迷った時に

まじめさと不真面目さ

この現実世界は、ふたつの表現・エネルギー・状態など、いわゆる二元の、対立とも対比とも取れるふたつの違いで成り立っています。

従って、どうしても矛盾や葛藤、間に立つ悩みなどに苛まされることになります。

物事にはすべて理由があると考えると、現実世界が二元対立の表現でできているのなら、それを経験することが、私たちがこの世界にいる理由と考えることもできます。

つまりは、葛藤や悩みために生きるようなものです。(笑)

一方、ふたつの間の違いがあるというのは、確かにその間になって悩むことにはなるでしょうが、またそれにより、違いを知るということもできます。

禅問答のような話になりますが、「同じを知るために違いを知る」こともあるのです。

さらに、違いがあるからこそ、現実(の世界)では自分の立ち位置、スタイル、活かし方を知る(経験する)ことができます。(つまりは個性を知ることができます)

人と違って落ち込むことはあっても、反対に自分でしかできないこととか、この違いがあるからこそ「自分」でいられる、違いこそが自分であり、自らの励みになる、ということもあります。

個性」はつまるところ、バラエティ、多様さになりますので、違いこそが、たくさんの楽しみを味わえる世界にもなっているのです。

一方、人は共通点や同じ部分に共感することができ、癒されもするのですが、まったく自分と同じ人に励まされたり、慰められたりしても、実は気持ち悪いというか、心に響かないでしょう。

自分とは違う部分があるからこそ、その同じところに共感し、惹かれ、癒しを得るのです。

初めての外国で不安になっていた時、日本人に会ってほっとするみたいな感じです。周囲が外国人という異質な状況であるからこそ、同質が際だつのです。

ということで、結局、違いを体験しつつも、同じであることや、もっと簡単な言葉でいうと、全体の「愛」を知るということに、私たちの生きる意味のひとつがあると考えられます。

そこでその「違い」ですが、例えば、まじめな人と不真面目な人という括りがあります。

日本人の傾向としてルールや規則を守ったり、人のために頑張りすぎたりする傾向があるので、そういう意味での「まじめさの感じ」がある人が、最近はよくないように言われることがあります。

いわく、もっと気軽になってとか、ラフに考えればいいよとか、不真面目なほうが楽になって、周囲とも調和してくるからとかですね。

何事も行きすぎは問題ですから、確かにそれは一理あるでしょう。まじめ過ぎてうつになったり、体を壊したり、ネガティブな固まりになったりするのは問題です。

自分がアンバランスだからこそ、周囲もアンバランスな環境や人になっていると言えることもあります。

しかし、まじめな人は「まじめさ」という個性(違い)があるのも事実です。一種の天分の傾向みたいなものです。

これを無理に変えようとしても、また文字通り無理が生じ、壊れやすくなります。まじめさが悪いのではなく、自己の配分(バランスと認識、自己の尊重と愛の不足)に問題があるのです。

反対に不真面目と思われる人も、そういうアバウトで行動的なところが天分の個性でもあるのですら、細かくなろうとか、きっちりしようとかしすぎると、苦しくなるのも当然です。

それぞれのバランスは、それぞれの中のバランスであり、全員が同じ要素でもって、50対50のように当分に計測されるようなバランスではないのです。

Aさんにとっては、まじめさとラフさの比率が70対30でバランスされる場合もあれば、Bさんでは、まじめさ20、ラフさ80でもバランスなのです。

それととても重要なことがあります。

人の中には反転した要素があります。それは実は表よりも強いエネルギーを持つことがあるのです。

いわば表(表の個性)に見られるのは表面積が大きく、裏のものは面積は小さくても密度が濃いという感じです。

表がまじめな人は、実はとてもいい加減な部分が濃くあります。逆に表がいい加減に見える人の中には、非常にこだわったまじめな部分が存在しています。

その裏の部分はデリケートであり、下手に刺激すると、どちらの人にとっても、人間関係から自身の存在さえ危うくなることがあります。

しかしエネルギー密度が濃い部分なので、うまく活用すると、大きな変容を起こしたり、相手や社会にすばらしい影響を与えたりすることがあります。

本当はそちち(裏)のほうが、本人とっては本質であり、表は現実社会での役割・影みたいなものです。

だからまじめそうな人を見れば、本当はいい加減な人なんだと思い、不真面目そうな人は、すごくまじめな本質を持つ人なんだと思えば、意外に人を理解できることがあるのです。

ただ普通(現実表現で)は、まじめな人はやはりいろいろときっちりしていてまじめであり、不真面目でラフな人は、大胆かもしれないけれど、いい加減なところも多いということになります。

そうしたようにこの世はできており、皆がまったくすべて同じのコピーロボット人間であっては、動きも感情も色も出ない世界となります。

そして自分と人の違いに感情的になりすぎることと、下手に感情を殺したり、抑圧して愛を語ったりして取り繕うとすると、それは「現実によって操られた人」ということにになります。

重要なのは、違いや感情を楽しみながら、冷静に統合を志向(思考)していくことです。

ふたつの違いやエネルギーが統合すると、それは現実次元を超越する瞬間になりますから、統合は次元転移のチャンスになります。

マルセイユタロットにはそのようなことが描かれているのです。


マルセイユタロットの「愚者」の表す表現や人生

マルセイユタロットの「愚者」は、ほかのカードの中でも、特別なカードだと言えます。

何よりも、ほかの(大アルカナと呼ばれる)カードには、数がふられていますが、このカードだけ、数がありません。

数がないものがあるということは、逆に、タロットカードの「数」には、ある種の意味があることがわかります。

また数を持たない「愚者」というカードは、数の概念や数値性、規則性とでもいうべものからは逃れていることがわかります。

絵柄からも、旅人の姿をしていることで、移動性や自由性が示唆されています。

個人的には、「愚者」はあらゆる問題から脱出できる意味では、最高のカードだと感じますが、自由性と移動性が極まっているので、安定や形ということが強調される現実的観点からは、逆に不自由な存在、忌避されるべき事態、危険で異常な状態として見られることもあります。

どこか拠り所や居場所のようなものを求めていると、「愚者」にはなれず、反対に「愚者」であろうとすると、普通の感覚がわかりづらくなります。

では、このタロットが示唆する「愚者」性と、現実社会で生きる私たちは、どう向き合い、折り合いをつければよいのでしょうか?

簡単に言えば、時代や自分自身が動く時(変化する時)、私たちは「愚者」性を必要とし、通常時は「愚者」ではなく、ほかのカードの象徴性を意識するとよいと思います。

今の状況に閉塞感があり、何か変化させたい、変わりたいというような時は、「愚者」を自分に取り入れます。

現在は、時代自体が安定しているようで、実は流動的でもあるので、むしろ、「愚者」性は重要であり、必要となる人は多いのではないかと思います。

とはいえ、何か組織や基盤を作りたい、システムを構築したいという建設的な働きが求められる場合は、愚者性はなじみません。ただし、チームの中には、愚者的精神の人がいたほうがよいこともあります。

それから生き方に悩む人には、「愚者」は様々にヒントを与えてくれます。

もともと自由闊達な人には、そのまま「愚者」が心に住んでいる、その人自身が「愚者」を体現しているので、「愚者」を特別に意識することはいらないでしょう。

「愚者」的な心や生き方を呼ぶことが必要なのは、むしろまじめで固く生きて来た人、他者の評価を気にして過ごしてきたような人なのです。

言い換えれば、自分の中の子ども心を封印してしまい、大人として社会に必死でなじもうと努力してきたような人です。

そんな人は、意外にも、中年以降、ふとしたことで、自分の生き方について「これでよかったのか・・・」と悩み、インナーチャイルドのような、おきざりにしてきた自分の「子ども心」との葛藤を経験するようになります。

そうした「心の中の子ども」は、ここに来て自分の存在感を示そうとし、今の大人の自分との統合を果たそうと(最初は復讐でもあり、ダダをこねることでもあります)、もがいてきます。

そのような「子ども心」が、象徴としての「愚者」と言ってもよいでしょう。

いずれにしても、放置しているとつらくなりますので、犬とともに歩く「愚者」のカードように、子連れ(自分の中の子ども心とともに)で、旅立つことをしていきます。

それは、少しずつ、自分の本当にしたかったこと、生きたかった表現を出し、実現させていくことでもあります。

そうすることで、心に自由性を持ちつつ、責任も意識できる大人として、自身の統合を果たしていくことができます。

どちらかに偏ると、歪な人間として、自分も他人も苦しいことになるでしょう。

それから、先述したように、数を持たない「愚者」は移行性・移動性を示しますが、逆に言えば、どんな数になることもできる存在です。

自分の居場所を求めて孤独感を味わっている人は少なくありませんが、そんなもの(探し求める固定した居場所)はないと割り切り(笑)、「愚者」のようにさすらっても、今いるところ、今意識しているところが居場所なのだと思うことで、どこにあっても、どんな時でも、「自分の家」「自分の居場所」を意識することができます。

「今日の宿屋がオレの家」「アタシの居場所は毎日変わる宿屋なのよ」「地球が、宇宙が、私の家」みたいな感じです。(笑)

風来坊といえば風来坊ですが、自分の中の精神・魂こそが本当の安らぎであり、居場所であることが、「愚者」から学べるのです。

マルセイユタロットから見ると、ひとつところ、ひとつのものの思想や考え・思いに、自分のすべてがある(すべてを依存する)という風になることは問題だと言えます。

自分の中にある様々なエネルギー、性質に応じて、必要なところ、ふさわしい人物たちに導かれると見た方が良く、まさに自分の表現フィールドというものは、様々にあると考えたうほうが楽です。

「この人達とは、自分の中の「これ」を楽しもう」また、「自分の中の「あれ」はあの場所で楽しもう」というように、分けて考えるような感じですね。

「愚者」は数を持ちませんが、だからこそ、全部の数を持つともいわれ、それぞれの数に応じた表現を、その時その時の「数」のカードになって、自分を楽しませる存在であるとも言えましょう。

自分がこのような「愚者」になれば、人生は文字通り「旅」となり、苦しみも喜びも、「ひとつの流れ」として見ることができるでしょう。


今、不調や、悪い状況にいると感じている人に。

今 順調に行っている人は、今回のブログはあまり役に立ちませんので、飛ばしていただいていいかと思います。(笑)

しかし、現在調子の悪い人あまりいい流れではないように感じている人、理由がわからず得体の知れない、言いようのない不安に襲われている人などにとっては、少し参考になるかもしれません。

不調は精神的なことに限らず、身体的に現れている人もいるでしょう。(心身の不調は病的なこと、明らかな原因があることもありますので、きちんと調べることも大切です)

特に明確な原因はないものの、何となく奇妙な感じ・・・というものも入ります。

そこで、ここ最近、私自身も含め、そうした人が多いように感じたため、タロットを展開してみたのです。

その内容については、あとで披露するとしまして、不調であると感じている人に言いたいのは、それはすべての面からすると、半分、一面でしかないということです。

現実世界において、あらゆるものは変転していきます。それは周期やリズムと言ってもよいですし、宇宙の掟・万物の理みたいなものでもあります。

ですから、同じ(いい)状況というのは続かないのが当然です。山あれば谷あり、ひなたあれば影ありです。活発で順調に見える時もあれば、試練や準備に籠もらなければならない状態もあります。

ただ、人によって、その周期や流れに違いがあるのも、また個性と言えます。

ここで、単純な記号をお見せしたいと思います。

「∧」と「∨」です。

これを同じ形(山型)のものだけ連続させます。すると、

∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧

となり、これだけでも、間々に反対の記号の「谷型」が現れてくることがわかると思います。

では、谷型だけを連続させると、

∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨

となります。これも当たり前ですが、山型が間に登場します。

しかし、少しだけ、それぞれ間のものにはスペースがあって、山の時は谷が見えにくい、谷の時は山が見えにくいとも言えます。

それで、山型をいい状態、谷型を悪い状態としますと、いい時(山型)は悪い時(谷型)が見えにくく、反対に悪い時はいい時が見えにくいということになります。

つまり、悪い状況と思っている時は、なかなかいい部分が見えないのです。(その逆でもあります)

一方、山と谷を両方、重ねて連続させますと、書き方はひとつではありませんが、

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

こんな感じになるでしょう。

もし先が尖っていなく、半円形同士の組合せにすれば、

○○○○○○○○○○○○○○○○

のような円の連続ということにもなります。

何が言いたいのかと言いますと、私たちは、なかなか両面を見る(感じる)ことができないということです。

山型だけ、谷型だけで連続させても、それはそれぞれひとつの波形であり、その波形におけるあるリズムや周期、世界を示していると考えられます。

その波形の世界の山と谷で、いい・悪いというような、運気のようなものを感じると言ってもいいでしょう。

しかし、もうひとつの逆の波形の世界もあり、それは見えづらくとも、存在しているかもしれないのです。むしろあると言ったほうがいいでしょう。

なぜならば、円で表したように、この世界は本当は完全なもの(反面ではない)ということが、タロットや、その他象徴的な世界観では示されているからです。

私たちは、山や谷の世界をジャンプしたり、移動したりしながら、その時その時で、片面だけを生きている(認識している)ようなものなのです。

ですから、逆の波形の世界がわかる何かがあれば、中立的・円的なものとして感じられ、いいも悪いもなくなり、特に不調だと感じている心境を脱することができるでしょう。

それでは、最後に、タロットを展開して私が感じたメッセージを簡単に書かせていただきます。

「あなたは今、大いなる移行期に来ています。自分の中の真実で神性的なものが目覚めようとしており、それは偽りの自分から長く抑圧され、隠されてきたものでもあります。そのため、それを開くことは、開腹手術にも似た痛みや、実際に物理的・肉体的レベルでの損傷、損害、不調が現れてくることもあるでょう。その現れる箇所は、あなたにとって、今までも苦労してきた場所です。

しかしながら、奥深くであなたの見えない体の組み替えと変換が行われつつあり、抵抗せず、自分の神性に身を任すことです。気をつけていれば、天使的なものとして、実際の人間の援助や、セラピー、治療方法としての縁がもたらされることに気づくかもしれません。

人間関係においては、互いを認め合い、他人によって自愛を認識する段階は終え、もっと様々の面から自分を愛し、他人を愛し、世界や宇宙を愛する術(すべ)を知ることになるでしょう。人にふりまわされず、自分が開かれた大きな世界に歩み出す時です。

ただ、それは現実離れしたものではなく、きちんと物理的・現実世界に根を下ろし、自分の内に輝くものを実際的に表現していくことです。形として、転職、仕事の変化・変容、移住、生き方や経済収入方法の大きな転換ということで現れてくる可能性があります。

あなた自身で生きようと決意する時、大いなるもの(それはまた、別のあなた自身でもあります)は天使的エネルギーと存在をもって、あなたをサポートしていくことでしょう。恐れず、そして必死になり過ぎず、気持ちを楽にして、これからを進みましょう」


タロットの先生を選ぶ

学び」には、いろいろな区分がありますが、そのひとつに、自力と他力、自分一人で学ぶ独力の場合と、先生や指導者から学ぶ場合とがあります。

一人と他人という分け方では、マンツーマンとグループということも言えますね。

タロット学習においても、当然、そうした区分は適用されます。

何事もそうですが、タロットでも、やはり独力で学ぶというのは大変だと思います。

特にマルセイユタロットの場合、口伝に関係することが多く、さらに日本の文献も限りなく少ないので、なおさらです。

逆に、(日本で)メジャーなタロットやカード類は、それだけ本や情報もたくさんありますので、独力で学ぶ環境は整っているのかもしれません。もちろん先生の数も種類も多いことでしょう。

ある面、選り取り見取りなのですが、反面、選択が難しくなることもあります。

タロットを誰か先生について学ぶ利点は、「まなぶ」が「まねぶ」から来ているという説もあるように、先生をお手本として、リーディングや占いの技術を早く身につけることができるという点があるでしょう。

わからないところも聞けますし、システマチックに教えていらっしゃる先生もおりますので、誰がやってもある程度の学習効果が出るようになります。

何よりも、独力は自分の強い意志と計画性が必要ですが、先生や学校的なところで学べば、カリキュラムもお膳立てされていて、自動的に学びが進むようになっています。

反面、たくさんの生徒さんと一緒になることもあるのと、オートマチックに行われる授業の中では、自分の個性に応じた学び方はできにくい面もあるかもしれません。ただそれもマンツーマン授業など、時に応じて選択すれば済むことです。

以上のようなことで、やはりタロットにおいても、先生についたり、学校に入ったりして学ぶことをお勧めしたいです。

まあ、これは私がタロットの講師だからというのではなく、純粋に自分の(学習の)経験も含めて、そう思うから述べています。

ついでにどのようなタロットの先生を選べばよいのかについても、簡単に記したいと思います。

まず、自分がタロットをどう思っているのか、そしてどう活用したいかということが、先生を選ぶうえでとても重要です。

タロットを使う占い師になりたい、タロットで自己を高めたい、癒しやヒーリングの仕事に活かしたいなど、いろいろとあると思います。

当然のことですが、その自分の目的を実現している、あるいは理想としているタロットの先生を選ぶべきです。

先生のやっている、または表現しているタロットを通しての活動と、自分の目指しているものが著しく違っているのは、勉強していても腑に落ちなかったり、自分の学びたいこと・知りたいことと違うという幻滅のもとになったりします。

次に、自分の興味のあるタロットの使っている先生を選ぶのが、やはりいいでしょう。

ウェイト(ライダー)版が好きなのに、マルセイユ系の先生を選択しても、違和感が激しいでしょう。その逆もしかりです。要する自分の好きなタロットを(メインで)使う先生が相性もいいのです。

ただあえて別のタロットを学びたいということならば別です。「カード類は全部好き」という人もOKでしょう。

そしてよく問題になるのが、先生の人格・人間性はどうかという点です。

これも実は、自分の目的によります。

あくまでタロットの知識や技術を身につけることが最大の目標であるならば、先生の人間性や人格は問わない方がいいです。割り切って別で考えましょう。

極端な場合では、医者のケースで考えみるとよいでしょう。

「やぶ医者」だけれど「人がいい医者」を選ぶか、「腕は確か」だけれども、「人としては最低な医者」を選ぶかです。(笑)

しかし、医者の選択は生死に関わりますが、タロットの選択はそんなことはないですから、もっと人間性・精神性のウェートは高くしてもいいと思います。

特に、学びの最中、その後においても、先生と人間的おつきあい、指導を頼みたい、そうしたものを求める人は、人間性・人格も重視したほうがよいです。

と言っても先生も人間です。タロットや占いの世界では、やや変わった人が多いですから、その先生も、普通ではない(笑)ことは思っておいたほうがいいでしょう。

完璧な人などいませんし、どの先生もあなたから見て、長所と思えるところ、短所と思えるところはあります。理想的に見過ぎないようにしてください。

実は、先生も生徒さんによって成長できるところは大きいのです。

結局のところ、先生や師自体を目指すのではなく、その先生・師たちが目指している(いた)境地・理想を、あなたも共感できるか、目指したいと思うかということになると思います。

マルセイユタロットでいえば、「法皇」とその視線の先を観察してみましょうということです。

先生の書いたもの、発信したもの、表現しているもの、学んでいる生徒さんたちの雰囲気・質(善し悪しではなく、自分と異質過ぎないかどうかということ)などよく見て、「この先生とフィールドならば、自分に合っている」と思えば、あなたにとってよい選択になると思います。

有名な先生を選ぶのか、有名なことにはこだわらないのかも、あなたの目的と選択次第です。

埋もれているいい先生もいれば、有名な人にはそれだけのパワーとシステムも整っています。

いろいろと書きましたが、そもそもタロットを学ぼうと思う最初のうちは、目的もタロットの種類などについても知らなかったり、決めていなかったりすることは普通です。

ということは、やはり縁によるところは大きいということになります。

「軽く趣味でタロットでも・・」と思っていたのに、生涯の先生・友人に出会えたとか、深くタロットに魅了されたとか、そういうケースはたくさんあります。

迷ったら、タロットを語る時の、その先生の雰囲気を感じればよいでしょう。先生から、その先生の扱っている「タロット愛」「タロット好き」の雰囲気が伝わってくるかどうかです。キラキラとしたものを感じられればOKです。

あなたにとって最初の先生というのは、いろいろな意味でインパクトがあり、影響を及ぼすことが多いです。別の先生にその後、習うようなことになってもです。

ということで、最初の先生は、あなたをタロットの世界に誘う代理人であり、重要な役割があるのです。

でもそれほど慎重に選ぶ必要はなく(選んでももちろんよいのですが)、やはり、あなたがタロットに興味をもって習いたいと思った時点から、縁で導かれて行きます。


結局、自分のために生きている。

今回はいろいろ考え込んでしまうタイプの人に、単純な、でも実はちょっと面白い話をします。

皆さんも、一回くらいは「自分はなぜ生きているのだろう」「何のために人生があるのだろう」というような、一種の哲学的とも根源的とも言えるテーマで悩んだことはあると思います。

私など、結構、探求好きな性格のため、かなーり昔からこういうことを考えていました。

思い出すと、幼稚園時代、いやもっと幼い頃の時の記憶でも、そういうことを考えていたものがかすかに出てくるくらいです。

例えば幼児の頃、三輪車に乗っていて、外でダンプカーにひかれそうになったことがあるのですが、その瞬間、なぜか大人びた風に「人生の意味」を知ろうとしたことが浮かんだ記憶があるのですね。

ということで、多感な思春期はもとより、大人になった今も、こういうタロットを仕事にしていることもあって、常にこの思いはあるという感じです。

ただ、このような悩みやテーマに答えが出るものではなく、出たとしても、個人的のものであって普遍的なものにはなり得ず、さらには一度出した答えでも、知識や経験が増えると、もっと適切な答えを求めて悩むこともあります。

そうした中で、様々な答え(のレベル)を自分にもたらせてきたのですが、そのひとつに、「結局、誰もが自分のために生きている」というものがありました。

よく、「誰のための人生か?」という問いをされて、自分を生きていないことへの注意やアドバイスがなされることがありますが、この場合は、自分と他人を分けて人生を考えているわけですね。

人に媚びたり、自分を抑圧したりして、本当の自分の望むべき人生を、主体的に歩んでいない特には、こうした問いがテーマとされます。

ですが、改めて、他人のために生きるとはどういうことなのかを考えてみましょう。

それは、自分を犠牲にして人にのために尽くすとか、奴隷のように人のために奉仕するということかもしれません。

これは確かに自分の意志(希望・願望)ではないかもしれません。

しかし、自己犠牲的に人のために生きていたとしても、それはつまるところ、自分の選択であり、そうしたいからしているという部分も完全否定できません。強制ではあっても、選ぶのは自分です。(逃げられない状態の場合も、やはり選択するのは自分です)

やりたくはないけれど、自分が生きるため、自分(や守りたい人)を守るためには仕方ないということではあるでしょうが、その選択は「そうしたい」から「そうしている」ということも言えるのです。

いや、「やっばりしたくないのにさせられていることもある」と思うかもしれませんが、そのように感じられる人でも、自分のために選択している、自分のために行っているという視点からは逃れられないでしょう。

つまり、どんな行動、生き方をとっても、最終的には人のためではなく、自分のためにしているということを言いたいわけです。

他人のためになると思って取る行動も、それによって自分のある部分が満足するからであり、自分をまったく切り離して、人のための行動を取ることはできません。

ということがわかれば、話はシンプルです。

あなたが、「私は誰のために、何のために生きているのか?」「今、こうしているのは自分のためになっていないのではないか?」「人生を無駄に過ごしているのではないか?」と悩み、後悔しても、結局、さきほど述べたように、誰もが自分のために生きている(選んでいる)ので、何をやっても自分のためになっているという話なのです。

誰かのために生きても、それは誰かにのために生きるという選択をした自分を生きているわけですね。

ところで、人生においてのとらえ方は、大きく二種類あると考えられます。

ひとつは、成長や発展のために(これは個人と全体というふたつの観点があります)生きているというもの、そしてもうひとつは経験や遊びとして生きているという考えです。

前者であれば、生きることはすべて学びとなり、人生における選択も、生き方も、それぞれ意味あるものとなり、気づきが多く、学びと成長が促進できる人生のほうがよいかもしれません。

後者の場合、言わば、存在していること、生きていることそのものが目的ですので、選択や生き方の問題はほとんど関係なく、いかにレジャーランドや恐怖の館(笑)のように、経験的に楽しめるかが重要となります。

今回述べている「みんな、結局、自分のために生きている」と取る考えは、後者のものに近くなります。

後者になると、生きたいように生き、好きなように生き、のたれ死のうが、成功しようが、それもビバ!人生体験ということで、マルセイユタロットでいえば愚者的楽観の姿勢です。

人生に疲れたり、いろいろなことでつらくなったら人生体験説を選び、前向きだったり、学習心・向上心が出たりする時は、人生成長説で考えるとよいでしょう。

また逆で考えることもでき、苦しい時・つらい時こそ、人生は学びであり、成長のためにあると考えると意欲が出ますし、向上心あふれる時でも、力を抜いて、人生は体験することに価値あると思えば、好奇心が衰えず、楽しく知識や技術を身につけたり、趣味を楽しんだりできます。

個人的には両方の次元を生きる「複数の自分」がいると思っています。これもマルセイユタロットから得られた考察ですね。


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