迷った時に

情報が感情を作っている。

しばらくブログをお休みしておりました。

実は風邪かと思っていたのが、インフルエンザと判明しまして、一週間ほど発熱が続いて寝込んでおりました。(初期治療段階は過ぎていましたので、静養しての自力治癒しかありませんでした)

そんなに体が強いほうではないので、風邪を引いたり、体調を崩すことはままあるのですが、さすがにインフルエンザで熱がこうも長く続くと、体力的にきつかったです。(^_^;)

ご心配をおかけしましたが、ようやく熱も下がり、今はほぼ回復しております。コメントいただり、お見舞いメールくださったり、皆様ありがとうございました。

さて、一週間ほど高熱で寝込んでおりましたので、一気に覚醒したと言いたいところなのですが(笑)、逆にかなりシビアと言いますか、現実的になったという感じがします。

今の社会ですから、寝込んでいても簡単にスマホなど見て、情報は入れられるわけですが、実はそのことが危険でもあると、ふと病床で(大げさですが)思ったわけです。

現代はSNSなどが発展し、一人一人の書き込み、情報発信がさかんです。いわばプロも素人も区別なく、意見を言い合い、見せ合っている状態です。

その数は半端なものではなく、かなり膨大なものと言えます。

そして、人は感情の生き物です。言い換えれば、物事に反応する心を持っています。

何かの書き込みや情報に接する時、そこは機械のようにただ読み、無反応が続けられるわけではありません。

数が増えた分、昔よりは、外から感情の起伏にさらされる環境が爆発的に増えたと言えましょう。

人間なので、無反応ではいられることは少なく、人は物事に接すれば、何らかの思い、感情、気分を抱きます。

それが明るく、気持ちのいいものになるのであればいいでしょうが、暗くなったり、怒ったり、妬んだり、悲しんだりと、あまりよいとは言えない感情も起こる時があります。

聖人君子でもない普通の人ならば、要するに、喜怒哀楽、何らかの感情が情報に接して生まれるということになります。

ところで、感情のコントロールはなかなかできるものではありません。起こった感情をどう処理するか、ということは可能かもしれませんが、起きることそのものを制御するのは難しいことです。

ただ、(感情は)発生するのですから、発生すること(出所)に対して何らかの手だてを施すことは、発生自体を抑えることにつながります。

ひとつは、すぐにカッとなったり、心が揺れ動いたりしないように、自分自身の器を大きくするということでしょう。つまりは考え方や許容できる範囲を(学習や訓練によって)広げるということになります。

そしてもうひとつは、そもそも(感情の)発生する出来事・情報との接触機会を減らすということがあげられます。

前者は人間的に大きくなるような修行の道といえますが、後者は凡人のままで、物理的にアプローチする方法と言えます。

もちろん両方やっていければ理想ではありますが。

さて、元に戻りまして、結局、何が言いたいのか言いますと、私たちの普段の感情は、実は外から与えられていることがほとんどであるという事実についてなのです。

そしてその(与えられた、発生させられた)感情が、心身や生き方までを支配し、自分をロボットのような奴隷にしているということです。

情報社会はいいところもたくさんありますが、反対に恐ろしいところもあります。

知ることの機会が増えて便利になり、一見、奴隷から解放されているかのように見えて、実はむしろ奴隷化が進んでいる面もあるということです。

試しに、しばらくスマホやPCをせず、あるいはやっていても、自分が気持ちのよくなる情報やネタだけを読むようにしてみてください。

かなり気分や体の調子さえ変わってくることがわかると思います。

一般的に陰陽・二元原理の宇宙の法則から考えても、自分と意見の合わない人は世界に半分はいますので、自分と価値観の違う人の投稿とか意見に遭遇する機会も当然あり、そうすると不快になる場合もあるでしょう。

問題は、書き込みや意見の内容そのものではなく、それを読んで特定の感情が発生することであり、その感情に支配されることが、もっとも注意しなければならないことだと考えられます。

私たちは、いかに作られた自分で普段生活させられているかという実態に気づく必要があります。

本当に自分ではないものに支配されてしまい、人生を人(外のもの)に明け渡してしまっているのです。

瞑想や静かな時間が必要なのも、こうしたところに理由のひとつがあります。

タロットを勉強してる人は、タロットを並べて、ただ静かに過ごす時間を持ってみましょう。なるべく気分を害する情報と接しないのも有効です。

もちろん、同時に、いろいろな考え方や心の見つめ方を学んで、心の許容量を大きくしていくことで、どんな情報に接しても、比較的平静でいられるようにしていく方法も採用するとよいでしょう。


大きな視点と小さな視点の活用

4月になりました。

日本では学校でも、会社や組織でも、年度初めとして環境が変わる方が多いでしょう。

たとえ自分自身に何もなかったとして、体制自体が変わったり、人が異動してきたりして、なにがしかの変化はあるはずです。

思えば、人はずっと同じ状況で居続けるということは不可能で、例えば端的に年は取っていきますし、季節は移り変わっていくものです。

ここから言えるのはふたつ、変化することが当たり前だと受け入れること、そしてずっと同じであることへのこだわりを手放す(いい意味で諦める)ことです。

もう少し積極的なアプローチとなりますと、変化の流れを予測したり、パターンを読み取ったりして、それに対応した手段を講じるということもできます。

そこで占いなどで、自分の運気の大勢を知り、行動の選択に活かすということがあるわけです。

別に占いから入らずとも、宇宙の法則、自然の法則を、科学的に考えることもできますし、観察したり、調べたりすることで、おおよそのことはわかってきます。

しかし、大局や大きな流れがわかってはいても、自分の目の前のことになってきますと、それ(全体の流れ)を忘れ、ただ今起こっていることに反応して、ふりまわされてしまう場合が多くなるのも、私たち人間です。

このように、人には大きな視線と小さな視線、言い換えれば、全体を見通す目と細部や具体的なもの、あるいは短期的なスパンでものを見る目の両方を持ってはいますが、うまくそれを活用することができず、時には入れ違って、ますます自分を苦しめてしまうことがあります。

つまりは抽象的でおおざっぱに考える時と、とても具体的に詳細に物事を見る時があるということの、適用の仕方の問題です。

一般的に、「現実的」というのは、具体的で詳細な、細分化された視点になっている時を主に言うと考えられます。

反対に、空想的、抽象的と言うのは、大きく見ていたり、全体的・包括的に見ていたりする状態と言えます。

地上を見るのと、空(そら、空気)を見るのとのふたつの方向性と言ってもいいですし、物質に焦点を合わす見方と、精神的なものにイマジネーションする方法と言ってもいいかもしれません。

ちなみにマルセイユタロットは、このあたりを明確に、カードの登場人物の視線で象徴させています。

ところで、人が思い悩んだり、何かの選択で迷ったりする時、この大きな視点と小さな視点(全体と具体)の、ふたつの見方を思い出すとよいでしょう。

だいたい、非常に苦しい時、かなり選択に迷った時は、大きな視点をもってくるとよいです。

言ってみれば、「そもそも」論とか、10年以上とかの長いスパンで物事を考えてみるということです。

質問や考え方としても、「そもそも私は何がやりたいのか」とか、「今、たとえ間違った選択をしても人生は長い、全体からすれば取るに足らない出来事ではないだろうか」とか、「いろいろ障害はあるかもしれないけれど、この人と、とにかく一緒に過ごす時間があればいいじゃない」みたいなもので、気が楽になります。

逆に、シビアな選択ではないけれども、迷ってしまって基準がほしいみたいな時は、期限を設定したり、予算などの条件をもってきたりしたほうが決めやすいです。

また、何もやりたいことが浮かばないとか、何をすればいいのかわからないみたいな時も、「とりあえず、この方法だけやってみる」とか、「一万円は使ってみる」とか、「これを2回繰り返す」とか、「まずは、この人と一ヶ月つきあってみる」とか、具体的なものを想定したほうが行動に結びつきやすいです。

言い換えれば、行動を起こすためには、細分化したり、具体的なものをもってくる視点があったほうがいいということになります。

あーだこーだ言って、結局行動できない人には、レベルは簡単でもいいので、「明日までに、この場所のここに行って、これとこれを買ってきてください」みたいな詳細な指示があれば、まあ動くきっかけにはなりやいかと思います。

マルセイユタロットでいえば、小アルカナの世界であり、反対に大きな方向性の示唆は、大アルカナということになってきます。

リーディングでも、「これかあれかで迷っているんです」みたいな問いは、具体的な質問なので、一見、小アルカナの出番のように思えますが、本当は大アルカナが必要で、人生そのものの方向性をもう一度見直したほうがいいという場合もあるのです。

もちろん、その逆の場合もあります。

とにかく、自分が問題状況にある時、大きな視点と小さな視点が混乱して、逆になっていることがありますので(本当はこちら側の視点をここは持ったほうがいいのに、その反対になっていること)、一度反転して物事を見るとよいでしょう。

このことは、カードの「吊るし」の示唆のひとつでもあります。

タロットリーディングでフルデッキ78枚、全部を使うと、このどちらの視点が必要か、実によくわかります。


混乱のすすめ(笑)

私たちは物事や状況をすっきりさせたいと普通は思います。

あやふやな状態、不確かで、不安定な状況というのはあまり望みません。

まあこれは、おそらく宇宙の原理として、創造・維持・破壊というサイクルが繰り返され、一度生じたものはピークを迎えて、やがては消滅したり、破壊されたりして終わり、また新たな始まりになるというものと関係しているように思います。

つまり、はっきりさせたいということは、終わらせたいということであり、次に新しいものに向かいたい、創造したいという、形を変えた人の成長欲求(性質)だと考えることもできるからです。

それはさておき、はっきりさせたいという思いの時は、逆に言えばはっきりしていない状態であり、モヤモヤとしたり、混乱したりしているわけです。

それで、いろいろと思考し、感じ、行動するわけですが、なかなかこういう時はあせればあせるぼと、出口が見つからないものです。

ですからよく言われるのは、心を落ち着かせる、行動をストップさせる、人に相談する(客観的視点や働きかけを入れる)ということが指摘されるわけです。

私も、このような、言ってみれば常識的なアドバイスは、まさに定石であり、混乱したり、はっりしなかったりするような時はそうしたほうが、まずはいいように思います。

しかし、ここにマルセイユタロットの「恋人」という、迷いや選択を象徴するようなカードをもってきますと、時にはあえて混乱状態を極めたほうがいいと感じることもあります。

それは「恋人」カードに描かれるキュービッド(クビドー)とも関連しますが、要するに、一種の頭のショート状態スタッグ状態を、意図的に(自動的にそうなってもよい)起こすということになります。

あれもこれもといろいろと考え、試行錯誤し、様々な方法を試したり、たくさんの人に意見を聞いたり、ああでもない・こうでもないと頭を悩ましたりすると、混乱にますます拍手がかかり、余計わけがわからなくなってきます

しかしこれは、場合によっては実はしめたものでもあるのです。

結局のところ、混乱が極まって、考えること、行動することに疲れが出てしまいます。エネルギーの使い過ぎ、ガス欠みたいなものです。

そうすると、自動的にスイッチがオフのような、ブレーカーが落ちたようなことになって、何も考えたくなくなったり、したくなくなったりします。

もうどうもでもいいとか、好きにしてくれとか、考えなしのこの選択でいいや、みたいな投げやりとも言える思いが出始めます。

まあ、さきほど触れました、頭がショートした状態、スタッグした状態、固まった状態と言ってもいいでしょう。

これは一見悪いようにも思えますが、こうした状態により、考えが行き着くところまで行くことで力が抜け、究極の束縛から解放のエネルギーにオートマチックに移行することがあるのです。

縛ると、いずれ緩めなければならなくなる原理です。

それは自己防衛反応や自然の摂理と言えましょう。

すると、一種の瞑想状態のようになって、いきなりアイデアがひらめいたり、深いところで直観となってやることがわかったり、選ぶものが何かということがわかったりします。

あるいはどっちでもよしとか、どっちもなしとか、第3の道や方法が見えてくる場合もあります

そしてたいていは、「なんだ、結局最初の選択でよかったんだ」とか、「自分がずっと思っていた通りのことで良かったんだ」みたいなことになるケースが多いものです。

それならば悩んだ分だけ無駄だったと思うかもしれませんが、悩み続けたからこそ、その状態に導かれたわけです。

もちろん最初からスッとわかればいいのですが、そういつもいつもクリアーにできないから「人」なのであり、この「過程を経験する」ということ自体も「人生の味わい」のひとつなのです。

混乱を極めて光を見つけるというのは、「あーもう、わけがわからん!!」と頭をかきむしるくらいになって、勢いで逆立ちすれば、ふとアイデアが出る、こんなイメージです。って、これは金田一耕助さんでしたね。(笑)

まあ、そういうことなのです。

ということで、混乱にいるあなた、もっと混乱してみてください。(笑) ショートすれば、脳内の電気信号が爆発し、新たな神経細胞のつながりもできて、突破口が見つかりますよ。

とは言っても、あまりに疲れてエネルギーを消費し過ぎたり、本当に頭がイッてしまったりすると、やばいこと(鬱や死にたい衝動、他者への攻撃、抑圧されたもののいびつな解放など)になりますのでご注意ください。

肉体と精神の限界範囲内で混乱してくださいね。

目処としては思考停止状態になるまで混乱してみるという感じです。


悩みや葛藤からの脱出のヒント

私は昨年、マルセイユタロットに画かれているある教義について、深く入り込み過ぎ、タロットで表現すると「」のカードのような状態になっていました。

これはなかなか厳しく、今まで経験したことのないような闇と苦しみを感じました。

「闇」は「病み」と音が通じますが、表面的には元気で講義なども普通にやっていましたが、一人になると、またその深い葛藤に悩むという、まるで病んだ状態とも言えました。

以前にうつ病になったことがありましたが、それとはまた違う、別種の感覚です。

結局のところ、その根本的な解決といいますか、答えはいまだ見つからずなのですが(見つかればすごいことになります)、ひとまず、深く沈み込むような状態からは脱出することができました。

まあ、実状は引き返したというようなことにちょっと近いので、戦略的撤退みたいな感じといえばそうです。(苦笑)

この経験でわかったのは、至極単純なことですが、人間は葛藤したり、悩みすぎたりすると、ますますエネルギーを失っていくということです。

「たがら悩んではいけない」など、言うつもりはありません。

そんなことができれば、人間苦労はないですし、誰も好き好んで悩みたいと思っているわけではないからです。

ところが、考察を深めてきますと、そう(悩みたくない)とも言えないこともあると思えました。

もしかすると、人は好きで、と言いますか、自ら望んで悩んでいることもあるのではないかと。ただ、それは自分が自覚できていないだけだということです。

好き好んで悩むレベルでも、低いものは、悩んだり葛藤したりする状況を作って、いかにも自分は苦しんでいることを演出し、助けてもらいたい、関わってほしいという心の欲求をかなえようとする場合があります。

まあ、わざと問題を起こして注目してもらおうとしたり、本当は死ぬ気はないけれども、死ぬようなそぶりを見せて引きつけようとしたりするようなものですね。

この場合は、多少演出側に自覚があることもありますが、悩んで人に関わってほしいとする演出では、まったく自分が気づいていないことがほとんどでしょう。

さて、好き好んで悩むレベルで高いものになりますと、魂の選択でやっていることがあります。

カルマの再現とか解消ということもあるかもしれませんし、悩むことがいわば人生で経験する大切な事柄だと、魂が決めているような場合ですね。

このケースも、まず自覚することは難しいでしょう。ただ、その葛藤や悩みには必然性があり、その後に自らの変容が大きくあるのが特徴と言えるかもしれません。

マルセイユタロットでは「13」とか「隠者」とか、「審判」のカードで象徴できるでしょう。

さて、いずれにしましても、悩みは大きなエネルギーを消費するとともに、実は同時に強いエネルギーも発生させています

このエネルギーが結構重要です。悩み葛藤は、あることを思う、考える、戦わせている、渦巻いているような状態で、思考や感情エネルギーの混沌・混乱だとも考えられます。

一面ではエネルギーの多大な消費(浪費)になりますが、電気のように、発電しているようにもなっているわけです。

ただ発電に任せて電力を浪費してしまうようなことをしていると、精神的に疲弊し、現実さえも暗く悪くなっていきます。

それは、思考や感情のエネルギーが、創造や生命のエネルギーと結び付いているからです。

悩みの状態そのものにどっぷりつかると、いわば電池の電気容量がなくなっていくことに等しくなるわけです。

ということで、まともとに戻りますが、「せんなきこと」と言われるように、解決方法がすぐに見つからないようなものに対して悩み続けると、通常はエネルギーがダダ漏れになったり、発電してもショートしてうまく電通しないようになったりしますので、くよくよ長く考えすぎるのは、なるべく避けたほうがよいと思います。

もし悩んでいて、今すぐできることがあるのなら、またはっきりさせたいことがあるのなら、やっておくことです。

つまり、できるだけ精神的にクリアーな状態になるよう、現実での行動や取り組みをするということであり、端的にいえば不安を取り除く現実的行動です。

ただ斬新なアイデアとか、究極の解決法というのは、悩み抜いた末に出ることが多々ありますので、わからないことを悩み続ける、探し続けることは悪くはありません。

しかし、それでも、一瞬力を抜いたり、別の次元に自分を移行させたりすることにより(環境や作業の変化)、アイデアが湧くとも言えますので、どこかで切り替えのタイミングは必要かと思います。

また悩み(のエネルギー)にも種類(カラーと考えてもよい)があり、同じ迷うにしても、発展的・積極的悩みをしたほうが、脱出が早かったり、エネルギーの消費が少なかったりします。

言い方を換えれば、希望をもった悩み方をしたほうがいいということです。

希望をもった悩み方とは変な言い方ですが、悩んでいる今の時点は仕方ないにしても、どうしようもないと絶望的に悩むのではなく、光はある、出口はある、悩みは解放の一過程というように希望を捨てずにいるということです。

一番いいのは、悩んでる自分(の部分)を切り離し、もう一人の自分が客観的にそれを見ているというように持って行くことです。(イメージする)

そのコツは、もう一人の自分というものを、絶好調の自分であったり、よい時であったり、悩みのなかった時の自分のようなものであったりするようにイメージします。

ただこれは、悩んでいる当人・当事者には確かに難しいことなので、そこで誰かに相談するなどして、自分を客観視できる機会を作ります。

人に相談して、その人に解決してもらうという効果よりも、「相談するという状況」そのものを自分が作り出し、それによって、悩みの渦中にいる自分を別の自分が眺められるような状態を生み出すわけです。

面白いことに、この場合は、相談する相手の力量が低かったり、あまり効果がその時うかがえななかったりしてもよい場合があります。

なぜなら、頼りにならないからこそ、「こんな人に相談してしまった・・・」とか(笑)、「何もわかってくれないな、この人」とかの感情になり、逆に自分を冷静に見ることができる場合もあるからです。

もちろん解決してくれるすごい人に出会ったのならば、それはそれでラッキーなことであり、悩みが解消されるわけですから、良かったということになります。

さて私の場合、マルセイユタロットがあったおかげで、深い悩み状態にあっても、それがどんなもので、どの段階にあるのかがタロットの象徴的にわかっていたので、どこか心の奥底では安心感がありました。

それが闇に飲まれずにいたことの要因でもあります。

大きく言えば、悩みからの解放の鍵は、マルセイユタロット的には「愚者」のカードにあるといえます。

「愚者」というカードは、その名前の通り、愚か者の人物が描写されているカードではありますが、旅をしている姿でも描かれています。

私たちはどんな状況にあっても、旅をしているのだと思えば、ひとつひとつの悩みも、旅先での経験ということになります。

悩まないとバカで愚か者のようには見えますが、悩まないということは人としてこの世に生まれた以上、ありえないとも言えます。従って、悩むことをする私たちは愚か者でないのです。

そして逆に、愚か者でないので悩むことにもなります。(苦笑)

だからこそ、「愚者」は愚か者の風をなし、旅をしている人物で描かれているているのでしょう。

悩みは人生の旅路を彩る景色であり、愚者はバカやアホになりながら、それを楽しみ、次々と歩んで行っているわけです。(この歩みは横の移動だけではなく、縦の移動もあります。つまりフィールドの移動だけではなく、次元や階層の移動も示唆されているのです)

あ。、それから「愚者」は逃げることもできる人物です。

これらが悩みや葛藤からの脱出のヒントになるでしょう。


直感と論理(思考)の選択 どちらがいいのか?

今日は「選択」ということをテーマに書きたいと思います。

マルセイユタロットでも「選択」を表すカードは複数ありますし、言ってみれば、どのカードも選択においては重要なものばかりです。

よく言われる選択の要因・根拠としては、直感か論理(思考)かというものがあります。

平たく言えば、心の選択か頭の選択かということになりますよね。

まあ、最近の傾向としては、直感選択が推奨されたり、直感で生きるのが幸せの方法と言ったりされるのをよく見かけます。

あまりにも頭や思考・論理で凝り固まって、素直に選べない人が現代社会では少なくないからでしょう。情報が多すぎて、何を選択すればいいのか迷ってしまうという環境も影響しているのかしれませんね。

また男性的な論理での押しつけがましさに嫌気や疲れが出て、女性的な直感力を取り戻したい、その選択のほうが自然だという気持ちになっている人もいるでしょう。直感重視の生き方に変えて、楽になったり、幸せになったりしている人がいることも事実としてあります。

いずれにしても、どちらかに偏りすぎての選択は、過程においても結果においても、何より自分自身が納得できないものとなり、どこか違和感があるものです。

ということで、論理の選択だろうが、直感の選択だろうが完璧はないわけで、究極にいえば、どちらも当たり前に実は使っていて、どちらの選択の結果であっても問題はないと言えます。

問題にしているのは、自分の価値観や幸福感、快・不快による反応のようなものであり、選択に悩むのも一種のゲームだと見ることもできます。

ということで、近頃よくいわれるような「直感で選ぶ」ことだけが万能(全て)ではないわけです。

また、「直感で選ぶ」ということを勧める場合でも、注意が必要な場合があります。

それは、結局「正しいのはどっち?」「正解はどれ?」という○か×、正誤観点で直感を使おうとしたり、重視したりしようとする態度です。

これは、自分の「ある価値基準」を入れて評価や判断をしようとしてるわけですから、直感のようでいて論理に近いと言えます。

あと直感は好き嫌いに化けることがあり、逆に論理は損得勘定で見ているようなことがありますので、これも注意すべき点です。

でも、このことは実は直感や論理(の選択や統合)を向上させるのには、よい観点にもなります。

例えば、「直感」というのは、実は次元を低くすれば、「好き・嫌いレベル」なんだな~と思うことができますし、だから逆に、まずは好き・嫌いでの選択から入ると、直感センサーを磨く入り口になるのだと気づくことができます。

自分がそれが好きなのか嫌いなのか、好きなほうを選ぶ、嫌いのものを選ばないということでさえ、できていない(わからない)人もいるからです。

それから論理も、先ほど言ったように、結局なんだかんだ言っても、自分が得になるか損になるかで選択しようとしているとわかれば、じゃ、その損得というのは、お金なのか?気持ちなのか?いったい何なのか?ということを突き詰めれば、自分がとても大事にしていること、いわゆる自分の重要な価値観というものを改めて発見できることになります。

すると、選択に迷っていたものも、その自分の置くもっとも大切なポイントさえ見極めれば、自ずと選ぶものは決まってきます。

例えば旅行の行き先で迷っており、あなたがお金に最も価値を持っているのなら、すべてお金に換算(ルートとか時間の価値も)して、もっとも効率のよい(少ないお金で満足度の高いと考えられるもの)を冷静に判断することができます。

景色や行き先よりも、食事のおいしさに最大の価値を置いているのなら、そのポイントの選択が鍵となります。(この場合は、旅に行くことそれ自体さえ、変更されることもありえます)

あと、直感で選ぶ場合でも、結果が自分に得になるか損になるかの視点で選ぶとなれば、直感は本来の直感でなくなることもあります。

まあ、直感選択でのスムースさを表したければ、結果を気にしないようにする選択過程がいいと思います。

人には個性があり、育ってきた環境や、学習し蓄積してきたデータもあります。気持ちだけで選択できるものではありません。

「子供のような気持ちで選ぶ」と言ったところで、あなたが大人であるならば、その年数経験は身体的・感情的・霊的機能からしても、子供とは異なるところがありますので、あくまて例えや比喩としての「子供」と考え、子供にはなれないことは自覚しましょう。

そもそも子供が全員素直で純粋というのも幻想であり、世界観や価値がまだ子供それであるというに過ぎません。

子供はまだ発展途上にあること(経験未熟ということ)、またいい意味でいうと、社会的判断を入れずに選択できること(本能的であるということ)、霊的にいえばまだ完全性から不完全性ゲームの世界に移行しきっていない子供がいることによって、神のような選択ができる場合があること、それから大人のように条件的に複雑なこと(たくさんの配慮)を考えずに済むので、たまたまシンプルな本質的選択ができる場合があることで、大人とは異なるように見えるのです。

直感と論理に戻りますが、このふたつはバランスではあるのですが、先述したように個性・タイプが人にはあり、そのバランスはフィフティ・フィフティなどという単純なものではありません。

さらに、直感や論理(思考)においてもレベルの上下(高い低い)がありますので、低い思考は普通レベルの直感より劣って、反対に低い直感は当たり前の思考論理に太刀打ちできないこともあるのです。

結局、「選択するということ自体を味わう(それが現れているすべてのことの)経験」が重要なのだと思います。これはマルセイユタロットの「恋人」カードに描かれている内容でもあります。


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