迷った時に

今、不調や、悪い状況にいると感じている人に。

今 順調に行っている人は、今回のブログはあまり役に立ちませんので、飛ばしていただいていいかと思います。(笑)

しかし、現在調子の悪い人あまりいい流れではないように感じている人、理由がわからず得体の知れない、言いようのない不安に襲われている人などにとっては、少し参考になるかもしれません。

不調は精神的なことに限らず、身体的に現れている人もいるでしょう。(心身の不調は病的なこと、明らかな原因があることもありますので、きちんと調べることも大切です)

特に明確な原因はないものの、何となく奇妙な感じ・・・というものも入ります。

そこで、ここ最近、私自身も含め、そうした人が多いように感じたため、タロットを展開してみたのです。

その内容については、あとで披露するとしまして、不調であると感じている人に言いたいのは、それはすべての面からすると、半分、一面でしかないということです。

現実世界において、あらゆるものは変転していきます。それは周期やリズムと言ってもよいですし、宇宙の掟・万物の理みたいなものでもあります。

ですから、同じ(いい)状況というのは続かないのが当然です。山あれば谷あり、ひなたあれば影ありです。活発で順調に見える時もあれば、試練や準備に籠もらなければならない状態もあります。

ただ、人によって、その周期や流れに違いがあるのも、また個性と言えます。

ここで、単純な記号をお見せしたいと思います。

「∧」と「∨」です。

これを同じ形(山型)のものだけ連続させます。すると、

∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧

となり、これだけでも、間々に反対の記号の「谷型」が現れてくることがわかると思います。

では、谷型だけを連続させると、

∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨

となります。これも当たり前ですが、山型が間に登場します。

しかし、少しだけ、それぞれ間のものにはスペースがあって、山の時は谷が見えにくい、谷の時は山が見えにくいとも言えます。

それで、山型をいい状態、谷型を悪い状態としますと、いい時(山型)は悪い時(谷型)が見えにくく、反対に悪い時はいい時が見えにくいということになります。

つまり、悪い状況と思っている時は、なかなかいい部分が見えないのです。(その逆でもあります)

一方、山と谷を両方、重ねて連続させますと、書き方はひとつではありませんが、

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

こんな感じになるでしょう。

もし先が尖っていなく、半円形同士の組合せにすれば、

○○○○○○○○○○○○○○○○

のような円の連続ということにもなります。

何が言いたいのかと言いますと、私たちは、なかなか両面を見る(感じる)ことができないということです。

山型だけ、谷型だけで連続させても、それはそれぞれひとつの波形であり、その波形におけるあるリズムや周期、世界を示していると考えられます。

その波形の世界の山と谷で、いい・悪いというような、運気のようなものを感じると言ってもいいでしょう。

しかし、もうひとつの逆の波形の世界もあり、それは見えづらくとも、存在しているかもしれないのです。むしろあると言ったほうがいいでしょう。

なぜならば、円で表したように、この世界は本当は完全なもの(反面ではない)ということが、タロットや、その他象徴的な世界観では示されているからです。

私たちは、山や谷の世界をジャンプしたり、移動したりしながら、その時その時で、片面だけを生きている(認識している)ようなものなのです。

ですから、逆の波形の世界がわかる何かがあれば、中立的・円的なものとして感じられ、いいも悪いもなくなり、特に不調だと感じている心境を脱することができるでしょう。

それでは、最後に、タロットを展開して私が感じたメッセージを簡単に書かせていただきます。

「あなたは今、大いなる移行期に来ています。自分の中の真実で神性的なものが目覚めようとしており、それは偽りの自分から長く抑圧され、隠されてきたものでもあります。そのため、それを開くことは、開腹手術にも似た痛みや、実際に物理的・肉体的レベルでの損傷、損害、不調が現れてくることもあるでょう。その現れる箇所は、あなたにとって、今までも苦労してきた場所です。

しかしながら、奥深くであなたの見えない体の組み替えと変換が行われつつあり、抵抗せず、自分の神性に身を任すことです。気をつけていれば、天使的なものとして、実際の人間の援助や、セラピー、治療方法としての縁がもたらされることに気づくかもしれません。

人間関係においては、互いを認め合い、他人によって自愛を認識する段階は終え、もっと様々の面から自分を愛し、他人を愛し、世界や宇宙を愛する術(すべ)を知ることになるでしょう。人にふりまわされず、自分が開かれた大きな世界に歩み出す時です。

ただ、それは現実離れしたものではなく、きちんと物理的・現実世界に根を下ろし、自分の内に輝くものを実際的に表現していくことです。形として、転職、仕事の変化・変容、移住、生き方や経済収入方法の大きな転換ということで現れてくる可能性があります。

あなた自身で生きようと決意する時、大いなるもの(それはまた、別のあなた自身でもあります)は天使的エネルギーと存在をもって、あなたをサポートしていくことでしょう。恐れず、そして必死になり過ぎず、気持ちを楽にして、これからを進みましょう」


タロットの先生を選ぶ

学び」には、いろいろな区分がありますが、そのひとつに、自力と他力、自分一人で学ぶ独力の場合と、先生や指導者から学ぶ場合とがあります。

一人と他人という分け方では、マンツーマンとグループということも言えますね。

タロット学習においても、当然、そうした区分は適用されます。

何事もそうですが、タロットでも、やはり独力で学ぶというのは大変だと思います。

特にマルセイユタロットの場合、口伝に関係することが多く、さらに日本の文献も限りなく少ないので、なおさらです。

逆に、(日本で)メジャーなタロットやカード類は、それだけ本や情報もたくさんありますので、独力で学ぶ環境は整っているのかもしれません。もちろん先生の数も種類も多いことでしょう。

ある面、選り取り見取りなのですが、反面、選択が難しくなることもあります。

タロットを誰か先生について学ぶ利点は、「まなぶ」が「まねぶ」から来ているという説もあるように、先生をお手本として、リーディングや占いの技術を早く身につけることができるという点があるでしょう。

わからないところも聞けますし、システマチックに教えていらっしゃる先生もおりますので、誰がやってもある程度の学習効果が出るようになります。

何よりも、独力は自分の強い意志と計画性が必要ですが、先生や学校的なところで学べば、カリキュラムもお膳立てされていて、自動的に学びが進むようになっています。

反面、たくさんの生徒さんと一緒になることもあるのと、オートマチックに行われる授業の中では、自分の個性に応じた学び方はできにくい面もあるかもしれません。ただそれもマンツーマン授業など、時に応じて選択すれば済むことです。

以上のようなことで、やはりタロットにおいても、先生についたり、学校に入ったりして学ぶことをお勧めしたいです。

まあ、これは私がタロットの講師だからというのではなく、純粋に自分の(学習の)経験も含めて、そう思うから述べています。

ついでにどのようなタロットの先生を選べばよいのかについても、簡単に記したいと思います。

まず、自分がタロットをどう思っているのか、そしてどう活用したいかということが、先生を選ぶうえでとても重要です。

タロットを使う占い師になりたい、タロットで自己を高めたい、癒しやヒーリングの仕事に活かしたいなど、いろいろとあると思います。

当然のことですが、その自分の目的を実現している、あるいは理想としているタロットの先生を選ぶべきです。

先生のやっている、または表現しているタロットを通しての活動と、自分の目指しているものが著しく違っているのは、勉強していても腑に落ちなかったり、自分の学びたいこと・知りたいことと違うという幻滅のもとになったりします。

次に、自分の興味のあるタロットの使っている先生を選ぶのが、やはりいいでしょう。

ウェイト(ライダー)版が好きなのに、マルセイユ系の先生を選択しても、違和感が激しいでしょう。その逆もしかりです。要する自分の好きなタロットを(メインで)使う先生が相性もいいのです。

ただあえて別のタロットを学びたいということならば別です。「カード類は全部好き」という人もOKでしょう。

そしてよく問題になるのが、先生の人格・人間性はどうかという点です。

これも実は、自分の目的によります。

あくまでタロットの知識や技術を身につけることが最大の目標であるならば、先生の人間性や人格は問わない方がいいです。割り切って別で考えましょう。

極端な場合では、医者のケースで考えみるとよいでしょう。

「やぶ医者」だけれど「人がいい医者」を選ぶか、「腕は確か」だけれども、「人としては最低な医者」を選ぶかです。(笑)

しかし、医者の選択は生死に関わりますが、タロットの選択はそんなことはないですから、もっと人間性・精神性のウェートは高くしてもいいと思います。

特に、学びの最中、その後においても、先生と人間的おつきあい、指導を頼みたい、そうしたものを求める人は、人間性・人格も重視したほうがよいです。

と言っても先生も人間です。タロットや占いの世界では、やや変わった人が多いですから、その先生も、普通ではない(笑)ことは思っておいたほうがいいでしょう。

完璧な人などいませんし、どの先生もあなたから見て、長所と思えるところ、短所と思えるところはあります。理想的に見過ぎないようにしてください。

実は、先生も生徒さんによって成長できるところは大きいのです。

結局のところ、先生や師自体を目指すのではなく、その先生・師たちが目指している(いた)境地・理想を、あなたも共感できるか、目指したいと思うかということになると思います。

マルセイユタロットでいえば、「法皇」とその視線の先を観察してみましょうということです。

先生の書いたもの、発信したもの、表現しているもの、学んでいる生徒さんたちの雰囲気・質(善し悪しではなく、自分と異質過ぎないかどうかということ)などよく見て、「この先生とフィールドならば、自分に合っている」と思えば、あなたにとってよい選択になると思います。

有名な先生を選ぶのか、有名なことにはこだわらないのかも、あなたの目的と選択次第です。

埋もれているいい先生もいれば、有名な人にはそれだけのパワーとシステムも整っています。

いろいろと書きましたが、そもそもタロットを学ぼうと思う最初のうちは、目的もタロットの種類などについても知らなかったり、決めていなかったりすることは普通です。

ということは、やはり縁によるところは大きいということになります。

「軽く趣味でタロットでも・・」と思っていたのに、生涯の先生・友人に出会えたとか、深くタロットに魅了されたとか、そういうケースはたくさんあります。

迷ったら、タロットを語る時の、その先生の雰囲気を感じればよいでしょう。先生から、その先生の扱っている「タロット愛」「タロット好き」の雰囲気が伝わってくるかどうかです。キラキラとしたものを感じられればOKです。

あなたにとって最初の先生というのは、いろいろな意味でインパクトがあり、影響を及ぼすことが多いです。別の先生にその後、習うようなことになってもです。

ということで、最初の先生は、あなたをタロットの世界に誘う代理人であり、重要な役割があるのです。

でもそれほど慎重に選ぶ必要はなく(選んでももちろんよいのですが)、やはり、あなたがタロットに興味をもって習いたいと思った時点から、縁で導かれて行きます。


結局、自分のために生きている。

今回はいろいろ考え込んでしまうタイプの人に、単純な、でも実はちょっと面白い話をします。

皆さんも、一回くらいは「自分はなぜ生きているのだろう」「何のために人生があるのだろう」というような、一種の哲学的とも根源的とも言えるテーマで悩んだことはあると思います。

私など、結構、探求好きな性格のため、かなーり昔からこういうことを考えていました。

思い出すと、幼稚園時代、いやもっと幼い頃の時の記憶でも、そういうことを考えていたものがかすかに出てくるくらいです。

例えば幼児の頃、三輪車に乗っていて、外でダンプカーにひかれそうになったことがあるのですが、その瞬間、なぜか大人びた風に「人生の意味」を知ろうとしたことが浮かんだ記憶があるのですね。

ということで、多感な思春期はもとより、大人になった今も、こういうタロットを仕事にしていることもあって、常にこの思いはあるという感じです。

ただ、このような悩みやテーマに答えが出るものではなく、出たとしても、個人的のものであって普遍的なものにはなり得ず、さらには一度出した答えでも、知識や経験が増えると、もっと適切な答えを求めて悩むこともあります。

そうした中で、様々な答え(のレベル)を自分にもたらせてきたのですが、そのひとつに、「結局、誰もが自分のために生きている」というものがありました。

よく、「誰のための人生か?」という問いをされて、自分を生きていないことへの注意やアドバイスがなされることがありますが、この場合は、自分と他人を分けて人生を考えているわけですね。

人に媚びたり、自分を抑圧したりして、本当の自分の望むべき人生を、主体的に歩んでいない特には、こうした問いがテーマとされます。

ですが、改めて、他人のために生きるとはどういうことなのかを考えてみましょう。

それは、自分を犠牲にして人にのために尽くすとか、奴隷のように人のために奉仕するということかもしれません。

これは確かに自分の意志(希望・願望)ではないかもしれません。

しかし、自己犠牲的に人のために生きていたとしても、それはつまるところ、自分の選択であり、そうしたいからしているという部分も完全否定できません。強制ではあっても、選ぶのは自分です。(逃げられない状態の場合も、やはり選択するのは自分です)

やりたくはないけれど、自分が生きるため、自分(や守りたい人)を守るためには仕方ないということではあるでしょうが、その選択は「そうしたい」から「そうしている」ということも言えるのです。

いや、「やっばりしたくないのにさせられていることもある」と思うかもしれませんが、そのように感じられる人でも、自分のために選択している、自分のために行っているという視点からは逃れられないでしょう。

つまり、どんな行動、生き方をとっても、最終的には人のためではなく、自分のためにしているということを言いたいわけです。

他人のためになると思って取る行動も、それによって自分のある部分が満足するからであり、自分をまったく切り離して、人のための行動を取ることはできません。

ということがわかれば、話はシンプルです。

あなたが、「私は誰のために、何のために生きているのか?」「今、こうしているのは自分のためになっていないのではないか?」「人生を無駄に過ごしているのではないか?」と悩み、後悔しても、結局、さきほど述べたように、誰もが自分のために生きている(選んでいる)ので、何をやっても自分のためになっているという話なのです。

誰かのために生きても、それは誰かにのために生きるという選択をした自分を生きているわけですね。

ところで、人生においてのとらえ方は、大きく二種類あると考えられます。

ひとつは、成長や発展のために(これは個人と全体というふたつの観点があります)生きているというもの、そしてもうひとつは経験や遊びとして生きているという考えです。

前者であれば、生きることはすべて学びとなり、人生における選択も、生き方も、それぞれ意味あるものとなり、気づきが多く、学びと成長が促進できる人生のほうがよいかもしれません。

後者の場合、言わば、存在していること、生きていることそのものが目的ですので、選択や生き方の問題はほとんど関係なく、いかにレジャーランドや恐怖の館(笑)のように、経験的に楽しめるかが重要となります。

今回述べている「みんな、結局、自分のために生きている」と取る考えは、後者のものに近くなります。

後者になると、生きたいように生き、好きなように生き、のたれ死のうが、成功しようが、それもビバ!人生体験ということで、マルセイユタロットでいえば愚者的楽観の姿勢です。

人生に疲れたり、いろいろなことでつらくなったら人生体験説を選び、前向きだったり、学習心・向上心が出たりする時は、人生成長説で考えるとよいでしょう。

また逆で考えることもでき、苦しい時・つらい時こそ、人生は学びであり、成長のためにあると考えると意欲が出ますし、向上心あふれる時でも、力を抜いて、人生は体験することに価値あると思えば、好奇心が衰えず、楽しく知識や技術を身につけたり、趣味を楽しんだりできます。

個人的には両方の次元を生きる「複数の自分」がいると思っています。これもマルセイユタロットから得られた考察ですね。


タロットに選ばれている・選ばれていない感

私のタロット講義を受けていただいた方には、受講者間の交流や情報交換の意味も込めて、アフターフォローにもなるクローズドの掲示板を設けています。

掲示板にはいろいろな意見やリーディング結果、質問が書かれていて、私自身もモノの見方の勉強になります。

さて、そんな中で、最近話題になったのが、「自分はタロット(マルセイユタロット)に選ばれているかどうか?」というテーマでした。

これは別にタロットに限らず、自分が学んでいるものや、選択した仕事、時には、つきあったり、関係したり、尊敬したりする人からも「自分は選ばれているのだろうか?」と悩む時はあると思います。

ちょうど、子供が自分の親に愛されているのかどうかと不安に思う気持ちにも似ているように感じます。

「いや、大丈夫、あなたは愛されている、選ばれているんですよ」と誰かに言ってもらえれば納得するのかもしれませんが、結局、これは自分の感覚なので、他人からとやかく言われても、腑に落ちないことがあるわけです。

しかし、同時に、自分だけでは確信が得られないので、他人の意見(客観的なもの)によって、「あなたは選ばれているんじゃない?」「あなたは○○から愛されているわよ」と、言ってもらいたいという気持ちもあるでしょう。

要するに、自分であれ、他人であれ、自分が気になっている(気に入っている)もの(あるいは人)からは、「選ばれている感」を実感したいわけです。

しかし、ここで、そもそも論になりますが、「選ばれる」ということについて考えてみます。

「選ばれる」という言葉をよく見た場合、それは文法的に受動型です。つまりは受け身なのです。

ということは、自分は主体ではありません。何か、あるいは誰か、外のものが主体となっていて、それが自分を選ぶのだという発想になっているわけです。

もし「神から選ばれる」という言葉を述べた場合、その「神」は外にいる神です。何か自分とは別の絶対的な存在で、自分や世界の運命を操っているものというイメージにもなります。

決められた運命に従う者のように、ただ自分が選ばれるのを待つだけの奴隷的存在にも見えます。

ところでマルセイユタロットにおいては、本来、グノーシス(自身の神性を認知する、認識して完全になる)という思想が流れていると私は考えています。

グノーシス思想の立場を取れば、神は外にはおらず、自分の内に存在することになります。

「選ばれている」という発想で見ている限り、自分の内なる神性の発動はなかなか起きないと考えられます。

自分が主体となること、これが非常に大切です。

またマルセイユタロットでは、このことは「運命の輪」というカードにも関係してきます。

このカードの解釈も様々ですが、ひとつには、「運命」というものは自分が創っているうえに、ほとんどの人はその自分の創った運命のからくり自体も知らず、それに弄ばれている・翻弄されているというものがあります。

そういう状態(翻弄されている状態)の場合、まるで自分の外側に「運命」があり、それを与えたり、コントロールしたりする「運命の神」がいるというとらえ方になってきます。

その運命の神を招く、あるいは運命(よい運)を引き寄せようと、必死にもがくのですが、もがいてももがいても、完全にはうまく行きません。

たまにうまく行くことがあっても、なぜそうなるかの本質がわからず、そのうまく行ったパターンを繰り返そうとします。

それは、言わば、自分が写った鏡を見て、それを他人だと思っていちいち反応してしまう悪循環(幻想)に囚われている人物を想像させます。

では、「選ばれる」というのではなくて、「自分が選んでいる」という考え方をなるべくしたらいいんですね、ということになりそうですが、実は、これもまだ不十分です。

自分が主体であること、選ばれるのではなく、選ぶという意識は大切ですが、「選ぶ・選んだ」という意識が強すぎると、一方で、反対の「選ばれる・選ばれた」という思い・考え方に対しても関心が強く行ってしまうことになるのです。

光が強くなればなるほど、影もはっきりしてくるみたいな感じです。

つまり、「選ぶ・選ばれる」という二元的な考えの囚われが激しくなってしまうというおそれです。

もっと次元を上げていくには、選ばれるも選ぶも同じ、でも違う、どっちでもいい、みたいな状態になる(その二元が気にならない感覚になる)のがよいと考えます。

確かに、「選ばれる」と実感すると、モチベーションが上がったり、その対象や人に対して貢献感が増します。

ただし、反対に選ばれていない感を持ってしまうと、やる気を失ったり、選ばれるための思いと行動ばかりを重視し、本来の仕事や学びが疎かになる本末転倒状態になります。また宿命論や運命論に傾きがちです。

逆に「選ぶ」という主体感を持つと、自分が人生の主人公である感覚が強くなり、自分の選択が自らの人生を創造して行っているという爽快感も出てくるでしょう。

しかし、一方で、行きすぎると、何でも自分の思い通りになるというワガママ・自我肥大の危険性もあり、謙虚に自分や他人を見つめ、生かされている感覚、お陰様でという発想が疎かになりがちです。ひどい場合は狂信者やテロリスト、ヒトラーみたいになります。

とはいえ、「選ばれていない感」で悩んでいる人にとって、改めてこう問いたいものがあります。

それは「あなたは選ばれていなかったらそれをしないのですか?」「その人との関係をあきらめたり、つきあいをやめたりするのですか?」という質問です。

それ(その人)が好きなら、それでいい」というのが、実は「自分が選ばれていること」だと気がつけば、とても心は楽に、楽しくなってくるでしょう。

あなたが選んだのなら、それは、あなたが選ばれたのと同意義なのが、この世の仕組みなのです。

マルセイユタロットの「恋人」カードはまた、そのことも示しています。


あなたの出会う「世界」

私の場合はマルセイユタロットとの出会いがそうでした。

「何が?」と言いますと、ある世界からの拡大や脱出のきっかけとなったもの、という意味です。

私はかつては地方公務員をしていたので、どうしても、人との出会いや交流、考え方に至るまでも、その(公務員的な)世界の中の範囲に留まっていました。

これは別に公務員に限らず、どんな仕事でも、どんな環境においても、自分が属しているところの世界が中心になってくるのは仕方ありません。

モノの見方やフィルターも、その世界からというものが大きくなります。

その世界で安住していくことは悪いことではなく、文字通り安定もしていくわけで、その世界であっても、自分に必要な経験と人生は築けていけるものと考えられます。

ですが、時に、その世界の中では息苦しくなったり、うまく適応できなくなったりすることが人にはあります。

そういう時は、その世界での適応や成長の努力がまだまだ足りなかったり、逃避的になったりしていることもありますが、一方で、やはりどうしてもなじめなかったり、違う世界での成長や移行が求められたりしていることもあると想像できます。

そこ(その職場や環境)にいたのは、何らかの理由があるはずで、決して無駄や悪いことではなく、プラスや経験による糧になったこともあるはずです。

学びということでは、確かにそこでなければならない学びが存在していたのです。

ところが、そのフィールドや世界での学び以上に、別のところでの学びが、あなたには必要なこともあるかもしれません。

だからこそ、本当にそう感じた時は、新しい世界へ飛び出してみるのもよいと思います。

そうすると、今までの世界の住人とは違った人との出会いと交流が待っています。

人を変えたり、成長させたりするのは、人によってが一番大きいと思います。だからこそ、交流する人が変われば、あなたも変わっていく可能性が高いのです。

ところで、マルセイユタロットにもまさに「世界」という名前のカードがありますが、それに描かれている中心の人物の周囲には、4つの生き物が存在し、中心人物を囲んでいます。

言わば、このひとつの生き物から見たあなた(中心人物)が、ある特定の世界(職場とか環境)にいる自分を示しているのです。

今度は、別の生き物から見た自分も確認してみるとよいでしょう。

そうすれば、あなた自身にある、その別の角度(生き物)から見たあなたの部分が活動してくるのです。(命をもってくる)

当然ながら、その命(エネルギー)に応じた世界の住人とあなたは会うことになり、交流も始まります。

私も公務員を辞めて、タロットの仕事をするようになってから、まるで違う世界に転移したかのように、出会う人、関わりをもってくる人が変わってきました。

間違いなく、公務無をそのまま続けていたら、おそらく生涯出会わなかったであろう人々ばかりです。

出会いというものは不思議なものです。

自分を中心に考えると、当然、自分の世界の中にいる人々しか出会いません。

そして出会う人側から考えると、やはりこちら側からも、その人の世界の中でしか出会えないのです。

今まである人と出会わなかったのは、その人と自分の世界がクロスしていなった(異質であった)からです。

SF的に言えば、あなたとその人は、今まで別の世界(並行世界・多重世界の中の別の時空間にいた)に住んでいたのです。

それが、どちらかが、どちらかの世界にシフト、あるいは両方が同じ世界に移行したので、出会うことになったと言えるでしょう。

まさに世界を変えたければ、あなた自身の世界、つまりあなたの環境を変えることがひとつの方法です。

その前には意識や思考、感情が世界への移動を刺激してきます。(従って、意識と実環境の両方のシフト・移行が、もっとも変化と出会いの可能性を高めます)

さきほどのタロットの「世界」カードでいえば、今まで「牡牛」で見ていた世界から、少しずつ他の生き物、例えば「獅子」とか「天使」とか「鷲」とかに移ってきたような感じです。

ひとつの「世界」の中で、全部の生き物体験をするか、「世界」自体を変えて、ほかの生き物のエネルギーを体現(復活)させるかは、あなたの選択次第と言えましょう。

どちらにしても、今のあなた以外のあなたの部分も存在しており、その部分を復活させ、再統合させることで、より充実した人間、本質に立ち戻った存在として、生きていくことができるでしょう。


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