リーディング技術・内容
タロットリーディングと言葉
タロットリーディングを行うには、カードの意味を覚えなければならないと思っているかもしれません。
確かに、カードの意味を知らなければ、形や形式としてのリーディングは難しいと言えるでしょう。
しかし、必ずしも、カードの意味を覚えなくてもリーディングは可能なのです。
逆に言えば、リーディングには様々なものがあり、意味としての言葉に頼るものと、そうでない種類があると表現できます。
また、対外的(対人的)に、人に対してリーディングを行う場合は、伝達・コミュニケーションが必要ですから、言語、あるいは文字は重要となります。
一方、自分に対してリーディングする場合、こちらは自分との対話のようになりますから、コミュニケーションの方法として明確な言葉でなくてもよく、感覚・フィーリング・直感・気づきのような、抽象的な方法で成立します。
これは、マルセイユタロットのカードで言えば、5の「法皇」(外に伝達する)、2の「斎王」(自分に受け入れる)という違い、表現として示されます。
「斎王」と「法皇」は女性と男性という姿で描かれていますので、やはり性の違いでの特質はあるものと考えられ、表現方法の得意・不得意は、性別において存在する可能性はあります。
ただし、どちらの性においても、両質の要素は内在していると見ると、性別で区別できるものでもありません。
いずれにしても、今のところ、この世の中が、言葉としてのコミュニケーションで意思の疎通を図っている状態ですから、対人タロットリーディングをしたいという方は、言葉としての意味、そして、カードと展開から示されることを、言語として表すという訓練は必要となるでしょう。特に、プロとしてやっていくことを考えている人は、そこは無視できないものになります。
それでも、注意すべきは、テキストに書いてあるようなカードの意味を、ただ丸暗記するような方法は、一番まずいということです。
カードは象徴ですから、ひとつの意味に決まってくるものではありません。絵柄が表す本質というもの、そこから言葉とか意味が出てくるのです。
その本質は「形」としての言葉、つまり言い方を換えれば「具体」ではなく、大まかには決まっているけれども、細かくは決まっていない、元型として「何か」なのです。
だからこそ、言語・文字ではない、絵柄・図像としての別の「形」で表現されているのです。(音・波動などが、ひとつの言葉にできなのと同じです)
絵柄から意味や言葉を出し、再度カードの絵柄を確認する過程そのものが、宇宙(神)と人の理(ことわり)、天上と地上の反映と循環を示します。これこそがもっとも大切なものです。
※言葉として具体化すればするほど人間(地上・常識)的になって、神性や高次の本質から離れていきますから、そこも注意すべきことです。
カードの本質を探究しようとせず、ただ意味を丸暗記するというのは、別にタロットでなくてもよいわけで、しかもそれはリーディングやタロットを活用しているとは言い難い行為と言えます。暗記をする前に、なぜその意味になるのか、よく考え、感じてみましょう。
一方で、実は言葉や文字にすることが悪いわけではありません。
先述したように、他人に伝えるということでは、どうしても必要となるものですし、それ以外でも、例えば自己リーディングにおいても、言葉を発する、文字にしてみる、文章にしてみるという行為は、効果的なこともあるのです。
言葉や文字にするということは、具体化する作業でもあります。
カードで何かを感じてはいても、もやもやしたり、ふわふわしたりして、はっきり何が必要で、どうすればよいのかということがまだわからないこと(段階)があります。
そういう時は、文字にしたり、文章にしてみたりすると明確になります。言葉にできないことが、自分のひっかかりやブロックということもあります。
対人リーディングにおいても、言葉として発しにくい、どう伝えていいのかわかりづらいというパターンが多い人は、まず文章にしてみるなどの訓練をするとよいことがあります。
心の中、感覚としてはカードを読めているのに、相手にうまく伝えられないという場合は、言語化する過程がまだ未熟である、慣れていないということがあります。ですから、会話の前に、文章で書くという作業でトレーニングしておくわけです。
こういうタイプの人は、メールリーディングなどをやっていくのもありでしょう。またリーディング数をこなして場慣れする、話すことに慣れるという手もあります。
リーディングは、自分のコミュニケーションスキルや得手不得手の表現方法とも関係してきますので、自分に合った伝達・表現方法も選択するとよいでしょう。(反対に、足りないスキルを鍛えることを選択する方法もあります)
例えば、会話においても、すべてこちら(タロットリーダー)が話すのではなく、カウンセリング的に相手に語ってもらうテクニックもありますし、ポイントさえ押さえていれば、むしろ、言葉は少ないリーディングのほうが、心や魂的には響くことがあります。
話し下手だからと言って、リーディングができないわけではありません。
タロットと自分との会話によって、言葉でなくてもコミュニケーションが自分の中で成立していれば、それは(自己)リーディングと言えるのです。
タロットリーデイングの目的・スタイル各種
マルセイユタロットの大と小の世界。
私の開いているタロット講座にはいくつかの種類がありますが、最初と基礎は、やはり、大アルカナと呼ばれるパートの解説、それを中心としたリーデイングテクニックの習得ということがメインとなります。
これは大アルカナにタロット(マルセイユタロット)の基本があるからです。
一方、タロットには大アルカナだけではなく、小アルカナというパートがあります。最初に学習する「基礎講座」でも小アルカナについて学びますが、さらにアドバンス的なコースでは、もっと小アルカナの論理と技術にふれていくことになります。
マルセイユタロットの小アルカナ、中でもトランプのような記号的な絵柄になっている数カードは、カードの絵柄のイメージからリーディングしていくことは難しく、ある種のテクニックと術(方法)がいります。
それも何種類かあるのですが、残念ながらのこの明確な区別があまり意識されておらず、独学でされたり、ほかで学習されたりしてきたことで、小アルカナの読み方(リーディング)に混乱を起こしている人もいらっしゃいます。
それは、やはり絵柄の違いから来る、大と小(特に数カード)のリーデイングアプローチに異なる部分があるからなのです。
ウェイト版(ライダー版)などのカードでは、小アルカナも含めてすべてに絵画的な絵がついていますので、大と小を同様のアプローチで解読することも可能です。しかし、マルセイユタロットはそれでは無理があるのです。
マルセイユタロットには意図があって計画的に絵柄や象徴が配置されており、そのデザインにも無造作なところはありません。従って、大アルカナ、宮廷カード・数カード(小アルカナ)の違いは、わざとそうされていると見ることができますし、リーディングにも違いをもたせるのは当たり前となってくるのです。
その大きな違いは、一言でいえば、抽象性と具体性、夢と現実性、イデアとリアルみたいなものとなります。前者が大アルカナで、後者が小アルカナとなってきます。
大アルカナは魂の解放を目指し、小アルカナは現実世界での安定や確実性を表現させます。
実はこのふたつは相反するものであり、いわば天と地の逆方向の指向性を持ちます。※(あくまでマルセイユタロットにおいてであり、そして私の考えです)
大アルカナを使ってリーディングしたり、自己成長のためのツールとして使ったりすることは、現実や常識の囚われから解放し、全体的なものに自己(あるいはリーデイングする相手)を融合させる方向性にあります。
ですから、スピリチュアル的なもの(スピリチュアル的な思考と感性)には相性がよく、現実に飽き飽きしていたり、実生活で閉塞的な苦しい状況にある人は、大アルカナのエネルギーと示唆によって、特に精神的安らぎや解放を得ることができます。
しかし、一方で、逃避的にもなり、夢の世界に逃げ込み、現実を見ないようになるおそれ(まさに現実逃避になること)もあります。
これに対して、小アルカナの世界は現実性とリンクしていきますので、よりはっきりとした判断に使うことができます。
特に数カードは、数を象徴していますので、数で表せる世界は、現実のほとんどすべてのものを象徴させることができ、いわゆる時空として、時間・場所の指定も顕著になります。また数で表せない人間そのものは宮廷(コート)カードによって象徴させることが可能です。
つまりは、いつ・とこで・誰と・どのように、というものがはっきりと特定できるような世界観なのです。
その世界はいわば生身の人間が悩み苦しみ、翻弄される実生活の世界であり、だからこそ、はっきりと、「これだ」というものを示して欲しいと人は願うのです。それに応える(答える)のが小アルカナの世界です。
成功するのはどっち? 失敗を避けられるのはどの分野? いつ恋人や結婚相手に出会えるの? お金を増やすにはどうすればいいの? 仕事を辞めたほうがいいか続けたほうがいいか? 旅行はどこに行けば楽しめるのか? どの人とつきあうのがいい?・・・こういうようなものがリアルな生身の人間の問いとなってくるのです。
それに答えようとするのが市井の相談者であり、占い師はこの世界で求められ、人々の相談に乗り、人々の成功、幸せをサポートして行きます。(現実の生々しい相談に対応しなければならない「占い師」という仕事は、本当に大変で、すばらしい仕事をされていると思います)
だから、言ってみれば、小アルカナは占いの世界と相性がよいのです。
小アルカナは現実の生々しい問題に、「これ」「あれ」「それ」と言った具体的回答を示します。
それは明確で嬉しいことのように思えるかもしれませんが、現実性を示すことで、はっきりとしたものが出て、実はシビアなことでもあるのです。
小アルカナを使う時、逃避できない(あるいは自分が逃げている現実部分のような)シビアなことが、如実にタロットから出ることがあります。
それと、小アルカナの世界ばかりで対応していると、自分のレベル・次元を上昇させる(言い換えれば意識を拡大させる)ことが難しくなり、現状の価値観と意識レベルでの選択によって、自分の思う良い方向、成功する道を獲得しようとします。
しかしそれは、ある線引きによる右か左かの選択の連続であり、常に焦燥感のようなあせり、得たものを失うのではないか、失敗を選ぶのではないかという恐れが伴います。
またどうしても、モノ(お金など)の多寡や、能力・環境の違い、物事の出来・不出来、友人・知人の数や地位・評判など、他人と比べる傾向が強くなり、人から承認されたい(認められたい・評価されたい・抜きん出たい)欲求も刺激されます。
そのため、そういう世界から魂が飛翔していく(魂を解放していく)象徴として、大アルカナの世界があるのです。
しかし、大アルカナだけでは、精神やスピリチュアルに過度に傾いて現実逃避になり、小アルカナだけでは、分離された現実世界での、いい・悪いの価値基準の中でグルグル回り続けることになります。
マルセイユタロットは見事に、大と小、その絵柄などの違いと構成によって、まさに天と地、夢と現実の調整・バランス・統合を図られるように設計されているのです。
ということで、マルセイユタロットにおいては、大も小もどちらも必要なものであり、特に、占いや実際の現場で相談に当たる人にとっては、小アルカナを使いこなしつつ、大アルカナの世界につなげていくことが重要になってくるのです。
「罠」と「出口」として見るカードの読み方。
タロットでは、カードをそれぞれを吉凶的に見る人が多いようです。
吉凶的に見るというのは、あるカードはいいカード(吉カード)、そしてあるカードは悪いカード(凶カード)と判断する見方です。
これには、いいところと悪いところがあります。
よいところは、誰でもカードで占いがしやすいという面で、いわばおみくじのようなものですから、出たカードで問いにおける良し悪し、状況判断が一目瞭然です。
ですから、イエス・ノーとか、いいか悪いかなど、何かをを決めること、向き不向き、運不運のレベルで、何かをはっきりさせたい時にはよい見方と言えます。
しかし反面、カードにあらかじめ吉凶の意味を決めていますので、物事の両面性を推し量ることができず、複雑で統合的な見方を獲得することが難しくなります。
簡単に言えば、今の(よい悪いを決めている)価値判断基準から抜け出ることができにくいということで、言い方を換えれば、今のレベルにおいての選択ごとでしか、物事の処理や解決ができない意味にもなります。
これは、もっと上の視点や、本質的なものへの視点への移行が遠ざけられることになり、総合的な自己の成長という意味では、あまりよくないと考えられます。
そのため、私自身は、カードを吉凶的に見るやり方は採っていません。
ですが、カードを単純に吉凶的に見るのことではないものの、少し似たような感じのものとして、カードを二つの面から読む方法もあります。
これはカートを吉凶的に見るやり方と、カードをフラットに見るやり方との、中間的な方法と言えましょう。
それはカードそれぞれに、物事の出口(解決)とトラップ(罠)があると考える方法です。
わかりやすく言えば、カードには、ポジティブな面とネガティブに考えられる面とのふたつあるという読み方です。
まあ、これは別に珍しくもない方法で、吉凶的にカードを見るやり方でも、たとえば凶カードとされているものの中にも、ポジション(正逆やスプレッドの位置など)によっては反対によい意味になることもあるとか、ある状況では、凶が吉に転じるとか、読むこともあります。
ただ、それとは少しニュアンスが異なるのです。
例えば、「運命の輪」というカードがあります。
普通はその名の通り、運命や流れがうまく回っている、乗っているというような読み方がポジティブな面では出ますが、もう一面から見ますと、悪い流れにはまっている、自分ではわからないシステム(輪)の中にはめこまれ、脱出ができない状態(あるシステムに気づいていない状態)と読むこともできるのです。
いいことを逆に読めばいいだけでは?と思うかもしれませんが、確かにそうなのですが、それもやや、この読み方の本質とは違います。
特にネガティブ面を見る場合は、「トラップ」「罠」と見ますので、いわば、私たちが動物のように自然の野山を駆け回っていても(つまり生活や人生を送っていても)、そこかしこにトラップが仕掛けられており、それは自分では見えないことが多く、いつのまにかそのトラップに引っかかってしまい、それが問題状況やうまく行かないことの要因となっているとし、そのトラップ・罠がカードそれぞれで象徴されているというものです。
なお、トラップは、「人が作り出すもの」と「自分が作り出すもの」、さらに環境や社会として「一種の世界が作り出しているもの」があります。
また一例を出すと、「法皇」というカードは、言葉やコミュニケーションが生み出すトラップであり、特に洗脳や敬意の過剰、あこがれ・自尊などとも関係し、「悪魔」のカードより弱くても、身近にあるトラップとして検証できます。
そしてまた、こうした罠を抜け出る仕掛み自体もカードにあり、それが出口とか解決を呼ぶものになります。
そのことを一枚のカードで象徴すれば、「吊るし」となるのですが、「吊るし」はおそらく、一般のタロットでは、「吊された男」とか「吊され人」とかの名前で、それこそ逆に、罠にはまって身動きがとれない状態としてしか見えないかもしれません。
それでも、そこには出口や解決策があると見ることが可能です。
そして、この世界全体が罠そのものとも言えるのですが(笑)、そのことは難しく、通常の人では混乱しますので、講座などでお話することにしています。
タロットへの質問はどうすべきか?
よくタロットリーディングでの話題となることのひとつに、タロットへの質問の仕方というものがあります。
占い風に言えば、占的(せんてき)の立て方ということになるのでしょうが、マルセイユタロットは占い活用から、自他の総合的発展に至るまで、様々な象徴性と活用を持ちますので、実は、この質問の問題についても多様性があるのです。
前にも質問のことについて書いたことがあるように思いますが、改めて、このことについて、ふれてみます。
タロットへの質問の仕方について、大きくわけて、ふたつの流れがあるように思います。
ひとつは、詳細に、できるだけ詳しく、的を絞って質問をしたほうがよいという流れ(説)。
そして、もうひとつは、質問は大まかでよいという、ラフな考え方の流れ(説)。
おそらく、多くのタロット教室、あるいは、教え方としては前者であり、タロットへの質問は、なるべきはっきりとして、具体的にしたほうがよいと言われているのではないでしょうか。
一般的に、占い分野でも占的のテーマは重要で、どれに、何に焦点を当てるのかによって、占い技術も読み方も変わってくるという先生もいます。
これは至極当たり前のことで、質問が抽象的で漠然としたものあればあるほど、人の意識や注意もそれに応じたもの(焦点がぼやけるもの)になります。
ですから、出たタロットの展開やカードについて注目しても、あやふやなままの質問では、どこにフォーカスすればよいのか、何について焦点を当てればよいのかが不明確となり、カードからの示唆も得にくくなるわけです。
従って、まずは、タロットへの質問は具体的ではっきりしたものであるほうがよいという答えになってきます。
ところが、人間とは面白いもので、言葉として発する質問が、本当に知りたいものとは限らないことがあるのです。
いわゆる本音と建て前というものもありますし、自覚しているものと無自覚なものとの、両方が人にはあるものです。
なるぼと、最初は確かに、言葉や文字で質問した内容のことを知りたいのかもしれませんが、自分の潜在意識にあるものや、無自覚ながら、実は問題の本質であるようなものについては、はじめのうちから言葉として、明確に出てくるものではありません。
転職したほうがいいのかどうかという質問をしたけれども、実は転職するかしないかというよりも、もっと別な、自分の自信の確立のことや、生き方、束縛と自由性の問題が本当にはあったということもあるわけです。
いわば、言葉として最初に出てくる質問、もしくは自分が意識している質問や問題とは、まだ表面的なもので、単に形式としてのきっかけに過ぎず、本当の問題は別にあるということは、結構あるのです。
ですから、質問を具体的に、例えばイエスかノーかで答えられるくらいまで細かく設定したとしても、逆にそのことで本質の問題が回避させられてしまい、単純な白黒問題みたいな次元に置換させられることがあるわけです。
言い換えれば、問いや質問を絞り過ぎたたために、表面的・形式的なタロットリーディングになるという危惧です。
ですが、質問をはっきりさせることは、タロットリーディングの学習の過程、リーディング技量の最初のプロセスとしては、重要なことでもあります。
いきなり、「問いは適当でもいいんだ」みたいなことでやってしまうと、先述したように、何に注目すべきなのかさえ不透明になり、ひどい時には、タロットを前にして、頭が真っ白になってしまいます。
要するに、こういうことです。
タロットの質問がそれほど詳細でなくてもいいのは、タロットの象徴性に習熟してきた段階であり、初級のうちになればなるほど、象徴と現実性の距離を近づけないと、タロットを読むことが難しくなるのです。
象徴と現実性の距離というのは、実際の質問や悩み・背景(それは現実的なものです)などと、カードの象徴(これ自体は抽象的なものです)が意味するものとの、両者をリンクさせることができるかという、そのスピードと距離です。
問い・質問が具体的であれば、頭の中には具体的なもの・人・背景・環境などがインプットされてイメージしやすいですから、何に着目すればよいのかとか、出たカードと質問とをリンクさせることは比較的容易になります。
これに対して、質問がおおざっぱのままだと、的が絞りにくく、どう読んでいいのかわからくなりますが、カードの象徴に慣れてくれば、象徴の多重性に気づいていますから、質問そのものよりも、カードが示している本質を読むほうが重要なことと認識されます。
また象徴の現実へのリンク性の距離とスピードは、初級者に比べて格段に短く速くなっていますから、質問を最初から具体的にする必要もなくなってきます。
究極的には、タロットへ質問はなくてもいい、というくらいに考えることもできます。
この場合は、むしろ、カードの示唆(展開から読み取れる象徴性)が、問題を指定する(クライアントも気づいていないかもしれない、重要な問題に気づく)みたいなことになります。
質問を細かくし過ぎると、タロットリーダーのみならず、クライアントも追いつめることになります。
一方、漠然とした質問過ぎると、何をリーディングしていいのかわからず、あやふやでフワフワとした抽象的なリーディングになります。
細かすぎて全体の言わんとしていることがかえってわからなくなっている人は、もっと質問をラフにすることであり、反対に、いつもポイントがずれてしまう、何を読めばいいのかわからなくなってしまうという人は、質問をもっと具体的にしてもらい、的を絞ったほうがよいです。
ほかにも質問についての注意事項は多々ありますが、それらは講座にてご説明しております。