リーディング技術・内容
極端な二元リーディングの世界
タロットカードの読み方で、一番シンプルに読めるのは、極端な二元性で見る方法でしょう。
簡単に言えば、よい意味と悪い意味を分けて読むこと、吉凶判断みたいなやり方です。
これをカードの正逆というポジジョンであてはめるか、カードごとにいいカード、悪いカードみたいに区分けするかによりますが、いずれにしても、正反対の意味をカードにあてがうことで、読みとしてはとても簡単に行うことができます。
もし一日でタロット占い師(プロというのではなく、あくまで雰囲気みたいなことですが(笑))になろうとすれば、上述の、いい・悪いの意味をカードごとに決めるか、正逆で正反対の意味(正立はそのカードのよいこと、逆位置は悪いことみたいなもの)を決めて、それを暗記すれば、占えることはできると思います。
78枚を暗記するのが大変であれば、大アルカナの22枚でも大まかには可能でしょうし、それが、とにかく占えるようにしたいというのなら早道になると思います。
こうした、極端な二元性をカードに意味づけすると、確かに物事の良し悪し、それをしてよいかどうかとか、可能性があるのかないのか、吉なのか凶なのかという、当然ながら二元価値観での判断もスピィーディーに行うことができます。
しかしながら、あえてギャグのように言いますが、それだと、コインの表裏や、エンピツころがし、靴飛ばしの表裏などでも、二元、つまりいい・悪いは占えることになります。
結局、占う道具に信頼性や何か神秘性、超越性を持たせることで、そのいい・悪い判断に、特別なリアルな感覚が得られるかどうかにかかっているように思います。
ということは、使う道具と自分との間に信頼感や親近感、特別感があったほうがいいわけです。
タロットが占いの道具によく使われる理由のひとつとしては、こうした特別感や神秘性をカードに持ちやすく、さらに自分(占い師)の手の中で扱える道具であり、カード自体、そこそこの数と絵の種類があって、単純さと複雑さの絶妙なバランスにあるからだと推測されます。(人は単純すぎても、また複雑すぎても、リアルさを感じないものです)
さて、こうしていいか悪いかをカードに意味づけて、占っていくことで、さらにそれが実際の占いデータとして蓄積されて来ますと、今度は「占い」の逆転現象が起きるようになります。
最初は、カードを引いてその意味よって、事柄(問いについて)のいい・悪いみたいなことを判断していたものが、次第に、このカードがこのように出たので、こういうことが起きるはずというように、事件や事柄をカードが引き寄せるかのようになっていくのです。
言わば、「ある事柄→カードの意味合い」の方向性が逆転し、「カードの意味→その意味合いの事柄の発生」というものになるわけです。
※(ただし、これはよく考えると、観点の違いだけであり、どちらも本質的には同じなのですが、なかなかわからないかもしれません)
こうして当たる占い(師)というものができあがっていくことがあります。(当たる占い師は、こうしたことだけではなく、よく言われる霊感のようなもの、特殊能力によって、ある種の見えない情報を取得できる場合があります)
こうなってきますと、占いをしているのか、自分(占い師)が現象を引き起こしているのか、よくわからなくなってきます。
「現象を引き起こしている」とした場合、よいことを示唆すれば、それが引き起こされるわけですから、もしかすると、それこそ、とても「よいこと」なのかもしれません。
しかし、カードを二元的に読んでいる場合、当然、悪いことの意味のカードも出ることがあるわけですから、その意味を告げるとすれば、カードが現象を引き起こしている場合には、悪いことをその人に起こしてしまう事態にもなりかねません。
たとえ、「こういう悪いカード出ましたので、注意してください、そうすれば大丈夫です」と言った場合でも、人は表面的な言葉の意味よりも、感情的なもの、潜在意識に強く残るものなどのほうに本当の意味でリアリティを感じますから、もし、言われたことやカードの絵柄を見て、強い恐怖や不安を覚え、悪いことが起こるということだけが印象的に残っていれば、そのほうの実現性が高くなるおそれもあります。
少なくとも、自分に嫌なこと、悪いことが起きれば、普段は何とも思わなかったものが、占い結果と関連づけてしまうこともあり得ます。
とは言っても、人の悩みは現実世界において、二元で分離されたものの、どちらがいいか悪いかなどの選択のことが多くなりますから、その判定を占いに求めるのもわかりますし、占い師としても適切な現実的(功利的)アドバイスを与えられる能力と、営業のためには、いいか悪いか、吉凶的判断の即決を求められ、それを実施していくのも当然としなければならない事情もあるでしょう。極論すれば、それが現場の占い師の重要な仕事だと言えるかもしれません。
生身の人である限り、いいか悪いかの現実的価値の判断をする、このレベルの占い・アドバイスは必要でしょう。
しかしながら、人は肉体・物質レベルだけで生きているのではありません。
こちらのほうが稼げると言っても、あちらのほうがやりがいがあって、自分らしく生きられるとなれば、あえて後者の選択をする人もいるはずです。
ゆえに、二元性を極端に分けたカード判定ばかりでは、相談レベルにおいては、ある一面や少ない階層、限定したレベルでのものになるので、タロットなら別のレベルで読むことも身に着けていったほうがよいわけです。
実際の優秀で頼れる占い師ともなってきますと、実は、吉凶やいい・悪いの判断は当然として、それ以上(別のレベル)の助言を同時にしていることが多いものです。
それは、極端な二元性レベル(判断)から離れたものになりますので、二元価値で分けるというものとは反対の、分けられない価値での相談になってきます。
一言で言えば、統合へ向かうための助言になりますが、二元価値で分けにくいレベルや階層となりますと、目に見える物質的、常識的価値判断のフィールド・次元から、まずは個人的レベルの内的なものに入っていくことになります。
わかりやすくいえば、個人の心・感情の世界です。
ここは、一般的にはいい(悪い)ということが、個人の心では反対のこともあり、結局、そのいい・悪いは、個人が決めていることに至る視点でもあります。
そうすると、当然、カードごとの吉凶、いい・悪いは決められませんし(決めてしまうと、個人の心もそれに倣ってしまい、自己の価値観=他人や世間の価値観となります)、正逆において正反対の意味になるというように意味を分け過ぎても、かえって読みにくくなってしまいます。
タロットカードたちに、いい・悪いの意味を与えるのではなく、それぞれのカードによる象徴性を見て、カードのフラットな基準から個人の心を観察するような見方になってきます。
それでも、これはカードの使い方(読み方)の中レベルみたいなものです。
次には、個人から全体にさらに転換し(しかし、常識レベルの全体性とは別のもの)、霊的な視点でカードを読むというレベルになってきます。
しかし、巷の占い現場では、その読み方は求められていないのが普通です。ですから、必ずしも高度な読みがタロットリーディングの必要条件とは言えないこともあります。
タロットリーディングやタロット占いは、多くの人はいろいろなレベルを混同させたままにやっていて、自分がどの層の読みをしているのか、クライアントはどのレベルを求めているのかわからず、ただカードの一般的な意味を読んでいるだけということがあります。
他人へのタロットリーディングの目的として、クライアント、相談する者が満足できればいいわけなのですが、自他ともに成長し、拡大していく視点を持つと、それだけでは一時的なものになってしまったり、固定した世界観に囚われてしまったりすることがわかってきますので、タロットリーダー側も、多様性と多元性を理解しておく必要があるかと思います。
実践は型にこだわらなくてもよい
「そのようになるよ(そのようなことが起きるよ)」
「そのようになるように頑張ってみようよ」
「そのようになれるよ」
「そのようになるのは(それは)嫌なのかな?」
「そのようになりたいと思っている?」
「そのような気持ちがあるのよね」
「そのように見てみる(考えてみる)のはいかが?」
「そのようなことは無視していいんじゃないかな」
これは何なのかと言いますと、タロットリーディングにおけるカードの読み方の一例です。言い換えれば、カードからの情報の取り方でもあります。
このほかにも、もっとたくさんあるでしょうが、だいたいこんなパターンでカードについて読んでいるのではないかと思います。
私はタロットリーディングと占いとを区別した書き方をこのブログでもよくしていますが、その二つは、ある観点からすれば、同じようなものにもなるのです。
「リーディング」は創造的で、クライアント自らの気づきを促すのに対し、「占い」は断定的、クライアントには受動的で、未来予測が中心になると定義することもできますが、それもあくまで一例に過ぎません。
上記のように、リーダーの質問や読み方のパターンをこうして列挙してみれば、何のことはない、カードから読み取っている情報という意味では、すべて同じようなものと言えます。
強いていうならば、読み取った情報が運命的・決定的なニュアンスなのか、流動的、あるいは、これから作り上げていくか(実現させていくか)の違いみたいなところがあります。
ということで、カードからの情報でクライアント・相談者をよい方向に導いたり、癒しや気づきを与えたりするというところでは、やり方やアプローチが違うだけで、実は占いもリーディングも同じ面があるわけです。
しかし、その違いを見ていくのもまた有意義で、それはクライアント側からということもあるのですが、むしろ、リーダー側についても言えるのです。
というのは、例えば、タロットを読む人、タロットからの情報を扱って、どのように人に提供し、人様の役に立つのかという、自分のタイプとか、向いている方法を知ることができるからです。
自分が占いタイプの読み方、情報の与え方をしたほうが、クライアントのためになるという人(それでクライアントに満足してもらう人)もいれば、タロットによって、心理的な内面のブロックや葛藤、トラウマなどに気づいてもらい、それの解放や調整に向けてサポートするという読み方をするのが向いている人もあり、さらには、一種のコーチのように、実現したい目標や状況を、カードの情報や象徴を利用しセッティングして、達成しやすくさせるという方法が向いている人など、いろいろ、個性によってあるわけです。
これに、タロット以外の技術を学んでいることもあるでしょうし、自分の興味や関心から、どんなことをしたいのかによっても、またさらに自分のスタイルが決まって来ます。
もちろん、方法や技術は目的に適っていれば、数種類を混合させることもできますし、どんなやり方をやってもOKというところがあります。
私が実際にタロットリーディングする時でも、最初に書いたような読み方(情報の取り方)のパターンを各種織り交ぜ、時に未来予測的で断定的な占いになることもありますし、心理的な(葛藤や問題パターンに陥らせている)データの気づきに導くこともあります。また、目標を定めるための指標やモデルとしてカードを扱うこともあります。
カードリーダーの中には、かたなくなに自分が習った方法に固執し、これでないと絶対にうまく行かないというような人がいますが、それはあくまでその技術や方法の「論」を高めることでは有効ですが、実際の相談者に対して、まさに「相談」したり、「セッション」したりして、クライアントのために役立つ情報提供や施術をするということでは、無意味になる(こだわりがかえって問題をややこしくさせる)こともあります。
私のブログを読んでいて、タロットの占い活用はダメだと思っている人がもしかするといるかもしれませんが、決してそんな単純な話をしているわけではないのです。
確かに、今のタロットの一般的な認識や占いとしてのツールで多く使われる現状を肯定しているわけではないのですが、私も実際に占いの館のようなところに出てタロットリーディングしてきたをことを思い出して見ても、現場のリアルな世界では、本当にいろいろな方が、それこそ「人間らしい」問題や悩みごとを抱えて相談に来られます。タロットの占い活用が、多くの人の役に立っていることがあるのも事実です。
予約紹介制ではない、ランダムに市中の人が来られる現場では、机上の空論みたいなものとか、座学で勉強していた読み方など、吹き飛んでしまうこともしばしばです。
そこにはどす黒い情念のようなものも渦巻いていますし、逆にあまりにも空虚で機械のような感じになってしまっている人もいます。
カードを簡単に定義づけたり、またクライアントの問題のパターンを形式的に当てはめ過ぎたりして、人(やカード)をモノのように扱っていると、とんだしっぺ返しをくらいます。
人には心があり、さらには魂、霊があります。どんな人にも崇高な部分と、低次で貪欲な部分、あるいは破壊や消滅のような願望も眠っている場合があるのです。
そんな実際の現場、人を相手に、小賢しく考えた「型通りの理論」など、通じないことがほとんどです。(しかしタイプや型の学習が無駄と言っているわけではありません。それはそれで必要でもあります)
タロットで相談していると、人として生きる悲しさや苦しさも思う反面、いつも人の可能性や偉大さも思い知ります。そして、自分など、ただのサポート者に過ぎない、たまたま何らかの縁で関わらさせていただいた立場・存在なのだと謙虚になることもできます。
そうですね、いわば、マラソンランナーに対して沿道で声援を送る者で、偶然声が届いたとか、支援する側で水を手渡すことができた人みたいな感じです。主人公はあくまでランナーのほうですし、ランナーがゴールを目指して自分で走っているのです。
これは講師として講義をしていても同じで、教えているようでいて、本当に教えられていることが多く、私自身、生徒さんから救われていると実感することはいつもです。ありがたいことだと真に思います。
タロットリーディングを営業でやるようになったり、講師のように教える立場になってきたりしますと、どうしても「先生」などと言われ、人によってはえらそーな感じに見えたり、傲慢になってきたりする方がいます。また、逆に「先生」であろうと、必要以上に自分を縛ってしまう方もいるかもしれません。これはどちらも問題でしょう。
それでもまだ、自分が先生と呼ばれる立場になったことを自覚して、よい意味でクライアントや生徒さんの(模範や温かく見守るような)先生であろうとすることは悪いことではないと思います。
人を救うというのは大げさで、おこがましい表現ですが、仮にも人様から相談を受けようという人は、自分も相手も同じ人間であることを思い、勉強してきたからとか、人生経験・年齢が上だからとか、相談技術を身に着けたからと言って、上の立場でえらそうにしても始まらないのです。
共感と言われますが、人は苦しみをわかってもらえたり、悩みを受けて入れてもらえたりして初めて、次の段階に進むことができます。
そういうことでは、占いがどうの、リーディングがどうのという違いにこだわることは必要ないです。(違いを意識したり、明らかにしたりすることは、別の意味では重要にはなりますが)
タロットを学び、タロットリーダーとして、誰かにの役に立ちたい、リーディングを仕事にしていきたいという方は、あなたなりのやり方で、人様に向き合い貢献し、、クライアントはもちろんのこと、自分自身も成長していくことができればよいかと思います。
最初の基礎や技術の型は大切ですが、あなたがどうしたいのか、最初の気持ちでもいいので、そのことをよく思い(出し)、やがては自分流の方法で相談スタイルが出来上がっていくことでしょう。型破りと言われる段階と所以です。
その過程は、マルセイユタロットの「手品師」から「戦車」に描かれているように思います。(そして、背景や高いレベルに、ほかのカードたちがあるという印象)
特に「戦車」になるためには、その前の(数の)段階、「恋人」が重要だと思います。
タロットの逆位置(リバース)
タロットの展開法、タロットのスプレッドには、たくさんの種類があります。
有名で、よく使われているメジャーなものもありますが、タロットリーダーやタロティストのオリジナルなものも少なくないでしょう。
かく言う私も、オリジナルスブレッドはいくつか持っています。その中でも、リーディング用と占い鑑定用みたいに分けているものもあります。
ただ、もともとカモワン流のマルセイユタロットから入った口でもありますので、カモワン流のカード人物の視線を追う流動的スプレッドに慣れていたこともあり、いわゆる固定スプレッド、例えばケルト十字などのタロット界ではよく使われている方式は、逆に違和感があったのも事実です。
まあ、展開法、スプレッドというものは、目的のための手段ですから、目的からはずれていないのであれば、やり方、方法としては何を選択してもOKだと思います。
要するに、自分かタロットの種類に合っていて、使いやすく(読みやすく)、タロットを使うその目的に適っていればいいのではないでしょうか。
さて、そうしたタロットの展開法の中で、カードを正立に置くか、逆位置(リバース)に置くかという違いのもの(種類)があります。
私自身は、正立だけの方法と、逆位置も出す方法との両方を使い分けています。このブログで、時々やっている企画モノでは、正立だけ置く方法を採用していることが多いですね。
間違っているかもしれませんが、私が調べたり、聞いたりした話では、タロットの逆位置(リバース)をリーディングや占いで取るようになったのは、それほど古いものではない(新しいものだ)ということです。
マルセイユタロットを見てみれば、小アルカナの数カード(数札)は、正逆が一見しただけではわからないものもありますし、説によっては、正立と逆位置が反対のものさえあります。(ある正立状態が実は逆であるという解釈が存在しています)
おそらく、デザインから見ても、マルセイユタロットの数カードは正逆で見るものではないと私は思っています。
大アルカナや小アルカナの宮廷カード(コートカード)は、明らかに正立がどの状態かが見てわかるような絵柄ですから、これに逆位置のケースを考えるのは、あってもいいかもしれません。
ともかく、いつの頃からか、タロットでは逆位置・リバースを見るようになり、正立の場合との解釈や意味を変えるようになってきました。
その理由として考えられるのは、私の推察ではありますが、やはりシンプルに判定がしやすくなるという利点があったからではないかと思います。
つまり、正立は良し、逆位置は悪い、または、正立の意味と逆位置の意味では真反対になるという読み方です。
逆位置を採用することで、カードそのものを読むよりも、正逆の位置だけで良し悪しが最初にわかるというのは、鑑定的な意味では効果的だったと考えられます。ということは、パフォーマンス(的意味合い)も大きかったのだと推測されます。
そういう意味では、やはりタロットが占い(の道具)としてよく(メジャーに)使われるようになってきたことが、逆位置・リバースの取り入れにつながってきたと考えられます。
あと、ウェイト版(ライダー版)の登場により、小アルカナの数カードにも絵がつけられたことで、正逆を判断しやすくなったこともあるのかもしれません。そのウェイト版が、占いで多くの場や人に使われるようになることで、さらに逆位置解釈も拡大して行ったと思われます。
逆に言えば、もともとタロット占い、タロットリーディングにおいては、逆位置(解釈)はなかったのではないかと想像できます。
ましてや、占い・リーディング以外での活用になってきすと、ますます正逆の区別は意味がないということになります。それよりも、カードの図像そのものや、構成に注目するのが自然です。
ともあれ、今やタロットでは、逆位置・リバースを取ることが、普通になってます。
ただ、その解釈はまちまちでもあります。
さきほど述べたように、正立では良い、逆位置では悪いと解釈するものと、正立の意味と逆位置の意味が正反対で読むものがまずあり、これはタロットの逆位置解釈では、一般的と言えるかもしれません。
これに対して、あくまで正立の解釈を基本として、逆位置は正立を阻害したり、ブロックしていたり、正立からのズレ・不調和を来している状態と見る方法があります。
これだと、逆位置は必ずしも悪いという意味にはならず、また正立の反対の意味というわけでもありません。いわば、一時的な「正立の別状態」で、何かの気づきや修正が図られれば、正立に戻すことができることになります。
逆位置の解釈は、すでに書いたように、タロット活用が自分の目的に適っていれば、どのようにしてもよいとは考えますが、個人的な意見としては、正立を良い、逆位置を悪いとしてしまうのは、少々問題があるのではないかと思います。
もちろん、正立が良いこと、逆位置が悪いことと設定していれば、カードの位置だけでもおよその判定をすることができて、特に占いには便利であるとは考えますが、この解釈方法は、そもそも良し悪しとか、善悪という二元的価値を強く植え付けてしまいがちで、つまるところ、カード自体にも良し悪しをつけて見るようになってしまいます。
それは、タロットにはよいカード・悪いカードがあるという前提になり、吉凶判断に囚われた見方になるのです。
タロット、特に大アルカナは、二元を統合する方向性にあると私は見ていますので、あまりに吉凶のような二元分離の価値観にはまってしまうと、自己の成長や拡大、意識の向上が滞ってしまうおそれがあるのです。
良し悪しというのは、見た目や形ある世界のルール、一般的価値観(世間体や外の人、環境から押し付けられた価値観)であることが多く、これが個人の心理・精神の世界になってきますと、一概に良し悪しは決められなくなってきます。
またスピリチュアル的に言えば、高次意識になればなるほど、善悪、吉凶の境目はなくなり、すべては同じ(金太郎アメみたいなコピー的な同じという意味とは別です)という思考・感覚になると言われ、つまりは、同じレベルの価値観からいい悪いを判断していては、そのレベルの世界観でしか物事を見ることのできない人間で固定されてしまうことになります。(言い換えれば、霊的な成長が見込めない)
ですから、正逆を採用した展開を用いるにしても、その解釈に、単純に正立が良い状態・良いことが起きる、逆はダメ・悪い状態というような見方をしていては、まずいこともあるわけです。
また正逆で正反対の解釈するもの、例えば悪い意味のカードと決めているものは、逆になればよいことになってしまいます。これもちょっとおかしな話で、結局その違和感は、もともとカードに吉凶的な解釈をしてしまっていることにあると言えます。
ということは、正逆解釈問題に関わらず、カードごとに善悪、吉凶、良し悪しを意味として決めていることが根本的な問題だとなるでしょう。
そのほうが読みやすく、スピードも速く、何かと便利であるのもわかるのですが(そして実際に、いいこと・悪いことはカードの通りに起こるという人もいるでしょうが)、そうした(吉凶)次元を超えて解釈する読み方に慣れていくほうが、長い目で見れば双方(クライアント・リーダー)のためになるかと思います。
とはいえ、正立だけの展開法を推奨している(逆位置採用を否定している)わけでもありません。
何度も言うように、展開法は手段であり、目的ではありません。正逆を採用することで、リーディングがしやすくなり、総合的なセッションとして見た場合、効果的になることもあります。
それに、案外、正立だけで読むというのは、あらゆる要素(ポジティブ・ネガティブ)を考慮に入れて読まないといけないので、実はかえって高度な場合もあるのです。
ただ、正立だけ出す展開の良さもあります。
タロット界では、もはや正逆両方を取ることが普通になっているので、やってもらうほうも、逆位置(リバース)は何か悪い意味ではないかとマイナスにとらえてしまうことが多くなっており、逆が出ただけで恐怖や不安に駆られる人も少なくないのです。
それに対し、正立だけ出るということは、見た目の安心感がかなり大きくなります。言ってみれば、自然にポジティブな気持ちにさせるわけです。
聞くところによれば、あのホドロフスキー氏も、正立だけのものでしかカードを展開しないのは、心理セラピストでもあるホドロフスキー氏にとって、クライアントに余計な不安を与えない配慮もあるということです。
タロットカードの正逆の展開、あなたはどう採用し、どのように解釈しますか? それを決めるのもあなたの自由です。
タロットが読めないと思っている人に
このブログでも、何度かお話したことがありますが、私は最初、まったくタロットに関心がありませんでした。
ですから、タロットの世界(業界)に入ったのも、偶然と言えます。(ただ、見方を変えれば必然ではありますが・・・)
ましてや、タロットにたくさんの種類があること、そして自分が初めて学習したタロットが、その中の古典的なマルセイユ版であることも知りませんでした。まあ、結局、私はマルセイユタロットしかやらないことにはなりましたが。
そんな私ですから、初期の自分のタロットリーディングも惨憺たるありさまで(苦笑)、意味を学んでも、カードがほとんど読めませんでした。
自分はタロットリーダーには向いていないとつくづく最初の講座中思ったもので、リーディングのできない自分が恥ずかしくもありました。できれば講座を途中でキャンセルして帰ろうかとも思うほどでした。(笑)
しかし、当時の先生から聞かされるタロットリーディング以外の神秘学的内容や、古代象徴系の話はとても興味深く、タロットを通して本当の自分や宇宙を知るという教説には、自分の好奇心・探求心に火をつけるワクワク感がありましたし、実はタロットを習うこと自体はとても楽しい面もありました。
ちょっと話はそれるのですが、この受講中の楽しさは、もしかすると自分の特質とも大きく関係しているのかもしれないと思うところがあります。
これまで、ほかのセミナーや講座を受けることもありましたが、タロットの学びは格別でした。
それは人見知りのある私でも、タロット仲間には、気の合う人が多かったということもありますし、その自分の特質というのが、知識などを学ぶことが好きであるということもあったからです。
そして、これらをさらに自分の内的なデータとして掘り進めていくと、仮に過去生というものがあるのなら、私は修道院や僧院のようなところで学ぶ形式と生活が過去にあったのかもしれず、しかもその繰り返しが結構あり、それゆえ自分にはなじんでおり、たとえそれが(経済や自由さにおいて)苦しいものであっても、精神的には楽しく、充実していたのではないかと思うところがあります。
そうした(大人になっても続けていく)学院形式は、悪く言えば現実逃避の部分もあったでしょう。修行生活と言っても、実生活で自ら働いて生活していくのとはまた別で、おそらく、寄付とかお布施とかもあって、稼ぐという行為は、托鉢的なものや半ボランティア的な行為、院による作物や食物の製造(西洋だとワインとかチーズ)などで、院生活のための収入を得るものになっていたかもしれず、いずれにしても、外の社会で働くのとは違っていたと考えられます。
私にはもともと現実逃避的な性質があります。(苦笑) それが先述したように、何かを学んでいる時と、その仲間との交流の時間は、自分の精神としては、現実を忘れるほどの喜びと楽しさを感じることがあり、そのため、今述べたような過去生データのスイッチが入るのではないかと推測している部分があるのです。
話を戻します。
タロットリーディングが、技術的にもまずかった当初の私ですが、ある時を境に、急に視界が開けたように、タロットが読めるようになりました。
いったい何が起こったのでしょうか?
それは、訓練を続けたことと、コツをつかんだということにあります。私の先生も述べていましたが、タロットリーディングは一種のアートなのです。日本語では、芸術というより、「芸事」の「芸」というのに近いでしょう。
芸事ですから、よほどの才能がある人とか、霊感的な特殊能力のある人(そのような人は、タロットを読むのではなく、自分の特殊能力でチャネリングすることが多いのですが)以外は、やはり師匠(先生)について学ぶほうがよく、しかもただ学ぶだけではなく、一人の時も、よく訓練しておく必要があります。
また師匠・先生に言われたことだけをするのではなく、自分なりに創意工夫し、常にリーディングの向上に努めることが求められます。思考だけしていても始まらず、人に見せる実践トレーニングも芸事には大事です。(カードで言うと「手品師」)
このあたりが普通の勉強とは違い、芸事の習得の特徴でもあるでしょう。何よりも、タロットという芸を愛している(好きである)ことが重要です。
一方で、芸やスポーツには、確かにセンスの問題というのもあるかもしれませんが、私自身はセンスはあるほうだとは言えず、普通だと思います。それよりも、「コツをつかむ」ということに集中してトレーニングすることです。
タロットリーディングが芸事であっても少々やっかいなのは、タロットの種類や展開の方法によっては、そのリーディング方法も異なってくることと、教える人の言うコツと、本人のつかむコツというのが合わないと言いますか、噛み合わないことがあるのです。
まあ、ほかの芸、たとえば踊りとかでも、流派があるように、タロットも一種の流派や流儀の違いがあります。
さらに、先述したように、教える方は、自分のコツを伝えようとしますが、それが人によってはコツとはならないことがあるのです。
従って、先生の言われる方法だけでは、本人としてのコツがつかめないこともあるわけです。ここが、自分なりの工夫がいるという理由なわけです。
それでも、あきらめないことが大事です。コップの水で例えれば、タロットの知識やリーディングの訓練が、次第に自分というコップの中に溜まっていき、いつかあふれ出す時が来ます。
私が急にタロットを読めるようになったのは、コツをつかもうとトレーニングしてきたことと、それらが一定の蓄積を超えて、リーディング脳とも言える、脳内や精神的内部のタロット的思考のネットワークがつながったからだと思っています。
それが突如、読める感覚となって現れます。いわばタロットリーディングにおける開眼みたいなものですが、それにはきちんとした蓄積があってのものなのです。(開眼にもレベルがあり、また次の段階で読めない(これまでのコツでは通用しない)状態が現れ、それを乗り越えて、さらに高度なリーディングに変容していきます、その繰り返しみたいなものです)
タロットとの会話と言いますか、タロットか好きで、タロットをさわっていると、向こうから語りかけてくような感覚も出ます。それらも、蓄積によって現れると言えます。
開眼する前にも、その過程では、「あっ、いい感じで読めている」という、コツをつかみかけるような時があります。その感覚を忘れないことですし、そうしたことが次第にたくさん起こるようになってくるとよいのです。
読めない時はがっかりしたり、自分にダメ出ししたりするかもしれませんが、多くの生徒さんは、できないことにフォーカスしがちで、できていることに意外に無関心なのです。
自分ひとりでトレーニングしていても、比較の意味でわからないことがありますから、やはりタロットを学習する仲間とか、友人とタロットリーディングをし合ったり、勉強会などか開催されると参加したりして、自分ができていること、読めていることを人から評価してもらう機会を作るのもよいでしょう。(当然、できていない部分も見えますが、そこは落ち込まず、冷静に受け止めて、向上させればよいのです)
あと、なるべく具体的な目標も大切で、例えば「いついつのイベントまでには、出演できるよう、読めるようにしておく」という決意と実行が、具体的目標・節目となって、現実に作用しやすくなります。
ほかにも、他人リーディングの修行ということで、一か月何人見るとか、合計〇〇名の人をリーディングするというような目標を立てて、実行していくのもよいでしょう。
ただし、この数稽古形式は、慣れとかコツをつかむきっかけになることもある反面、数さえ満たせばうまくなると思って、検証や理論なしで、ただがむしゃらにやり続けても、ますます混乱を来したり、変な固定的な読みの癖がついたりする恐れがあるので(リーディングが占いレベルオンリーになりがち)、注意が必要です。(「手品師」や「皇帝」だけはなく、「斎王」や「女帝」も必要だとマルセイユタロットでは例えられます)
プロでやっている人でも読みづらいこともありますし、うまく行かないこともあるのですから、反省はしてもダメ出しはせず、コツをつかんで自信をつけ、よきリーダーになっていただきたいと思っています。
あなたのタロットリーディングによって、救われる人もいるのです。
タロットリーディングの二方向性
タロットリーディング、タロットを読む方法、そのアプローチの仕方というものは、かなりたくさんあると考えられます。
絵から直感的に読むもの、絵を何か現実のものにあてはめて読むもの、タロットの(象徴的)システムや体系から読むもの、タロットの意味から読むものなど、様々です。
最初は教えられる先生や学ぶ本、動画などからの、いわば教科書的・共通的なリーディング方法を取り入れますが、次第に個性的なものと言いますか、自分らしい読み方に固まってくるものです。(固まり過ぎても問題ではありますが・・・)
まあしかし、最初に教えられる先生、初めに学ぶ元となる教材からの影響はかなり大きく、たとえあとで先生を変えても、その影響は自分の個性的な読み方を形成していく(形成される)うえでも、核となって残っていると感じます。まるで生まれたばかりのひなが、最初に見たものを親やモデルとするかのようです。
それはともかくとしまして、今日の話題は、タロットリーディングにおいて、大きく分けるとふたつの方向性があり、その、普段は気づきにくい、もうひとつの種類の読み方があるということと、それを意識してみるのもよいのではないかという提案です。
普通私たちが行っているタロットリーディングは、最初にも述べましたが、あくまでタロットを自分がどう見るのか、見えるのかという、自分側が中心のスタンスです。
直感的であるにしろ、論理的であるにしろ、対象としてのタロットカードがあり、それを自分が見ているという方向性のものです。
しかし物事の見方は少なくとも二方向、いや、本当はもっと多様なものがあると考えられます。
つまり、タロットとタロットリーダーの関係で言いますと、少なくとも、もうひとつ、タロット側を中心にした視点があるということです。
タロット側の視点とは何か?と考えた場合、これもいろいろな意見はあるかもしれませんが、私は、これがいわゆるタロットの精霊とのコンタクト的なリーディングになるのではないかと推測しました。
ちょっとサイキックや霊的な世界、技法的には西洋魔法的なタロットとの関わり方やタロットリーディングの方法の感覚に近いと思います。
あえて簡単に表現すれば、タロットの精霊が私たちに語りかける、情報を教えてくれるみたいな感じでしょうか。
ということは、タロットリーダーがタロットを見てどう思う、どう見るというのではなく、反転して、タロットが私たちをどう見る、どう思う(笑)みたいなものになります。
これと少し似ているのが、タロット的な象徴や意味から問題を見てみる、捉えてみるという、リビジョン的なタロットリーディングです。
この場合、例えば、「戦車」というカードが出れば、問題を「戦車」のカードの意味に当てはめるて解釈したり、リーダーの見え方で考察したりするのではなく、その問題は「戦車」の視点を必要としている、「戦車」がその問題を扱う、という逆の発想になります。
書いただけ(文章から)では、違いがわかりづらいかもしれませんが、要するに、自分が中心となるよりも、タロットの象徴や枠組が中心になるという発想です。
しかし、このリビジョン的な見方と、タロットの精霊とのコンタクトによるリーディングとでは、タロット側が中心の立場としては同じようでいて、厳密には違うものだと思います。
これも言葉では説明しづらいのですが、タロットの精霊とのリーディングということになれば、タロットの世界に自分が入り混むと言いますか、タロットと一体となって読むみたいな感覚となるでしょう。
例えるならば、自分が中心のタロットリーディングは、昼間の顕在意識が強い私たちの意識の世界、タロットの精霊関係のリーディングは、夜、寝ていて夢を見ている潜在(別の)意識も含む状態の意識の世界みたいなものでしょうか。
ゆえに、後者は、論理性や常識的な因果性が少なく、通常感覚での説得力に欠ける場合もあったり、理解しづらいところもあったりするでしょう。
しかしながら、タロットというものをあくまで、絵のついたカード(モノ・対象物)として、それを自分が見ているという感覚だけで続けていると、タロットの物理的(三次元的)な枠組から出ることができず、当たり前のリーディングや、現実的・現世的な意味での吉凶解釈のリーディングになりがちだと思います。
大アルカナのカードでいえば、こうした精霊的、タロット中心的なアプローチの象徴は、「月」のカードにあると私は見ています。このカードこそが、タロットリーディングの意味において、最も奥義を持つものではないかと想像しています。
月には二匹の犬のような動物、さらには、奥にはふたつの塔、それらが微妙にずれながらパラレルに描写されつつ、水たまりには第三者的なザリガニがいます。
さらに、月自体、顔をもって描かれ、月そのものから視線を受けている構造が見えます。いわば、私たちが月を見ているのではなく、月が私たちを見ているのです。
実際の天体としての月を見ている時(あるいは見ていない時のほうが強いかもですが)、皆さんの中にも、月から見られている感覚を得たことのある人がいらっしゃるのではないでしょうか。
元に戻りますと、タロットの精霊の住む世界や、この通常次元とは異なるタロットの世界があると思うような一種のメルヘン的な想像が、実はこの三次元認識の世界観を壊し、新たな世界に飛翔するためのヒントになることでもあると感じられます。
ただし、あくまで、現実(三次元)意識も保ちながらというのが重要で、完全にあちらの世界に浸かってしまうような感覚だと、これはこれで幻想空間にいるようなもので、問題となるでしょう。(自分が支配されるかのようになります、ルシファー的な悪にとらわれます)
錬金術の言葉でははありませんが、「解体(分離)して統合せよ」というように、タロットリーディングにおいても、タロットを見て自分が読む意識と、タロットから問いかけられている、タロットがささやく(攻殻機動隊の「ゴーストのささやき」を思い出します)、タロットがこちらを見ているといような、あちら側からのものの意識とのふたつを分離しつつ、共同作業にすると、本当に統合されたリーディングができるのかもしれません。
最初にも述べたように、タロットリーディングは個性的な読み方に結局はなっていきますが、その中でも、二つの方向性の読み方を意識しておくと、普遍的なもの(全体的なもの)に近づけたり、修正したりできるのではないかと思いますので、覚えておくとよいでしょう。