リーディング技術・内容
「正義」と「月」のバランス性
マルセイユタロットの「正義」と「月」は、同じ「8」(本来はローマ数字で表されていますが、文字化けの可能性もあるので、算用数字で書いています)という数を持ちます。
ところで、私自身は、タロットと数秘術とは切り離して考えており、タロットにおいても数との関連性はもちろんありますが、数の象徴性・意味と、絵柄のそれから来るものとは、ズレもあって、数秘術的解釈からタロットを見過ぎると、かえってわかりづらくなると思っています。
要するに、数秘術(数)をメインの象徴性とするか、タロットの絵柄の象徴性をメインとするかの立場の違いです。
数秘術が好きで、そちらに造詣が深い人は、タロットを数の象徴性の理解のために使えばよく、当然、その逆もあります。
しかし、数とタロットの象徴性がまったくのイコールとならないことは、注意しておくべきだと思います。
さて、それをふまえたうえで、今回は数つながりで「正義」と「月」について述べています。
先述したように、「8」が共通している両カードですから、「8」に象徴される何かを含んでいると考えられます。
数秘的には「8」にも、当然、ある意味が当てはめられていますが、ここでは少し一般的に言われている「8」の意味から離れ、あえて「バランス」というテーマで見てみます。
なぜ離れるのかと言えば、先に述べたように、タロットは絵柄だからです。しかし、「バランス」と「8」が数(秘)的に無縁なわけではありません。
その詳細はここでは省略しますが、とにかく「バランス」で両カードを見てみましょうということです。
すると、「バランス」ですから、何か「ふたつのもの」の間の調整とか、釣り合いとかのイメージが出てきます。
そのイメージをもとに「正義」を見れば、ふたつのもの、つまり天秤が描かれているのに気づきますし、一方の「月」には、犬のような動物が二匹いるのがわかります。
ただ、数的には同じ「ふたつ」のものではあっても、方や天秤(物質、計り)であり、方や犬(動物、生き物)という違いがあります。
そして、ほかの絵柄としては、「正義に」は剣があり、「月」には文字通り、「月」が描かれているほか、ザリガニのようなものもいます。
ということは、ふたつの間のバランスと言っても、まず「正義」のほうは、何か物質的(数量的)で、切って量れるような計測的なバランスであることがわかり、逆に「月」は、生物的と言いますか、目に見えるはっきりと計測できるようなものではないうえに、ほかのもの(二匹の犬の間だけではないもの)との関係でのバランスがあることが示唆されます。
いわば、誰が見ても明確な指針となる規則やルール、数値のような客観的なバランスと、その人や、大いなる視点でしかわからないような主観的、あるいは超個人的視点でのバランスがあるという対比になるのです。
簡単に言えば、皆に共通のバランスと個人個人のバランスの違い、または、一般レベルのバランスと、宇宙的・神的レベルのバランスの違いみたいなものです。
このふたつのバランスの違いを理解しておかないと、人に自分のバランス感覚を強要したり、判で押したような無機質なバランスを誰に対しても適用したりしてしまいます。
確かに概念としての共通ルール的なバランスはあるものの、言わば、心の中の一人一人のバランス感覚は違うものであり、バランスの調整とその方法も、個人で異なってくることになります。
肉ばかり食べても健康な人はいますし、野菜だけのベジタリアンがいいという人もいます。統合レベルになればなるほど、バランスは全体性を帯びてきます。
何かひとつだけバランスを取ればいいというものではないのです。
価値観をはじめ、人間は一人一人の違い・個性があり、例えば成功というものに対しても、思いの違いがあります。
ですから成功法則というものも、共通のところはあるにせよ、細かい点、具体的な面では、一人一人違うのが当たり前です。
知識と感性(直感・感覚)においても、50対50というようなバランスではなく、人によって、感性のほうで80%理解して、知識は20%でいいという場合もあり、その逆や、いろいろなパーセンテージはあるものです。
つまりは、あの人の通りとか、モデルとか師匠の通りそのままにしなくてもいいわけであり、もっと言えば、誰も他人そのもの、その人にはなれない(他人のバランスを表現できない)のです。
それよりも、その人の表現している本質のバランス(バランスの本質)を重視するのです。
健康と食事で例えれば、ある人が健康だからと言って、その人の毎日の食事内容をそっくりまねするということではなく、もっと長期のスパンや性質などからその全体性を見て、トータルなバランス性に着目するということです。
言ってみれば、「正義」だけではなく、「月」のバランスも考慮する意味にもなります。
「正義」はともかく、読みにくいといいわれる「月」のカードには、こうしたバランス性をテーマとして、読む場合もあるのです。
時系列的タロット展開の過去パート
タロットリーデイングで、時系列的にカードを並べる場合(方法)があります。
私たちが時間を現実的にとらえる場合、今現在を中心として、過去と未来に振り分けたパートの3つをもって「時間」の流れを認識します。
考えてみれば、「今、この瞬間」は刻々と移り変わっていますので、「今」というものが実はないのでは?という気もしますし、反対に、「今この瞬間」の積み重ねや、並列(「今」が無限に並んでいること)によって、時というものができているのではないかと思うこともあります。
それはともかく、タロットカードで、時系列的に展開する時、やはり「象徴」として自分の思う出来事が出ていると見ることができます。
タロットカードのような象徴ツールの面白いところは、この「自分が思っていること」というのが、自分が自覚している、あるいは記憶として思い出すことができるもの以外のものも含んでいることです。
言い換えれば、表面の意識が忘れてしまっているもので、潜在的に残っているものもカードとして象徴されるということです。
言わば、表面的・意識的な自分と、潜在的・無意識的な自分というものが存在し、それぞれが思っている(記憶している、データとして持っている)ことがあると考え、どちらの自分もカードには象徴されるのだと見るとわかりやすいでしょう。
さて、話を時系列展開のことに戻します。
時系列にタロットを展開した場合、最初に指摘したように、過去・現在・未来というパートにわかれて見ることが普通となります。
占い的に見る場合は、現在から未来パートの方向性に重点が置かれるでしょうが、カウンセリング的に見た場合は、逆に現在から過去パートのほうに焦点が向きます。
そして、先に述べた、意識的な自分と無意識的な自分の統合を果たしていくようにするのです。
この二人(意識的自分と無意識的自分)が乖離してしまった原因やデータが、過去パートのカードに象徴されていると見ます。
私たちは、恐れや不安、強いショックを感じた時に、心と身体にそのデータをインプットしてしまう(記憶させてしまう)ことがあるように思います。
軽いものなら、自動的にデータは消去されたり、身体的にも元に戻ったりするのでしょうが、今述べた強い記憶のものは、ずっと残り続けるものと考えられます。
また、弱いものでも、継続的に繰り返されたり、定期的に同じような体験が行われたりすると、やはりデータは刻印されてしまうのではないかと像像できます。
例えば、すでに大人になって環境は変わっているのに、幼少の時の強烈な体験がいまだ残り続けているようなケース、仕事はもう辞めたり、変わったりしているのに、そこで働いていた時の記憶が、身体と心にインプットされたままになっているようなケースです。
こうした場合、毎年のある時期、何かの状況の時に心身の不調が起こるという場合が想定されます。
それは、その強いショックを得た状況や環境と似たようなものになった時、無意識の自分が錯覚して、データが再起動してしまうからではないかと考えられます。
図らずも、周囲の環境や状況が、当時のものと同じような設定をもたらしてしまったので、前のものがゾンビのように蘇ったわけです。
まるで、ある条件が整うと爆発するような爆弾みたいなものであり、しかも厄介なことに、その条件を表面意識は忘れているので、ある意味、突然平穏な日常から一気に恐怖に落とされるような、とても怖い設定とも言えます。
原因がよくわからないのに、不安になったり、体の調子が悪くなったりすることのひとつに、こうしたものがあると思えます。
タロットの過去パートには、そうしたことが現れることがあるのです。
「過去を見るなど役に立たない」と、先行きを知りたい占いの場合には思うかもしれませんが、タロットの展開法と解釈によっては、こうした活用の方法もあるのです。
小アルカナ4組による理解の大切さ
マルセイユタロットの小アルカナで、特に数カードは、わかりづらい記号的な模様になっています。
この理由は、講座で詳しく説明しておりますし、またこのブログでも何度か説明しているので、今日は書きません。(でも、わかる人には今日も一部書いていることが見えるでしょう)
小アルカナは大アルカナと違い、具体的・現実的次元を象徴するものと、マルセイユタロットでは考えられますが、具体世界とは、言い換えれば個別の世界であり、それこそ、実は無数(一人一人個人)の世界と言え、カードで表せばキリがありまん。
カードが象徴であるからには、ある程度の集合性、類型、パターン、枠組が必要となります。
それが小アルカナでは「4組」と言われるものになります。
これは、古代の思想ではおなじみの、「四大元素」というものを表しています。
簡単にいえば、小アルカナ(の世界)は四大元素の枠組でまとめあげられている、象徴されているということなのです。
四大元素は、風・水・火・土という、素朴な自然現象から導き出されたものと推定できますが、しかしながら、単純なようで奧が深く、従って、これを実際の世界に働いている原理として当てはめようとすると、なかなか普通、あるいは現代的感覚では難しくなります。
そこで、それを具体的な物質の形にすることで、原理・本質を実際化、視覚化しようと試みたのが、「剣(ソード)・杯(カップ)・杖(ワンド)・玉(コイン)」という、4組のモノである、と考えられます。
ということは、これらの4つのモノの印象、手触り、働き(どう使うのか、またどう動くかなど)を見ることによって、四大元素が現実的・実際的(な世界)に作用するものが見えてくることになります。
例えば、問題の処理や解決に当たって、どうするのか?ということを考えた場合、剣では切っていくこと、細かくしていくこと、杯ではカップなので、水を入れること、流すこと、杖は杖をついて歩く、その杖(棍棒)が木なので燃え上がっていくこと、玉はコインや金属として、固まること、安定すること、お金を使っていくことなどがイメージできるでしょう。
これをもっと実際的なことに変換した場合、剣は切るので、無駄を省いたり、シンプルにしたり、一気にスピードあげて処理や解決を行ったり、物事をはっきりと決断したり、細かく分析したりということになります。
杯では、受け入れる、溜める、流すという感じになり、気持ちや感情に関わることもありますし、カップに入ればその形になるように、流動的、臨機応変さも想定できます。
杖は、やはり運動的・行動的になりますし、熱意や使命、やりとげる意志のようなものが発生し、創造する、生み出すこと、直感的に動くこともイメージできます。
玉となりますと、固め、安定させていくので、しっかりとした選択、経済的な観点重視、守りも大切、動かないことも選択に入ってきます。
ですから、小アルカナを使うことで、自分が速く(早く)動くべきなのか、ゆっくりでいいのか、あるはもっと待つべきなのか、臨機応変にするのか、生み出すのか、そぎ落とすのか、お金を使うのか、知恵を働かせるのか、人を使うのかなど、大アルカナより、はっきりしてくるのです。
と言っても、小アルカナも象徴であることには変わりないので、具体的なことを示唆するにせよ、その読み取り、受け取りは、最初は多様的・抽象的になることもあります。
しかし、まずは小アルカナの原理である「四大元素」、そしてそれ(四大の本質・エネルギー)が実際世界において行使される形・方法を表すモノとしての「4組」を把握することが大切となってきます。
大アルカナと小アルカナの絵柄がはっきり異なるマルセイユタロットは、その意味があり、これを理解することで、世の中の仕組み、宇宙の原理と働きにおいて、様々なレベルで通底していることを見ることができます。
ああ、こんな風に宇宙はなっているのね、私たちの生活する世界に働いている(影響している)のね、みたいなことが、マルセイユタロットという目を通して得られるのです。
タロットの一枚引きについて
タロットカードの展開法・スプレッドでもっともシンプルなものに、一枚引きというものがあります。
これは文字通り、カードの山から一枚だけ引いてくるというものです。
正逆(描かれている絵の向きが正立の位置になっているか、逆さまの位置なのか)、あるいは詳細に検討する人は、引いた時の微妙な角度まで意味をもたせるものもありますが、最初はまっすぐの正立だけで見ていくほうがいいと思います。
諸説ありますが、私の考えるところ、カードで正逆の位置により、意味や解釈を変えて読むようになったのは、かなりあとのことではないかと推測しています。
最初は普通に、正立の状態の絵を見て判断していたと思います。
というより、本当はタロット(マルセイユタロット)は、カードを引いて物事の判断材料にするというような使い方ではなかったのではないかと、私自身は考えています。
それはさておき、ともかくも一枚引きでは、当たり前ですが、カードがたった一枚しか出ません。
一枚だけなので、そのカードしか手がかりや情報がないわけです。
ですから、意外にこの「一枚引き」のリーディングは難しいところがあります。
一枚引きでリーディングする時、「情報量が絶対的に少ない」という観点から見て、そのままその特性を活かせば、「シンプルに読む」ことが、まずはあげられます。
ところが、人間は意外にシンプルに考える(思う)ことができないことが多いのです。
カードを展開する前には、問いなど、タロットに聞いてみたいことがあるはずですから、どうしてもその問い・質問の内容についてイメージしたり、考えを巡らせたりしています。
これは、カード読みの基本みたいなものなので、問いについて何か想像すること・イメージすることは仕方ありません。(むしろ推奨されることもあります)
ですが、あまりにそれにとらわれると、「問い」に関する事柄や抱いたイメージとの一致を思って、引いた一枚だけのタロットの(絵の)中から、必死で探そうという態度にもなってしまいます。
それが逆に、シンプルな読み方を阻害することもあります。
そこで、まず、シンプルに読むためには、出た(山から取り出した、あるいは表に返した)瞬間のニュアンス・雰囲気を、思考をあまり入れずに素直にキャッチすることです。
それは感覚的・感性的とも言っていいものです。
そして、カードに人物がメインで描かれているのなら、その人物と自分が(想像の中で)会話したり、言わんとするものを感じ取ろうとしたりします。
カードの声を聴くと言ってもいいでしょう。
見るにしても、カードの、特に目に最初に飛び込んできた、あるいはすごく気になった部分に注目してみるくらいです。
そこをボーとした感じで見ていると、ある事柄が浮かんでくるようなことがあります。
まあ、これが一枚引きをシンプルに見てみる方法のひとつですが、これとはまったく逆の見方もあります。
さきほど述べたこととは矛盾するような話になりますが、実は一枚(引き)に膨大な情報が詰まっていると考え、知的に読むやり方があります。
読むというより、分析に近いかもしれません。
一枚というのは確かに見た目は情報が少ないです。ただし、モノの見方を反転すれば、それは実はものすごい情報があると見ることができるのです。
情報を量としてとらえるから、一枚は少ないと感じてしまうもので、情報を質だと見れば、また違ってくるのです。
言い換えれば、巨大な抽象次元に引き上げて一枚を見るという方法になります。
一枚から具体的で現実的な分野や事柄のメッセージを得よう、導こうとするから難しく、情報の量も少なく感じてしまうのです。
これを一枚の中に一切がすべて含まれているとして大きく見ると、最初に細かい答えを探そうとはしなくなります。
大げさに言えば、一枚を宇宙そのものとして感じるようなものです。
そうした大きな抽象感覚をもったあと、再び現実や細かい「自分の問い」のレベルまで降りてきます。この時、タロットの絵柄の象徴(の知識)が活かされるのです。
ただ、最初に述べたシンプルに読む感覚的なものとは異なり、象徴の意味を知識として学んだうえで分析していくような形で、問いの次元に落とし込んでいく性質のものです。
このため、マルセイユタロットのリーディングでは、タロットにおける象徴の知識を深く学んだほうが、直感的なものだけではない、面白いリーディングができます。
感覚的に読むものだけでは、実際、それはタロットカードでなくてもよいところがあります。
乱暴に言えば、、それは何でもよいわけで、自分で作ったカードでも、木の葉っぱでも、感覚的にとらえることができれば、自分に役立てることはできるでしょう。
存在するものすべて、自分の創るものも含めて、宇宙そのものの表現だとすれば、どんなものにも宇宙(神)がある(いる)と言えます。
一枚引きというのは、タロットの引き方の基本だと言われますが、それはシンプルな枚数ということもあるのですが、タロットを引く(タロットが意味を持つ)世界を、自分か創る第一歩であるからだとも言えます。
どんなものでも宇宙を表すと、さきほど指摘しましたが、「タロットを引いてその解釈をする・できる」ということは、タロットで組み上げられる宇宙・世界のモデルを、あなたが創造することでもあるのです。
タロットカードという材料を使って、あなたが世界の創造主となって、自分の世界を創ります。
しかしそれは、「全体」「大元」と切り離されたものではなく、本当の大きな世界の入れ子構造として、これもまた、同じ型を持つ「世界・宇宙」のひとつなのです。
それを実感するために、まずは一枚という最少の枚数で訓練することになります。
この意味で、やはり一枚引きはタロットリーディングの第一歩・基本となるのです。
タロットリーディングの様々な世界(次元)
タロットリーディングというのは不思議なものです。
タロットの種類によっても違いますし、もちろん同じタロットでも、個人の状態・環境・特質などによっても変わってきます。
それでも、いわゆる教科書的な、普遍的に通用する(共通する)カードの意味というものがあります。
ただ、普遍的で誰にでも通用するということは、逆に言えば、当たり前で味気なく(特徴なく)、画一的な意味にもなってきます。
もし私が一日でタロットが読める講座など企画する場合、このような当たり前で普遍的な意味を、半ば強制的にでも覚えてもらいます。(ただし、タロットには覚えやすい方法は伝わっています)
そして今度は問題(問い・占う内容)のパターン別・モデル別に、「型」を習得してもらいます。
展開法(スプレッド)は、固定的でシンプルなものがよいでしょう。
そうすると、一日でも、何とか簡単な「タロット占い」はできるようになると思います。
しかし、わかってはいても、あえてそれをしないのは、そんなことをしても、すぐリーディングに限界が来ますし、タロットに興味を持つという段階においては、最初はいいかもしれませんが、結局その程度では、低次の活用(お遊び)レベルに終わってしまうことになるからです。
ましてや、一日でプロ占い師、プロタロットリーダーになれるというのは、私としては考えられない話です。
それから学習の長さということではなく、読み方の方法ということで見ますと、理論だけ、直感だけという、偏ったものでタロットを読むのは、やはりそのどちらかの偏り止まりの限界に留まると考えています。
ただ、人には個性があり、直感的な読み方のほうがやりやすい人もいれば、論理的な方法で読み解いたほうが腑に落ちるという人もいます。
どちらにしても、一方だけの技法にこだわっていては、広い読み方や臨機応変な対応、さらには深いレベル・高いレベルの読みには到達できないと思っています。
マルセイユタロットの場合、各カードの細やかな象徴の配置と、複数のカードとの関連性は相当詳細で意図をもって描かれていると言え、おのずと象徴の知識、及びその発見と解釈が重要となってきます。
そうした方法に習熟すれば、体調が悪かったり、インスピレーションや直感が冴えなかったりしても、普遍的で的を射た(的をはずさない)読みができます。これは本当にマルセイユ版の大きな利点だと思います。
しかしながら、タロットは心理的・霊的な分野も扱い、目に見えない領域を絵と直感のようなものでキャッチしたり、イメージしたりします。
ここでタロットの霊(精霊)についてあまり詳しくは述べませんが、そうした霊的存在、もしそういう言い方がなじまないのなら、イメージや想念、目に見えない別次元の世界とコンタクトするコミュニケーター・装置のようなものがあると思っていただければよいです。
そうした「タロットの霊的存在」がタロットカードの意味するものを告げたり、インプレッションしたりすることにより、普遍的で教科書的、または論理的な解釈の意味とはまったく違うものとして得られることがあります。
この時、明らかに意識の次元が違います。
タロットを習い、普通に教科書的な意味を中心にリーディングしたりする場合と、自分の直感をもって感じる場合と、象徴の意味や関連性をもって比較的論理的に読む場合と、タロットの霊のような存在を思い(感じ)、タロットの中に参入するかのように読むものとでは、それぞれ次元(周波数と言ってもよいかもしれません)が異なるのです。
ですから、たとえカード一枚であっても、読みも、次元が異なれば違ってくるのが当たり前です。
またクライアントにとって、どのレベル・次元の回答が求められるのかも違います。
特にタロットと直接会話するようなものだと、自分(リーダー)の意志はあまり入らず、向こう(タロット)側から、「これを言うように」とか「これを言ってあげて」みたいに伝わってくるので、どの程度まで述べるのかは、むしろタロット側次第という印象になります。
そういうところが、タロットリーディングというものが、カウンセリングのようでいてカウンセリングではない、一種の託宣やチャネリング的な感じでもあると言えます。
直感を使うのは大切ですが、タロットリーディングは、自分の直感からの一方的なものではなく、あくまでタロットとの協同作業的なものになります。
テキストや、絵とカードの「意味表」のようなものと照らし合わせて、カンニング的にリーディングしているようでは、直感読み以前の問題です。(してはいけないという意味ではありません、初期では必要なこともあります)
そこから離れて、今度は自分の直感、カードの印象から素直に感じてみる読みをお勧めします。
次に、特にマルセイユタロットリーダーの場合は、象徴の知識や位置などを連動させ、高速コンピュータ処理のように、多くの情報を、クライアントのストーリーに合致するようはじき出していく(情報の統合をする)ようにします。
直感読みと、象徴の情報を駆使した論理的な読みとの後先順序は、決まっていません。
通常は、同時に使うことになります。それもリーダーの特質・個性によります。
だいたい、まじめにリーディングに取り組んでいれば、自然に、自分の偏りが是正する方向に向かいます。(そういう体験をする)
次の段階は、タロットと霊的に直接コミュニケーションしていくというものなりますが、いずれにしても、ただ闇雲にタロットを読むのではなく、どういった意識の時に、どういった感覚になり、どういった読み・リーディングになっているのか、注意深く観察していくと、リーディングの質と、目指すところが高みになってきます。
あと、リーディングには個性があり、それは癖になっていることもあります。
あるカードが同じパターンでしか読めないとか、イメージが広がらないとか、そういう場合は、そのカードと自分において、実は深い関係(ブロックや葛藤など)が認められることがあります。
たとえ相手に対するタロットリーディングであっても、実は自分のためにもなっているのです。
純粋な技術不足の場合は別ですが、言わば、読めないことは、自分には恩恵になっていることがあるのです。