迷った時に
自分らしくが選択の制限に。
自己啓発系の主張でも、自分らしくとか、自分を出して自分の選択を大切にということが言われます。
その通りの面もあると個人的には感じますが、これを間違って解釈してしまうと、逆に自分を縛ったり、自らの成長の機会を少なくしてしまったりすることがあると思います。
まず、「自分を知る」というのは、自分らしくの前には大切ですが、これが簡単なようで難しい面があります。
ただとにかく、自分を知りたいと思うことは大事です。
とはいえ、「自分探し」などしても、なかなか「自分」は見つからないことは多いものです。
結局は、その時点で納得できるストーリー、もっと言えば、「自分が生きていることの意味」が多少なりとも自分の中で整合性のとれる理由が見つかれば、自分探し段階は一段落します。
この、「自分の中で整合性の取れる理由」というのは主観的なものなので、一般的(客観的)な論理性は必要とせず、あくまで内側の納得感によります。
たとえ他人が見て矛盾だと思っていても、本人さえ意味が通っていれば、本人なりにはOKなのです。
ただし、他人評価によって自己評価がほしいという人は、この納得感と整合性を人から見ても同意してもらえるようにしたいのが本音となりますので、そこに問題が生じます。
というのは、他人評価の一般的価値観になれば、とどのつまり、経済的成功とか、財産を持っているとか、外見がよいとか、有名かどうかとか、見た目の判断によるところが大だからです。
従って、他人評価による自己評価を「自分らしさ」の基準にしてしまうと、おそらく生涯に渡って、納得できる自分というものを見つけることは難しいでしょう。
話がそれましたが、自分らしさを出して・・ということを誤って解釈した場合、「わがまま」や「利己的」でいいのだということに極論すればなってきます。
例えば人付き合いなどでも、自分に合わない人とつきあうのは時間の無駄、人生は有限なのでもったいないということになり、交際範囲を狭めます。
これは悪いわけではりません。確かに時間と感情では無駄に振り回されることもなく、選択する人付き合いはいいところもありますし、一面ではその通りと言えると思います。
しかし、ここに大きな落とし穴があります。
それは人間はすべてをコントロールすることはできないということです。
いえ、究極の神性なる自分ということでは可能かもしれないのですが、人は普通に生きている限り、様々な自己、言い換えればエネルギー体を持ち、それらは表面的な意識だけで操れるものではありません。
肉体的にも自由に動かせる筋肉と動かせないものがありますし、自分の意識を超えた範囲で人は生かされています。
従って、自分はこういう人としか付き合わないのだと決めたところで、別の意識やエネルギーは表面意識とは別の人を自動的に選択し、あなたの成長や学び、あるいは保護などのために働いていくでしょう。
その時、自分が望まない人を引き寄せたとショックに思ったり、自分はまだまだだと自己卑下したりと、自分や人に腹を立てたりしても仕方のないことなのです。
いつか自分のレベルが上がれば、なぜ関わりたくないと思うような人と関係してしまったのかがわかるでしょうが、その時の意識範囲とレベルではわからないものです。
でもわからないから面白く、探究する興味も湧いてきます。出会う人が全部予想できて、その意味も最初からわかってしまう世界など、それはつまらないでしょう。
自分が人を選ぼうと思っても、選ばされている次元もあるのだと心の隅では思っておくと、かえって余裕が出ます。マルセイユタロットの「恋人」カードはそのことをよく表しています。
ですが、まったくの偶然に任せてしまうというのは、一種の奴隷状態に自分の身を置くことになり、無自覚は無明に近く、それこそ人にいいように扱われてしまう危険性があります。
ですから、自己コントロールができるところはしておきながら、それを完璧にするというのではなく、できない部分はできないとあきらめ、宇宙や自分のほかの次元意識に任せて、人生を楽しむのがよいのではと思います。
自分らしく・・と言っても、結局は自分は何層(何人)もいるので特定できませんし、人は自分も他人も変化していくのが常です。
「これが自分だから」「これしか選択はしない」というのは、かえっていろいろなチャンスを逃すことにもなりかねません。
成功やひとつの目的のために自分を特化して生きていくのもよいでしょうが、せっかく生まれてきたのですから、様々な経験(これは事柄やフィールドのことだけではなく、心の状態も含みます)をしていくと面白いのではないでしょうか。言わば、アクシデントや予定外もありと認める生き方です。
ただ先述したように、起こる現象のままに反応して生きることは奴隷的人生ですので、知性・理性を高め、判断力や情報力も上げ、自覚を持ちながら、時には想定外のことも楽しむ感情豊かな人生が送ることができればよいのではないかと私は考えています。
移動してのタロットリーディング
どういうわけか、インスピレーションが来ますので、前回から引き続き、選択・決断シリーズみたいになります。
前回はタロットを用いて物事を決める時の設定についてお話しました。
今回はタロットにプラスして何かを行うと、さらに面白い(面白いのであって、自分に合うか、確実に効果があるかどうか別です)という話です。
鍵は場所の移動です。
結局、物事の選択・決断には、混乱した意識・思考からの整理・脱却がポイントなのです。あるいは、別の次元(モノの見方)に移行することも大切です。
ですから、簡単に言えば知識(情報)を増やすか、気分を変えるかということになるわけです。
情報・知識を入れるのは、整理しないと逆に余計混乱することになりますので、「結構考え抜いたけれども結論が出ない・・」というような時は、気分転換が効果的です。
そのために、なかなかよいのは、実際に今いる場所を移動してしまうことです。
実は意外に思われるかもしれませんが、あなたがいる場所・住んでいる所で思考や判断力が限定されてしまうこともあるのです。
スピリチュアル的に言えば、同じ波動に慣れている、そのような自分に固定されているという感じです。
従って、たとえばこういうことがあると思います。
カフェとかに行くと仕事が急に捗ったとか、アイデアが思いついたとか、また歩いている時に、ふと「こうすればいいんだ」とはっきりしたとかいうケースです。
これがまさに気分が変わったことによる、ある固定の次元からあなたが移動したことを示しています。
そしてタロットを使うこと自体も別の観点や意識をもたらし、気分転換にもつながりますが、この、実際に移動することをプラスさせることにより、さらに劇的な次元移行を経験させることもできます。
できれば近くに移動するより、旅行くらいのものがよいでしょう。(引っ越しもあり得ます) 旅はタロットの「愚者」が象徴するように、次元移行の現実的な最たる方法だからです。
神様とか仏様に興味がある(力をお借りしたい)人は、目的地の神社・仏閣に参るのもよいでしょう。もし、その神様・仏様の祈願効果の得意分野(縁結びとか縁切りとか事業発展とか)もわかっていれば、さらに自分の目的別によって旅行先を選んでよいかもしれません。
現地の宿泊先で静かに心を落ち着け、タロットをすることで、移動した気分の効果と現地の神仏の力などがあいまって、結果(結論)は出やすくなるでしょうし、たとえ出なかったとしても、気分が変わることで、道中や帰ったあとで何かの気づきを得ることは多いはずです。
もし友人と旅行する場合、その友人と自分がタロットができるのであれば、互いにリーディング交換することで、客観的な意見がもらえ、これはかなり物事を進める上でも有効です。
ですからタロット仲間で旅をするのは、本当に面白いことなのです。(私の言う「趣縁」でもあります。ブログテーマのひとつ、「趣味の縁 趣縁」の記事をご覧ください)
相手がタロットを知らない人でも、前にお話しましたが、人にタロットリーディングをすることで、実はそのカード展開が象徴として、自分にも関係していることは言えますので、示唆を得ることができます。
自宅での決まった(聖域としていく)場所でのタロットリーディングは重要ですが、これとは別に、特に新しい発想やアイデアをもたらせたい時、膠着状態のものに変化をもたらせたい時は、あえて移動してのタロットもよいのです。
タロットを使う決断
迷っていて、何かをはっきり決めたいという状態は、誰にでもあることですよね。
しかし、なかなか決まらない、決められない・・・これは自分の中に多数の回答が用意されているからとも言えます。
この前、選択については、大きな意味ではどの選択をしても間違いはないということ、また、その時の価値観やある特定のフィールド・次元によっては間違いと見なすこともあることは述べました。この記事です。
言い換えれば、「無数の次元における複数の自分」の選択に迷っていると表現してもよいでしょう。
このブログはマルセイユタロットをメインとしているものですので、迷った時にはタロットを使うことができることを述べておきます。
この場合、タロットにおいても、自分の選択の次元をどうするのかを決めておいたほうが読みやすい(判断しやすいでしょう)
次元を決めるということは的を絞るということです。「短期的にお金(収入・経済)を上げるのに、これをやってもよいかどうか?」「ここ一年でパートナーを得るには、この選択はありか?」みたいな絞り方です。
ただ、何も的を絞らず行った場合、これは私の考えですが、タロットはもっとも「善き」方向性、方法を示します。(実は的を絞ってもそれは象徴されています)
「もっとも善き」ということは、換言すれば「神性的(平たく言えば神様目線)」「長期的」な視点に近いです。あなたの総合的な人生・成長にとってどうか?みたいな観点ですね。
これは表面的・形式的・二元(良し悪し)的・局所的「良さ」ではありませんので、解読が難しいことがあります。
言わば、タロットに向かう人(読む人)自身にも真剣な姿勢や透明ともいえる態度が求められるのです。
タロットカードの象徴は、こうした次元の違いをすべて含んでの象徴ということもあり得ますので、読む側のアクセスする次元(価値観や的と言ってもいいでしょう)によっては、いかようにも読めてしまうことが、タロットを使う場合の選択の難しさかもしれません。
この問題を解決させるためには、ふたつの方法があります。
ひとつは前述したように、こちらから次元を絞ること、つまりリーディングするテーマや的を具体的にすることです。
そしてもうひとつは、タロット側の(象徴)次元を限定させてしまうことです。
これはどういうことかと言いますと、カードの意味を単純に決めてしまうやり方になります。
具体的には、よいカート・悪いカードみたいにおみくじのごとく、吉凶象徴を決めてから引くということがあるでしょうし、また、カードの正逆によって、いい・悪いを決めてしまうということもあるでしょう。
※通常リーディングでは、この方法はむしろ自分を縛ってしまうことになりますので、注意が必要です。
どちらにしても、何かを完全に決めたい場合は、強い決意で臨むことが重要です。
「あ、これは望んだものとは違うので、もう一回やってみよう、テヘ(笑)」みたいなことをしていると、結局わかけがわからなくなってしまうのです。(タロットを霊的なものと見た場合、あなたとタロットとの関係が崩れます)
どんな判定になろうと「受け入れる」という覚悟をもってカードを展開した時、必ず、タロットはあなたにわかりやすいものを提示してくれるでしょう。
これは本当はタロットの精霊とのコンタクトという霊的な側面があるのですが、そういうものを抜きにして考えても、自分が真剣になる、結果を受け入れるという心境になること自体、自らにクリアーな状態をもたらせ、自然に求める次元にフォーカスすることになるので、どんなタロット展開になったとしても、自分の中での解釈と回答が得やすくなると考えることができるのです。
タロットカードは自己流でも使えますが、この次元の違いの扱いや象徴ということが自分一人ではわかりにくいので、やはりきちんと学んだほうが扱いやすくなるでしょう。
選択の意味
さて今日のテーマは「恋人」カードや、その他を見ていて思った「選択」についてです。
人生においては、様々な選択のシーンが訪れます。
その度に人は迷い、時には苦しんだり、あるいはワクワクしたりします。ということは、「選択」そのものは感情の上下・起伏を創出させる、人生においての遊戯道具みたいなものだと言えます。
ここから想像すると、大局的には選択の内容そのものに意味はなく、選択させられる状況それこそが大切なものであると見ることができます。
これは、私が「恋人」カードを解説する時にお話する趣旨に近いものです。
とはいえ、選択によってその後人生が大きく変わることもあります。選択の内容にもやはり意味があるのではないかと誰しも考えます。
選択に意味がなかったりあったり、いったいどちらなんだ?と思いますよね。
それは、「選択」における次元の違いが、選択の意味を決めていると言ってもいいのではないかと思います。
どういうことかと言いますと、先述したように大局的・長期的スパン、もっと言えば「神」や「宇宙」的視点から見れば、選択の内容などほとんど意味がないとなってきます。
むしろ、先ほどのお話したように、「選択」の場面に立たされるシチュエーションこそに意味があると考えられるでしょう。
しかし、もっと次元を下げ、個人的な世界と短期的な時間枠の中で見ると、選択(選択肢)の内容と、その決断は多大な意味を持ってきます。
ということは、次元が低い視点では、その時の個人の思考・価値観によって、選択が間違えたとか合っていたということになるわけです。
その人が何を一番大事に思っているのか、また物事に対して評価する基準(自分の中の法律のようなもの)に叶っていたかどうか、これにより選択の正しさや間違い(と思うこと)が起きるのです。
マルセイユタロットで言えば、次元の低い「正義」的観点によって決まるということですね。
それから、自分の中の法律・ルール・価値だけではなく、人の価値観・ルール・評価によっても選択が良かったのか悪かったのかが決まる場合もあります。
特に自分自身より、他人の評価・世間体というものがとても気になるタイプの人には顕著です。
ただ、この場合は一番不幸とも言えます。なぜなら、人の評価基準など時やケースによって変わりますし(移ろいやすい)、そもそもが、あなたは他人のために生きているのですか?ということになるからです。
さらに自分の中の法律・価値基準で選択している場合でも、その基準自体もやがては変化する場合もあります。
すると、これまで正しかったと思っていた選択が間違いであったと変わることもあれば、その逆の、間違いであったと考えていたものが、間違いではなく、むしろ正しかった、良かったのだと思い直すこともできるのです。
そう、今までのあなたの次元やフィールドで留まっていれば、選択の基準や評価はほとんど変わりませんが、あなたが次元移行(考え方や経験の拡大、もしくは囚われの縮小)を果たせば、いくらでもそれは変化していくのです。
※()書きにもあるように、次元は上昇するだけとは限らず、下降もあって、自分の枠をキツくしてしまい、これまでより狭い考え方になることもあります。
といいうことは、やはり究極的には「選択」の正しさや誤りなどはないと言えます。
もしあるとすれば、今の次元におけるあなた、もしくは他人や組織・社会等(これらは実体があるようでないものです)の価値基準によって判断されるものだということです。
なお、マルセイユタロットの「正義」が表す基準は、私たちが普通に住み、意識するこのノーマルな世界とは違う霊的なもの(次元の異なるもの)なので、逆に言えば、私たちの生きている実際の世界で行う行為や選択の意味・重要度が、必ずしもほかの次元・世界と一致するものではないということになります。
しかしながら、当たり前ですが、あちらの世界の基準というものはわかりづらいです。(笑)
ですから言えることは、選択に悩むのもよいですが、選択のあと、結果が悪かった、間違っていたと思っても、それは今のこの世界とあなたの現時点での価値観での話であって、別の世界(そこにあなたもいるのです)ではそうでもないことはあるものだと思えれば、いつまでも選択に後悔し続けることは少なくなるでしょう。
マルセイユタロットをお持ちの方は、もう一度、「恋人」カードの絵柄の構成(三人とキューピッド)をよく見れば、色々なことに気がつくことでしょう。
リラックスと覚醒の関係
アイデアやインスピレーションが湧いてくる場所・状況というのは、リラックスしている時が多いと思いませんか?
肩の力が抜け、こだわりもなくなって、気持ちがよい状態の時にいいものが浮かぶということは、誰もが経験していることでしょう。
この理由はあまた書かれているので、今更、ここで指摘することはしません。
そこで、リラックスとアイデア、もっと言うと「気づき」や「浄化」「覚醒」についての関係を、別の角度で考えたいと思います。
リラックスした時、人がいい状態になるというのは先述したように、経験則で皆さんにも自覚できることですよね。
これを逆に考えますと、いい状態にするにはリラックスすることという、これまた当たり前のことになりますが、いい状態になれば気分もよくなり、アイデアやインスピレーションも浮かび、さらにはカンが冴えたり、何か思い悩んでいたことに回答が得られたりすることがあります。
ということは、リラックス状態によるフロー、もしくは中立状態・フラットな状態になっていて、自分の神性(あるいは高い次元)ともつながっていることでもあるといえます。
また言い方を換えると、リラックスするということは、自分の中にある別の知識層・感覚層・脳内ネットワーク、特殊な次元(別の自分・人格)へ移行する瞬間になりやすいということです。
いつもそのような状態であればいいのですが、おそらくそれでは現実生活では過ごしにくいのではないかと思います。もしくは、通常でずっとよい状態にならないための仕組みが、人間には埋め込まれていると見ます。(オートマチック機能がある)
しかし、気持ちの良い場所に行ったり、何かやり遂げた感があったり、お風呂に入ったり、その人なりの環境と行動の変化で、無駄な力(体と心の)が抜けたりして、よりフラットな状態になった時、「いい感じ」になります。
ところでスピリチュアルな世界では、よく「気づき」とか「覚醒」とか言いますが、このためには内なる浄化と変容が必要だと言われています。
それは心の鎖や思い込み、ネガティブな体験などの書き換えなどにつながります。
実はそういった作業は、「いい状態」になるためのバランスを図る(回復させる)ことを行っていると言えます。
つまり私たちは通常でもなかなかフラットというか、力の抜けた状態になりにくいのに、さらに自分で無駄な力やアンバランスな力学(心で特に)を働かせていて、もっと過剰な圧力ともいうべきものを自らにかけてしまって(無意識ではありますが)、ガチガチの状態で緊張しながら生きているようなものだと想像できるのです。
これでは気づきや成長どころか、(心や現実の)問題が生じるのは当たり前ですし、生きるのが簡単ではなく、つらくなります。
そのため、力がかかり過ぎていることに対してバランスを調整しないといけないのです。それは身体のこともありますが、たいていは心(記憶や考え方、認識)が主です。
まるで重しをつけて歩いているようなものなのですから、その状態で「リラックスせよ」といっても無理ですし、リラックスできないのですから、当然「いい状態」にもならず、気づきも覚醒も起きにくく、高次のメッセージも受け取りにくい状況になります。
ですから、霊的成長にも、あるいは幸せな自分になるためにも、まずは緊張している自分をリラックスさせるための、バランス回復や調整、浄化・除去・変換作業が必要なのです。
いわゆるそれは覚醒の準備ですが、実はそれ(準備作業)自体がもうかなりの成果となることがわかると思います。
簡単にいえば、リラックスできる状態を作りやすい自分にしていくということです。極端なことを言えば、リラックスできることであれば、何でもいいのですが、やはりリラックスしやすい自分になるためには、多様な考え方を受けて入れる技術、自分を縛っているものから解放させる学習・実践が効果的と言えます。
自分が遊んでいる時や、飲食している時、お風呂に入ったり、音楽を聴いている時のリラックスした状態を、そういうことをしなくても出現できるように持って行くということになりますが、そのためには、学びと浄化をしていくことが求められます。
また誰にでも簡単にできることと言えば、自分が迷った時や選択に困った時、回答がほしい場合は、自分が現時点でリラックスできる場所や時間、環境で答えを待つとよい思います。
それ(リラックス条件)は人によって違いますので、料理をしている時という人もあれば、それこそトイレをしている時(笑)という人もいるのです。
コツは無理に回答を求めようとせず、何となく気がかりなことを心にとめながらも、リラックスできるものに身をゆだねるという感じでしょうか。
タロットを引く時、リーディングする時も、集中しつつも、ふっと力を抜いて見ることがメッセージを受け取るコツのようなものになります。