ。当たるとやっぱり楽しいでしょうから。
そしてよーく、いろいろなことを考えて行くと、占いだろうがコミュニケーションの道具だろうが、ゲームだろうが、何に使ってもタロットは高次の目的(霊性の向上)につながっていくのです。ただし、きちんとタロットを学んでいくことが前提ですが。
それは高い次元が低い次元にエネルギーとして降りてくる垂直の過程と、宇宙(神)の様々な表現という平行的な観点を入れて考察していくとわかってきます。
タロットカードでいえば「世界」から手「品師」、「神の家」から「恋人」への関係で例えられるでしょう。
まあ、とにかくタロット使って楽しんでください。そして楽しみつつ、まじめなことも考えて行けばよいのです。
マルセイユタロットが好きな人の傾向
マルセイユタロットにひかれる方というのには、ある特徴があるように思います。
もちろん全員が全員ではないのでずが、いわゆる傾向のようなものです。
そのひとつに探求心を強く持つ人というのがあげられます。また秘密を解明させていくことに喜びを感じる人でもあるということです。
タロットカードは創作系でない限り、一応は基本として78枚をひと組にして、同じような象徴の絵柄が描かれています。
というのもほとんどはマルセイユタロットを起源にしていると想像できるからです。(これには諸説あり、そうではないという考え方もあります)
しかしながらマルセイユタロットの場合は、一見無造作にシンプルな木版画調(もともとは木版画ですので)に描かれているようで、実は非常に厳密な構造とルールによって作られています。
特にカモワン版(大元はコンヴェル版)は詳細な部分まで意味づけされて復元(という著作家の主張)されており、その細かさは知れば知るほど驚きを感じるものです。
ここで再びマルセイユタロットを愛好する人たちの傾向に戻ります。
マルセイユタロットはこのようにシンプルな中にも複雑で緻密な構成がされているので、いわば謎解きの楽しさがあるのです。
すべてのものがまるで「ピースがひとつひとつ、ズバリとはまっていくかのような」整合性の快感とでも言いましょうか。
これは一枚だけとかタロット単体の象徴、または全体性そのものから生ずる自分の気づきや感覚とは別物です。
ある特定のカードを見て「今の私の状況や心情がそのまま出ている」と感じるようなものはどのタロットでも起きることですし、これもまた意味があることです。
しかしマルセイユタロットの場合は、そうした単体や全体からということだけではなく、何枚もの関連したカードによる緻密な整合性を見ることができるのです。
例えば「手品師」(一般のタロットでは「魔術師」)が手に持っているバトンや机の上の道具類と、「世界」の真ん中の人物の手にしている二つの物やその他リーフの中にあるもの、リーフ外の周囲の生き物の配置、また途中の「力」のカードとの関連など見ても、マルセイユ版の場合はとても細かに相互にすべて意味のある関連性によって読み解くことができるのです。
他のタロット、有名なウェイト版(ライダー版)での「魔術師」の道具類や「世界」の生き物でも関連があることを見ることができます。
では「愚者」と「世界」のリーフの中の人との関連まで繋げることはできるでしょうか。ストーリーの話ではなく、象徴としての話です。マルセイユ版にはその整合性が描かれています。(ゴールデンドーンの体系で、ウェイト版をカバラや魔法象徴道具として使う場合はまた別です)
(注:ここではタロットの優劣を言っているのではなく、タロットの構成意図による読み解き方と、それに感じる興味の違いについて述べているに過ぎません)
もう一度言いますが、単に一枚の意味同士の象徴の関連性や二・三の象徴の整合性ではなく、細かな絵柄や数までも含む細部の象徴を含む明確な関係と確かさなのです。
「AがあるからBになり、だからCになっている」ということが極めて合理的に、整合性(論理的であるということ)をもって描かれていることにマルセイユタロットの特質があるのです。
さらに、もちろんタロット全体としての意味や象徴も完璧といえるほど整えられているので、マルセイユタロットを知れば知るほど、象徴理解による知的興奮はとどまるところを知らないといった趣きになります。
それを暗号解読のように解くこと、識ることに楽しさと喜びを感じる人は、おそらくマルセイユ版にはまります。(笑)
そういうものに対して「だからそれがどうしたっていうの?」「それが何か?」と思うような人は、マルセイユ版とは縁がないと言ってもいいかもしれません。
偶然引いたカードが自分の人生や運命をまさに象徴していた・・・このようなことはタロットでは当たり前のことであり、その衝撃や興奮もすごいものではあるのですが、これは感覚的なものです。
さらに進んで、タロットの構成と仕組みがいかに詳細に練り上げられているものかということを知り、それが自分や世界と結びついていることをさらに理解し、今度は宇宙・森羅万象の構造をタロットにより把握する楽しみにもっていくことができるのです。
いわばタロットは人間や宇宙の真理を知るためのツールといってもよいでしょう。
真理を知るために使うわけですから、当然ながら自分や人を見つめていく道具にもなるというわけです。
マルセイユタロットにご縁のある方、講座でお待ちしております。
タロットの不思議な作用
秋からゆったりペースでタロットを教えて行こうと思っていたのですが、いろいろと受講希望を受け入れていましたら、気がつけばまたほとんど休みがなくなってきました。(^_^;) まあ、自分の研修的な時間もありますので、それを入れての話ですが。。。
ということでタロット講座受講などのお問い合せもいただくのですが、年内はほとんど余裕のない状態です。
受講生の方からも、「講義、疲れませんか?」とよく聞かれるのですが、ことタロットの話をしている時に限ってはとても元気です。ただ、さすがに最近は多忙なので講義外の時間ではへばっている時はあります・・・(苦笑)
講義の時に元気なのは不思議なのですが、これはもしかすると私の力ではなく、タロットからのエネルギーが流入しているのかもしれません。実際講義の時にはそう感じることがあります。タロットに助けてもらっている感覚ですね。
さていつもこのブログではタロットを比較的まじめに、心理的な要素を中心にして語っているのですが、今日はちょっと雰囲気を変えて、自分の経験する「タロットの不思議さ」を書いてみたいと思います。
私はタロットとそんなに長く接してきたわけではありません。マルセイユタロットと出会って、せいぜい10年です。
中には幼少の頃からタロットに親しまれ、占い師の方などは20年も30年もタロットを使ってきたという方も少なくありません。そういう方からすれば、私のタロットの歴史など浅いものでしょう。
でもそんな私でもタロットを地道にコツコツとやっていますと、段々と普通ではない感覚も出てきます。(言っておきますが、もともと私は霊感などはない質です)
たとえば最初は単なる紙に描かれた絵のような認識でいたタロットでも、やがてそれが生命のある生き物のように息づいているように感じてきます。
時には立体的にタロットの絵柄(人物)が浮かび上がり、まるでホログラフィーを見ているかのようにタロットの人物が語り出すのを見ていたこともあります。
このようにマルセイユタロットになじんでくると、多かれ少なかれ2次元から3次元、そして時間空間を超えたような次元を入れての5次元のような感覚が出てくることがあります。
そして次にどうなるのかといえば、同じようにタロットのような2次元的なのものが3次元としての実際に近い感覚に変化してきます。
たとえて言えば、普段見ている絵が立体化して生身のように感じるということです。
私はもともとアニメが好きでしたが、最近はアニメを見ているとかなり感じがライブ(実際)に近いものになってきて、自分がその絵の中に入っているかのようになり、感動も以前より半端ないものになってきています。(笑)
これは文字を読んでいてもそうです。文字から想起されるイメージが人間にはありますが、それがやはり生々しく実感を伴ってくるようになるのですね。
ただまったく記憶していないもの、材料として思い当たる節がないもの(つまり自分が経験してないもの、味わっていないもの)、はなかなかそうはなりません。
ということは、タロットは自分の3次元の体験を象徴によって強化し、別の事柄でも思い起こさせる作用があるということにもなります。
もっといえば四大元素を分解して他の物に再構成させる力があるということです。この力はイメージを実現させる元となります。やや怖いところもあるので、意識しては使っていません。
ここまで来ると、もはやタロットは単なる絵を確実に超えたものとなります。
タロットは皆さんが思っている以上に「超」のつく能力を開発させるツールなのです。そのことを私は実感してきています。
しかしながらそれは単なる過程のひとつでしかありません。目的はあくま総合的な人間性の統合であり、霊性の向上にあるのです。
タロットが語る自由とは。
タロットのひとつの大きな教え(思想)には、魂の解放ともいうべき事柄が込められています。
平たくいえば「自由になること」であり、すべての制約からはずれるということでもあります。
ですから自然、タロットをしていると自由な気持ちになったり、自分を制限しているものから逃れようとしたりする気分になってきます。
ということでタロットは自由になるための道具でもあるのですが、この「自由」ということを性急に求めすぎると、無秩序の中に放り込まれるかのような混沌(カオス)の世界で迷うことになります。
タロットでいえば、「愚者」からいきなり「世界」を求めるようなものです。これは時に危険なことにもなり、悪魔の世界(堕落の道)にも通じてしまうことがあります。
言ってみれば「何でもいいんだ」「何やってもOKなんだ」ということになり、「幻想としての解放」に逆にとらわれてしまうです。
いえ、実は究極的な目的(自由になること)としては、「何でもOKだ」となることは間違いではありませんし、むしろそれが正しいとさえ言えます。しかしながら何事も段階があるということなのです。
もう少し詳しく説明すると、最初の段階で人が自由ということでイメージするのは「楽(らく)」ということになり、それは「快楽」を求めることと同意義になるのです。
快楽を求めるということは不快を避けて快を選ぶということであり、とどのつまり、好きか嫌いかという気分的なものに支配されることになります。
これではエゴ(悪魔と表現される部分でもあります)の思うツボなのです。
それでは真の自由を求めるにはどうすればよいのかということですが、タロットでいえばまず「運命の輪」や「吊るし」を意識するということです。特に「吊るし」は重要です。
「吊るし」は一見、とても自由とは相反するようなカードです。
おそらくマルセイユタロットで通常の「吊るし」の意味を解説されていないと、ほとんどの人は誤解をしていることでしょう。すなわち、「吊されている」「苦しい」状態であると。
しかし、「吊るし」は本来能動的であり(あくまで私の解釈ですが)、自分からこのスタイルを取っています。
またたとえ「吊されている」「狭い世界に閉じこもっている」ように解釈できるとしても、自由をテーマとすることがこの「吊るし」では可能なのです。
それは制限された世界だからこそ、その中で自由を発見し、遊ぶことができるかが試されているといえるものです。
制約の中での自由性、活用性を見いだすことに「吊るし」のひとつの意味があると考えられます。
制限や制約があったほうが、実は自由を見つけたり理解することが容易になるのです。それは逆説的に自由ではない部分がよりはっきりとわかるからです。
ただ自由ではない部分によって自由を見い出すことだけではなく、先述したように制限された中でも自由になれる自分を見つけていくことにも価値があるのです。
こうして発見し身につけた「自由」は本物です。
一度自分を縛っている枠を見つけることにもつながりますし、それを見破ることにもつながり、また感情レベルも超えているからです。
実は「吊るし」だけではなく、タロットは特に大アルカナ22枚すべてに自由があり、逆にある種の制約テーマもあります。(「制約がない」ともし言えるとすれば、「愚者」と「世界」の二枚でしょう)
タロットは自由になるための道具でもありますが、使い方を間違うと反対に何かの奴隷になってしまうこともありますので注意すべきです。
結局それはタロットをどう使うか、何を目的とするかによって決まるといえます。
ですから私はタロットを霊性の向上、人生のクオリティを高めるために使っていくことを目的とし、それをお伝えしているのです。
単なる調整だけがバランス回復ではないのです。
バランスを取ること、中庸に位置するよう心がけることはよいことだと一般的にも言われます。
逆に言えば何か問題があるということは、バランス(要素は様々ですが)が崩れている状態だと言えます。
そのバランス回復のためにタロットで要素・要因(ファクター)を見つけ、傾いている状態をエネルギー調整することにより中立に戻すことができます。
中立に戻るということは、いわば自然の流れに立ち返るということになり、活発になるというより、むしろ目立たなく穏やかになり、問題があたかも消えたかのように見えてくるのです。
ということは実は問題はもともと存在しないということであり、問題と思っているのは私たちの見方・考え方が傾いていて、本来物事のバランスは取れているはずなのに、自らがバランスを崩すことによって問題というものが幻想的に出現したかのように見えているだけだと考えることができます。
このあたりはもしかすると般若心経の「色即是空」「空即是色」 (実体があるようでなく、ないようである)ということに当てはまるのかもしれません。
(注)この般若心経の核心とも言われる文言にはいろいろと解釈があり、あくまで一例です。ここでいう「空」とはタロットでいうと「愚者」、すなわち「すべてはある(存在する)が何にも規定されない」、逆に「規定すると実体として存在してくる(手品師になったり、斎王になったり何でもなれるということ)」ということに近いと私は解釈しています)
このことをタロットで実感していくためには、抽象度の高い(象徴性が高くて広い)アルカナ(カードの種類)である大アルカナを使ったほうがわかりやすいのです。
ところでバランスを回復させると表現すると、つい私たちは差し引き計算みたいな感じでイメージしがちです。
お金でいえば、支出が多いから使うことを控えればバランスが回復するというような感覚です。
実際そのことによるバランス回復はありますし、この記事の記述でも「傾いている状態をエネルギーを調整することにより」と書いたところでもあります。
しかし、実はそういう増減調整だけがバランス回復ではないのです。
「般若心経の「空」のところでも書きましたが、もともとはすべてある状態で、バランスが整っているのが自然で宇宙だと考えます。
するとアンバランスということは自分の思考やとらわれによる見せかけのアンバランスに過ぎず、宇宙から見ればバランスはどんな場合でも取れているのです。
要は自分が自分の作った狭い箱の中に入って、あたかもアンバランスや過不足ある状態に自分を押し込んでいるようなものなのです。
たとえば箱の中も外もりんごとみかんの数はいつも半分半分でバランスがとれているのに、自分の箱の中にはみかんが7個りんごが3個として見えている、あるいはりんごしかないよう見えているようなものです。
この箱こそが自分の枠であり、問題を生み出している原因です。
ということは箱の中でりんごやみかんの調整をしても合計10個存在している場合は5対5に見えるよう調整すればOKですが、りんごしかないようになって(見えて)いれば、それは枠自体破壊しないとバランス回復はないということです。
枠の破壊ということがこれまでの概念や思考、思いこみ、考え方を変えるということであり、古い自分の死も象徴します。
表現を変えれば意識の変容であり、次元の上昇であり、抽象度の高度化(タロットでいえば「愚者」や「世界」に近づく)ということになるでしょう。
バランス回復による問題解決の考え方はこのように二通り(今の次元でエネルギーの過不足調整することと、次元自体を上げることのふたつ)あるのです。
マルセイユタロットを学べば、このことは自然にわかってくるようになります。