恋愛 結婚

恋愛による相手の見方、そして体験。

最近また恋愛セミナーがやりたくなっております。(笑)

数年前に開催したきりで、本業のタロット講座のほうが忙しくなって、別講座(と言ってもこちらもタロットからの示唆を得て構成されたものです)ができずにいます。

「恋愛講座」と聞くと、さも恋愛の達人でないとできないと勘違いされているかもしれませんが、決して私自身がそういう人物というわけではなく(まあ、経歴や写真を見れば、恋を語る人物とはとうてい思えないでしょう)、よくある恋愛技術や恋の駆け引きを紹介するようような講座ではないからできることなのです。

ただ昔からタロットをする前から、恋愛について研究していたということはあります。私を知る友人の何人かは納得できるでしょう。(苦笑)

まさか将来自分がタロットの講師をしたり、恋愛の講座をしたりするというようなことは思っていなかったですが・・・何が役に立つか本当にわからないものです。いや、今のために過去の経験や探究があったと言えます。

こんな話をすると、近いうちに恋愛講座を開催するのか?と思われるかもしれませんが、それはまだ未定です。(笑)

実は今日のネタが恋愛関係なので、ふと書いたまでです。

さて、恋愛状態、いわゆる恋に落ちた状態では、人の世界は変わります。

心理的には変性意識状態が続くと言ってもいいわけですが、とにかく「バラ色」とか表現されるように、色までも実際に変わるかのような、不思議な感覚になることが多いわけです。

まだ思いが通じ合わない(両想いと確認できていない状況)時でも、人は恋をすると変化を迎え始めます。

恋愛を解説することは、マルセイユタロットの「恋人」カードを解説するに等しいくらい、この一枚でほぼ言い尽くすことが可能(それほどマルセイユタロットの象徴はすごいということでもあります)なのですが、「恋人」カードにキューピッドが描かれているように、恋というのは、このキュピーッドが現れている時だととらえることができます。

それで、意識が通常とは変わり、人は何をするようになるかといえば、相手との共通点を探そうとします

「私と好みが同じね」とか「僕と出身が同じだよ」とか、どんな些細なことでも、時には大げさになるくらい自分と相手の共通点を見つけ出そうします。

正確に言うと、共通点として無理にでもリンクさせる、思い込ませようとする行為に近いです。ですから相手に親近感をもたらせるテクニックとしても、わざと使えることもあります。

これは恋をすると、相手と一体になろうという意識が働くためで、普段は人はなるべく個人・個として独立しておきたいという気持ちがありますが(パーソナルスペースを優先する)、恋をして、相手を好きになると、相手をもっと知りたい、相手となるべく近づきたい、究極的には一体化したいという衝動が生じるのです。

この最終形はセックスということになるのですが、セックスにもこの一体化欲求と、もちろん性欲による衝動と、さらには別の高次の意味での結びつきなど、いろいろと奥底に意味が隠されています。

それはさておき、恋愛の効果は、誰しも相手との共通点を見つける卓越者になれるということです。まあ、好きになった相手に限りますが。

ところが、キューピッドが去りますと、つまり、恋が冷めますと、今度は共通点ではなく、異質点を探そうとします。いや、目に入ってくると言ってもいいでしょう。

交際により時間が経過すれば(結婚のこともあります)、相手の嫌なことばかり目につき始めたみたいなことは結構誰でもあるものでしょう。

これは考えてみれば、実はもともと両者の異質点は存在していた(あるいはどちらでもない、意識しない中立のものであった)のですが、恋に落ちて見方が変わり、異質点さえも共通点として幻想となって見えたか、最低でも違いではなく、ノーマルな中立にくらいに思えていたかというのが真実でしょう。

たとえば、恋愛中に、相手がいつも食べ物を残していたとしても、この人が女性ならば、相手の男性は「全部ガツガツ食べない、かわいらしさ」と見ているかもしれませんが、つきあいはじめて、次第に「なんで食べ物を残すんだ、食べ物を粗末にしているのか、君は!」と腹が立ってくるかもしれないのです。

だからと言って、恋愛中に「冷静になれ」とか、「中立でいなさい」と言っているのではありません。それは無理なことであり、恋が恋でなくなる(恋が楽しめない)おそれもあります。

考えなくてはならないのは、、むしろあと(恋のあと)のほうで、恋は通常の意識状態ではないことを自覚しておき、冷めた時も、恋愛時の過剰な意識状態を求めないということです。ただ反対に、日常の状態もあなたのすべてではありません

いわば、「恋の時が本物の私」であるとか、逆に「恋をしていない日常の時こそが私」だとして、限定しないということなのです。

どちらも自分なのです。

ただ相手や自分の心の状態と意識の変化・移行によって、気持ちや世界もその都度変化しているものだと思うことです。

恋によって相手の共通点を見たり、一体化を図りたいと思う気持ちは、そこに融合や和、人はみな同じであるという体感をするきっかけにもなります。

肉体や条件の隔てのない世界観を、恋をして愛する人とは共有することができます

つかの間であっても、あなたはマルセイユタロットの象徴する「審判」と、時に「世界」の境地を体験することになるのです。

もちろん恋愛ではなくても、その境地を味わうことは可能ですが、恋愛にはその力が大きく備わっています。

そしてまた、その境地が保ちにくいことも恋愛では嫌というほど、経験することになるでしょう。

分離と融合その循環という、宇宙や世界が示す二極のエネルギー表現を、人でもって体感するのが恋愛だと言えます。

だからこそ、恋愛中に冷静になれとか、無粋なことは私は言わないようにしているのです。恋の成否や駆け引きなどより、通常と異なる世界を味わうことのほうが恋愛ではが重要なのです。

※ただし、状況と場合によっては冷静になることが必要なこともあります。


自分の欲求と相手の欲求の調整

人間はつい独りよがりになりがちです。


これはむしろ生物・人として見てみると当たり前のことで、自分のことをまずは考えないと、昔ならば命を落としてしまうこともあったでしょう。


肉体をもって生命を維持するためには、独りよがりともとれる意志と行動を取らないと、かつては危険でもあったのです。


ですが、自分を守るためには、周囲との協力関係も必要であり、たとえば一人で狩りをするよりも、何人かと共同で策を練ってしたほうが獲物を捕る確率は高まります。すなわち、それは食料の確保につながり、自分の生命の維持に役立ちます。


こうやって考えますと、人が自分中心であること、そして人と協力関係にあることも、原始的には生きるための本能的なものとして備わっていたと言えます。


それが現代でもやはり人間には残っているのでしょう。ゆえに今も人は自分中心に、「ああしてほしい」「こうしてほしい」と自らの願望・欲求の期待をし、人がそれをしてくれる(満たしてくれる・叶えてくれる)ことを求めます。


ところが、相手も人ですから自分中心なところがあります。よって、結果的には「ああしてくれない」「こうしてくれない」という状況が一人の人間から見た場合には生じがちになるのです。


一人の人間の欲求は、その相手の人間の欲求と一致しているとは限らないため、逆の相手から見れば、向こうの欲求は自分の欲求を満たしてくれるものではないので、当然ながらほとんど相手の欲求通りには行動しないことになります。


ということは、基本、自分の人に対しての欲求や願望が、ストレートにあるいはスムースに思った通りに叶うことはほとんどないと思ったほうがいいのです。


でも実際には叶うこともあります。それはどんな場合だったかを思い起こしてみるとよいでしょう。


たいていそういう時は、相手との信頼関係愛情関係があるはずです。つまり平たくいえば、相手のことを思い遣っている、気遣っている、気にしているという状態です。


それは焦点を通常状態の「自分中心」からずらして、「自分と相手」、あるいは「相手中心」にさえなっている様相です。


グラフで表現すれば、自分と相手を両極に置き、その間を白と黒のグラデーションで色をつけていけばわかりやすいかもしれません。ということは、「自分7・相手3」とか、「相手10・自分0」とかという思い方もあるということです。


相手に焦点がシフトするのは、相手への感情の入り方利害関係(結局それは自分中心に戻りますが)によってのことが多く、一時的にせよ、自分=相手という心理になります。恋愛関係の二人などは典型的といえるでしょう。


これはつきつめれば利己的な自分中心なものとも考えられますが(相手のことを思いつつも、自分のためがその基礎にある)、ともかくも自分だけのことから相手という人間の立場・心理を思い遣ることができます。


実はこの瞬間(相手を思い遣る瞬間)こそ、マルセイユタロットでいえば「恋人」カードのキューピッドと関係する非常に重要な「」なのです。


話は戻りますが、自分の欲求を相手に通したい場合は、自分の欲求が相手の欲求にも叶うようにすることが重要になってきます。まったく一致することは難しいのですが、これがあまりピントはずれではなく、うまく双方をすりあわせられるような欲求の通し方がよいわけです。


たとえば、自分が旅行に行きたいと思っていて、相手は何かおいしいものを食べたいと思っていたら、「旅先でおいしいものが食べられるよ」と名物や旅行先の店・ホテルのレストランなどのグルメ写真を見せて、旅の提案をすればいいのです。


ただ、相手との信頼関係や愛情関係が濃密な場合は、「自分の欲求=相手が喜んでくれること」になっていますので、相手の欲求が満たされることは何でもよいとなります。


ここで注意しなくてはならないのは、特に恋愛関係などでは、「自分=相手」への思い方が一時的な幻想状態であることがあり、「相手に気に入ってもらいたい」「恋を失いたくない」という思いなどから、過剰に相手の欲求を受け入れようとしていることがあります。つまり自分の本当の欲求を抑え込み、相手の欲求の奴隷になっている状況です。


それでもその状態を分析すれば、結局は「自分が相手とつながっていたい」という「欲求」の現れなので、自分の欲求に忠実になっているとは言えますが、欲求というものは実は「なになにしてほしい」という追加型だけではなく、停止・削除型である「しくたない」「やりたくない」というマイナスの欲求もあるので、相手の欲求の奴隷になっていては、これらの自分の欲求を無視することになりがちです。


そうなると、とても自分を苦しめることになります。


自分の様々な欲求と相手のこれまた様々な欲求とをうまくコントロールして、自分と相手の欲求の叶えあいが五分五分でできれば、結構バランスのとれた叶え愛(笑)になっていくでしょう。


このことはマルセイユタロットカードの「月」にも関係することなのです。


最後に大きな秘密を言いますが、文中で自分と相手との関係をグラフ表現しましたが、これの両端をつなげて「円」にしてしまうと、いろいろと面白いことに気がつくことでしょう。


結婚したいと思っている人へ。

最近はタロットの受講生の方にもよくお話していることですが、マルセイユタロットの「運命の輪」の視点で物事をとらえると、とてもバランスがとれてきます。


マルセイユタロットでバランスをもっとも表しているカードは「正義」だと考えられますが、実のところ、すべてのカードはバランス(二元とその調和)が基本にあります。


そういった意味では、どのカードにおいてもバランスを象徴させることは可能ですが、モノの見方や実用性で言うと、「正義」よりむしろ「運命の輪」のほうがわかりやすいかもしれません。


さて、世の中は「婚活」などという言葉で結婚を意識させるようになってきました。


別にそれまでも普通に結婚のための活動はあったわけで、ことさら意識する必要もないのですが、建前としては少子化問題解消や絆・人間性の回復のために、結婚を奨励していく意味があるからだということでしょう。


しかし考えればわかることですが、しょせんメディアの作るひとつのブーム化(消費化)戦略のひとつでもあります。


とはいえ、結婚そのものが悪いわけではもちろんありません。結婚には普通の人が考えているより、自己の成長や内的発展にもたいそうな価値があります。


要は自分の意志とは関係なく、結婚しなければならないと思いこまされることが問題なのです。


ですからたとえば、「こういうところに入会しよう」「こういう知識や技術を得よう」「このような場所に行こう」「このようなモノを買おう」と誘導されることが、さらなる問題にもなってくるわけです。


何が言いたいのかといえば、周囲に踊らされることなく、結局は本当に自分が結婚したいのかどうかを今一度確認しましょうということです。


結婚について、自分はメディアや広告的に誘導されていないことを確認したあと、それでも(今、つきあっている相手がいない場合で)結婚を希望される方は、結婚というものの両面を考えるとよいでしょう。


たいていの人は結婚することに対して、片面だけの想像になりがちです。その片面とは結婚することによる「いいこと」(の想像・イメージ)です。


さすがに現実離れしたバラ色過ぎる想像をする人は少ないでしょうが、今まで別々に暮らしてきたそれぞれが、一緒に二人で生活を始めていくわけですから、価値観が一緒のところもあるでしょうが、異なることがあるのも当然だと言えます。


だいたいつきあっている時は双方の価値観が合うところに着目し、それで心地よいと感じていることが多く、また違っている部分でも相手に合わそうとするところがあります。


特に惚れていたり、力関係で受動的なほうが自分の価値観を変えてまでも相手に合わせようとします。


そこでいざ結婚すると、実はそこから別の次元に二人は行くことになりますので、次第に相手に合わせようとしなくなり、自分だけの価値観で生きるようになってきます。


つまりは元に戻るのですが、それが双方からすれば、「気持ちが冷めた」とか「自分のことをわかってくれない」という愚痴や不満になります。


ここからが結婚生活の面白さというか、また新しい次元の創造に移るのですが、この創造が大変な場合もあるので、その破壊(お互いのズレ)のまま本当に別離となることもあります。


話を戻しますと、まだお相手がいない方は、最初から結婚の両面(いいこと・悪いこと、ポジティブ・ネガティブ)を受け入れるような気持ちを獲得していくと、おそらくあなたには結婚に至る出会いが待っています。


なぜならば、そもそもすべてはどの場面において両面(二つのモノの見方を変えたエネルギー、陰陽、ネガポジ)はセットであるからです。(これは最近話題のディマティーニ氏が「正負の法則」などで述べられていることでもあります)


これがタロットでいえば「運命の輪」に相当し、両面を受け入れる見方や気持ちになれば、まさに自分の運も動いていくことになるのです。(そのことはタロット講座でお伝えしています)


結婚にかかわらず、物事の両面を受け入れながら…というのは一見大変で苦しく、そのことに対して興味を失うのではないかと思う人もいるでしょう。(たとえば結婚のマイナスを最初から見たらモチベーションが下がるのでは…という思い)


しかし実際は逆で、両面を見ようとすると心が穏やかになり、それが進むと次元やレベルが上がる(もしくは変動する)のです。


さきほど、私は結婚は別の次元だと言いましたが、結婚が独身、または恋愛やおつきあいしている時とは別の次元だとすれば、同じ次元(これはモノの見方によるあなたの意識している世界ということでもあります)のままでは、なかなか結婚できないということでもあります。


物事の両面を受け入れる見方を獲得すると次元が変動していきますので、結婚にも近づくというわけです。


そして最初に戻りますが、あなたが結婚という選択を本当に視野に入れているか、今のままでよいと心の底では思っていないかなどを確認することも、非常に大切なことです。


それはむしろカードでいえば「正義」や「法皇」、さらには「月」、「恋人」で象徴させられることです。


それゆえ、「恋人」カードはその名の通り、「恋愛」や「結婚」においてやはり重要なカードになるのです。


人間関係、パートナーとのズレに悩む場合。

人間関係、特に身近な夫婦、親子、恋人同士などでよく生じることがあります。


それは相手に「こうしてほしい」と思っていることがかなかな実現できず(相手がそうならない)、反対に「こうしてほしくない」と思っていることが実現する(相手が自分の好ましくないことをする)場合があることです。


両者・カップル・ペアにおいて自分の相手の行為が入れ違いのようになってしまうのは、ひとつには相手を変えようとすると、ますます相手がかたくなになるか、反対のことをしようとする傾向があるためです。


人を変えようとしても実は変えられないのです。


自分の場合を考えてもわかるように、誰かの影響(お叱りもあればあこがれもあります)によって確かに自分は変わることもできますが、それは結局のところ、人からの影響は受けても自分が変わった(自分自身が変えようとした)から変わったのです。人に強制的に変わらされたわけではありまん。(ただし洗脳の場合は別)


そして多くの場合、無理矢理に変えさせられようとすると人は嫌がります。無理矢理な時はそれをしないと罰や痛みを感じたり、不快である状況の時くらいしか、人は自らを変えようとはなかなかしないものです。


そして人には今までのものを守り、続けようとする本能(同じ状況を続けていく機能)があります。それはそのほうが楽だからです。変えることがよいとわかっていても、いざ変えるとなると大きなエネルギーがいるのです。悪習慣が止められないのもそうしたことが要因のひとつにもなっています。


ましてや自分ではいいと思っていること、何とも思っていないこと(つまり悪いと本当の気持ちで思ってはいないこと)に対して、人から「こうしてほしい、こう変わってほしい」と要求されても気持ちのいいものではなく、従って変えようとする行動を取ることはほとんどありません。


要求する人からは「改善」であっても、言われた当人には「改悪」とさえ感じるのです。


何回も要求されると、ますますうざく嫌になってきますので、余計頑固になるか、ひどい時にはもっと増やして相手に抵抗を示すこともあります。(これは意識的なこともありますが、結構無意識的にやっていることのほうが多いです)


ではどうすればよいのかですが、不思議なことですが、それは自分を変えることで相手が変わると考え実践することなのです。


先述したように、人は他人からは直接変えることができません。そうなると、相手に変わってもらうには自分を変えるしか方法がないのです。自分なら変えることができるからです。


自分が変われば意識や波動も変わり、その調整力やバランスによって相手も変わっていきます。


ここで言う「変わる」ことの意味は、相手の意識や行動が変わる場合もありますが、相手自体が変わることもあると思ってください。パートナーの自然なチェンジということです。


もうひとつの変わる働きは相手の環境が変わります。相手の職場や人間関係が変わってくるのです。その影響で本人自体も変わらざるを得なくなることがあります。


こうしたケースをタロットリーディングにおいて何人も見てきました。


自分が本当に変わった時、信じられないようなことがプレゼントのごとく相手との関係にも起きます。


それが本人自身からの変化という場合もあれば、思っても見なかった本人を取り巻く環境や何かの働きかけで本人の変化が発生することもあるのです。


それでもなかなか相手が変わらない場合は、自分の変えた方や受け入れ方がどこか間違っていたり、無理にしていたりすることがあります。


おそるべきことに、相手の嫌な部分を変えたいと思っているはずなのに、そうでない(変えたくないと思っている)自分も自分の中にいることがあるのです。その自分を受け入れ、癒し、統合しないとかなかな相手の変化も望めないのです。


そして必死になればなるほど袋小路に陥るがごとく、ますます自分もあせり、相手も変わらず、またそれによって自分がさらにあせることになります。マルセイユタロットでいえば「運命の輪」の中のふたつの動物状態です。


ですから「運命の輪」で言えば「スフィンクス」の位置になるように、積極的でいて受動的、意志が明確だけれども穏やかという状態(ニュートラル状態)で自分を変え、相手の変化を楽しく待つという姿勢がよいかと思います。


そのためには陰陽や宇宙の理(ことわり)を学んでいくことも必要かもしれません。まあ、それを学ぶために問題が二人の間に起きているとも言えるのですが。(笑)


恋と愛の違いの一考察

恋愛」という言葉は、「」と「」という文字の合成でてきていますよね。


私の恋愛セミナーにおいても、参加者の皆さんに『「恋」と「愛」の違いは何だと思いますか?』とお聞きすることがあります。


回答はいろいろあって面白いです。まさにその人の恋愛(恋と愛の考え方)観が出ているように思う時もあります。


答えは人それぞれであり、その人なりのものでいいと思いますし、また答え自体も経験や知識によって変化していくものでもあるでしょう。


さて、それでも「恋」と「愛」との違いについて、ひとつの考え方をご紹介したいと思います。


それは先述したように、この違いは人によっては異なるものなのですが、両者(恋と愛)を考えること自体に意味があり、タロットでいえば「恋人」カードが象徴していることの啓示を得るヒントにもなるからです。


一般的に「恋」は「愛」よりも限定的だと言われています。「恋」のほうが「愛」よりも狭い範囲で、対象が限定されていることが多いというものです。逆にいえば「愛」は「恋」よりも広く、限定されないものだと表現できるかもしれません。


これは「広さ」から見た場合ですが、では「深さ」ではどうでしょうか? 「恋」のほうが深いですか? それとも「愛」のほうが深いでしょうか? 


こうなってくると、また意見が分かれてくるかもしれません。ただやはり深さでも「愛」のほうが本当の意味てば勝る気がします。「恋」のほうは深いように見えて細い矢のようでもあり、実はあまり深くない印象がしますね。


それはさておき、ここで私なりのひとつの意見を言わせていただくと、「恋」は波の振幅が大きく、「愛」は穏やかだと感じます。


そして「愛」の振幅は穏やかではあっても、波の細かさは非常に小さく、いわば振動数が高いというように思えます。反対に「恋」は振動数は低いという印象ですね。


「恋」の場合、振幅が大きいということは喜びも大きいように見えますが、逆に悲しみもそれだけあるということです。


これを対象へのエネルギーとして考えると、結局「恋」は自分に向いているのであり、「愛」は他者に向いていると考えられます。


ですから「恋」は自分方向なので、自分がどうなのかということが中心となり、自分の感情や気持ちに注意が向けられ、感情は「快・不快」で判断して「快」を求めますから、いつも「自分が快であること」が命題として横たわります。


一方の「愛」は他者中心なので、初期の段階では他者の快になるような命題が下されることになりますが、他者の快は実のところ、他者の感覚なので難しいことになり、最終的には快・不快を超越したもっと高次のレベルでの他者に対しての「善きこと」を命題とするようになります。


そして、ここが「恋」と「愛」のもっとも大きな違いになると思えるのは、「恋」はつらく、「愛」は楽しいということです。ここで言う「楽しい」は単なる遊びの楽しさではなく、歓喜というものに近い喜び在る楽しさです。


「恋」ももちろん楽しくてうれしいのですが、相手の気持ちや行動にによって自分の感情も変化することが多いので、実はつらいこともあり、楽しさとつらさが表裏一体で存在しています。(これが波の振幅の大きさです)


従って、もしあなたがつらいと感じているのなら、それは「愛」ではなく「恋」だということです。

 

では「恋」は「愛」よりも劣っているのかといえば、ある面はそうかもしれません。


しかしながら、実は「恋」は次元の異なる「愛」の表現でもあるのです。つまりは本質的に同じ部分があるのです。恋によって愛を知り、恋から愛へと自分の意識とフィールドを変容させることが可能なのです。


どんな「恋」であれ、そしてそれが限定的で身勝手と思えるものであっても、その衝動の奥には「愛」が隠されています。


成就する「恋」も喜びを味わえるでしょうが、成就しない「恋」にも大きな別の可能性が秘められており、むしろ「愛」に気付く飛躍のきっかけになることもあります。それは自分から他者へと意識がシフトしていくからです。


「恋」と「愛」の違い、そしてその合一から生まれるものについて、タロットカードの「恋人」とともに感じてみることは大変意義のあることだと思います。


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