リーディング技術・内容

タロットリーディングの関係性

この(現実の)世の中は、どこまで行っても、ある種の二元による世界と考えられます。

二元に分かれる(ように感じる)からこそ、形や実感としてとらえられてくるとも言えます。

例えば、一日の区切りも、昼と夜の違いが生まれ、私たちは「一日がある」「一日である」と見ることができます。

要するに、識別、理解、認識には、逆説的ではありますが、物事を分けて見る力が必要なわけです。

そして、その分けている世界を統合できる見方・レベル・次元に自らを導くことができれば、まさに次元上昇として、認識・理解のレベルも向上すると予想されます。

これはまた逆からの話になりますが、次元を上昇させるには、その今の次元においての二元の区別が、はっきりできないといけないわけで、そのうえで、分けられたふたつが、どちらも本質的に同じであるという認識が生まれる必要性があるのです。

この、「違いでありながら同じである」とわかることが、すべてにおいて、統合、あるいは、次元上昇の鍵を握っているものと思われます。

さきほどの一日の昼と夜の例においても、昔は、太陽が昇って沈むという二次元的、平面的見方が中心で、すなわち天動説的な見方であったわけです。

この状態では、昼と夜の違いは、太陽があるかないかの違いであり、しかし、太陽のある昼と、太陽のない夜とでは、「同じである」という見方はなかなかできないものでした。(このため、太陽が死んで生まれる・再生されるという見方も普通にありました。←ただし、この太陽の死と再生の見方は、哲学的・象徴的には高度なものを含んでいる場合があります)

ところが、地動説的観点により、地球が回転(自転)して太陽の周りを回っている(公転して)いるという発想が出てからは、昼と夜の違いは、ただ回転体の見るポイントの違いであり、地球ひとつとしては同じものだということの理解ができるようになりました。

さて、ここで、話題が変わりまして、タロットリーディングについての話になります。

タロットリーディングは、クライアントの問題についてタロットを展開させることで、タロットからの示唆をふまえて、クライアントを援助するものと言えます。

とすると、タロットリーダー(タロットを読む人)とクライアント(他人の場合)との間には、助ける者と助けられる者、援助者と被援助者という関係性が出てきます。

これは、分かれているので「二元」ということになります。

タロットリーディングの関係性に限らず、およそ、誰かを助けたり、援助・サポートしたりしようとすれば、そこに対象としての(助けられる、助けられたい)存在(者)が現れます。

ですから、ボランティアであれ、仕事であれ、助けるということをしたいと思った時、同時に、助けられる存在の想定が(どこかで)生まれていることになります。たとえ実存しなくても、想像の世界では必ず生まれたことにもなります。

つまり、助けるという救済の行為は、出発点からして二元である、分離の世界であるということです。恐ろしいことに、助ける行為や思いは、自然に分離を生み出すという構造になっているわけです。

よくスピリチュアル傾向にある人は、人を助けたいという思いを持つ人は少なくありませんが、分離を嫌うところがあるように思います。

しかしそれは、先述したように、助けたいということは、すでに分離であるのだという矛盾を抱えることになります。

まあ、普通はそんなに深くは考えずに、助けに邁進するものではあるでしょうが。

ここで、言葉遊びをしたいわけではありません。

タロットリーディングが何かしら、人の援助、助けるという行為のひとつであるならば、必然的に助けられる者を生み出す構造にあって、分離の世界を創出するわけですが、また、助けることによって、助けられた人が、その時点での二元の世界から逃れるきっかけにもなります。

単純に見ましても、クライアントが助けられたのであれば、それまでの助けてほしい状態がなくなったわけですから(完全になくならなくても、最初の意識よりかは変化しているはずです)、助けられる者がなくなれば、助ける者もいなくなる(いらなくなる)わけです。

何が言いたいのかいいますと、タロットリーディングの行為によって、一時的に助け・助けられる者という二元構造の関係性になりますが、終わる頃にはそれが解消され、(これまでいた意識とは)別の(次元の)世界にクライアントもタロットリーダーも移る可能性が高いということなのです。

まあ、うまく行かないリーディングもありますので、その際は、同じレベルや次元にとどまり、特にクライアントはまたその自分の問題を抱えたまま、別の人の助けを求めていくことになるかもしれませんが。

最初にも言いましたように、この世は二元構造(分離の)世界です。

しかし、二元が統合される瞬間があるのも事実です。

正しくは、この世(現実)において、二元が完全統合されるわけではありませんが、その今の自分の見方によるふたつの(分離された)見方が統合されるレベル(次元)がある(訪れる)のだということです。

そして、そういう統合を起こすには、皮肉なようですが、二元の分離世界を経験していくことなのです。

ただ経験するだけでは統合は難しいので、思考と感情をうまく使いこなすことだと思います。モノの見方の多重性とでも言いましょうか。

タロットリーディングをする意義や目的はいろいろとあるのですが、ひとつには、助け・助けられる関係性をあえて演出・経験し、自他ともに次元の上昇(今の二元レベルの統合)を図ることにあると言えます。

ひとつの統合を果たすと、世界は確実に変わります。それがこれまでの問題認識の消失であったり、今まで見えなかった解決策(の世界に移行)であったりするわけです。

こうしたことから、タロットリーディングは、究極的には、実は主体としてのタロットリーダー、つまりは自分(大きな意味では世界)のためでもあると言えるのです。


直感的シンプルな一枚引き

タロットの引き方・並べ方、いわゆるスプレッドは数多く存在します。

それには最少の一枚引きのものから、カモワン流のような、枚数が固定されず、何枚出るか、やってみないとわからないものまであります。

占い的に有名なのは、ケルト十字かもしれませんが、これは合計10枚のカードを、意味の決まった位置にカードをおいていくスプレッドです。

ともあれ、枚数が多いスプレッドは、それだけカードの情報量も増えることになりますので、読み手(タロットリーダー)の技術や経験によるところも大きくなります。

このうち、出す(引く)カードの枚数は多くても、カードが単体で切り離されたように置いていくものだと、比較的ルールに従って単純に読めますが、カードが近接し合い、複合してくるような場合は、コンビネーションと言って、カード同士がつながって、さらなる意味合いが表現(創出)されてきますので、より複雑になってきます。

いわば、情報の多重化のようなことが、カードをコンビネーションしていくと現れて来るわけです。

でも、それだけ読み手として、まさに読みがいがある(笑)というもので、たくさんのタロットの情報をいかに整理し、ひとつの(人間的に)役立つストーリーに変えていくか、というのもタロットリーディングの醍醐味でもあるわけです。

タロットは直感性のものとよく言われますが、このような情報分析を必要とする分、カードの中に描かれている細部の象徴の意味はもとより、それを知的につなぎ合わせて行く、ある種の選択性論理性、全体への統合力が必要とされます。(そのような読み方をする場合ですが)

タロットをきちんと学ばなければならない理由のひとつは、ここにあります。

さて、一方で、人間の直感性というのも、優れたものとして活用できます。直感は、時には自分や他者の命を救うことすらあります。

直感が何なのかは、今回は議論しませんが、とにかく、タロットの絵柄を直感的に把握して、メッセージや意味合いを判断する読み方があります。

この場合、たくさんのカードの枚数を引くやり方よりも、極端なことを言えば、一枚引きのような少ない枚数を引くやり方のほうが、直感が活きやすいのではないかと思います。

直感というのは、あまり、思考の情報(判断)が入らないほうがよく、従って、ノイズとなるたくさんの絵柄からの情報がないほうが(少ないほうが)、より直感性からの示唆を得やすいと言えます。

ということで、直感性を重視したものでは、タロットカードをシンプルに一枚だけ引くというものがお勧めで、カードを引いて、絵柄を見た瞬間にどう感じたかというところが重要になるでしょう。

それは言葉で表すと、思考的なものになって、意味でとらえようとしがちになりますので、まさに「感じ」「感覚」として、とらえていくとよいでしょう。

あとて思考や覚えた意味を当てはめて、論理的な理解の手助けを得ても、それは構いませんが、それとは矛盾するようなことが、直感で得たものにはありますので(本当の叡智レベルになりますと、思考と直感とが矛盾することのない次元に行き着きますが)、その場合は、最初に感じたことを主とするのが、まさに直感性をメインとする読みの場合ではよいと思われます。

この世の中、多くの情報にあふれかえっていますので、私たちは、いつも頭・思考をグルグル巡らせている(溺れている)ようなものです。

そのために余計に、迷いが生じていることがありますし、決められないということも起こってきます。

ですから、迷路みたいに陥ってる人は、シンプルに、タロットの一枚引きをして、直感的に受け取るという方法で、意外にすっと収まることもありますから、やってみるとよいでしょう。

この場合は正逆はとらないほうがよく、正立だけ出るトランプシャッフルで出すほうがよいと思います。タロットカードの正逆自体が思考的情報になっていることがあり、素直な直感性を阻害することがあるからです。

同じタロットをする友人(タロット仲間)がいれば、その人に自分の問題やテーマを一枚引いてもらう(あるいは自分が引いたものを相手に直感で見てもらう)というのもありです。人にやってもらうと、主観が入りにくいので、よりフラットな見方ができます。

相手が感じたものと、自分が感じたものとは違うかもしれませんが、直感と言えど、自分の癖とか価値観のフィルターを通っていますから、相手のものと自分のもの(あくまで意味ではなく、直感として感じたもの)とを比較することによって、より中立的なメッセージを得ることができると思います。

そんなわけで、複雑なことだけがタロットではありませんので、シンプルな一枚引きを直感で感じるという方法も、試してみるとよいでしょう。


人の問題とタロットリーディング

マルセイユタロットでは様々な見方が可能になります。

そのひとつが、タロットリーディングにおける人の問題の扱いです。

他人へのタロットリーディングは、その方を解放に導いたり、問題の解決のアイデアを出したりするために、タロットを使って行うものです。

これは占いとは一線を画します。(ただし、表現上、占いに近い形を選択する場合もあります)

人の問題というものは、単純なようでいて複雑、またその逆の(複雑なようでいてシンプルな)こともあります。

しかし、多くの人が、問題の種類は分けられても、そのレベルまで見ようとはしません。

人の問題が複雑に見えるのは、同じレベルで数種類の問題が複合していることもありますが、特にタロットリーダー側で、問題のレベルが区別できていないことにも原因があります。

また、個人と一般、さらにはタロットリーダー自身価値観を混同してしまい、何がよくて何が悪いのかの検証ができにくくなっています。

レベルをかなり上げ(いわゆる抽象度を上げるというのに等しいですが)、神次元・神目線のようなところまで来ますと、本来問題というものはなく、ですから、良いも悪いも、正義も不正義もないということになります。よく、ノンデュアリティ論者がたとえるレベルの話です。

しかし、人間レベルまで降ろすと、色々な問題が出ます。それは現実という認識のもとに、一人一人、個性を持って人が生きているからです。

たとえまったく同じ条件であっても、人には個性があるがために、それぞれで感じ方が違ってきます。あの人が問題視することでも、別の人には、まったく気にしないものであるどころか、楽しみの場合でさえある、ちょっと奇妙な世界が地上であり現実です。

それは、つきつめると、する・されるなどの、二元的なエネルギーの方向性、行動、表現、立場の違いが人にはあるからとも言えますが、ともかく、個人レベルになりますと、問題は多種多様で、人の数(以上に)だけ生じてきます。

従って、一人一人、相談内容も問題も違うわけですから、その対応もそれぞれで異なるのが当然と言えます。しかしながら、私たちには「人」としての共有部分があり、ユングが元型と評した、ある種の共通パターンもあります。

それゆえ、象徴として、タロットカードを人に使うことができます。人と問題の数だけカードを用意するとすれば、とんでもない量となりますから、そこは象徴化させる必要があるのです。

けれども、この象徴というのもやっかいで、現代人はなかなか象徴というものが理解できず、はっきりとした答えのようなものがカードから出ると思い込んでいるところがあります。

極端に言えば、数学のような、絶対で万人が納得するひとつの回答があると信じるわけです。これを記号的解釈と述べてもよいでしょう。

しかし、象徴は、むしろあやふやで抽象的なものです。違うレベルや次元さえ超越し、それに含むことができます。

象徴(解釈)にもレベルがあり、そこをきちんと整理してわかっていないと、混沌とデタラメの世界に入り込んで、象徴を機能させることができません。

その象徴の扱いにも関係する話ですが、タロットに関心を持つ方で、注意したいのは、中間段階を飛ばそうとする傾向がある人がいることです。

だいたいにおいて、現実的レベルと、超越的レベル(神的・高いスピリチュアルレベル)の両極端が癒着(融合や統合とは異なります)してしまい、スピリチュアルでお金が引き寄せられるとか、神様はこういう(私の)幸せを望んでいるとか、個人的な、特に物質的・現実的願望実現を、超越レベルの次元の介入によって解決したり、手に入れたりしようという節がうかがえます。

これでは、宗教における、外の神に祈って何とかしてもらう(奇跡を待つ)というのと同じ構造となってしまいます。

何事にも段階やレベルがあり、特に現実空間、実際に生きる私たちには、物理法則はもとより、時間と空間の制約も受けます。

さきほど、問題の根幹は、二元のエネルギー表現にあると言いましたが、上記の態度では、人は受動がメインで、神から与えられるまま(幸不幸においても)の状態です。

もし、グノーシス的に自身に神性を認めるのならば、物事は反転し、受動ばかりの姿勢から、能動的で創造的な姿勢に変化するでしょう。もちろん、世の理は、二元での循環のようなものですので、受動的立場も時に必要です。

しかし、超越的(神)レベルと現実的(人間)レベルを癒着させるような姿勢で、外の神に頼ろうとする場合よりも、バランスは回復されてくると思います。

能動的・創造的になってきますと、先述の癒着から離れ、天と地との段階を認識していくことになります。

詩的な表現で言いますと、神が階段を下りて来るのを待つのではなく、自分が天への階段を上って行くのです。だから段階(梯子)を見ないといけないわけです。

すると、自分の体が重いことにも気づくでしょう。簡単に手が届くと思われた梯子に手足がかからない・・・なぜなのか?

それは、例えれば、自分の体を下に引っ張る何かがあり、重力の重い世界に自分がいる(その世界観にいる)ためです。それがインド的にはカルマと呼ばれるものと言ってもいいでしょう。

いくら引き寄せなどで、よい気分・フィーリング、波長に合わすと言っても、それができない自分の状態があるのです。(引き寄せ的なことは、ある意味、真実も含まれると個人的に考えますが、個人個人の波動調整、浄化のようものがあってのものだとも思います)

心理的な見地からも、たとえばトラウマとか、ネガティブに思う癖・データが自分を支配していたら、それを何とかしないと、幸せな状態になろうと頑張っても足かせとなって、結局、努力すればするほどうまく行かず、成長・変化を放棄したり、やってきた方法が悪かったと誤解(間違いと言えば間違いではあるのですが、実際は取り組みの順番が違うだけで、取った方法が悪かったかどうかは言えないことです)したりすることになります。

自分(人)の問題のレベルや種類を認識しつつ、受動だけにならず。能動的に段階を踏まえどこに今フォーカスすれば、問題の解消や解決(言っておきますが、問題は必ずしも解決することだけが対応ではありません)につながるのかを見ておくことが、特にタロットリーダーには求められるでしょう。

それには、マルセイユタロットと、それに流れている教義を知ったほうが、やりやすいと思います。逆に言えば、受動的に、カードや占い師から告げてもらうようなものは、ほかのタロット・技法のほうがよいと思います。


タロットで見る2021年

12月になりました。今月で2021年も終わりです。

年齢や精神の状態により、人の感じる時間速度は違うと言われますが、客観的にも最近は地球の自転速度が上がっているということですので、誰もが一年の経過のスピードアップを感じているかもしれませんね。

コロナ禍はまだ収まらず、新たにオミクロン株が世界を不安に陥れていますが、ウィルスは変異により弱毒化することもありますから、「運命の輪」の象徴のごとく、何がよくて何が悪いことにになるのかは起きた当初にはまだわからず、「人間万事塞翁が馬」のことわざのようだとも言えます。

コロナに限らず、近ごろはそのような、起きている事象の真の意味が、当初はわかりにくいことが増えているように思います。

しかし、同時に、魂で把握できると申しますか、すでに少しずつ人類の覚醒が始まっており、一見、わかりづらい構造や事柄でも、本当の意味を何となくでも最初から感じる方も、多くいらっしゃるのではないでしょうか。

ある程度の困難さや不透明さ、試練のようなものは、これからも全世界的に予想はされます(だから個人としてもあるでしょう)が、それらはすべて人類全体の意識・霊性の向上と回復のために起こっている(起こる)ことだと予想され、大きな意味ではよい方向に向かっているのではと思います。タロットカードでは「審判」が浮かんで来ます。

さて、12月ということもあり、今年の総決算のように、マルセイユタロットで2021年を象徴するものとしてカードを引いてみました。これは、今このブログ記事を読まれている方々全体に向けての意味となります。

もちろん、個人レベルでは今年起きた内容も意味も異なっているのは当然ですが、それをあえて全体の象徴として引いたというものなので、抽象的解釈になるとは思いますが、各人で考えてみてください。私からは出たカードたちからうかがえるポイントのようなものを記します。

テーマ 【2021年の意味】

スリーカード(三枚引き、正逆取らず、正立のみ)

「隠者」「恋人」「愚者」

「恋人」を真ん中にして、「隠者」と「愚者」はそれぞれ違う方向を見ています。三枚全体を見ますと、「隠者」の呼びかけ・合図で、会議や合議を「恋人」カードで図っているように思え、その結果、個人個人が「愚者」として旅立っている、目的(地)に向かっているように見えます。

「恋人」には選択の意味もあり、今年は何らかの選択が試された年と言えましょう。

「恋人」の図像には、人間と天使が一緒に描かれていますが、天使の存在には気づいていない人間たちという構図にもなっています。このことから、強い自覚ではないものの、何か天上的・霊的なもの、言い換えれば未知なもの、物質や現実意識を超えたもの、つまりはこれまでの自分の常識を超えるものについての働きかけ・意識が芽生えてきた年とも考えられます。

他人や外の情報に振り回される自分ではなく、真の自分に気づく(あるいは戻る)環境がやってきているとも言えましょう。

「恋人」の天使は、またキューピッド(クピド)でもあります。人や事柄との結びつきが示唆され、カードが孤独な「隠者」から「恋人」になっていることからも、今年は人間関係、愛(情)を特に意識した年だったかもしれません。人によっては、自分がキューピッドの役割を担った方もおられるでしょう。

しかし、「愚者」として、そこからも移動しつつあり、古い愛、言ってみれば情愛的、欲求的な愛からは目覚める(気づきや解放を意識する)ことになりそうです。ギリシア語での「プシュケー」(魂やいのちと訳されるもの)」との関係も感じられます。

マルセイユタロットを持っている人や、学んだ人は、ご自分で、「隠者」の向かって左(つまり「隠者」の見ている視線方向)と、「愚者」の右(「愚者」の視線方向)に、それぞれ一枚ずつ、カードを引いてみるとよいでしょう。(正立で)

すると、より、個人的な意味がわかると思います。

 

最後に、乱数生成サイトを利用しまして、ランダムに22からひとつ、数を出してもらい、その数を持つ大アルカナが、自分の今年のテーマや課題だったとします。

この乱数発生サイトで、範囲のところを「0から21」と(半角英数)入れて、個数を1として、「乱数を生成」ボタンを押してみてください。すると、下部にひとつの数が現れます。その数(「0」は「愚者」とします)を持つ大アルカナが、自分にとっての今年の象徴・テーマを考察する手がかりと見ます。

それでは。


カモワン流、ホドロフスキー流

私はマルセイユタロットを伝えているわけですが、もとは、そのマルセイユタロットの種類のひとつ、カモワン版から入った口です。

カモワン版は、日本では、むしろマルセイユタロットの代名詞みたいになりましたが、それは旧タロット大学による普及の力が大きかったのが要因のひとつだと思います。

しかし、カモワン版マルセイユタロット、通称カモワンタロットは、実はリニューアルされた創作系マルセイユタロットと言え、伝統的な古い時代そのままのマルセイユタロットではありません。

カモワンタロットは、その名の通り、マルセイユタロットカードメーカーの子孫、フィリップ・カモワン氏によって作られたものですが、忘れてはならないのは、もう一人の製作者、アレハンドロ・ホドロフスキー氏いてこそであり、お二人によって共同製作されたのが、カモワンタロットです。ですから、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロットと呼ぶのが正式でしょう。

世界的・一般的には、ホドロフスキー氏のほうが有名で、著名な映画監督であり、セラピスト、作家、詩人、芸術家、俳優など、様々な才能と肩書を持つ方です。

ホドロフスキー氏がタロットを愛していることは、氏を知る人では当たり前のことになっていますので、ホドロフスキー氏に関しての縁で、カモワンタロットにふれたり、学んだりする人もいます。(日本でも、ここ数年はその傾向が増えてきたようにも感じます)

アメブロでも解説したことがありますが、カモワン氏とホドロフスキー氏のタロット観とその技術は、かなり異なるところがあります。

知らない方は、共同制作者だからと思って、二人のタロットにおける思想・技術は同じだと誤解している人もいるかもしれませんが、カモワン流とホドロフスキー流とでは、本当に別モノと言ったほうがよいくらいのものです。

どう違うのかは、マルセイユタロットにある程度接していないと、説明してもわかりづらいので、ここ(ブログ)では詳しくはふれません。

ただ、あえて言うとすれば、カモワン氏は霊的視点でタロットを中心に扱い、ホドロフスキー氏は、心理的視点が中心だということです。ですが、ともに現実次元を扱う表現方法がありますし、サイキックなところもあります。

あと、タロットリーディングの技術面でいいますと、ホドロフスキー氏はタロットカードを正立のみで展開し、一方、カモワン氏は、カードの正逆を取る展開法を示します。

本来、タロットカードは、正立のみで見て行くものだったと私は考えますが、逆位置というものを採用する利点があり、何より、見た目が明らかにわかりやすいので、カード解釈がやりやすい側面があるのです。

これが正立だけとなると、いろいろな意味を正立だけの位置から読み取らねばならず、初級者にとっては、困難さが伴うでしょう。

その意味では、ホドロフスキー氏のやり方のほうが、高度なリーディング技術が要求されるものだと言えます。

ところが、正逆という意味では、そうとも言えますが、カモワン氏の、いわゆる動的展開法と名付けられている、カード人物の視線を追った展開法と、正逆の位置を取って、逆位置カードに対して正立のカードを置いていく方法ともなると、枚数的にも、形としても流動的になり、なかなか定型パターンで読解(リーディング)することが難しくなります。

つまり、カモワン氏の提唱している展開とリーディング法自体も、実は高度なものなのです。

まあ、それでも、私自身がカモワン流から入ったこともありますが、やはり、カモワン流のほうが、ホドロフスキー流よりも、とっつきやすい(理解しやすい)のではないかと考えます。

ホドロフスキー氏のタロットは、カード全体の見方としては研究された論理性があるのですが、逆にリーディングとなってきますと、かなり特異的で、直感性のようなもの、サイキック能力も要求される感じがします。

カモワン氏のタロットは、タロットの見方としては、一見、論理的に見えて、案外、スピリチュアル的です。ただ、リーディングについては、システマチックなところもあり、伝えるほうさえしっかりわかっていれば、学びやすい体系とも言えます。

いずれにしても、お二人の作られたマルセイユタロットはすばらしく、今はなかなか入手できなくなっていますが、今後も、皆さんに手に取っていただきたいタロットであることは間違いありませんし、どちらの流儀であっても、リーディングにも、大いなる力を発揮するものだと思います。

次回は、カモワン流の根本絵図ともいえる、大アルカナの並び(通称「タロットマンダラ」とカモワン流では言われる並び)ついて、少し取り上げたいと思います。


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