迷った時に
自分本位の貢献感が自分を救うこともある。
自分に自信がない、自分に生きている実感がないという人は少なくないような気がします。
人は何のために生きているのか、なぜ生きているのかということに、宗教や哲学も含めて、ずっと考察がなされてきましたし、今もって明確な回答が得られていないと言えましょう。
その秘密や理由は、矛盾のような、禅問答のような話になりますが、おそらく私たちが生きている限り、明かされることはないのでしょう。それがすなちわ、「生」というものの回答ではないかという気もします。
とはいえ、実際に生きていますと、様々な矛盾や苦悩、理不尽さを感じますし、冒頭にも示したように、生きづらさを感じていたり、生きている実感が希薄であったりする場合があるわけです。
私はこの理由のひとつに、マルセイユタロットの奥底に流れるある思想に見出すことができると思っているのですが、それはともかく、そうした生きる意味や、生きづらさのわけを考えることより、それを軽減し、現実生活の中で生きづらさや希薄感の解消を実践していくことのほうが大切になる場合があります。(理由を考えることが悪いわけではなく、人によっては、その考察が重要になるケースもあります)
その対処として、私は貢献感を持つことと、自分がなにがしかの貢献をするという(自覚的)実践と行動をすることにあると見ています。。
表現を変えれば、「自分が生きていることで役に立っていると思うストーリー」を自分で構築するということです。
これは思い込みと言えば思い込みなのですが、私たちの現実は、実際に客観的に誰しもに起こっている事実(客観・全体の現実)と、自分がその事実(事象・出来事)を受け、解釈し直して見ている自分自身の思う現実(固有の現実)とがあり、結局、後者が一人一人には重要で、つまるところ、自分の思い込む現実が、まさに自分に影響するわけです。
だからこそ、自分の作る自分への物語・ストーリーが重要なのです。
生きづらさを感じる人、生きる実感が希薄な人は、あまりに自分が空虚になっているため、悪い意味で自分が世界と一体になっていて、個性・個別・自分というものが感じられなくなっています。
これとは逆に、人と比べて自分が劣ったり、何も特徴がないと卑下したりすることによる劣等感のような希薄もあります。
どちらにおいても、世界(現実と認識する世の中・社会)に対しての無力感となり、貢献感がなく、言わば、自分が役立たず、存在してもしなくても同じみたいな感覚があるのです。
言わば、「自分がステルス状態になっているのが、ストレス状態になっている」わけです。(笑)
ということで、人から認められるとか評価されるとかではなく、とにかく、自分主体(自分本位)で、何か小さなことでもよいので、社会や人、世の中の役に立っていると自分が思うことを行うことから始めます。
これは本当に何でもよく、ちょっとでも自分(の行動が)役に立っていると考えられることをすればよいのです。
お金を使うのもありですし、健康づくりをしながら、空気を吸って二酸化炭素を吐いて、その循環が植物などに貢献していると考えるのもよいでしょう。
行動の前には、意識(思い)だけでもOKです。
「このこと(自分の日常での行動)は何かの役に立つ」と、無理矢理でも、こじつけでも結びつけるのです。
例えば働いていれば、会社や他人、組織に、とにかく役立っているわけで(給料分とかと計算で思わず、ある仕事をしているだけで一応は何かの作業がなされて、職場の役に立っているというように思います)、考え方さえ少し変えれば、役立ちの部分は、たとえほんのわずかであっても、貢献感情として出てきます。
もちろん、寄付したり、実際に何か人や社会のサポートをしていくボランティアや作業をするのはよいのですが、そんな大げさな貢献をしなくても、他人からの評価は思わずに、自分本位で役立つ、役立っているというストーリーを作る、思うことが一番重要です。
恋愛でも、たとえ片思いであっても、相手を想うことによって、相手を心配したり、相手の為に何かをしたい、相手が幸せであることを望む自分がいれば、それを自覚するだけで、相手への見えない貢献になっていることもあると考えることができるのです。(ただし、エゴが中心となって、相手はこうあるへきとか、自分にこうすべきとか、過剰にストーカーのようになって、相手の気持ちにお構いなしに勝手なことをするの問題で、違うことです)
マルセイユタロットを持っている人は、「星」のカードを見ているだけで、そうした貢献感、役立つ自分の姿・部分を、心の中で見つけることができるでしょう。
そして何をしても貢献感がわかない、見つからないという人は、究極の宇宙や大きなもの、神という存在を置き、私は神(大宇宙・大きなもの)の表現の一部として、人生を経験していると考えるとよいでしょう。
あまりに大きな存在は、具体的で個人的なベースで表現することができません。空気は形として味わうことができないみたいなものです。
ですから、私たち一人一人、肉体と個人的感情・思考・経験をもって、神様(大いなるもの・全体)の代わりに、体験しているわけです。
それを思えば、私たちは誰もが、生きているだけで、(神に)貢献しているのです。
それがあなた個人的にはひどい人生とか、何の役にも立っていないとか思っていてもです。それは次元が実際ベース・見に見えるものだけで見ているからで、もっと次元を拡大し、上昇させてみると、あなたがこの世にいること、自分を自分として自覚できていること自体が、ものすごく、全体から見ての貢献になっているのです。
「こんな空しい(と感じる)人生、つらくて悲惨な(と感じる)人生も、神様からしたら、味わいたいひとつなんでしょう? じゃ、そのデータ送りますんで、よろしく。私の人生劇場、空虚感、スリル、サスペンス、味わっておくんなまし」
こんな感じでしょうか。(笑)
まあ、これもストーリー(データ)として変えることもできるわけですし、変化があったほうが、(全体として)見ているほうでは楽しいですから、空しい、悲惨だと思う人生から脱却したほうが、またさらなる全体への貢献にはなるかもしれませんね。
要するに、他人評価で決める貢献感ではなく、思い込みでもいいので、自分が貢献していると思えることをすればよく、そうした貢献ストーリー(役立っていると自分が感じる物語・理由・理屈)を構築すれば、自分本位(自分中心)から、自分の存在が濃くなってくるというわけなのです。
その結果、空虚感がたとえあっても、生きる理由が、自分なりに見つかってくるのです。
セカンドオピニオンを持つ。
かかりつけ医や、普段信頼している医者でも、人間である限り、診察の目の波もあると思います。
ただ、優秀な医者は、その波も自己の研鑽や経験、知識、さらには機器などによって、波の振幅を、結果的にごく小さいものにしているでしょうから、診察自体にブレが少なくなると考えられます。
それでも、様々なタイミング・状況によっては、見誤ることもあるでしょう。
だからこそ、セカンドオピニオンとかサードオピニオンが必要だと言われるところがあります。
私自身、あまり体が強いほうではないので、医者に診てもらったり、病院に行ったりすることも普通の人よりかはあるのですが、何度か、最初の医師の診断が誤っていた、ある大事なことを見逃していたという経験はあります。
そして、ほかの病院や医者に診てもらうことで、本当の原因や病気がわかったということもあったわけです。
病院・医者ですら、こういうことがあるのですから、ましてや、スピリチュアルなセッションとかヒーリングとか、占いなどの分野では、それを行う人の、ブレの幅は結構あるのではないかと想像できます。
もちろんそうならないように、波の幅を少なくするよう、各人が努力され、プロとして鍛錬されているのもわかります。しかし、やはりこれも人間の行うことですから、波はあるでしょう。
そして、その波は、ただ単に上下の振幅だけではなく、波自体のレベル(振幅の中心線の高低)、さらには質も変わってくることがあります。
こういうことから見ても、あるヒーラーや相談者が、自分の問題の解決や浄化に合う人もいれば、合わない人もいるのは当然で、しかも一度合ったからと言って、波の状態の変化によっては、今日は今一と感じられる事態になることもありうるわけです。
ですから、相談においても、一回や一人の人に頼り切るのではなく、違和感を覚えたり、納得できないことがあったりしたのなら、セカンドオピニオン、サードオピニオンとして、別の人や別の技術を持つ人に見てもらうことも考え、柔軟な姿勢を持つとよいでしょう。
ただし、よく占い依存の人にはありがちですが、自分の欲求や願望が求める答えを出してくれる人が現れるまで、何人もの占い師に同じことを見てもらおうとする人がいますが、それはまずいです。
よく考えてみてください。
自分の求める答えを言ってくれる人が現れるまで彷徨うということは、もうすでに答えが出ているのと同じなのです。
つまり、あなたが望むことは、その自分が思う答えが実現すること、あるいはそのことについて、保証を述べてくれたり、後押しをしてくれたりすることなのです。
しかし、現実的には(願望を叶えるのは)難しいから悩んでいるということですよね。それも人として、よくわかります。
しかし、自分も、そして多くの人が難しいと思う望みが、叶うことを保証してくれる人は、逆に怪しいものです。
だから、ここで自分の望みを改めて自覚し、その望みを叶えてくれることの保証を求めるのではなく、どうすれば望みに近づけるか? あるいは、その望みを持つことは自分にとってどんな意味があり、本当に実現することが自分のためになるのか?ということをテーマとして、見てもらうとよいでしょう。
例えば、好きな人がいるけれど、その人の気持ちは自分に向いているのだろうか? その人と結婚できない(不倫のような)関係だけれど、何とかならないか? というようなことを聞くのではなく、どうすればその人と交際することができるのか?とか、なぜ自分は結婚できない人と深い関係を持ち、そしてこのような関係性が自分にとってどんな意味があり、どうすれば心穏やかに過ごせることがでるのか(自分にとっては本当の幸せとは何か)?というようなことをテーマとするわけです。
言わば、相手は自分のことを好きか嫌いかとか、あの人とつきあえるのか、つきあえないのかとか、別れたほうがいいのか、このままがいいのか、とかいうよな二者択一的な問いの答えを求めるのではないということです。
結局、本当は自分が望む答え(言ってほしい答え)はあるのに、それがOK、絶対として出ないものだから、それがいいと言ってくれる人を求めて彷徨うというようになっているのです。
望む答えが難しいとわかっているのなら、少しずつでもその難しさを解決しようと考えたり、なぜ難しいのか、すでに自分でもわかっていることをさらけ出したりして、その苦しみについて、相談するとよいのです。
逆に言えば、ただ(一般的に)正しい答えを出したり、どちらかがいいかだけを示したりするのではなく、その苦しみや葛藤をわかってあげるのも、相談者を受ける側の態度と言えます。
話がセカンドオピニオンのことからずれてきましたが、安易にセカンドオピニオンを求める前に、クライアント側自身にもできることはあるのだということです。
その上で、第二・第三の方にも見てもらうと、皆さんに共通して言ってもらえたり、指摘されたりする部分があります。おそらく本質的には、誰に見てもらっても(プロ的な人ならば)、答えはほぼ同じでしょう。
その本質を理解することが大切ですが、その現実的な表現と選択は、またアドバイスする者たちによってバラエティある(異なっている)ものになります。それが個性というものです。
セカンドオピニオンを求めることは、本質が何かを自分が理解することに役立ちますが、その本質をどう表現するかは、アドバイザーによっては異なることが多いのですから、結局、現実的な部分は自分(クライアント)が選び、行動するということが重要になってくるのです。
何かの選択に迷った時 タロットによるサポート
何かを決めたり、続けたりしたい(あるいは反対にやめたい)と思った時、通常の情報(常識や見に見えるものなど)だけではわからず、直感やインスピレーション、自分の身に起こる現象などによって、判断する(される)ことがあります。
大まかな傾向では、やはり、自分が違和感を覚えたり、そのことに対して、何回も悪いようなことが、特に外側の現象(精神的に感じるだけではなく、実際に悪いことが事実として起こる)として生じた場合、それはノーであったり、保留であったりの意味のことが多いと考えられます。
少なくとも、内と外の投影として見ても、自分の中に何かゴーとかイエスにならない、葛藤する心があり、それが外に現れていると想像することができます。
言わば、外側のシンクロ的な現象も、自分が起こしている、自分で自分に見させているわけです。
ですから、判断に迷った時でも、それは選択しようとしていることが正しい・正しくないというよりも、何かしら自分は、そのことに疑念があったり、すっきりしない部分があったり、凝り固まったりした心があるのだと見るとよいでしょう。
それが実は、自分を縛っていること(逆に言えば守っているものでもあります)なので、それが浄化されれば(クリアーになったり、統合されたりすれば)、予想外の、今まで以上のよいと思えるようなことが現実に発生したり、そもそも選択に迷う、その事柄自体がなくなってしまったりするようなことになるのです。
人生を大局的・長期的視点で見た場合、たいていの選択ごとは取るに足らない(無意味とか軽いものという意味ではありません)ものになり、その局面では非常に重要に思えるものでも、俯瞰して後で見ると、選択後の結果の良い・悪いに関係なく、その体験こそがとても味わい深いものであったと気づくことが多いものです。
その意味では、警告のように思えた外側のシンクロ現象も、結局、いい・悪いのお告げではなく、内なる葛藤の表現だとわかり、よいものを選ぼうとするこだわりが少なくなります。
とはいえ、短期的、自分の思っている価値観の範囲、そして一般の常識的な観点からでは、確かにいい・悪いという次元があります。いわば自我の幸不幸という感覚です。
自我次元(自分の価値観やその時の思いに添った世界観)において、不幸であれば嫌ですし、幸福であれば気持ちのいいことです。それは人間である限り、快不快、痛みと快楽にも似た普通の感覚で、ここからは通常、なかなか逃れることはできません。
そこでタロットによる選択へのフォロー、参考情報を得る技法があります。
ここでもタロットが示すものが絶対正しいという考えでいては、実は余計にタロットを使うと混乱することになるので、そのようには考えないほうがよいでしょう。
その理由とか、反対にタロットが正しいと考える方法などもあることも、お伝えしたいところですが、それはまたの機会に譲り、今回は理屈よりも、技法・やり方のほうを、一部ご紹介したいと思います。
まず、自分にとって、選択時におけるよいカード、あまりよくないカードという色分けを使う方法があります。
本来、カードには吉凶とか良し悪しはないのですが、あえて自我次元の選択においては、それに色をつけましょうというものです。
これは、数とか意味で色をつける(良し悪しを見る)場合もあるのですが、一番いいのは、自分にとってよいカード、悪いカードみたいな判断です。
つまり、自分にとっては、「力」のカードはいいとか、「悪魔」とか「月」が出ると今ひとつとか、このカードは最悪とか、そういう感覚を、カードリーディングの蓄積によって覚えておくのです。
人によってカードの良し悪しは違ってきます。
やり方は、物事の選択に、「これをするのはどうか?」という問いで、カードを引きます。
一枚だけではなく、数枚引いたほうがいいでしょう。そして引いたカードで、自分にとって良き知らせといえるパターンのカードが出ていればOKで、その逆はノーということになります。
また、これとは違い、カードの位置、つまり正逆で見る方法(正立はよし、リバースはノー)もあるのですが、正逆ははっきりし過ぎるがために、引く時に迷いや恐れが強すぎて、かえってぶれてしまうことがあります。ただ、正逆で見るほうに確実性が高まる人もいますから、これも個人の性質とタロットの出方によります。
マルセイユタロットの場合、次元の違いが大アルカナと小アルカナでは明確なので、自我次元の選択には小アルカナを使うほうが明瞭になることがあります。
特に、時期、場所、人物などの具体的なことをはっきりさせたい場合は、小アルカナを使うほうがよいでしょう。そういう風に、小アルカナはできているのです。
小アルカナでも、4組に分かれていますので、その選択する事柄が何なのか?ということで使う組も分かれます。恋愛なのか、セミナーの選択なのか、お金に関することなどかによって、異なってくるわけです。
それから、小アルカナの場合は、何が選択の基準として一番大事かということも、4組に分かれているので、明確になってきます。
例えば、我々は「玉」と呼ぶコインの組のカードが多く出れば、結局は経済的なこと、お金の投資性・効率性によって選択されるみたいなことがわかるわけです。
これに対して、大アルカナでも選択の判断には使えますが、本当は大アルカナは自我次元を超えることを象徴しますので、マルセイユタロットの大アルカナに習熟してくると、先述した大局的な俯瞰したような目線が現れ、自我次元における、いい・悪いという選択基準がなくなり、どちらでもよいとか、どちらでもないとか、「ま、どう転んでも経験を楽しめばいいか」みたいな不思議な境地になってきます。
タロットで確かに選択のサポートはできるのですが、私見ですが、最終的には、その選択へのこだわりから脱却するためにタロットを使っていると言っていいものだと思っています。
タロットによる物事の選択(法)
私たちは決断力のある時と、物事が決められない優柔不断な時とも両方を併せ持つ存在です。
とはいえ、これも個性があり、普段から全般的に優柔不断気味の人、何でもテキパキとあっさり決めていく傾向の人がいます。
またなぜ、物事が決められないのかという理由も、人によって、あるいは決めようとする事態の内容によって、それぞれでしょう。
それでも、その中で多いパターンは、理性と感情の狭間で悩んでしまうというものです。
まあ、理性と感情というより、損得的な計算・条件と、好き嫌い的な気持ちがからまって決められない、悩んでしまうというようなものでしょうか。あるいは、常識的・一般的理性判断と、個人的な感情との間で悩むというものもあるでしょう。
直感で選べばうまくいくとうスピリチュアル傾向の人もいますが、その直感が低レベルな子どものわがままのような好き嫌いからのものでは、理性的に判断した選択にはかなわないことは当然です。
反対に、もっとハート(素直な心)で選べばスムースに行くのに、あれこれ考えすぎてわらなくなってしまうということも多いです。
特に現代人は様々な情報にさらされていますので、余計、シンプルに考えることができなくなっているでしょう。
よく言われるように、意外にも、考えすぎて迷いが深くなった人は、最初に決めた(決めていた)ほうを選ぶとすんなり落ち着くことがあります。
それは最初のあたりのほうが、ピュアで、余計な情報・判断が入っていないからだと考えられます。
私は、何を選択しても、結局、いいも悪いもないと思いますが、それは大きな意味、長期的なスパンで見た「人の成長の視点から」では、となります。
やはり、それでも人は短期的な目線、あるいは選択の結果として、経済的成功か失敗か、精神的な満足か不満足かという見方をどうしてもしてしまいます。
それが実生活、現実に生きている人間の心理と言えます。
となると、選択のよしあしを感じることは、誰においても、ある(個別の)次元・レベルにおいては存在するわけです。
これを整理して考えると、こういうことになります。
●その選択の基準を抽象的、全体的、統合的なものからとして見ると、選択はどちらでもない、どちらでもあるとなる
●その選択の基準を、損得(お金)なのか、精神的満足や安らぎなのか、自分だけのためなのか、多数の人が平均的に満足できるものなのか、など、具体的な選択の中心基準によって、選択自体も個別に変わってくる
(この場合では、選択によって、切り落とされるもの、犠牲となるものも出ます)
実は、タロットを使って物事を選ぶとい方法はいくつか、というより、いくつもあります。
タロットはそういうこと(選択)のために使うと思っている人もいるくらいです。
個人的には、タロットは現実的な選択(あれか、これかみたいな選択)のために使うものではないと思っていますが、使うこともできるように設計されていると考えています。
実際に私も講座ではそのタロットによる選択の方法をいくつかの種類とパターンで教えていますが、ここではその中のひとつをご紹介しておきます。(具体的なやり方は、講座でお伝えしています、ここでは考え方みたいなもののご紹介です)
さきほど、大きな意味では選択の意味はなくなる(どちらでもないし、どちらでもよい)と言いましたので、つまるところ、選択の関心があるのは、個別性や具体性の次元においてということになります。
タロットでは、個別性や具体性の原理・世界は、小アルカナに現れます。
その大元は、四大元素で象徴される世界、すなわち、剣・杯・杖・玉(一般的にはソード・カップ・ワンド・コイン)の4組で小アルカナ中心に図示されているものです。
あなたにとって、その選択の基準が、この4組のどれなのかということが重要です。
引き方は自由ですが、4組のうち、そのうちのどれかがはっきりわかる展開法をすることで、今あなたが選ぼうとしている中心の基準がわかります。
例えば、玉(コイン)が出れば、この選択はお金・経済、実際の利益などの成果が得られること、投資と回収が効率的であることなどの観点・基準が重要ということになります。
そこには好き嫌いとか、心の満足とか、学びであるとかを中心にし過ぎては、選びにくくなるということが示されたわけです。
ここで大切なのは、それが正しいのではないということです。
あなたの今のその選択において、整理(いろいろな層の選択)の基準として、剣とか玉とかが示されたということなのです。
占いとして見る場合は、「それが(出たカードが託宣的に)正しい」と見てもよいかもしれませんが、私はそういう考えで使っておらず、あくまで情報の整理のヒントして、自分が中心になるように(占い依存にならないように)注意して(教えて)います。
そして、そもそもあなたの個別性の選択において、その基準(価値観)そのものが迷いの原因であるということもあります。
いわば、世界観が狭い、枠に囚われすぎているので、今までの選択基準でしか物事が見られず、迷って決められないのです。
先述したように、究極的にはどれを選んでも間違いではないですし、どれでもいいのですが、どうしても、良し・悪し、成功・失敗という枠組みを作っているあなたの価値観が選択の邪魔をし、逆に言えば、それ(あなたの枠)が決められないあなた自身を創っているのです。
大アルカナの「恋人」カードに象徴されるように、迷うことそのこと自体に大きな意味があるのです。
いい先生、悪い先生
物事を人に教わる時、当然、それを教えてくれる先生がいます。
世の中に、いい先生か悪い先生かを選んだり、判別したりする話がたくさんあります。
しかし、その基準となるものは、結局、教わるほうが決めていると言ってもよいのです。
要するに、自分にとって「いい」と思えば「いい先生」であり、「悪い」と思えば「悪い先生」ということです。(笑)
では、自分が先生の良し悪しを決めているとして、その決める自分の基準はどうかということです。
何があなたの良し悪しと判断する元となっているのか、と言い換えてもよいでしょう。
すると、意外にも、学びのことだけではなく、人生全般における、今のあなたの判断基準があることに気づくかもしれません。
いわば、それはあなたの「いい・悪い」を決める「価値観」です。
ただ、価値観も段階や次元によって変化しますので、学びという分野に限れば、あなたの大元の価値観が基準になるとはいえ、その価値観は微妙に変化していることもあります。
例えば、全体的に精神性重視としているあなたでも、こと、お金の投資の方法を具体的に学ぶとなれば、投資効果や効率をやはり価値の優先順位に考えたくなるでしょう。
教わることで、あなたが何を教わりたいか、学びたいかによって、あなたの価値判断も変わり、従って、先生に対する良し悪しの評価も変化するわけです。
前は悪いと思っていた先生でも、今はよくなっていると思う場合もあるわけで、当然反対のこともあります。
ということで、先生への判断とは限りませんが、人への評価というものは、何を基準・価値観としているかによって変わってくることなのです。
一般的倫理観と法律によって決められる基準で悪い人でも、近しい人、家族的に見ればよい人となるかもしれません。
ここではタロットの話が中心ですから、今回の記事は、ある意味、タロットの先生選びと評価という話にも置き換えられます。
人格的におかしい、問題だと思っている先生でも、とても高度な技術と知識を教えてくれる先生もいます。(こういうタロットを扱うような世界は普通ではない人が多いですし(苦笑))
また、人格的によい人でも、技術や知識はまだ途上、中途半端という方もいらっしゃいます。
さらには、自分の求める知識とか考えとは大きく異なっている場合(価値観の相違)、その先生自身に問題はなくても(と言いますか、その先生は単に個性でもって自分の表現をされているに過ぎませんが)、受講生、教わる方としては、違和感を覚えて「あの先生はダメ」と判断していることもあります。
マルセイユタロットには「法皇」という、教えること・伝えることを象徴しているカードがあり、その絵柄には「教える法皇」と「伝えられる弟子・聴衆たち」が描写されています。
この両者の立ち位置は当然違いますし、それがまさに様々な「違い」「段階」「階層」を象徴しています。
しかし、ここでは詳しく述べませんが、細かく絵柄を見ていると、「法皇」と「弟子」が重なる部分もあるのです。
それが両者の、レベルは違えど、目指すところや目的・本質は同じというような共感性を示唆します。
ここがまったくかけ離れていると、カードはブロックやアンバランス性を示すような形で現れます。
また、この「法皇」と同じ「5」という数を持つ、マルセイユタロットの「悪魔」は、カリスマ的な魅力あふれる人物を表し、そうした特徴が強く出過ぎると、教え・教えられるような関係が、教えられるほうがロープでつながれたものになることを示しています。
これは教えるほうの「悪魔」が悪いというより、つながれてしまうくらい魅了されすぎてしまって、依存的体質になる教えられる側、聴衆のほうが問題といったほうがいいでしょう。
「法皇」にしても、「悪魔」にしても、提供する側、教える側の問題も確かにあるとはいえ、大体は教えられる側、受け取る側の問題、あるいは両者の食い違い、価値観の相違であることが多いわけです。
ということで、学びを受ける側からすると、先生の伝える「ここ(技術や知識など具体性)を学ぶ」という割り切った学び方か、先生の目指す、あるいは伝えている「本質に共感する(精神性や総合性)から学ぶ」というものか、ふたつの方向性があると思います。
もちろん両方とも含まれることもありますが、「すべてがすばらしい」と手放しで先生を評価していたら、それは「悪魔」のカードの象徴として、依存することにもなりかねませんから、尊敬し過ぎるようになっている時は注意してください。
先生をネタに笑えるくらいがいいですし、先生も時には笑ってもらえるくらい(それを怒らず、楽しめる)でいいのだと思います。(もちろん最低限の敬意もない軽蔑だと、先生から怒られたり、避けられたりしても仕方ないでしょうが)
マルセイユタロットの「法皇」にいる弟子達も、やがて自立し、最終的に自ら覚醒するようになることは、ほかのカードで示されていることです。
導きは必要ですが、最後は独立独歩なのです。