迷った時に

心理的問題を追及し過ぎている人

タロットリーディングをしたり、いろいろな人の記事を見たりしていますと、今の時代、心理的観点で自分の問題を見る方が増えたと感じます。

いや、それが普通のことなのかもしれません。今までがむしろ、心理的観点というものを無視していたか、あったとしても、現実には大した影響はないのだと思い込んでいたかでしょう。

しかし、あらゆる情報が簡単に入手できたり、披露されたりする中で、心(の中のデータ)に問題があるから生きづらくなっているという考えを受け入れるのも、今は当たり前のようになってきました。

そうしたことで、自分のつらさや心苦しさ、表面的にはそれなりにうまく生活できているようで、実は社会や集団に適用できていない自分を感じていたような人には、その心理的な原因もわかって救われるという人も少なくありません。

ところが、一方で最近は、あまりに深く自分の内面を掘り下げようとしている人がいるように感じます。

しかも深くという深度だけではなく、横にも拡張して、手を広げているという印象です。横というのは、自分の問題を心理的な原因として見て、その(原因の)見方を、様々なものからアプローチするというものです。

いわば、「原因はこれではないか」「あれではないか」と探り、その解決法に対するのもまた同じで、「この方法がある」「あの方法が効果的」「これさえ学べば問題は解消する」・・・みたいに、次々と問題要因の仮説と、その対処法・解決法の技術を調べあげ、実践もするという態度です。

それで癒されたり、現実(外面・環境)と自分の内面が調整されたりして、すっきりすればよいのですが、どうもこうした傾向にはまる人は、問題が解決してしまうことを恐れていたり、自分個人の範囲を超えた問題の分野まで入り込もうとしていたりするのではないかという危惧があります。

問題が解決してしまうことを恐れているというのは、簡単に言えば、自分の問題が解決してしまうと、自分の(存在)価値がなくなってしまうからです。

そこには、「問題を持って、生きづらくなっている、ほかの人とは違う自分」という、マイナスの特別感のようなものがあります。

裏を返せば、「自分には生きている価値がない(少ない)」とか、「人とはいろいろな意味で違っているから、うまく生きることができない」という感情で、それは劣等感といえばそうなのですが、厳密には劣等感とはちょっと違うものであり、社会に適応できないいらだち、恐れ、不安、虚無、あせりのようなものが一緒になった複雑なものと言えます。

それゆえに、そういう人には孤独感がつきまといますが、だから実は心の奥底では、そういう孤独な自分を受け入れてほしい、わかってほしい、認めてほしい、愛してほしいという感情も渦巻いています。

そのためには、自分が普通になっては困るのです。普通だと特別ではなくなりますから、自分に注目してもらえなくなります。

そして、ここがもっともポイントですが、それは他人に認められたいというものよりも、実はもう一人の自分自身に認められたいという、内部構造の分離と統合に関係しているのです。

心に問題を抱えている自分(子どもの自分)が解消されてしまうと、もう一人の自分(大人といってもいい自分)に見捨てられるという恐怖が根底にあります。

「子どもの自分」と「大人の自分」と書くと単純ですが、これは便宜上、そう書いたまでで、マルセイユタロット的には、本当は反転しており、大人こそが子どもであり、子どもこそが大人で、結局は、魂の反抗みたいなところになっているのです。

そのことが現代心理学(アカデミズムの心理学)では説明されないので、せいぜい潜在意識と表面意識みたいなモデルで扱われ、その統合や調整という観点になってくるので、逆に、問題を探求していく姿勢が崩れないのです。

魂の反抗とは、霊性回帰のためのレジスタンスであり、現代社会に巣くう歪みからの脱出を意味します。(言葉を換えれば「グノーシス」となります)

そのプロセスとして、心理的に、奥深くの心の問題を探ろうとしたり、様々な原因と解決策を見出そうとしたりという方向性になってくるのです。

しかし、当人には、自分の生きづらさや問題が、何か心の中にあるデータが問題を引き起こしているのではないかと思っているため(実際、そういうことがありますし、その構造を明らかにするのが心理学的な説明とひとつの治療になります)、すべてがすっきりする「これだ!」という原因と解決法が見つかるまで、探求は止めないのです。

けれども、霊的(グノーシス的)な観点から見れば、そのこと(探求)自体が、霊性回帰のポーズであるということです。

従って、心理次元において、どこまで行っても、本当の原因は見つからず、それでも、何か原因(と解決策)という「宝」はどこかに埋まっているはずと、掘削作業を続けていくのです。

心理的要因(原因)を追求してはならないということを言っているのではありません。

その段階は人によっては必要なものですし、実際にそれで楽になったり、救済されたりすることはあります。(だからセラピーは有効で、セラピーの方法もたくさん存在しているわけです)

ただ、セラピーは個のレベルでは終わっているのに、「まだまだだ!」と、さらに先に進もうという人は、まるで賽の河原の石積みのように、積んでは壊しを繰り返している状態でもあるわけです。

さらには、個の次元を超えて、集合的無意識の世界(のネガティブ要因)まで背負おうとしている人もいます。(そういう役割を自覚・自認している人はいいのですが)

すべてを一気に統合しようとしたり、浄化しようとしたりせず、正義と悪の分離をきちんとしたままで、自分が認められるものと認められないものを分けて考え、段階別に割り切る(処理できる能力と範囲を厳然とし認識する)も必要だと思います。

掘削作業をし過ぎている人は、同じレベルの問題を、「見方や論点を変えてまた新しい問題として再生させている」という、自作自演の「問題のゾンビ状態」に気をつけ、はまっているループ地獄から出る視点を持つことです。

それは問題を見る(原因・要因、解決策の探求をする)のではなく、問題そのものから離れる(問題もひとつの事件や悪として象徴化して受け入れ、ひとつのパターンとして自分の歴史として風化させる)ことなのです。(単純に言えば、現実と将来に目を向けた、次に向かう未来志向)

もちろん、先述したように、心理的問題を分析し、それを解消していく段階も必要な人はいますので、それはそれでいいのです。

しかしながら、ずっと堂々巡りのようになっている人や、近頃はわざと商売的に心理的問題の解消のセラピーが必要だと、大げさに宣伝されて、ありもしない問題まで自分で作り上げてしまう(あるいはや、他人によって作り出されてしまう)場合もあるので、そうした注意を述べているわけです。

マルセイユタロットにおいても、タロットの人物の視線によって時系列が表現され、過去側(それは内面とも言えます)を見ているのではなく、未来(新しいもの、新ステージ、新次元)側に視線を切り替えていく重要なポイントが、きちんと示されています。


学び、自身のタロット学習を事例として。

学び、受け入れる象徴のカードとして、マルセイユタロットでは、「2」の数を持つ「斎王」というカードがあります。(一般的なタロットカードの名称としては、「女教皇」と呼ばれるものに該当します)

マルセイユタロットでは、カードの数の並びにも秘密がありますが、次の「3」の数を持つカードは、「女帝」というカードになります。

「斎王」という人物と「女帝」という人物の視線を見ると、その方向も変わり、図像全体の雰囲気自体、まるで違うものになっています。

もちろん、それは意図的な描き方をしているものですが、ここから考えても、単純に、学んだ(学ぶ)ことによって、何らかの変化が起こったことが感じ取れます。

ところで、タロットを学ぶ(学びたいと思った)場合、人によって、理由はまちまちでしょう。

趣味を持ちたいとカルチャー教室なんかで、たまたま出会ったとか、友人の誘いがあったとかという気軽な理由あるでしょうし、最初からタロットというものを本格的に学んでみたいとか、タロットということはもともと眼中にはなかったのに、タロットで示されている内容が、自分の学びたいものに合っていたという、比較的真剣なものや、探求の目的に沿っていたからというものなど、様々です。

何でもそうですが、学びには、最初からある目的や意図があったほうがよいとは言われますが(つまり、何のためにそれを学ぶのか?という自分なりの答えを用意していること)、一方で、おかしな表現になりますが、学んでみて初めて、自分の学びたいこと、やりたいことがわかった(わかる)というケースもあるのです。

言ってみれば、学習するうちに、学ぶ目的を発見したという、学ぶ目的が最初から明確にあったのとは逆のパターンです。

またこういうこともあります。

最初の目的は「これこれ」だったのに、学んでいるうちに別の目的・興味に変わっていた・・・という場合です。

私のタロット学習(のきっかけ)をふりかえって見ると、本当に今書いたようなものでした。

マルセイユタロットを最初に学ぼうと思っていた頃、私は公務員を辞める可能性が高くなっていました。

ですから、「もし公務員を辞めて何か仕事をしようとすると、自分には何ができるのか?」と考えていて、今思うと、占い師をなめていて、大変プロの占い師に失礼なことでしたが(^_^;)、『「占い師」にでもなろうか』と思い、占いの技術を学ぶところを探していたのでした。

その時、偶然、ある本にマルセイユタロットを学ぶ学校の記事と広告を見つけました。

ただ私自身は、占いの分野でも、実はまったくタロットには関心と興味がなかったのですが、その記事内容にひかれ、勇気を出して(私にはとても勇気のいることでした)、その学校に電話したのでした。

その電話に出られたのが、その学校の主宰の先生であり、「すぐに関西で講座があるので、関西在住なら申し込むとよい」というお話を受けたのでした。(学校自体は東京にありました)

そんなわけで、電話しようと思った時は、学ぶにしても、まだ少し先のことだと思っていたのですが、そういうタイミングもあり、あれよあれよと、マルセイユタロットをすぐに学ぶことになってしまったのでした。

そして、実際にタロットの講義の初日で、私は衝撃を受けました。

その衝撃とは・・・マイナスな衝撃です。(苦笑)

まず、参加メンバーのほぼ全員(と言っても受講生自体は少数でした)が、ある程度マルセイユタロットになじんでいた(本とタロットに接していた)ことで、超初心者は私だけだったのです。

タロットのタの字も知らず、とにかく、カードを並べるのにもひと苦労で、皆さんからは遅れまくり、冷や汗が一杯出ました。

そして実際のリーディング練習においても、まったくタロットが読めず、先生からは「君は頭が固いな、公務員だね」と言われる始末でした。(苦笑)

この時、私は「タロットは、絶対自分には向いていない」と思ったものでした。(今でも私マルセイユタロットに相性が良かっただけで、タロット全般としてみると向いていない性質だと思っているくらいです(^_^;))

ところが、講義が進むにつれ、先生の語るタロットの世界は、私が思っていたタロットや占いというイメージとはまったく異なるもので、そもそもその先生は、タロットを占いの道具としては教えていなかったのでした。

マルセイユタロットをもとに語られる豊潤で複雑な象徴大系、古代の密儀・伝統を受け継ぐタロット・・・そしてその実、とてもシンプルな構造をもった宇宙や私たち自身を表すモデルとしてのタロット・・・講義を受講しているうちに、自分の何かが熱を帯び、そして輝き出すのを感じました。

講座が終わる頃には、すかっりマルセイユタロットの世界に魅了され、すでにその時には、占い師になる目的というより、自身の変容、真理の探究というものに自分の目的も変わりつつありました。

タロットを使うにしても、占い師という形ではない仕事や生き方、対人援助、サポートの方法があると思い、それらの道を進むことにも変化しました。

その後もいろいろとありましたが、とりあえず、そんな感じで、今に至っているというわけです。(笑)

この私の例からしても、学ぶことにおいて、当初の目的から変わったり、漠然とした状態でも、次第に学習の過程で、はっきりしたものに変化したりということはあるものです。

私も特に強い意志や明確なイメージをもって、その当時は人生設計や将来を見ていたわけではありません。

むしろ現状や将来については不安と恐れもあり、あやふやな感じ、カードでいえば「月」や「吊るし」のような状態にあったと言えましょう。

ですから、いわゆる引き寄せや、ポジティブイメージシンキングでの願望実現ということでもなかったわけです。

運命ということがあるならば、私の場合は、マルセイユタロットとの出会いは、偶然のような運命の導きにも見えます。

ですが、運命ということよりも、混沌や混迷にあった状態の中で、魂の根底の部分ともいえる何かが発露することになり、それがマルセイユタロットとの学びと邂逅させたと言えるかもしれません。

いわば、自分の表面意識を超えたところの望みの活動に入ったとも言えるでしょう。それが私の場合は、マルセイユタロットとの出会いからであった(その前からすでに始まっていましたが)と考えられます。

皆さん自身も、「本当の自分」の望みとしての活動・表現が、ある時から始まると思います。何かを学びたいという欲求は、それなのかもしれません。

そして学び自身が実は目的でもなく、学びを通して、学びの必要がなかったことを知るという、一見矛盾した結論も出るでしょう。それは決して、学ぶことは必要ないという意味ではないのです。

このことは、自分があることを学べば学ぶほど、知っていくことになると思います。


「悪魔」の選択

マルセイユタロット(に限らずでしょうが・・・)は、実はどのカードも解釈には難しいところがありますし、その反対に、シンプルに見るとすれば、ワンワードで示すことも可能です。

それでも、どうしてもシンプルに考えたり、読んだりできないカードがあるのも確かです。

代表的なものでは、「月」のカードがあります。また、別の意味では、「悪魔」のカードも、解釈や意味の取り方が難しいと言えるかもしれません。

「悪魔」を単純に悪いカードとして見ると、それほど困難ではないのですが、「悪魔」にポジティブな意味を見出したり、深い考察をしていったりするとなれば、一筋縄ではいかないカードとなります。しかし、そういう見方こそがこのカードの極意を知ることにつながります。

それで、今日は、この「悪魔」のカードについてのリーディングの一考察として、比較的ポジティブに見るもの(のひとつ)を取り上げたいと思います。

「悪魔」は、ここでは詳しく解説しませんが、人間の欲求とその表現、及び充足(満足)と関係し、悪魔自体は高次の存在でありながら、低次なものに親密性を持つ影響と力があります。

言い換えれば、私たち人間の、低俗なものも含む、欲求をかなえさせようと刺激して来る存在です。

これを悪い意味(目的)でそうしているか、あるいはいい意味(私たちの成長や解放につながる目的)なのか、さらにはまったく混沌としていて、目的も何もなく、ただ悪魔自体の習性や好みとして行っているのか、それは悪魔に聞いてみないとわからないのかもしれません。(笑)

しかし、このように、悪魔の目的を多方面から考えることで、「悪魔」のカードをネガティブなだけではなく、ポジティブな意味や、高次覚醒のための支配(介入)と見ることも可能になるのです。

ところで、私たちは、この前の「聖性と俗性」の記事ではありませんが、純粋で利他的な思いで行動する場合と、わがまま・利己的な意味で選択するようなことがあります。

また、やってはいけないことや、この選択は悪いもの、欲求に飲まれているものだとわかっていても、やってしまうようなことがあります。

もちろん、法律に反すること・犯罪、人に多大に迷惑がかかることなどは、行うべきでもありませんし、カルマ的観点、自己を貶める意味でも問題と言えますが、欲望・わがままにつき動かされているのか、直感的に正しいと見ていいものなのか、どちらとも判断がつかない時というのは、結構あるものです。

そういう場合、人によもよりますが、冷静になりすぎず、衝動的にも似た、自分のやりたいと思う方向を選択したほうがよいこともあるのです。

それがたとえ、自分の欲望・欲求・エゴから出ているものであっても、です。

大なり小なり、実は人はエゴ(個としての自分の思い)で判断しているものです。

それが世のため、人のための思いから出ているものであっても、結局、それをして喜び、満足するのは「自分」ですから、大きな意味では、すべてエゴの選択と言えます。

ですから、それが正しいものか、欲望やエゴから出ているものなのかどうかと精査せず、単純に自分の(したい・やりたいという)思いに従うという選択もありだと考えられます。

そうすることで、自分の欲求を満足させたうえで、次(のステップ)に向かうことができたり、別の自分を覚醒させたりすることにつながる(場合もある)からです。

いわば、自分の飢餓感をなくすための充足を実際に求め、行動するということになります。これが、「悪魔」の(言い換えればエゴに従う)選択(笑)として、考えられるものなのです。

そして、自分の飢餓感は、実は自分のものではないこともあります。

親族から受け継ぐ、やりたかったことなのに断念してしまった残滓、心残りデータとか、ある同じ思い(悔いを持つ)集団的感情データ、過去世からの思い残しなど、自分(の心と魂における保存部分)が、成し遂げられなかった悔恨や飢餓を持っていた場合、それが今の自分の思いとして、肩代わり、プログラム再生していることがあるわけです。

それが「欲望」のようなものとして、自分の感情に湧き起こっているというケースもあると想像されます。

ですから、飢餓感を実際的に満足させることは、データの消去に役に立つ場合があるのです。

ただし、まさにただの自分の欲望から来ているものだったり、その飢餓感の解消が、別の次元にあるもの(例えば親の愛情を得ることであれば、それを自覚しない限り、恋愛という仮の愛情充足劇を繰り返しても、満たされないことになります)だったりすると、逆効果になることもあります。

ですが、自分に縛りをかけすぎていて、自分の欲求にすら気づけず、ひたすら他人や外の法(ルール・規範・社会常識への模範)に従って来た人にとっては、エゴだろうが何だろうが、自分のしたいことにつき進むという、今までの自分から見れば、まるで「悪魔のささやき」に耳を貸す(笑)ような選択が、自己の解放に寄与することがあるのです。

少なくとも、自分を縛っていた強固な綱(常識的思い込み・自分ルール)が緩くなるのです。(「悪魔」のカードにはつながれた二人の人物がいますが、彼らの綱は緩いです)

ええーい、もうやっちまぇ! もうどうでもいい! 何が起こるかわからないけど、やりたいからやる! 好きなことをして何が悪い! そう私の悪魔(本能・エゴ)がささやくのよ! という声に従った選択は、無茶苦茶だからこそ、混沌と(定番の)破壊を生み、いいも悪いもない、それでいて実は豊潤なる世界に誘ってくれる作用があるのです。

この誘惑と勧誘に、悪魔が登場します。

面白いことに、マルセイユタロットの並びでは、「悪魔」の次に「神の家」が来るように(数的に)配置されています。

そう、「悪魔」を見なければ、「神」は現れないとも見えますし、「神」そのものが「悪魔」でもあり、またその逆も言え、結局、すべては神(神性・完全)の表現のひとつ(神のアバター・化身として悪魔も存在する)と考えられるのです。


ふたつの間での選択の迷いにあること。

私たちは、毎日、選択しているとよく言われます。

それは現実と思う感覚の中では、まったくその通りで、仕事の決断から、食べるもの、着るも

に至るまで、ささいなことを選び、行動する日々です。

そういう中でも、どうしても迷いに迷って、すぐに選べないというケースが出てきます。

それが二者択一、究極の選択という、ふたつのものの間にはさまれ、迷う事態です。

これはマルセイユタロットでは、「恋人」カードが、もっともその状態を象徴していると言えます。

ただ、だいたいにおいて、ふたつの間の迷いというものは、感情と思考の狭間によるものがほとんどで、さらに言ってしまえば、どちらが自分にとってよいと感じるか(思うか)どうかというだけに過ぎません。

結局、自分の感じ方・思い方の迷いなのです。

ところが、だからこそ迷ってしまう、という妙なことにもなっています。

それは、私たちが自分も含め、他人の皆が、一人一人違う感情や思考パターンを持ち、それをもって見る世界で生きているからで、いわば、多くの人の多様なすべて異なる価値観や影響によって、自分も世界を見ようとしているからです。

ですから、どれに基準(選択するための基準)を、今回適合させようかと、迷いに迷うわけです。(笑)

そして不思議なことに、そうは言っても、究極に迷っていくと、つまるところ、ふたつの間のどれか(どちらか)というポジジョンで迷うことに気がつきます。

このこともよく考えると、二元という分離構造こそが迷いの本質であり、その元型とでも表現すべき型が、形を変えて、ふたつのものの間での迷いとか、選びにくさとして、現実化している(個人体験として投影されている)のだとわかります。

個人個人の思う「現実」感から離れれば離れるほど、迷いはなくなってきますが(つまりふたつのものの迷いの両者の統合)、私たちは抽象の世界では存在しづらく(実感が得にくく)、肉体を持っての具体や現実感に生きていますので、どうしても、迷いからは逃れにくい状態にあります。

そして一度、二元構造の投影である「ふたつの間の迷い」というものに陥ると、それは元型の投影であるだけに、そう簡単には選ぶことのできない、文字通り、究極の選択めいた雰囲気・状態となるのです。

実際的なことでは、そのふたつの迷いは、自ら大切にしている「価値観」と、時間的・空間(場所・地位・距離・数量)的制約の中で生じており、逆に言えば、一定の時間と空間の中においては、良し悪し(よい選択・悪い選択)は出るものです。

だから、選択をはっきり決めたいという場合は、制限(時空の制限と価値観)を明確にするか、逆に、抽象化した次元や、両者の迷いのものを統合した次元まで上がる必要があります。後者のほうが、霊的には望ましいですが、実際には気づきを深めないと難しいところではあります。

一般的には(一時的には)、制約を明確にして、自分の迷いが制限(時間的・空間的)の中で効率的・効果的、あるいは自分の価値観に、より合致しているほうを選択するということになります。

例えば、時間制限では、この一年、この3ヶ月においてはどちらを取るべきか?とか、反対にもっと長期的に見て、老後まで考えるとどちらがよいか?などになりますし、空間的では、どちらが便利かとか、どちらが経済的か?どちらが速いか?(これは時間的でもありますが)みたいなことです。

そして自分の価値観に照らす場合は、どちらが心地よいかとか、どちらが自分にとって楽しいか、充実する(心が喜ぶか)か、という具合を基準にして選びます。

それでも、二者択一ですから、経済(お金)か自分の心か?みたいなことになってくることが多いものなのですが、これも「人生という長期で見るか?」「この数年で見るか?」とか、「自分の心(精神・気持ちの解放)」を優先するという「心を中心とした制限の中で見るか?」とかで決めたりすると、自ずと選択しやすくなります。

前に「吊るし」関係のところでも述べたように、どちらも選ばないこともありとか、どちらも選ぶ(迷うくらいなら両方やってみる、少々の無理でも両方取る)ことも選択肢としてあると考えるだけでも、だいぶん、ふたつの間で迷い続ける境地から解放されます。

あと、「選択するために選択する」ということもポイントです。

要するに、自分の選ぶ基準自体が選べていないので、二重の意味で選択に迷うわけです。

ふたつのうち、どちらかを選ぶという発想ではなく、その選ぶための基準・線引きを選べばよいと思うことです。

「今回は経済を優先する」「自分より相手を優先する」ことを選ぶとか、そういうことです。

そしてたとえ選択に失敗したと思っても、それはその時点でのあなたの状態・価値観による失敗感であり、自身が成長したり、霊的に統合が図られてくれば、当時の失敗など逆の成功として思い直すことができたり、どっちでも良かったと思えたり、してくるものです。

失敗感が続くというのは、ある種の古い価値観や制約の中に閉じこめられているようなものです。

いわゆる「やり直し」という概念とは違いますが、いつからでも、別の意味で選択し直すことはできるのです。

また最終的には、「選択」「迷い」ということ自体が幻想とも言えることで、選択や迷いは、霊的次元の扉を開くチャンスだと言えます。


空しさからの転換、解放

人生が空しくなる時が、まったくないという人は幸せかもしれません。

しかし、たいてい一度は誰でも、程度の差こそあれ、そう感じたことはあるでしょう。

仕事であったり、恋愛であったり、家族のことであったり、人間関係であったり、お金のことであったり・・・人はいろいろなシーンで問題が起き、それにショックを受けたり、落ち込んだりして、そのような思いに駆られることは普通にあると言えます。

けれども、一方で、その同じ悩みの分野でも、反対に喜び、充実、ハッピーな出来事もあるわけです。

そして、その時、「人生ってすばらしい!」「生きてて良かった!」「神様ありがとう。。。(涙)」という具合に、歓喜・感謝の気持ちがあふれます。

トータル的に見れば、まさに悲喜こもごも、その味わいの落差・バラエティさからすれば、やはり人生はワンダーだと言えるかもしれません。

それでも、心理的、あるいはもっと奥深くと言いますか、何か原因のわからないようなことで、何をしても心が塞いで、感動しないという人もいます。

言わば、空しさという状態がずっと続いているような感じです。そうなると「生きていても仕方ない・・・」というように思い、「死にたい」という気持ちに囚われてしまいます。

これはとても苦しいものと思います。

また自分はまだいいとしても、この世界の起きている事象をつぶさに観察していると、矛盾だらけの世界のように見え、皆の救いになる世界はどこにあるのかと疑いたくもなってきます。

そこから絶望的な気持ちになって、これもまた「死」への意識につながってくることもあります。

ここまで来ると、神や仏さえ信じられなくなり、すべてに疑問を抱くようにもなります。

ここで、そうした人にひとつ提案があります。

まず、すべてに疑いを持つこと自体を肯定してみることです。そして、疑いの中で、ただひとつだけ信じるのです。何を信じるのかは、「疑う自分の態度」を、です。

自分を信じるのではりません。安易に自分を信じ過ぎるのも、他人を信じ過ぎるのも実は危険です。

ですから自分も疑っていいのですが、ただ、自分が疑いをもっているというその態度を信じることはしてみましょう。

そして、ここから神なるもの、この世界(宇宙)なるもの全体に目を向け、自分の疑いを証明するかのように探求していきます。

簡単に「空しいから」とか、「どうしようもないから」とかで終わりにするのではなく、なぜこうも矛盾に満ちているのか、なぜこうも絶望してしまう世界にいるのか、なぜ空しいと感じる世界に自分はいるのかということを研究し、探求するのです。

死ぬのはあきらめであり、逃げです。これでは「自分が空しさをもった」という気持ちや疑念の解決にはなりません。もし死んでも同じような世界が待っていれば、永遠のループに閉じこめられることになります。

あなたが空しさを感じ、疑念を抱いたこの世界は、その通りなのかもしれないのです。つまりは、疑惑があるということです。

探求したところで、自分一代で解明できるわけでもないかもしれません。探求、それすら空しいと思う人もいるでしょう。

それでも、あなたには、不思議とも言えるチャンスが与えられていると言えます。

世間からはアウトロー的な、また変わり者的な目で見られたり、外見は普通でも精神的におかしな人であると、自身が自覚することもあるでしょうが、自分が空しいと感じる世界に対して、その理由を解き明かそうと努力する時、ひとつの生きる希望が出るわけです。

言い換えれば、空しさに屈するのではなく、空しさを味わっているからこそ、空しさへのレジタンスと解放への道に進む選択ができるということです。

見ようによっては、限りなく「中二病」(笑)に近い感じではありますが、そこに、「ある扉の鍵」が存在していると言えます。

妄想や病気とは違うのは、自分自身の状態を自覚と客観ができており、一応、普通に、この世界(現実)に仮であっても、なじませるよう振る舞えることにあります。

言ってみれば、在家的な悟りへの探求に近いものです。

人生に空しさをずっと感じている人は、空しさの理由を追及していく方向(心・内面だけではなく、世界やその構造そのものに向けること)に変えれば、エネルギーが湧き、生きることに対して、別の意味で希望、いや使命感のようなものが出てきます。

追求と言っても、よくあるような心理的要因・トラウマ(自分の心の原因)を探って、浄化していくというものとは違います。それも空しさからの解放に必要な場合はありますが、ここでいう追求・探求は少し次元の異なるものなのです。

実はマルセイユタロットがその探求の絵図・象徴としては、とてもマッチしているものであると言うことができます。


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