迷った時に

自己解放における鍵

先日募集しました無料メールディング企画は、タロットによる抽選の結果、北海道のNさんに当選が決まりました。一応、応募された方全員に当否のお返事は差し上げております。※届いていない方はご連絡ください。

今回はブログ等の感想を書いていただくことが応募の条件でしたが、いただいたご感想を拝見しますと、結構タロットそのものへの関心からというより、宇宙的なものや哲学的もの、心理的なものの読み物としてご覧いただいているような印象でした。

これはマルセイユタロットがメインのブログではありますが、マルセイユタロットが結局、あらゆるもののモデルや象徴として考察できるため、結果的にそうなっていると思われます。

あと、内容が難しい、わかりやすいものもほしいというご感想もありました。

まあ、自分でも、やはりちょっとこねくり回し過ぎかな(^_^;)という思いもあるので、そのあたりは今後予定している一般の方向けメルマガなんかで、シンプルだったり、平易だったりするものも書いてみようかなと考えております。

いずれにしましても、ご応募と感想を送っていだきました方には改めてお礼申し上げますとともに、この拙ブログをお読みいただいているほかの方にも、感謝を申し上げたいと存じます。

さて、今日の記事です。

最近はいかに自分を苦しめず、自分本来の生きたい方向性でもって進むという、自己解放を訴える方々が増えて来たように思います。

私も、もとは公務員をしていて自分を結構縛っていた類の人間ですから、本質的にはまったくもってその通りだと賛同することも多いです。

やはり、多くの人は自分で自分をがんじがらめにして、まさにマゾのごとく苦しんでいるという滑稽な状況にあると思われます。

そのことに気づきを得れば、自己解放は急速に進んでいくと考えられます。

このブログでも何度も言っておりますが、そのひとつの鍵は、結局多角的な視点や、たくさんの考え方を持ったり、多くの感情を客観的にも見られるしたりすることにあると言えます。

なぜならば、自分の縛りに気づくということは、夢中になっている当事者感覚を脱するという意味にもなるからです。

いわば自分がゲームに熱中し過ぎて、ゲームをしていることにさえ気がつかないから自分の縛り(ゲームにおいてはハンディや自己設定に当たります)もわからなくなっているのです。

そしてひとつのことに集中し過ぎたり、当事者意識(被害や不運に見舞われている感覚、起こる事件を強烈に意識するようなこと)が強すぎたりすると、まったくほかのことが目に入らず、目の前のことだけで判断しようとします。

そうすると、ますますゲームにのめり込んでいくわけです。

何事も自分が熱くなり過ぎて、ひとつの見方しかできなくなっていると、なかなかその熱中していることから抜けるという発想が出ません。

しかし最中においても違和感を抱いたり、疑問を持ったり、ほかの視点や思考などを入れたりしていくと、熱中性にほころびが出始めます。

「ほころび」と表現しましたが、覚醒側(ゲームの外側)から見ると、まさにそれが目覚めのきっかけになることなのです。

「あれ、おかしいぞ?」「これって、前にも経験したような・・・?」「まてよ? このまま続けていてクリアーできるのか?」「そもそも、私は何しているんだろう・・・?」こんな感じが日常の中のあなたの感覚に現れてきたら、あなたは、先述したゲームの中での「ほころび」、すなわち「覚醒のためのきっかけと情報」を得ていることになるのです。

そのためには、視点を多く持てるようにしないといけません。

自分らしく生きるためには、ありのままとか、素のままとか、宇宙への信頼とか、平和な心とか言われておりますが、実はその前には、この日常的な世界への疑いや違和感を持つということも段階としてはあり得るのです。

「愛や信頼のためには疑ってはならない」と言う人もいますが、そう思いこむことが「そう思わなければならない、そうしなければならない」という自己の縛りになることもあります。

信頼する(される)には、疑いが(を)晴れる(晴らす)必要があります。

あなたが疑問に思ったり、違和感を覚えたりすることに対して実験・検証してみて、それでも宇宙はイエスと応えるのなら、それはあなたにとっての真理の知覚となるでしょう。

少しずつ疑いが晴れていくたびに、あなたは大いなるものへの信頼を取り戻し、自分の中に愛を見て、それを表現しようとしていきます。

ちょっと話はずれてきていますが、要するに、自己の縛りを解き、魂を輝かせる生き方のためには、いきなり絶対平和や真なる状態に到達しなくてもよく(それは難しいことです)、疑念や違和感を持つ状態から始めてOKなのだということです。

また一人一人には独自の道があり、全体として共通するものはありますが、自分自身が納得するものがもっとも重要です。

その点では、すべての人には道は開かれており、誰のやり方も間違いとは言えないのです。その人自身にとっては、どんな方法も大局的にはいつも正解と言えましょう。

ほかにも縛りという点では、「努力しないと成功しない」とか「苦労してこそ報われる」という思いこみを解除すべしということが、スピリチュアル系のブログやSNSなどでよく見かけます。

これは本質的にはその通りのこともあるとはいえ、人と段階によってはその観念でもいい場合があると私は考えています。というより、その選択を魂的にあえてしているので、解除しようとしても、その段階の時は難しいということです。

この話は長くなるので、また別の機会に詳しくお伝えしたいと思います。


あせっている時 「節制」から

本日、浮かんできたタロットカードは「節制」でした。

「節制」と対話する形で見ていきますと、どうやら今回は「あせらない」ということがテーマとしてあるようで、それを書いてみたいと思います。

「あせらない」と言いますと、結局は、今その人はあせっているわけです。(苦笑)

ただ、「あせっている」と言っても、様々な「あせり」の状況と対応策があります。

結果を早く出したいと思ってあせっているものもあれば、結果が出ないからあせっているという場合もあるでしょう。

一方、変わらないことへのあせりもあれば、周囲が急速に変わっているのに対応できないあせりもあります。

ですから、あせりを感じている時は、まずじっくりと自身や状況を改めて観察してみることが重要です。

いったい、そのあせりは何に対するあせりなのかということを見極めるのてす。

それにより、対応も変わってくるからです。

お金に対するあせりや不安と思っていても、よく分析してみると、ある人との関係が壊れるかもしれないと言うことが本質のあせりだったり、将来の考えていた自分の可能性がなくなることへのあせり(可能性が限定されている場合もあり、それは幻想や思い込みのこともあります)であったりします。

一般的に「あせっている」時は、何もしないほうがいいように思われがちですが、そうとも限りません。

逆に何もしないほうが、もっとあせりを自らに生み出す(追い込む)ことにもなりかねません。

特に、結果が出ないことへのあせりの場合、何もしないことに耐えられる人は少ないと思います。

のんびりしたり、ゆっくり落ち着くことができたりすれば、そもそもあせりなど生じないからです。

もちろん物事には成就する期間、効果の出るタイミングというものがあり、それがまだ到来していない、期が熟していないということもあります。その場合は、待つ必要があるでしょう。

とはいえ、一刻も早く結果を出さねばならないのに、その状況で何もしなかったり、放置したりすることはかなり困難だと現実的には言えます。

やたらめったら動く必要はありませんが、単純作業をしたり、学びを復習したりすることで、落ち着いてくることもあります。

あせると自分の独力でやり遂げようとしてますます泥沼にはまったり、逆に、あせりからいろいろな人の意見や情報を入れてしまって、わけがわからなくなったりすることもあります。

素直な心で特定の専門家に頼ったり、自分の本当にやりたいこと、またはやりたくないことに従って行動したりするのも、あせりの対応策です。

また、あせりはスピード・速度と関係します。

何かの速度や回転のタイミングがおかしくなっている、もしくはバランスを崩してしまっていることに問題があります。

マルセイユタロットでいえば、「運命の輪」や「吊るし」、「戦車」とも関連します。

要するに、早く(速く)したり、遅くしたりすることの感覚、または対象をズラすとよいわけです。

簡単にいえば、それまでスピードを速くしていたところをゆっくりにし、反対に遅くところを速くするみたいなことです。

結果を出すということは、結果に対して速度を上げることに拘っているわけですが、その結果の速度を緩め、本当にどうしてもその速度(期限等も含む)でなければならないのか検討してみることです。

また、対策を立てたり、行動に移したり、思考・アイデアを変えたりすることは、もしかすると今までゆっくりだったかもしれませんが、。今度は、それを速くすることです。

精神や心のことであれ、実際の現実・物理的・行動の分野であれ、そこにはスピードや速度、タイミングというものが働いています。

これまではうまく行っていたものも、周囲や自分の知らず知らずの変化によって、その回転率やスピードは次第に変わってきます。

そのため、歯車がぎくしゃくするかのように、順調なものもうまくいかなくなり(かみ合わなくなり)、それで結果の出ないことや、物事が悪化してきたことに対してあせりが出るわけです。(もちろん悪化の理由はそれだけではないでしょうが、スピードやタイミングも大きく関わっていると考えられます)

ですから、あせった時に見直すべき事項のひとつは、時間・速度のかけ方ということになります。「吊るし」の象徴のように、これまでとは反対に逆転してみるとよいかもしれないのです。

何事もバランスであり、悪いと思ったことにもよいものの種が内包され、反対に良いと思ったものにも、悪いことのきっかけになっていることがあります。

あせりは、穏やかなる境地や状況を獲得するための一過程であり、振り子の一方だと見れば、あせることがあるのも当然であり、ひとしきりあせることで、そのあとに改革や変容へと、ゆっくり舵が切られていくわけです。

マルセイユタロットはリバースだろうか、正立だろうが、わかってくれば出たカードはすべて「救済」だと気づいてきます。

それはミクロ的には「節制」の重要な意味でもあります。

あせりも福音であり、その分、平安の尊さにも気がつくことになりますし、あせりを克服すれば、経験値も上がり、それまでより広い視野と高い次元を獲得することができます。

さらにはかつての自分と同じ次元であせっている人に対し、アドバイスやサポート、救済をもたらすことができるのです。


何かをしたいけれども、できない時

一般的に、何かやりたいことがある場合、それに抵抗してしまうもの(障害になるもの)が大きく分けて2つあります。

それは物理(環境)的なものと心理(精神)的なものです。

世の中はすべて二元で分けて見ていくことができますので、この物と心での区分けは、言わばその代表的なもので、何にでも適用できます。

それはさておき、話を戻しますが、まず物理的・環境的抵抗(障害)とは、見えることのできるレベル、物理的に計測できるものにおいての抵抗です。

具体的にはお金と時間、または距離というのが顕著なものでしょう。「人的なもの」(心理要素は除く)ということもあるかもしれません。

もうひとつ、心理的・精神的抵抗は、文字通り、心の抵抗・ブロックです。わかりやすく言えば、やりたくない、無理だ、不可能、自分にはする資格がない・・・とか、そういうような感情や思考法(思い方)ですね。

まあ、これにも二元あって、自分で意識しているものと、意識していない潜在的なものがあると言えます。

それで、セラピー系の人の扱うのは、どうしても内面、心の抵抗からはずしていくということになるのですが、確かに実際に行動を制限しているのは「人の思い」ですから、それも理にかなっていると考えられます。

極端なことを言えば、ロボットみたいに心を持たない人間だったら、命令・プログラムのままに何の制限もなく、行動をしてしまうでしょう。

制限があるとすれば、それこそ純粋に物理的な要素であり、その人間の身体能力を超えたことや、距離・時間を超越するなどのことは無理だというだけです。

ですから、心理的抵抗をはずすというのは、目的の達成のための行動には、とても重要だということがわかります。

しかしながら、人には心があるからこそ、実は心からだけでは難しい場合もあるのです。

基本は人の思いが行動を支配しますが、それだけに「感じている」ことが重要で、その感じることというのが、実際の経験によって培われることが多いからなのです。

実際の経験というと、物理的なことと関わってきます。

いわゆる慣れの問題などの例で考えれば、わかりやすいでしょう。

例えば、ある隙間をジャンプすることに対して、人から「あなたはこう飛べば越せますよ」と説明を受け、自分でも「行けそうだ」と思ったとしても、それは頭の中のイメージだけなので、真の意味ではまだ葛藤が心ではあると言えます。

しかし、とにかく飛んでみて、失敗するにしろ(まあ、命の危険や大けがなどしない前提ですが)、うまく行くにしろ、実際の体験が、生身の感情や印象として本人に植え付けられます。

これが、隙間をジャンプする、飛び越えることの確実な心身の情報としてインプットされ、次への行動に向けてかなり具体化するということでもあります。

「なるほど、こうやってジャンプするのか」とか、「これができるのなら、もう少しくらいの隙間は飛べるな」というような「感じた思い」の獲得です。

自分の行動への確信が芽生えると言ってもよいでしょう。

そうなると、逆の発想も出ます。

たいていは、何かをしたいけれどもできないのことには、心理的抵抗はもちろんですが、お金の問題も結構見受けられます。

お金を失うことの心理的不安と抵抗が大なので、思い切れないわけですが、一度、思い切る経験をすることで、抵抗する思考を破壊するというチャレンジが可能です。

まあ、平たく言えば、「何とかなるもんだ」という実際の体験によって、今までの考え方や思い方を変えるということですね。

お金ができてからやるのではなく、あえて先に申し込んだり、やってみたりすることで、その失うお金を別の形で稼いだり、それ以上のリターンを得たりすることの思考と行動へ結びつけていくという感じです。

今までは、「これだけのお金を失えば、もうかなり不安でどうしようもない」となっていたところを、「ない(一時的な損失になる)のなら、どうにかして手に入れる(もちろん合法でですよ(^_^;))、回収させることを考え、実行せざるを得ない自分に追い込む」というのに近いです。

結局、本当に自分がしたいことのためなら、お金も何とかなること(事前だけではなく、事後の回収ということの視点も入れて)は多いものです。

まあ、けれどもバランスも大切で、あまりに生活自体揺らいでしまうようなチャレンジは、不安が強すぎてしまうので、それは無謀というものです。言っているのは、少し無理するくらいの感覚ですかね。

ということで、何かをしたいけど、できない場合、物心両方、あるいはどちらか適切のほうでアプローチしてみるとよいでしょう。


方位、土地の移動 錯覚と現実性

占いの世界(する人、される人の間)では、方位(方角)ということにこだわる人がいます。

もちろん方位学や気学などで、確固たる理論や実践的経験を積んだ上で、こだわっている人もいるでしょう。

しかし、ただ運気がよくなる悪くなるからという単純な意味で、方位のことを気にしている方も多いです。

私はタロットを扱いますが、占い師ではないので、占い的な方位について詳しくはありません。そして方位についての立場を言うならば、「究極的に関係ない」と考えています。

ただ、究極的には・・というのが鍵で、次元(幾層もの現実感)によっては、それが極めてリアルに働く(方位が意味を持つ)世界もあると思っています。

換言すれば、不思議な言い方に聞こえるかもしれませんが、方位に関心を寄せれば寄せるほど、自分にとって方位の効果の出る(よい影響もあれば悪い影響もある)世界がリアルになるということです。

それともうひとつ、磁場や周波数などを考慮すれば、土地土地に固有の特質があるとも考えられ、その影響が人に何らかの変化をもたらすと推測できるかもしれません。

昔から洋の東西を問わず、土地には独特のエネルギーがあって、それを「土地の神」として人格化したり、崇拝の対象としたりしていました。

地球は回転する惑星であり、太陽を中心に公転し、ほかの惑星とも関連しているのであれば、地球の大地そのものに磁場があり、電気的エネルギーのようなものがあるのもわかりますし、地球を有機物や生命のように見れば、全体としてはひとつでも、場所によって違いがあるのも考えられることです。

人に合う合わないがあるように、土地の神とも合う合わないが出る可能性もあるでしょう。

また人は変化していくものですから、昔は合わなくても今は合うということもあれば、時間とともになじんで、今では何とも思わなくなったり、愛着を感じたりすることもあるかもしれません。

その意味では、移動する土地というものに何らかの影響を見ることも可能です。

しかしながら、これは厳密に言うと「土地」であって、「方位」(方角)ではありません。

方位は方位で、やはり何らかのエネルギー的特徴があり、それを占いの世界などでは、やはり「神」として表現し、とらえていたと考えられます。

つまり、移動や引っ越しなどによっての影響は、行く土地そのものの影響と、移動していく方向・方位の影響、さらには自分自身の状態が合わさって、本当の効果が出ているのではないかということです。

単純にどれかひとつだけで運がよくなったり、悪くなったりするということでもないように考えられます。

さて、話は変わりますが、ある時、タロットリーディングしていると、出たタロットカードの象徴と、タロット(の精霊)からの示唆で、「その土地へ実際に行ってみること」と読めるケースがありました。

それは過去にその土地に住んでいた人のリーディングで出たもので、その方はその地域にいた時の問題をいまだに引きずっていて、カードからは実際にその土地に行く“センチメンタルジャーニー”“感情・感覚トリップ”をしてくるように言っているように思えたのです。

頭の中の想像だけではまだリアルではない時、実際にその土地へ行くことで、何かが完了したり、逆に気付きを得たりすることがあります。

これは移動することそのもの(旅そのもの)の時空間変化、そして訪れることでの記憶の再現と、反対に過去のそれと現在の自分との違いの実感などがあいまって、言わば錯覚(過去と現在が混ざり合って消失・書き換え)を起こし、問題を解決したり、新しい心境にブレイクさせたりすることがあるのだと想像できます。(錯覚とは異なり、今や現実を本当の意味で認識するということもあります、それは止まっていた心の時計が動き出すようなものです)

カードはそういうことを示唆していたものと思われます。

ということで、気になっている土地や場所があれば、時には実際に行ってみたり、再訪してみたりすることをお勧めします。


正解はひとつではないという考え方。

タロットリーディングやタロットの解釈にも言えることですが、「答えや正解はひとつ」と考えていると、なかなかうまく行きません

それはタロットが象徴(の絵柄)でできているものだからです。

では現実は象徴ではないから正解というものがはっきりと出る世界なのか?と言えば、そうとも言えますし、そうではないとも言えます。

というのは、私たちの住む現実の世界ですら、物事として具体的な場合もあれば、やはりそれ自体を「象徴」だと読めることもあるからです。

言わば、記号(それ自体に答えや意味が決まっているもの)や象徴が両方ある世界でもあるのです。

ただ、それはあくまで見る側の解釈やとらえ方にかかっています。つまり、人間ひとりのひとりの見方によるということです。

ここからしても、世界は自分(のとらえ方・見方)によってできているという説が納得できるものになります。

さて、現実の世界や環境を象徴として見る時、タロットと同じようなことになり、正解がひとつではなくなります

いえ、実は私の考えでは、「答え」はそれぞれにひとつあるのですが、もっと詳しく言えば、次元・レベル・階層・フィールドによって答えが違ってくるという例えが正しいかもしれません。

次元は縦階層になり、フィールドは横の連続ということになります。

縦の次元というのは、例えば、全体(神性)意識で見ればどうか、個人の現実利益のレベルで見ればどうかといった違いと言えるでしょう。

一方フィールドの横というのは、仕事を中心に見れば、家庭を基軸にすれば、この年齢の選択で言えば・・というようなことになるかもしれません。

こうして考えると、正解など実は多数あり、極論すれば誰もが納得する答えなどはないのだとなります。では探すだけ無駄なのかといえば、それもふたつの考えが出ると思います。

ひとつはやはり無駄なので、つべこべ・あれこれ考えすぎても始まらないという立場や行動を重視するものです。

そうすれば、「こだわり」というものを少なくできます。この見地に立てば、人生は正解を探すことではなく、生きるプロセスそのものを楽しむ・味わうということになります。

そしてもうひとつは、無駄ではないけれども、どのレベルの正解を選択をしていくかを楽しむ、またはその見極めの力を修練するということになります。

そのためには、次元やフィールドの違いを自分自身が知ることが大切です。

フィールド(を増やす)というのは多様な経験になるでしょうし、次元の多層を知るには、「象徴」的見方・感じ方を学ばなければなりません。昔風に言うと、神や天使、仏や菩薩の世界を知るということです。ここにタロットが活かされる余地があります。

結局のところ、私たちは正解があるようでない、ないようである世界を泳ぎ楽しみ、あるところからあるところに移行しながら、同じところに実はいるという感じなのではないでしょうか。(笑)

これはマルセイユタロットで言えば、「愚者」のカードそのものだと言えます。

正解にこだわってしまうと、同時に不正解であることも自分の中で出現させることになります。それが人への批判や自分の内的葛藤を生み出します。

ただ、数学レベルで解答がきちんとあるように、物事のある次元・フィールドにおいては正解はあります。それを見つけることも文字通り、「正解」になる場合もあるでしょう。

矛盾しているようですが、人や世界は一見、矛盾だらけです。ただそれを統合できる考えに至った時、自分自身での正解は見つかるでしょう。

けれどもそれはまた普遍的(万人に当てはまる)正解ではないかもしれません。こうして何重にも正解・不正解、答えがある・ない、個人の正解・万人の正解等の矛盾を行き来しながら、私たちは結局宇宙を意識することになるのだと思います。


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