迷った時に
タロットに選ばれている・選ばれていない感
私のタロット講義を受けていただいた方には、受講者間の交流や情報交換の意味も込めて、アフターフォローにもなるクローズドの掲示板を設けています。
掲示板にはいろいろな意見やリーディング結果、質問が書かれていて、私自身もモノの見方の勉強になります。
さて、そんな中で、最近話題になったのが、「自分はタロット(マルセイユタロット)に選ばれているかどうか?」というテーマでした。
これは別にタロットに限らず、自分が学んでいるものや、選択した仕事、時には、つきあったり、関係したり、尊敬したりする人からも「自分は選ばれているのだろうか?」と悩む時はあると思います。
ちょうど、子供が自分の親に愛されているのかどうかと不安に思う気持ちにも似ているように感じます。
「いや、大丈夫、あなたは愛されている、選ばれているんですよ」と誰かに言ってもらえれば納得するのかもしれませんが、結局、これは自分の感覚なので、他人からとやかく言われても、腑に落ちないことがあるわけです。
しかし、同時に、自分だけでは確信が得られないので、他人の意見(客観的なもの)によって、「あなたは選ばれているんじゃない?」「あなたは○○から愛されているわよ」と、言ってもらいたいという気持ちもあるでしょう。
要するに、自分であれ、他人であれ、自分が気になっている(気に入っている)もの(あるいは人)からは、「選ばれている感」を実感したいわけです。
しかし、ここで、そもそも論になりますが、「選ばれる」ということについて考えてみます。
「選ばれる」という言葉をよく見た場合、それは文法的に受動型です。つまりは受け身なのです。
ということは、自分は主体ではありません。何か、あるいは誰か、外のものが主体となっていて、それが自分を選ぶのだという発想になっているわけです。
もし「神から選ばれる」という言葉を述べた場合、その「神」は外にいる神です。何か自分とは別の絶対的な存在で、自分や世界の運命を操っているものというイメージにもなります。
決められた運命に従う者のように、ただ自分が選ばれるのを待つだけの奴隷的存在にも見えます。
ところでマルセイユタロットにおいては、本来、グノーシス(自身の神性を認知する、認識して完全になる)という思想が流れていると私は考えています。
グノーシス思想の立場を取れば、神は外にはおらず、自分の内に存在することになります。
「選ばれている」という発想で見ている限り、自分の内なる神性の発動はなかなか起きないと考えられます。
自分が主体となること、これが非常に大切です。
またマルセイユタロットでは、このことは「運命の輪」というカードにも関係してきます。
このカードの解釈も様々ですが、ひとつには、「運命」というものは自分が創っているうえに、ほとんどの人はその自分の創った運命のからくり自体も知らず、それに弄ばれている・翻弄されているというものがあります。
そういう状態(翻弄されている状態)の場合、まるで自分の外側に「運命」があり、それを与えたり、コントロールしたりする「運命の神」がいるというとらえ方になってきます。
その運命の神を招く、あるいは運命(よい運)を引き寄せようと、必死にもがくのですが、もがいてももがいても、完全にはうまく行きません。
たまにうまく行くことがあっても、なぜそうなるかの本質がわからず、そのうまく行ったパターンを繰り返そうとします。
それは、言わば、自分が写った鏡を見て、それを他人だと思っていちいち反応してしまう悪循環(幻想)に囚われている人物を想像させます。
では、「選ばれる」というのではなくて、「自分が選んでいる」という考え方をなるべくしたらいいんですね、ということになりそうですが、実は、これもまだ不十分です。
自分が主体であること、選ばれるのではなく、選ぶという意識は大切ですが、「選ぶ・選んだ」という意識が強すぎると、一方で、反対の「選ばれる・選ばれた」という思い・考え方に対しても関心が強く行ってしまうことになるのです。
光が強くなればなるほど、影もはっきりしてくるみたいな感じです。
つまり、「選ぶ・選ばれる」という二元的な考えの囚われが激しくなってしまうというおそれです。
もっと次元を上げていくには、選ばれるも選ぶも同じ、でも違う、どっちでもいい、みたいな状態になる(その二元が気にならない感覚になる)のがよいと考えます。
確かに、「選ばれる」と実感すると、モチベーションが上がったり、その対象や人に対して貢献感が増します。
ただし、反対に選ばれていない感を持ってしまうと、やる気を失ったり、選ばれるための思いと行動ばかりを重視し、本来の仕事や学びが疎かになる本末転倒状態になります。また宿命論や運命論に傾きがちです。
逆に「選ぶ」という主体感を持つと、自分が人生の主人公である感覚が強くなり、自分の選択が自らの人生を創造して行っているという爽快感も出てくるでしょう。
しかし、一方で、行きすぎると、何でも自分の思い通りになるというワガママ・自我肥大の危険性もあり、謙虚に自分や他人を見つめ、生かされている感覚、お陰様でという発想が疎かになりがちです。ひどい場合は狂信者やテロリスト、ヒトラーみたいになります。
とはいえ、「選ばれていない感」で悩んでいる人にとって、改めてこう問いたいものがあります。
それは「あなたは選ばれていなかったらそれをしないのですか?」「その人との関係をあきらめたり、つきあいをやめたりするのですか?」という質問です。
「それ(その人)が好きなら、それでいい」というのが、実は「自分が選ばれていること」だと気がつけば、とても心は楽に、楽しくなってくるでしょう。
あなたが選んだのなら、それは、あなたが選ばれたのと同意義なのが、この世の仕組みなのです。
マルセイユタロットの「恋人」カードはまた、そのことも示しています。
あなたの出会う「世界」
私の場合はマルセイユタロットとの出会いがそうでした。
「何が?」と言いますと、ある世界からの拡大や脱出のきっかけとなったもの、という意味です。
私はかつては地方公務員をしていたので、どうしても、人との出会いや交流、考え方に至るまでも、その(公務員的な)世界の中の範囲に留まっていました。
これは別に公務員に限らず、どんな仕事でも、どんな環境においても、自分が属しているところの世界が中心になってくるのは仕方ありません。
モノの見方やフィルターも、その世界からというものが大きくなります。
その世界で安住していくことは悪いことではなく、文字通り安定もしていくわけで、その世界であっても、自分に必要な経験と人生は築けていけるものと考えられます。
ですが、時に、その世界の中では息苦しくなったり、うまく適応できなくなったりすることが人にはあります。
そういう時は、その世界での適応や成長の努力がまだまだ足りなかったり、逃避的になったりしていることもありますが、一方で、やはりどうしてもなじめなかったり、違う世界での成長や移行が求められたりしていることもあると想像できます。
そこ(その職場や環境)にいたのは、何らかの理由があるはずで、決して無駄や悪いことではなく、プラスや経験による糧になったこともあるはずです。
学びということでは、確かにそこでなければならない学びが存在していたのです。
ところが、そのフィールドや世界での学び以上に、別のところでの学びが、あなたには必要なこともあるかもしれません。
だからこそ、本当にそう感じた時は、新しい世界へ飛び出してみるのもよいと思います。
そうすると、今までの世界の住人とは違った人との出会いと交流が待っています。
人を変えたり、成長させたりするのは、人によってが一番大きいと思います。だからこそ、交流する人が変われば、あなたも変わっていく可能性が高いのです。
ところで、マルセイユタロットにもまさに「世界」という名前のカードがありますが、それに描かれている中心の人物の周囲には、4つの生き物が存在し、中心人物を囲んでいます。
言わば、このひとつの生き物から見たあなた(中心人物)が、ある特定の世界(職場とか環境)にいる自分を示しているのです。
今度は、別の生き物から見た自分も確認してみるとよいでしょう。
そうすれば、あなた自身にある、その別の角度(生き物)から見たあなたの部分が活動してくるのです。(命をもってくる)
当然ながら、その命(エネルギー)に応じた世界の住人とあなたは会うことになり、交流も始まります。
私も公務員を辞めて、タロットの仕事をするようになってから、まるで違う世界に転移したかのように、出会う人、関わりをもってくる人が変わってきました。
間違いなく、公務無をそのまま続けていたら、おそらく生涯出会わなかったであろう人々ばかりです。
出会いというものは不思議なものです。
自分を中心に考えると、当然、自分の世界の中にいる人々しか出会いません。
そして出会う人側から考えると、やはりこちら側からも、その人の世界の中でしか出会えないのです。
今まである人と出会わなかったのは、その人と自分の世界がクロスしていなった(異質であった)からです。
SF的に言えば、あなたとその人は、今まで別の世界(並行世界・多重世界の中の別の時空間にいた)に住んでいたのです。
それが、どちらかが、どちらかの世界にシフト、あるいは両方が同じ世界に移行したので、出会うことになったと言えるでしょう。
まさに世界を変えたければ、あなた自身の世界、つまりあなたの環境を変えることがひとつの方法です。
その前には意識や思考、感情が世界への移動を刺激してきます。(従って、意識と実環境の両方のシフト・移行が、もっとも変化と出会いの可能性を高めます)
さきほどのタロットの「世界」カードでいえば、今まで「牡牛」で見ていた世界から、少しずつ他の生き物、例えば「獅子」とか「天使」とか「鷲」とかに移ってきたような感じです。
ひとつの「世界」の中で、全部の生き物体験をするか、「世界」自体を変えて、ほかの生き物のエネルギーを体現(復活)させるかは、あなたの選択次第と言えましょう。
どちらにしても、今のあなた以外のあなたの部分も存在しており、その部分を復活させ、再統合させることで、より充実した人間、本質に立ち戻った存在として、生きていくことができるでしょう。
「吊るし」とモラトリアム
今日は「吊るし」というカードを見て思ったことを書きたいと思います。
「吊るし」は、逆さまにひもで吊された人物が描かれているカードです。
ただ、マルセイユタロットでは、ひもでギュウギュウに縛られて、いわば「逆さ吊りの刑」にされているというわけではなく、ひもは緩くて、縛られているというより、自ら能動的にそのスタイルを取っているのではと解釈されます。(もちろん、いろいろな見方はあります)
そこで思いつくのが「モラトリアム」ということです。
モラトリアムという言葉自体は、もともと経済的な用語からのものですが、その後、精神的なことや、人間成長の過程として使われるようにもなりました。
意味的には遅延とか猶予を表し、あることが行われる前、何か激しいことと対峙する前、大人として成長する前などの、一定の猶予期間といったところでよく使用されます。
マルセイユタロットでは、この「吊るし」の数「12」の次に、「13」という数だけで表された、絵柄も極めて強烈なカードが登場します。
この「13(番)」が改革や大きな変化を意味することは絵柄からも明白で、そうして見ると、やはり「12」の「吊るし」は、「13」ということが敢行される前の、一種のモラトリアムを象徴しているのだと考えることもできます。
モラトリアムは、何か一人前になることや、責任を取ることから逃げているような印象も出ますが、モラトリアムの意味することは、悪いことだけとは限りません。
何事も両面の意味を持ちます。
逃避や待避も、自分を守る上では必要なことがあります。
人によって、モラトリアムは、いろいろな形、時期で現れます。
それはやはり一人一人、成長も個性も違うからです。置かれた環境、過ごしてきた経緯からも違ってきます。
ですから、一概に、何歳なったら社会に出て、大人として働かなければならないとか、結婚しなければならないとか、決められるものではありません。
モラトリアムなしで、いきなり無理矢理外に出されてしまったら、どこかでモラトリアムの代わりになる場所・時間を、外の激動(本人とにっては)の中で確保しなくてはならなくなり、それなくては、とてもエネルギーや精神の均衡が保てないのです。
しかし、まだ準備ができていないまま放り出されたようなものなので、外の環境で、そうした時間と場所を確保することは極めて難しいことになります。
そうして、やがて身体か心に変調を来し、強制的に自分をモラトリアム状態に戻すことが発生するのです。
ですから、むしろ意識的なモラトリアムは必要であり、それを経験せずして、外に出ることは時に危険さえ意味します。
モラトリアムは、形を変えた自己ヒーリングでもあり、環境的適応のための準備なのです。
また、モラトリアムを過ごして、いったん外に出てからも、また別の意味のモラトリアムが必要となってくることがあります。
新しい状態や状況、バージョンに適応するための、自身への一種のサナギ化の要求です。
モラトリアムと言っても、必ずしも、引きこもることや、何もしない状態がそうだとは言えません。
「猶予」ということなのですから、決断や選択を今はせず、とりあえず、「吊るし」のようにぶらさげておき、ペンド状態にしておく、あるいはグレー(白黒つけずに)として観察したり、時期が満ちるの待っておくというのも、ひとつのモラトリアムです。
マルセイユタロットでも言われることですが、自分を覚醒したり、成長させたりするのには、何も見た目が積極的な行動ばかりとは限らないのです。
この世の中は、昼もあれば夜もあり、光あれば影があります。人も好調もあれば不調もあり、景気も好不況があります。
このように宇宙は、ふたつの性質がひとつになって完全と言えるものです。(逆に言えば、ふたつの性質が必ずある世界)
ですから外に出ることもあれば、反対に中に引き籠もる時期もあり得ます。
成長のためには、片方だけではうまく行かないことがあります。いわば、モラトリアムは大なり小なり、誰にでもあることで、ないほうがおかしいのです。
覚醒や気づきにおいても同様で、積極的に意識を高くしたり、特別な場所に行ったり、教えを受けに行ったりする方法もあれば、逆に静かに一人籠もり、何もしないで力を抜いたり、極端に言えば、逃避のように堕落した状態に自分を置いたりすることで得られる場合もあり得ます。
活動的にしろ、モラトリアム的に消極的態度になるにしろ、どちらにしても、日常の意識とは違うものになる状態と環境になっていることが重要なのです。
タロットを使えば、自分のモラトリアム期間の見極めもできます。
必要以上のモラトリアムは、やはり成長ではなく、停滞を招き、傷を癒すどころか、逆に傷つきやすいもろい状態を生み出し、脱皮自体もできなくなります。
マルセイユタロットの「月」のカードは、そういった危険性も象徴しています。
モラトリアム卒業の見極めは、自分ではできない場合もあるので、タロットのような内面を象徴化できるツールを使ったり、誰かに相談して判断してもらったりすることは大切です。
それでも、モラトリアムというのは、子供や青年だけのものではなく、大人にも、状況とタイミングによって、様々な形で必要性を伴って起こる(必要とされる)ものだと思っておくと、ずいぶん楽になるでしょう。
なお、悪い意味でのモラトリアム脱出のきっかけには、モラトリアム期間に慣れた時に時々出現する違和感や異質感、シンクロニシティ、具体的にはいつもとは違う事、人、ネット情報との遭遇などのようなことで、出口・脱出時期が示唆されることがあります。
それを見過ごし、今のそのモラトリアム状態に執着すると、モラトリアムは幻想のまま現実のように強化されてしまいます。いわばループになってしまうということです。
「吊るし」のカードも、人物が完全に囚われている状態ではないことが絵柄で表現されています。
まさに「囚人」となるか、そうでないかは、出口があると思うか、ないと思うのか、はたまた出口を創造するかどうかによるのです。
人生の意味と長期的・短期的視点
イベントの予告をしておきます。来月、10月31日(土)に、関東でマルセイユタロットの体験会を開催いたします。場所は神奈川県藤沢市(藤沢駅近くの会場)になります。
またリーディングを希望されたい方がいらっしゃれば、別にお時間を11/1(日)にお取りすることもできます。ご希望の方はお問い合せください。
普段は関西で活動しておりますので、関東地方のブログ読者の方や、マルセイユタロットにご興味のある方は、この機会に是非お越しくたさればと存じます。
募集と詳細につきましては、後日お知らせいたします。
それから、秋期のマルセイユタロット基礎講座(ハイクラス)は、10月は中旬、あるいは下旬頃から開始する予定(3ヶ月6回コース)です。受講をご検討されている方は、今ならご希望のスケジュールを組むことも可能です。お問い合せください。
また個人講義やグループ講義、スカイプによる講座(個人)も随時受けておりますので、お問い合せいただければと存じます。
さて、本日の記事です。
精神世界やスピリチュアルを志向する(思考でもあります)人にとっては、比較的人生を長期的視点で見ることが多くなってきます。
そして、結局、人生は学びなのだとか、いいも悪いもないのだとか、どんなことであれ幸せを感じればいいのだとか、結果より経験することに意味があるとか、さらには究極的には、もともと自分も何もなく「幻想」の中で生きているだけだから、人生の意味を考える必要もない・・・というような考え方になることがあります。
簡単に言えば、達観した感じとでも言えるでしょうか。
ただ、そうは言っても、毎日私たちは現実として、生身の感覚で、リアル(と思える)問題・課題に対処し生きています。
時には放置できない緊急的なことも生じます。
最近は食べなくても生きられるような人もいらっしゃるようですが、普通は何かを食べていないと生きることができませんから、そうした切実な「食べる(生きる)ための問題」もあります。
言って見れば、その日その日、つまり短期的には、達観したり、鷹揚に構えたりして暮らすことは難しいわけです。
さて、視点を変えまして、マイナスよりもプラス面で見てみます。
そうすると長期的な観点では、ある目的を達成することや、何が一番いいことなのかという「選択」に関しては、あまり意味をなさなくなります。
例えば、よい会社に入って良かったと思っていても、10年後にその会社が倒産してしまい、路頭に迷ってしまうということもあるわけです。
でも、その後、起業して成功したとなれば良かったように見えますが、起業の際に家族ともめて夫婦離婚し、成功したものの孤独な日々を送ることになったということでは、悪いようにも見えます。
ところが、その孤独を癒そうと、成功したことの社会貢献の意味も込めて、グループホームみたいな施設とシステムを提供したところ、仲間やパートナーと巡り会えて充実できた・・ということになれば、また「良かったね」ということにもなります。
「人間、万事塞翁が馬」のことわざの通り、長期的視点に立てば、何がいいのか悪いのか、それはあとでわかったとしても、短期的、その時その時ではわからないものです。
ですからスピリチュアル的にも、人生はよいも悪いもない、どんな選択をしても、神目線に立てば、本人なりにいつもベストなのだということも言える可能性があるわけです。
では、短期的視点に立つことは問題なのでしょうか?
人生、プラスもマイナスもないとするのなら、ある目的を設定して努力することは、一見無駄のようにも思えます。どう転んでも、いいも悪いもないのですから。
しかし、短期的なことでこそ、リアル・現実という、私たち、それぞれの人生ゲームでワクワクし、感情が揺さぶられる経験をするチャンスとなるのです。
時間限定・フィールド限定という設定は、ゲームをする者が興奮するうえでの重要なお約束、決まり事です。
「黒ひげ危機一髪ゲーム」みたいに、時間が来ると爆発してしまうこと、さらにナイフで「当たり」を引いてもドカンとなる恐怖を思いながら、ナイフをひとつひとつ樽に刺していくドキドキ感と興奮は、短期的な決まり事・ルール・束縛があるからこそ味わえるものです。
人生全体に長期的な目標を設定してもよいのですが、ゲームとして見た場合、むしろ短期的に、例えばある年齢までとか、この一年とか、この職場でとか、時間とフィールドを決めて、具体的に「なになに」の結果を出すという具合にしたほうが、人生に面白味が出るのです。
そもそも、喜怒哀楽の感情を味わうこと、そして同時に、その感情に振り回されて人生ゲームを台無しにしないようにするという、真逆の「楽しみ」を経験するのが、大きな意味での人生の目的のひとつだとも考察されますので、長期的視野とともに、短期的視点と設定、ある目的を達成しようという行動も必要だと言えます。
さらに付け加えれば、長期的には効率や近道、唯一のベストな選択というものは存在しないと言えますが、短期的・具体的なことには、反対に効率ある道、ベストだと言える方法もあると考えられます。つまり自分の選択が重要な意味を持つのです。
このあたりは、マルセイユタロットでは「恋人」カードと「神の家」もしくは「審判」との関係で象徴化されていると言えるでしょう。
あなたが何をやっても、どれを選択しようと長期的・神的にはすべて祝福といえますが、短期的・具体的(現実的)には、いい・悪いとか、効率ある・なしとか、最短とか遠回りとかの二元でジャッジされることがありうるわけです。
そしてどちら(長期的・短期的)の視点も、私たちの人生においては必要なものなのです。
かなり落ち込んだ時、どうにも迷い迷って道がわからなくなった時などは、長期的視野に立ち、無駄に人生を過ごしていると感じたり、何かを達成したいと思ったり、自分の価値を成果・形として見たい、出したいと感じたりした時は、短期的な視点でもって行動するとよいでしょう。
離れることでわかるもの。
神様は矛盾することがお好きなのか、この世の中はシンプルなようでいて、へそ曲がりなところもあるように思います。
そのひとつとして挙げられるのは、自分の本当の気持ちや、本当に向いているもの、大切なもの、使命的なものを知るために、あえてそれらから離れてしまうという試練・テストがあることです。
もちろん最初から最後まで、スムースに本命と出会い、過ごしていく、感じていくことができる人もいるでしょう。
しかし、よく恋愛ドラマなどであるように、つきあっていた人と別れたあとや、その人を失って初めて、自分がその人物のことを好きだったことがわかるというようなパターンがあります。
天職のような仕事や、自分が生涯かけて取り組むのようなこと(の発見)も、これと似たようなことがあります。
自分が離れようとしても、またそのことに戻されたり、別のことをしていても、やはりもとのことが気になる、あれが好きだったんだと気づいたりすることがあります。
私の場合でも、マルセイユタロットに出会ったのは偶然と言えますが、一度マルセイユタロットに惚れて(苦笑)これを扱う仕事をしていこうと決意したものの、諸般の事情でマルセイユタロットから離れなければならないことも幾度かありました。
しかしその度にマルセイユタロットに戻ってくる、いや戻されるような出来事があったのです。
まあ、自分の表面的な思いが、実は深い意識まで浸透していて、それに引きずられているために、何をやっても強い意識(表と裏にあるもの)の関心のある事柄に向かって、環境や行動を自らが整えてしまうということも考えられます。
どちらにしても、それだけ自分の表裏の意識に強い影響と刻印もたらすものであるということは間違いないわけです。
と考えれば、やはりそこに働く縁と言いますか、自分とのそのものへの特別な関係が存在すると言えなくもありません。
いずれにしろ、離れようとしても離れられないものや人には、特別な縁があると想像できます。
ただ縁と言っても、よい縁もあれば、くされ縁もありますが。(笑)
しかしながら、離れてわかる、やめてみて本当のことがわかるという現象は、自分を知る意味でも、自らの人生を充実させるためにも、無視できないところがあります。
自分にとってそれが本当に重要で大切なものかどうか、あるいはいい悪いにかかわらず、特別な強い縁が働いているかどうか知りたければ、一度そのことから離れてみる、継続を止めてみる、別のことをやってみるなど試すとよいわけです。
中途半端にジビジビと続いている関係・状態のものこそ、思い切って別の方向にシフト(舵を切る、離れてみることを)してみましょう。
マルセイユタロットでいえば、「13」のカードなどがイメージできます。
そうして離れたことにより終わってしまうもの(復活がないもの)は、それまでだったと思うことができますし、それでもまた縁が生じるようなことがあれば、何か赤い糸のようなもので結ばれているのかもしれません。
離れるとよいことは、離れる、終わるという行為で、必ずなにがしかの変容が促されることです。
復活がないのなら、次の別のものに向かうことができますし、そのサイクル(終わって新しいものが始まる、新しいものと出会うサイクル)も加速されます。
モノを思い切って捨てれば、その分スペースができ、新しいモノを入れることができるように、全体の変化は早く(速く)なります。捨てていなければ、現状維持が長引くわけですから。
それからもうひとつ、離れたり、捨てたりすることで大切なのは、自分が絶対必要だと思っていた思考・感情のパターンを破壊することができるという点です。
「もし、それがなくて、どうしても手に入らない時、あなたはどうしますか?」と問われない限り、それがないことへの思いにはなかなか至りません。
しかし、実際にモノや人がなくなって、その時は苦しく大変なことであっても、いわば固定観念が破られることになり、新しい道が開けたり、新世界に移行できたりするチャンスでもあるわけです。
危機やピンチがチャンスを生み出すのと同様です。
普段考えもしないことに、実は大きな可能性が隠されていることがあります。
執着に近い感じで、あるモノや人にこだわりをもっている時、本当にそれがあなたに必要なのか、あるいは自分にとって真の価値があるものなのか、今一度、「捨てる、離れる、やめる」ということを想像したり、実行したりして、考え直すとよいでしょう。
ブラッシュアップという言葉がありますが、何かを光らせたり、純度を上げるためには、不純物と混じっている状態を研磨する必要があります。
磨くということは、磨いてそぎ落とす(捨てる)ことも含まれるわけで、象徴的ですが、金を作るための錬金術的な過程でも、言えることです。
それがいわゆる「試練」として現実の事柄で起こります。
好きだけど離れなければならない時、それはあなたにとっての「金」を取り出す作業に入っている場合もあるのです。