趣味の縁 趣縁

マルセイユタロット、グノーシス会の発足

先日、タロットの受講生の中で、関心のある人が集まり、グノーシスを探究する会を発足させました。

これは、私たちの学んでいるマルセイユタロットに、「グノーシス」と呼ばれる教義・思想が描かれている(と考えている)ためで、グノーシスを探究していくことで、結局、マルセイユタロットの真髄と言いますか、隠された内容も明らかになって行くのではないかと思えるからです。

まあ、グノーシスに興味のある者からすれば、その逆でもあり、グノーシスの資料・ツールとして、マルセイユタロットがあると見て、両者の関係性が逆転します。(グノーシス思想があって、その思想伝達のためにマルセイユタロットがあると見るか、マルセイユタロットを見ていくと、どうやらグノーシス関係のこともあるかもしれない・・・という程度に、あくまで参考とするかみたいな違いです)

しかし、当然ながら、タロットに対しては、いろいろな考え方・立場があり、それはマルセイユタロットにおいても例外ではありませんから、グノーシスと切り離して扱うこともあるわけです。

私のタロットの受講生の中にも、似たような傾向はあっても、それぞれ個性があり、タロットに対するスタンスは一定ではありません。

その人の興味や関心、使い方がある中で、たまたまグノーシスに強い関心持つ人、学びたい人、研究したい者同士の集まりが発足したというのに過ぎません。

私自身も、自分の中にある多数の次元や人格(これは誰でもあてはまることてす、いわばタロットカードの数だけの自分がいると見ていいのです)を尊重し、例えば、これから、占い部門とか、心理部門とか、セクションに分けたグループを作って行ってもいいかもしれないと思っています。

生徒さん向けにはなりますが、今後の学びは、多様性を持たせながら、やはりマルセイユタロットという同じ種類のタロットを学ぶ者同士の統合性も踏まえて展開していきたいと考えています、

そして一般の方にも、マルセイユタロットから得られる示唆や智慧を、もっと広く簡単な形、あるいは楽しい方法などで披露できればとも考えています。

さて、グノーシス会、どんな風になっていくのか、まだこれからのところがあります。

グノーシスについては、おそらく検索してもあまり出て来ないのではないかと思います。それだけ隠された歴史も長く、よくわかっていないところもあるのです。

一言で言えば、「認識」という言葉にグノーシスは置き換えられるのですが、それは何を認識するか?ということであり、その「何」に当たるのが、神(性)、または完全性と言い換えられるものです。

要するに、「人間即神也」「人間すなわち神なり」という、ことわざのような言葉で表すことができるのですが、これは決して、傲慢な思想ではなく、むしろ、私たちが現実世界では、なかなか自尊も持てず、様々な災厄や悩み、苦しみに苛まされることで、ともすれば無力で小さな、ただ運命に翻弄される人間という感じに対して、そこから反転・逆転ともいえる発想を持って考察されたのが、グノーシス思想ではないかと思われます。

神になってえらくなり、人や万物を支配しようというものとは真逆の発想なのです。

神になるのではなく、神であることを思い出すというのに近いです。

私たちが神(完全)であることを忘れ、何らかの原因で、この現実と通常状態の、ただの(ある意味、無力な)人間に貶められているわけです。

貶めたのは、よくある陰謀論のような話ではなく(ただし陰謀論は、物質的見方から離れると、象徴的にはグノーシスとも関係すると思います)、ひとつの考えとして、私たち自らが自分を貶めているとする向きもあります。

私自身はそのほうが見方としては合理的なような気がしています。(自らがもとは完全性の出身であるならば、今の人間である理由も必ず、完全な理由があるはずだからで、それは大いなる神なる状態の自分自身が意図したと考えたほうが理屈が合います)

グノーシス思想は、ナグ・ハマディ文書というエジプトで発見された写本などにより、古い時代の実在性や、かなり昔から流布していた思想であることがわかってきましたが、それまでは弾圧する側(キリスト教など)からの記録からが主で、よくわかっていないところもありました。言ってみれば、昔の都市伝説的な扱いのこともあったのです。

しかし、最近は、学術的な研究も進んでいると聞きます。

そうした学術的な分野は、その道の専門家にお任せするとしまして、私たちマルセイユタロティストが、今の時代に、再びグノーシス(思想)を取り上げているのは、むしろ、現代において必要なのではないかと考えているからです。

マルセイユタロットも、作られたのは17から18世紀頃と言われますが、その描かれている内容と象徴性は、数千年の歴史を持つと想定されます。グノーシス思想もその中にあります。

こう書くと、古い時代の象徴性が、今に何の役に立つのかと疑問を持つ方もいらっしゃるでしょう。

しかし、歴史は意外に不思議なもので、昔(古代)のほうが、象徴システム・霊的覚醒プログラムなどが、優れていたこともあるのです。

今の大きな宗教も古い時代にできていますが、いまだ多くの人に信仰されているところに、本質的には、霊的な力があるからだと考えられます。(しかし、弊害もあり、次第に純粋なものは失われ、形骸化していき、権力になってしまう場合が多いのですが)

あと、これは、一見、とんでも説ではありますが、グノーシス的な見地では、私たちが今のような普通の人間状態の前に、神的な人間とでもいう、次元の違う存在でいた時代が過去にあり、それが交互に入り替わって、宇宙システムとして発展していくという考えがあります。(マルセイユロットにも、それはうかがえます)

となれば、(あくまで人間としての地球時間単位で見た場合)に遡るほど、神に近くなっていくという、普通の時間進行の発展・成長とは反対の考えも出ます。(ただし、人間は人間としての科学技術・知識の発展は時代とともに進んできたとは言えます)

簡単に言えば、(かなり)昔のほうが、霊的な面、その全体性としての認識が純粋であったということです。

神を思い出すには、昔の象徴システムのほうか思い出しやすいわけです。

あと、今の時代は、深刻に霊性が物質化してしまっていると言いますか、端的に言えば、お金のようなものに価値の最上が挿げ替えられています。

多くの人は、生きづらさ、行き詰まり、閉塞感、何か世界が無機質で同じ感じ、乾いた機械のようなものになって行っているような感じを覚えないでしょうか?

一方で、何かや誰かに洗脳されたり、陶酔したりして、熱狂的な自分になったり、夢見がちな自分になって、現実逃避を図ったりする人もいます。

狭義の意味のスピリチュアルにはまり、それでいて、自分(だけの幸福)を求め、右往左往する人もいます。また、自分の中にある心理的なブロックのようなものをひたすら探し出し、その解除にやっきになって、ますます泥沼にはまっている人もいます。

これらは、マルセイユタロットの「運命の輪」の中にいる動物たちでも象徴されますが、アーリマンとルシファーと呼ばれる、偏った悪(魔)的構造を示唆しています。(ただそれが悪いと言っているのではなく、それに気づかず、偏った状態に固定していくことに問題があります)

現代社会は、ますます、このどちらかのふたつに傾きがひどくなり、社会全体としてはアーリマン化、個別ではルシファー化が進んでいるようにも見えます。(反対の面も言えるのですが、どちらにしても偏りです)

この傾きを是正するためには、グノーシス(神の認識、そのプロセスとして、自分の中にある二元統合)が必要とされます。

だからこそ、今、またグノーシス思想なのです。

グノーシスは、言い換えれば霊性の復活であり、また科学との統合でもあります。(グノーシスは認識であるので、“神や何かを信じる(信じれば救われる)”という信仰ではなく、冷静に物事を観察し、分析する力と、内的にも浄化・改革を行っていき、自らが気づき、神なる完全性に思い至っていくというものです、言い換えれば、自分自身を知り、自分が自分を救うのです)

グノーシスという言葉ではなくても、日本人ならば、おそらく、なじみやすい思想だと思います。

中東や西洋の国々では、一神教が力を持ち、その信仰者数もすごいものがありますが、同時に支配と権力、そのための争いも世界中に巻き起こりました。今や、一神教のベースが、世界を作っていると言ってもいいかもしれません。

ですが、昔から、その一神教的なものに対抗していた(一神教的なものから弾圧されてもきた)のがグノーシス思想です。

グノーシス思想では、一神教の神を逆に悪魔だとして、本当の神は隠されていると主張していました。あくまで象徴的な言い方・例えにはなっていますが、皮肉にも、それはなかなか、今の世界においても通じることではないかと思います。

本当の神はどこにいるのか、ここまで説明してくれば、もうわかると思います。

グノーシスはその神を再び見つけ出し、世界を変革する(あるべき姿に戻す、次元の上昇を起こす)思想・教義なのです。


「吊るし」、そして人とのつながり

12月になり、いわば激動の今年も最後の月となりました。

とにかく災害が多かった印象がありますし、個人的にも、前にも書きましたが、内面的に特に大変な年と言えました。

日本だけではなく、世界、いや宇宙全体としても、何か大きな流れや転換に入ったことが、これまでより、多くの人に実感されてきているのではないでしょうか。

相談を受ける人の内容にも、一見、現実的な内容ではありますが、結局のところ、自分をどう生きるか、自分らしくとは何か、自分を表現する喜びを出すことができるかのようなことであり、つまるところ、宇宙や魂と共鳴、調和できる本当の自分の姿を求めているような気がいたします。

また、そうした学びや気づきが起こるように、その人にふさわしい事件も起きてくるように感じられます。

とかく、こうした内外ともに動揺が大きい時、当然、人の心もいろいろと乱れ、情報も錯綜し、よいものもあれば、洗脳に近い、自分を乱すものもありで、複雑な状況を呈します。

というより、そのように自分の中で感じられてくると言ったほうがいいでしょうか。

つまりは、中(内)が落ち着かなくなると、外も騒がしくなるようなことで、その逆もしかりです。

今、本当に宇宙規模で、大きな転換を迎えようとしているのなら、個人としても連動して、転換期になってくるのは当然と言えるのですが、だからこそ、逆に、慌てず騒がすという姿勢も大切になってくると思います。

というのも、このところ、(人や状況に対して)タロットを引くと(あるいは相談者当人が引くと)、マルセイユタロットでいう「吊るし」、あるいは「斎王」「隠者」のようなカードが出ることが多いからなのです。

これらのカードは、「吊るし」が一番顕著ですが、じたばたせず、様子見している象徴が描かれているカード(たち)です。見守る感じが強いのです。

もし、さらに「月」のカードが出た場合、引いた人の感情的・情緒的な動揺も感じられるので、逆に「月」のカードが、「落ち着け」と言っているとも考えられます。

要は、今は(年末のあわただしさがありますし)、騒がしくとも、内面をしっかり落ち着かせよう、客観的に見ていこうというメッセージなのです。

「吊るし」は、逆さま状態で正立という特殊なカードなので、ただ様子見しているだけではなく、逆転の発想、今までとは違う観点で見てみるということが勧められるカードです。

無理矢理、(気持ちが落ち着かない、バタついている、動きたいという衝動などを)抑圧しようとしていると、それはガスのようにたまり、これまでの容器では閉じ込めておくことができなくなり(それゆえ、容器を拡大させるための変容を促す試練が始まることもあります)、爆発を起こしてしまいます。

具体的には、混乱がますます激しくなったり、人に悪い意味で踊らされて、たくさんのお金と時間(エネルギー)を無駄にしたり、本心ではない言葉とか態度で、誰かを傷つけてしまったり、反対に自分自身を傷つける行動に出たりします。

ですから、いくら静かに落ち着くほうがよいと言っても、適度な行動、情報の入手、遊びなどはやっておいたほうがいいですし、どうしても動きたい、やりたいと思ったことはやってみて、それがガス抜きになったり、実際に体験することで、現実に自分にとって無駄なのかそうでないのか、確認することもできますので、場合によりけりなのです。

ただ、心が不安定な時は、単独判断というのは危険を伴ったり、ブレていたりすることが多いので、できれば、ほかの人に相談したり、何かする時でも、友人や知人と一緒にやってみたりするというのがよいでしょう。

つまりは、思い込みやバイアスが、自分にかかり過ぎている嫌いがあるので、直感とかハートの感じとか言っても、クリアーではないものを拾っている(感度やセンサーが乱れているため)恐れもあるわけです。あせっている時につかまされるものは、たいていよくないものです。

まずは、静かに落ち着ける環境や状況に自分がなることが重要です。(場合によっては、成果や結果を出すことよりも、先に治療や浄化、癒しが必要)

また、思い込み過ぎるというのは、ひとつしか答えがないとか、これしか方法がないとなっている状態で、体と精神が固くなっていることでもあります。

カードの「吊るし」の人物は、ああ見えて、とてもリラックスしており、むしろ宙に浮くほど軽い状態なのです。見ようによっては、曲芸しているようにも思え、それだけの柔軟性を持っているわけです。

ということで、まじめにやろうとし過ぎず、時には遊んでしまうこと(心を柔らかくする、考えすぎる思考をはずしてしまう)、体が硬ければ、ほぐしてもらうようなことをしてみるなど、柔軟になるよう、体と心、両面で行うとよい場合があります。

人によっては、心を落ち着かせるのに、瞑想がふさわしい人もいますが、逆に、瞑想が向かない人とか、瞑想すると妄想が出過ぎて、余計ややこしくなる人もいますので、リラックスできて、なるべく普段の行き詰まった思考とは別の状態になる環境や作業をあえて選択する(行う)ことで、行動による瞑想の効果と似たような状態を作り出すことが可能になります。

自分がどういう状態で、どうすればよいかは、こういう時、タロットは役に立つものです。もし、タロット仲間がいれば、仲間がリーダーの立場になって、自分がカードを引くと、より客観性が出て、それこそ、「吊るし」として自分を観察することができやすくなります。

グループを作っていると(最近はSNSで簡単にネットを利用したグループが作成できます)、例えば、「こういうカードが出たけど、みんなはどう思う?」とすぐ聞くことができ、レスも早いものが期待できますので便利でしょう。タロットリーディングの勉強にもなりますよね。

最近は、私は受講生ともLINEを通して、そうした簡単な質問に、ちょっとした「吊るし」的見方を提供しようとしています。

タロットを一人でもんもんとやっていても、楽しくないですので、ブログを書いてみるのもよし、SNSをやってみるのもよし、仲間でお茶会するのもよしで、結局、人とのつながり、同じような志や気持ちを持つ者同士でつながっていくと、タロットをはじめ、今後の人生でも、楽しく、生きやすくなるのではないかと思います。

私はこれを趣縁ということで、かつて推奨していたことがありますが、これからの激動時代、ますます必要な気がしています。

「吊るし」は絵では一人で、まるで孤独のようですが、実は柱(その他)に秘密があり、それは彼とつながる人たちをも暗示することになっているのです。霊的には太陽の国とも表現されるところ(に向かう人たち)と関係していると言えましょう。


ご縁の立場

人間に結ばれていく「」というものは不思議なもので、自分が意図したものもありますが、大半は思ってもみなかったところからつながっていくことがあります。

この「縁」という現象をうまく絵柄で表しているのがマルセイユタロットの「恋人」カードなのですが、そのことについては、タロット講座で詳しくお伝えしています。

とにかく、縁というのは、自分の力で「つなげていくもの」と、自分の意志とは関係なく「つながっていくもの」があるのだということです。

このふたつの作用により、私たちはたくさんの人や物事に出会い、成長を繰り返していきます。

ですからじっとしていても、少しはつながるものもあるでしょうが、やはり自らの行動でつなげていくことも必要なわけです。

ところで、この「縁」のつながりの中でも、実はキーマンになる人がいます。

いや、誰もがキーマンになることがあるのです。

そこがまた人の縁の面白さと言えます。特に偶然つながっていく縁には、誰かの紹介というパターンが多いでしょう。

結婚に至るパートナーの紹介をはじめ、仕事をもってきてくれる人の紹介、遊び仲間の紹介などなど・・・人生の彩りを決定させるほどの関係が、実は誰かが間に入ることによって縁が生じ、重要な人と知り合うことができます。

今はもちろん、ネット社会ですから、人を介さず知り合うこともありますが、それでもまだまだ「人」が縁の重要なファクターであることには変わりありません。

この、人と人との出会いの間に入る人の立場は、先述したように、誰でも経験することです。

3人が平行に並んでいる人物たちを思い浮かべてください。こうすると、左右の人物と、真ん中の人物という立ち位置になります。

当然真ん中の人物が両端の人物たちを紹介するような立場になるわけですが、逆に端の人物が残りの二人の人物を取り持つというようにも見えてきます。

いずれにせよ、私たちは紹介される側の人物にもなりますし、する側の人物にもなるということです。

そしてここが大切なのですが、自分がある人と出会ったとしても、その人に出会うことが確かに最初の目的かもしれないのですが、その奥にはもう一人、別の人物がいて、その人に会うということが真の(目に見えない)目的であったということも考えられるわけです。

間に入った人物自身も、そのことを自覚せず、最初に知り合った人物との縁が重要だと思ったり、運命の人であると思い込んだりすることもあるかもしれません。

しかし、実は自分は自分の知っている人物を、知り合った人に紹介する(結びつける)キューピッド役であったのだということもありうるわけです。

それに気付いた時、ちょっと自らでは寂しい感じがあるかもしれませんが、それも各人の人生劇場においては、大きな意味で欠かせない登場(重要)人物なのです。

このように自分が主人公のようでいて、実は脇役になることもありますし、その逆もまたしかりです。

マルセイユタロットの「恋人」カードには、実際にキューピッドが描かれています。

キュピーッドの放つ矢は一般的には、ささった相手に恋をすることになると言われていますが、一方では、人間社会での、まさにキューピッドの役割として指名されることの意味もあるのです。

こうした視点で「縁」を見ていくと、とても面白いものです。

日本語では「縁」に「ご」をつけて「ご縁」と尊称しています。それだけ不可思議な力と働きを感じているのですね。


タロットの学び、孤独と仲間。

昨日は京都でのリーディング実践会でした。総勢14名の方に集まってもらい盛況でした。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。


京都もカルチャーセンターに始まり、さらにタロットの学びを深めたいという方も多くいらっしゃるようになって、タロットの学習だけではなく、受講者同士の交流も希望される方が増えてきました。


そうしたものも考慮しての学習会でした。リーディングもたくさんの事例を見ることにより、普段の発想をブレイクすることができ、懇親会も企画されることで、私が常々呼んでいる「趣縁」(趣味から始まるものの、もっと深く趣きのある縁)が形成されていきます。


昨日も、実はお互いがご近所であったとか、組になってリーディングしたお相手が同じ体験や悩みをされていたとか、タロット以外の同じ趣味志向があったとか、初めて会う方同士で意外な共通点が見つかっていました。こういう驚きもありますね。


タロット、特にこのマルセイユタロットを学習する場合は、単に占いをする集まりではなく、自分を総合的に向上・発展させていくことが目的ですので、自然、自分や人を深く見つめていくようになります。


ここに優れた象徴言語としてのマルセイユタロットを知識としても共有しておくと、タロットを通してお互いが普段の立場や社会的仮面(ペルソナ)を越えて、素の人間同士として語り合うことができるようになります。ここに年齢・職業・性別などを超えたつながりができるのですね。


たとえば自分の体験がマルセイユタロットの「13」で象徴することがあったとすれば、それがタロット仲間のほかの人にとっても、その当人とは体験自体は違うことであっても、「13」のカードの象徴を通して自分も理解することができるようになるのです。


それは単なる頭の理解ではなく、象徴というものがありますので、タロット的にいえば四大元素全部で体感するというものに近くなります。


つまりは実際の感覚に近くなるのです。ここがタロット体験と普通に見聞する知識的なものとの大きな違いです。(これはタロットと自分が通じ合えば合うほど、生身の体験に近くなっていきます)


これが単にカード一枚のことだけではなく、ソウル・パーソナル・イヤーと呼ばれるカードであったり、リーディングにおける展開であったり、大アルカナの全体図でも起こったりするので、本当にお互いの話が自分のことのようになるのですね。


世間ではタロットをしていると、「変な占いなんかに凝ったりして・・・」とか「おかしな宗教に関係しているんじゃない?」「そんな非科学的なことして・・・」など変な目で見られることもあるのですが、それだけに一緒に同じ学びを語り合える仲間や場というものは励ましにもなり、救いにもなるのです。


そもそも人間完成の道を歩むと象徴されるマルセイユタロットにおける「愚者」は、とても変わり者なのです。一般人や常識を超えた人です。


しかしだからこそ、霊的な向上の道を進むことができ、また自分自身は他人視線を気にすることもなく、楽しく希望をもって歩みを進めています。


それでも他のタロットカードが示すように孤独な時もあれば、そうでない時もあります。(「愚者」にも犬が描かれていることを忘れてはなりません)


普通人に世間では見せかけたり、「隠者」のように目立たず、隠れて知識や精神の体験を蓄積している者もいます。


そんな「隠者」においても、同じ数を持つカードに「太陽」があるのは注目すべき点です。


タロットを学んでいること、実践していることを公言しなければならないというルールはありませんし、絶対隠さなければならないということもありません。学び方は人それぞれです。


しかし、孤独よりも仲間がいたほうがいいのはこの世界では言えることです。


また、あなたがタロットの学びと実践を、どのように普段のあなた、または関心のない・理解のないほかの方々の間でやり過ごしていくか、調整・調和させていくのかも、いわば修行でありゲームなのです。


自分はほかの皆の知らない知識を知っていると独善的になるのも危険ですし、逆に普通とは違ってしまった、人に理解されないと嘆くのも不幸です。この折り合いをどうつけ、本当の意味で自分の喜びになるようタロットを学ぶのがよいのです。


そのための材料は実はいくらでも現実の世界に転がっています。ありすぎて困るくらいです。(笑)


あなたのほしいものはほかの世界にあるのではなく、ほかの世界を知る目をもって、この世界を別の観点から見ることで、何でもないものが宝物に見えるようになって得られるのです。


カルチャーセンターの講座でもつながる縁

本日より、カルチャーセンター・よみうり神戸でのマルセイユタロット講座が始まりました。奇しくも七夕からの開始となりました。
今回の新講座の場合は少人数となりましたので、みっちり・ゆっくりのほとんどプライベート講義のようになります。受講生の皆さん、普段お伝えしないこともお話するかもしれませんので、期待していてくださいね。(^^)
同時に実践コースも本日よみうり神戸で始まりました。それに先立ち、京都新聞文化センターのほうでも先日、入門編を終えられた方たちが実践コースに進まれています。
神戸も京都も、入門編のほとんどの方が実践コースのほうへも継続して受講していただくことになりました。これは大変有り難く、うれしいことだと感謝しております。
まあ、私のタロット講座はちょっと変わっていますので、当初は気軽な気持ちで、まさに軽チャー(笑)として参加した人でも、講座が進むにつれて深淵なるヴェールの向こうをのぞいてしまうようなこととなり、ますます先が知りたくなるところもあるかもしれません。
時にはタロットから飛躍して、いろいろなことをお話しますので(今日の神戸の実践講座もそんな風でしたね(^^;))、タロットを学びに来るというより、いわばちょっとした講演を聴きに来られるというような感覚の人もいらっしゃいます。
私もお調子者なので(苦笑)、真剣に話を聞いていただけますと、余計にどんどんと秘密や知識も語りたくなるものです。私は根っからの教え好きのところがあります。
それに私は単にタロットのリーディング方法をお伝えするのではなく、その人個人の生き方人生の質を向上させていくことを目指して、カルチャーといえどお一人お一人丹念に皆さんを見ているつもりです。
講座では、さっとタロットの解説をしているように見えますが、本当にお一人お一人の幸せと充実した人生を願い、タロットを通じながらさりげなく伝えているところです。
さて、こうした講座のよいところは、学びだけのことではありません。
何回かこのブログでも語ってきたように、人との交流、おつきあいタロット学習を契機として始まるのです。
特に私の提供するタロット講座の内容は、自分や人を見つめていくこと自分(と世界)の再統合というようなことをテーマにしておりますので、自分自身はもとより、自然と関心はへと移ってきます。
それも一緒に学んでいる人の興味にも行くようになります。それは自分自身を開示していくことにもつながります。
一方、タロットを習うということは、ある意味一般の方からすれば特殊なことですので、時には学びにおいて孤独に陥ることもあります。
場合によっては人から変な風に思われる(苦笑)ようなこともあるかもしれません。
しかし、そんな時でも一緒に学んでいる仲間が存在し、その人たちと交流が深まれば、勇気百倍、学び自体がとても楽しいものになります。(タロットカードの「太陽」が示唆しています)
タロットにおいて、実は人は皆平等になります。老いも若きも、女性も男性も超越するのです。
タロットを学ぶと、だいたい世代を超えるつきあいが始まることは多いです。そこで新たな刺激をお互い受け合うことになります。
マルセイユタロットでつながる縁は本当に特別なものを感じます。もしかすると前世のようなものがあるとすれば、そうしたことと関係しているのかもしれません。
それらを総称して、私は趣きのある縁、趣縁と称しているのです。
タロットを学ぶもうひとつの大きな効果とは、この趣縁が得られるということなのです。
カルチャーセンターでもそうなのですから、本格的な基礎講座などでの効用は推して知るべしということになりますね。


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