迷った時に

ある数を見ることについての意味

タロットは数と無縁ではありません。

それどころか、数カードとか数札と呼ばれる小アルカナのパートもありますし、大アルカナと呼ばれるパートには、ひとつのカードを除いて数がふられています。

それに、カードの構成、パートごとの枚数などにも意味があり、タロットと数は実は厳密な関係性をもって配されているのが、詳しく見ていくとわかります。

伝統的なタロットほどそのようになっており、マルセイユタロットはその典型と言えます。

これとは別に、数とは無関係の創作系のタロットもあり、それはそれで製作者の意図があるものとは思いますが、というのは、私たちが思う以上に特別なものであり、宇宙・神のオーダーを表すとともに、私たちの人間レベルの現実世界においても、数がどこにでも見られるように、基本となっているものなのです。その数にタロットが配慮するのも当然と言えます。

しかしながら、数秘術というものがあるように、数単独での象徴体系があり、それはまたタロットの絵柄を中心とした象徴システムとは異なってくるところもありますので、立場によって、数を中心として見るか、絵柄を基本として見るかによって、タロットの扱い、読み方も変わってくると言えましょう。

ですから、無暗に数秘術の概念をタロットに当てはめて読むというのも、考えもののところがあります。

さて、今日はそんな数について、少しタロットと離れるかもしれませんが(でも関係性があるものです)、話題にしたいと思います。

皆さんはラッキーナンバーとか、逆に不吉な数とか思ったことはありませんか?

またゾロ目とか、よく見かける数とかに、意味があると意識したことはないでしょうか? エンジェルナンバーなどと言う場合もありますよね。

おそらく、タロットに興味も持つような方ならば、そういう数について、特別に何か気持ちとか思いを持ったり、意味を見出したりしたことはあるでしょう。

そうした、数が何かを自分に告げているかのように思う(意味があるとする)見方はどうなのか?を考えたいと思います。

私の考えは、一言で言えば、それは「意味がある」「メッセージだと取ってよいケースもある」となります。

一方で、ケースバイケースであり、人によって意味合いが大きく異なってくるということも述べたいです。しかも、究極的には意味がないと言ってもいいでしょう。

こう書くと、わけがわからないかもしれませんね。(笑)

もう少し別の言い方をすれば、(特定の)数に(ある)意味を思うのは、その人がその世界観にいるからということになります。

例えば、3と7がラッキーナンバーで、4や9は不吉だと思っている人は、そういう自分の世界が形成されているのです。言わば信仰の世界に近いです。

人は自分が信じた世界の中で生きることになりますので、その人にとっては、その数は、自分が思う通りのメッセージを見せるわけです。

誰が見せているのかと言えば、自分自身です。

これがもはや個人ではなく、ひとつの国とか文化レベルで作られてくると、ほぼその文化圏すべての人が、その数の意味を信じることになります。

たとえ普段は信じていなくても、幼少の頃から物語とか大人の話とか聞かされたり、見たりするので、潜在意識に刷り込まれて行き、無意識にそういう意味に感じてしまうようになると推定できます。

タロットの大アルカナナンバー「13」も、西洋文化圏では不吉な数とされてしまいましたので、だいたい絵柄も一般の人が想像するような「死神」的イメージのものになっていて、怖がられますし、実際カードとして(一般では)あまりよい意味では読まれません。※だだマルセイユタロットの「13」も、本来の13という数も、死神的な意味ではないので、注意する必要はあります。

スポーツの背番号、部屋番号などでも、13は西洋文化圏では避けられることが多いです。

文化圏レベルでもそうなのですから、個人レベルではなおさらで、自分にとってラッキーな数、不吉な数なども、自分の中でルール化されている人がほとんどです。(たいていはその国や地域の文化、自己の経験からのものが多いですが)

ゾロ目なども、同じ数がそろうことがそもそも確率的には希なので特別感があり、そこに何らかの意味を持たせてしまうことは想像に難くなく、いつしかゾロ目にも意味がそれぞれ与えられ、これも一種の固定観念のようになり、ゾロ目の特別性もあって、つけられた意味が(本やネットなどで読み)その人に印象深く入って行くことになります。

では、結局、自分が信じた数の意味、世界観がすべてかと言われれば、そうでもあるし、そうでもないとも言えます。

何といいますか、数自体に意味がないわけではないのですが、人が思う、自分にとっての数の意味と、それを見て思うことというのは、次元が異なる話なのです。

これは輪廻転生とかカルマがあるかないかの話にも似ていて、もしあると考えれる人でも、個の行為としての(人間の考える)善悪レベルで見るのか、もっと宇宙的な規模で見るのかによっても話が変わってくるのです。

ある数を見てメッセージだとか、何か(特別)の意味があると言う人は、そういうお知らせの仕方・方法を選ぶ(告げてもらう)世界にいるという話なのです。

そしてその受け取り方や解釈も、吉凶とか、イエス・ノーとかの判断の根拠にするようなもののレベルの人もいれば、多くのメッセージの中のひとつに過ぎないと見たり、数そのものよりも、数を見て思うこと自体に何らかの意味を見出すレベルの人もいたりするわけです。

自分の世界観レベルが拡大し、抽象度が上昇して、象徴として全体性がより深遠に見えて来るようになれば、数に一喜一憂したり、特定の数に引っ張られたり、それを見ようと意識したりするようなことはなくなり、数自体より、数の背景にある幾何学的な構造とか、大元のようなものに意識が向かうようになると思います。

そうして、やがて算用数字的な数を見て、何か思うというようなことはなくなってきて、特別な数で自分に何か知らせるというスタイルのレベルを卒業する(そういう世界から脱却する)ことになるでしょう。

自分に意味ある数で状態を知るという方法は、逆に言えば、数(という象徴と意味)でないと自分はわからないという設定にあるわけで、これが恣意的に、あるいは分離的(二元的・損得的・エゴ的)意識状態に傾いていると、自分にとって吉と思える数、自分が受け取りたい(たとえばGOと言ってほしい、この人は運命の人だと言ってほしい、お金が入ると言ってほしい、病気が治ると言ってほしい、問題は解決すると言ってほしいなどなど)メッセージだと思う意味の数(ゾロ目とか特別な数を含む)を見るように自分を仕向けることになります。

自分の心が結局外と関係し、心の内を見せられるわけですが、数に限らず、見たいと思っているものも見せられますし、反対に、避けたいと思っているものも見せられるわけです。

ここに、いいもの・悪いものという分離した二元的な価値観中心で自分がいると、見たいものなのか、見たくないものなのか、自分が本当に望んでいることなのか、そうではないものなのか、わからなくなり、混乱するでしょう。

言わば、全部自分が見たいものなのですが、こうなることは嫌だ、避けたいと思ってしまうことも人にはあるので、それは見せてほしくない(見たくない、起こってほしくない)と思うのですが、自分の奥底では、それが見たいと言いますか、見ないことには本当の意味で、まともな自分自身に戻ることができないので、嫌なことも見せられるわけです。

だから自分がよく見る数は、何かのシンクロで意味あるメッセージなのか、ただの偶然で意味ないものなのかと悩む時点で、マルセイユタロットで言えば「運命の輪」の輪の中の二匹の動物状態にあり、つまるところ、どちらでもなく、強いて言えば、その世界にいる自分の設定においては、何らかの意味あることだと言わねばなりません。

言っておきますが、ただの偶然ではないことは確かで、世の中に本当は偶然はないものだと考えてもよいでしょう。

ですから、よく見る数とか、特別に何かあるのではと思ってしまう数を見たということそれ自体は、確かに偶然ではないのです。

しかし、その数によって、ラッキーだの不幸だのと、ふりまわされるのは、そうした世界に自分がいたいだけであり、そのほうが自分にとっては都合がよいからなのだということも、覚えおかれるとよいでょう。


すぐにクリアーにできなくてもよい

タロットでの相談を受けていますと、問題や悩みをすぐに解決しないと、とあせっている方がいるように思います。

また、漠然とした不安があるとか、はっきりとした問題意識はないけれども、どうしていいのかわからないというような状態になっている人もいます。

全部とは言いませんが、このふたつのタイプは、実は同じ根(こん)があるのではないかと察します。

それは、きちんとしたい、正しくありたい、いつもクリアーな状態でいたいという気質(囚われ)です。

私にもそういう部分があるので、よくわかります。

しかし、物事は常にふたつの要素の対立や循環で成り立っており、いわゆる陰陽思想のように、「ふたつでひとつ」と言えます。

従って、クリアーな状態な時もあれば、その反対に、はっきりきりしない状態のこともあるのはセットです。(片方だけでは、どちらの状態も意識することはできない)

ですから、正しいこと(間違いをしないほう)だけを選択し続けるとか、いつも白であり続けるとかはあり得ないわけです。

さきほど「循環」と言いましたが、逆のものへと循環作用を成す場合、それが一瞬で達成されることもなきしもあらずですが、たいていは時間がかかるものです。(時間と空間の三次元世界であるため)

従って、待つ(時間経過がいる)という姿勢も、どうしても必要となります。

自分が片方だけの状態に留まろうとしても、この世の理として、循環や入れ替えが行われて行きますので、宇宙・自然の動きに順応できず、翻弄されていくことになります。

まるで、マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」の中でしがみつく動物のようです。

輪は回っているのに、自分は動かない(この位置にいたい、この位置こそが正しい)と頑なになっているため、やがて輪が回り、逆さまに落されるような事態(こんなはずでははなかった、真逆の事態などが起きること)にもなりかねません。

ですから、例えば、あせっている人とか、いつも自分が思う正しい状態、クリアーでよい状態でいたいと固執していると(それが全体性としてアンバランスなものであるのならば)、マルセイユタロットは「吊るし」とか「月」とかの、時間経過を必要としたり、待機状態、不透明な状態を受け入れるような示唆のカードが出ます。

また、人によっては、「正義」のカードのようにルールを重んじるものより、「愚者」のような、文字通り、愚か者になることを勧める(笑)カードも出るかもしれません。

「答えが出ないことそのものが、実は答えなのかもしれない」という、禅問答みたいなことも、タロットでは示されるのです。

その悩みや問題は、別に今すぐの現実的な解決法を必要とはせず、もっと別の、根本的なことをあなたに告げているのかもしれません。

とはいえ、問題を放置せよと言っているのではありません。現実的な対応と、その大元を探る別の観点をもって対応する目を養うことも、重要だと述べているわけです。

対症療法を進めながら(これはとりあえず苦痛を取り除いて、一時的な落ち着きをもたらす)、根本治療を施していくというようなものでしょうか。

また、「こんなことも解決できない自分はダメ」だと、責めるのはかえって余計に問題をこじらせることになります。

結局、外側のことに必死になって対応していても、また別の問題が続いたり、気持ちが全然落ち着かなかったりするのは、内(自分自身の在り方)に何かメッセージがあるということなのだと思います。

その場合では、「月」を中心としたようなカードたちが登場してくるでしょう。

マルセイユタロットで見るということは、なかなかわかりづらい内外の世界を、象徴的にとらえやすくする(形としてわかりやすくする)ためなのです。


タロット学習への動機・思いについて

タロットを習いたいという方の中には、タロットリーダーやタロット占い師になって、人の助けになりたい、そして、それを仕事としたい(ビジネスやお金を稼ぐ意味も入る)という方がいらっしゃると思います。

それは全然OKな望みで、現実的に、タロットを学習する動機、モチベーションとしては正当なものだと思います。

ですが、その望みが叶い、いわゆる「成功」した状態になったとしても、意外に不安が続いたり、時には空しくなったりすることがあるかもしれません。

自分はやりたいことをやっている、それで人から頼りにされているし、お金もそこそこ入ってきている、これは十分自分として成功と言えるのに、何か思っていたものと違う・・・という状態です。

まあ、実際には、成功する人は少なく、なかなかタロットリーダー、タロット占い師になっても、うまく営業できないこととか、技術的に自信を失うなど、結局、仕事・ビジネス的にも今一で、精神的にも人助けの実感が得られずに萎える、というようなことはよくあるパターンです。

従って、成功する前に、すでにタロットを何のためにやっているのか、そもそも私は何がしたいのか・・・と迷ってしまう人もいるでしょう。

ということは、(タロット学習の)前提から見直す必要があります。

やはり、最初の動機・きっかけの部分に、純粋な思いを無視して、ただ自分のエゴを満たすことを優先してやるとあとでその反動が出るように思います。自分の中の不満とか不安、欠乏感などをなくそう、満たそうとするために、タロットを学ぶという姿勢であると、のちに問題になるわけです。

なぜならば、それ(不足)は、究極的には幻想だからです。自分の不足・満足というのも、自分の決めた評価であり、それは他人や周囲のものと比べて、自分がない(劣っている)と思ってしまう幻想から来ています。

しかし、そう思ってしまうのが、この現実世界の仕組みであり、そこから逃れられるのは、なかなか難しいことです。

とは言え、幻想から来ている動機なので、タロットを習い、知識や技術を習得し、実践を行っても、一時的には人の賞賛やお金を手に入れて満足しつつも、幻想からの欠乏感の根本的解決にはならないので、たとえうまく行っている場合でも、この状態を維持しなければと焦りますし、あまり望ましい結果を得られていない時は、何が足りないのだろうと必死で努力して、ますます張りつめたことになります。

そんな状態で、タロットをしていて楽しいかと言われると、おそらく楽しくはないでしょう。むしろ苦しいと感じるくらいかもしれません。そこでいっそのこと、タロットの活動をやめてしまう人も出ます。

ところが、苦しい状態になって初めて、何がまずかったのかを考え、ビジネスとか宣伝とか、技術などのやり方ではなく、もともとの自分自身のあり方にあったのだと気づく人もいます。

逆から考えると衝撃を受けますが、別にタロットうんぬんはただの演出であって、それは何でもよかったわけで、一連の行動と結果は、自分にそのことを気づかせるために起こっていたものだということです。

たぶん、気づいたうえで、それでもタロットが好きだからとか、人の役に立ちたい、自分を表現したい、自分のためにやりたいというような純粋な思いを感じて、再出発すれば、今までよりかは苦しみが減った活動(精神的なことだけではなく、現実的にも)ができるのではないかと思います。

それから、マルセイユタロットのような、世間のタロット世界ではマイナーと思える分野では、マイナーだからこそ、特別感を得られるというエゴの落とし穴があります。これはかつて、私自身もかかっていた病(幻想)です。(もしかすると、今でも少しあるかもしれません)

特別感を得る(得たい)というのは、自分が特別でありたいという感情であり、逆に言えは、自分は特別ではない、何のとりえもない、普通以下である、人から評価されない、もっと言うと、生きる価値がない、死んでもいい、みたいな非常に根深い自己否定に基づいている場合があります。

メジャー分野では、すでに多くの人が関わっているので、そこから特別を得るのは難しいことになりますから、あえてマイナー世界で勝ちを得る(一目置かれる、評価される)ことで、自分に価値をもたらすという構図を取る人がいます。

いわゆる勝ち組・負け組で、一度メジャーで負け組感覚を味わい、マイナー世界に逃避して、こちらでは何とか勝ち組になるというパターンです。

マイナーなのですから、よく考えれば、数のうえではあまり多くの人から賞賛は得られない可能性が高いのに、それでもマイナー世界に入るのは、一人でもいいから、誰か自分を評価してほしいという強烈な渇望があるわけです。

ただ、別にそれが悪いと言っているのではありません。この世の中の仕組み上、誰しも他人と比べ、ほとんどのところで自分に負けやマイナス、否定感情を思ってしまうのも仕方ないことでしょう。

だから、まずは何か、誰かからの評価を得て、自分に自信を少しでもつけるというのは悪くはないと思います。

ですが、その繰り返しは、結局、どこまで行っても、充足感や安堵感は得られない(もともとの発想が幻想であるため)ということも理解しておくとよいです。

本音と建前と言いますが、建前だけで生きていると、本当の自分は死んでしまい、だからこそ死にたくなる、感動もない世界になり、自分を否定し、世界も否定する思いに囚われます。(自我の抑圧)

そして、本音だけで生きようとすると、現実世界のしがらみ・仕組みの中で、社会の中で不適合を起こしやすく、その反発で、かえって孤立化したり、協調性を失ったりしかねません。(エゴの肥大化)

それでも、まずは本音を大事にする習慣は重要でしょう。その本音を認めたうえで、どう立ち回るか、どう現実的に調整を図るかというのが、また自分の生きる力を養うこと(ゲームとして楽しむ世界化)になります。

自分の中には、純粋な思いの王様とともに、世間をうまく生きるための軍師や、宰相も必要なのです。

しかし、軍師や宰相の言いなりになっていては(操られていては)、最初のあり方を忘れ、勝てばよい、得られればよいという本末転倒のことにもなりかねません。

こんな社会では、素直に生きられない自分があって当然です。むしろ、よく耐えている、頑張っていると自分をほめてあげましょう。

そうした中で、本音を無視し続けていないか、本当はどうしたいのか、どうありたいのかを思い出し、それをそのまま押し通すのではなく、いかにすれば、自分の本音を偽らずに、現実的に泳いでいくことができるのかを試してみましょう。

タロットのことにおいても、タロットを学び、タロットの活動をしていくうえで、自分の本心を無視せず、自分自身と相談しつつ、活動を行っていくことをお勧めします。

やりたくもない、好きでもないカードを使ったり、合わない・しっくりこないと思うスキルを使用したりするのは、自分自身と和合していない状態ですから、お客様・クライアントの方に、よいものが提供できない(自分自身も納得感がない)のも、また当然となります。

逆に、あるカードが好きとか、タロット全部好きという人は、そのカードを使うことや、様々なカード駆使をすることは、自分が楽しくなることであり、その思いは、相談に来る人をよい状態に導く理由のひとつとなるでしょう。


「恋人」カード、地上と天上の選択

以前も書いたことがありますが、マルセイユタロットの「恋人」カードを、“選択”というテーマで見ると、面白いことがわかります。

ちなみに「恋人」カードの画像はこのようなものです。

その前に、一般的に「恋人」カードは、その名の通り、恋愛と関係するカードと思われています。特に占いでは顕著でしよう。

しかし、占いではないタロットの観点で見ますと、実は恋愛的なことから離れる見方もできます。むしろ、そのほうが本質ではないかとさえ思っています。

逆に言いますと、恋愛という現象が、実は人間の様々なレベルを刺激し、成長や堕落もさせる、非常に深いテーマであるということが言えるのかもしれません。(恋愛というものは、あくまで現象であり、その本質こそが重要であるという話です)

さて、その「恋人」カードですが、図像をよく見ると、特徴的なのは、三人の人間と、上空に天使だか、何か人間ではないものがいるという構図になっています。

要するに、天と地、人間世界とそうでない世界の対比になっているわけです。

下の三人の人間たちは、真ん中の男性と思える人物が、両端の二人の女性とおぼしき人たちに囲まれている様子が描かれています。

このことから、真ん中の男性が、どちらかの女性を選ぼうとしているのだと解釈されます。(ただし、解釈はいろいろあります)

一応、主人公をこの男性だとすると、彼にはふたつの選択肢(二人の女性のうちのどちらかを選ぶ可能性)があることになります。

とは言え、どちらも気に入らない、甲乙つけがたしで、選ばない、選べないというケースもあるでしょう。

また、見ようによっては、男性はあくまでサブで、女性二人が主人公という可能性もあります。女性のほうが、積極的に男性に声をかけ、選んでいるのかもしれません。

結局、主人公を誰にするかによって見方や立場が変わり、自分で選んでいると思っていたものが、実は選ばされていたということにもなります。

どうも真ん中の男性は、しっかりした態度というより、迷っているようにも見え、実は男性のほうがタジタジとなっているのかもしれません。(笑)

いずれにしろ、人間たちには、同じ人間同士の世界で、どちらかの選択、または何も選ばない(選べない)という選択行為があることが物語られています。

一方、上空の天使(キューピッドとも言えます、厳密にはキューピッドは天使ではありませんが)も、矢をつがえて、誰かに当てようとしているようです。

ということは、宝くじではないですが、矢が当たった人がまさに当選した、選ばれたということになるでしょう。

そう、ここには天使、つまり人間以外の要素、または人間の通常を超えた高次的な選択の力が働いているわけです。ただし、天使側からは人間が見えていても、人間側からは見えていないので、一方的な選択にも思えます。

さらに、矢は必ずしも放たれるとは限りませんし、絶対に人に当たるとも言えません。天使は、はずすかもしれないのです。(それは天使側というより、人側の動きによってのほうが大きそうです)

つまるところ、人間世界、地上(物質的)世界の選択と、物質を超えた世界、天上的な選択とのふたつがあると告げているように見えます。

深くは講義で説明していますかが、人間三人の構造が、実は天上的な選択とも関係し、天が地に、地が天に呼応していることを表しています。

簡単に言えば、私たちの地上の選択は、天上と無関係ではなく、むしろ、その意思を受け取っていると見ていいわけです。

しかし、地上世界における通信や電波の混乱状態(混信)ではないですが、人間を超えた世界、見えない世界においては、低次な、おどろおどろしい心霊・サイキック的世界から、霊的に高次な世界まで様々に入り組んでいるように感じられます。

自分が信じたものが高次とは限らず、たいていは人間に近い、それなりに欲望や欲求を持った存在であることが結構あります。

天使からの選択(インスピレーションや夢、シンクロニシティなど、言葉とは別のメッセージとして現れる)の示唆だと思って、人間たちのアドバイスを無視し、何かを選んだとしても、それは低級なものたちからの誘導である場合も考えられます。

もちろん、混信をクリアーにし、高いレベルで受信が可能になれば、まさに高次からのメッセージ・アドバイスとして受け取ることも可能でしょう。

天使と人間たちという「恋人」カードの構図の特性上、どうしても、天使世界のほうを上に見てしまいがちです。

実際、そういう風に見ていいところもあるのですが、ここで重要なのは、地上の人間たちのコミュニケーション、アドバイス、話し合い、交流も必要だということです。

この段階では、地上・現実世界での関わりのほうがむしろ上と言ってもいいくらいです。つまりは現実逃避への警告みたいなものです。

ところが、そうは言いつつも、矛盾するようですが、わざわざ天使がカードに登場しているのですから、そういう世界観(精神やスピリチュアルの世界)への視野も、本当の意味では、大切になってくることでもあります。

バランスと言えば、よいのでしょうか。

同じカードが出たとしても、タロットリーディングにおいては、同じ意味になるとは限らず、この「恋人」カードの選択の場合でも、天上の天使を見たほうがいい人、地上の人間たちの立場を重視したほうがいい人、さらには、人間たちの中でも、どの人が自分にとって関係が深いかなど、様々なのです。

そうして最終的には、仮に真ん中の彼が主人公だとすると、両端の女性、上空の天使も含め、すべての選択(肢)と働きかけの可能性を見出し、統合することに、テーマがあります。

どちら(どれ)を選べばよい(選ばない)という話ではないのです。多かれ少なかれ、人が何かの選択をする場合、ほかの選択(選ばれない選択など)も同時に行っているというのが、このカードからわかります。

時空が限定されている地上・現実の世界では、効率や経済、あるいは人間的価値観による幸せという基準での選択の良し悪しがあります。要は、実際にいい選択とまずい選択というのが起こり得るということです。

しかし、霊的なレベルにおいては、それはまた逆転したり、そもそも高いレベルになればなるほど、低い選択基準は統合されて、良し悪しはなくなっていきますから、どちらでもあってどちらでもない状態(良し悪しなどない)になってきます。

だからと言って、高いレベルの基準でいなさい、というわけでもないのです。たとえ、そうなろうとしても、普通はいきなりでは無理です

さきほども言ったように、「恋」人カードでは、人間たちの交流が図像として大きいので、それが強調されているのです。言わば、間違いの選択も含めての経験の重要さです。

この現実世界で、天使的なものも意識しながら、主人公としての自分が演じるメインフィールド(中心舞台)は、地上であるということも忘れないようにしたいものです。


目的・目標を持たない人生

何度か書いたことがあるテーマですが、人には、「目的(目標)をもって生きたほうがよいのか」、逆に、行き当たりばったりほどとは言いませんが、あまり「目的を持たないで生きたほうがよいのか」という問題があります。

私の場合、このテーマへの回答は、ずるいようですが、どちらもありであり、またどちらでもないというものです。

結局、個人それぞれであり、そして、状況次第でもあると言えましょう。

ただ、最近は、前者の「目的をもって生きる」のほうに価値を置く人が多くなったようにも感じます。

いや、おそらく、そのほうが、「生きている」実感が出て、張り合いのある人生になるのではないかと、私も思います。

しかし、問題なのは、それが、人から言われたからとか、そうしたほうがいいと何かで読んだ(聞いた)からとか、自分の気持ち(あるいは状態)を無視して、画一的(機械的)に従っているような場合です。

比較的よくあるのが、成功理論(法則)や自己実現を謳う人たちからのものに、「目的を持った人生」を強制されがちなパータンです。

確かに、目的意識が強ければ、それを達成しようという行動も出てきて、熱意をもって、その間の人生も充実しているように感じるかもしれません。

けれども、意外に、人生は結果論(結果で評価される)みたいなところもあり、結果よければすべてよしに見られる傾向があります。

ですから、ある人が成功しているからと言って、(結果はそうでも)過程では、必ずしも「成功する目的」を持っていたとは限らないわけです。

例えば、好きなことを何となくずっと続けていて、その好きなことが、案外、他人から求められるようになり、気がつくと売れて成功していたという話もあるでしょう。

人間誰しも、多少は「こうなりたい」みたいな目標はあるとしても、その達成に、強烈な思いが絶対に必要であったかどうかはわからないものです。

結局、人生は運ではないかという人もいるくらいで、であるならば、運任せの人生のほうが楽ではないかという話にもなってきます。(だから、「運をよくする」という生き方を選ぶ人もいますが)

運任せ、まさに行き当たりばったりと言えますが、こちらは、先述の成功理論とか自己実現の方法にはまり過ぎて、結局、望み通りにはならず、色々疲れてしまったような人には、かえってよい場合があるかと思います。

ほかにも、目標はあったのに、年齢とか様々な条件で、どうやら叶いそうにもないと、ほとんどあきらめかけているような人です。

まあ、そういう時は、投げやりになって、もう人生、どうでもいい、というふうにはなりがちですが…

ここで提案したいのは、タロット的に例えれば、積極的な「愚者」人生というものです。

マルセイユタロットの「愚者」というカードは、数がなく、何ものにも規定されない(囚われない)自由の象徴です。また、その人物は旅人の姿をしています。

ここから、人生の旅をしている「愚者」と見て、しかし、旅はしても、先ほど言ったように「自由人」であるので、特に目標とか目的を持たずに生きるような姿勢だと言えます。

ただそれは受動的で投げやりなものではなく、自由をポリシーとするような生き方で、その選択をする積極性があるということです。

一言で言えば、気楽さを自ら選ぶ人生であり、あえて目的を持たないようにすることで自由性を獲得する人生という感じです。

さらに「名前のない13」というカードと「愚者」は関係しており、この「13」は名前がないのですから、名前に囚われることはないわけです。囚われのないという意味では、「愚者」と共通していると言えましょう。

名前というものを、ひとつの出来事とか事柄、あるいはまさに人の名前と見れば(私たちは名前・名称によって物事を認識、決めています)、目的を持たない人生は、ある意味、「13」でも象徴されるということです。

「13」の場合、目的を持たないというより、目的を捨てるみたいな生き方かもしれません。または、目的をその都度捨て(見直し)新たなものに作り直すと表現してもよいでしょう。

目的を持つ人生は、人生にパワーを与えることに貢献するものだとは思いますが、私たちは、あまりに他から・外からの目的を植え付けられて、本当の自分の目的を見失わされているように見えます。

ですから、逆に、目的を持たなかったり、捨てたりする人生を選び、自分を無(ありのまま)になるべくして、その時その時(つまり「今」)を精一杯生きる(愚者的には無邪気に、気楽に生きる)という姿勢もあってよいように思います。

つまり、何かをなさねばならないとか、人から評価されなければ(認めてもらえなければ)自分が充実した気分にならないとなっているうちは、偽の目的・目標があなたを支配しているわけす。

それがために、ますます仮面としての自分が強制され、生きづらくなってくるという仕組みです。

「目的(を持つこと)」は自らを高め、充実させるためにあるものなのに、反対に、目的・目標に自分が操られ、苦しめられているのです。

だから、「愚者」や「13」的な生き方を採り入れて、あえて、行き当たりばったり的な、その日その日を楽しむ予定とか先の計画はほとんどしない生き方、目的はあっても、それをどんどん変えていくことを許可する人生もいいかもしれません。

もちろん、必要な準備とか計画はあってもよいでしょうが、ただ人生を生き切るとした「目標」以外、特に抱かず、流れのままに生きるという意識で、心を楽にしていく時があれば、逆に、確固とした目的も生まれることも考えられます。

私たちは人として共通なものを当然持ちますが、同時に、個人として、別々の個性を持っています。皆同じで皆違っているわけです。(笑)

ですから、よい生き方や成功の概念も人それぞれであり(ですから人生は観念とも言えます)、自分がよいと思えばよい人生になりますし、反対の、悪いと思えば悪い人生になるわけです。

時系列的に、過去と未来に、人は、よく囚われます。いくらよいと思おうとしても、過去と未来への思いが、後悔や不安を生み出します。

従って、特に未来においては、目的とか目標を持つことが、未来への意識を強くしてしまいますので、そういうものをあえて考えないことで、不安や混乱要素を排除していくことにもなるわけです。

ただ、目標ある未来の実現過程が楽しめる場合は、この限りではなく、未来の到達点(目標)が、生きるエネルギーそのものとなるでしょう。

何度も言いますが、目標・目的を持つことがいけないと言っているのではありません。

普通は、そのほうがいいと考えられるのですが、ここで述べているのは、それを持つことで囚われになっては元も子もないので、時には「愚者」みたいになってもよいよという提案なのです。


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