恋愛 結婚
恋人とは別れることになっている。
今日のタイトルはなかなか強烈かもしれません。
また、「そんなこと、信じない」「そんなわけない」「ずっとこの人と一緒にいる」と、今、恋愛モード真っ最中の人には思えるでしょう。
それでも、マルセイユタロットの「恋人」カード、そして、魂の成長を示唆するともいわれるカードの並びの中で、このカードと強く関連するカードたちを見ていると、そう思えるところが出てくるのです。
現実的に見ましても、好きになった人とおつきあいし、お互いに恋愛状態となってピークを迎えていくものの、最終的には二人(の関係)はどうなっていくか、考えてみてください。
結果的には、次の三つです。
ひとつは同棲や結婚など、二人が一緒に暮らしていくような新しい形態に移ること、もうひとつは、気持ちが冷めて(嫌になって)か、好き同士であっても死別するかで、二人が別れること、そして三つ目は、何かの事情(気持ち以外の事情)で中途半端なまま(別れていても、別れていなくても)になってしまうことです。
時間の質の概念で言いますと、新しいことや別れることになるのが「未来」的なもの、新しくなるのでもなく、また別れるのでもなく、中途半端なままの状態になっているのが「過去」的なもの、そして今恋人同士として、つきあっている状態がまさに「現在」と言えます。
ただ、未来的な状態も、新しい状態に移行した時点で、現在感覚となると考えられます。
人は「現在」に集中して生きる時、もっともパワーや生きているという実感を得ると言われますが、恋愛で見ますと、残念ながら、中途半端なままになったものは過去に生きるようなことになり、生きている実感から遠くなる状態になるのではないかと推測されます。
このことの問題はあとで述べます。
二人の恋愛関係が行き着く先は、今述べたように、主に三つが考えられるわけですが、中途半端なままになったものを除き、それは見方によれば、別の状態に移行した、変化したと言えます。
別れず結婚に至ったものなどは当然として、たとえ別れてしまったものでも、それはひとつの恋が終わり、お互いに新しい状態になったということでもあるので、やはり新モードに変わったわけです。
そして結婚した場合でも、なるほど二人は別れていませんし、ハッピーな状態ではありますが、それは恋愛の時の二人とは違います。今度は家族になるわけですから、恋人同士の時とは違うパートナー感覚でもって生きていくことになります。
また生活をともにする場合は、恋愛・気持ちだけでは済まない、現実の様々な局面に対応していくことになるので、やはり変わって行かざるを得なくなります。
ということは、恋愛の時の二人ではなくなる(なくならざるを得ない)わけで、それは次元や世界観というもので見れば、ある種の別離なのです。この場合の別離は、二人が存在として別れるというのではなく、恋人同士、恋愛という世界からの別離です。
しかし、お互いに見れば、恋人であった相手は夫・妻というものに変化(変容)したので、それは昔の相手との別離とも言えます。
従って、実際に別れることがなくても、また、たとえ二人が結婚しても、前の自分たちとの(見えない)意識・状態による別離はあることから、今回のタイトルである「恋人とは別れることになっている」と言っているのです。
人間の感情、あるいは表面的なことで見れば、実際に別れての変化は不幸で悲しいもの、結婚や一緒に暮らし行くようになったりする、別れない変化は、幸福でよいものとされますが、本質的には変化・変容しての別離の意味では同じです。
ただ、不幸と思える別れにあっても、交際した時間、一緒に恋人として愛し合い、共感して過ごした濃密な時間というか、エネルギーがあり、それは形としては見えないものの、お互いの中に残って、存在し続けます。それは二人の結合と変容への過程でもあります。
次の人に出会い、また新しい恋人同士になることはあっても、自分の自覚的な気持ちとは別に、かつて別れた存在が結合したエネルギーとして生きており、相手も自分も、そうした見えない人たちを含んで、愛し合うことになっているのです。
その人を形成しているのは、その人自身だけではなく、今まで関わり、愛し、経験してきた(恋愛だけではなく、つまりは人生すべて)ものがあってのことであり、交際は、それぞれのこれまでの人生との交流であり、変容する過程でもあるのです。
一方、恋愛の行く着く先の三つ目として、中途半端なものがありました。これだけは特殊で、過去を主体として生きてしまうようなこともお話しました。
この状態のものは、恋人モードが終わっておらず、また精神的に(双方かどちらかに)継続している状態です。別れてしまった関係の中でも、どちらが未練として強く思いを残している場合は、新モードへの移行とならず、やはり中途半端な状態になっていることもあります。
言わば、精神的には別れておらず、しかし新しい状態へも変化変容することもできずに、囚われの状態で、堂々巡りしているようなものと言えます。そして、幻想の中に閉じ込められている(閉じこもっている)ので、時間は切り離され、止まったままになっているのです。
人は現実(意識)おいて、時間が過去から未来に流れている、向かっている(進んでいる)というものがないと、いい意味でも、悪い意味でも現実を生きている感じがしません。(いい意味というのは、現実時間からの囚われから解放された、無の境地のような自由や、万物とひとつになったかのような一体感を味わうようなことです)
時間が止まってしまったかのような中途半端な恋愛モードが続いてしまっている人は、妄想の世界に生きるか、現実との葛藤で、とてもつらい状態になっているかになります。
ところが、自然の摂理は、すべてのものは移り変わり、変容していくものになっています。そのため、終わっていないものでも、強制的に終わらせる圧力がかかったり、環境の変化が訪れたりします。時間自体も外は動いていて、風化していくように働きます。
つまりは、中途半端なものでも、いつかは終わる時を迎えるのです。それは死かもしれませんし、ほかの何かかもしれません。自分の一代の人生では終わらせなかったものは、もし輪廻転生や死後の世界を想定するとすれば、そうした世界での処理ということも考えられます。
そして、やはりその場合でも、おそらく恋人と過ごしたエネルギーは自分に残り、お互いに相手は、それぞれの内に結合して、別の状態へと変容していくのだと考えられます。それが早いか遅いかの違いです。
長く想い続けた関係は、それだけ終わらすことは難しいかもしれませんし、中途半端な状態で閉じ込められてしまっていたものならば、なおさらでしょう。
それでも、それがいつかは終わった(完結した)時、その想い続けたパワー・エネルギーは強大なものとなり、あなたを守護したり、大きな新しい変容エネルギーとして昇華されて行ったりすることになるでしょう。天使はそのサポートに働きます。
こうして、すべての恋人同士の関係は別れることになり、しかし、実は別れず、変容した永遠の人(エネルギー)として存在し続けるのです。
皆さん、素敵な恋をしましょう。
タロットカードと恋愛
バレンタインも近いので、今日はタロットカードと恋愛に関するお話を少々しようかと思います。
タロットカード(マルセイユタロット)において、もっとも恋愛を表現・象徴しているカードとしては、「恋人」カードがあげられるでしょう。
名前もずばり「恋人」ですから、文字通り、恋をする人、恋する相手(もしくは自分)を想像させ、何と言っても、絵柄を見れば、このカードが恋愛に関係しているであろうことは誰でも想像がつきます。
マルセイユタロットでは「恋人」と、単数のように表されるこのカードですが、ほかのタロットや一般的には、「恋人たち」というように、むしろ複数体での表現が主です。
ほかのタロットも、このカードのモチーフとして、上空の天使(キューピッド)と、下にいる人間たち(恋人たち)の構図をもとにしていると思われるので、絵柄に複数の人間たちが描かれていることから、「恋人たち」と表現されるのも致し方ないかもしれません。
しかし、ここでは詳しく説明しませんが、マルセイユタロットがなぜ「恋人」と単体の名前になっているのかという、そのこと自体が、このカードの意味において決定的とも言える重要さがあるのです。(先頃上映されたアレハンドロ・ホドロフスキー監督の映画「エンドレス・ポエトリー」では、このことがテーマのひとつにもなっていると考えられます)
ともあれ、「恋人」カードが恋愛を象徴するカードであることは、絵柄から見ても疑いようもないのですが、タロットは全体をもってひとつのことを象徴する場合があります。(逆に、ひとつが全体を示すこともあります)
つまり、“恋愛”という事象も、一枚のカードだけに終わらず、78枚全部をもって表現できるということです。特に大アルカナは物事の本質を示すカード群であるため、例えば「恋愛」においても、恋人カードを中心にしながら、ほかの21枚の大アルカナカードによっても、恋愛を読み取ることができるようになっています。
簡単な例で言っても、「運命の輪」と「恋人」カードは「機会」の観点でつなかりがあり、出会いの偶然が必然にもなっていることが、両方を併せるとよくわかる構造になっています。
ほかにも、「悪魔」のカードと並べてみると、「恋人」カードのキューピッドの位置に、「悪魔」のカードでは悪魔そのものが君臨していることがわかり、単純に天使と悪魔のつながりによる関係の比較(違い)がうかがえ、興味深いものになります。
再び、(マルセイユタロットの)恋人カードの構造になりますが、大きく分けて、上空の天使(キューピッド)と下の人間たちに分かれるものになっています。(ちなみにこの構造は、「審判」のカードにも受け継がれていることが重要です)
これには色々な意味があるのですが、シンプルに考えても、天界と下界、見えない世界と見える世界、精神と現実(物質)みたいな、縦の二元構造として考えることができます。
もっと平たく言えば、とても清く、純粋な部分と、複雑で生々しい(禍々しい)現実的な部分が恋愛にはあるということです。
占いをする人に聞きましても、恋愛相談で多いのが不倫問題だと言います。恋しているお互いの気持ちはピュアなものかもしれませんが、客観的に見れば、やっていることはドロドロとした不倫劇なわけです。
最近は、芸能人の不倫があばかれ、叩かれることも多くなりましたが、これは個人が匿名で何でも意見の言えるネットの影響も大きいとは思いますが、本質的な問題は、外から基準を決めてほしいという真の自立性の欠如と、依存・承認しあわないと安心できない方向性に、社会が病的な状態になっている(ならされている)ことにあると私は考えています。
それはともかく、不倫問題となると、当然ながら倫理的問題によって、善悪の見地から非難がある反面、心の面では賛同を思ったり、逆に嫉妬ややっかみみたいな、いわば自分の感情部分にふりまわされたりしてしまうことがあります。
これも倫理のような誰しも共通と考えているルール・掟の(これは、いわば目に見える)部分と、一人一人の目に見えない心の中の感情部分とがせめぎ合ったり、葛藤したりするわけです。「恋人」カードでの二元構造が、ここに見て取れます。
この両者を、まったく同じ次元・レベルで考えると、いつまで経っても解決や落としどころが見つからなくなります。
不倫も愛の形のひとつだとか、本当の気持ち・心に正直に従ったまででとか、本来、人は自由なものであるとか言って、肯定する人がいます。
反対に、倫理的にやはりおかしい、やっている当人同士はよくても、されたほうの家族はどうなのだ? 人に迷惑をかけているので非難されてしかるべきと徹底的に断罪する人もいます。
両者が交わることはないのです。それは階層(レベル・次元・世界層)が違うからです。
確かに、究極的なところで考えると、人は何をしようが自由かもしれませんし、殺人でさえ否定も肯定もない世界はあるでしょう。
ただし、私たちは現実次元のルールを適用した世界で生きる社会的生き物です。
現在の倫理・ルールにおいて反する行動があった場合、それに見合う破綻(非難等)があるのも当然です。つまりは、どの世界においても、その世界で適用されているルールがあり、それを守ったり、反したりした場合の責任があるということです。
その責任を取る(背負う)覚悟は、ルール破りには特に求められるわけで、責任を取らない者がルール破りを行うのは、それこそ虫のいい話しで、ルール違反者に調整や裁きが働くのは自然の摂理と言えましょう。
一方、世界観・ルールが変化した場合、不倫は不倫でなくなる可能性があります。それは複数同士の恋愛、自由恋愛が認められるルールの世界であればの話です。
これには、二人同士だけではなく、二人から派生し、関連するすべての人の理解と承認がいります。
不倫が問題なのは、するほう、されたほうの共通理解がないからです。好きになれば自由につきあえ、自由に別れることもできるという世界となっていれば、皆が納得したものである限り、「不倫」という概念はない世界になります。
果たして、それが人類にできるのかどうか?です。
独占欲や嫉妬とかの感情とは無縁になるほど、皆で皆を許し合い、自由を認め合わなくてはならないのです。いわば全員がひとつのような感覚の、相当高度な愛がないとできないかもしれませんし、逆に欲望に忠実な動物的世界になる場合もあるかもしれません。
これは不倫の話を例にした、恋人カードの二元構造(特に下の構造部分)を少し見てみたわけですが、今度はドロドロした地上世界から上に登ってみることにします。そして、ここには「天使」がいます。
天使はキューピッドでもあり(厳密な区分では天使とキューピッドは別物ですが、ここでは現実を超えた存在として同じものと見ます)、人間の恋愛感情による結びつきが、異次元から生じていることを示唆しています。
そして、恋することが現実を超えることも表しています。
現実を超えるというのは、ネガティブな意味では非現実的になって、妄想状態、現実逃避になるおそれもありますが、よい意味では、精神、霊的な成長が図られるということでもあります。
恋すること(必ずしも人間対象とは限りません)は、やはり霊的には大きな意味があると考えられるのです。
タロットに「恋人」カードがあるのですから、やはり私たちは生身の人間として、恋をすることが求められているわけです。(笑)
あなたは誰の恋人になるのでしょうか? また誰を恋人とするのでしょうか?
たとえ冷めて終わった恋でも、恋した事実は時空を超えれば永遠に残っていると言えます。
さて、純粋な恋の感情を味わうのにお勧めのアニメがあります。「月がきれい」というアニメで、昨年2017年に放映されたものです。中学生同士の純粋な恋愛模様が、きれいな背景とともに描写されています。興味ある人は是非ご覧ください。
恋愛やパートナーシップの3つのペア性
二人が夫婦や男女の恋愛の関係にある時、当然ながら、二人はカップル・ペア性を持つことになります。
もちろん、それ以外の関係であっても、二人という人間の間の交際においては、カップル性が生じています。
マルセイユタロットでも、特にカモワン・ホドロフスキー版のタロットを扱う人は、特に大アルカナのカップル性・ペア性を象徴として見ます。
そうしたタロットにおけるカップル性の概念によって、実際のカップル・ペアを見ていくと面白いことがわかります。
その一例をご紹介したいと思います。
今回の記事は、本来は、数年に一度、たま~にやっている(笑)恋愛セミナーのネタのひとつでもあります。
ある区分によると、人は女性でも男性でも、3つの層があると考えられています。
それは象徴的な年齢層でも例えられ、簡単に言えば、
1.少年・少女
2.成熟した(大人の)男性・女性
3.老年の男性・女性
という3つの区分けです。
さきほど、これらは「象徴的」と述べたように、見た目や実年齢とは限らず、精神的な年齢、状態も表します。
この3つは、つまるところ、宇宙の創造と終わりのサイクルも意味します。(創造・維持・破壊)
また、極性と中立性の統合による完全性も象徴しています。
さて、マルセイユタロットのカップル的なカードで見た場合、1の少年・少女は「手品師」と「力」で表され、2の大人のカップルは「女帝」と「皇帝」、3の老年ペアは「斎王」と「法皇」で象徴することが可能です。
もちろん、ほかの(カードでの)考え方も可能ですから、あくまで一例ということです。
こうした3つのペアが男女で形成されるということは、形にすると、三角形(3つの区分)がふたつ(男女)というものになります。それを重ね合わせると、上下三角形での六芒星となります。
ちなみに六芒星、これは「恋人」のカードにある象徴でもあります。(人間が恋し、カップルとなる仕組みを描いているのが、「恋人」カードなのです)
このあたりを詳しく説明するのは、いつか行われるかもしれない(笑)タロットによる恋愛セミナーで、ということにしておきますが、ここでは、シンプルに以下のようなことを述べておきます。
男女(あるいは同性でも、そのような状態にある)二人の関係性において、先述した3つの層が、お互いに入れ替わっていることがあります。
具体的に言いますと、自分が少女で、相手がお爺さんという場合(孫と祖父の関係)や、自分が少年で、相手が大人の女性(つまり息子と母の関係)など、本来のペアとは異なる年齢層の存在(ペア)になっているケースがあるわけです。
これはどのカップル・ペアにおいても、一時的・瞬間的には入れ替わっているものなので、病理的なものではありません。
ただ、本来のペア性とは違う形で固定してしまうことに問題があります。
それにはどちらか、あるいは双方に、トラウマや生育歴での家族問題が隠されていることが多いです。
とはいえ、結局、心が求め合っている関係だと言うこともできます。
自分が子どもで、相手によしよししてもらいたい、叱ってほしいという願望、自分が上の立場て、下の者に慕ってほしい、尊敬してほしい、かわいがりたい(そうしてもらって自尊心・保護欲を満たす)というような望み・・・そういうものがお互いに一致しているわけです。
ある意味、別の形の相思相愛です。
自分と相手の、象徴的な年齢関係をきちんと自覚できていれば、お互いにとっては健全な形で、癒し合い、補い合うことができます。
もっと高度になれば、お互いのトラウマを浄化し合い、完全性の愛に向かって、両性具有的な結合(つまりそれは神の境地)を目指すことも可能です。
それは、マルセイユタロットでは、「戦車」を中心に語られることです。(最終的には「世界」のカードが象徴)
女性・男性、肉体レベルの結合もあれば、精神レベルの統合もあります。
よい相手に巡り会えた時、あるいはお互いを信頼し、愛によって高次へと導こうと二人が志す時、両性は3層を持ってそれそれが回転しつつも、3つのカップル(ペア)性で結合し、完全を体現していくことになるのです。
ソウルメイトに出会わない幸せ
恋愛やパートナーシップの問題で、理想のパートナーや、スピリチュアル的なソウルメイト、ツインソウルというような話題が出ることがあります。
人生で最高の、そして私とこの人とが、ほかでは考えられない今生でのベストカップル、一生のパートナーという人がいれば、ロマンとしては、すばらしいことだと思います。
そういう人を想像すると、まるでお姫様と王子様のハッピーエンドの物語のような、うっとりとして、幸せな気分に浸ってしまいますよね。
実際、そのような方と巡り合え、一生添い遂げていく、幸せな人生を送っていらっしゃる(組合せの)方もいるでしょう。
ですが、それは多数であるかといえば、残酷なようですが、あまりそういう関係の人たちを現実に見ることはありません。むしろ、そのような人たちは、実際には少数派ではないかと思います。
おかなしことを言うようですが、理想のパートナー、ソウルメイトに巡り合わない幸せもあるのだということを、今回はふれてみたいと思うのです。
ソウルメイト願望の問題のひとつには、ソウルという文字の通り、お互いがひとつの「魂」の片割れであり、だからこそ相性もよく、結び合う最高の組合せなのだという「設定」があります。
プラトンの「饗宴」にも出てくる話ですが、もともと人間は両性具有的な男女で一体の者と、ほか男男、女女で一体となっていた状態があり、それが神・ゼウスによって分断されたため、お互いに、ひとつの時だった体を求め合うのだというものがあります。
それはともかく、こうしたもともとひとつの魂、あるいは一体だったことによる幸福感を知っている者同士の片割れが、引き合い、再び一緒になる喜びを求めるという設定は、よく聞く話です。
ただ、この設定のようなことを信じてしまうと、その瞬間、「自分は片割れである」という認識が強くなります。そうでなくても、どこかに「私のことを本当に理解する、もう一人の自分ともいえる存在がいる」と考えてしまうのも、やはり同じ「片割れ」「半身」認識となるわけです。
片割れとはつまり、不完全を意味します。
自分一人でいては満たされない、不完全であるという思いが、次第に強くなって行き、それが高じると、もはや自分一人での完全性はありえないというあせりまで行き着いてしまいます。
このことは、マルセイユタロットの「恋人」カードに象徴されていると言ってもよいでしょう。また恋愛ごころとは、そうした(片割れ、半身、不完全である思いを相手との合一感で補う)衝動から生起するものとも、カードからも推測できます。
その鍵を握っているのは、恋人カードでは、上空に描かれている天使(キューピッド)ということになります。
マルセイユタロットでは、完全性は一人の人間の内にあると語ります。ただし、それを忘却し、隠された状態にあるため、不完全だと思いこまされている状態だとも示唆します。
完全性を復活させるため、私たちは人として生まれ、数々の不足、差異、違いを経験します。それは、完全性を思い出すためには、「違い」というものが必要だからだと、ひとつには考えられます。
ソウルメイトのような人であっても、また普通の恋人やパートナーであっても、さらには、友人・仲間、特別な感情もわかない義理のつきあいのような人であっても、人との関係と交流によって、私たちには実は完全性の復活(思い出し)が発動していきます。
ただ、あまりにもびったりとした関係性であると、その時点での充足感に幻惑され、そのふたりの人間関係の時だけに、合一感、統合感、完全性を感じることになり、ほかの場面での完全性を探求しようとしなくなる傾向もあります。
この現実世界は完全性を伴いながらどこまで言っても、現実感覚では個別性であり、分離したものとして表現されます。
一日が昼と夜で分かれているように、そしてずっと昼とか、ずっと夜とかの「一元」ではないように、現実は必ず二元表現によって表されている世界です。
「私たちはソウルメイト、一心同体」だと思っている関係でも、ともに空気のように生きているわけではなく、どちらも肉体を持ち、人として現実に存在しているわけですから、やはり二元から逃れることはできません。
自分たちの中で一元を味わうことはあっても、実際には「二人」という個体であり、外の世界は多様性ある個別、分離世界です。
面白いことに、ソウルメイト関係で一元を体験しても、一元たる自分たちと、そうではない(ソウルメイトに巡り合っていない人たち)という、「二元」が現れるのです。
とすると、ソウルメイトというのは、真の統合において、出会っただけでは完成していないのがわかります。極論すると、ソウルメイトは自分たちだけの切り離された統合感の世界と言えます。
ただ、一人の時の不完全性から、相手との融合感によって、本当の完全性を思い出すことができた場合、その時はソウルメイトと思えた相手を特別視することはなくなるのではないかと思います。
真の一元や統合のために、多大な貢献をしてくれる相手ではあったものの、それが達成されれば、相手は特別ではなくなる(分離てだはなく、統合、一元になるため)ということです。
ソウルメイトのような人に出会わなくても、いや出会わないからこそ、完全性を取り戻していくチャンスもまた別に増えていきます。
完全性は、つまるところ、二元分離からの統合と言えますから、それは現実において至るところで経験できます。上述したように、現実は分離の世界がだからです。
現実が分離の世界であるならば、現実を超えたり、脱出したりしなければ統合にはならないのではという理屈になりますが、確かに、グノーシス的にはそういうことになるでしょう。
では統合とは現実逃避なのかといえば、これは難しい問いですが、そうとも言えますし、そうとも言えないところです。(笑)
現実世界は基本、二元分離ですが、一元が許されない世界でもなく、いや、正確には一元の中に二元があり、その逆でもあると考えられます。(入れ子構造のようなもの)
わかりやすく言えば、マンション全体で見れば「ひとつの建物・家」ですが、号室別に見ると、100個も部屋と家がある、「たくさんの状態」という感じです。
言わば、観点・見方・見る目(レベルの違い)によって、見えてくる状態が違うということです。
ソウルメイトのような関係で、普通は分離した状態で体験する現実世界を、助け合うかのように、生きやすくしていくことは可能だと思います。
スピリチュアル的なファンタジーで言えば、生まれる前の魂の約束で、現実世界で巡り合った時、「生きづらい世の中で、お互い助け合おう、ふたつがひとつになれば、たとえ分離した世界でも、私たちだけは統合の力を発揮できる」としたのかもしれません。
ですが、ソウルメイト幻想に過剰に入り込みすぎると、おそらくそのような存在と感じる人に出会ったとしても、ふたりの間だけの融合感の至福性はあっても、一人の時では逆に不足感、無力感(相手がいないと完全ではないという思い)も強まるでしょう。そして、出会わなければ、ますます焦燥感に駆られ、これまた不足感が増します。
「二人だと完全」という思いは、一人での完全性の追求という観点から、はずれていくこともあります。
そうすると、ある種の縛りの中から脱出することができにくくなります。
統合は、逆に言えば、分離と対立した、もうひとつの状態といえますから、人のエネルギー(人間同士)だけでなく、物質にも、精神にも、あらゆるところで分離が見られるのならば、統合のチャンスはあるわけです。
ソウルメイトのような人に出会わなくても、いや、出会わないからこそ、ほかの重要なことに気づいていくこともあり得るのです。
最後に、ひとつ、ソウルメイトはこの世(現世)で創造していくこともできるのです。
皆さん、過去とか前世にこだわり過ぎ、今生で出会った人の魂を尊重すること、そして新たに魂的にも、特別な関係にしていくことができるということを忘れています。
ひとつの魂の片割れ的な思いから抜けることができれば、魂のふれあう関係、支え合える関係として、一人だけではなく、幾人かの人を、ソウルメイトとして創造していくことができるのです。
愛情表現 他人と自分
先日、タロット受講生限定の「恋愛セミナー」を開催しました。
過去に二度、一般者向けに行ったことのあるセミナーなのですが、あれから10年近くも経過したので、あらゆるバージョンが更新され、今回はまったく違った内容のセミナーになりました。
「恋愛セミナー」と言っても、恋愛上手やその方法を示唆するものではなく(そんな指導は私にはできません(^_^;))、恋愛とは何かということを、マルセイユタロットの「恋人」カードを中心に、現実的・精神的・統合的に語るというものです。
そしてタロットリーダーとして、恋愛の相談を受ける時に、基本となる考え方などをお伝えします。
その内容は、意外にあまり言われていないことで、それでいて実は多くの人(相談者やクライアント)が自然にしている(無意識にしている)ことなのですが、それを改めて、ある概念や、とらえ方の範疇を利用して、まとめあげたものです。
さて、このセミナーでも、少し紹介したのですが、ゲーリー・チャップマン氏の「愛を伝える5つの方法」という本があります。
詳しくは本を読んでもらえればわかりますが、要するに、人には愛情の伝え方・表現(愛を感じる・愛を感じてもらえると思っているもの)として、5つのタイプがあり、それは人によって言葉だったり、行動だったりして違うということです。
言わば、愛情表現にも個性があるわけです。
従って、「私はスキンシップを大切にして、それをされると愛を感じるけれど、パートナーはモノでプレゼントばかりしてくる」など、お互いの違いで不満が出るのです。
そして、自分の愛の感じ方を知るのも重要ですが、その次には、自分が愛を感じる方法で、相手に対してそれを表現してしまうことに注意を払うことだと感じます。
いわば、それしか愛情表現を知らない、それがもっとも自分が愛だと思っていることが極めて問題でもあるのです。
つまるところ、それは相手への表現のようでいて自分への愛であり、あとで述べることと関係してきますが、自分に対する愛情表現にもなっているのです。
ところで、マルセイユタロットで正逆の意味の違いを取る時、「星」のカードが逆で出ると、まるで「星」の女神の水瓶から水が無駄に流されているように見えます。
こうしたことから、愛情を注ぎ過ぎているとか、注ぐ対象や、注ぎ方が間違っている時があるなどと象徴的に読むことができます。
それは同じ水瓶を持つ、「節制」のカードにも関係してきます。
先述のゲーリー・チャップマン氏の本では、これを(個人の)ラブタンクから水が漏れている、ラブタンクが一杯にならない状態と表現していたように覚えています。
一生懸命、相手に愛情表現していても、相手のタンクには水が入っていない(相手からの水も自分のタンクに入って来ない)、もしくは穴が空いている状態(それは愛を受け取れないブロックや心理的要因の存在)かもしれないのです。
これは「愛」という表現を「誠意」とか、「相手の為の思い」とかで変えると、何も恋愛やパートナーシップに限らず、親子や友人関係、およそ人間関係と名のつくものには、すべて当てはまることがあるでしょう。
さて、このこと(愛情表現の個性・違い)は、実は他人との関係だけではなく、自分自身に対しての場合もあるのではないかと想像しています。
例えば、自分への愛を、お金を使うこと、物質を満たすことでしていることもあれば、体に対するケアや、自分を励ます言葉かけで表現していることもあるでしょう。
それは、どんなものであれ、エゴも含めて、全部、自分にとっては広義の意味で愛だと思います。
しかし、やはり表現の適用を考慮する必要はありそうです。
私たちが実際に生きているのは現実(の時空間)であるので、思いだけとかでは済まされず、モノや形も存在し、影響し合います。
よって、自分自身への愛情表現が心だけではなく、形が必要なこともあれば、逆に形が過剰になって、それに偏愛となっていることもあると思います。
要はバランスでしょう。それも個人・個人異なるバランスです。
自分自身への愛情表現が「それ」ではないという時、たいてい、体調がおかしかったり、心情的にストレスや不満を抱えたりします。
誤解しがちなのは、好きなこと、気持ちのいいことをやっていれば、自分への愛情だと思うことです。
もちろん愛情のことである場合は多いのですが、そうとは限らず、自分をいじめている、自分を過保護にしている愛情表現となっている場合もあるのです。
反対も結構あり、必死で頑張ることが「自分への愛」みたいになっていることもあります。
肉体がなく、魂だけの次元に生きているのならともかく、現実空間においては、時と場合・環境を考慮し、その時々において、自分自身への愛情表現も選択していくことが求められるのです。