リーディング技術・内容
タロットと三か月の期間
初級、基礎の段階のタロット講義において、よく受ける質問のひとつが、タロット占いやタロットリーディングの期間効力についてです。
裏を返せば、「タロットはどれくらいの期間を想定して占えるのか、リーディングできるのか」ということになります。
これには、一般的には(何をもって一般的なのかは難しいのですが(^^;)、タロットの世界でよく言われている説という意味にします)、三か月の期間だと言われます。
タロットを習う生徒さんにも、そういう話はすでに誰かに聞いているのか、「タロットは三か月しか占えないんですよね」とか、「三か月はこのまま(出たカードの内容)なんですよね」と話す方もおられます。
これについては、私自身は、三か月というのには、ある条件があってそう考えるのが適当としています。
つまり、逆を言えば、三か月がタロット(リーディング)の有効期間とは限らないという立場でもあります。(また同じ質問は、三か月経過しないとしてはならないという立場とも違います)
このブログを読まれている皆さんは、タロットに興味があっての人が多いでしょうから、その皆さんにもお聞きしますが、ではなぜ、一般的に三か月という期間が言われているのでしょうか?
タロットの学習に限らず、ただ機械的に、「そう言われているから」とか、「そう習ったから」とか、「みんながそう言っているから」という姿勢で、何も考えず、疑問も持たずに、そのまま暗記するような態度は問題と言えます。
なぜなのだろう?と思えば、自分で調べたり、教えてもらっている先生に聞いたりすることで、より納得もできますし、知識も広がりと深みが増します。(しかし先生は場合によっては質問について、懇切丁寧に全部教えることはかえって生徒さんの成長の妨げと考えて、わざとヒントしか教えないこともあります)
ですから、タロットの有効期間についても、三か月ということを鵜呑みにせず、自分で考えてみるとよいでしょう。
一応、私の見解をここで今から述べますが、それはあくまで私の考えであり、正しいか間違いで見るものではないと思ってください。
先生や本、色々な人からの意見は参考にしつつ、最終的には自分で考え、判断を下し、そして実際に活用していくことに意味があるものです。
さて、タロットの有効期間三か月説ですが、これは、おそらく人の意識が関係していると考えられます。
コンサル系のブログタイトルなどでも、一時期流行りましたが、皆さんも「90日で〇〇できる」とか「90日で結果を出す」とか見たことがあると思います。
そう、90日はおよそ三か月です。
この期間こそ、私たちが何かをしようとか、変えようとか、やってみようと新しく望む時の意識継続時間と言えるのです。
もっと言えば、これくらいの期間において、あることを強く意識し続けると、思考や感情のパターンに刻印され、習慣化したり、実現に向けて意識がそれに変わってきたりするのです。
これには、占星術的な話にもなるのてすが、惑星の回転や周期と、私たちの人間の意識がリンクしていたり、関係していたりする前提で見ておくと、その理由がなんとなくわかると思います。(ここでは詳しくは述べません)
90日、三か月というのは、単数の数で言えば「3」が基本になっています。この3が、また意識と関係しているのですが、現実性においては、もうひとつ数が加わる「4」の象徴性が必要で、そのため、90日、三か月というのは、現実というより、イメージや意識のうえで効力が働く期間だと言えるのです。
翻ってタロットを見た場合、タロットは絵柄でできている象徴のカードです。それはイメージや見えない世界、意識や心の部分で強く働き(印象を残し)、影響を与えます。
たとえタロット占い師やタロットリーダーから言葉で何かを言われたとしても、絵としてのカードを見ているわけですから、言葉とともに絵の効果で、クライアントの心に響きます。
そして、タロットを受けた人は、90日程度、タロットで出たものを(無意識も含めて)意識し、イメージの世界にそれを置くようになります。
こうして、タロット占い、タロットリーディングで出た内容が、私たちの意識に三か月程度影響するという話になってきたのだと推測されます。(タロット占いで、経験側的に、三か月の効力期間を感じ、それが法則化されたということもあり得ます)
しかし、この考えに立てば、タロットのことをどれだけ意識と無意識のうえで、刻印するか、されるかの程度によって、三か月の期間効力はあやふやなものにもなります。
強く影響されれば、もっと長期の場合もあるでしょうし、タロットカードをほとんど意識しない、または当たらないとか、迷信の類としてまったく意識的にスルーした(される)場合は、三か月はおろか、一日すら効果がないかもしれません。
また、タロットが意識に影響するという見方ではなく、逆にタロットが意識の何かしらを表すという、方向性を反対にして見ることも可能です。
ただその場合でも、あることを人が(同じように)意識するスパンが90日、三か月だとすると、その三か月以内の意識の状態をタロットが表していると見て、結局、三か月の効力説に行き着きます。
人の意識とタロットの象徴性がリンクする、リンクさせるとすると、タロットで見てみたいと思う期間やスパンの違いによって、タロットはそれぞれの象徴性を示すことも考えられます。
つまり、今年とか来年の象徴として、一年スパンもあり得ますし、明日の状態は?という一日単位のこともありうるわけです。
簡単に言えば、質問によって、タロットはいかようにでも象徴性の期間を変えることができますし、それはまた人の意識(設定)次第だということです。
しかし先ほど述べたように、三か月説にも根拠があり、それは一年のスパンでいうと四半期、春夏秋冬の季節の巡りにも相当します。
これはいわば、3という数と4という数の共同作業であり、イメージや(無)意識、心の世界、あるいは理想や計画上の世界を、現実・形の世界に落とし込んだり、実際に効力と影響を及ぼしたりする仕組みでもあるのです。
タロットを展開する時、それは三か月スパンの私たちの意識や、見えない世界の運勢、予想の投影や象徴として受動的に見るか、三か月にわたるこれからの意識改革の期間として能動的に見るかは、占いか創造的にリーディングするかの違いでもありますが、やはり、90日・三か月とタロットの象徴の示すものは、私たちの意識と関係が深いと言えます。
三か月のスパンに相性がよいスプレッドは、そのままズバリ、三枚のスリーカードを基本とするものでしょう。
三枚を引いて、一枚ずつがひと月分を表すと見てもいいですし、改変(創造)や切り替えのシンボルとして、三か月間の目標とするものと見たり、行動するパターンとか、会ったり、話したりする人の像が出ていると見たりしてもよいでしょう。
タロットと宇宙、人との関連を入れ子構造的に考察するのなら、たった一枚のカードの中にも、自分の一年、数か月、一日というミクロ方向から、逆の、一生や惑星・恒星の周期の壮大なものにまでマクロ的に広げることも可能でしょう。
一説では、例えば、大アルカナ22枚のひとつが、500年から1000年を示すというものさえあります。
それは、先ほども述べたように、宇宙が入れ子構造、ホロン構造的に、ある種の同じ型やパターン、法則性でもって貫かれているからです。
タロットと期間の、皆さんの考察の参考になれば幸いです。
カウンセリングか、タロットリーディングか。
私の扱うマルセイユタロット(の活用)は、ずばりと、当たりはずれや吉凶を占うようなものではなく、どちらかといえば、カウンセリング的によく話を聴き、相談に乗りながら、タロットからの示唆を伝えるようなものになります。
黙って座ればピタリと当たるというものではないのです。従って、相手方の情報も必要ですし、ただカードを読むだけとは違う、コミュニケーションとしてのやり取りが重要な要素を占めることがあります。
まあ、タロットの市場として「占い」があるのも確かですし、占い現場というものが、現実的にはいまだタロット(リーディング)を活かす場所になっているのも事実ですから、占いの現場では、当てなくてはならないことや、まさに占い的な質問や方法を実践していかないと、仕事にならない部分もあるでしょう。
私も、かつて、占いの館的なところに出ていた時は、お客様が何も情報を言わずに、「何が質問したいかを当てるのも占い師でしょ?」と言われたこともあります。(笑)
占いの現場は、本当にいろいろな人が来ますし、同業者同士の醜い争いも場所によってはありますので、“人間”というものを知るにはよい場所ではありますが、中には耐えられない人もいるかもしれません。それでも市井の人々の悩みに向き合い、答えようとするまじめな占い師の方々はすばらしいと思います。
さて、話を戻しますが、私たちは、先述したように、タロットを用いた相談ということでは、カウンセリング的な手法を用いることがあります。むしろ、そういうのを使うのは、当然のことと言ったほうがいいかもしれません。
ただ、だからこそ、少し区別も必要だと思うのです。
これは私の生徒さんにも考えてもらっているところてすが、自分はタロットリーダーとしてカウンセリング的な技術を取り入れるのか、逆に、カウンセラーがメインで、カウンセリングテクニック・道具の一環として、タロットを使用するのかという区分け(をすること)です。
私自身は前者(タロットリーダーが主で、カウンセリングテクニックは、タロットリーディングをスムースに進めるための一技法としている)という位置づけをしています。
しかし、中には、もともとカウンセラーをしていて、そこにタロットなどを取り入れるという人もいるでしょう。
あるいは、カウンセラーという名称や中身ではなくても、たくさんの技術を用いて、人の問題や悩みの相談に当たるという人ならば、タロットというものは、その補助道具のひとつということになります。
タロットリーダーがメインであるならば、あくまでタロットカードの象徴性や示唆が中心となり、クライアントの話を受け入れ、心情に配慮するということはあっても、タロットから伝えられることを言うのが目的となりますので、時には厳しいこと、クライアントが聞きたくないようなことも述べることがあります。
けれども、カウンセラーという立場が中心であると、カードは一部の参考に留め、あくまでクライアントの心の負担の軽減、治療に重きを置き、その過程では、タロットに出ていることをそのまま伝えるということはしない(段階を踏んだり、趣向を変えたりする)場合もあるでしょう。
このあたりは、自分がタロットリーダーなのか、カウンセラーなのかで、似ているようで違うところがあります。
それでも、人は論理だけでは生きていませんので、人の相談を行う以上、心や感情に配慮していくのは当然となり、その結果、タロットリーダーがメインと言えど、カウンセリングやコミュニケーション技術を使うことがあるわけです。
ところで、「公認心理師」という心理職の公的資格の試験が、去年から実施されています。
これまでも、民間の臨床心理士の資格などありましたが、いよいよ、公的な資格として心理部門に出てきたということです。
すると、カウンセリングという定義や名称も、このような公的な心理関係の資格をもった人が使うことに限られることになるかもしれません。
安易にタロットを使ってカウンセリングをしています、などと言えない(今の使い方も注意する必要があると思いますが)時代は来るでしょう。
人の心を扱うのは、何の勉強も実践もしていない素人では危険を及ぼすこともあります。
しかし、その反面、私自身も神経症やうつ病など、心の病で経験しましたが、理論を学んだ専門職の人であっても、例えば大学院を出て社会経験がほとんどない頭でっかちの人のカウンセラーでは、問題が軽減したり、癒されたりするどころか、かえってその時間は苦痛だったこともあります。
案外、アカデミックな心理関係の人より、民間の自称資格のカウンセラー、占い師さんに癒され、快方に向かうこともあります。
それに、民間の治療的カウンセリングは、一般的になかなか高額で、回数がいるのが普通です。
カウンセリング効果が不確かであるように思えることも少なくなく、一般の人がそう簡単に受けられない現状もあります。
とはいえ、これからはもっと心理職の人の制度や資格の整理も行われ、タロットをしている自分がいうのもなんですが、「タロットで(心理)カウンセリング」など簡単に言えないようになるほうがよいと思います。つまりはきちんとした住み分けが重要だと言っているのです。
そして、多くの人の心がもっと楽に、解放に向かうように、まともな心理の相談が受けられやすくなり、同時に、いろいろなレベルの相談フィールドもあっていいと思います。
これから、他人に向けてタロットリーディングを行おうとする人、タロットを使って相談をして行こうとする人も、自分が何を行っているのか、何をしたいのか、自分の立ち位置を探り、人を惑わしたり、怪しいものと思われたりしないように、活動していくことが求められるでしょう。
「占い」というものも、身近な相談場所として、残っていくとは思いますが、経済原理にさらされているからとはいえ、アテモノ的なもの、ただ吉凶的なものを占うだけのものから、もっと高いレベルへと、目的意識を変えたものへとシフトしていく時代になってくるように思います。
結局、最後には、タロットも他人に使うというより、自分に活用するようなことに変化していくのかもしれません。
私自身は、すでに何年の前から、そうした(自己や社会、霊的な成長としての)もの(目的)を中心にして、タロットの活用を考えています。
ボランティアタロットリーディング
タロットを習う人の目的のひとつに、人に対してタロットリーディングやタロット占いをして、役に立ちたいというものがあります。
たいていは、自分がリーディングを受けて、その体験がすばらしかったからとか、すごく救われたとか、自分が変わったり、癒されたりした経験があって、自分もやってみたい、できるようになりたいと思われることが多いです。
そして、人に提供するタロットリーディング・占いは、それをビジネスや営業として有料で行うのか、無料やそれに準ずるボランティア的な形式で行うのかという分け方ができます。
好きなことを仕事にしたいという人は、タロット(リーディング)が好きであれば、当然前者の、有料でビジネスとして行うという選択になってくるでしょう。
ただ、現実的なことを言えば、令和になったこの時代でも、いまだ競争による経済社会であり、有料で営業していくとなると、それなりの努力や覚悟、さらには自分のサービスを買ってもらうオリジナリティと工夫など、タロットのスキルだけでは不十分なこともあります。
そういう意味では、タロット一本で稼ぎ、経済的基盤を持つ仕事にできている人は、正直、かなり少数だと言えるでしょう。
従って、安全策と言いますか、補助的なやり方として、経済的には別の仕事を確保し、タロットはその仕事の休日や余暇を利用して、サブで行うという方法があります。
しかし、このやり方で、いつかタロットメインに移行させようとするにしても、よほど計画的にやっていかないと、つい通常の(経済確保の)仕事に追われ、心身疲れて、余暇は普通にリフレッシュしたり、遊んだり、休養したりする時間になり、結局タロット活動ができなくなるというループにはまることがあります。
タロットをすることが、その人にエネルギーを与え、休養にもリフレッシュにも真になっているのなら、やがてタロットメインに移行させていくことも可能かもしれませんが。
あるいは最初から掛け持ちでやる、ふたつの仕事という生活サイクル、ライフスタイル自体を目的とすることも考えられます。
ということで、タロットリーディングを有料でメインの仕事にしていくというのは、そのような目的を最初から持って、いろいろと考え、実行していくことが必要かと思います。
まあ、運と実力を頼りに、がむしゃらにやっていっても、やれる人はやれることもありますが・・・そんな人もやはり少数でしょう。
これとは違い、そもそも有料での営業、ビジネス、仕事にタロットはしないと決めて、ボランティアや生き甲斐、趣味の延長としてやっていくという方法ももちろんあります。
むしろそのほうが気分的にかなり楽で、自分の学びになることもあります。
前にも書きましたが、自己研鑽、自己洞察、自分の成長にタロットを使う目的の人であっても、できれば、他人に対してタロットリーディングをしてほしいと私は思っています。
というのは、自分だけでタロットを見ていても、なかなかよい発想が出たり、刺激を受けたりすることが少ないからです。まさに独りよがりの思考に陥ることがあるからです。
それに、この世界の仕組みにおいて、自分の見ている世界と、他人から見られている世界というふたつがまずあり、その統合的な行先に、私たちが(霊的に)認識しなくてはならない境地の入り口があると推測されるからです。
ということは、他人からの視点も意識したり、経験したり、想像したりする体験が求められるのです。つまりは、それが他人リーディングで養われるというわけです。
そのほか、他人のことをリーディングするというのは、少なくともコミュニケーションがタロットと自分だけではなく、自分とクライアントという人と人の世界にまで広がりますから、引きこもりのような状態にはならず、現実・社会との接点もできます。
タロットなどをする人は、人に敏感な人や、現代社会の人付き合いに疲れ気味の人もいます。疲れたら、籠って休む、自然の中で過ごすということはよいことで、これはタロットの「吊るし」などにも象徴されていることです。
しかし、ずっとそのままでは、逃避になってしまい、ますます人や社会とつきあうのが怖くなり、自分に強固な卵の殻を作ってしまうことになります。
タロットや錬金術の象徴にも、ある卵の世界から孵化しなくてはならないことが語られます。自由に空(宇宙)を飛べる鳥になる必要があるのです。
他人をリーディングすることは、他人の卵の殻を破ってあげる力になることでもあり、逆に、自分自身の卵の殻も、人につついてもらい、破ってもらえることになるのです。
他人の悩み・問題は、タロットリーダーとしての自分の経験とは違うのが当たり前です。それは、この世界が誰一人として、まったく同じ人がいない個性の世界だからです。
従って、人の話を聴くことは、自分の世界を広げることにもなります。
と同時に、タロットを通して見た場合、象徴として、別の体験でも同じ本質が共有できてきます。
人に起こっているそれ自体は、人それぞれですが、悲しみ、苦しみなど、人として、皆、同じ感情や思考の本質を味わっているのです。それがタロットを使った相談の場合、自分にわかるのが大きいです。
いわば、他人の体験を通して、自他の世界をシェアリングしているのです。それはお互いの成長や癒しにもなりますし、救済にもなります。(互いの智慧や経験を出し合い、相互に救いあう、カードの「節制」の象徴)
不思議なことに、他人リーディングは、自分の今の問題と関係する人がやってきます。要は質的に同じ悩みや問題を抱えた人が、あなたの分身として現れるようなものです。
たとえリーテイングがうまく行かなかったとしても、カードを展開する時、お互いに何らかの示唆はある(与え合うの)です。言い方を換えれば、そこには、なにがしかの縁が働いており、出会う理由があるのです。
ボランティアリーディングは、経済的なことをあまり考えずに行えますので、競争的なものに自分が巻き込まれずに済みます。
だから、純粋に人に対してタロットリーディングを提供することができます。また、稼がなくては・・・という思いがないですので、自分の心にも余裕ができます。
ということで、ボランティア的な他人へのタロットリーディングを活用することで、タロットを自分の成長に役立てることができるわけです。
これはすでに述べたように、仕事にする目的とは、また別の他人リーディングです。
タロットを習って、自分に活かしたいという人、有料や仕事ではないボランティアリーディングをやってみることをお勧めします。
一方、仕事にしたいという方は、タロットスキルを磨くのは当然で、それがスタートラインだと思ってください。
他人からお金をいただくわけですから、お金を支払ってもいいと思えるレベルのリーディングができるのが当然です。そして、それはプロとしてやる方の当たり前のもの(レベル)です。
タロットを仕事として成立させるには、そこからプラスαが必要です。
それはタロット(のスキル)というより、自分としてのウリとか個性とか、提供方法のやり方などに関わってくるでしょう。別スキルと言ってもいいかもしれません。
タロットを仕事にするために、そのような、タロットとは別のことでも楽しく、あるいは苦労もいとわず頑張っていこうとやれるかどうかです。
面倒だなとか、好きなタロットなのにいろいろと営業宣伝したり、集客の工夫をしたりしていくのはやりたくないなあ・・・みたいに思っていては、普通に雇用される仕事をするほうが経済的には安定しますし、よいかもしれません。
好きだからこそ、それで稼ぐこと、仕事にしていくためのことは苦にならない、楽しい、やってみる価値はあると思える人は、仕事としてやっていける可能性があると思います。
また特別な人の場合、人助けの仕事として、何らかの使命が与えられ、自分の思いより、環境が無理矢理にでも、その方向性(人助けの仕事に向かうよう)に仕向けられることがあります。霊的な存在を感じる人とか、サイキックな能力や血筋の人には結構あります。
自分の強固な意志と実行で仕事にする人と、自分の思いとは別の強い何かのもの(存在や意思)の働きで、タロットを仕事にする人があるわけです。
いずれにせよ、自分の人生は自分のものです。どのようにしようと自分次第です。
タロットを仕事にするのか、ボランティア的にやっていくのか、自分のライフスタイルや目的に応じて、臨機応変に考えてみましょう。
数の関連性で読むリーディング例
マルセイユタロットには、数がふられているものがありますが、その数はローマ数字で表されています。
数字は、ただその数・ナンバーを示す記号的なものだけではなく、象徴としての意味も含まれるところが重要です。
数を象徴として見るというのは、簡単に言えば、例えば、私たちが“ラッキーセブン”と言って、「7」に特別な感じを持たせているのと似ています。
つまりは、番号とか数量のための意味だけではなく、何かしらのシンボルになっているということです。
ということは、マルセイユタロットのローマ数字は、「絵」として考えることもできるわけです。
そこで、絵として見た場合、同じ形のものを含む数は、共通のシンボルを含むという考え方ができます。
例を挙げれば、「5」という数は、ローマ数字では「V」になりますが、「15」においても、「V」が入っているため、「5」としての共通の意味合いが出るということになります。
もっとも、この場合は、算用数字の「5」という文字が「15」でも見えるので、ローマ数字でなくても同じことは言えます。
しかし、例えば「19」だとしても、ローマ数字では「V」が入ってきますので、一見、算用数字では関係なさそうな数同士でも、ローマ数字の文字を象徴として見ると、何か関連性があるものと、とらえることが可能になります。
そういう意味で観察しますと、マルセイユタロットの「運命の輪」と「審判」は普通の(算用)数字で言いますと「10」つながりで、ローマ数字では「X」の文字つながりと言えます。
通常、マルセイユタロットの審判の意味は、中央人物が箱(棺)のようなものから立ち上がっていて、大きな天使がラッパを鳴らしているその絵柄からして、復活とか再生、気づき、覚醒などが言われます。
天使のラッパによって目覚めたのか、覚醒したことにより、ファンファーレのように、新たな誕生の祝いを天使がラッパで鳴らしているのか、それは両方解釈できるかもしれません。
いずれにしろ、何らかの目覚めがあると見られます。
ここに、先ほどの数の関連で、「運命の輪」と照らし合わせてみます。
絵柄的には、ほとんど共通点は見られません。
ただ、注意深く見ると、マルセイユタロットの版にもよりますが、色などにシンクロ性が見て取れることもありますし、「運命の輪」も、「審判」も、三匹の動物・三人の人物という似たところはあります。
ここは絵柄そのもののよりも、そこから見い出せる意味合いとしてのシンボルの共通性を見ていくほうが、数つながりではわかりやすいです。
「運命の輪」は、詳しくは言いませんが、「時間やタイミング」の象徴性が強くあり、そこから見ていくと、「審判」にも「時間やタイミングに関わる何らかの象徴性があると考えられます。
逆に、「審判」の「覚醒」的な意味合いが、「運命の輪」においてもあるのではないかと推測することも可能です。
それが、先述したように、「10」という数のつながりがあるので、その数の意味も関連させて、両者を結び付けると、その違いと共通性が浮かび上がるわけです。
例えば、「10」には完結するという数の意味があります。何かの終わりと、また新たな始まりを示唆すると言ってもよいでしょう。
ということは、時間やタイミングにおいて、「運命の輪」も「審判」も、そうした終わりと始まりの象徴性があると読むこともできますし、同時に、そのニュアンス、レベルなどが、双方では異なるのではないかと想像することも可能です。
果たして、「運命の輪」のタイミング、「審判」のタイミングの違いは何なのか? そういうことを、「10」の完結性において考えるのです。
あるいは、覚醒における、「審判」と「運命の輪」の違い、そのタイミングの次元やニュアンスの違い・・・こうしたことも考察すると、数つながりによるカードの読み方にも幅が出ることでしょう。
すると、実践リーディングにおいて、「運命の輪」が出るのと、「審判」が出るのとでは、時間やタイミング、覚醒の意味合いにおいて、違いを考慮しながら、適切にリーディングできるのです。
それは具体的な例示になると、スピードや処理効率、情報を得るレベルの違いについて言及することができ、小アルカナも駆使して、お互いに(リーダーとクライアントが)話し合うことで、かなり密で、その人(クライアント)にとって実際的な意味が出てきます。
いわば、一枚のカード(の意味)は、ほかの関連あるカードによって、さらに個性的・目的化される(よりはっきり意味がわかる)わけです。
ですから、常に、カードは単体だけではなく、全体やユニットとしての構成を見て省察しておく必要があるのです。
マルセイユタロットは、このように絵柄だけではなく、数も含めて、膨大な知識と情報の関連性よって成り立っており、それを読み解くことで、私たちの問題の解決、浄化、覚醒に活かすことができます。
ただ、実践においては、あまり知識や細かいことにこだわり過ぎると、せっかくカードの象徴としての情報がありながら、まさに木を見て森を見ずのようになってしまい、出たカードによる、全体としての意味合いや本質が、なかなか把握できないジレンマに陥ってしまうこともあります。
こうしたことにならないように、カードを頑張って読もうとせず、カードからの声を聴くかのようにカードに自分を委ねてみる、または、自分の直感を大切にするということも、タロットリーディングには大切な姿勢になります。
そして直感や霊感みたいなものに頼り過ぎても、それはしょせん人間レベルのものですから、日時や場、体調によってブレがあります。言ってみれば、アンテナの受信状況に、混信が多い日と、クリアーな日とがあるようなものです。
その混乱をフォローしたり、判定基準が不安定にならないようにしたりするため、象徴の知識的なものを学び、その関連性を発見していく意味があるのです。
人には自分の得意な読み方(読みのタイプ)があるのが普通ですが、それに偏り過ぎず、バランスを図っていくことも、タロットを使う時には考慮しておくことと言えます。
タロットリーディングとストーリー(物語)
人は、自分のストーリー(物語)で生きていると言えます。
それぞれが自分の培ってきた価値観、善悪、良し悪しの基準などによって、起こる現象に判断を下しているので、当然一人ひとり違ったものの見方になり、それに伴う行動も異なってくるわけです。
そして、導かれる結果も違います。
また、そのプロセスと結果についても、また個人別で見方・価値が違いますので、まさしく、その人のストーリーで人生が組みあがっていくことになります。
ストーリーはストーリーであるだけに、書き換えることも可能なわけです。
もしかすると、土台や大きなスクリプトのようなものは決まっているのかもしれません。しかし、細かいとところや、演出は変えることができると考えられます。
このストーリーは自作自演(笑)なので、物語の当事者・主人公としての(演技をしている)自分と、それを見ている観客としての自分もいるわけで、そのどちらも変えることは可能と考えられますが、特に観客側の立場として見た場合、そのストーリーに何の意味を見出すのかなど、物語の観点・捉え方によって、ストーリーへの価値の変化も大きいかと思います。
さらに言いますと、演技者や、どっぷりストーリー・物語に浸かっている観客とは別の、さらに第三者的な観察者とでも申しましょうか、そういう者が、ストーリーを俯瞰し、ストーリー全体を透徹した目で見て、この物語が演じられるそのこと自体を評価している(別の表現で言えば、愛している)という気もします。いわば、自分自身の中の高いレベルの存在、魂のようなものでしょうか。
マルセイユタロットは、その第三者の視点にまで、自我と自己を上昇させていこう、連れて行こうとするものでもあります。
その途中では、自分自身に見られている状態であることに気づく必要があります。
人は、特に問題状況にある時、自己の演技ばかりに集中しています。
これはいい意味での集中というより、むしろ、悪い意味の集中になっていて、他人から自分(の演技)はどう見られているか?ばかり気にし過ぎて、観客としての自分を忘れているようなものなのです。
つまりは、他人の評価や、他人との比較によって、自分の人生を判定しており、それがために、自分を見失い、自分の力、いや自分の人生そのものを、仮の観客のためにささげている状態と言えます。
しかし、その観客は幻想であり、これまた自分が生みだした、自分の思う他人や社会の集合的な観念のようなものです。戦いで言えば、仮想する敵ですが、実在しているわけではなく、あくまでイメージの中の存在です。
すると、自分の演技・ストーリーはこうあらねばならない、こうすべきだという強迫観念にも似たようなことになり、とても苦しい状態が続きます。
もっとも、これは必ずしも悪いことばかりではなく、仮想の他人としての観客を置くことで、自分を律したり、目標に向かっての努力や行動を、一時的に強化したりすることもあります。
他人に褒められる自分、評価される自分に満足するわけてす。しかし、それは実際に評価されたとしても、ひと時のものであり、その評価を永続させようと、あるいは、もっと評価を得ようと、頑張る必要が出てきて、結局、評価の飢餓感に苛まされることになります。
ですから、ここで、自分自身が観客にいたということを思い出すことです。
これはあくまで自己基準からの評価ですので、どれだけの演技でよいのか、物語がどの程度なら満足するのかなど、自分で決めることができます。
自分がよしとすればそれでいいのです。ここで重要なのは、自分がよしとするためには、やはり他人の観客目線をもってきての相対的な比較をしないということです。
あくまで、自分としてはどうなのかというところが大事です。
ただ、やはり、そうは言っても、そもそもこの「観客としての自分」がよくわからないところもありますし、いくら自分で決めると言っても、しょせん、自分というものは、外の人や社会がいてこそ、自分としての個性がわかるものなので、どうしても比較的なものは出ます。
また、自我による良し悪しの判断もありますから、自分の演技については、結局、自我の(エゴ的なものの)都合によってしまい、観客としての自分のわがまま(欲求)から、演技者としての自分を苦しめてしまうことがあります。
この状態を表すのが、私の使うマルセイユタロットリーディングにおいての、一次的展開における展開(第一次作業による、タロットを引いて並べた)図面になります。
一言で言えば、問題(として思っている)状況を示す展開図と言ってもいいでしょう。
これは先述したように、演技者としての自分と、観客である自分、それに幻想として観客集団(他人目線の)からの要求の統合が図れず、それぞれがバラバラに主張し合っている、もしくは、気づかない状態で、それぞれの立場だけで、はまってしまっている様態と言えます。
そこで、第二次的な展開を、タロットでします。
この作業は、上に書いた、魂的、第三者的観察者を設定するのに似ています。
要するに、舞台監督、または企画・プロデュースしている者のような目線を作るわけです。
こうすると、それぞれの立場を俯瞰して見ることができますので、その調整と、うまく行けば統合を果たすことができます。バラバラだった視点が、ひとつの俯瞰者による観点で、まとまっていくわけです。
タロット的にいえば、細かな調整については、小アルカナを使うことになりますし、第三者的統合的観点の創設には、大アルカナが活躍します。
ただし、タロットの意味を覚えたり、タロットを引いて出たカードの意味を読んだりする、一般のタロット占いやリーディングとは違い、タロットを引かかないで見ると言いますか、もともとのタロットの構成と象徴を骨子(モデル、イデア)とする基準があり、それと、実際に引かれたカードの意味合いを兼ね合わせることで、こうした、いくつもの視点を切り替えながら、俯瞰するという技法を成り立たせることができます。
やっていることは、自分のストーリー、物語を複数の観点から見て、変えられる部分は変えて、自分自身で自らのストーリーを調整して、生きやすくしていくこと、人生をエンジョイ(と言っても、一般的な意味だけでの楽しいということだけを意味するのではありません)したり、充実感を覚えたりしていこうというものです。
究極的には、自分が納得すればOKというのが、自分の人生です。
ならば、納得感をどのように得るのか、というの一番の課題になります。
表(起こった現象、起こした出来事)だけで納得する人もいるかもしれませんが、たいていは裏(起こったことの意味合い、俯瞰・統合する視点)も知らないと納得できないものです。
時系列では、過去には、悔やみや囚われが多く、未来には不安と、やはりここにも囚われがあります。そうしたものが現在の自分の思考・感情として「今」の状態、気分を作り出しています。
それは、納得感ということで言えば、過去も未来も納得できないものがあり、それが今・現在を納得させなくしていると言えます。
だからこそ、今の問題をきかっけにして、自分の人生を過去も未来もストーリーとして俯瞰し、いろいろな立場の自分を見て、調整していくことで納得感を出し、新たなストーリーを創造していくとよいのです。
マルセイユタロットの絵柄は、あえて平板で、普遍的な絵を採用することで、ストーリーを見るには、とても適したものとなっています。
絵を見るだけで、私たちが、人生という絵巻物を演じていることを実感できるのです。