リーディング技術・内容

技術・メソッドの伝承、選択

私はもともと、日本でいうところの「カモワンタロット」からタロット(と言ってもマルセイユタロットオンリーですが)に入った者です。

このところ、少しカモワンタロットの話題にふれることがあったので、久しぶりにカモワンタロットについて、検索してみました。

すると、いろいろな人が、まさに様々な解釈・思いで、カモワンタロットを見ている(リーディング・鑑定・占いも含む)ことがうかがえました。

近頃はYouTubeなどの動画も、タロットで普通にたくさんあるので、カモワンタロットもあるのかなと思って調べてみますと、やはりありましたね、幾つか。なかなか見ていて面白かったです。(カードの著作権はどうしているのか気になりますが…)

こうしていろいろな人のを見ますと、私がカモワンタロットを習い、実践してきた頃とは、かなり、とらえかた・考え方が違ってきたかなという気がします。

悪く言えば、本来と言いますか、最初の頃に伝えられていたものが曲解されているところもありますし、勝手に技法とか解釈が変えられているところもあるように感じます。

逆に、よく言えば、それだけ、個性的(バラエティ)に発展・拡大してきたと言えないこともありません。

もちろん、カモワンタロットにつきましては、きちんと認定講師の方々がいらっしゃいますから、その方たちに習うのが、一番最新の情報も得られ、正統に最も近いところにいるのだと思います。

それでも、カモワンタロットから離れてだいぶん経つ私から見ても、「うーん、どうなんだろう、これは…」と思う解釈で教えられている人を目にします。

それは、技術的なこともあるのですが、もっとも大切な、カモワンタロットに流れている精神といいいますか、教義のところでひっかかることが多く、それが伝わっていないのだろうなと感じます。(伝わりを感じるものもありますよ)

それがないと、仏作って魂入れず・・・みたいなことで、いくら形をまねても、カモワンタロットからは大きく離れてしまうのではないかと思います。

「そういうお前は、すでににカモワンタロットから離れたのだろう?」と言われればそれまでで(苦笑)、私が言っても説得力はありませんが。(苦笑)

しかしながら、今でも、私自身は、カモワン流の技術はすばらしいと思いますし、長年、個人的には研究もしてきたところで、どうしても思うところはあるのですね。

カモワンタロットのことを述べていますが、これはあくまで例であり、言いたいことは、別にあります。

それは、技術・メソッド伝えるということはどういうことか? というテーマです。

マルセイユタロットで言えば、「法皇」のカードに関係しますし、レベルを変えれば、「隠者」とも言えるかもしれません。もっと広く考えれば、「太陽」とか「審判」とか「世界」とか、別のカードでも表すことができるでしょう。

一般的に、メソッド・技術の伝承となれば、当然、その技術面が強調され、それを身につけることが大前提となります。ただ、それが身につけられたかどうかを判定するのは、機械(モノによっては機械のこともあるでしょうが)ではなく、人です。

人には感情もあり、すべて公平に判断することは難しいでしょうから、どうしてもそこに誤差のようなものが生じるでしょう。師匠が気に入ったお弟子さんに肩入れすることもあれば、ひどい場合には、経済的なことで、免状の判断が左右される場合もあるかもしれません。

そして、「伝承」ですから、さらにまた人から人へと伝えられていく過程で、ある程度の基準はあっても、やはり人の判断になりますから、次第に伝承される中身が変わってくるのは、普通に予想がつきます。

もし伝承が(世代など)だけではなく、同時期に複数の人にされていく、もあるとすると、その枝分かれ分は膨大な数になって行き、伝承された人の数だけ、実は流派のようなものもあると見ていいかもしれません。

すると、そもそも正統を争うのはどうなのか?意味があるのか?という問題にもなってきます。

なるほど、今は映像・音声記録技術も格段に進歩していますから、見える技術であれば、その伝承も、形としては確実に昔よりかはできるでしょう。

でも、それを思えば、昔の、言葉か文字でしか伝えられなかった時代のものは、果たして、本当に「型」のようなものは、正しく伝わっているのか?と疑問が生じます。

「これは昔から伝わっている唯一の正しい方法だ」と言われたところで、やはり、人から人、あるいは文字で伝えられている限りは、どこか誤認したり、解釈を変えられたりしているのではないかと思うのが普通ではないかと思います。

カモワンタロットを学習していた時代からの知人で、ある道の先生とも言えるお坊さんがいらっしゃり、その方は、「伝わっていることはすべて嘘だと思ったほうがいいですよ」とよく語られます。

この言葉の深い意味は、まだまだ理解の浅い私では、十分ではないものの、さきほど述べたようなことも入っているのではないかと考えています。

要するに、伝統的なもの、すごい伝承の技術というものでも、真理とか、正しいかどうかなどはわからないということです。

特に、「形」というものにこだわり過ぎると、おかしくなって来る気がします。

形に意味がないのではありません。形にこそ、実は奥義・奥伝があることは少なくないと思います。しかし、形だけ真似ても、意味がないわけです。

精神と形が一体になっていると言いますか、その心でやれば、その形になり、その形でやれば、その心になる・・・このようなものではないかと考えます。

この「心」の部分は、ただのメンタルという意味ではなく、霊、あるいは魂と表現してもよい部分を含むものだと、個人的には思います。

日本人がよく、「魂入れろ、心を込めろ」みたいに言うのは、理由があるのでしょうね。

ですから、矛盾した言い方に聞こえるかもですが、技術・メソッドの伝承には、形にこだわらずに、それでいて、形も大切と見ると言えます。

形の意味(形に込められた精神・背景)をよく考えると言い換えてもよいでしょう。

あと、理論と実践というふたつの側面もあります。

理論は言葉や文字で伝承されやすく、これは割に、皆に同じ型(内容)を伝えられやすいです。

しかし、実践となってきますと、施術者、場面場面、対象者、問題・・・ひとつとしてすべてが同じというケースはないはずです。

従って、まさに臨機応変、理論を超えた対応も必要になってきます。

そこから、オリジナルな考え方・技法も出てくるのは容易に想像がつきます。

理論やひとつの正しさにこだわり続けると、実践では通用しないものになってくるおそれがあり、また理論無視で、実践で気分次第、コロコロと変えていくだけのことをしていると、やっていることを体系的にとらえて、ほかの人に伝えることができなくなります。

「伝える」ということでは、実践ケースで起こること全部を伝えるのは、当然無理です。

数々の実践の中で、有効なもの、普遍的に通じ、使えるもの、多くの人に身に着けてもらいやすく、効果が高いものを選ぶ必要性もあるでしょう。

ゆえに、マルセイユタロットでも、あえてカモワン流に言えば、「法皇」の視線カードは、タロットマンダラ(カモワン流の大アルカナ絵図の言い方)において、選択を象徴する「恋人」なのです。(タロットマンダラの並びは、多様な意味があり、もちろん他の理由もあります)

何か技術・メソッドにおいて、正統性に悩んでいる人もいらっしゃるかと思います。

その時、ふたつの視点を持つとよいです。

ひとつは、自分は正統性・純粋性、第一の後継者、そのメソッドの名前にあくまでこだわってみたいのかどうか。

もうひとつは、そのメソッドを使う本当の目的は何か?を考え、目的のための手段とするかどうかです。

その他、自分はそのメソッドをやっていて好きかどうか、楽しいかどうかというのも、人によっては選択の理由になるかもしれません。

どれであっても、重要なのは、あなたの人生にとって、大事なのはあなた自身であり、技術でも方法でもモノでも他人でも教義(が第一)でもないのだということです。


タロット技術の向上と個性

タロットの、特にリーディング技術向上について、質問を受けることがあります。

そして、これさえも、全体と個別のシステムに基づいていることがわかってきました。

全体と個別というのは、いわば、全員に共通するようなものと、個人として通用したり、しなかったりする、要するに個性のことです。

ですから、ほぼ誰でも効果があるものと、そうではなく、ある人には効果はあっても、ある人にはないものがあることを、タロットの技術向上においても考慮しなくてはなりません。

まず、全体的なことでは、(タロットの)知識と直感力を高めねばならないでしょう。これは誰しもに当てはまると思います。それから、リーディング経験の積み重ねも重要です。

そういった大前提をもとに、あとは、そうしたものを個別で磨いていく必要があります。それが、一人一人、合っているやり方とか程度が違うので、単純にはいかないのです。

指導者がいる場合は、そのあたりの個性を指導者が見極め、その人に応じた技量の向上方法を示唆します。

ただ、指導者においても、自分の得意とする方法と、そうではないものが「個性」としてありますから、自分の得意とするものではないものを、指導される側のほうで求められる時は、うまく(説明や指導が)行かない時もあります。

そういう場合は、別の指導者(自分と似たタイプの人)や自分に合った指導方法なども取り入れたほうが、伸びが早いこともあります。

そして、個人個人の違い(個性)でも、技術向上の(方法の)要素は、大まかにわけることはできます。

まず、知識よりか直感よりかのタイプがあります。

タロットの象徴の意味、システムなどを良く学び、自分の中で理解を得ないと、なかなか次に進まないタイプが知識よりの人です。

逆に直感よりの人は、知識や理論よりも、感性・直感のほうでタロットを読む傾向が強く、そのほうがスムースにリーディングができることが多いという人です。

両者のありがちなものとして、知識タイプの人は、自分の理想とする完璧なリーディングを目指そうとし、それゆえ、実践がなかなか遅れてしまうということがあります。

また、意外に、テキストやカードの意味表などをカンニング(笑)してしまうのが、このタイプのほうです。自分のやっていること(読んでいる内容が)正しいかどうか、確認したがるわけです。まじめなタイプの人に多いです。

一方の直感・感性派の人は、知識における合理性より、タロットを見て、自分がひらめいたことや降りて来たものを「読み」とする傾向がありますから、覚えた意味を飛び越えて語るところがありますし、それは結局、間違いとか合っているとかの見方ではない(ある意味、自分の中では確信に近い感覚もあるので、間違いという感じはない)ので、たとえ自信がなくても、とにかく伝えようとします。

ただし、このタイプは、言葉で伝えるのが苦手な人もいるので、自分の感性ではわかっていても、それをどう説明すればよいのかわからず、とまどったままになることがあります。これは読めていないというより、説明の仕方の問題です。

ということで、それぞれ、タイプによって得手不得手があり、読み方や伝え方も違いがあるわけなので、自分がどのタイプかを知り(指導者に見てもらい)、自分に合った修練方法をトレーニングするとよいと思います。

知識派の人だからこそ、直感力や感性の柔軟さは必要とされますし、感性派の人は、タロットにおける象徴論理・システムの把握は捨てていいものではありません。ともに補い合いながらも、ここで重要なのは、フィフティ・フィフティのような真ん中のバランスを求めないということです。言い換えれば、得意なほうはそのまま伸ばして、足りないところを少し補強するようなバランスを目指すということです。

感性派の人は、まだ不安定で磨かれていない直感力の場合かあり、その暴走を避けるために、知識がいるわけです。それは自分の感性とタロットの象徴との統合ができていない理由もあります。(知識がその統合を助けます)

やがて知識側のチェックとうまく融合して、気づけば直感で思ったことが、タロットの論理に自然にあてはまるようになるでしょう。それはもはや「直感」ではなく、「直観」と呼ばれるものです。ですから、感性力はどんどん伸ばせばよく、要するにそのコントロールが重要というわけです。

知識派の人も、タロットが象徴システム(体系)でできているわけですから、それに基づけば、実は楽に読めることがわかります。何も直感やインスピレーションを無理矢理出さなくてもいいのです。

とはいえ、このタイプは、頭か固い(笑)人が多いので、イマジネーションの世界の感覚を取り戻すためには、やはり感性も豊かで、ある程度柔軟でなければならず、固定観念を打ち破るためにも、思考だけではなく、感性による判断を訓練する(感覚を復元する)ことが求められます。

そして、トレーニングの方法もいろいろなのです。やはり、個人・個性によって、合う合わない、効果的・非効果的なものがあるわけです。

例えば、実践をすればするほど、必ずしもうまくなるというわけでもありません。

基礎的な読み方、タロットの論理を入れておかないと、数をこなせばこなすほど、混乱してしますいます。(慣れや、度胸はつきますが)

これは、土台となる基礎や基準・ルールというものがおろそかな(理解しない)ままにやってしまっているので、比較したり、検証したりする、そもそもの元がない(あやふやな)ため、起きてしまうことです。モデルとしてのリーディングが見えないまま、やっているわけです。

逆に、いつまでも、勉強や自分リーディングばかりして、ライブの(他人向け)実践リーディングをしない人も問題です。

誰しも最初は怖かったり、失敗があったりしますし、そももそ完璧なリーディングというものは「観念」でしかなく、現実においては、どこか足りなかったり、うまくできていないと思ったりしてしまうものです。

マルセイユタロットで言えば、「斎王」のように学んでいて、「女帝」のように理想や計画をイメージしていても、「皇帝」として実行する現実場面では違うこともあり、臨機応変さの必要性では、「手品師」の体験も必要だということになります。

カードの意味・象徴は普遍的なものですが(全体性を持つ)、個人個人・クライアントの問題や悩みごと、そしてそれに対応していくタロットリーディングというものは、個別的、一期一会みたいなものなのです。

だから、全体性のフィルード・次元にいくら留まっていたところで、個別に対応することはできず、タロットによる宇宙的な考察だけをしたいのならそれでいいですが、タロットを実際に、人々の役に立つように使うとなれば、リーディングにしろ、講義にしろ、現実・生身の人のところへ出て行かないとなりません。

ですが、コミュニケーションの得手不得手もあるでしょうから、これも自分なりに適したやり方で、少しずつ実践をやっていく方法もあれば、顔出し・声出しのない方法でのリーディングスタイル(たとえば文章など)も取ることが可能です。

いきなり実践していくというより、仲間やグループで練習しながら、トレーニングしていくほうが向いているという人もいます。

反対に、プロ(を目指す)意識が高く、一人で活動し、料金をいただきながら、どんどん活動していき、自分をそういう世界のサービス業を行う者として環境的に慣らしていく(追い込んでいく)方もいます。

人間には自然と同じようにリズムがあり、外向きに積極的に出ようとする時期と、内に籠り、座学や瞑想などして、内的な方向性で静かにしている時期が交互にやってきます。もちろん、それも、万人に共通する期間というのは(大きな流れでは)あっても、一人一人は異なります。

普段は籠り系がメインで、たまに外交的になるというのが自然なスタイルの人もいれば、いつも活発に外で交流するのが好きで、たまに部屋で静かに過ごすことがあるというパターンの人もいます。ですから、誰かのやり方に合わせたり、強制されたりする必要はなく、自分の好ましいリズムというのを見つけ、それをもとにしながら、タロットの活動・学びもしていくとよいと思います。

ただし、アイデア(と実行)は、いつも巡らせておき、そんなことはできない、とあきらめてしまうわないことです。

タロットをする場所がない、タロットを受けてくれる人がいない、家庭の人に許可が得られそうもない、一緒に練習してくれる相手がいない、自分に今必要なトレーニングの方法がわからない・・・いろいろとあると思います。

確かに、それは個人にとって簡単に解決できない悩みで、困ったことではあるでしょうが、発想・アイデアを変えれば、可能になることもあります。

実は、やれない理由の多くは、今のあなたの世界観レベル(いわば、あなたなりの常識)にあり、それこそ、タロットによって世界を広く(上昇)させる必要があるのです。

昔、こういう人がいました。自分は家でもタロットを(他人に)する場所がなく、またどこか部屋をレンタルする余裕もないので、どこでタロットリーディングの活動をしようかと悩んでいた人がいました。

それで、その人は車好きだったため、ミニバンでよく出かけたり、とにかく車とその移動が大好きな方でした。ふと、自分の好きなことのふたつを掛け合わすという発想がタロットから導かれ、駐車場など問題のないところでカフェを出すような感じで、タロットリーディングしてみようと思い付いた方がいます。

今は、ネットでなんでも検索したり、調べたりできる時代です。意外なところから、解決方法も、これまで思っていたものとはガラリと違うことで見つかるかもしれません。

そういう手があったか!とある人のことをヒントに、自分流のものを思いつくことも、以前より、よくあるはずです。(つまり、アイデアは世界中の人が考えていて、それを目にしたり、聞いたりする機会が爆発的に拡大している状態)

タロットの読み方であっても、何もタロット(教)本が解決やヒントをくれるとは限りません。

私など、自分の経験から言わせてもらえば、タロット関係の本よりも、ほかの本からの発想を得て、タロットの読み方やタロットシステムの考察が進んだことのほう多いと言えます。(もともとマルセイユタロットの日本語の本は極めて少ないということもあります)

タロット技術の向上は、タロットの本やタロット関連のことから必ずしも進むとは限らないのです。

重要なのは、他分野でも、タロットとシンクロさせて考察すること、直感をタロットに置き換えて説明する、そのプロセス(結びつき)なのです。

それは、言い換えれば、あなたの中にタロットのコントロールパネルを作るようなものです。

あなたの個性に応じて、頑張ってください。自分に縛りをかけたり、追い込んだりしたほうが延びる人もいますし、反対に、楽しさを追求(楽しさ・楽だと思う方向、やり方を選んでいく)方が、よい人もいます。

いずれにしても、自分に合っていれば、やっている時はたとえキツく感じても、本質的には楽しく、嬉しいと思うはずですし、「コレジャナイ感」(笑)が続く時、それは、やはり合ってないかもしれず、やり方を変えたほうがよいでしょう。


カモワン流とホドロフスキー流

日本では、マルセイユタロットと言えば、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロット(通称カモワン・タロット、以下カモワンタロットと表記)が結構有名になっています。

おそらく、世界的には創作系マルセイユタロットの区分に入れられ、マイナー扱いではないかと推察されます。

それは、カモワンタロットが、古いマルセイユタロットをもとにしながらも、現代において創作を加えながら、復刻されたものであるからで、言わば新しい(マルセイユ)タロットなのです。

マルセイユタロットは、17から18世紀にかけてフランスを中心に出回った(同じタイプの絵柄の)タロットの総称ですから、本来はその時代のものがマルセイユタロットだと言えます。

マルセイユタロットの歴史につきましては、研究家も世界では多く、日本でも夢然堂さんあたりが、とても詳しいですので、歴史的なことや成り立ち、各版における微妙な違いなど知るのに、非常に参考になりますし、日本でこのような方がいらっしゃるのは、すごいことだと思います。

ちなみに、日本ではカルタと呼ばれる遊戯カードの歴史も、意外に古いもので、タロットのようなカードが、ポルトガルなど南蛮貿易により入ったことで、カード類は日本人にもなじみになって行きます。

花札などもタロットと関係すると考えられます。今やコンピューターゲーム会社として名を馳せる、あの任天堂さんも、もとはと言えば、カルタ、花札などの遊戯カード販売の会社でした。(現在もカード類は販売されていますが)

それで、私自身は、もちろんマルセイユタロットリーダー、講師である以上、そういうカードの歴史には興味はありますが、それよりも、マルセイユタロットの象徴性自体に強い関心があり、それも学術的、あるいは歴史的にそれがどう成立したのかという観点は、私にとってあまり重要ではなく(軽視もできませんが)、私たち人間において、マルセイユタロットの存在・システム・絵柄の象徴が、どのよう意義を、古代のみならず、現代的な意味においても持つのか、考察と活用、そういう点に興味の中心があります。

ですから、カモワンタロットが、たとえ創作・復刻版的な現代のマルセイユタロットであったとしても、象徴性において優れているのであれば、大いに活用できるものだと考えています。

私自身、タロットと言えば、マルセイユタロットにしかほぼ興味がなく、最初にカモワンタロットから入った口ですので、今もって、リーディングにおいてはカモワンタロットを使用させてもらっていますし、このタロットを作ったフィリップ・カモワン氏とアレハンドロ・ホドロフスキー氏、さらには、日本でカモワンタロットを広め、教えを受けました大沼忠弘氏には敬意を表しております。

ですが、今は独自路線として、マルセイユタロット講師・タロットリーダーの道を歩んでおりますから、ある意味、どこにも所属していないフリーの立場で、客観性をもってカモワンタロットを見ることがてきます。

カモワンタロットを純粋に学ぼうとすれば、やはり本家本元、カモワン氏の認定講師のもとで学ばれるのがよいと思います。一方で、カモワンタロットは、もう一人の製作者、アレハンドロ・ホドロフスキー氏のタロットでもあります。

数年前に、このホドロフスキー氏が書いたタロット本が日本語訳されました。「タロットの宇宙」(国書刊行会 黒岩卓訳 伊泉龍一監修)という本です。

この本の訳が出たおかげで、ホドロフスキー氏流のタロット観、タロットリーディングが、日本でも多くの人に知られることになりました。

もともと、ホドロフスキー氏のほうが、映画監督や創作・芸術家としても世界的に有名ですので、どちらか言えば、カモワンタロットと呼ばれるより、ホドロフスキー・タロットと言ったほうが、世界では通じるかもしれません。

ホドロフスキー氏がタロットの愛好家、研究家であることは昔から知られており、彼の作品にもタロットをモチーフにしたものが結構あります。

ホドロフスキー氏はその作品もそうですが、強烈な個性を放つお方ですので、それだけ熱狂的ファンも多く、あのホドロフスキー氏が使うタロット、作ったタロットとして、マルセイユタロットに関心を持たれる方がいらっしゃいます。

ということで、カモワンタロット(ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロット)を独学する方の中には、カモワン氏関連からではなく、このように映画世界のホドロフスキー氏関連、特にタロットにおいては、日本語訳された「タロットの宇宙」を基にして学ばれる方もいらっしゃるのではと思います。

またかつて、タロット大学(現イシス学院)の講師や受講生であった方からタロットを学習する人もいるとお聞きしますから、そういう(習われた)方が参考書として、「タロットの宇宙」を手に取ることは想像に難くありません。

しかし、ここで注意が必要です。

私はさきほど、自身の経歴で、カモワンタロットを学びながらも、独立し、今は客観的立場で、カモワンタロット(カモワンタロットを教える講師ではありません)を見ていると申しました。ですから、カモワンタロットにおいての、いわば、カモワン流とホドロフスキー流の違いも指摘することができるのです。

同じタロットの製作者であるお二人ですが、そのタロット観とリーディング方法(技術)はかなり異なるものです。

特に、用いられるリーディング技術、展開法、読み方も、全く違うと言ってもよいくらいです。

例えば、カモワン流では、正逆の位置とタロットに描写されている人物の視線を追って展開していく方法が採られますが、ホドロフスキー氏展開法は、正立のみであり、視線との関連を見ることはあっても、それほどカモワン流ほど厳密ではありません。

むしろ、視線を取らないことのほうか多いと言えます。公開されている動画など見ますと、ホドロフスキー氏の主とする展開法は、スリーカードであり、最初に三枚、正立で引く(最初に三枚引くのは、カモワン流でも用いられますが)のが普通です。

解釈の違いの例も示しまょう。

例えば、二枚引き(二枚カードを並列に置いて読む方法)においては、ホドロフスキー氏は、その著書「タロットの宇宙」では、大アルカナの場合、数の順番通りに並ぶほうが、エネルギー、方向性としてよい、うまく流れると解釈するように記述されています。

しかし、カモワン流では、視線の向き合い方がかなり重要な意味を持ち、正立同士のカード人物の視線の向き合い、もしくは、視線が他のカードに注がれている場合、カードの数にはあまり関係なく、その二枚の視線の関連性が強調される読み方を取ります。従って、大アルカナの数が右方向にマイナス(左のほうが数が上)で並んでいても、よい解釈になることもあるのです。

もし、カモワン流を習い、まだタロットの理解が浅い段階で、ホドロフスキー氏の「タロットの宇宙」を読むと、特にリーディングの解釈において、かなり混乱したことになるのではないかと予想されます。その逆もまた言え、ホドロフスキー流に慣れてしまうと、カモワン流の正逆と視線を追う展開法が、なかなかわかりづらいものとなるでしょう。

もちろん、どちらの見方も間違いとか正解はありりません。ひとつの解釈の技術と言えます。

ただ、実際に、カモワンタロットを使い、リーディングをしていく場合、両者の読み方や解釈(を生半可で知った状態で)の整理がついていないと、どちらの読み方(解釈)が正しいのかわからなくなったり、どのケースにおいて、どの読み方を適用すべきかということも、よくわからないままで、いろいろなパターンを言うだけ言って、リーダーだけではなく、クライアントを迷わせてしまうこともあるのです。

知識自慢ではありませんが、たくさんの読み方や技術を知っているからと言って、よいリーディングができるとは限らないのです。自分の使ってる技術、読み方がどのようなものかをきちんと整理して理解しておく必要が、タロットリーダーにはあります。

そして、、ホドロフスキー氏とカモワン氏とでは、ここが決定的で重要な違いと言えますが、それぞれが「是とする思想」と言いますか、「本来的に人間はどうあるへきか」の考え、置きどころ、根本が異なるところがあると私は考えています。(さらに、人間向上のプロセスとしての、重要選択事項が異なるとも言えます)

土台となるタロット観自体が違うので、リーディング解釈も両者によって変わってくるのも当然です。

ホドロフスキー氏のほうがタロットと現実の扱いにおいて柔軟であり、より人間的と言え、カモワン氏は、よく言えば純粋であり、二元論的、物質と霊の対立、そこから(霊に向かう)浄化というところが強調される見方になっているように感じます。

一見、ホドロフスキー氏のほうが、限定的・地上的に見えますが、その逆で、むしろ宇宙的・包括的であり、カモワン氏のほうは一見、霊的で抽象的でありながら、その実、とても限定的・地上的なところがあるように見受けられます。

そして、リーディング技法においては、ホドロフスキー流のほうがシンプルには見えますが、学んだり、実際に行ったりするのにはなかなかなか難しく、カモワン流のほうが逆に取り組みやすく、読みやすいのではないかという(個人的な)感想です。

本業が映画監督であり、創作家として現実世界との関わりをたくさん持ち、サイコロジストであり、セラピストでもあるホドロフスキー氏と、タロットメーカーの子孫として生まれ、タロットを自身の至上命題とし、孤独に引きこもりのように霊的探求をし、スピリチュアリストとも言えるカモワン氏との違いとも言えましょう。

このように、かなり異なるお二人なのですが、それでも共同でタロットを製作したわけですから、二人の共通点、意気投合したところもあるはずです。

マルセイユタロットについて理解が深まってくれば、お二人の読み方の違いと、その奥にある共通観点も見えてきます。それこそが、私たちが(二人のタロットから)知るべきことなのです。

どのような人にも、タロットが好きであるならばなじみますし、タロットは、その人の思想・信条を補助したり、整理したりしてくれます。

そういう意味では、タロットは、どんな人が扱うにしても、(解釈・考え方に)自分色というものが出ます。

同時に、(マルセイユ)タロットは、ホドロフスキー氏とカモワン氏が違っていても、同じタロットを作り、それぞれがタロットを深く信頼しているように、何か普遍的で確かな魅力、論理、感性のようなものも持ちます。

一人一人、違っていて当たり前でありながら、深いところ、高いレベルではつながり、共通している・・・と言えば、それはまるで私たち人間と同じと言えます。

タロットによって人(自他)を知り、宇宙を知ると言われるのも、このような所以からだと思います。まさにホドロフスキー氏ではありませんが、「タロットの宇宙」なのです。


タロットでの選択

何か選択に困った時、タロット占い(タロットで占ったもらうことで)決める人もいるかもしれません。

タロットが選択のツールとしては、なかなか優れているところがあるのも確かです。

まず、人は、自分で迷ったり、悩んでいたりする時というのは、自分で決められない状態であるからで、その場合、必然的に、他人や何か外からの示唆を求めます。

タロットは、たとえ自分が引くとしても、一応は外(にある)の道具なので、客観性があるわけです。

その意味では、別にタロットカードでなくてもよく、ほかのカードや、極端なことを言えば、トランプでも使えますし、えんびつごろがし(笑)でも、自分以外からの示唆と取ることもできます。

要するに、外からの刺激・示しがあれば、自己の堂々巡りからの打開が図られる可能性が高まるわけです。

さきほど、外からのものなら何でもいいとは言いましたが、タロットの場合は、極めて練られた象徴体系(シンボリズム)がありますので、その象徴の意味を理解していると、偶然引いたカードの中にも、心理的には潜在意識とか深層心理、霊的には多次元的な意識(高次意識)などと接触できる精度が高まり、解釈に合理性(現代の科学的な意味の合理性ではなく、象徴体系から来る合理性)が出ます。

つまりは、整った絵地図(解答書)のようなものが最初にありきなので、そこに照らして解釈することができるのです。

これがデタラメで、整っていない道具(の集まり)を使う時は、照らし合わせる大元がそもそも整理されていないので、解釈もデタラメになりやすい(整合性・合理性が取れず、判断がつきにくい)のです。

さて、そんなタロットを使った選択ですが、タロットに慣れてくると言いますか、探求が進みますと、タロットを使っての選択はあまりしなくなってきます。

というのも、何かを選択するというのは、ある良し悪しの解釈・基準によるということになりますが、(マルセイユ)タロットはそういった「二元的解釈・判断」を「統合していく」領域に入るためにあるとも言えるからなのです。

統合的な見方を進めてきますと、当然ながら、どちらがとか、どれがとかの、複数から選ぶ行為と言いますか、そういうモノの見方がなじまなくなってきます。

言わば、「どちらでもよい」「どちらもあり」「どちらもない」みたいな、不思議な見方になってくるのです。

もちろん、それでも、どちらとか、どれかを優先的に出す技術は、タロットの引き方で存在します。

しかし、たとえそうした方法で出したとしても、見る側が、包括的に見てしまうようになるので、セオリー的には、「こちらがいいですよ」みたいな解釈が可能でも、別の見方が出てきて、その優先順位がぐらつくようになります。

こうなると、選択において、タロットが使えなくなってきます。(苦笑)

ですが、「選択」「選ぶ」というより、選ぶための要素分析のような観点を持てば、何が今は優先されるのかとか、自分がどれを重視てしまっているのか、などがタロットでわかるようになります。

それを踏まえたうえでなら、選択する、選ぶことも可能になります。

例えば、今回は「経済的なことが中心の選択」であるとか、「気持ちや心の納得感が選択の重要なポイント」であるとか、そういう選択においての価値基準がわかるという話です。

こう書くと、すでにお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、そういった要素の分析・観点という意味では、小アルカナが適用されます。

小アルカナは、大アルカナに比べて、現実的なフィールドの象徴として使えるカードたちです。(実はそうとも言えない考え方もあるのですが、ここでは一般的な小アルカナの活用を述べています)

現実的なフィールドとは、私たちが普通に生活している世界での感覚であり、そこでは四大元素と呼ばれる四つの領域・要素が働いていると(古代からは)考えられています。

この四つの要素での分析によって、優先するもの、重要なもの、あるいは偏りが判断できます。

「偏り」と書いたように、自分が過度に肩入れしているもの、本来はもっとフラットに、ほかの要素も見たほうがよいのに、見えなくなっている状態、こだわり過ぎていることをチェックする意味でも使えるのです。

現実感覚の世界(常識的な世界)では、あれもこれもすべてを同時に選べるわけではありません。

だからこそ、私たちは選択に迷うのです。

それは、時間と空間が、強く、三次元的に認識されているからという理由もあるでしょう。

簡単に言えば、時間制限があるから、空間的制約があるから、選ばないといけなくなるというわけてす。

小アルカナの四つの要素は、それらが分離した時、このような時空制約のある意識とリンクしてきます。

言い換えれば、四つの要素が分離した時、私たちは現実の世界で生きている感覚を持つということです。

ですから、本当は、この四つを統合した世界に参入すれば、選択の迷いは消えることになります。それは意識(だけ)のうえ(世界)では可能ですが、肉体を持って通常の生活している場合は、なかなかそうした意識にはなりにくいです。

従って、人間として普通に生活している限り、選択の迷いは必ず発生すると見てよいでしょう。(意識の統合が図られれば、迷いは少なくなりますが)

そんな時のために、小アルカナでの選択が活用されます。言ってみれば、現実を生きるための、一時的な適用補助装置みたいなものが小アルカナにはあります。

そう思うと、タロットは本当によくできているなあと思えますし、やはり、人間(私たち、市井で悩む人)のために作られていると、感慨深いものがあります。

一方でタロットは、ちゃんと、悟りとか、現実(普通の人間)を超えて、霊的な向上を目指す人にも、大アルカナというもので、その示唆を用意してくれているのです。

このように、大・小を、その時その時によって使いこなしながら、自分の目指す方向性に向かって、タロットとともにに進むことができます。

ところで、タロットの代表ともいえるカードに「愚者」というカードがあります。

このカードには、旅をする人物に、犬のような動物が付き添っているのが描かれています。

まさに、この犬こそがタロットカードの役割なのだと感じられます。

あなたの旅のお供に、タロットカードを、です。


タロットの精霊、心理バージョン

タロットの精霊と言う言葉と言いますか、存在を聞いたことがあるでしょうか?

一般的には聞くことのないものですが、タロットに関心のある人、関わる人、リーディングを実際に行う人には、常識的存在かもしれません。

ただ、タロットを習う人、学んだ人でも、このタロットの精霊の存在を知らない人もいますし、言葉は知っていても、どういうものなのか実感として、あるいは知識としてもわからないという人が多いように思います。

私も、ここでは詳細に語ることはできません。

それは、タロットの精霊という定義が難しいからでもあります。

タロットを魔法(魔術)世界の道具として扱う場合、タロットの精霊は、ある意味、サイキック・メンタル界的なもの、そういったエンティティ(存在性あるもの)として、感覚化することが課せられると思います。

そうした世界になると、はっきりとタロットの精霊は実在するものとなります。

ただ、魔法の世界に参入するには、それなりの訓練や指導者が必要となってきます。タロットと魔法世界は、今や日本でもメジャーなタロットとなっている「ウェイト版(通称ライダー版)」タロットが、近代魔術結社ゴールデーンドーンの団員によって作成されたことからも、関わりの深さは明白です。

中には、「魔法(技法・知識)に結びつかないタロットは、形式的・表面的・遊戯的なものでしかない」という人もいます。パスワーキングのようなタロット瞑想などのテクニックも、公にされているものは、ほとんど近代の魔術結社による技法の一部だと推測されます。

しかしながら、もともとサイキック的な素養のある人などは、その人自身が見たり、感じたりするタロットの精霊とのコンタクトが可能な場合もあります。

私の知人や生徒さんの中でも、そういった人は、その方なりのタロットの精霊とコミュニケーションして、リーディングする人も実際にいます。

さて、ここでは、魔法的・サイキック的な意味でのタロットの精霊とは別に、意識的なもの、心理的なものとして、タロットの精霊を見ていきます。そして、そうした存在の仮定をしたほうが、場合によってはよいことも示します。

タロットの精霊が、何か目に見えない、ファンタジー世界の住人のような存在か、心霊的エンティティなのかはともかく、ここはその証明や説はひとまず置いておいて、タロットの精霊なるものを、とにかく空想・仮定して、あなたの心の中では存在させるとします。

これは、いわば、心理的なテクニックと言えます。心で想像することで、少なくとも、あなた自身の中にはイメージや観念だとしても、存在することになります。客観的な存在証明はもちろん必要ないのです。

すると、まず、タロットと自分の関係が、人とモノ(カード)というふたつの立場から変化していきます。

あくまで、自分が(主体で)タロットを扱い、読むのだというのが、普通の感覚でしょうが、ここに、自分の心の中に、タロットの精霊のようなものがいるとすると、自分がタロットと対峙した時に(そのイメージ的存在が)仲立ちとしての機能を発現させてくるようになります。(結局、自分自身が行っているのですが)

「タロットの精霊」ですから、当然タロットには詳しく、むしろ精霊にはそれが家であり世界であり、専門の存在たちと言えます。(と空想する)

一方、こちら側は、タロットは手にはしていますが、しょせん人間であり、カードの中に実際に入ることはできません。(笑) 物理的な意味でのタロットカードは、あくまで紙に図像が描かれた絵に過ぎないからです。

もちろん、ここから自分なりにカードを生命体のように思って扱い、タロットとのコンタクトを図りやすくする方法もあります。

実は、そうした方法の一つとも言い得るのですが、あらかじめ、タロットの精霊を自分の心の中に仮想しておくことで、もっとカードと自分自身のコミュニケーションを行いやすくするわけです。

「それは単なる思い込みじゃないですか」といぶかる人もいるでしょう。でも、最初は思い込みからなのです。

自分が思い込まないと、何も自分の中には生まれません。妄想のようなものでも、タロットの精霊を想像することで、まさに創造が可能になってきます。

それが次第に強くなれば、自分だけでタロットと接しているのではなく、自分と、心の中のタロットの精霊との協同で、ふたつの見方によってタロットを見るようになります。

それは、人間としての知識や常識的な見方と、もう一つ、タロットの世界の感覚とでも言いましょうか、直感的なもので、タロットカードのそれぞれの一般的な意味とは異なる、独特な解釈やインスピレーションが生まれてくることがあるのです。

心理的な言い方に戻れば、顕在意識が前者であり、タロットの精霊を仮定した心を通して出るものが、より潜在意識的と言えましょう。

そう、タロットの精霊を心に置いた場合、(心理的な場合は、自分自身との)コンタクトやアクセスする回路が通常とは異なってくるのです。

私たちは、普通の意識の時は、日常的によく使っている脳の神経回路を使っていると言われます。

これに対して、何かすごい経験があったり、いつもとは違う環境に置かれたり、緊張から解放された瞬間だったりすると、脳内電流の通る神経回路が別ルートを通ったり、一気に多く走り抜けたりすると聞いたことがあります。

こうした機能と似て、タロットとの精霊を強くイメージし、自分の心にひとつのアクセス回路として機能してくると、非日常感が増し、普通の読み方とか、意味とかを超えたものがやってくる可能性があると考えられます。

言わば、情報の取り方・ルートが、タロットの精霊を置くことで違ってくるわけです。

これは、神や天使がいるいないの問題とは別に、そうした存在を信じていたり、身近にイメージしていたりすることで、そのような力や守護が自分に働きかける、起こると感覚するものと同じようなことです。

心理的に説明した場合は、心の像が自分を納得(いい意味で錯覚させる)と考えてもよく、実はサイキック的に言えば、本当にそうしたエネルギーや通路が作られていると見ることもできます。

ですから、タロットの精霊の実在性はともかくとして、そういう存在を仮定してタロットを扱うほうが、タロットとはお近づきになりやすいのです。

しかし、これもあくまで一手段ですから、人によっては向き・不向きもあります。

何か見えないものをイメージしたり、ファンタジックな世界が好きだったりする人には、とても効果的と言えますが、空想やイメージが苦手で、そういうことをすると、かえって思考や感情、感覚が混乱したり、ストップしたりしてしまうような人は、タロットの精霊という仮定も向いていないかもしれません。

まあ、本当にタロットが好きで、タロットに継続して関わっている人には、自分が作り出しているか、本当にタロットの世界から来ているかはわからないにしても、何かしら、タロットの精霊のようなものを感じることはあるはずです。信じなくても、タロットのほうがわかってくれるみたいなものと言えましょうか。

とりあえず、大アルカナの中でも、特殊で数を持たない「愚者」は、それだけやはり特別(どのナンバーのカードでもない)のですから、一組のタロットの代表として思ってもよく、あなたのタロットカードの「愚者」の図像を前にして、心の中でもイメージし、「愚者」が動き出したり、語ったりしてくるのを待つとよいでしょう。

タロットの精霊のようなものを、自分が作り出すという説においては、当然ながら、自己(の性格・キャラなど)が反映されやすくなりますから、イメージした「愚者」が、あなたの分身であるように見えることもあるかもしれません。そういう場合、あなたはちょっと苦笑いしそうですね。(笑)

それでも、もし、自分が作り出しているのではなく、タロットの世界という異世界があるとすると、あなたは「愚者」を思うことで、その世界にコンタクトを取っていることになります。

自分が招くのか、あなたが招待されるのか、こちらの世界にあちらの世界を一部シンクロさせるのか、はたまた、こちらの世界からあちらの世界へ旅をするのか、表現や方法はいろいろあるわけです。

いずれにしても、たとえ分身であっても、それはあなたの全部ではないですし、あなたそのものでもありません。

例えば「愚者」という絵柄があるために、あなたの中の愚者的部分を投影して、その性格を受け持っていることも考えられます。

ということは、解離性人格障害ではないですが、普段の自分とは違う性格の者と会話をすることになり、現れる言葉、直感もまた、常識とこちらの世界で生きているあなた自身とは異なっていることも、心理的にはありえるでしょう。

通常意識のあなたが読むより、あなたのタロットの精霊(心理的には、あなたがタロットモードに入った時の別のパーソナリティ)が読むほうが、すばらしいかもしれないのです。

ただし、普通のあなたが統合し、コントロールしていくことは必要です。それは、タロットの扱い、リーディングを行っているのは、こちらの現実の世界でのことだからです。

タロットをされている方は、一度、あなたの(心理的な)、タロットの精霊を存在させてみましょう。


Top