タロットの使い方

私たちは四大元素の世界で生きている。

タロットに流れる考え方のひとつに、四大元素と呼ばれるものがあります。


これは単純にいえば「世界は4つの構成要素でできている」というものです。


ただ、そうすると皆さんは、「4つの異なるものがパネルのように組み合わさってできている」とイメージされる方が多いと思います。


それは間違いではないのですが、正解でもないでしょう。


四大元素を「モノ」として見てしまうと、上記のようなパネルの組み合わせのように思えてくるのですが、「」としてとらえるとまさに四大元素の「本質」に近づいてくると言えます。


それはともかくとして、この四大元素のことを知ると、いろいろなものがこの応用あるいは適用なのだということに気がついてきます。


たとえば4つで物事をわけるということは多い(フレームワーク技術など)ですが、それも言ってみれば四大元素です。もしかすると血液型(ABO式)もそうかもしれません。


このように私たちは自然に四大元素の概念を実際生活に使ってきているのです。


しかし普通はそのことを知る機会がないため、いろいろな理論として個別あるいは具体化して世の中にあふれかえっているのです。


でもそれは統合してみると、そのほとんどが四大元素の考え方のひとつのパターンであることがわかります。


結局、四大元素は物事を広く根本的に理解するのに役立つのです。


ところが、タロットにおいては、この四大元素のことを色濃く扱っているのは小アルカナというタロットの種類です。


タロットのひと組の中には、ほかにも大アルカナと呼ばれる種類・パートがあります。


大と小という名前がついているくらいですから、大は小を含むという考え方もできるほどです。(大も小も同等という考え方もあります)


さきほど「四大元素は物事を根本的に理解することに役立つ」と述べましたが、タロットにおいてはさらに根本的なのは大アルカナ(のカードで象徴されること)なのです。


いかにタロットが大きな包括的なものを象徴しているのかがわかると思います。


大アルカナではこの四大元素を超えるもの、世界が示されているとも言えます。


四大元素はいわば、私たちの現実で生きている、感じている世界です。それを超越したところがあるとタロット自身が語っているのです。


まさにタロットは大も小も含めてあらゆる「世界」と「宇宙」を表していると言えましょう。


イメージを豊富にする方法

昨日は イメージの自由性についてお話しました。


さて、今日はイメージを豊富にするにはどうればよいのかと言ったことについて書きます。


昨日も、「イメージは自分の経験に基づく」ということにふれました。


ということは、イメージの材料となるのはやはり自分が見た「イメージ」「映像」「シーン」ということになります。


つまり、私たちの住んでいるこの世界そのものが全部イメージのもとであり、宝庫なのです。


いや、つきつめればこの世界はイメージでできているとさえ言えます。このことを深めていくと、おそるべきことに気がつかされるのですが、それについてはまた別の機会に改めます。


さて、何かを作る(創る)ということは「材料」があるものです。いわばもととなるものです。無から有は生まれません。


その材料とは先述したように、この現実の世界にあります。自分のイメージが自分の経験によるのなら、自分のイメージ経験や体験を増やしていけばよいのです。


具体的にはやはり単純に「見る」という機会を増やすことです。それもいつも見ている風景や光景はもうすでに自分の中に蓄積されていますから、新しいもの、変わったものを見に行くことです。


簡単に言えば新しい体験を増やすと言ってもいいでしょう。


ただ、漫然と見るのでのではなく、イメージの材料を貯金しているのだという意識で、確認するかのように感情を込めて見ることが非常に大切です。


感情とイメージは実は密接な関係があるからです。このことはタロットで言うと「月」のカードで示されます。


また映画・アニメ・写真・絵本・絵画など、人がイメージしたもの、イメージやシーン表されている作品を鑑賞していくこともよいです。


こうしてまずは自分の中に材料としてのイメージを蓄積させて行きます。


次にコラム・記録文・短編小説など、挿絵のない短い文章をシーンとしてイメージしながら読むように癖をつけます。


できれば五感(視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚・)で味わうように感じると、なお効果が高いでしょう。


それから、何かの絵や文章、人、事件、事柄を見た時でも、背景や別のことを想像してみるようにします。


例えば誰かを見たら、その人の家族、仕事、性格などをイメージしてみるというようなことです。


こうして蓄積された材料から自分で新しいイメージを創っていくという訓練をやっていくと、かなりイメージする力は出てくるでしょう。


イメージ力はもともと誰でも備わっている能力なのですが、使うことがない、あるいは使わないように生活していることにより想像の泉と通路が遮断されることで、なかなかイメージを豊富に持つことができなくなっているのですね。


もちろんこれでイメージを自由に発想できるというものではないですが(前回も書いたように、イメージの発想は自分の考えや体験に左右されるため)、少なくとも以前よりかなりイメージを持つことが楽になるでしょう。


同時にタロットを扱うとさらに奥底の元型意識が刺激され、より整理・統合されたイメージと発想力に結びついてきます。


イメージの力が強くなると、あなた自身も変わり、あなたの現実も変容していくことになるでしょう。


何かを極めると見えてくるもの。

物事を極めていく道には、ひとつのことを徹底的にやっていく方法と、反対にいろいろなことを体験して統合化していくやり方があります。


もちろんそれだけではなく、様々な折衷タイプ、複合的方策というものもあるでしょうが、おおざっぱにひとまず分けてみました。


それで、その両方にも実は共通していることがあります。


それはもう上記の文章そのままなのですが、「共通」部分を探しているということです。


ひとつのことをコツコツと積み上げてある程度の到達・完成を見ますと、その分野の専門性をもって他の分野のことも象徴的に理解することができるようになります。


また多くの技術や別のことを学び身につけるにしても、どこかで知らず知らずのうちに全体の共通性を自分の中で確立しようとしています。


結局のところ、どちらも個別の道を通りながらも統合化を果たしていると言えましょう。


言い換えれば、自分なりの何でも適用できる「極めルール」や「法則」を作り上げているようなものなのです。


それができると、どんなことにも応用が「象徴的」に可能になります。


象徴的にとはどういうことかと言えば、例えば日本料理を極めた人が、ほかのフランス料理や中国料理においても、分野は違えど根本的な料理のことでは理解ができるということです。


料理だけではなく、家具職人の仕事にも何らかの理解を及ばせることもできるかもしれません。


何でもできるオーラルラウンダーの人も、そこに根源的な何にでも通じるルール(共通点)を見い出し、象徴的に自分の中に落とし込んでいるからなのです。


どこかの会社で優秀なCEOだった人がまったく違う業種でもCEOに就いて活躍することができるのも、こうしたことと同じと考えられます。


なぜこのようなことができるかと言えば、とどのつまり、世界(宇宙)は同じ要素で構成されており、究極的にはひとつであるからです。


そのことをどの分野でも、あるいは何事もこなしていく人においても、皆さん、無意識的(あるいは意識的なこともあり)に理解しているのです。(しかしながらタロットの教義では、この段階はまだ1/3に過ぎません)


逆にいえば何にでも通用するルールが、どの極めた仕事の中からでも生み出せるのならば、世界がひとつであることの証明にもなります


ということで、ひとつのことをやっていくにしても、いろいろなものを同時にしていくことにしても、大きな共通点を探していく、比較検討していくということは心がけた方がよいと思います。


これまで述べてきたことは、実はタロットを学ぶとよくわかるようになります。そしてタロットそのものも根源的なものに近づく象徴の道なのです。


目標ある人生、ない人生。

以前にも書いたことがありますが、物事を終わりから見るか始まりから見るかによって自分の行動もずいぶん違ってくるものです。


これはわかりやすく言えば、目標や理想、終着点から逆算して行動するか、あるいは目標が見えなくても、行動しながらやりたいことや使命を発見するというようなことです。


前者は明確な目標・ゴールへのイメージがありますから、非常に推進力やモチベーションも高くなると言えますが、あまりに高い目標や到達事項であったり、自分がうまく目標に向かって進んでいないと感じたりすれば挫折しやすいという欠点もあります。


勢いが強いだけにブレーキがかかると転倒するおそれも強くなるのです。


これに対して目標を決めず、とにかく何かをしていく中で、自然と自分のやりたいことが見つかってくるということの場合、あまりモチベーションや勢いはありませんが、その分変化に対応しやすいですし、あせりというものが少ない利点があります。


とはいえ、いつまでもふらふらと目的も定まらず、気付くといつの間にか年を取り、ほとんど人生が終わってしまっていたということもあります。


結局どちらがいいのかはわかりませんが、ただタロットをする私が思うには、やはり崇高な目的・目標を持ちつつ、時にはそれを忘れてもよい自由さを許容するというふたつの思考があればよいのではないかと考えます。


ここでいう崇高な目的というのは、いわゆる普通の現実的な目標というものとは異なり、一言でいえば霊性と人間の完成、悟りのようなものです。


ですが、これはまず通常では無理だと誰しも思います。


それでも現実離れともいえる目的だからこそ、途上での実現できないあせりや挫折というものは少なくなるのでないでしょうか。


また崇高な目標であるので達成しにくい分、「これでいい」と自分を満足させることなく、「まだ先がある」と自分を律し、あらゆるものに対して謙虚になることもできます。


ここまで書いてくると、カモワン版マルセイユタロットを知る人は、「タロットマンダラ」のことを言っているのだということに気がつくかもしれません。そう、その通りなのです。


タロットマンダラは究極の目標と道筋が描かれていると同時に、その途上で自分の使命を発見することや個性の活かし方、自己実現といったことも含まれ象徴させています。


ですから、先述した始まりから見ることと終わりから見ること、両方の特徴を併せ持つのです。


そして結局、私たちはそれぞれが「愚者」であることを悟ることになります。


タロットと食事、食べ物。

タロットがあらゆるものを象徴させていると考えるのなら、私たちが摂取している食べ物についても、固有のカードと結びつくことがあるかもしれません。


私自身はまだ詳しくは検証していませんが、たとえば誰にとっても「米」を表すのは比較的このカードであるというのもあれば、私にとっての「お米・ごはん」を表すのはこのカードだ、というように全体と個別にあてはまるものがあるのではないのかと推測されます。


とりあえずは、自分にとってのそれぞれの食べ物やメニューはどのカードで示されるのか、ということを調べていくのは面白そうです。


食べ物でも、完成された料理で見る場合もあれば、たまねぎや鳥肉といった、ひとつひとつの材料からあてはめていくこともできるでしょう。


ちなみにこれはジョークとして言いますが、タロットには鳥、牛、カニ、馬、犬、猿はいます。(笑) あ、卵もありますね。(カモワン版マルセイユタロットの場合です)


やや象徴的に考えていくと、羊、豚、果物、野菜、飲み物なども表せないわけではありませんので、これられを組み合わせれば、料理の献立をタロットによって作成することも可能かもしれません。


さて、私たちが口に入れる食べ物について、現代的な科学の栄養素の点から見るだけではなく、一種の霊的な観点からとらえる方法もあります。


たとえば私たちは普通にコーヒーとか紅茶を嗜好品として飲みますが、それの良し悪しは別として、コーヒーを飲んだ時の気分と、紅茶を飲んだ時の気分ではどこか違うことに気がつかれるのではないでしょうか。


あるいは、コーヒーを飲みたい時はどういう時か、紅茶を飲みたい場合はどのような気分の時かとして、皆さんもちょっと考えてみてください。

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いかがでしょうか。


たとえば仕事に向かう時や、何か考え事をまとめたい時、ちょっとリフレッシュ的に気分転換してみたい時はコーヒー、ゆったりとしたい、おしゃべりを楽しみたいというような時は紅茶という感じがしませんか?


このことを神秘思想家のルドルフ・シュタイナーは、物質体とエーテル体という人間の体を霊的に4つに分けた時の二つの気質によって考察しています。


コーヒーを飲むと物質体の特徴がエーテル体に影響していくので、思考が硬直化・論理的になり、紅茶は逆に物質体を消していく方向になって、エーテル体を変動させるため、散漫な傾向、夢見がちの傾向になると説明しています。(シュタイナー著 西川隆範訳 「健康と食事」による)


何気に選んでいる嗜好品も、深くは意味があるということです。


ただ普通はなかなか(目に見えない形での影響は)わかりにくいものなので、そこでタロットを使いながら、自分にとって好ましい食べ物を別の観点で見ていくことも考えられます。


それにはやはり、普段摂取している私たちの食べ物とタロットの結びつき、関連をつけていくということになるでしょう。


気になる人は、タロットと食事というテーマでリーディングを続けてみてください。


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