リーディング技術・内容

使うことで磨かれる 小アルカナ

これは身体や筋肉について、よく言われることですが、使わないと衰えるということが指摘されます。

また同時に、もともとある能力(身体能力)なのに、それを使わなければ、やはり無駄にもったないことになります。

極端な話、歩く足があるのに、歩かないことを続けていると、最後には歩けなくなってしまうということです。

これは実は、身体とか物質のことだけではなく、精神や心など、目に見えないことでも同様のところがあるのではないかと、タロットを扱っていて感じます。

例えば、思考することを避けていると、思考力が衰え(鍛えられず)操られやすくなったり、悪い意味で単純になったりしがちであり、また感じることを避けていると、感受性は豊かにならず、自分や人の感情・機微、自然の微細な感覚に疎くなります。

ところでタロットリーディングにおいて、マルセイユタロットの流派によっては、小アルカナをあまり使わないところ(教え)もあります。

確かに、カードの特徴を見てみれば、マルセイユタロットにおける小アルカナの、特に数カードは、記号的な絵柄であり、推測になりますが、大アルカナ及び宮廷カードのグループと数カードは別のシステムとしてもともと作られていて、後に合体してひと組になったのではないかと思えるところもあり、大アルカナだけでもリーディング実用に耐えるところも多い気はします。

早い話、小アルカナ(特に数カード)はトランプと同じで、ゲーム用だと割り切ることもできるのです。

ここまで極端ではなくても、、教えられ方によっては、小アルカナはリーディングでほとんど使わないという場合もあるでしょう。

そうしますと、自然に小アルカナを使う時間と機会が減りますから、使わないものは衰える、上達しないということにるのも自然です。

私の考えでは、小アルカナと大アルカナは、一般に思われている以上に適用次元と読み方の違いがあり、それさえわかっていれば、むしろ小アルカナを活用しないのはもったいないことだと言えます。

特に実践的リーディングにおいてはです。

実は小アルカナは読みうんぬんよりも、使うことによって、その象徴原理である四大元素的感覚と思考を自分の中に回復させるという効果が目的だと思っています。

もちろん、実践的に対人リーディングする場合は、読めることも重要ですが、その絵柄の特徴から言って、マルセイユタロットの小アルカナ数カードのリーディングは、的確な答えを最初からリーダーが読み取るということではなく、抽象的次元と具体的次元の行き来によって、相談者自身が持っている答えを一緒に探り当てる作業がその意味だと考えています。

その過程で、どうしても四大元素を意識せざるを得なくなるので、それ自体が訓練になっているのです。

大アルカナで言えば、まさしく「手品師」の作業です。

私の講義を受けている人(基礎コース以上)は、「手品師」が小アルカナと結びついていることはご存じだと思います。これは意図的な描き方なのです。

四大元素的思考や感覚がわかってきますと、実はそれが宇宙や現実の仕組みを理解するのに役立つことがわかります。仕組みを推察してくる力が増してくるような感じです。

四大元素と言っても、単純に4つで分けるものではありません。

マルセイユタロットの小アルカナ数カードが記号的なので、シンプルに4つの意味で分ける人がいますが、それは最初の、あくまで入り口における段階でしかありません。

本当は「4つ」がいくつもの重なっているのです。

一枚一枚を記号や単語の意味のように覚えても、特に小アルカナは余計混乱するばかりでしょう。覚えるなら、まだ「数」の意味を覚えたほうが読みやすくなります。

絵柄は記号なのですが、よく見ていると、絵柄としての特徴も数カードにもあります。それらを眺め、使い、四大の空気や雰囲気を味わうことも大切です。

その意味で、使っていくことは、ある種の能力開発につながり、鍛えられていくのです。

自分が何かにうまくなりたい、何かを向上させたいと思うのなら、頭ばかり・知識ばかりで固まらず、実際的に筋肉のように使っていくことです。

使わないものは衰え、強くなりません。そして一定レベルまで達すると、使わないブランクの期間があっても、そこに戻ることは、前よりも時間がかかりません。

ですから、闇雲に「使う」「実践」するだけではなく、そこはやはり頭(思考)を使い(これも「使うこと」と関係します)、到達レベルや目標を意識しながら行っていくと効果的です。

タロットを眠らせていた人は、せっかくですから、そろそろ使ってみましょう。


マルセイユタロットの構成と次元

マルセイユタロットを絵柄(デザイン)の特徴でわけると、2つのもの(グループ)に大別されます。

ひとつは主として人物や動物、天体など、まさに絵として見ることができるものと、もうひとつは、まるで記号や模様のようになっているデザインのものです。

タロット(ひと組の中)の種類わけの言葉でいえば、大アルカナと宮廷(コート)カードは同じと考えてよく、それに比べて小アルカナの数カード(スート)は、記号的なデザインとなっています。

ただし、数カードでも、マルセイユタロットの場合、1の数を持つエースは絵柄的な感じが強いです。

タロットをゲームとして使う場合、絵柄(絵として見ることのできる)カードである大アルカナと宮廷カード、そして数カードの1であるエースは得点力が強くなっていることが多いようです。

タロットはトランプとの関係も深く、どちらが先に成立したのかは諸説ありますが、どう見ても、マルセイユタロットとトランプはデザイン・構成からして関連があると想像できるものです。

このトランプの場合でも、皆さんがゲームで経験したと思いますが、絵のあるカードは、だいたいのゲームにおいて強かったはずです。

つまりは切り札なわけで、その切り札という意味こそ、そもそも「トランプ」という言葉なわけです。

さて、このようなことをなぜ述べているのかと言いますと、マルセイユタロットの構成・デザインから考えてみて、タロットは78枚がひと組とは言え、大きくわけてふたつ、さらにわけて3つの構成でカードの意味を考察したり、使ったりすることは理に適っているのではないかと指摘したいからです。

2つや3つとなりますと、二元や三元で物事をとらえる仕組みとも共通してきます。

そのため、私がマルセイユタロットを教える時は、抽象世界と具体的世界、言い換えれば、心や精神も含む全体(を表せる)世界と、はっきりと目で見たり、リアルと感じたり、具体的数値で表せたりする現実的世界とをカードグループでわけています。

特にリーディングの時は顕著です。

リーディングは、当然、自分も含めて人々の現実的悩みや葛藤・迷いの問いかけに答えて(応えて)いくものです。

従って、現実との関係を無視できません。しかしながら、人は同時に、空想や想像、イメージ、心や感情でも生きている存在です。

数値で示されるお金であっても、そのお金を使うか使わないかは心や思考が決めています。

また自分でも普段は自覚していないことが、現実の行動や表現として表れています。

つまり、具体的な世界に現れている目に見えていることも、心や精神などの一見あやふやで不確か、目で見ることのできない領域によって規定されていることも考えられるわけです。

ですから、そういった精神や心の世界を投影したり、表せたりできるシンボル・象徴的世界のパートと、具体的数値的世界のパートとの組合せが効果的と言えるのです。

しかしながら、数値的(具体的)世界を示す数カードは、マルセイユタロットは逆に具体的ではなく、抽象的な記号表現になっていることが、現実的読みと適用を難しくしていることもあります。

前にも書きましたが、現実・具体的表現の世界は個別世界でもあるので、それこそ無数の「数」を必要とされるのです。つまりはカードはモノの数だけ求められるわけです。

とはいえ、モノの数だけカードを作るとすれば、それこそ無限に近い枚数になってしまいます。

結局、その無数に近いモノを表すためには、原理的に集約してそぎ落とし、具体的絵柄(絵画的なもの)ではなく、逆に無数の想像が可能な抽象的・記号的(原理的)デザインにしたのだと考察できます。

ということは、もともと記号的なものを想像(イマジネーション)させることは、カードの機能としては想定されていたとも考えられ、そのイメージと想像の呼び水(イメージを呼び起こさせるもの)として、絵柄カード、つまり大アルカナ(一部宮廷カードも)があるのだと思うことができます。

さて、ここで問題なのが宮廷カードの位置づけです。

抽象(絵柄)と具体(数)の二元世界でわける場合、宮廷カードは前者に入ります。

ところが、宮廷カードは数カードと同じ、小アルカナのグループに属しています。

これをどう考えればよいのでしょうか?

そこで三部の次元を適用することになります。

ここでいう三部の次元とは、二元の間、中間を取るということになります。

抽象と具体の架け橋、どちらでも考えることが可能なものの、どちらかに完全に規定されるものではないという意味です。

これは大アルカナでは愚者的な位置になりますが、宮廷カードが人物ばかりで表現されているのは、ある意味、「愚者」のパターンを数値化に近い具体に落とし込んだものと考えることも可能です。

通常、宮廷カードは具体的(現実的)人物(人間)像のパターンとして読みますが、この考えを適用すると、必ずしも人間読みだけとは限らないことになります。

ただし、大アルカナの絵柄にも登場する人物像との違いを明確にするため、やはり次元を現実的フィールドに落としていく必要はあるでしょう。

宮廷カードは4×4の構成となっています。数カードは4×10です。

これには四大元素を象徴させる4組が基本となっているのでこうなっているわけですが、宮廷カードを三部次元の中間と位置づけると、宮廷カードの4と、数カードの10が結びつくことがわかってきます。

この意味ではトランプを研究(比較)することが、実は重要になってきます。

トランプを使うことは、タロットを理解したり、マルセイユタロットリーディングの、特に小アルカナリーディングに役立ったりすると想像されます。

このことは、現在発行している受講者用メルマガ(次号以降)で解説したいと思います。

さて、マルセイユタロットはこのように絵のカードと記号のカードでデザインされているので明確ですが、ほかのタロット種のカードでは、全部に絵がついていることもあります。

すると、それは二部や三部でわけて考えるより、全部を同質や同次元で読むことも可能になったり、そのほうが良かったりする場合も出てきます。

もちろん、絵があるからといっても、小アルカナパートにはその絵に、大アルカナとは異なって、意識的に別の作画(ストーリーになっていることもあり)にしているのが多いです。違いがあるということは、そこから次元を別にした使い方も当然できます。

絵がついているので、むしろ次元を別にしたとしても、読みはしやすいかもしれません。

ただ、同じような絵柄にすべてが近くなるほど、次元を区別した読み方ができにくくなり、次元が下のほうに引っ張られ(数が多いと具体化しますので)、78枚が現実的次元という具体に固定され、ひとつひとつの意味を記号のように覚えてしまうおそれもあります。

78枚が同じような絵柄の時は、小アルカナの4組など、しっかり原理を理解しておく必要はあるかもしれません。

一方、マルセイユタロットの場合は、もともと違いが明確なので、原理は意識的にも無意識的にも入ってきやすいというのはあるでしょう。しかし、数カードをイメージして読むことは難しくなっています。

だからこそ、マルセイユタロットは全体構成を理解したうえで、大アルカナと小アルカナ、絵柄のカードと記号のカードをセットで見て、統合的に読まなくてはならない(扱わなければならない)のです。


自己リーディングの工夫

タロットで自己リーディングするのは難しいとよく言われます。

その大きな理由は、自分のことだけに、客観的に見ることができないということにあります。

タロット(リーディング)のほとんどの部分は、実は主観的なものですが、その主観にもレベルの違いがあり、通常(人へのリーデイング)は(言葉としては矛盾しますが)、客観的主観みたいなもので読んでいます。

しかし、自分のことはやはり様々な感情や計算(つまり思考)が影響しますので、なかなかそれらのどれかに囚われたり、混乱させられたりして、これという一定の状態で読むことができなくなっているわけです。

逆に言えば、人に対してのもの(対人リーディング)は、読み手がある程度、一定の状態にいる(客観性を保つことができる)ということになります。

ルールや規則というほどではありませんが、そうしたタロットの意味での「ある法則性」が読み手の中にぶれずに存在している時は、客観的な感じで読むことができるのです。

普通はなかなか、自分のことをリーディングするのに、自分を切り離して読むことができないので、一定の境地・法則性の世界に留まることができず、苦労するわけです。

それでは、自己リーディングをどのように行えば、うまくタロットから自分への示唆を得ることができるのでしょうか?

結論から言えば、自己リーデイングはできないと思ったほうがいいということになります。

これでは身も蓋もありませんね。(笑)

もっと身も蓋もある(笑)言い方に直しますと、自己リーディングと対人リーディングは別物(別種)だと考えればよいということです。

対人リーディングと同じような方法と考え方をしていては、自己リーディングが難しく、読みにくくなるのも、むしろ当然なのです。

詳しくは講座で述べますが、簡単に言えば、自己リーディングは抽象的示唆でよく(抽象的なものこそがメッセージだと見る)、対人リーディングは比較的具体的なものまで落とし込む必要があると言えます。

わかりやすく言えば、自己リーディングでははっきりしたものを得ようとせず、大まかな方向性を知るために行う感じで見る(読む)と楽になってくるということです。

例えばAとBとCのものでは、どれを選択すれば自分にとってはいいのか?と問いに答えるとした場合、Bがよいとか、Cがダメとかでの回答ではなく、「今は積極に出たほうがいい感じ」「今は慎重に、控え気味という感じかな」と、全体のニュアンスをタロット展開から感じ取るというような、こうした読み方をします。

その上で、Aを選択することが、さきほど見た全体的なニュアンス(タロット展開の総合的方向性)に叶っているように思えたなら、その選択をよしとすると見ます。こうした見方であれば、ただ一つが正解となるのではなく、別にAかB、どちらでもOKと取ることもあり得ます。

自己リーディングは、具体的ではっきりした「やり方」を得ようとせず、大まかな「あり方」の示唆を受け取るという姿勢で読んでみてください。

ということは、タロットカードを、本当に象徴的に読むということであり、具体的物事や人物、時期に置き換えることまで無理にしなくてよいのです。

結局、タロットを象徴・シンボル的に読むことが自己リーディングのあり方でもあり、それはすなわち、タロットを自己洞察や自己省察、自己整理に使うという方法に自然になってくるものなのです。

このことがわかってくれば、タロット展開の方法でさえ、対人リーディングで行うものとは違ってもよいことが理解できます。時にはタロットを引かずに、タロットを想像するだけでも、自己リーディングとなります。

そうはいっても、もっと具体的、明確にメッセージが得たいという人の場合は、対人リーディングの方法を採用したくなると思いますので、その時は、同じタロット種を使う仲間とか、プロの人に「(相手から見て)対人リーディング」(普通のタロットセッション)をやってもらったほうがいいです。

純粋な対人リーディングの技術と方法で行うものでは、自己リーディング(自分で具体的ではっきりした回答を得るもの)は難しい、いや、できないのだいうくらいに認識しておくと、混乱せずに済みます。

まあ、それでも何とか自分で対人リーデイング的に読みたいという人は、方法がないわけではありません。

一番よいのは、自分が引いたカード展開を、時間や日にちを置いてもう一度見てみるということです。その間は、問いやタロットのことは忘れているくらいのほうがよいです。

いきなり忘れるのではなく、引いた直後はいろいろと検討したり、自分なりに読んだりして頑張ってみて、その上で翌日からはきれいさっぱり忘れるくらいにするという、負荷をかけたあとに手放すということをやってみてください。

すると、表面意識では忘れていても、別の意識では問いの検索がタロットの映像とともにずっと行われているので、やがて回答が導かれてインスピレーションのようにやって来るようになります。そのためには、一定の間をおく時間が必要です。

そうして改めて、寝かせておいた(笑)ネタと展開を再び見ることで、最初読んだ時とは違う感覚を得て、意外にすんなりとメッセージや示唆を得ることができます。

これは時間というものを利用した客観への移行です。

現実的な意味では、自分が変容する(意識が変わる)ためには、時間か距離の移動が必要とされなければならないからです。

つまり、時間を置いたあなたは、かつての自分とは別の自分になっており、それがために、違う読み方ができる可能性が高いのだという理屈になります。

つまりは、「自分であっても別人になる方法」を演出すれば、他人にタロットを読んでもらうような対人リーディングと同じ効果が期待できるのです。


言葉の暗記と、象徴として扱うことの違い

タロットは象徴・シンボルで理解したり、メッセージを受け取ったりする仕組みのものです。

初心者にありがちなタロット学習の誤解は、カードの意味をとにかく暗記すれば読めるようになるという思い込みです。

それはカードを読むのではなく、カードに当てはめた単語を述べているに過ぎません。

それでしたら、究極的にはタロットでなくても、どのカードでも、いやどんな「モノ」でもいいことになります。

むしろカードの絵柄で意味を探るより、最初から白紙のカードに、自分で言葉や単語を書いて、それを裏向きしてシャッフルして選ぶようにしたほうが、はっきりしていいかもしれません。

それはオリジナなカードなので、まさに“オリジナルな”セッションやカウンセリング、相談に活用できる可能性もあります。

私はこれ(文字カードのようなもの、そういう読み方をすること)が悪いと言っているのではないのです。

何でも根本的にはそうですが、いいも悪いもありません。

いいか悪いかを決めるのは、自分自身か、ある一定の範囲で共通認識されている「規範やルール」のようなものによってです。

話がそれましたが、別にカードに文字を書いてみる方法も、カードの絵柄を象徴的に読んで解釈する方法も、目的さえしっかりしていて、その目的に適うものならば、手段としてはどんな方法でもいいことになります。

ここで、タロットを象徴して読むことと、単語のように暗記して意味を覚えることとの違い(問題)を、ある例で示したいと思います。

ある人が「進むか、そのままでいるか」で悩んでいたとします。

そこで、この人の前に、ひとつはタロットとして絵柄のあるカードを引いて、アドバイスを求める方法と、もうひとつ、先ほど書いたような、カードに絵柄はなく、言葉だけが書かれているものを引くことで、何か示唆を得ようとする方法が提示されたとします。

この時、この人は後者の文字カードのようなもの選択し、自分が引いたカードを開けてみると「前進」と書かれてあったと仮定しましょう。

そうすると、「やはりGOのほうがいいんだ!」と思うでしょう。

まあ、「前進」とあるのですから、まさしく文字通りです。(笑)

次に、この人がもしタロットもやってみたいということで、続いてタロットの一枚引きをしたとします。

すると、「戦車」が出たとしましょう。

最初に「前進」という文字カードを引いているので、タロットの「戦車」の意味がわからずとも、絵柄の雰囲気として、「進むことがよいような印象」を受けるでしょう。

これが逆だったらどうでしょうか?

最初にタロットを引くことを選択して「戦車」が出ました。しかも正逆を採用する引き方で、逆(位置)だったとします。(あるいは「吊るし」のような、絵柄からは停止状態ともとれるようなカードが出たとしてもいいでしょう)

次に文字カードを引くと「前進」というカードが出ました。

ここで、タロットの意味を言葉(記号のように単純に一単語のように覚えている場合)として、もし覚えていたのなら、逆位置の印象からしても、簡単にGOという意味を抱くことは難しいと思います。

しかし、文字カードは「前進」と出ています。

いったいどう解釈すればいいのか・・・たいていの人は迷ったり、混乱したりするでしょう。

これが実は、タロットを記号的・単語的に意味を覚えてしまってはまずいことの例えになっています。

普通、タロットリーダーは文字カードのようなものと一緒にタロットカードは引かないでしょうが、タロットを単語的な意味で覚えてしまっていると、脳内では、上記の文字カードとの矛盾と同じようなことが起こっていると想定できるのです。

つまり、単語で覚えている意味と、タロットの出方や印象、あるいは質問者の問いの内容・回答に、単純にあてはめることができないことの矛盾(葛藤)で悩んでしまうわけです。

人は通常は、常識的な論理思考、または因果思考(原因と結果の関係性が理解できるもの)で生きています。本当はそうではないのですが、表向きと言いますか、よく使っているのはそれです。

ところが、タロットの場合、上述の、文字カードのメッセージとタロットの示唆とが矛盾するようなことがよく起こります。

普通の意識と思考では理解不能であり、頭の中は混乱します。

しかし、象徴の世界では、表面世界で私たちが常識的に考え、とらえている世界での矛盾も、統合できるようなところがあるのです。

それは通常の論理ではないため、言葉や文字では表しにくいのです。(のちほど、言葉としても説明できるよう整理されてきます)

ですから、皆に見えて意味が共通で決まっている「言葉や文字」ではなく、個々人のイメージや心の世界で把握することになります。

言葉では説明しにくいけれども、印象・イメージでは真意は受けとっており、心では(なんとなく・抽象的でも)わかっているという感覚のものです。

時間で例えれば、普通は過去・現在・未来と流れていくと思っていますが、イメージや象徴の世界ではそれらがとっぱらわれ、過去や未来が現在・今に作用してきます。

過去のことで言えば、過去を今の問題と扱うこと(関係・リンクさせること)で、過去の自分の意識に作用させ、今を変革するということになります。

脳内では過去データの書き換えということを行っているのかもしれませんが、書き換えやデータアクセスのためには、次元や枠、常識を超えるための象徴やシンボルが必要なのです。

言い換えれば、象徴世界に飛ぶことによって、現実世界の自分では「できない」とか、「矛盾する」とか、「混乱している」「わけがわからない」「どうすればいいかわからない」とか思っている(考えている)ことを統合したり、解消したりしてすっきりさせ、再び現実世界に戻ることで、自分が生きやすくなるということです。

さらに言うと、イメージやイデア(理想)の世界・形而上の世界、目に見えない世界というような裏の世界と、現実的・常識的・論理的・合理的世界の表の世界があるのですが、裏の世界は、言ってみれば、すべてOKの世界で、そこには通常を超えた別の論理があり、だからこそ一見カオスでもある世界のようでいて、別の論理では極めて秩序だったオーガナイズされた世界にもなっています。

反対に表の世界、つまり私たちの普通に生きる現実の世界、常識の世界においては、一見整理され、秩序ある世界のようですが、そこからはずれたもの、当てはめられないことが起こった時は、存在するのが難しいほどのカオスになってしまいます。

「統合と分離」と例えてもいい「裏と表の世界」です。

分離で安定しているのが表ですが、分離しているがゆえに、その分離で悩むことがあります。

そこで裏の世界と接触することで、統合を果たすアイデアを得るのですが、あまりにそちら(裏)側の世界に没頭すると、そこはすべてがつながる印象世界ですから、まさに現実離れのような感覚となり、夢で生きるような物言いや表現になります。

場合によっては人のことと自分のことが区別がつかず、傷ついたり、ダメージを受けたりします。

忘れてはならないのは、私たちは肉体をもった分離の現実世界に(も)いるということです。「生きている」ということは、通常ベースがそこにあるのです。

ということで、最初に戻りますが、タロットカードを「象徴」として扱うこととは、ふたつの世界を統合することにつながり、同時に、分離で生きる現実世界において、別の観点からの納得感を与えることになります。

もしただの「言葉カード」として、意味を暗記してだけの扱いでは、今まで通り(以上に)の表の世界だけに自分を閉じこめておくことになるでしょう。

またタロットを象徴的に扱っても、偏った思いと活用をすれば、裏の世界の論理が極端になり、先述したように現実と乖離していくことになります。


タロット展開の「過去パート」を読むこと

タロットの展開法(スプレッド)では、過去パートを象徴させる並べ方があります。

占いの観点でタロットを見てしまうと、過去というものはすでに過ぎ去ったことなので、いったい、その解読に何の意味があるのか?と思ってしまうことでしょう。

占い的に知りたいのは「これからのこと」であり、まさに今と未来への関心であり、「なになにはうまくいくのか?」「誰それとおつきあいするのはどうか?」」「将来、どんな仕事が向いているのか?」・・・みたいな問いが中心です。

ですから、過去パートを象徴するタロットカードへは、「こういうことがありましたね」「こういう思いでいたはずです」という、あくまで過去の確認という読みになって、さらっとふれるだけになることが多くなります。

しかしながら、この「確認作業」もまったく意味がないわけではありません。

ひとつには、占い師の技量、あるいはカードへの信頼性が試されている場面でもあり、過去の出来事がカードによってズバリ示されているとすれば、占ってもらっているほうは驚きと確信が増し、当然、未来についてもきちんと出る(示してもらえる、当たる)のだと思うことでしょう。

さらに、意外に人は過去のことはよほどインパクトのあること、印象的な出来事以外は忘れているもので、そのあまり記憶には残っていないことが、案外、現在の問題や将来の方向性に関係していることもあるのです。

例えば、皆さんにも経験があると思いますが、なくしたものを探す時、今の記憶にないから実際になくしているわけですが、厳密には記憶(データ・経験したもの)は残っているはずで、単になくした状況を思い出せないということに過ぎません。

モノを失う時の出来事が、今の自分にとって強い印象のものではなかったので、データとしてはあっても、思い出すことができないのです。

それが過去をふりかえることで、何かのきっかけで思い出す(なくした時の状況データにアクセスできる)ことが可能になると、「そうか! あそこで落としたんだ!」と、ぱっとひらめくことになります。

これと同様に、タロットカードの絵柄の象徴で「過去パート」を省みることにより、意識していなかった今の問題の要因に気づき、これからの行動や選択に影響を及ぼすこともできるわけです。

ここまで述べてきたことが、いわゆる「占い」、あるいは、「占い」をしながらカウンセリングも行う方法でタロットを使う場合の、過去パートリーディングにおける効果と考えられます。(もちろん、ほかの効果もありますが)

実は私が意識し、講座でも伝えている「タロットリーディング」というものは、こうした占い観点での使い方だけではありませんので、展開法に過去パートを象徴させるものがあっても、それを読むことは、また違った意味合いがあるのです。

それはシンプルに言えば、過去の書き換え作業ということになりますが、時間概念としての過去の物理的出来事は変えられませんから、主に精神的なことになります。

こう書くと、「なぁ~んだ、過去における思い方を変えればいいんだ」と思ってしまう人もいるでしょうが、確かに文章で言えばそういうことになりますが、そこには様々な次元操作があり(人による操作ではなく、タロットによる操作と言ってもいいものです)本質はシンプルでも、表現やとらえ方、方法は複雑です。

例えば「時間」を焦点として見ても、それは一時的に時間概念を超越することになりますので、結局、過去パートと言いつつ、「現在」「未来」という「区分け」「枠」もあまり関係なくなってきますし、それらが同時に影響し合っていることをカードを通して知るようなことになります。

現実はしっかりと認識し、現実(常識の容認・地に足の着いた状態)として生きねばなりませんが、現実だけに囚われるのも問題なのです。

現実を超え、また現実に戻るという作業が大切です。それには過去や現在、未来という、私たちが作る時間枠・時間概念への操作にも関わってくるのです。

タロットリーダーはそういう意味では、SF的(空想的)であり、しかも現実的でなければなりません。

そんな意識になるためには、グノーシス神話などにふれ、体感する必要があります。

私の考えるタロットリーダーは、結局「愚者」として、時間や次元の旅行者となることが重要だと思っています。

「時をかける少女」ならぬ、「時をかけるタロットリーダー」ですね。(笑)


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