リーディング技術・内容
リーディングの共同作業意識の重要さ
タロットは誰がリーディングしているのでしょうか?
これは変な質問ですよね。(笑)
答えはタロットリーダー(Tarot Reader タロットを読む人)に決まっているじゃないですか、となるかもしれません。
タロットリーダーが、タロットの知識を得て、直感やセンスを入れて、カードの絵柄から受けた印象をもとに、クライアントや自分の問いに答えているというところでしょう。
しかし、例えばクライアントの問いに答えているという行為を見ても、問いをしているのはクライアント(相談する質問者)であり、タロットリーダーは、まったくクライアントの事情や実際の状況を無視して、ただタロットカードの意味を述べているわけではありません。
カードから、たとえ「注意せよ」という暗示が出ているとリーダーが思えても、その注意する内容・対象は実際的(具体的)には何なのか?ということは、クライアントに情報を提供してもらわないと当てはめにくいわけです。
まあ、占い師としてのタロットリーダーなら、相手が何も言わなくても、すべて答える、当てるということもないわけではないでしょうが、相手とのコミュニケーションを一切はさまずリーディングするというのは、かなり特殊なケースであり、おそらく、クライアント側でも不満は残るのではないかと思います。
ここでのポイント(言いたいこと)は、タロットリーディングはタロットリーダーのみで純粋にカードを読解しているわけではないということです。
言葉や文字のやり取り(実際のコミュニケーション)、その他にも、目に見えない情報のやり取り・交換・交流があり、カードとともにそれらは共有する(される)ことになります。
すなわち、必ず、何らかの形で、タロットリーダーはクライアントと対した時、相手との共同作業になっているということです。
そして、たとえ自己リーディング(自分の問いを自分でタロットリーディングすること)であったとしても、実はタロットの精霊のような存在と共同作業で読んでいるとも言えるのです。
結局のところ、タロットを自分一人で読んでいるという意識は、錯覚に近いところがあります。
自分が主体になることは、周囲に振り回されず、自分軸を作る上でも重要なことではありますが、行きすぎると独善的になり、相手や場をコントロールしたいという欲求や、何でも自分がやっている、起こしている、してやっているという傲慢な姿勢になってしまいます。
こじらせると、人から自分への評価や賛辞がないと満足できないという人間にもなってしまいます。(そしてそれを強く求めるようになる、エゴの肥大化)
これはつまるところ、近世以降にヨーロッパから顕著になった、自分と自然、自分と神(天使や精霊的なものも含む)とを分断して、自分一人ですべてをコントロールする(他人よりも優秀でありたい、勝ちたい、区別したい)という現代思想の弊害にも関係してきます。
タロットリーディングひとつとっても、タロットリーダーは主体でありながら客体でもあり、他人や精霊的なもの、(内なる)神なるものと共同作業で回答や気づきを得ているのです。
タロットリーダーが客体(受ける側)であるというのは、例えば、自分が常識的に認知・知覚している以上のもの(存在・エネルギー)から受け取る情報というものがあり、その時、「受け取る側」ですので「客体」となっていると言えるのです。
主体と客体の入れ替えは、古代では普通の思想なのですが、なかなか現代人にはなじめない思考です。
しかし、このふたつの立場の交換や、どちらも状態として同時に存在しうると理解できる時、私たちはとても謙虚になりますし、実は力強くもなるのです。
どういうことかと言いますと、単独の存在で最強になるよりも、自分だけでは弱いことを自覚し、取り繕ったり、自分の強さを無理に誇示したりせず、素直に周囲や自然・神に自分を明け渡し、協同的(共同的)に、大いなるひとつの存在と化したほうが、もっと強くなれるということです。
弱いから逆に強くなれる、まあ、これは日本ではアニメや漫画ではよく描かれることです。(合体ロボ発想も原点は同じと考えられます)
自分の強力な霊感とか超能力みたいなことでタロットが読めるようになるよりも、自分は特殊な能力などない、普通の人間だと思ってタロットに取り組むほうが、逆に自分のエゴが弱まって、ほかの上位存在やエネルギーを受け入れやすくなることがあります。
言い換えれば、気負うことなく、「力」を抜くことで、心や感覚は柔らかく鋭敏になり、いろいろなソースとつながって、共同的巨大人間になるというような感覚です。
マルセイユタロットでは「力」のカードや「吊るし」などでも表現できるでしょう。
タロットが理解できれば、自分の中にも何人もの人格的自分存在がいることがわかりますから、やはりどんな場合でも、単独ではなく、有機的に繋がって、人は行動していることがわかります。
自分一人の弱さや限界を認めたうえで、それに甘えるというのではなく、特徴を活かし合いながら、助け合うことができ、巨大な力に統合することができるのです。
独立や強さばかりを求めるのではなく(それは悪いことではありませんが)、自分が全体から見て、何の個性と特質があり、貢献できるのかという、共同体的視点で見ることも大切です。
お金においても、自分が一人、大きな存在となって稼ぐというよりも、自分が稼がせてもらっている、皆と繋がって、結果的にお金が流れとして入ってきていると意識したほうが、楽で持続することがあるものです。
クライアントとタロットリーダーの逆鏡作用
他人は自分の鏡だというたとえが、心理的にもスピリチュアル的にもよく言われます。
これはそうとも言えますし、全部がそうとは言えないところもあると思います。
ただ自分と人の(内と外の)世界がつながっていることは、マルセイユタロットの構造、特に「世界」のカードを見ているとよくわかります。
わかりにくい表現となりますが、自分の中心が相手の世界の果てであり、相手の中心が自分の世界の果てになっているという面白いものです。
それはともかく、以上のようなことから、タロットリーディングなど、人の悩みや問題を相談するスタイルを取る時、クライアントと相談を受ける者(タロットの場合はタロットリーダーになります)との関係において、必ず共通点が象徴的にあると考えられます。
これは、似たような経験という場合もあるのですが(そしてそれは両者にはわかりやすいもので、共感につながるものですが)、それと別に、異質なものだけれども、象徴的には共通しているというものがあるのです。
例えばこういうことです。
クライアントが相談がしてくる問題、相談したい主訴というのは、当然、その時空(相談時間と空間)において一番関心のあることです。
ところが、そのクライアントの問題と、象徴的に繋がっていると言いますか、共通しているのは、相談を受けている(話を聞いている)人の、なんでもないことだったり、クライアントとは逆に、楽しいことだったりするのです。
言ってみれば、相談時空において、あまり関心のないことです。
それは逆転の構造(カメラのレンズのようなもの)を持ちながら、根本では共通なものとして、関係していると考えられます。
いわば、クライアントの(ネガティブな)問題(非日常的なこと、エマージェンシーなこと)の解決や癒しには、相談を受けるものの日常や、ハッピーなこと、平穏の中に隠されているということです。
※相談状態のことでも、むしろ当たり前で、相談を受ける者がノーマルでない状態だと、クラインアントの傾いた気持ちをうまく扱うことができません。
これは逆もまた真なりで、相談を受ける立場の者が、今結構深刻に思っていること、関心があることが、クライアントの日常や、あまり意識していない普通の中に関係がリンクしていることがあるのです。
タロットリーディングの時、カードの正逆で意味を変えて読んでいる場合、ちょうど、カードの正逆がクライアントとタロットリーダーでは、まさに反対になるという象徴性を持つことがあります。
要するに、エネルギーの相補性であり、一対多、多対一という、異質表現同士の結びつきが、全体としてはひとつであり、完全となるということのとらえ方です。
私が採用している「カードの正逆を取る場合のタロットリーディング」のスタイル(正逆を取らないスタイルもあります)では、タロットリーダーは、逆さまにカードを見ることになります。
つまり、クライアントから見て、正立や逆向きとなる方向でリーディングを進めるのです。
このことは、意外に重要な示唆を持ち、先述したように、テーマにおいて、逆の関係性を持ちながら、共通の因子を象徴的に持つ構造に合致した見方となります。
ありていに言えば、相手にとってのカードの正立がリーダーにとっての逆向きであり、相手にとっての逆向きが、リーダーにとっての正立と見ることができるというわけです。(テーマにおける逆転のリンク性を見る場合ですので、必ずしも、いつもそう見るというわけではありません)
このような考えでいくと、タロットリーダーや相談を受ける立場の者は、結局、相手の問題の原因そのものよりも、自分自身の、セッション中における意識の変容(気づき)が、相手(クライアント)にとっても重要だということがわかります。
問題解決の鍵は、相手ではなく、自分(相談を受ける者)にあるのです。
なるほど、マルセイユタロットの「隠者」があのように描かれているわけか・・・と納得します。
これとは少し違うとは思いますが、ハワイのホ・オポノポノも、相手がどうあろうと、結局自分のクリーニングに行き着く技法ですから、考え方に似ているところもあるのかもしれません。
タロットの場合は、タロットカードが自己クリーニングの装置であり、ツールになっていると言えましょう。
タロットリーダーがカードとのつながり(理解と親和性)が薄いと、こうした自己変容から相手の変容を起こすということは難しくなり、普通の自分と他人を分離しての相談となってくる傾向が強くなります。
と言っても、ここで述べた方法(考え方)は、いわゆるカウンセリングの共感テクニックとは違うもので、反対に、共感できないところに共通するものを見るという矛盾性を持つ代物です。
それが統合できるのは、タロットカードという象徴性の統合ツールがあるからです。
分離した世界で生きる感覚をノーマルにする私たちの通常意識だけでは、なかなか統合感覚は難しいものです。
感覚と言っても、タロットを学べば、それは理性によって把握できてくるものです。感覚頼りだけでは、それはあやふやで不安定なものとなります。
タロットの解釈、リーディングの多様性
タロットを長く扱ってきたり、タロットリーディングで自分や人のことを見てきたりすると、結局は何とでも解釈できるのだと思ってきます。
これは言い換えれば、正解(ひとつの回答・正答)などないということにもなります。
それではタロットを使う意味がないのではないかと思うでしょう。
ところが、確かに読みや解釈としては何とでもできる(どうとでも読める)のですが、それにはある規則性や法則性が存在しているのです。
ですから、「どうとでも読むことができる多様性・応用性・自由性」を思った今度は、逆に、規則性とか法則性があることの確信に至る気づきが重要になってきます。
いや、実は初心者の頃、最初にタロットを習って読んだり、解釈したりする時は、本やテキストから、あるいは先生から教えてもらう読み方の「法則性」「ルール」みたいなものを適用します。
しかし、先述した「あとから気づく法則性」というのは、この初めての段階で他人やテキストから示されるものではなく、自分で発見してわかるものです。
まあ、モノや人によっては、それを初めから教えられたり、示唆されていたりすることもあるかもしれませんが、初心者の頃は、たとえ示されても何のことか、わからないでしょう。
いわば、この、あとで見つけられる法則性というのは、宇宙のモデルや構図、大きな魂的な法則というものに近く、タロット全体の理解が進むにつれてわかってくるものなのです。
マルセイユタロットは実はほぼそのことについては、大アルカナの総合的絵図によって示されていますが、図示されていることと、自分が理解することとはまた別です。
こうした法則性がわかってきますと、タロットを読むこと、リーディングすることが、いかようにでも解釈できることの意味が理解できます。
そしてそれはまったく自由のようでいて、そうでもないのです。
大まかに分けて、3や4、あるいはその合計数として7、あるいは5や10、8や13などの数にまつわる法則性も見えてきます。
結局、読みの多様性というものは、そうしたグループとかレベルとか次元の「違い」による読み方があるということです。
現在、私の講座では、タロットリーディングの技術を向上させるために「リーディングコース」というものを設けていますが、このコース中にも、シンプルな形ではありますが、読みの法則や次元の違いについて解説し、自分のリーディングがどの位置と目的にあるのかの確認をします。
そして、クライアントの求めるところや問題の種類によって、それらは変わってくることを学びます。
ですから、まったく同じタロットの展開が出たとしても、読む階層のレベルの違いによって、読み方はガラリと変わります。
それは最初のにも述べたように、どれが正解というものではありません。
強いて言えば、それはまず第一にはクライアントが持っていると言えますし、同時に、タロットが示す法則性や、ある世界観によって、正解が複数用意されると言ってもいいでしょう。
よく「答えは本人の中にある」という言い方をしますが、それは確かにその通りなのですが、その(本人の持っている)答え自体も、実はひとつではないということなのです。
答えを出す・見つけるのではなく、答えと自分の求める表現をリンクさせる、合わせる、と言ったほうがニュアンスとしては正しいかもしれません。
それはまるでマルセイユタロット的には「恋人」カードと「審判」のカードのリンクみたいなことです。
多数ある自分の中の答えの中で、どの答えが一番今の自分にふさわしいか、求めているものなのかを見て、「答えを選択する」という印象となります。
この、たくさんの中から選択するのが「恋人」カードでもあるのですが、その大元には「審判」のエネルギーが流れていると見るとよいでしょう。
ですから、この二枚のカードは、マルセイユタロットとして、構図が同じで、絵柄の天使や人物たちの配置と大きさは異なっているように描かれているのです。
言い換えれば、『「愛」を知るのに「恋」を体験する』と、この二枚を見ることもできます。
「恋」においては、正解は選択はたくさんありますが、「愛」の次元においてはひとつと例えることもできます。
ただし、禅問答みたいになりますが、この「愛」の次元の「ひとつ」でさえ、たくさんの正解の集合体で、ひとつではないのです。
このことが理解できれば、タロットリーディングやタロットの解釈には「答えがなく、また答えはある」という謎の問いかけの意味がわかってくるでしょう。
タロットへの質問について
タロットの使い方は人それぞれで、本来は自由なものです。
タロットリーディングにおける質問においても、これをやってはいけないとか、これが望ましいというのも、あくまで人間のルールにおいての解釈となります。
とはいえ、タロットで答えにくい質問、というより、タロットからの解釈が難しい質問というものは存在します。
また時代や環境、設定によっても、質問の内容が変化してきていることもあるでしょう。
ということでは、私の独断と偏見も入っていますが、タロットリーディングにおける質問の注意点を書いてみたいと思います。(基本的に「タロット占い」とは異なる点に注意してください)
●常識と非常識の範囲
タロットで見るより、物理的・常識的にすでにわかる事柄や、普通に行動したり、調べたりすることで判明できるもの、または緊急性を要するものなど、わさわざタロットで確認するよりも、別の方法でするほうが早く、確実で、適切だということがあります。
いわゆる常識の範囲の調べものや処置・対応については、タロットを使うのは望ましくないという当たり前のことです。
例えば、人が交通事故に遭ったとか、重篤な怪我をしたとか、心臓や血管の突発的病とか、特に救急的処置が必要なのに、「この人をどう救うべきだろうか?」とか、「診察を受けるべきだろうか?」「倒れている原因は何だろうか?」と、タロットで引くなんてことは非常識です。
また、連絡ができない人ならばともかく、普通にいつでも連絡できるのに、タロットで「今連絡をあの人にすべきだろうか?」「あの人は今いるだろうか?」みたいにカードを引いて調べようとするのもおかしく、本当のタイミングを失います。電話やメールを、その時すればいいだけの話です。
さらに、勉強もしていないのに、「偏差値の高い学校に合格できるか?」みたいな質問も非常識であり、まだ「合格するにはどうすればよいか?」という質問なら救いがありますが、最初から奇跡頼みでは、タロットに質問する以前の問題です。
タロットは超マジックを教えてくれるものではありません。
タロットは、タロットで見ないとわかりにくいことをリーディングするのです、いちいち、なんでもタロットで展開するのは、タロットを本当の意味で使っているとは言わず、それはタロットというものを「何でも叶えてくれる魔法ツール」みたいに位置づけた「依存」でしかありません。
●生き死にの問題
人の生死の問題は、「占い」でも禁止事項になっていることがほとんどだと思いますが、その理由は、人間の調べてよい(知ってよい)範囲の領分を超えていることに関わることであるためとか、占い師の命を削ることになるとか、いろいろと言われていますが、いずれにしても、人の生死に関わることはリーディングの質問には望ましくないでしょう。
普通に考えても、特に時期の当たりはずれとかになりますと、重大な過失や責めを負わされる危険性があるからです。また特に人の死については、それを知ることで、かえって寿命を縮めてしまったり、生きる希望を失わせたり、家族側の医学的な治療処置を誤らせたりするおそれもあります。
調べ、見た時期が、本当にその人の死期なのかどうかは、まさに神のみぞ知るの世界で、正しいかそうでないかなんて、誰にもわかりません。
人の生死の問題は、見るほうも見られるほうも、精神的に普通ではいらない重さがあるから、質問としては適切ではないと言えます。
●同じ質問の時期(間隔)について
よく「タロット占い」では、同じ質問は3ヶ月開けなくてはならないと言われます。
個人的には、この根拠は、人と宇宙のサイクルの問題としてあるにはあると考えていますが、必ずしもそうとは限りません。
しかし、3ヶ月という期間が、物事や人間の変化に適度な期間(一定の変化スパン)ということであり、その前に同じ質問をしても、あまり意味がなく、前に見た通りですよ、みたいなところがあるから、そう言われているところもあります。
そもそも同じ質問を繰り返してタロットを展開することは、象徴性の解釈の誤解が生じやすいことがあげられます。何度も象徴が違ったもので出てしまうと、本質を見失うからです。
とはいえ、質問の内容によっては、3ヶ月という期間を画一的に当てはめるものでもありません。
例えば転職を計画していて、一ヶ月におきに注意点をタロットで確認していくということもできます。
また3ヶ月のうちに大きな転機を迎えた場合もあるかもしれず、結局、質問してタロットリーディングを行ったあとで、本人の行動や状況によって、臨機応変に再度質問していけばいいのです。
ただ、リーディングした内容を意識して行動していれば、自ずと3ヶ月も経たないうちに変化が出てきて、同じ質問をすることはほとんどなくなるでしょうし、たとえしたとしても前とは質が違い、実は実質的に別の質問になっているのです。
●イエスかノーか、などの二者択一系
これも「占い」としてはできないことはないですし、そうした技術もあります。むしろ「タロット占い」の世界ではポピュラーなことかもしれません。
ただ、私の考える「タロットリーディング」では、これに直接そのままタロットを展開したり、答えないようにしたりしています。
この質問に陥っている時は、必ずではないですが、マルセイユタロットでいえば「恋人」カードの示唆状態にあり、どちらかを選ぶより、それに悩み、その次元から脱却することが本当のテーマとなっていることが多いからです。
どちらを選んでも、それは自分の価値観か、世間一般のいい悪い、幸不幸価値観に左右されたものの結果で、それが魂次元や霊的次元、統合次元からの観点では、ほとんど意味をなさないか、後退やループとなる場合もあるのです。
●未来がどうなるかの質問
こちらも占いでは当然というか、見るのが当たり前でしょう。
そして、やはりこれも私の考えるタロットリーディングの世界では、質問は受けても、そのまま未来がどうなるかを確定させる見方(未来占い)はしません。
ひとつのビジョン、選択肢として見るというくらいです。ただし、過去と現在を整理して、行動に移した場合、ひとつの目指すべき方向性の示唆として活用することはあります。
重要なのは、現在の悩みや問題です。「未来がどうなるか?」というのも、つまるところ、今(と自分が記憶している過去)に問題や悩み、葛藤があるからそういう質問になるのです。
タロットカードの意味のとらえ方
タロットカードは、見た目や表面的なことから推測される意味と、絵柄の象徴的ことから考察できる意味、さらには、潜在的・反面的な意味など、様々な階層に分かれています。
まずは、誰でも少し説明されればすぐにわかる意味をとらえておく(覚えておく)ことは必要で、それが基礎と言えましょう。
しかし、ずっとタロットを使い、学んできますと、さきほど述べたような、色々な別の意味(階層)がわかってくるものです。
それらは、「言葉」「単語」としてだけ聞かされると、全くのバラパラなもの、つながりがないようなものに思えます。
ところが、やはり「象徴」的には、ある根源から派生していることがわかってくるのてす。
その「つながり」の糸を自分の中にたぐり寄せることができた時、タロットカードの「意識」のようなものを感じることができるでしょう。
その段階では、もうカードの言葉や意味を覚えることは必要なく、むしろ覚えるほうが弊害となります。
タロットリーディングにおいても、もっと語彙力があればとか、もっとカードから意味を言葉として汲み取ることができればと思うことはしばしばあるでしょうが、だからと言って、カードの意味を、本や誰かから教えてもらって暗記しても、一時的・初期的には必要ですが、それはカードの本質を理解することとは別になります。
覚えたカードの意味をただ当てはめるだけのリーディングは、いわば暗記すれば誰にでもできることであり、場合によっては一日とかでも可能です。
さらに、これに典型的なスプレッド(展開法)の意味も強制的に覚えれば、あっという間に形式的には、タロット占い、タロットリーディングはできているように思えるでしょう。
なぜなら、典型的に多く使われているスプレッドは、それだけ自動的に意味や物語になるように構成されているからです。
しかしそれはまさに形だけのもので、中身は浅く、ないに等しいものです。
質問に答えられるからと言っても、暗記でそのまま述べたものと、深い理解にあるので単純には答えられず、やっと自分なりの回答を出したものとでは、スピードは一見前者にありますが、答えの深さ・重たさ・質の高さでは、後者のほうがはるかにあります。
ここで「力」のカードで例示してみましょう。
このカードはマルセイユタロットに限らず、ほかのタロットでも存在していることの多いカードです。
「力」という名前や、ライオンを女性が押さえているような絵柄から、表面的に読むと、パワー、力の強さ、さらに心情的には勇気とか決心とか、全体的に強気のような姿勢をイメージでき、「(力)強さ」ということがキーワードのように思えてきます。
確かに、そう読むこともあります。
しかし、ここで「強さ」とか「パワー」とかで意味を固定して暗記すると、もうこれしかこのカードの意味はないように見てしまうようになります。
カードの意味の暗記は、あくまでカードの本質を理解するための入り口、導入でしかありません。
ましてや、その段階で他人にプロ的にカードリーディングをする(できる)など、あり得ないことは普通はわかると思います。(まあ、これも人の自由ですので、その人の思い次第ですが)
「力」のカードをさらに見ていくと、マルセイユタロットの場合だと、ライオンが力ずくで押さえつけられているわけではないのに気づきます。
フランス語では「力」が「フォルス」と表記され、英語でも「フォース」であって、「パワー」ではないことが、言葉としても見えてきます。
「そんなもん、力強さの意味では一緒でしょ?」と思うのか、「いや、まてよ、何か違いがあるのか?」と見るのか、ここがまた分かれ目です。
さらに、よく見ると、ライオンと女性の大きさの比率が異常なことがわかります。
描かれているのは子ライオンではなく、大人のライオンです。
成獣の雄ライオンを猫やペットの犬のように扱っているその女性の大きさ、力とはいかに?と見ていくと、この不思議さに思いが行くはずです。
「いや、単に力強さを誇張して描いているのでしょ? それが「象徴」というものでしょ?」
と思う人は、本当の意味でタロットのセンス(タロットに関わるセンス)が疑われます。
もし誇張して描いているのなら、なぜ女性なのか、同じ「か弱きもの」というのなら、子どもの男の子で描いてもよく、むしろそのほうが本人の力強さが強調されるかもしれません。
ここに「女性である必要がある」と、意図を想像することが求められます。
このようにして、「力」を考察していくと、最初に見た「力強さ」というものよりも、まったく反対の「脱力」のようなものも意味として出てくるように感じられます。
言葉だけ見れば、「力強さ」と「脱力」は矛盾しているように見え、もしクライアントにこのカードが出て、「あなたは力をもっと入れて頑張ってください」「でも、力は抜いたほうがいいんですよね」と言うと、相手はわけがわからなくなるでしょう。どっちなんだと。(笑)
言ってしまえば、「脱力した力強さ」「力(フォース)を出すたのめの力(パワー)抜き」というようなことなのですが、言葉・意味の丸暗記では、このような矛盾を統合することができません。
タロットはこうした、表面的・物質的側面(見たままの世界)と、裏面的・精神的・潜在的(見えない世界)の分離(整理)と統合を進めて、成長・発展・進化していくプロセスの指針・ツールなのです。
感性と知性、その両方はフルに動員されなければ、なかなかカードの本当の理解に達しません。
そして、実はカードを理解するのが目的ではなく、カードに描かれている本質・エネルギー、コアなるものが、人にも世界にも宇宙にも流れていることを識るためにあります。
カードはゲートであり、通信装置であり、モデル図としての教科書みたいなものです。
ですからカードーリーダーがえらいわけでもなく、カードが読めるからといって、それ自体は別に大したことでもないのです。
私たち自身にある神性・貴き輝きがすばらしいのであり、それに気がつかせるのがマルセイユタロットと言えましょう。