リーディング技術・内容
繰り返し、継続の力。
マルセイユタロットの「法皇」や「太陽」を見ていますと、よく言われる大切なことに気がつきます。
それは「繰り返し行う」ことです。また継続の意味でもありますね。
そして「継続は力なり」と語られるように、これはやがて絶大なパワーを発揮します。いわば「太陽」のような自己に輝きをもたらせるのです。
マルセイユタロットの「力」が太陽と関連するのもよくわかります。
私たちは単純で地味な作業の繰り返しはあまり好みません。やはり飽きてしまうからでしょう。
しかしながら、何事もシンプルな作業の継続によってひとつの型を習得し、その型の中に実は様々なものが込められていることに気づいていくことが重要だと思われます。
この「ひとつの型にすべてが込められている」という発想が持てるかどうかで、継続する気持ちやモチベーションも変わってくると考えられます。
こうした考え方は、タロットにも流れている四大元素の構造や円の発想に近いものです。
いわば「一は全、全は一」というものです。
それから単純な作業は頭を使うことから次第にはずれてきますので、ふっと思考の枠からはずれ、一気に物事の本質に行き着くことがあるのです。
おそらく日本人がいろいろと「道(どう)」として型をシンプルに繰り返し鍛錬してきたのも、そうしたことと関係していると想像できます。
タロットリーディングも枚数を少なくして、淡々と毎日継続してみるとよいです。
これはリーディングの練習というよりも、継続習慣によるタロットと自分の自然な関係を醸成していくというものになるでしょう。
いわば肩の力を抜いたタロットとの関係作りです。
そしてタロットの時間を重ねた分だけ、先述したように実はあなたの「力」となっているのです。
「直感力や霊感があるから」とか、「もうだいぶん読めるようになった」とかで実占だけしかやらない人より、なかなかうまく読めなくてもコツコツと練習を繰り返しやっていた人のほうが、結果的には伸びがよかったり、理解が深かったりします。
継続しながら一歩一歩積み重ねた結果は、マルセイユタロットの「神の家」が示す通り、あたなに「王冠」がふってくることになります。それはひとつの王国なのです。
タロットカードの選択と特質
タロットを学ぶ人で、カードの選択ということで見ますと、大きくふたつのタイプにわけられると思います。
1.ひとつの気に入ったカードにこだわり、それをずっと使い極め続ける人。
2.たくさんのカードをコレクターのように集め、時々によって使い分ける人。
あなたはどちらのタイプですか?
私は前者であり、マルセイユタロット一筋です。(笑) 実はほかのカードによっては、扱うと体調が悪くなるものもあります。(^_^;)
これはマルセイユタロットになじみすぎているからこうなるのか、あるいは相性やエネルギーの問題があるからなのか、わかりにくいのですが、その両方だと思います。
私がどれほどマルセイユタロット好きなのかといえば、タロット以外のいわゆるオラクルカードなどでも一切使わない(遊びや他の人のもので引くことはあります)ということからも想像していただければよいです。(苦笑)
ただトランプは使います。なぜならばマルセイユタロットの小アルカナとトランプは関係し、図案も似ているからです。トランプは普遍的で図も記号的であり、一般的には絵に癖がないからでもあります。
それにこれは大きな声ではいえませんが、ほかのタロットやカードを使おうとすると、私のタロットの精霊がささやくような気がするのですね、「浮気するな」と。(笑)
ただこれはあくまで私のスタンスです。
人によっては最初にあげた二タイプのうち、後者、つまりたくさんのカードを扱うスタイルがあってもよいと思っています。純粋にコレクション、カードマニアとして楽しめばそれもまたよしです。
けれども、リーディングをして対人援助を試みるという観点では、ある程度「核」となるカードをもっておいた(決めておいた)ほうがよいと思います。
その都度カードを変えていくというのは、結局どれも中途半端なリーディングに終わる危険性があります。
私の知人のある有名占い師の方は、タロットを数種扱ってリーディングされていますが、聞いてみると、やはり問題の種類や質、使う目的によって区分けしているそうです。
たとえば状況の判断や吉凶的にはこのカード。カウンセリング的に自己を見つめてもらうにはこのカードというようにです。
カードには実はその扱う人の種類や質・数によって、占いにおいてはある種の特徴や得意分野というものができています。これは目に見えない積み重ね、情報・レコード(記録)のようなものと考えればよいでしょう。
「○○という使い方」でそのカードがたくさんの人に使われてきたのならば、その情報が、「ある世界」で刻まれているということです。
そのため、自分がそのカードを使うことになれば、その記録庫にアクセスすることになりますので、自然にこれまでの蓄積や特徴もダウンロードされることになります。
カードによって占いの特質が出るのも、スプレッドやリーダー・占い師の要因だけではなく、カードそのものに特徴があることも付加されると想像できます。
結局のところ、前にも何度か記事にしたように、私たちはタロットカード(タロット以外のカードについても)を自分が選んでいるように見えて、その実、カードから選ばれていると言ってもよいのかもしれません。
あなたも相思相愛のカードを見つけましょう。まあ、まずは片想いでも結構です。ふられることもあるかもしれませんが、両思いになることもあります。
恋愛でもそうですが、ビビッと来た、ピンと来たという出会いもあれば、行動してつきあううちに両思いになるということもあるのです。タロットは人間のようなものなのです。
リーディングの固定化を防ぐために。
タロットを学習し、リーディングの修練を積んでいくようになると、ある程度自分の読み方のパターンが決まってきます。
これは致し方のないところだと思います。
パターンや型があるのは決して悪いことではなく、むしろひとつの基本、セオリーとしてとりあえずは身につけておきたいものです。
型があれば自分の体調の変化や感覚のずれによってリーディングにぶれが出そうになっても、何とか「型」によって大幅に逸脱することなく収めることができます。
ただ何事も行きすぎはよくなく、セオリーやパターンばかりでリーディングを続けていれば、それこそ型にはまったワンパターンの単純な読みに固定されてしまいます。
これを防ぐためには、やはり他人のリーディングに接することが一番よいでしょう。
もし勉強会や人のリーディングを見るイベントなどの機会があれば定期的に参加して、自分の読みと比べてみると刺激が与えられ、リーディングの固定化を予防できます。
また、まったくタロットを知らない友人やパートナーなどに、「どう見えるか?」「どう感じるか?」とカードを見せて質問し、その答えを素直に受けてもよいです。
これは何も知らないからこそ、枠をはずれた斬新な読みができることもあり、それがまた慣れた読みをしているあなたにインパクトを与えることになるのです。また初心のフレッシュな気持ちを取り戻す効果もあります。
それから、リーディングの立ち位置を変えてみるということも面白いです。
これはいつもリーディングしているスタイル・場所を変更してみるということです。
自分リーディングをしていたら、クライアントの立場になって対面側に回ってみる、あるいは横や斜めに移動してタロットを観察する、時には一枚のタロットに極端に近づいてミクロ的な観察をするなどやってみるのです。
角度は見方の違いにつながりますから、これまた意外な発見があったり、インスピレーションがわいたりします。
またスタイルを変えるという点では、リーディングする時間を変更してみる(早朝や就寝前、たそがれ時など)、場所も家ではなく、ほかのところで行ってみることも考えられます。
ある程度自分のやっているタロットの理解ができてきたと自覚していれば、ほかの種類のタロットの解釈にふれてみる(書籍なとで読んでみる)ということも場合によってはありです。
ただこれは注意しないと、自分の今までしてきたタロットとの統合がとれず、かえって混乱することになりますので、最初はあくまでさらっと見る程度にし、自分のタロットの理解度の上昇につれてほかのタロットも見てみていくというようにしたほうがよいでしょう。
コツとしては、カードの意味や言葉を覚えるのではなく、その奥に象徴されているカードの元型(根源)を考察すること、一見抽象的とも思えるそのカードの表す「核・コア」を補足しようとすることです。
するとほかのタロットの理解も自分のタロットを通してある程度は可能になります。
ほかのタロットにおいて、絵柄として自分の学んできたタロットと同じものが描かれていないかを見て、それを比較検討するのも「元型」を把握するのに役立ちます。同質性と異質性をしっかり観察するのです。
私のタロット講座を受講された方は、大アルカナから気づいたことを記載するノートを渡してありますので、それを続けて折に触れ記入していくことですね。
ただそれだけだと結局やらないことになりがちなので、強制的にそういう時間や日を習慣的に持つようにするのです。
そうして二冊目になった時は、リーディングの幅もかなり広がっていることでしょう。
それからわからないからと言って、いきなり本や習った時のノートを見るのではなく、まずは自分でリーディングしてからあとで確認するという癖をつけないと、いつまで経っても臨機応変にリーディングすることはできませんので注意しましょう。
タロットの凶札を考察 その2
昨日の続き です。
一般的なタロットにおける凶札的扱いをされる二枚のカード、「塔」(神の家)と「死神」(13)について語っています。
昨日は凶と意識するその根本には、人間ではコントロールすることのできない「神」なる自然の領域への畏れ(恐れ)があるとお話しました。
本日はそこから一歩踏み出し、二枚の畏れを見ることで、これらを凶的に意識し過ぎないようにする方法について述べてみたいと思います。
そもそも22枚の大アルカナに吉凶やランク付けをしない見方をすれば、何もこの二枚を忌み嫌うことはなくなるどころか、人間にとって必要なよいカードであると認識できるのですが、今はあえて吉凶的な見方をしている範囲で説明しています。(それゆえ、あえて私が通常読んでいる「神の家」や「13」という表現ではなく、「塔」や「死神」とも呼称しています)
まず大切なことは昨日の考察です。
通常、二枚に対する恐れは、自分にとって都合の悪いことの起こる前兆として意識することで、その「不安」が呼び起こされているように思えます。
しかし実はそれは自分たちが制御できない「神」(の分野・力)に対する畏れだと説明しました。
そしてそのことから導き出されるのは、逆説的なのですが、私たちがこの二枚を恐れる原因のひとつには、神への畏敬の念が少なくなっていることがあげられるのです。
特に敬う気持ちが少ないのです。私たちは近代以降、何でも人間の力でコントロールできる、理解できると考えてきました。
そのことは悪いことではなく、思考と科学の発達を呼び、無知蒙昧・迷信の世から私たちを救って来ましたし、これからも人類に恩恵を与えることでしょう。
ただしやはりすべてを人間が制御できるものと考えるのも問題でしょう。
私たちは何者か、大いなるもの(神や宇宙・天という表現できるもの)に生かされているのだと感じつつ、私たちにできる範囲で努力していくという視点が大切な気がします。
人智を超えるわからないことは神の領域だと思えば、すべてをお任せする気持ちにもなってくるのではないでしょうか。これは人間の行動・努力を放棄すると言っているのではありません。
神や宇宙に生かされているという視点を持ちつつ、無理のない範囲、必要の範囲と姿勢で自然と向き合っていくということになるでしょう。
言ってみればバランス感覚であり、全体的な観点から局地的・局所的な集中・過剰や弛緩・不足を調整していくというものでもあります。
川の流れに無理矢理に逆らって生きるのではなく、流れに乗って自然の法則に従い努力するというものとも言えましょう。
ということは、大事なのは宇宙や天・神の法則を知ろうとすることです。それがわからないと、自然に合致することもできないからです。先の例でいえば、川の流れがどのように動いているかを知るということになるでしょう。
その上で川を少し動かしてもいい時もあるでしょうし、反対にそこを動かしたり止めたりすれば全体に影響するということでダメな場合もあると思います。
さて、二枚(「塔」「死神」)について戻りますが、結局、この二枚に対してどうすればよいかですが、端的にいえば恐れるのではなく畏敬の念(畏れと敬いの心)を持つということになるでしょう。
日本人はこのことには敏感に昔から気付いており、神社や鎮守の森、今で言うパワースポット的なところは聖域として自動的に守る工夫を凝らしていました。
たとえば神社のあるところはその下に断層が存在する場所も多いことがわかっています。
断層は今では地震と結びつく悪いイメージでとらえられていますが、いわば大地のエネルギーの噴出箇所でもあり、溜まった大地の爆発的エネルギーを調整している場所でもあると言われています。
大地のエネルギーは地震を引き起こす恐いエネルギーでもありますが、そられを畏れつつも、敬い鎮めることを日本人は物理的にも精神的にもしていたと考えられます。
聖域として残していなかったら、やがて町や都市ができ、大地のエネルギーをふさいでしまうことになって、溜まったエネルギーが地震や火山となって爆発していたかもしれません。
面白いことに、タロットではカードの数でいえば「塔」「神の家」の次は「星」であり、「死神」「13」の次は「節制」になっています。
次のカードが非常に穏やかな祈りや自然、交流や調整を示すカードになっているのですね。特にマルセイユ版では顕著だと思います。
よって、私たちが凶札と認識しがちの二枚にすることは、敬いお祀りする(ような気持ちでいる)ということです。
このカードを引いてしまい、もしかすると自分にとてつもなく凶のことが起きるかもしれないと思って恐怖するかもしれませんが、このカードたちは元来人智を超えたパワー・神なるエネルギーを象徴すると考え、自己の傲慢さを反省し、自然や神を敬い、生かされている感謝の気持ちを持つことです。
いわば、あなた自身が「星」や「節制」となって、荒ぶる神を癒す気持ちになるのです。
また、わからないこと、恐いと思っている運命も神の思し召しだと思って自分を投げ出してお任せする境地になってみるとよいでしょう。
そうしていると、カードを吉凶でとらえていたのは、実は自分の生き方が吉凶的な考え方をもとにしていたことに気がついてきます。
そのことに気がつけば、カードの読み方・見方も変わり、あなたの生きるフィールドも別の次元へと導かれます。
これがとても重要で、楽になる生き方なのです。
恐るべきことに、あなたのタロットカードの使い方によって、あなたの生き方・考え方も規定され、そうした人生を歩んでいくことにもなるのです。
タロットの凶札を考察 その1
マルセイユタロットの大アルカナ22枚は単体(カード一枚一枚)としても、また全体としても極めて優れた象徴性を有します。
そのとらえ方について私の講座では、特にふたつの考え方を呈示しています。最近では図面を使って説明しているので、よりわかりやすく理解できることでしょう。
それで実は22を用いる象徴概念としての見方は、ほかにもいくつかあるのですが、さらにもうひとつ紹介するとなれば、いわゆる「占い」的に「吉凶」として22枚を見る方法があります。
これについても今まで何回か語ってきたところですよね。
実際にはこの見方は弊害もあるので、お勧めはしていませんが、現実場面においては吉凶判断的見方もありえます。
ただそれはそう意識するレベルにおいてのことであり、誰もがカードと現実の吉凶が結びつくわけではないと私は考えています。
ただ、この吉凶レベルというのは今の私たちの思考レベルではよくある(普遍的)レベルになっているので、カードによって吉凶を感じたり、カードが吉凶自体を指し示したりするということは、多くの人が体験してしまうのです。
ちょっと難しい言い方になっていますが、要は私たちは吉凶で世の中を感じ、生きている人が多いということです。
その限りにおいては、カードによる吉凶占いはよく当たります。
それで、吉カードならばまあ問題はないわけですが、凶的なカードを引くと誰でも嫌ですし、怖いとさえ思うでしょう。(タロットが恐いという人は当たるということもありますが、こういう使い方しか知らないからです)
一般的には「塔」(神の家)とか「死神」(13)と呼ばれるカードが、その凶的な二大代表と言ってもよいかもしれません。
私はこの二枚に関しては、「恐れ」というものが共通としてあり、さらにそれは「畏れ」という字で表現されるものとつながっていると感じます。
単なる自分から出る不安という種類ではないもの、自分や人智を超えた恐るべきもの、怖さと恐れ(畏れ)が合わさった畏怖すべきものへの気持ちが込められていると思うのです。
それは今年の日本人、いや世界の人も感じたかもしれない自然災害などの予想もつかない怖ろしいもの、コントロールのできない恐いものといえるかもしれません。
かつて私たち日本人は特にこの畏れを大自然に感じていたと想像しています。そこに人を超えた存在、すなわち「神」を見たのでしょう。
また人や生物に必ず訪れる「死」も私たちが決してコントロールできないものです。老衰であれ、病であれ、事故であれ、その死を正確に予測し、思うように制御することは今もって不可能です。
ここに昔の人はやはり死について畏れを抱いてきたと考えられます。
再度繰り返しますが、「畏れ」というのは単に自分から出た不安ではないとお話しました。
何が違うのかといえば、怖さだけではなく、そこに敬意や崇拝の念が込められていたということでしょう。言い換えれば「畏敬の念」です。
なぜならばそこに「神」(の存在)を見ていたからです。
その証拠に先に挙げた二大凶的カード、「塔」は別名「神の家」であり、「死神」も「死」があるとはいえ「神」の名前がついています。
結局、この二枚は凶でありつつも、「神への畏れ」をもっとも表現しているカードと言えましょう。
ここまでわかってきたのなら、今度はこの二枚を単なる凶事との結びつきから変換していく作業も可能になってきます。
少し長くなりましたので、それは次回にて。