迷った時に

ふたつの間での選択の迷いにあること。

私たちは、毎日、選択しているとよく言われます。

それは現実と思う感覚の中では、まったくその通りで、仕事の決断から、食べるもの、着るも

に至るまで、ささいなことを選び、行動する日々です。

そういう中でも、どうしても迷いに迷って、すぐに選べないというケースが出てきます。

それが二者択一、究極の選択という、ふたつのものの間にはさまれ、迷う事態です。

これはマルセイユタロットでは、「恋人」カードが、もっともその状態を象徴していると言えます。

ただ、だいたいにおいて、ふたつの間の迷いというものは、感情と思考の狭間によるものがほとんどで、さらに言ってしまえば、どちらが自分にとってよいと感じるか(思うか)どうかというだけに過ぎません。

結局、自分の感じ方・思い方の迷いなのです。

ところが、だからこそ迷ってしまう、という妙なことにもなっています。

それは、私たちが自分も含め、他人の皆が、一人一人違う感情や思考パターンを持ち、それをもって見る世界で生きているからで、いわば、多くの人の多様なすべて異なる価値観や影響によって、自分も世界を見ようとしているからです。

ですから、どれに基準(選択するための基準)を、今回適合させようかと、迷いに迷うわけです。(笑)

そして不思議なことに、そうは言っても、究極に迷っていくと、つまるところ、ふたつの間のどれか(どちらか)というポジジョンで迷うことに気がつきます。

このこともよく考えると、二元という分離構造こそが迷いの本質であり、その元型とでも表現すべき型が、形を変えて、ふたつのものの間での迷いとか、選びにくさとして、現実化している(個人体験として投影されている)のだとわかります。

個人個人の思う「現実」感から離れれば離れるほど、迷いはなくなってきますが(つまりふたつのものの迷いの両者の統合)、私たちは抽象の世界では存在しづらく(実感が得にくく)、肉体を持っての具体や現実感に生きていますので、どうしても、迷いからは逃れにくい状態にあります。

そして一度、二元構造の投影である「ふたつの間の迷い」というものに陥ると、それは元型の投影であるだけに、そう簡単には選ぶことのできない、文字通り、究極の選択めいた雰囲気・状態となるのです。

実際的なことでは、そのふたつの迷いは、自ら大切にしている「価値観」と、時間的・空間(場所・地位・距離・数量)的制約の中で生じており、逆に言えば、一定の時間と空間の中においては、良し悪し(よい選択・悪い選択)は出るものです。

だから、選択をはっきり決めたいという場合は、制限(時空の制限と価値観)を明確にするか、逆に、抽象化した次元や、両者の迷いのものを統合した次元まで上がる必要があります。後者のほうが、霊的には望ましいですが、実際には気づきを深めないと難しいところではあります。

一般的には(一時的には)、制約を明確にして、自分の迷いが制限(時間的・空間的)の中で効率的・効果的、あるいは自分の価値観に、より合致しているほうを選択するということになります。

例えば、時間制限では、この一年、この3ヶ月においてはどちらを取るべきか?とか、反対にもっと長期的に見て、老後まで考えるとどちらがよいか?などになりますし、空間的では、どちらが便利かとか、どちらが経済的か?どちらが速いか?(これは時間的でもありますが)みたいなことです。

そして自分の価値観に照らす場合は、どちらが心地よいかとか、どちらが自分にとって楽しいか、充実する(心が喜ぶか)か、という具合を基準にして選びます。

それでも、二者択一ですから、経済(お金)か自分の心か?みたいなことになってくることが多いものなのですが、これも「人生という長期で見るか?」「この数年で見るか?」とか、「自分の心(精神・気持ちの解放)」を優先するという「心を中心とした制限の中で見るか?」とかで決めたりすると、自ずと選択しやすくなります。

前に「吊るし」関係のところでも述べたように、どちらも選ばないこともありとか、どちらも選ぶ(迷うくらいなら両方やってみる、少々の無理でも両方取る)ことも選択肢としてあると考えるだけでも、だいぶん、ふたつの間で迷い続ける境地から解放されます。

あと、「選択するために選択する」ということもポイントです。

要するに、自分の選ぶ基準自体が選べていないので、二重の意味で選択に迷うわけです。

ふたつのうち、どちらかを選ぶという発想ではなく、その選ぶための基準・線引きを選べばよいと思うことです。

「今回は経済を優先する」「自分より相手を優先する」ことを選ぶとか、そういうことです。

そしてたとえ選択に失敗したと思っても、それはその時点でのあなたの状態・価値観による失敗感であり、自身が成長したり、霊的に統合が図られてくれば、当時の失敗など逆の成功として思い直すことができたり、どっちでも良かったと思えたり、してくるものです。

失敗感が続くというのは、ある種の古い価値観や制約の中に閉じこめられているようなものです。

いわゆる「やり直し」という概念とは違いますが、いつからでも、別の意味で選択し直すことはできるのです。

また最終的には、「選択」「迷い」ということ自体が幻想とも言えることで、選択や迷いは、霊的次元の扉を開くチャンスだと言えます。


空しさからの転換、解放

人生が空しくなる時が、まったくないという人は幸せかもしれません。

しかし、たいてい一度は誰でも、程度の差こそあれ、そう感じたことはあるでしょう。

仕事であったり、恋愛であったり、家族のことであったり、人間関係であったり、お金のことであったり・・・人はいろいろなシーンで問題が起き、それにショックを受けたり、落ち込んだりして、そのような思いに駆られることは普通にあると言えます。

けれども、一方で、その同じ悩みの分野でも、反対に喜び、充実、ハッピーな出来事もあるわけです。

そして、その時、「人生ってすばらしい!」「生きてて良かった!」「神様ありがとう。。。(涙)」という具合に、歓喜・感謝の気持ちがあふれます。

トータル的に見れば、まさに悲喜こもごも、その味わいの落差・バラエティさからすれば、やはり人生はワンダーだと言えるかもしれません。

それでも、心理的、あるいはもっと奥深くと言いますか、何か原因のわからないようなことで、何をしても心が塞いで、感動しないという人もいます。

言わば、空しさという状態がずっと続いているような感じです。そうなると「生きていても仕方ない・・・」というように思い、「死にたい」という気持ちに囚われてしまいます。

これはとても苦しいものと思います。

また自分はまだいいとしても、この世界の起きている事象をつぶさに観察していると、矛盾だらけの世界のように見え、皆の救いになる世界はどこにあるのかと疑いたくもなってきます。

そこから絶望的な気持ちになって、これもまた「死」への意識につながってくることもあります。

ここまで来ると、神や仏さえ信じられなくなり、すべてに疑問を抱くようにもなります。

ここで、そうした人にひとつ提案があります。

まず、すべてに疑いを持つこと自体を肯定してみることです。そして、疑いの中で、ただひとつだけ信じるのです。何を信じるのかは、「疑う自分の態度」を、です。

自分を信じるのではりません。安易に自分を信じ過ぎるのも、他人を信じ過ぎるのも実は危険です。

ですから自分も疑っていいのですが、ただ、自分が疑いをもっているというその態度を信じることはしてみましょう。

そして、ここから神なるもの、この世界(宇宙)なるもの全体に目を向け、自分の疑いを証明するかのように探求していきます。

簡単に「空しいから」とか、「どうしようもないから」とかで終わりにするのではなく、なぜこうも矛盾に満ちているのか、なぜこうも絶望してしまう世界にいるのか、なぜ空しいと感じる世界に自分はいるのかということを研究し、探求するのです。

死ぬのはあきらめであり、逃げです。これでは「自分が空しさをもった」という気持ちや疑念の解決にはなりません。もし死んでも同じような世界が待っていれば、永遠のループに閉じこめられることになります。

あなたが空しさを感じ、疑念を抱いたこの世界は、その通りなのかもしれないのです。つまりは、疑惑があるということです。

探求したところで、自分一代で解明できるわけでもないかもしれません。探求、それすら空しいと思う人もいるでしょう。

それでも、あなたには、不思議とも言えるチャンスが与えられていると言えます。

世間からはアウトロー的な、また変わり者的な目で見られたり、外見は普通でも精神的におかしな人であると、自身が自覚することもあるでしょうが、自分が空しいと感じる世界に対して、その理由を解き明かそうと努力する時、ひとつの生きる希望が出るわけです。

言い換えれば、空しさに屈するのではなく、空しさを味わっているからこそ、空しさへのレジタンスと解放への道に進む選択ができるということです。

見ようによっては、限りなく「中二病」(笑)に近い感じではありますが、そこに、「ある扉の鍵」が存在していると言えます。

妄想や病気とは違うのは、自分自身の状態を自覚と客観ができており、一応、普通に、この世界(現実)に仮であっても、なじませるよう振る舞えることにあります。

言ってみれば、在家的な悟りへの探求に近いものです。

人生に空しさをずっと感じている人は、空しさの理由を追及していく方向(心・内面だけではなく、世界やその構造そのものに向けること)に変えれば、エネルギーが湧き、生きることに対して、別の意味で希望、いや使命感のようなものが出てきます。

追求と言っても、よくあるような心理的要因・トラウマ(自分の心の原因)を探って、浄化していくというものとは違います。それも空しさからの解放に必要な場合はありますが、ここでいう追求・探求は少し次元の異なるものなのです。

実はマルセイユタロットがその探求の絵図・象徴としては、とてもマッチしているものであると言うことができます。


「吊るし」に見る停止・静止

タロットで、「耐えること」を象徴する大アルカナのカードは、やはり「吊るし」(一般的には「吊され人」「吊された男」などの名称)という印象があるかもしれません。

ただ、マルセイユタロットの「吊るし」は、あまり吊り状態にある人物に苦しさを感じさせず、むしろ余裕とも思える雰囲気を漂わせています。
このことから、このカードは、積極的な「吊り」の姿勢にあると考えることができます。積極的な「吊り」とは、一般的なこのカードの名称の、受動態であるところの「吊されている」ではなく、能動の「吊っている」解釈が可能ということです。
 
言い換えれば、自分でペンドしているわけで、それは「何もしない選択」と言えるわけです。
 
常日頃、「何かをしなければならない」と思い込み、忙しくすることで、「何もしていないわけではなく、こうして自分はやっている」ことを「見せかけ」でも主張していたり、「何もしていない」ことの免罪符にしたりしている人にとっては、少々厳しく感じたり、反対に怠惰を示唆しているように思ったりするかもしれません。
 
ただ、何もしないこと、きちんと状況を読んで自分が手を出さないことが最善であること、「満を持して」対応すること、休息しエネルギーを蓄えておくことなどは、意外に勇気と冷静さ(智慧・知性)のいることでもあります。
 
面白いことに、吊るしの前の数を持つカードは「」であり、勇気を象徴していますし、「吊るし」の次のカードは「13」であり、これまた非常に大きな決意と改革を表すカードでもあります。
 
その前後・間に「吊るし」のようなカードが来ていることは、とても象徴的だ言えます。
 
よく物語などでも、事態を打開したいとあせった人物が、とにかく何かをしなければ・・・と無闇に行動してしまい、結果的に手痛い失敗をしてしまうというものがあります。
 
世間では、現実を動かすためには「行動が大事」とよく言われ、確かにそれはその通りのところもあるのですが、その前に計画を立てたり、思考やアイデアの面でも準備をしたり、また体力的にも疲労を回復しておいたりの必要性もあります。
 
無為無策でやたらと動いたところで、かえって悪くなることもあるわけです。
 
もし行動が大切というのならば、動かない・手を出さないという「行動」もあり得ると見ればよいでしょう。
 
選択においても、普通は右か左かというような左右の両極(水平性)で悩むことが多いのですが、ここに垂直性として、第3の選択肢を置いておくとよく、その第3の選択肢は「吊るし」とも関連し、つまりは、何もしないとか、様子見するとか、今すぐはどちらにも決めないという「選択」があるものと想定するとよいのです。
 
これは決めていないのではなく、「決めないことを決めた」という、れっきとした行動、チョイスのひとつだと見ることが可能です。
 
垂直性の選択方法は、選ばない・決めない以外にも、ほかのカードで象徴される、あるやり方があるのですが、それはまた別の機会にお話したいと思います。
 
ともあれ、「吊るし」という一種の停止状態は、物理的(目に見える行動)にも、心や頭の中といった精神的(目に見えないもの)にも、必要となるタイミングがあります。
 
精神的には何も考えないという「無」の状態、あるいは、ひとつのことに心が定まって、安定している状態と言えます。
 
この場合、「逆さである」というスタイルが重要で、これは本当はものすごく壮大で深い示唆があるのですが、それは順を追って説明していかないと理解が難しく、混乱してしまいますので、タロット講座でお話していることですが、いずれにしても、逆さま・反転・リバースのような、逆転での見方、とらえ方が「停止」においても重要だということです。
 
何かが変わる時は、一瞬、物事が静止したように感じられることがあります。
 
ということは、逆に言えば、この「静止」「停止」状態が、物事の変化としてはポイントとなると考えることができるのです。
 
さて、今回の記事の文章で、一番最初に「耐える」ということを書きましたが、マルセイユタロットの「吊るし」においても、耐えるということは象徴できます。
 
そしてこの「耐える」ということそのもの、時には「我慢する」ことにもつながってくるわけですが、それはよいことなのか、悪いことなのかも含めて、次回に考察したいと思います。
 

内に聞く。外に聞く。

辻占い(辻占・つじうら)という占い形式があります。
 
これは、四つ角とか橋のかかる通り(異世界や異次元、非日常との境界空間も意味します)とかで、質問の回答を偶然に発見する(託宣として受け取る)という方法です。
 
例えば、何かのことで、もっと学びを進めていくべきか、しばらく様子見しておくべきかで悩んでいるとして、通りに立って最初に目にした看板が答えだと設定し、そして飛び込んで来たのが、学習塾の「進学」の文字看板だったとすれば、答えは「学びを進めるべきだ」と判断できるというものです。
 
いわば、託宣を偶然の外部の出来事に任せるという方法ですね。
 
何も辻や通りに出なくても、偶然を利用する託宣では、いろいろとやり方は可能です。しかも、意識していなくても、たまたま託宣やシンクロ、辻占状態になっていることもあります。
 
留学のことを考えていたら、カフェで座った隣の人たちが旅行話をしていて、しかもそれが自分の行きたいと思っていた国のことだった・・・というようなこともあるでしょう。
 
このような時でも、隣の人はおそらく旅行の話だけではなく、いろいろと雑談をしていたはずですが、自分の耳に入ってきたのが、たまたま旅行の話の部分だったというケースがあります。
 
そこに偶然の必然性、シンクロニシティを感じさせます。
 
とはいえ、人の情報処理システムや心理的機能から見れば、自分が関心を抱いているものに注目し、無意識的にもフォーカスしているのは当然で、自分に関心のある部分だけ都合よく視覚・聴覚などからの情報を入れている(ほかの情報はそぎ落とされている)という考え方もできます。
 
そうすると、不思議というものではなく、むしろ当然の結果ともいえます。
 
しかし、自分の心の内(無意識的になっているものも含む)外のもので確認していると見れば、いずれにしても、それは、自分へのひとつの答えや解決策として、自分が見ようとしていると考えることができます。
 
結局、神が見せていようが、自分の心や意識(無意識部分・情報処理傾向も入れて)が見せていようが、どちらにしても、自分自身の悩みを、何らかの形で整理しようとしていることには変わりないわけです。
 
スピリチュアル的にいえば、内(精神・魂)も外(環境・物質)も次元と表現が違うだけで、本質的に同じであると考えることもできますから、自分の思いが外に現れている、その逆に、外のものは自分の内面を象徴していると見ることも可能です。
 
自分が悩みに悩んでいる時、心の中では堂々巡りしていたり、自分一人で考えていてもなかなか結論が出なかったりする場合があり、それは反対に、外側の現実的環境、物質(モノ)、他人の言葉、もっといえば、自分(の問題や悩みそのもの)とは無関係なもので、その判断を仰ぐことが考えられます。
 
これは、独りよがりな世界で行き詰まっている状態を、客観的な(自分とは一見無関係なものや人)によって、一度狭い世界を破壊し、凝り固まって偏った主観的な判断の見方から切り離して、迷いを断ち切らせる機能になるわけです。
 
無関係な他人、さらには悩みとは無関係(自分の悩みなど知らない状態)な言葉、物事をもって、自分への回答とすることで、それだからこそ、信じられる気がしてきます。
 
このことは、実は、「神」のような、この世界を内も外もすべて意味あるもの(つながりがあるもの、関連しているもの、どこにあっても、何おいても全体を透徹した超意識のようなものの存在)として見ているからこそ、できることなのです。
 
自分とほかのものは無関係という(顕在的な)意識のもとで、無意識層、または超越的な意識のほうは、自分も外のもの(人)も、実は無関係ではないこと(繋がっていること)を知っているのです。
 
辻占いのような、外側のことに、自分の心の内の判断を委ねるのは、結局、自分の内側に、違う形で問うていることと同じと言えます。
 
外に問いつつ、内に問う、内に問いつつ、外に問う、これは本質的に同じなのです。
 
自分の知りたい答えが内にない場合もあります。(多様な内なる自分が入り乱れていて、どれがこの場合適切かが判断できない状態)
 
そんな時は、偶然を装った、「外に」答えを見出してもよいでしょう。
 
それは視点(ベクトル)の違いなだけで、内でも外でも、神、もしくは自分に問うて、自分(神)で答えているのと同じだと、究極的には考えられるのです。
 
ですから、外のもので自分の悩みや問題の答えが見つかった場合、一方では、「外から見させられた(お告げがあった)」と言ってもいいし、もう一方では「自分が(外から答えを)選択した(引き寄せた」)」と言ってもいいのです。

「やるかやらないのか」の間にあるもの。

タロットリーディングの問いの中でも、「なになにをするのはどうか?」というものがあります。

具体的になってきますと、仕事を辞める、転職する、独立するとか、好きな仕事をするとか、恋愛で気持ちを伝えるとか、結婚する、離婚するとか、あるセミナーに出る、ある技術や知識を学ぶとか、そのようなことを行うのはどうか?という質問ですね。

これは言ってしまえば、身も蓋もない話になりますが、結局、つきつめてしまえば、「やるかやらないか」というだけなのです。

しかし、そこには、機械ではない人間の悩みがあります。

やるかやらないかの間に、様々なグラデーションにも似た迷いがあるわけです。

しかし、これも整理すれば、感情(気持ち)の葛藤か、自分の価値観とて世間一般での価値観のズレ、さらには、失敗か成功かによる、特に失敗の恐怖を味わいたくないという恐れ、逆に言うと、結果としてショックを受けない選択をしたいというものなどがあると考えられます。

普通は、成功するか失敗するか(の先行きの判断)で躊躇するわけですが、その成功や失敗が、何をもって成功とし、何をもって(どんな状態をもって)失敗と言えるのかを考えると、つまるところ、自分の感情・思いによる自己の(状態)評価のジャッジ(判断・裁判)だと言うことができます。

成功や失敗という概念が、今の社会や世間一般のものと自分のそれが、一致すればするほど(同調・同意させればさせるほど)、杓子定規な(いわゆる現実的観点での)選択と迷いの理由になります。

反対に、世間の概念(価値観)と自分のものが離れれば離れるほど、世間で言うところの成功や失敗の範疇とははずれ、その境界線もあいまいなものになってきます。

言い換えれば、自分中心で、誰とも比べることのない天上天下唯我独尊のような世界観であれば、自分がいいと思えばよく、自分が成功と思えば成功という世界が現出します。

この意味では、精神が現実を創るというものに近く、何よりも自己の確立と自尊が重要になってくるわけです。

ですから、自分に自信がないという人は、何の選択においても、葛藤が多くなり、その葛藤や迷いは、ほかの人と比べること、ほかの価値観と自分のものとを照らし合わせ、両者が揺れることで、ますます決めることが難しくなってくるわけです。

ましてや起業や独立、好きなことで生きていきたいというようなことを目指すのには、強い自尊心、もしくは、自分への自信がないと、踏み出せなくなるのは当然だと言えます。

迷いには失敗のおそれもありますが、先述したように、その失敗という概念(実は観念)自体が、世間での迎合や世間一般の思うそれなので、言わば人の評価による成功・失敗のうちの失敗になることを恐れているのです。

最近は、心理的・スピリチュアル的に人を援助する技術を習い、それを仕事にして行きたいと思う人が、ネット社会になって簡単に起業自体はできることから増えてきました。

しかし、あまりに自分に自身がなく、他人との普通のコミュニケーションすら恐怖や問題がある状態では、仕事以前に、まず自分自身を、ある程度回復しておくことが必要です。

少なくとも、自分の選択の結果が、人のせいや、環境・運のせいにするなどして、責任を転嫁しているうちは、自分の力を他人に預けている状態であり、それでは、一時的な癒しや、なれ合い的な安心感を与えることはできても、仕事として、よい・悪いの両面を受け入れ、やっていくのには力不足のところがあります。

ところで、「私は成功できますか?」「私はこれを仕事をしていくことがてきますか?」という質問は、ちょくちょく受けることがあります。

その気持ち・心情・不安はよくわかります。最初から何もかも自信満々な人はいませんし、心配や不安・葛藤があるからこそ、相談したいと、人は思うものです。

けれども、たとえば、「あなたは成功できますよ」「あなたはそれを仕事として、やっていくことができますよ」というようなメッセージを受けることがあっても、その後、実際にはうまく行かないようなことがあれば、そのメッセージをくれた人のせいにして、自らの行いを省みることをしない人もいるでしょう。

また、反対に、メッセージを受けたことで背中を押され、勇気をもらって実行し、(自分の思う)成功を成し遂げて行けたという人もいらしゃるでしょう。

何かのお墨付きをもらう心理的安心感・目に見えない世界からの後押しを実感すること自体はよくても、お墨付きが免罪符となって、その免罪符がほしいがために、占いや人への相談をするというのでは、メッセージの内容にかかわらず、本当の意味で進展するのは難しいと言えます。

結局後者の人は、他者からの評価・断定(保証)を拠り所としているのであり、あくまで自己の選択と責任のためのひとつの指針や情報、勇気づけとして見ているのではないのです。

それは言い換えれば、他者(運や環境も含む)のための選択であり、他者の人生・世界に自分を預け、沿わせているようなものです。従って、いつまで経っても、自分自身を生きる実感がなく、迷いや閉塞感・外側を気にする状態で、苛まされることになります。

マルセイユタロットでいえば、「運命の輪」の中に自らをあてはめ(押し込め)、その回転に翻弄される人生と、その輪の上に立ち、自らを他者の運や評価から脱却させた人との違いと言えるでしょう。

ただ、そうは言っても、すぐに自分に力を取り戻したり、自信を回復させたりできないのも人間です。

ある程度の他者(環境・運)依存も認めて、それを利用しつつ、少しずつ(「節制」のカードが暗示します)、自己の力と自尊を回復していくことです。

そのため、対人援助についても、いきなりプロを目指すことではなく、できる範囲(経済的なものも含む)で、「戦車」の両輪のようにして、あるいは「節制」の壷の水のようにして、ふたつを混ぜ合わせたり、動かしたりしていくとよいのです。


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