リーディング技術・内容
物語・ストーリーによる遊びと救済
セラピー効果(セラピーの必要性)というものを考えると、そのひとつの大きな要素・鍵に、人が思う(考える)ストーリーがあると言えます。
逆に言えば、人は自分の信じた物語・ストーリーによって苦しめられており、その書き換え、消去、または物語の意味、さらには物語を構築する背景、システムがわかれば、それがセラピー(癒し)になる場合も多いわけです。
自分の信じ込みというのは、現実の生活をする人間においては、避けることができません。
無思考、無関心、無感動で生きていくのは、ロボットでもない人間には無理なことだからです。
ということは、私たちは、思い・考え・感情の出るその一連の動きによって、ある物語(として)自分の中にインプットし続けているわけです。
思考と感情は、自分の持つ価値観・基準、いい・悪い、快と不快(これは肉体的・生命維持的なものからも出ます)などによって、さらに意味づけが強くなり、つまりは自分の思う物語のカラーも強まることになります。
人生を楽に生きるには、こうした思考と感情に影響を及ぼす、自分の価値観、線引き度合いをあいまいにし、究極的には何でもOK、どんなことも意味はないみたいになればいいわけですが、普通、それは難しいものですし、それが行きすぎると、人生の色というものがなくなり、波の起伏を感覚として味わうことができず、特に感情的にはつまらないものとなるおそれもあります。
ひとまず、このことは置いておきまして、人の思う自分の物語・ストーリーとセラピーの関係について見てみてましょう。
(狭義の)スピリチュアルや精神・心理系の世界においては、前世や時代を超えた記憶との関連、さらには国や地域、地球という規模を越えた、宇宙の星々との関係で見る物語というものがよくあります。
そこまで範囲を広げずとも、心の中の思いの世界、つまり心理次元で見ても、人は生まれた時からいろいろな思いを、潜在的なものも含めて溜め込んでいます。それが自分の物語、ストーリーとして自分に影響しているわけです。
自分一代(顕在と潜在の意識の自分)にしろ、前世や未来世、果ては、ほかの星の魂や心、生命体、並行次元の自分や他人などにしろ、「自分」を中心として作られている「あるストーリー・物語」があり、その一部を今、自分は自覚して生きていると見ます。(全部は見ていない、信じていない)
ここで、今の自分が何か苦しい状態、問題状況にあるとした場合、その人は今まで信じていた自分の物語(経験・体験・学習による、事実から受ける思考と感情の物語)のままでは、そのストーリー世界に閉じこめられ、ループしてしまうおそれがあります。
そのため、自分を救う(自分が救われる)には、その物語が信じられている時空間から脱出する必要があります。
これはなかなか自分だけではできないもので、他人の助け、あるいは自分だけでやるにしても、全く別の視点がいるわけで、これまでの同じ材料、舞台で、全く別の物語も演じられる(演じられていた)ことに気づく観点の変換が求められます。
自分の思っていた、信じていた物語は、実は違っていたんだとか、または、こういう世界観で見ると、この物語はこのようにも見えてくるんだよとか、そのような物語(視点)への転換です。
たとえば、過去世(データ)という観点を入れることで、自分とあの人は、前世では「なになに」の関係であって、だから、現在のあの人と自分はこのような関係と問題として現れ、その浄化のために起きていたとか、この今の自分の問題は、現実レベルで見れば苦しいことではあるけれど、スピリットのレベルからすれば、大きな恩恵とあなたの救済になっているとか、あなたの祖父が思い残したことがあなたの家系に思念データとして残り、それをあなたが受け持つことになったので、その祖父と家系(因縁)の調整のために、あなたは自分の仕事の問題として、今それに向き合っているなど、そのような、ある「物語」として見る考えです。
言ってみれば、「今語ろう、あなたのこの問題が、別の物語から来ているということを」という感じでしょうか。
その物語が事実であるかどうかよりも、その新たな解釈の物語や、自分の知らなかったストーリーによって、今の問題が楽になったり、癒されたりすれば、それはセラピーとしての「物語」となって、その人には有効であるのです。
しかし、もっとも大切なのは、どんな物語であれ、その人にとってリアリティ(現実感)がなければ、あまり効果はないということです。
深く言えば、リアリティをその物語に感じることそのものに実は意味があり、新旧物語ともども、すべてを宇宙に返すようなイメージとして、物語自体があなたという存在に憑依していたものとみなすことができるのです。
それは物語の霊と遊び、戯れ、あなたの魂も楽しむという過程と言ってもいいでしょう。
ですから、一時的にはある物語によって救われたとしても、それ(あなたに救いをもたらせた、あるストーリー)さえも気にならなくなるのが、最終的には大事なことになります。
一枚引きの活用あれこれ
タロットの展開法、スプレッドでもっとも少ない枚数のものは、一枚引きというものになります。
実は、タロットを引かないエアータロット、エアータロットリーディング(笑)というのもないわけではないですが、これはタロットの図像を、完全に一枚一枚イメージできるくらいになっていないと難しい技です。
ということで、実際にカードを引くという意味では、当たり前ですが、一枚引きが、枚数的には、もっともシンプルな展開法となります。
しかし、だからこそ、実は一番解釈が難しいものと言えるのです。
それは情報(量)がたった一枚しかなく、そこにすべての象徴性を見出さないといけなくなるからです。
これに、正逆のポジションの意味の違い(解釈の取り方の違い)を設定として入れると、ポジション別という新たな情報が加わりますので、まだ読みやすくなります。
ただし、以前の記事ではありませんが、展開法のルール設定として、ポジションの正逆を最重視するのか、引かれたカードの象徴性を優先するのかの違いをはっきりしておかないと、かえって解釈が難しくなります。
いずれにしろ、一枚引きというのは、それくらい、特に何かの判断をつける意味では、難易度が高い展開法なのです。
ただ、もちろんよいところや、易しく解釈できる点もあります。
まず、タロットの初心者においては、カードとなじむ、カードと遊ぶ、仲良くなるという過程では、最初に大いにやってもらいたい技法でもあります。
また自分(の心理や見えない意識)を投影して解釈する第一歩(入り口)としても、複数のカードを出すより、一枚をシンプルに引いたほうが、鏡として見やすいことも確かです。
さらにオラクル・託宣、自分への強いメッセージとして、一枚引きを行う方法もあります。
実際のリーディング場面においても、本格的で複数の枚数が出る展開法とは別に、最初か最後、クライアントへのメッセージ・託宣として、一枚カードを引いてもらうことで、勇気や決断の後押しになることもあります。
人はあれこれ、複雑に色々と言われるよりも、単純にただ一言、「こうです」と言われたり、あるいは「これ」といった画像・シンボルをひとつ見せられたりしたほうが、しっくり来ることがよくあるものです。
この点は、タロットリーディングの進め方としても、あまりにたくさんのことをクライアントに言い過ぎ(カードを読みすぎ)て、かえって混乱させたり、「結局、私何をするんだったっけ? 「いろいろ言われたけど、どの選択をすればいいのか、かえってわからなくなった・・・」みたいにならないよう、言い過ぎ、解釈のし過ぎには注意することと関係します。
託宣、メッセージ的に一枚引きを行う時は、解釈もシンプルにし、そのカードのキーワードのような言葉(意味)を言ったり、受け入れたりすればよいです。いわば、記号(一言)的な読みで十分です。(いろいろな意味を言い過ぎると、かえって託宣としては機能しません)
それと、これは自信のない時や、不安があるような時に、皆様におすすめしますが、守護(護符・タリズマン)カードのような形として、一枚引きをし、そのカードが、自分の夢や望みを実現させるために後押ししてくれる、勇気を持たせてくれる、エネルギーを送ってくれると見て、いつも目に着くところに置いたり、実際に持ち歩いたりしてもよいでしょう。
「護符カード」として活用する場合は、リーディング時に使用するカードとは別にしたほうがよく(持ち運ぶ場合、カードを一枚抜きますから、セット枚数が足りなくなることと、リーディングとは違う扱いとしてタロットカードを使用するため)、さらに、吉凶カード的な解釈をいつもカードにしている人は、凶カード的なものは、もちろんその人の護符にはなりません。
ですからカードをフラットに見ることができる場合において、一枚引きをしての護符になりえます。
どうしてもカードに吉凶的なイメージがついている人は、自分が吉だと思うカードを選択して護符カードにするか、吉として思うカード群を選び、「今の自分に必要なカード、守ってくれるカード」という意識でもってカードを一枚引きし、その出たカードを護符として持つという方法がベターでしょう。
もちろん、フラットに見ることができる人でも、カードを引かずに、一番よいと思われる(目的に沿った)カードを自分で選んで、護符にするということは可能です。
ただ、実際にシャッフルして引いたほうが、偶然性からの必然性が生まれますので、その神秘性からの心理的効果は高いでしょうね。(それだけ特別な意味を、引いた人に持つ)
当たり前ですが、どの技法においても、まずはタロットへの信頼がないとできないことです。
ですから、一枚引きをして、自分に関係することが出ていると読める、感じる過程を経ていくことも重要で、それによってタロットとの関係と信頼関係が結ばれ、たった一枚でも強い印象と効果を残すことができるようになるのです。
タロットリーディング時の設定・ルール
タロットカードは、絵図であらゆることを象徴するカードとなりますから、実は様々な解釈ができ、言ってみれば、見る人によって違ってくることも多々あるわけです。
そうした個人の見方の違いもあるのですが、タロットをリーディングする時の設定によっても、解釈や読み方が異なってくるのです。
カードの絵柄自体は、カードを引く時に変わるわけではもちろんありませんから(笑)、引く度に、読み方がもし変わるとすれば、それは見ている人間のほうの意識が変わっているか、引く時の環境や設定が変わっているかということになります。
つまりは、カードそのものではなく、人の意識としての内側か、カードを引いたり読んだりする時の設定(外の環境・ルール)が変化しているわけです。
心というものは変わりやすいものなので、なかなか一定の意識・心で保持・統一していくのは難しいです。
しかし、ゲームの設定のように、あるルールを決めてやると、まさに「ルール」なので、ゲームをしている間は、そのルールのもとに統一しやすくなります。
この理屈を利用すれば、タロットを読む時の設定(ルール)をきちんと決めさえすれば、読み方や解釈もそのルールの範囲に収まって、統一したリーディング感や、ある「階層」を読むのに集中できるわけです。
つまり、「“占い”で読みますよ」とか、「心のモード(世界)で読みますよ」とか、「カードが正立した時はホジティブに読み、リバースしたらネガティブに読む」とか、そういうルールを決めてからのほうが、読みやすく、統一感が出るということなのです。
逆に言えば、最初の設定・ルールがあやふやなままタロットに挑むと、あらゆる階層・世界観が混濁し、「こうも読めるし、ああも読める」「いったい、このカードはどんな風に解釈すればいいのか・・・」「よい方に見るべきなのか、悪いこととして考えたほうがよいのか、どちらだろう・・・」みたいな悩みになってしまうわけです。
設定が明確でない場合、シンプルなカードの引き方(展開法・スプレッド)になればなるほど、解釈も余計難しくなります。
たとえば、正立で出す一枚引きのやり方。
これだと、一枚にすべての要素を読まないといけなくなるうえに、カードのポジションが正立しかありませんので、ポジションでの意味の違いも判断できず、特に何かをすることについての良し悪しを問う質問に対しては、どう答えればいいのか、なかなか簡単にはいかないと思います。
これが、例えば、リバース・逆向きで出た時は「ノー」ということになる、正立では「イエス」になるとか、いい意味・悪い意味を、あらかじめ、それぞれのカード別に決めておくとか、ある明確なルール決めをしてからだと、解釈もわかりやすくなるのがわかると思います。
このルール決めや設定を、タロットをする側(クライアントがいる場合はタロットリーダー側)がどれほど守られるか、強力な設定の場所として意識できるかによって、タロットの出方が変わります。
出方が変わるというより、自分の意識に影響されて出るということです。
ですから、設定は決めたものの、自分の意識が、その他のいろいろなルールを入れてしまっていると、タロットの出方、その読み方も揺らいでしまうのです。
さきほどの例でいえば、正逆でイエス・ノーを示すという「場面設定」「ルール」の世界を強く思ってタロットを引いた時、正立だったらやはり本当にクライアントにとってはイエスであり、逆だったらノーであるという、現実への関与・影響がリアルになるのです。(現実の意味で、カードが当たりやすくなるということ)
これが設定に揺らぎを思ってしまうと、正立でもノーの要素を見てしまいますし、その逆もしかりです。ですから、結局、タロットの出方も微妙になり、解釈もどちらとも取れる・・・みたいになる(読むほうに揺らぎが出る)のです。
※ただ、言っておきますが、タロットでイエス・ノーの世界設定で引くことそのものが、あなたの成長につながるかどうかは別ですが。一時的な落ち着きとしては使える方法でしょうか。ここではイエス・ノー引きの良し悪しとか、その技法を、どう自分に活かすのかの論点ではないので、今回はふれません。
ともかく、タロットリーダーは、自分の使う展開法・スプレッドのルールというものをよく意識しておくことが重要です。
タロット研究家でマルセイユタロット実践者の映画監督、アレハンドロ・ホドロフスキー氏もおっしゃってますが、タロットリーディングは、ある種、クライアントとリーダーが臨む「ゲーム」であり、ゲームであるならば、そのルールをきちんと理解し、両者が守らないとゲームは成立しないのです。
特にゲームに招待している側のタロットリーダーは、設定とその世界観を明確に作ること、守ることに疎かになっては、タロットリーダー自身がタロットをうまく読めなくなってしまうでしょう。
また付け加えておきますが、あくまでゲーム世界のルールなのですから、どの展開法やスプレッドが優れているとか、正しいとかというものではなく、そのゲームを成立させるための設定・ルールであり、ゲーム種類の違い(つまりタロットの種類の違いやリーディングスプレッドの違い)によって変わるだけで、そこに優劣、良し悪しはないわけです。
あるとすれば、どのゲーム(とゲームルール)を選択するのが、もっとも楽しく遊べるかということで、もちろんこの場合の「ゲーム」とか、「楽しく遊ぶ」ということは比喩であり、その時、もっとも充実したり、納得したり、効果があったりする、「リーディング」のためのルールや選択ということです。
タロットリーディングのレベル
タロットを一番簡単なレベルで読むとすれば、単純に、一枚一枚に意味を記号的にあてはめるようなことが考えられます。
まあ、ただ、この方法だと、極端にいえば、自分で白紙のカードに、「進め」とか「止まれ」とか、「耐える」とか「楽しむ」とか「お金」とか、何か言葉(意味)を書き込んで、質問に対してそのカードを引くというやり方でも同じだと言えます。
つまり絵柄の象徴の意味は、ほとんど考慮されないということです。この方法を取る場合、わざわざタロットを使う必要はないでしょう。
それでも、いわば「言葉」のオラクル(託宣)みたいに考えると、これはこれでシンプルで、強烈なメッセージと言えます。
ただ、先述したように、こうしたやり方をしたい人は、タロットを使う必要はなく、自分でカードを作ったほうが面白いとは思います。自分が作った(カードに書いた言葉の)メッセージと、その(言葉が書かれている)カードを引いた偶然性が合わさると、余計に強さが出るからです。
次に易しいレベルで言えば、タロットに吉凶の判断をつけて、解釈するというものになるでしょうか。
カードによってよいこと・悪いこと(という状態である、ということが起こる・・)と判断するものです。
占いの世界では、結構この読み方をしていることもあります。
人は良し悪しとか、吉凶とか、何か白黒はっきりするものに安心する(悪いことだと出ても、「悪い」とはっきりしたことで安心する部分もありますし、それに対処しようと心構えもできます)傾向があり、そのため、これがよいことなのか、悪いことなのか、タロットにおいてもはっきり提示してもらったほうが、「答え」を知った感覚になって、納得するわけです。
しかし、一方でこの方法は、簡単だからこそ、実は大きな問題点・危険性もあります。
その最大のものは、カードを全体性を通して考えることができないというところです。言い方を換えれば、統合的観点を持つことが難しくなるのです。
(もうひとつの大きな問題点は、吉凶カードの通りに、そういう事象を自分が引き起こそうとする力が働いてしまうことですが、今回はそれについてはふれません)
カードそれぞれに吉凶をつけるというのは、色を濃くすることであり、しかもその色は、例えれば白黒の二色だけです。
ということは、物事をはっきり二つに分けて見るという傾向か強くなり、何事もある線引きにより、いいか悪いかで判断し、結局、悪いと思うことは排除したり、避けたり、経験しないよう図ったりしてしまいます。
いわば、世界を一面からしか見ようとしなくなるわけです。悪いと思ったもの、避けようとしたものの中に、本当によいことはないと言い切れるでしょうか。
「運命の輪」というカードにおいても、「禍福は糾える縄のごとし」、吉凶が入れ替わってしまうこと、それぞれがそれぞれの原因であることを象徴しています。
そもそも、いい・悪い、吉凶は誰が決めているのでしょうか?
それは自分(タロットを読む人)であり、その人が持つ価値観(ルール・モノの判断の基準・拠り所)ということになります。そして、たいていそれはその時代の社会や、多くの一般の常識で思う「良し・悪し」、さらにはその基準(理論や判定のモノサシ)を作った過去の時代、人・思想の観点になりがちです。
自己の成長を図ろうとする時、既成概念や枠というものを超えなければならない場合があります。(それは破壊でもあります)
また真の意味で、解放や自由というものを追求していく時、それは自分の持っている、あるいは属している環境の価値観、規制といったものから自分を脱出させる必要があります。
それは、今まで自分の持っていた、いい・悪いの線引き、ルール、モノサシを変えることでもあります。これは一言でいえば、従来の自分が決めていた「いい・悪い」の価値観の統合であり、どちらでもない次元へのシフト・上昇です。
タロットカードに吉凶的意味をつけて、物事を判断している限り、その同じレベル・次元(同じ価値観での世界への見方)での解決・調整しか図ることができず、まったく違うレベルの対応・解決策というアイデアそのものが出ないのです。
このことは、すでにマルセイユタロットでは、大アルカナナンバーが21あるところの、わずか3番目である「女帝」が示しています。(既成のものや対立からの調和・統合に向けて、新しい発想・アイデアが必要なこと)
さて、次になるレベルの読み方になってきますと、絵柄の象徴から類推してのもの、それによる物事への考察ということから、さらにタロットカードへの心理的投影というものになってきます。
いわば、目に見える実際のことの判断だけではなく、タロットを心の問題の浮上・分析装置として使うというものです。つまりは、問題の本質が心(の中)にあると読む(心を読む)レベルです。
ただ長くなりますので、ここには書きませんが、これにも問題点があります。(しかも、この場合も、必ずしもタロットカードでなくてよい場合があります)
しかし、まさに読み方(リーディング)も、絵柄の象徴を活用するレベルになり、複雑なもの、多重な読みというものが求められる代わりに、問題の本質というものに行き当たることが多くなります。
その効果性に、タロットの真の活用はここにあると考えている方もいるでしょう。
しかし、個人的にはまだまだ読み方・活用のレベルには先があると考えています。
そのひとつには霊的なレベルの読み方があります。
こうなると、カードの象徴性は極めて高度になり、一般に言われているカードの意味とはかけ離れたものも出てくるようになりますし、そもそも普通に思うようなリーディングの行為自体が、必要でなくなってくることもあるのです。(私がこのレベルができると言っているわけではありませんが・・・)
話を戻しますが、やはり、タロットリーディング技術のレベルアップ、タロットリーディングをより活性化したいと望む場合、意味を記号的にあてはめるレベルの段階はもちろんのこと、カードを一面(ネガとかポジ、いい・悪い)で見るところからの脱却を図る必要があります。
特に、現世利益的な価値観からの視点を超えることが重要です。
それにはいろいろな方法がありますが、実は、カードからいい・悪いの意味をたくさん出すという、あえて白黒はっきりつけることから始めるやり方もあるのです。
しかし、カードに色分けしていくのとは違い、一枚一枚について、それぞれに両面性を見るのです。
すると、例えば「悪魔」というカードに対して、なかなかいい面・ポジティブな意味が見いだせないというようなことも出てきますし、反対に、ほとんどよいことだけしか思い浮かばないカードというのもあるかもしれません。
正逆のポジションでやれば、その両面を見て行きやすくなりすが、ポジション(正逆の位置の違い)で見るのは視覚的変化があるため、実は両面性が見やすく、むしろ、訓練のためには、すべて正立だけで両面を見ていくほうが難しいからこそ、統合視点(対立しているふたつのものの調和、包括した視点)をもたらすためにはよい練習となります。
大アルカナだけでも22枚ありますから、このトレーニングで、都合、22枚の両面で44の視点を得られることになります。
もうそれだけで、結構な自己分析にも、自然になっていることでしょう。
すると、カードに吉凶の色をつけていたレベル(段階)を超越していくようになり、吉凶判断していた本当の問題(これは実に恐ろしいものなのです)に気づくことになるでしょう。
「皇帝」と「月」を例にして。
マルセイユタロットの「皇帝」と「月」のカードからの示唆について、ちょっと書いてみたいと思います。
この二つのカードは、ある配列では関連するように並べられるのですが、普通に見ると、真逆のように感じるカード同士かもしれません。
「皇帝」は現実的・実践的・安定的で管理的なものをイメージさせるのに対し、「月」は幻想的・感情的、不安定でとらえがたい波のようなものをイメージさせます。
ところが、量子の世界ではありませんが、粒子と波(波動)という関係で見てみると、「皇帝」は粒子、「月」は波・波動というもので見ることもできそうです。
ということは、物事や現実というものを形で見るか、イメージ・エネルギーのようなもので見るかというのが、「皇帝」と「月」の違いと、一面では考えられます。
つまるところ、これはマルセイユタロットの見方そのものになりますが、すべてはひとつであるものを、色々な見方・とらえ方によって、カードごとに現れて(表れて)くるように描いていると言えます。
そう、「皇帝」も「月」も、正反対のようで、本質は同じ(どのカードも本質的にはひとつ)なのです。
ただ、リーディング(特に対人リーディング)というものは、私たち生身の人間と、その現実認識による実際の世界で行われます。
そもそもタロットカードというものも、物理的な紙としての形を持って、私たちの前に登場しています。
形を持ち、現実世界に認識されるということは、私たち一人一人が違う姿形を持ち、個性をもって見えているのと同じことで、別々の、バラエティあるものとして出ているわけです。
たとえまったく同じ製品であっても、細かい点まで調べれば、どれひとつとして同じ形のものはないはずです。
このように、「現実」とは、違う「モノ」が寄せ集まって見える世界であり、タロットの象徴する世界も、現実として現れれば、別々の形式(図像)をもって登場することになるのです。
「皇帝」と「月」、実際の場面では、その絵柄の違いはもとより、タロットを引いて出たカードが、「皇帝」であるか「月」であるかという違いにおいても、それは現実的な意味では、とても重要だということです。
例えば、先述した「粒子的」「波動的」な違いとして、「皇帝」と「月」の違いを考慮すれば、「月」が出た場合は、そのタロットへの問い・テーマでは、波動的、つまり、現実では形としてはとらえがたいものということで、私たちの心・感情が鍵だということが読め、「皇帝」だとその逆で、結果や成果、形として表されるものがキーとなると読めます。
ここで大切なのは、ただ単に、「カード別に、そのような意味が出ますよ」ということを言っているのではなく、本質的には同じことを象徴していても、現実世界というフィールド、または世界観の違いによっては、表現されるレベルが異なってくることで、その世界観に合わせた読みが、カードから象徴されてくるということなのです。
そして(対人援助の)リーディングとは別の、タロットを自己認識や自己解放の目的に使っていくためには、今回の例(「皇帝」と「月」の例)で言いますと、今度は「皇帝」と「月」の違いから、そのふたつを合一させるような、本質次元へと回帰する考察が必要になってきます。
これは例えば、アニメーションで描かれる世界と、私たちの認識する現実世界が、実は本質的に同じものの型でできていることの気づきに似ています。
またファンタジー小説を読んで、普通は空想世界にふけるかもしれませんが、物語の中において、シビアな現実を見るということもあり得ますし、逆に現実の世界にファンタジーのような不思議で奇跡的なことも、意識としては思うことが可能です。
「皇帝」を引いたからと言って、「月」のような読み・意味がまったく無関係ではないですし、逆に、「月」が出たからと言って、「皇帝」が無視されるわけでもないのです。
もちろん、そのカードを引いた特定性は、先述したように意味があるものですが、同時に、ほかのすべてのカードも背後には隠されており、あなたが今、実際(他人のいる現実世界)で求められる表現と、本質次元・魂の次元(すべてがひとつの世界)への導きとは、まったく違うようでいて関連していることを、そうしたタロットの全体性と、自分(あるいはクライアント)の引く特定(個別)のカードによって思い至ることができるのです。