迷った時に
「恋人」カード、地上と天上の選択
以前も書いたことがありますが、マルセイユタロットの「恋人」カードを、“選択”というテーマで見ると、面白いことがわかります。
ちなみに「恋人」カードの画像はこのようなものです。
その前に、一般的に「恋人」カードは、その名の通り、恋愛と関係するカードと思われています。特に占いでは顕著でしよう。
しかし、占いではないタロットの観点で見ますと、実は恋愛的なことから離れる見方もできます。むしろ、そのほうが本質ではないかとさえ思っています。
逆に言いますと、恋愛という現象が、実は人間の様々なレベルを刺激し、成長や堕落もさせる、非常に深いテーマであるということが言えるのかもしれません。(恋愛というものは、あくまで現象であり、その本質こそが重要であるという話です)
さて、その「恋人」カードですが、図像をよく見ると、特徴的なのは、三人の人間と、上空に天使だか、何か人間ではないものがいるという構図になっています。
要するに、天と地、人間世界とそうでない世界の対比になっているわけです。
下の三人の人間たちは、真ん中の男性と思える人物が、両端の二人の女性とおぼしき人たちに囲まれている様子が描かれています。
このことから、真ん中の男性が、どちらかの女性を選ぼうとしているのだと解釈されます。(ただし、解釈はいろいろあります)
一応、主人公をこの男性だとすると、彼にはふたつの選択肢(二人の女性のうちのどちらかを選ぶ可能性)があることになります。
とは言え、どちらも気に入らない、甲乙つけがたしで、選ばない、選べないというケースもあるでしょう。
また、見ようによっては、男性はあくまでサブで、女性二人が主人公という可能性もあります。女性のほうが、積極的に男性に声をかけ、選んでいるのかもしれません。
結局、主人公を誰にするかによって見方や立場が変わり、自分で選んでいると思っていたものが、実は選ばされていたということにもなります。
どうも真ん中の男性は、しっかりした態度というより、迷っているようにも見え、実は男性のほうがタジタジとなっているのかもしれません。(笑)
いずれにしろ、人間たちには、同じ人間同士の世界で、どちらかの選択、または何も選ばない(選べない)という選択行為があることが物語られています。
一方、上空の天使(キューピッドとも言えます、厳密にはキューピッドは天使ではありませんが)も、矢をつがえて、誰かに当てようとしているようです。
ということは、宝くじではないですが、矢が当たった人がまさに当選した、選ばれたということになるでしょう。
そう、ここには天使、つまり人間以外の要素、または人間の通常を超えた高次的な選択の力が働いているわけです。ただし、天使側からは人間が見えていても、人間側からは見えていないので、一方的な選択にも思えます。
さらに、矢は必ずしも放たれるとは限りませんし、絶対に人に当たるとも言えません。天使は、はずすかもしれないのです。(それは天使側というより、人側の動きによってのほうが大きそうです)
つまるところ、人間世界、地上(物質的)世界の選択と、物質を超えた世界、天上的な選択とのふたつがあると告げているように見えます。
深くは講義で説明していますかが、人間三人の構造が、実は天上的な選択とも関係し、天が地に、地が天に呼応していることを表しています。
簡単に言えば、私たちの地上の選択は、天上と無関係ではなく、むしろ、その意思を受け取っていると見ていいわけです。
しかし、地上世界における通信や電波の混乱状態(混信)ではないですが、人間を超えた世界、見えない世界においては、低次な、おどろおどろしい心霊・サイキック的世界から、霊的に高次な世界まで様々に入り組んでいるように感じられます。
自分が信じたものが高次とは限らず、たいていは人間に近い、それなりに欲望や欲求を持った存在であることが結構あります。
天使からの選択(インスピレーションや夢、シンクロニシティなど、言葉とは別のメッセージとして現れる)の示唆だと思って、人間たちのアドバイスを無視し、何かを選んだとしても、それは低級なものたちからの誘導である場合も考えられます。
もちろん、混信をクリアーにし、高いレベルで受信が可能になれば、まさに高次からのメッセージ・アドバイスとして受け取ることも可能でしょう。
天使と人間たちという「恋人」カードの構図の特性上、どうしても、天使世界のほうを上に見てしまいがちです。
実際、そういう風に見ていいところもあるのですが、ここで重要なのは、地上の人間たちのコミュニケーション、アドバイス、話し合い、交流も必要だということです。
この段階では、地上・現実世界での関わりのほうがむしろ上と言ってもいいくらいです。つまりは現実逃避への警告みたいなものです。
ところが、そうは言いつつも、矛盾するようですが、わざわざ天使がカードに登場しているのですから、そういう世界観(精神やスピリチュアルの世界)への視野も、本当の意味では、大切になってくることでもあります。
バランスと言えば、よいのでしょうか。
同じカードが出たとしても、タロットリーディングにおいては、同じ意味になるとは限らず、この「恋人」カードの選択の場合でも、天上の天使を見たほうがいい人、地上の人間たちの立場を重視したほうがいい人、さらには、人間たちの中でも、どの人が自分にとって関係が深いかなど、様々なのです。
そうして最終的には、仮に真ん中の彼が主人公だとすると、両端の女性、上空の天使も含め、すべての選択(肢)と働きかけの可能性を見出し、統合することに、テーマがあります。
どちら(どれ)を選べばよい(選ばない)という話ではないのです。多かれ少なかれ、人が何かの選択をする場合、ほかの選択(選ばれない選択など)も同時に行っているというのが、このカードからわかります。
時空が限定されている地上・現実の世界では、効率や経済、あるいは人間的価値観による幸せという基準での選択の良し悪しがあります。要は、実際にいい選択とまずい選択というのが起こり得るということです。
しかし、霊的なレベルにおいては、それはまた逆転したり、そもそも高いレベルになればなるほど、低い選択基準は統合されて、良し悪しはなくなっていきますから、どちらでもあってどちらでもない状態(良し悪しなどない)になってきます。
だからと言って、高いレベルの基準でいなさい、というわけでもないのです。たとえ、そうなろうとしても、普通はいきなりでは無理です
さきほども言ったように、「恋」人カードでは、人間たちの交流が図像として大きいので、それが強調されているのです。言わば、間違いの選択も含めての経験の重要さです。
この現実世界で、天使的なものも意識しながら、主人公としての自分が演じるメインフィールド(中心舞台)は、地上であるということも忘れないようにしたいものです。
目的・目標を持たない人生
何度か書いたことがあるテーマですが、人には、「目的(目標)をもって生きたほうがよいのか」、逆に、行き当たりばったりほどとは言いませんが、あまり「目的を持たないで生きたほうがよいのか」という問題があります。
私の場合、このテーマへの回答は、ずるいようですが、どちらもありであり、またどちらでもないというものです。
結局、個人それぞれであり、そして、状況次第でもあると言えましょう。
ただ、最近は、前者の「目的をもって生きる」のほうに価値を置く人が多くなったようにも感じます。
いや、おそらく、そのほうが、「生きている」実感が出て、張り合いのある人生になるのではないかと、私も思います。
しかし、問題なのは、それが、人から言われたからとか、そうしたほうがいいと何かで読んだ(聞いた)からとか、自分の気持ち(あるいは状態)を無視して、画一的(機械的)に従っているような場合です。
比較的よくあるのが、成功理論(法則)や自己実現を謳う人たちからのものに、「目的を持った人生」を強制されがちなパータンです。
確かに、目的意識が強ければ、それを達成しようという行動も出てきて、熱意をもって、その間の人生も充実しているように感じるかもしれません。
けれども、意外に、人生は結果論(結果で評価される)みたいなところもあり、結果よければすべてよしに見られる傾向があります。
ですから、ある人が成功しているからと言って、(結果はそうでも)過程では、必ずしも「成功する目的」を持っていたとは限らないわけです。
例えば、好きなことを何となくずっと続けていて、その好きなことが、案外、他人から求められるようになり、気がつくと売れて成功していたという話もあるでしょう。
人間誰しも、多少は「こうなりたい」みたいな目標はあるとしても、その達成に、強烈な思いが絶対に必要であったかどうかはわからないものです。
結局、人生は運ではないかという人もいるくらいで、であるならば、運任せの人生のほうが楽ではないかという話にもなってきます。(だから、「運をよくする」という生き方を選ぶ人もいますが)
運任せ、まさに行き当たりばったりと言えますが、こちらは、先述の成功理論とか自己実現の方法にはまり過ぎて、結局、望み通りにはならず、色々疲れてしまったような人には、かえってよい場合があるかと思います。
ほかにも、目標はあったのに、年齢とか様々な条件で、どうやら叶いそうにもないと、ほとんどあきらめかけているような人です。
まあ、そういう時は、投げやりになって、もう人生、どうでもいい、というふうにはなりがちですが…
ここで提案したいのは、タロット的に例えれば、積極的な「愚者」人生というものです。
マルセイユタロットの「愚者」というカードは、数がなく、何ものにも規定されない(囚われない)自由の象徴です。また、その人物は旅人の姿をしています。
ここから、人生の旅をしている「愚者」と見て、しかし、旅はしても、先ほど言ったように「自由人」であるので、特に目標とか目的を持たずに生きるような姿勢だと言えます。
ただそれは受動的で投げやりなものではなく、自由をポリシーとするような生き方で、その選択をする積極性があるということです。
一言で言えば、気楽さを自ら選ぶ人生であり、あえて目的を持たないようにすることで自由性を獲得する人生という感じです。
さらに「名前のない13」というカードと「愚者」は関係しており、この「13」は名前がないのですから、名前に囚われることはないわけです。囚われのないという意味では、「愚者」と共通していると言えましょう。
名前というものを、ひとつの出来事とか事柄、あるいはまさに人の名前と見れば(私たちは名前・名称によって物事を認識、決めています)、目的を持たない人生は、ある意味、「13」でも象徴されるということです。
「13」の場合、目的を持たないというより、目的を捨てるみたいな生き方かもしれません。または、目的をその都度捨て(見直し)、新たなものに作り直すと表現してもよいでしょう。
目的を持つ人生は、人生にパワーを与えることに貢献するものだとは思いますが、私たちは、あまりに他から・外からの目的を植え付けられて、本当の自分の目的を見失わされているように見えます。
ですから、逆に、目的を持たなかったり、捨てたりする人生を選び、自分を無(ありのまま)になるべくして、その時その時(つまり「今」)を精一杯生きる(愚者的には無邪気に、気楽に生きる)という姿勢もあってよいように思います。
つまり、何かをなさねばならないとか、人から評価されなければ(認めてもらえなければ)自分が充実した気分にならないとなっているうちは、偽の目的・目標があなたを支配しているわけす。
それがために、ますます仮面としての自分が強制され、生きづらくなってくるという仕組みです。
「目的(を持つこと)」は自らを高め、充実させるためにあるものなのに、反対に、目的・目標に自分が操られ、苦しめられているのです。
だから、「愚者」や「13」的な生き方を採り入れて、あえて、行き当たりばったり的な、その日その日を楽しむ、予定とか先の計画はほとんどしない生き方、目的はあっても、それをどんどん変えていくことを許可する人生もいいかもしれません。
もちろん、必要な準備とか計画はあってもよいでしょうが、ただ人生を生き切るとした「目標」以外、特に抱かず、流れのままに生きるという意識で、心を楽にしていく時があれば、逆に、確固とした目的も生まれることも考えられます。
私たちは人として共通なものを当然持ちますが、同時に、個人として、別々の個性を持っています。皆同じで皆違っているわけです。(笑)
ですから、よい生き方や成功の概念も人それぞれであり(ですから人生は観念とも言えます)、自分がよいと思えばよい人生になりますし、反対の、悪いと思えば悪い人生になるわけです。
時系列的に、過去と未来に、人は、よく囚われます。いくらよいと思おうとしても、過去と未来への思いが、後悔や不安を生み出します。
従って、特に未来においては、目的とか目標を持つことが、未来への意識を強くしてしまいますので、そういうものをあえて考えないことで、不安や混乱要素を排除していくことにもなるわけです。
ただ、目標ある未来の実現過程が楽しめる場合は、この限りではなく、未来の到達点(目標)が、生きるエネルギーそのものとなるでしょう。
何度も言いますが、目標・目的を持つことがいけないと言っているのではありません。
普通は、そのほうがいいと考えられるのですが、ここで述べているのは、それを持つことで囚われになっては元も子もないので、時には「愚者」みたいになってもよいよという提案なのです。
愚者 何者でもないこと
私はタロットを扱い、いわば仕事にもしていますので、人から見れば「タロットの専門家」という感じになるかと思います。
しかし、自分自身は、タロットの専門家でもないですし、かといって、タロットの愛好家とも言えません。
前にも何回も書いていますが、たまたま、自身の好みと探求の方向性において、「マルセイユタロット」をモデル・ツールとして使うことがふさわしく、理に適っていると考えているからです。
従って、奇妙なことが私には言えます。
それは、タロットにおいて“何者でもない私”になってしまうということです。
ここで言う、何者でもない、というのは、タロットの歴史・研究マニアでもなければ、魔術的タロット実践者でもない、かといって、タロット占い師でもなければ、また心理的タロット研究者でもない、ましてやタロットコレクターでもないわけです。
ただ、自分の弁明(笑)のために言っておきますが、一応、マルセイユタロットにおいては、深くやっているつもりで、少しずつつまみ食いをして、広く浅くタロットと関係しているというタイプではありません。(笑)
で、何を言いたいのかと言えば、何者でもない感と、何者かでありたい感について、ちょっとふれたいがためです。
「何者でない感」は、逆に、「何者かでありたい」という感情が裏返し・セットになっていることがほとんどです。
人は、自分が特定できる何者かであり、人からも「こういう人だ」と認められることに安心感を持ちます。
一方で、特に、他人から言われる「自分像」に抵抗を示す気持ちも、多くの人にあります。
心理的によく言われるように、「自分だけ知る自分」というものがあり、さらには「自分さえ知らない自分」というのもあります。だから、当然のように、他人から見られている自分像というのは、ほんの一面に過ぎないことを、自らも(無意識な面も含めて)わかっています。
この、特定されたい、個性を指摘されたいという一面と、反対に、特定されたくない、人の言う自分ではない(人の言う自分にはなりたくない)という一面との、アンビバレンツな感情が人にはあるわけです。
結局、安定と自由の葛藤であり、維持と破壊のふたつで揺れる存在(が人間)とも言えます。
「何者かである」とされた時、人は固定され、言わば自由を失います。束縛と同じようになるわけです。しかしながら、その恩恵も大きく、何かに属し、レッテルを貼り(貼られ)、個性が与えられると、その箱(範囲)で安心して暮らすことができます。
自分がそう振る舞うことで、ほかの余計なこともしなくて済み、精神的な(組織に属せば、物質的にも)安定が得られるでしょう。
ただ、いつか「本当に自分はこうなのだろうか?別の自分がいるのではないか?」という、確保した安定性と付与された個性を放棄したくなる「破壊」的な疑念と、新たな自分を見出したい衝動も出てきます。
マルセイユタロットの大アルカナで言いますと、皆、どれかひとつ(か、幾つか)のカードが表す「自分」というものに、一度は落ち着きます。ただ、本当は「愚者」かもしれず、「愚者」は数を持ちません。ということは、どの数でもなく、自由であり、何者にも特定されていないわけです。
「愚者」の絵柄を見れば明らかなように、旅姿をしています。つまり、「愚者」に戻れば、本当の旅が始まると言えるのです。
あるいは、特定されたカードから「愚者」に戻って、また別のカードになるために旅する、その繰り返しかもしれません。
もちろん、人には生まれ持った性質とか、宿命のようなものもあるでしょう。それらは言わば、初めからなじみのあるカードとも言えますし、手札として最初から配られたカードとも言えます。
ですが、基本、皆、「愚者」だと思えば、ほかのカードは、自分の仮初の姿に過ぎないと言えます。
人との違いが商売とか経済的なもの、あるいは生きる楽さ(落差)にもつながってしまう今の世の中で、「自分は何者でもない」と悩む人も多いかもしれません。
それでも、マルセイユタロットで言えば、皆、「愚者」なのですから、それが当たり前と言いますか、「愚者」であることが旅を自由にさせるとも言えます。
これは責任放棄を勧めているわけでは決してありませんが、「愚者」という何者でもない者として自分を取り戻せば、背負い過ぎているもの、強制的に演じさせられているもの、それらからは解放されて行きます。
マルセイユタロットを手にすれば、あなたは「愚者」として本当の旅を始めることができます。
占いも救いになるかもしれませんが、かえって自分を何者(成功者など)かに固定することに迷わされ、空しくなることもあります。そういう人たちは、マルセイユタロットの学びによって、実は守られるかもしれません。
矛盾した言い方ですが、特定からはずれることで、自分自身が守られることもあるのです。これは語弊がありますが、言い換えれば、(いい意味での)目標放棄に近いものなのです。
世界や人生に意味はあるのか?
このテーマは、何回か取り上げたことがあるものです。
世間でも、「(明確に)意味はある」という考えと、「意味はない」というものに二分され、様々な意見があるようです。
私自身は、マルセイユタロットを見ていると、どちらもありで、どちらでも言えるという立場を取っています。
マルセイユタロットの大アルカナで例えると、ある意味、「愚者」と「ほかのカードたち」という形になるでしょうか。
「愚者」を人物として見ると、彼自身、「世界や人生に意味はなんてないさ」というように答えるでしょう。(笑)
そしてまた、もしかすると彼は、「そうだね、もし意味があるとすれば、僕の行先そのものかな」と続けて言うかもしれません。
これは、「愚者」の旅に意味があるというより、その旅先・訪問先自体に何かの意味がつけられるという風に考えてみてください。つまり、訪問することに意味があるのではなく、その場所での経験に意味づけすることができるというものです。
訪れた場所で楽しい経験をしたのなら、そこは楽しむという意味、嫌なことや苦いことを体験したのなら、そこは苦痛の意味、何か学んだと思ったのなら、学びという意味があったという具合です。
結局、大きな次元・レベルで見れば、世界や人生に意味などないと言えそうですが、一人一人、個人個人にとっては、何かの意味をつけたり、見出したりすることはできるのです。その自由が許されているのが私たち人間と言えましょう。
ですから、自分の思いというものが世界や人生を意味づけるということになるわけてすが、面白いことに、私たちは自分一人で現実世界を生きているわけではありません。
また、考え方や環境も同じではなく、極端に言えばバラバラな世界です。
よって、他人から、あるいは様々な環境・状況から、私たちは影響を受けることになります。なかなか孤独に一人だけで生きることは難しいですから。
ということで、ほかから影響を受ける度に、自分の思いや考えも変わり、そのため、世界と人生に意味づけする内容も変容する可能性が高いです。
結局のところ、自分で意味づけしようとしても、周りの影響は多少なりとも受けるので、世界や人生の意味を自分一人では決められないということになります。
であるならば、やはり、世界と人生は、私たち全員によって意味づけられていると見ることができます。このことの意味は、まるでタロットカードが、一組全体によって成り立っているというのに似ています。
世界や人生には、究極的には意味はないですし、意味をみなくてもよいレベルがあると言えますが、現実的には意味を見出さないと生きづらくなるのも確かです。その意味自体も、自分と他者によって成り立っていることを思えば、いがみ合い、争うより、協力し、調和を意図したほうがよいと言えるのではないでしょうか。
さらに、たったひとつのこと、たった一人のこと、ほんのささいなことに救われる意味を見てもいいでしょうし、使命を持ったり、社会を改革するような大きな志を抱いたり、活動したりすることに意味を見出すのもまたありでしょう。
自分が演じている劇に実は意味はないのかもしれませんが、演じているうちに劇のテーマが決まってくるかもしれませんし、自分がこうだと決めてもよいわけです。
言わば、私たちは、マルセイユタロットの「愚者」そのものと言えるのです。
天の自分と地の自分
マルセイユタロットでは、リーディングにおいて、特に高度になってきますと、視点や見方が複雑になってきます。
言い換えれば、いろいろな立場とか段階(レベル)での見え方、読み方があり、同じカード展開でも、様々な読み方が可能になるのです。
そういった数ある見方のうちに、天上的視点・地上的視点というものがあります。
平たく言えば、神の視点か、人間の視点かみたいな話です。
もちろん、私たちは神などなれるわけではないので(スピリチュアル的にはどうかわかりませんが、ここでは常識的な話においてでは、です)、当然、神の視点などわかるはずもありません。
しかし、あえてタロットの象徴性から、神と言ってしまえば大げさですが、通常の意識・次元を超えた視点、見方を援用しようというものです。マルセイユタロットならは、それができる体系・システムがあるのです。
とはいえ、読み解くのは人間ですから、どうしても人間である視点・視野からは逃れることはできません。それでも、天と地、神と人という対比、構造を設定しておけば、たとえ人間が読み解くにしても、いつもよりは違った見方を導入することができるのです。
このふたつの視点・見方を持つことは、生きづらさを感じている人や、どう生きてよいのか、何を選択すればよいのかに迷っている人には、よいメソッドとなります。
ふたつに分けると言うと、結局「分離」であるので、特にスピリチュアルな教えに傾倒している人には、「分離」という言葉だけで嫌悪感を示すかもしれませんが、分離の逆の「統合」においては、ふたつの違いを明確を理解しているからこそ、できることなのです。
ですが、分離の弊害も確かにあります。
分ける視点自体はよいにしても、天か地かに極端に分かれてしまうことに問題性が出ます。
あまりに天を求めすぎると、地から離れることになり、要するに現実逃避となり、生きている実感がより乏しくなったり、現実世界そのものに嫌気がさしたり、虚無感に襲われたりします。
あるいは、自分がほかの人よりはえらいとか、神から選ばれた存在だと特別視して尊大になり、周囲のものを見下し、軽く扱うようになってしまうこともあります。(これはマルセイユタロットでいうと「悪魔」のカードの問題性の部分ですね)
逆に、地、つまり現実や人間的なものにフォーカスし過ぎると、精神性や霊性を軽視し、人生・生活の質、クォリティを物質中心や実際の成果に置きがちになり、勝ち組・負け組の世界での競争に明け暮れることになります。
また、結局、他人と比べ、何もできない自分、特別な何かを持てない自分、人から認められない自分というものに悩まされ、天を求めすぎるのと同様、現実が空しくなってしまいます。
つまるところ、どちらかに極端にならず、ふたつの間のバランスを取っていくのが、まずは落ち着けやすい方法かと思います。
そしてここからが肝心なのですが、天と地、これを大目標・理想と、実際や現実での表現方法というふうに考えてみるとわかりやすくなります。
人は地、現実の中でなりたい自分とか、理想の自分というものを目標として持ち、それに向けて努力する人もいれば、「そうなれば理想だけど、無理よね」「そんな夢みたいなこと言うより、現実を見ようよ」という具合に、理想をあきらめてしまう人もいます。
しかし、これはいずれにしても、地(実際・人間性・現実時空)の中での話です。
ここに天としての、別次元とでもいうべきフィールドや世界を想定し、自分はそこの住人でもあり、だからこそ、そこでは本当の理想的な自分でいることができる、理想を実現している自分であると見ることができます。
ですが、地上世界、実際の現実とは違うので、まったく同じにする、同じになるということは難しいです。
そこで、天の自分である理想を、地の自分がいかに表現できるか、その方法や、やり方を楽しむような視点に変えます。
地の世界は天の世界とは異なるので、先述したように、そのまままったく同じにすることは困難でも、天の理想を地として別の形で表すことができないかと考えるわけです。
つまり、設計図(理念)と実際の家(現実にやれること)の違いみたいなものです。
理想と現実が違うことは、言われなくてもわかっている人はほとんどでしょう。
しかし、ここで言っているのは、天の自分と地の自分は違っていても、本質的には同じ自分の中の二人であり、この関係性を意識して結び付けることを常態化すると、自分の(現実)での環境、行動、思いに天の自分の意思が入ってくるようになるということなのです。
一言でいえば、「このために生きている」という信念のようなものが生まれてくるわけです。
天命を知ると言い方がありますが、それよりも、天命を生みだす、天命を地上にリンクさせるみたいな言い方のほうが適切でしょうか。
そうすると、自分のやっていることだけではなく、やらされていること(現実世界ではそのほうが、認識としては多いでしょう)に対しても、天とリンクさせることで、天に沿うか、沿わないかの視点でもって判断でき、ここは耐えるべきか、無駄なことをしているのでさっさと次に行くべきかなどが、自ずとわかってくるのです。
言ってみれば、理想の自分、理想の在り方としての自分(天の自分)と相談するような感じで、天の価値観を入れながら、地上、現実としての自分の行動、表現を決めていく(決められていく)わけです。
すると、よくあるように、これは試練(耐えることなのか)なのか、無駄な(犠牲になっている)ことなのか(やめていいものなのか)などの迷いで、今までよりかは判断がしやすくなるはずです。
天という自分の理想や在り方からすれば、地上・現実でやっていることは、大きくはずれているのではないかと思えば、やっていることにこだわらなくてもいいですし、やはり、天から見ても必要なもの、それに沿っていることだと思えば、一見嫌なことや、つらいことであっても、ここは耐えるべき、経験すべきことだと理解ができるかもしれません。
注意すべきは、天と地を、同一なものと錯覚しないことです。
引き寄せの法則のように、強く願えば現実に叶う、引き寄せるというものでもないのです。
むしろ、地上世界の価値による利益の実現を願うよりも、崇高で理想的なもの、そうでなくても、地上的条件をとっばらっても、やりたいこと、好きであること、いわば魂・ソウルの方向性みたいなものを思い、それはそのまま地上や現実で叶うわけではないものの、その精神が生かされた表現方法、やり方は取れるのではないかという姿勢なのです。
すると、「ここだけは譲れない」みたいなことも出てくるかもしれませんし、反対に、「(天に適っていれば)何でもやり方はありなんじゃないか」と自由に思えることもあるでしょう。
マルセイユタロットで言えば、「審判」と「恋人」カードのような関係性かもしれません。
これは地上において、天(天国の光)を見つけることでもあり、最終的には地と天を統合する方向にも進化していくことでしょう。
多くの人は天の自分を忘れ、地の自分だけで生きています。また、天を知っていても、地と切り離し、それこそ分離して、リンクはできないと思い込んでいます。
それは天と地では、エネルギーや表現方法が違うので、むしろ当然ではあるのですが、違っていても同じであること、しかし、同一なものとして、同じことをそのまま表現することは難しいという両方を理解していると、この世も捨てたものではなくなってきて、「いかに地の自分によって、天の自分を楽しませてやろうか」という、マルセイユタロットで言えば、地の最初でもあり、好奇心の象徴でもある「手品師」となって、その手品を皆さんに披露していくことになるのです。