恋愛 結婚

愛されているけれど幸せではない人

<p>久しぶりに<strong>恋愛と結婚</strong>のテーマで書いてみたいと思います。</p>
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<p>というのも、ふらっと「恋人カード」の訪問を受けていて、「私(のテーマ)について書いて」と言ってきているからです。(笑)</p>
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<p>さて、この前、ふとネットでの質問コーナーを見ていましたら、「結婚したけれども前の彼(彼女)が忘れられない」とか、「婚約したものの、恋愛感情的に盛り上がれない」「恋の気持ちになれない」とか、「つきあっているけれども、本当に相手のことが好きかどうかわからない」・・・といったものを見ました。</p>
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<p>結婚してしまっている関係と、まだおつきあいの段階である場合とでは、かなり社会的な状況が異なってきますので、これらを一緒にしてしまうことは難しいかもしれません。</p>
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<p>しかし、あくまで「気持ち」ということに焦点を当てますと、実は簡単なことです。</p>
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<p>気持ちが入らない、自分が好きかどうか疑っているのなら、それは気持ちが入っていると言えませんし、好きではないことも大いにあるということです。</p>
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<p>ただ難しいのは、これらにも、「好きといえばそうかも?」「まったく気持ちが燃えないこともない・・・」という中途半端さがあることです。</p>
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<p>いわば曖昧なことで決着がつけにくいというわけですね。愛してくれている相手に悪いという感情もあるでしょう。</p>
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<p>それから指摘しておきたいのは、<strong>恋することと愛することは違います</strong>し、また<strong>愛されることが好きな人と、愛することが好きな人がいる</strong>ということです。</p>
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<p>一見、女性は愛されることが幸せと思われがちですが、人間ですから性別に関わらず、両極の性質は持ち、<strong>愛することで幸せを感じる人も多い</strong>のです。</p>
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<p>女性は子供を身ごもり、出産することができますので、女性は本来的には<strong>受動的性質</strong>ですが、この観点からは<strong>能動的</strong>であり、「我が子を愛する」という感情は、最初は男性より感覚的にも勝っていると想像できます。従って「<strong>愛する本能</strong>」は女性のほうが強いとも言えます。</p>
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<p>タロットカードで「<strong>月</strong>」というカードを見ていますと、そのあたりのことがザリガニの絵も含めて、理解できます。</p>
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<p>とても優しく、申し分ないと思われる男性からやたらと愛情を示されても、愛したいタイプの女性は、どこか<strong>不足や物足りなさを感じる</strong>のです。それは自分が愛していない、つまりエネルギー的には<strong>能動的になっていない方向性の問題</strong>です。</p>
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<p>もちろんその逆(男性が愛されるものの、今ひとつと感じるパターン)もあります。</p>
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<p>解決としては、マンネリを避けることです。つまり、<strong>未知なる相手という部分が必要</strong>なのです。愛されるだけというのは、相手のことがわかりすぎて、こちらから愛したり、恋したりする能動的探求心・好奇心が不足した状態とも言えます。</p>
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<p>自分から見たくなる、調べたくなる、そういう好奇心・興味の心が相手に向かうには、相手に未知なる部分がいります。</p>
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<p>昔の彼や彼女がよく見えるのも、それがいい時の過去の記憶として印象として残っているというのもありますが、結婚まで成就しなかったことで、<strong>未知なもの(完全に至ったものではない)として象徴化されている</strong>からです。</p>
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<p>相手に未知があるようにするためには、やはり同じパターン、つきあい方では変わらず、距離を置いたり、旅に出たり、一緒に過ごすシチュエーションを変化させてみたり、自分のほうの環境自体を変えたり、学びをして広い視野を獲得したりしてみます。</p>
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<p>それでもあまり相手に自分が熱が入らない場合は、<strong>恋のキューピッド</strong>(マルセイユタロット・恋人カードにおける上空の天使)は去っている可能性があります。恋にはおおむね情熱としてのエネルギー賞味期限があり、関係や人によって違いますが、数ヶ月から数年のスパンと言われています。</p>
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<p>しかし逆にに<strong>愛はいつも創造することが可能</strong>で、恋と同居することもあれば、恋が去っても愛は増えていくこともできますし、もともと<strong>愛はどこにでもあるもの、いつも存在しているもの</strong>でもあります。</p>
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<p>夫婦や恋人・パートナーとの間で、その<strong>常在している「愛」を発見していく</strong>のだと言い換えることもできるでしょう。</p>
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<p>そこから再び、キューピッドが二人にに訪れることもあります。</p>
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<p>しかしながら、<strong>恋を求めたい人</strong>は、気持ちが中途半端なままだったり、相手が自分のことを好きだから自分も好きにならねばならないとか、義務的な関係を続けていたりする場合は、自分の心に正直になっていい場合もあると思います。</p>
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<p>「愛してくれているだけ幸せだよ」とか、「あんないい人は現れないよ」とか言われても、あなたの感情・心が相手のことを好きではないと言っているのなら、無理につきあったり、関係を続ける必要はありません。</p>
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<p>人の「好き」という思いは理屈を超え、他人の言う「好き」や「よい条件」で判断できるものではないのです。</p>
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<p>好きでもないのに、相手に悪いからと義務でつきあうほうが、よほど相手に悪いことであるかもしれません。</p>
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<p>とはいえ、本当に好きな人が今後現れるかわからないこともあったり、自分が好きな相手がもう他人のものになっている場合もあるでしょう。</p>
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<p>それでも、あなたは心に偽りをもって、これからの人生過ごしていくのですか?ということです。</p>
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<p>今の幸せに気付くことも重要ですが、<strong>人が一般的に思う幸せと、あなたが感じるものとでは異なる</strong>こともあるのです。</p>
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<p>ただし、物事の選択には<strong>責任というものがあります</strong>。責任から逃れようとしても、タロットの「正義」が語るように、万人に、何らかの責任が目に見えない形でも現れます。</p>
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<p>たとえば結婚していて、夫は自分をとても愛してくれているけれども、私はそうではない、自分の心に正直になって別れよう・・・としても、ご主人との話し合い、離婚の法的手続き、金銭的問題等、その後の責任は社会的にもあなたにかかってきます。</p>
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<p>その覚悟の上で決断と行動をすればよいでしょう。</p>
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<p>また恋がないからと言って<strong>愛もないわけではありません</strong>から、愛の関係を創造していくということで、ここから<strong>愛の探求者として</strong>の自分や<strong>二人をスタートしていく</strong>ことも可能です。</p>
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<p>それは恋人や夫婦というより、同志のような関係かもしれません。</p>
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<p>決断するのはあなた自身であり、誰も傷つかずとか、何もかもプラスやポジティブで事が運ぶというわけではなく、マイナスもネガも同時にいつも存在し、受け入れていく必要があることを自覚して、責任ある選択をすれば、<strong>自分の本当の幸せの道</strong>は開けてくると思います。</p>


恋愛における受容性

マルセイユタロットの大アルカナ、「斎王」と「審判」はともに「」という数を持ち(「審判」はひと桁化すると「2」)、受容性をひとつのテーマとします。(タロットは多面的な考察法があり、これはあくまでとらえ方のひとつです)

ところで、皆さんは恋をすると、その対象の人(こと)をどう思うようになりますか?

今恋愛状態にない人でも、昔(苦笑)の経験を思い出してください。またこれ(恋愛対象)は人ではなくても、好きなことだったり、物事であったりしてもよい場合もあります。

すると相手のことを愛おしいと感じていたり、受け入れたいと思っていたり、または反対に受け入れてほしい、愛してほしい、好きになってほしいというような思いを想像することができるでしょう。

結局のところ、そこには相互に受け入れ・受容というテーマが見えてきます。

つまり、恋愛は今まで個別(別々)であったそれぞれ(自分と他者)を、受け入れ融合していくことの思考行動機会を与えられているものだと述べることができます

エネルギー(関心のエネルギー)のベクトルが、突然、自分方向から他人方向へと逆転するわけです。

ところが、恋愛の場合は自分方向のベクトルも時に過剰になるのが面白く、また悲劇を生むところではあります。

いずれにしても、たとえ両想いになれなくても、相手を受け入れたい、自分を受け入れてほしいという「受容」の気持ちは、どちら向きせよ、恋愛で著しく生じるわけです。

しかながら、やはり恋愛で大切なのは、相手を受け入れられるかという方向性です。

もちろん、自分を受け入れてほしいということも、恋愛ならではの強い思いがあるのはわかります。それも人情というものです。

そして両想いになれば最高であるのも、感情的には間違いないことなのですが、恋愛という経験の価値という観点から見れば、その成就・成否に関係なく、「相手の受容」がポイントであり、課題・テーマだと考えられるのです。

ちょっと古い漫画(のちにアニメ化・実写映画化もされました)になりますが、高橋留美子の「めぞん一刻」という作品がありました。

この漫画は主人公の五代裕作が、彼の住むアパートの管理人で若い未亡人である音無響子に恋をして、最後に結ばれるというラブコメディです。

五代君が音無さんとの結婚が決まった時、音無さんの前夫(死別)の墓前で五代君が、「あなたもひっくるめて、響子さんをもらいます」と報告するシーンがあります。

なかなか感動的シーンなのですが、いわば、これが好きになった人の受容性というものをよく表しているように感じます。

どちらかいうと、母性のようでいて、実は父性であると言えるものです。

その人の生きてきた歴史、関わってきた人・モノ・シーン・経験・・・どれひとつ欠けても、今あなたが愛しているその人ではなくなるのです。

今対峙している相手が相手であるのには、その人が生きてきた全歴史があり、それを受容する覚悟があってこその本当の受け入れだとも言えます。

ただ人間ですから、いろいろと思いがあります。嫉妬や妬み、それも当然入るでしょう。ですから相手への全受容の覚悟をしなさいというのではないのです。

自分の中にあるネガティブな思い、人間くさい思いが起こること、それも当然だと認めつつ、それにどっぷり浸からず、少し視点をずらすのです。

「今、相手が相手自身であるのは、誰のお陰か?」と。

その人がその人であるのには、まずその人を生んでくれた両親のお陰がありますし、そのまた両親・・と連綿とした人のつながりが存在します。

さらにはその人が生まれた後の家族・友人知人関係、先生や講師・指導者、場所・環境・・・また極端にいえば、その人に危害を与えた人ですら、今のその人を形成した一員・要因と言えます。

あなたがその人を現在愛しているのは、そんなたくさんの人たちや物事があって、その人たる存在として創り上げてくれたからこそ、「今にいるその人」をあなたは好きになれ、愛することができているのです。

もし一人として、また一分として過ごしたシーンと時間が異なれば、あなたが愛しているその人でなくなっていた可能性もあるのです。

そうやって考えると、愛する人への受容というテーマが、少しは促進されるでしょう。

さらに一歩進めば、その人に出会っている自分さえも、その人の歴史の一部、形成要因の一員となっているのです。愛する人に貢献できることは、すばらしいではありませんか。

究極的には、実は自分がそのこと(相手も自分も)を創造していることに一瞬気がつくこともあるかもしれません。

片想いの人は、実はこの受容性を培う大きなチャンスでもあります。

相手に受け入れてもらえないのなら、せめて自分が相手を受け入れる大きな受容性をイメージしてみてください。

好きになった相手が存在してくれていること、その人があなたの前に現れるまで、いろいろな人がその人に関わり、あなたが好きになるような「その人」にしてくれたことに感謝しましょう。

それができただけでも、あなたは成功者であり、ある意味、下手な悟りを目指す修行者よりも、一瞬とはいえ、悟った人になっています。 

マルセイユタロットでは、「恋人」「13」「審判」が7の数を基礎としてつながりを持ち、今回述べてきたことが描かれています。

「審判」(の境地・気づき)に至るには、恋愛をもっとも象徴する「恋人」(の体験)が必要であり、基盤になっていることが構造的にも理解できるのです。

ちなみに、「恋人」にも「審判」にも「天使」が描かれていることを付け加えておきます。


苦しい恋におけるプレゼント

片想いや報われない恋をしている人にとっては、その期間中は本当に苦しいことが多いと思います。

その時に「違う人に目を向けて見たら」とか、「思っていても仕方がないじゃない」とか言われても、気持ちを変換することは難しいものです。

人は「何か」にとても気持ちが入っている場合、その「何か」と同等かそれ以上の価値があるものが登場したり、高価値のものの存在に気がついたりしないと、なかなか関心を変えることはできません。

ましてや人への恋ともなれば、人間ゆえに、それに代わるもの(人)を探すことは大変困難と言えましょう。

従って、一方通行的な恋への、当人が満足する根本的なアドバイスはないと言ってもよいものです。(想っている人に、相手からも想われる可能性が多少なりとも現実的な観点である場合は別です)

ただ、完全に満足する(させる)ことは難しくても、心の負担を軽減する(させる)ことはできます。

それは苦しい気持ちを誰かに共感してもらうことが、まずは挙げられます。あまりに心が苦しい状態の時は、カウンセラーなとの専門家に話を聴いてもらうのが望ましいでしょう。一般の人では聴くこと自体が負担になることもあるからです。

とはいえ、専門家の中でも技量的に未熟な場合は、無味乾燥の聴き方に感じられ、特に苦しい恋愛経験のない人に話を聴いてもらうと、本当の意味で「自分の苦しみをわかってもらえていない」という「雰囲気」や「カン」のようなものを、話すほうは感じます。

では恋愛経験が豊富な人に聴いてもらえればいいのかというと、そうでもありません。

大切なのは、心の苦しみや葛藤、どうしようもない気持ちの本質を体験しているか、それがわかっている人に話を聴いてもらうことなのです。

「恋愛はたくさんしたけれど、自分からふったほうが多く、片想いなんかとしたことがないなあ・・・」とか、「報われない恋もしたよ、でもバカだったわ、私」と言うような人には、なかなか本当のところの気持ちをくみ取ってもらうのは難しいものです。

反対に「私は苦しい恋をしたことがないのでわからないけれども、どうしても叶えたいことが叶えられないとわかって、すごく悩み苦しんだ経験があるわ、あなたの気持ちはわかってあげられるとは言えないけれど、今の状態でのつらさ自体はわかる・・」と言う人には、気持ちを聴いてもらうことは可能なのです。

この場合、先述したように、重要なのは体験の中身、言い換えれば感情や気持ち、波動のようなものです。

外側の事象ともいうべき、恋とか仕事とか人間関係とかというのは、つきつめるとあまり関係のないことなのです。

しかしながら、恋愛の場合は、そのほとんどが自らの意志だけでできるものではないので(相手・対象が必要なため、一人だけの世界では完結できないこと、また恋をしようとしても自由にはできないですし、想われたくないと想っても想われる制御不能さがあります)、葛藤や迷い、悩みを生じやすくし、逆に言えばそれだけ人間的に成長させるチャンスを与えてくれるものなのです。

ゆえに、恋愛は他の事柄とは少し質が異なると考えることもできます。

とはいえ、本質は事柄・事象ではなく、その経験する時の気持ちや感情にあると言えます。そこがわかっていると、特に相談される側は相談する者の悩みや経験そのものをそっくり同じに体験している必要はないことがわかるでしょう。

さて、苦しい恋愛で、もうひとつ心を軽減させることといえば、やはり「恋の中に愛を見ようとすること」だと述べられます。

最初は自己美化でも構わないのですが、片想い・報われない恋であっても、恋をしている自分自身、恋ができるている自分そのものをすばらしいと思うことです。

ひとつ次元を上げて、自らを上から見てみる感覚です。

「ああ、こんなに悩んでいる私って、とても苦しくて大変だけど、そういう体験ができるていることはすごいことじゃない?」と考えてみるわけです。

でもやっぱりそれでも苦しいことは苦しいと思いますが、それはそれで元に戻ってもいいのです。そこからまた少し気がついた時に、別の見方をわずかでも心がけてみるのです。

そうすると、不思議なことに、(報われない)恋は恋としてつらく苦しいのですが、一方で恋している自分、恋をする対象(相手)を見つけた自分という感覚に、きらめきやときめきを感じてくるようになります。

平たくいえば、「頑張っている自分に乾杯!」「私よくやっているよ!」という、自身にエール送りたくなる感覚ですね。

その時、わずかながらでもあなたは次元が上昇し、恋で葛藤するフィールドから一歩抜けだし、恋の中に愛を見始めていることになります。

誰かに恋をすることは、好きなことへの表現であり、好きということは次元は違えど、「愛」の形を変えた表現と言えます。

それができている自分、あなたのすばらしさを思うのです。

もちろん両想いになったり、報われないことが報われる恋に最終的になったりすれば言うことはありませんが、それが難しくても、この世で恋した自分を自分で褒めてあげてもよいと思います。

ラブの色に染まったこと、染まるとどうなるのか、そしてつらく苦しく、失ってばかりように見えて、実は失うどころか自分の中にもととも存在している「愛」を知ることになります。

それは一種の天からのプレゼントといえ、それが難しい恋ほど、あとから大きな贈り物としてあなたに与えられるのです。そして、プレゼントを受け取れるかどうかも、あなたの見方次第ではあります。

報われても報われずとも、実は自動的に(あなた自身が気がつきさえすれば)天から愛の恩恵が与えられていることになっているのです。それはすごくシステマチックでさえあります。

マルセイユタロットを学ぶと、これらのことが自分の体験を通じて、必ずわかってくるようになります。すでに学習された方は、この記事が、どのカードたちのことを見て書かれているのかが一目瞭然でしょう。


恋愛がうまく行かない人

恋愛で、特に片想いの人は苦しいと思います。

また両想いではあっても、何かしら相手とうまく行かないことが結構あるという人も、それはそれでつらいものです。

恋愛はいわば家族以外の一番濃密な「人間関係」と言えますので、関係と名の付く以上、自分単独だけではなく相手とのまさに関係性が問題やテーマとなります。

そう、たいていは、独りよがり、自分が良かれと願うことに恋愛におけるトラブルや問題があります。

自分はこうしてほしいけれども、相手はそうしてはくれない(共通の時間が持てない、してほしい行動を相手はしない、望む表現が違う・・・)

自分の思うタイミングに相手も合ってきてほしい(欲するタイミング、コミュニケーション・やり取り、メール交換等の不一致・・・)

このようなことが問題を引き起こさせます。

自分勝手になるのではなく、また相手に迎合して(自分を貶めて)無理矢理合わせるのでもない状態に至れば、自ずと相手とうまく行くことが多くなります。

それから、意外に恋愛の相手との問題と思っていたものが、全く別の人との関係、または究極的には自分自身との関係にバランスを欠いているために、恋愛における対象の相手とうまく行かない場合もあります。

たとえば仕事で、あるクライアントと問題状況にある、職場で上司や部下とうまく行っていないというようなことが、実は同じ波動として恋愛にも及んでいることがあるのです。

ですから、今問題となっている別の関係と問題を解消すれば、恋愛関係の問題も同時に解消するということになります。

そして、自分自身との関係もやはり影響しています。

たいていは自分を本当の意味で愛していない、受け入れていない場合、片想いが続いたり、両想いでも何かしら相手に不満を抱く関係性が続いたりします。

「自分を愛する」というと難しくなるので、自分を大切にしているかと言い換えてもよいでしょう。

それから、自分に少なくとも人間として相手と対等に思う気持ち(自信とまで行かなくてもよいのです)を抱いているかということが重要です。

自分を大切にしていない事例としては、たとえばお金を浪費したり、暴飲暴食をしたり、生活のリズムを乱れるままにしていたり、恋人ではない自分を愛してくれている人(モノ・動植物・目に見えない存在含む)をないがしろにしていたり、自分は我慢して誰かの利益を優先し過ぎていたり、あれもこれも考えすぎて精神を痛めていたり・・・など意外に結構あるものです。

それらをひとつひとつ解消していくだけでも、実は自分をよい恋愛に近づけたり、両想いになったり、つきあっている人とうまく行ったりするようになります。

結局のところ、恋愛の相手(と状況)も、自分の(心の)鏡になっているところが大きいというわけです。


恋をしている人はチャンスなのです。

恋(恋愛)をしている人はチャンスです。

それはマルセイユタロットの「恋人」カードと、ほかの関連のカードによってきちんと示されていることでもあります。

しかしながら、恋愛は時にとてもつらいものです。特に想いが通じない場合、あるいは通じていても思い通りに進まない場合などはなおさらでしょう。

反面、両想いでうまく行っている時は、まるで世界がバラ色に見えたり、天国にいるかのような気持ちにもさせてくれたりします。

とにかく、通常の意識とは違うものに恋愛は誘ってくれますので、そのことがあなたに成長の機会を提供してくれることにつながるから、チャンスと言えるのです。

今日はその恋愛によるチャンス(幸運)のひとつをお話します。

によって、突如あなたは誰かを好きになります。

そうするとその相手にとても関心が行くようになります。寝ても覚めても相手のことを考えることにもなるかもしれません。

いずれにしても、恋によって自分とは違う他人に注目や関心が及びます。そして、もし相手と気持ちが通じ合えば、つまり、ともに愛していることが確認できれば、恋の中に愛を実感するようになります。

そう、「愛」や「愛する」ということをテーマに、しばらくは生活が進むのです。

そして相手を限りなく愛していくとどうなるでしょうか?

それは相手の存在だけではなく、相手を形成してきたあらゆることに関心が及び、つまりは相手に関わってきたすべてのものを愛したくなってきます。

なぜならば、あなたが愛している今のその人は、あなたに出会うまでは両親をはじめとして、さまざまな人・物事が関わり、その人を創り上げてきたからです。

誰か一人、何かひとつが欠けていても、おそらくあなたの愛するその人は、「その人」とならなかったかもしれないのです。

その人に関わった人・事柄には、いいことだけではなく、悪いこと、大変なこと(人)もあった(いた)でしょう。

しかし、それによって、今の「その人」になっているのです。

いわば、相手を深く愛して行けば、相手のすべての歴史を認め、愛することになってくるわけです。

この境地に達していない場合は、まだ自分だけのことを思っており、相手を想う気持ちが足りていないことになりますので、逆に言えば、相手の全歴史を認め、愛することができるかが、現在問われていると言ってもいいでしょう。

ところで、ここからが肝心なのですが、そうやって考えて行きますと、相手を愛しているあなた自身も、相手の歴史に関係していることになります。

この段階まで来るということは、少なくとも相手と数日のおつきあいということではないでしょう。それなりの時間、もしくは濃密な両者の質と空間を経験してきているはずです。

そうなりますと、あなた自身も相手を創りあげている人物の一人で、それも愛し合う関係なのですから、相手にとって大きな影響のある人物と言えます。物語で言えば端役ではなく、かなり重要な役です。

すると、「相手の中に自分がいる」ということになりますので、最終的には「自分もすばらしい」という考えに行き着きます。

相手がとても素敵な人と思えても、その歴史と人の形成には自分も含まれているのです。

これは自己尊重につながり、こういうことに気付かせてくれる世界や宇宙への仕組みに感謝の気持ちが出て、「愛」をさらに実感することになります。

恋愛はお互いをよく見ようとする幻想的な面もありますので、お互いを愛していても冷めていく場合もあります。

それでも、一時的にせよ、恋から広い愛へ、そして自分自身への愛を感じれば、それは恋愛のすばらしい効果と恩恵だと言えます。

とにかく、あなたは愛による感情と気持ちを経験することになります。

「愛」はこの世の原理とも言われていますので、それを思い出すことができれば、あなたは世界と調和して幸運をつかむ(に戻る)ことになるかもしれないのです。

また、あなたを大きな気づきの世界へと飛翔させるきっかけとなるかもしれません。

恋の成就に越したことはありませんが、恋愛はその成否に関わらず、私たちに通常世界を超えたもの(マイナスもプラスも)を見せてくれ、成長や飛躍の機会を与えてくれるものなのです。


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