リーディング技術・内容
タロットへの質問の工夫
タロットリーディングやタロット占いには、質問、問いが基本的には必要です。
基本的にはと言ったのは、以前も書いたように、質問がなくてもリーディングは可能な場合があるからです。
むしろ私は、そちら(質問なしのリーディング)のほうが、ことマルセイユロタロットにおいては本質的(本来的)リーディングではないかと思っているくらいです。
質問というものは、心の中で問いかけるにしても、結局、人の言葉、言語形式であるのが普通です。
ところが、タロットは言葉としての言語(で把握するもの)ではありません。画像、視覚中心の象徴であり、言葉ではないコミュニケーションが必要になります。
それは感性や直観とも言えますし、もっと高度な霊的な送受信、あるいは言語化されない思考のようなものです。
人がする質問は、先述したように、言葉中心ですから、どうしても言語的な思考でタロットからの回答を得ようとします。
それでもよいのですが、この場合、決まりきった型から脱却することができず、いつも同じような読みになったり、常識的な答えになったりします。逆に言えば、理屈でわかるというようなものになり、人として理解はしやすいです。
加えて、リーディング・占いも、他人に行っている場合、その人に結果を伝えるという作業がありますから、つまりは説明がいり、当たり前ですが、理解しやすい言語コミュニションが最適なわけで(たとえ文章にするにしても言語を使用するでしょう)、最初の質問の時に戻れば、質問自体がわかりやすい言葉でしたほうが、タロットからの回答も、言語的なものとして受けやすく、それを人に説明するのにも、楽(わかりやすい)ということになります。
だから、普通は、(言葉での)質問をしてタロットリーディングを行ったほうがよいわけです。
ただ、タロットを人の言葉から超越させると、思わぬ気づきや回答が霊的指針・啓示のように入って来ることがあり、それは人の言葉を使ってコミュニケーションしたものとは異質なプロセスと結果を生みます。
このことをマルセイユタロット自体が、「審判」というカードで象徴しています。
一方、現実的・人間的な意味では、やはり質問は設定したほうがわかりやすいのは、先述した通りです。
ただ、この質問の仕方によって、タロットからの導き方、答えも異なってくることは知っておくとよいでしょう。
同じカードであっても、問いのレベルとか範囲によって、本当に答えも変わってくるのです。
逆を言えば、タロットはどのような質問のレベルにも、答えることができるということです。いや、答えるというより、質問のレベルに合わせた回答とか気づきをもたらすことができると言ったほうがよいでしょう。
ただし、その質問のレベルや、求める回答によっては、タロットの引き方(出し方)を変えたほうがよいケースもあります。言い換えれば、適切なスプレッド(並べ方・引き方)の選択です。
タロットへの質問は、具体的であるほうが答えも具体的になりやすいですし、その反対も言えます。(抽象的であれば、答えも抽象的になりやすい)
例えば占いであっても、「私の運勢はどうか?」と問うよりも、「金運はどうか?」「恋愛運はどうか?」と細分化したほうが占いやすいですし、恋愛運でも、「いつチャンスの時期が来るのか?」とか、「どんな人が、どんな場所で?」など、さらに具体的にしたほうが、恋(する相手)と巡り合う可能性は高くなるでしょう。(これも本当は巡り合うのではなく、そのような(出会う)世界を自分が作るための材料とするといったほうが適切だと私は考えていますが)
また、「なになにはどうなのか?」「どうなっていくのか?」と聞くよりも、「なになにを解決するには、どうすればよいか?」「目標を達成するには何が必要か?」と聞いた方が、能動的で、自分が何を(具体的に)すべきかもわかりやすいです。
前者のような質問ばかりしていると、ただ運任せ、受動的、自分で事態を動かすことができなくなります。つまりは成長がない、力(タロット的には創造的な力の源であるフォース)もつかない(発現しない、回復しない)ということになります。
もちろん、人ですから、いつも積極的、前向きになれるわけではなく、「どうなってしまうのか?」「あの人はどう思っているのか?」というようなことを知りたくなる時があるのも人情です。
それはそれで、その質問をしてもよいと思います。ただそれで心が落ち着けばよいですが、やぶへびになって、やらないほうがよかったということもあり得ます。
それならば、「どうなる?」とか、「どういう気持ち?」いうことを聞かずに、最初から「どうすれば自分がよい状態になれるのか」の策・方法を質問したほうが、結局はよいかもしれません。
これと似ていても、大きく異なるのが「この(今)起こって(起きて)いる意味は何だろう?」「このことは、何を私に知らせているのか?」と質問するのは、ある意味、霊的な領域に関わるものなので、一見、受動的な質問ですが、自分の視点を変えるには効果的です。
けれども、その回答を得るには、タロットへの象徴的理解がある程度進んでいて、抽象的でありながら、自分の人生とリンクする題材とストーリーの流れを把握する必要があり、これは特殊なマルセイユタロットの教義にふれていないと難しいでしょう。
言い換えれば、高度な意味で整理された大枠・モデルがある象徴体系・メソッドのあるタロットが必要というわけです。それができるのが、一部のマルセイユタロットだということです。端的に言えば、霊的目線が持てるシステムがあるかどうかです。
私の指導するマルセイユタロットリーダーには、クライアントの方の質問そのものにとらわれることなく、本質的な回答をもたらせるように訓練します。
クライアントの質問する言葉通りや、求めるそのものに回答することがよいとは限らないのです。さらには、具体的に質問をしたほうがよい場合もあれば、あえて抽象的なレベルのままでリーディングに入っていい場合もあり、それは人それぞれ、ケースバイケースです。
そして、クライアントがどんなとを質問するのかによって、その人の背景、関心、中心的にフォーカスする(している)レベルもわかり、そして出たタロットによって、主な周波数的要素(レベル)も比較的明らかになります。
ただし、周波数レベルの高低に優劣はなく、その人が必要としているから、また成長の糧のために、そのレベルにいる(そういう問題にフォーカスさせられる)ということが言えます。
地上的部分を強化したほうがいい人もいれば、霊的目線による人生の俯瞰を入れたほうが救いになる場合もあります。そういう区別ができるのも、ひとえに高度に整った象徴体系のあるマルセイユタロットだからできることなのです。
ですが、マルセイユタロット以外でも、質問によって答えが変わること、また、質問している内容を意識(注意)したり、質問のレベルや範疇を変えたりすれば、別の回答、あるいはこれまでとは違ったアイデア、道も見えてくるということは、覚えていてほしいものです。
タロットリーディングにおける過去生(過去世)情報
人間は情報で生きていて、もっと言いますと、人間自体、情報でできている体(情報体)とも言えそうです。
私たちが生きている間は、外も内も情報を処理しているのでしょうし、コンピュータ的なたとえで言いますと、記憶(自分が覚えていない潜在的なものも含めて)もデータと表現できるかもしれません。
言わば、生きている証のような、これまでの記憶データは、普通自分が生まれてからのもので考えられます。
通常の心理学的な範囲でも、実際の自分の生育史においてですし、せいぜい遡っても、両親や祖父母くらいの影響まででしょう。
しかし、トランスパーソナルな心理学になってきますと、言わばサイキックや霊的な範疇まで扱うことがあるようですから、そうなりますと、よくスピリチュアルな分野で言われる「過去生(世)」「前世」というデータまで、一個人に関わるものとして見る向きもあるかもしれません。
とはいえ、前世のようなものは確かめようがなく、言ってみればオカルト(本来のオカルトの意味ではなく、ここでは一般的な意味で使っています)みたいなものですから、話のネタとしてはあっても、普通はまともに扱わないでしょう。
さてでは、タロットリーディングにおいては、どのデータ範囲まで扱うのかという問題(テーマ)があります。
端的に言えば、上記の「前世」まで扱うのかどうかの点も入ります。
過去生を読むチャネリング的なスピリチュアルタロットリーディング(このような言い方があるのかはわかりませんが)というものなら、アリなのかもしれません。
そもそも、タロットリーディングもカードという象徴ツール・システムを使いながら、一種のチャネリング作業を行うようなところもありますから、前世データがダウンロードされてくる場合もありそうです。
ただ、あくまで基本は、今の自分個人(現世)としての人生を範疇とすると、前世情報・データは、サブ扱いするのが妥当のように思います。
私はどうしているのかと言えば、上述の基本姿勢(今の自分としての人生で考えること)を採用しつつも、時折、前世的なデータをタロットから読むことがあります。
これには大きく分けてふたつのものがあり、ひとつはタロットカード(使用しているマルセイユタロット)そのものに描かれるもの(象徴されているもの)に、世代を遡るような意味合い(日本人的にあえて言えば先祖因縁のようなもの)が認められるのと、もうひとつは、タロットカードからインスピレーションを受けて、タロットリーダー個人に入って来る前世ストーリー・ビジョンのようなものがあります。
また、両方(カードの意味とインスピレーションやビジョン)が重なって来ることもあります。
最初は私も後者のような読みはあまりなかったのですが、マルセイユタロットを長く扱っていますと、ある種のゲートやアクセスポイントとつながるのか、現実情報を超えたものが入って来ることが度々起こるようになりました。しかし、毎回ではなく、そのクライアントに必要性がある場合に限りです。
そして、ここが重要で、今日言いたいことにもなるのですが、そうした前世データとか、現実を超越したような情報が本当かどうか(例えば過去生で、その人が実際にそういう人でそのような過去であったかどうか)は問題ではなく、相談する人(クライアント)自身の今生の人生をより良くしたり、生きやすくなったりするために、よい情報材料となればいいということなのです。
そもそも前世があるのかないのか、またたとえあったとしても、一個人の魂が別の人間として生まれ変わるようなことなのか、はたまた、いろいろな個人のデータが混在して、ひとつの新たな魂としての情報が固まるのか、様々に過去生とか輪廻転生については考えられるわけで、その証明は難しく、当面はそれを解決する(はっきりさせる)手段を人類は持たないでしょう。
であるならば、何か眉唾的なものだとしても、ひとつの物語、ストーリーとして過去生などを設定することにより、実際の今の人生に好影響が出るのなら、それを採用するのもありという考え方が出て来ます。
私はそうした考えを入れて、過去生データというものを扱っています。事実かどうか、過去生そのものを認めるかどうかとはまた違うわけです。
さらに、たとえ自分の過去のデータではなかったとしても、そうした情報の物語が何らかの形で、その人に影響を及ぼしていることは確かで、それは今生(のどこか)で、何かの話を聞いたり、経験したりするなどして、無意識の領域で自分が気づかない間に入れてしまっている(あるいは創造している)情報ということが結構あるように思います。
言わば、過去生の情報というカタチを取りながら、何かその人の改変とか浄化のトリガーになっているものとも考えられるわけです。
過去生情報のカタチの中に現れる物語の骨格(構造)とか、登場人物、特に自分がその人であったと想定している人物像は、夢で見ている別の自分のようなもので、その過去生が事実かというよりも、自分自身で作り上げている情報の一種で、それが潜在的に影響を及ぼしている可能性があるという印象です。
マルセイユタロットリーディングでは、過去生というカタチを持ちつつ、その人が潜在的に創り上げ、知らず知らず自分に影響を与えてしまっている物語を読み解き、自身で気づくことを促します。
物語に気づくことは、大きな解除になり、物語の中に閉じ込められていた、あるいはなり切って演技していた自分から解放され、その演技(物語)を見ている側の自分に戻り、我に返ることができます。
そうすると現実にあった問題が問題でなくなったり、より生きやすくなったりするのです。
こういうことも起こり得るのが、マルセイユロットのリーディングなので、とても興味深いところがあります。
タロットリーディングのスタイルについて その2
前回はタロットリーディングのスタイルにおいて、プロかアマかについて述べました。
今回は同じタロットリーディングのスタイルについてでも、自分の個性という点から見てみたいと思います。
だいたい、自分のタロットリーディングスタイルは、
1 タロットの種類
2 学ぶ先生や資料(本、動画等)
で影響されることが多いです。
1は端的に言えば、ウェイト版(ライダー版)かマルセイユ版か、あるいはその他(特に創作系)かという括りになるでしょうか。
ウェイト版を採用している人は占いスタイルが多くなりますし、マルセイユタロット系では、日本では奇しくもホドロフスキー・カモワン版の人がたくさんいますので、その特徴としてのカウンセリング的なスタイルになりやすいように思います。
次に2ですが、やはり、人はモデル・型から入ることが普通ですから、自分の学んでいるスタイルにどうしても似てきます。言ってみれば先生をコピーするような感じです。しかし、今日の主題にもなってきますが、それが自分の個性と合っているかは別問題です。
1にしろ、2にしろ、最初に自分に影響を大きく与えるスタイルが、そのまま自分のタロットリーディングスタイルへとなってしまうのは仕方ないことです。
ところが、すでに触れましたが、自分に影響を与えたスタイルが、自分自身に本当に合っているかどうかということが、のちのち問題になってきます。
いわゆる「守・破・離」で例えられるように、最初は型を学び、次第に自分のものにしていく中で「型破り」となり、やがては完全に「自分独自」のスタイルを構築するようになるプロセスが、あらゆる分野での習得過程にあると言われます。
タロット(リーディング)にも、これは適用されると考えます。
ですが、あまりに最初に学ぶ型が、自分の個性とかけ離れているもの、言い換えると、自分の個性を殺すようなものだと、学ぶ最中も苦しいですし、なかなか上達や進展を実感できないかもしれません。
いずれにしても、忠実に教えを守って実践してはいても、どこかでその窮屈さ・葛藤が顕在化し、タロットを扱うことさえ嫌になてしまう時期が来ます。
そのような人は、早い時期に、守から破どころか、離を選択してもいいケースがあるでしょう。それでも学んだことは無駄ではありません。
まず、自分のスタイルを確立するうえで、どんなものが合っていて、どんなものが合わないのかが明確になったわけで、その恩恵があります。
また、最初に学ぶ基本というのは、タロットの種類やリーディングスタイルに関係なく、共通していることがほとんどですから、それ自体はむしろ必須であり、通らねばならない道であったと言えます。
人は葛藤に対して、それを統合しよう、解決しようという働きが自然に出てきます。言ってみれば、苦しんだ分、悩んだ分だけ、もっと成長できる可能性が高まるのです。
ただ、苦しみ続けること、わけもわからず、つらい状態を選択し続けるのは精神的にも、生き方的にもよくないと言えましょう。
今の自分としての人生は有限ですから、そこには無駄とか効率とかの意味が出て来るわけです。
タロットを学び、リーディングを実践するような人は、ほぼ全員、(その)タロットが好きか、タロットに関心がある人なはずで、仕事でやむなくとか、嫌々タロットを学ぶという方はあまりいないでしょう。
それならば、タロットのことでつらくなるのは、本末転倒な話です。もちろん、成長や上達の過程で悩むことはあるでしょうし、それは自然なこととも言えます。しかし、好きなタロットで、つらい・苦しいが続くのはおかしな話です。
それは、何かが間違っているか、自分には合わないスタイル・方法を取っているからです。
合う・合わないにおいて、よくあるのは、イメージ、感性、感覚、インスピレーション、雰囲気的なもの、自分の感じたもの(見えない領域とのコミュニケーションを含む)が主体のリーディングスタイルと、思考、論理、理屈、意味、言葉、相手(実際・見える領域)とのコミュニケーションが主体のリーディングスタイルとの違いがあげられます。
タイプ的に、自分が前者なのか後者なのかによって、別のスタイルを中心とした方法に力を入れてしまうと、当然ながらうまく行かなかったり、苦しくなったりします。
タロットリーディングというものは、実は両方のものを統合したところにあるとは個人的に思いますが、それでも、自分の個性というものはありますから、合っているほうで続けて行く、伸ばして行くほうがやりやすいでしょう。
途中で自分の今取っているスタイルと、自らの本来的なものとの齟齬、相性の悪さに気づいた人は、自分の思うものを信じて、スタイルを変更するとよいでしょう。
たとえ指導を受ける先生とは異なるスタイル、違う方法になっても、それが自分に向いているものであり、楽にリーディングできるものならば、そちらのほうが正解と言うこともあります。
しかし、先生・指導者によっては、生徒さんの個性をわかったうえで、あえて別のことを指導している可能性もありますから(それは、さらなる生徒さんの飛躍・発展とか、アンバランス部分を補うためなどの理由があります)、一概には言えません。
まあでも、タロットを極めようと必死な思いでやるよりも、時には愚者のように気楽に、しかし目的意識(自分がタロットを使ってどうしたいのか、何がしたいのか)はきちんと持って、自分流で行くもよし、先生に(自己の目的に)必要なことを学ぶのもよしだと思います。
深刻に思い過ぎると、何でもそうですが、かえって視野が狭くなり、あせりが出ます。楽しみながらの努力はいいですが、昭和のスポコンのような(笑)厳しい鍛錬はいらないでしょう。
自分が読めないのは、知識不足・経験不足のこともあるとは言え、そもそも行っているスタイルが自分に合っていない、または必死過ぎて見えていないものがある(努力がズレている)ということが大きいように思います。
もちろんいい加減なことを推奨しているのではなく、向上心は大切です。そのうえで、自分で自分を苦しめていないか、少し見直してみるとよいでしょう。
前にも書きましたが、例えば、タロットリーディングと言えば、質問・問いをして展開するのが普通ですが、問いなしで展開し、逆に相談者が本当に問いたかったことを確認するという方法もあります。
そのほうが自分に合っているという人もいます。
タロットリーディング自体は本当に色々なスタイル・方法があると思います。自分に合った方向性で、最終的にはオリジナルなやり方で、自信を持ってやって行ければ、それが自分にとってベストなのかもしれません。
まあ、本当は、同じスタイル・型のようでいて、実はまったく同じものなんてないのですから、みんな違って当たり前なのです。
型や学びは、自分のスタイルを見つけるための方策だと思えばいいでしょう。
本来、学ばなくても、人はすべてを知っている存在だと考えられるのですが、この世の仕組み上、自分を知るためには、学び・経験することで自分を思い出せるようになっているので、思い出しゲームを楽しむような感じで、タロットにおいても、関わって行くのがよいように思います。
タロットリーディングのスタイルについて その1
タロットリーディングのスタイルについて、考えてみたいと思います。2回シリーズで、まず最初は、プロかアマチュアかと言うことをテーマにします。
タロットリーディングスタイルをプロでやるのか、アマチュアでやるのかのテーマがあります。
どちらもいい加減な気持ちではできないと思いますが、やはりプロのほうがシビアだと言えるでしょう。
そして、何をもってタロットリーディングのプロと定義するのかは、人によって異なるでしょうが、今の現状から考えれば、端的に、サービス料金をいただけるかどうか、お客様からお金をいただいてもよいレベルかになるかもしれません。
このお金の問題が常にプロスタイルを選択すると関わってきます。料金をいくらにするのかから始まり、そもそもビジネスや生業として、経済的な糧とするのかによっても、色々と変わってきます。
しかし対人援助相談であり、モノとしての商品を売るわけでもないタロットリーディングの性格上、ガンガン儲けていくというスタイルにはなじみにくい面もあると言えます。それなのに、今の自由主義経済の世界では、商売としての熾烈な競争があり、人から選ばれないと生き残れません。(商売として成り立たない)
商売も、努力とか情報によって左右されるとは言え、大きな組織ではなく、個人事業主的なタロットリーダー、タロット占い師ともなれば、個人の才能によるところが大きいように思います。
ここで言う才能とは、タロットに関することではなく、あくまで商売、サービス業でのことです。
何事も得意・不得意があり、自分のウリに長けた人、またすばらしい行動力を持つ人など、商売の成功は、その才能によるところも大でしょう。あまり言われませんが、運も大きな要素です。(ただし、よい運に巡り合うための底上げ、努力と準備は必要だと考えられます)
ですから、結局、特別な人を除いて、タロットリーダー、タロット占い師として、経済的完全独立を成せる人はなかなかいないのではないかと思われます。
それ(経済的独立や成功)に向かって、タロット営業を目指すと、どうしてもお金儲け(営利)やサービスの拡大、商売目線ということになってきて、自分が本来したいタロットリーディングというものができなくなったり、葛藤を持ったりすることにもなりかねません。
そうした葛藤を、結構、お金のブロックなどと言って、本人の心理的思い込み、枠のように言う人もいますが、それは確かに一理あるとは言え、そればかりが問題ではなく、究極的には、タロットリーディングという行為の本質と競争経済原理との間に、相入れないものが大きく存在しているからだと考えられます。
これは医者が完全に病を治してしまえば、最終的には医者自体もいらなくなるというのに似ています。
優秀な医者は、存在さえ知られれば多くの人が訪れ、それが医業営業であれば、サーヒス業として流行ることも当然あるでしょう。しかし、どんどん患者が治れば、患者、つまりお客様は減って行きますので、ビジネス・営業としては苦しくなります。
すると、別のことを行うか、何か新しいサービスを考えないといけなくなるでしょうが、それが本来的な医者の仕事ではなくなってくると、医師自体が悩むこともあるかもしれません。
また良かれと思い、病になるのを未然に防ぐためのことをすると、ますます患者は減りますから、営業としては成り立たなくなります。完璧な治療薬などできてしまうと、医師界どころか健康産業全体の存亡に関わってきます。
ちょっと話がそれましたが、上記のことは、自由主義経済が本末転倒なことにもなりかねない危険性も示していますので、あえて書いたところです。
ともあれ、プロでお金をいただいて、経済的独立をも成立させるのは、個人的なタロット業では厳しい面があるということです。
ですから、できれば、経済的なことが二次的になるようなスタイルで行うことが、かえってのびのびとタロットリーディングができるのではないかと思います。
さらにはお金とは無縁に、趣味か生きがいか、使命かはともかく、ボランティア的にタロットリーディングを行うのは、もっと楽(楽しい)でしょう。
ただ、お金をいただくことが悪いわけではなく、自分の活動費、学習向上費、そして、何よりも、リーディングの価値(エネルギー)を別の形で評価してもらい、受け取る意味で、お金というものはその代替になるものです。
お金をいただかない完全ボランティアの場合、弊害として、タロットリーダーの消耗が激しいこと、継続していくのに無理が生じやすいこと、リーダーもクライアントも真剣味に欠けるということがあげられます。
お金をいただかないことで、タロットリーダーがリーディングがうまくできない言い訳とか、免罪符にしていることもあります。(無意識的なこともあるので厄介です)
これは別の意味でのお金のブロックと言えます。お金で自分への価値が、きっちりと出てしまうことの恐怖があるわけです。
最初は誰でも文字通り初心者です。経験を積み、実行していかないと、技術も向上しませんし、自信も持てません。
お金をいただかないという方法でやっていくのもありですが、先述したように、その弊害がないわけでもありませんので、ボランティアでも、少しはいただいたほうがよいかと思います。
よく、最初はワンコインから・・・というケースがありますが、それもひとつの方法ですが、私は、お金をいただくと決意した場合、もっと最初から金額を上げたほうがいいように感じます。
そうしないと、ワンコインのまま、ずっと続いてしまう恐れがあるからです。(ワンコインで長く続けて行くと決めている場合はよいですが)
ましてやビジネス・営業としてプロ的に行うことを考えている人は、ワンコインからではなく、せめて千円単位から始めると、覚悟もでき、技術もそれについてくるでしょう。
まあそれでも、理想としては、ビジネス・営業スタイルで行うより、ボランティアか二次(サブ)的な活動で、自分が納得する、過剰ではない料金(お金)をいただくタロットリーディングのスタイルが、自由があって望ましいように思います。
もちろん、ビジネスとしてやりたい人、その自信がある人は、どんどんやっていけばよいでしょう。
さて、次回は、プロかアマかということではなく、別の観点から述べてみたいと思います。
タロットリーダーが役に立つ理由
タロットで自分のことを見るのは難しい
という話がよくされます。
長年マルセイユタロットをやってきている私から見ましても、それはその通りのところがあると思います。
ただ、世間で言われるそのことは、だいたい、タロットを占いとして扱う場合のことに当てはまると言えます。
とはいえ、占いでない使い方をしたとしても、例えば、タロットリーディングにおいて自己判断のみでは、少々難しいところがあるのも確かです。
私は最初の頃は、タロットリーディングの方法を統一して行っておりました。統一していたというのは、具体的に、他人を見る場合と、自分一人で行う場合との展開方法や読み方(リーディング)を同じにしていたということです。
しかし、前述したように、自分で自分を見るのは難しい部分があるので、やがて他人向けと自分向けで方法を変えることにしました。(同じ方法を使うケースもあります)
その方がわかりやすいからですし、そもそも、他人リーディングと自己リーディングというのは、同じ「リーディング」という呼び方にはなっていますが、根本的に異なるものであることを理解してきたという理由もあります。
このことについては、またいずれふれたいと思います。
さて、自己リーディングの難しさの最大の理由は、客観的になれないことがあげられます。文字通り、客観ではなく主観なのですから当然です。
そこに感情的なものが加わると、「こうなってほしい」という希望や、逆に「このようなことは嫌だ」という思いが、リーディングにどうしても反映されがちです。
タロットカードでは、結構幅のある読み、あるいは、相反するような意味が出ることもあります。
それはタロットが象徴のカードだからで、オラクルカードのように、決まった意味とか言葉があるわけではないからです。(何を象徴しているのかの根本はあります)
その「幅」こそが、自己の感情と相まって主観が作用し、読みの客観性をなくさせて、判断を迷わせることにもなります。
このことからも、他人向けに行うリーディングスタイルと同じにしては、自己へのタロットリーディングとか活用は難しいことがわかります。
極端なことを言えば、自己占い的なものや、自分に対して何か現実的に決断するようなことに、タロットは使わないほうがよい(この場合のタロットを使うというのは、タロットを引くという意味)とさえ思っています。
ですが、主観でありながらも客観性をあげるための工夫をすることで、上記の問題も多少は改善される場合があります。
それはそれとして、今日言いたいのは実は別のことなのです。
それは、なぜ他人に対してタロットリーディングを行うのかの問いに、ひとつの答えになるものかと思います。
要するに、客観性の効果がアドバイスや助けになるケースが、この世だからこそあるというものです。
私たちのこの(現実)世界は、個別や分離の世界です。一人一人個性を持ち、数多のモノがあふれかえる世界で、自分と他人が区別されるのが普通です。
「他人と比べてはならない」とよく言われますが、それはこの世界の構造からして無理な話です。むしろ、比べるためにできているのではないかとえ思えるものです。
ただし、あまり他人を気にしないという選択はできるでしょう。その辺りの自由性があるのもこの世界の特徴です。
何が言いたいのかと言いますと、他人と自分がいての世界だから、それを利用しない手はないということです。
これをタロットリーディングに当てはめると、自分で自分のことを読むことが難しくなるのは当たり前の世界で、だったら、他人に見てもらうほうがわかりやすいですし、受け入れやすい側面があるということです。
皆さんも迷った時、判断に困った時、最初は一人で考える人は多いかもしれませんが、結局、誰かに相談しますよね?(しない人もいるでしょうが)
たとえ解決策が出なくても、人に話をするだけでも気持ちは楽になることがあります。特に困っている状況をわかってもらえたという時は、その効果も高いです。
また、自分以外の者からのアドバイス、助言、さらには客観的データも、受け入れやすく、冷静になれる場合があります。頑固な人でも、信頼する人とか、特別な人から言われれば説得されるケースもよく聞きます。
やはり、客観的なアドバイスは、自分の枠をはずして物事を見ることに、とても役立ちます。
マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」の輪の中にいる状態で、そこから脱する視点が与えられるわけです。
このこと(他人の言)により、人は助けられたり、成長したりします。(もっとも、反対に他人から騙されたり、洗脳されたりもしますが)
そう、この世界は、自分以外のものが自分を助け、または貶めることになっている構造の世界なのです。まさに独りよがりでは、その状態で固まったままであり、なかなかその小さな世界から抜け出せないことになります。
視点を変えてみれば、この世界全体で完全性があると見て、だからこそ、自分以外のものがそれを補完することになっているのだと考えることもできます。
タロット自体を客観のためのツールにすることで、何も他人によってリーディングしてもらう必要もないかもしれませんが、他人にタロットを使って見てもらうことで、二重(タロットとタロットリーダー)の客観性が出て、さきほど言った、自分に対する(自分以外のものからの)補完が強くなります。
タロットが当たる当たらないとか、タロットが真実を告げているのか告げていないのかということは、この観点からすると問題ではありません。
タロットリーダーとして、人の客観性のために役立つこと自体が大きな意味を持つのです。