迷った時に
救いや変化を求めている時
誰でも苦しい時、大変な時期というものはあると思います。
そんな時には通常の精神状態と思考プロセスが、環境あるいは肉体的な危機によって大きく変わっています。正確に言うとズレてしまっていると表現したほうがいいかもしれません。
いずれにしても、おかしい時にはおかしな考えや行動をしてしまうということです。特に苦しい時はそこから逃れたい、救ってほしい、脱出したいとい気持ちが強くなりますので、それが顕著と言えます。
当たり前と言えば当たり前なのですが、自分が苦しみの当事者になりますと、このことが簡単に抜け落ちてしまい、言わば別人格の自分になったかのような状態になります。
これまでの自分の経験と、人様の相談などで見たきたことで考えますと、苦しみからの脱却は、得てして突然起こるというものではなく、薄皮がはがれるが如く、あるいは水が少しずつ流れて行って、ついには空になるか、逆に流れてきて満杯になるかのように、まさに徐々に変わっていく、救われていくという印象が強いです。
気がつけば、あの苦しい状況・状態から脱していたのを自覚したという感じなのですね。
もちろん、例えば経済的に困っている時に、突然お金を貸してくれたり、融資したりしてくれる人・会社が現れたり、ふいに体の調子が悪い時に、すぐによい治療方法に偶然めぐり会ったりするというようなことはあります。
これにはいろいろな要因が考えられますが、自分の徳が積まれていたり、普段から高い見地にあって明るく生きている人であったりすると、その蓄積されているもの(資源)によって救われていると考えることができます。それは突然のように見えても、実はその人の歴史の財産であり、時間のかかっているものなのです。
ともあれ、総体的には、突如救われるというのは、宝くじに当たる的な幸運救済(見た目の)は少ないのではないかと思います。
このことから、急激に何かを変化させるということは、たとえスピードある効果が望めても、その分、リスクも非常に高いというのが一般的なことであると推測できます。(※ただし毒やウィルスへのワクチン・解毒剤投与の例など、適切で集中的な救済はスピードが増すこともあります)
心であれ経済状況であれ、よい方に変化させたい、自分を変えたいという人は多いでしょうが、やはりあまりに急な効果を期待したり、過剰な反応を望むのは、そもそもの物事の調和(リズム)からはずれているのかもしれません。
マルセイユタロットで、「救い」や「サポート」をもっとも象徴するカードに「節制」というカードがありますが、そこに描かれている天使は、二つの壺の水をゆっくり混ぜ合わせています。
ひとつ前の数を持つ「13」のカードとセットで見ますと、より意味もわかってきます。
すなわち、救済と変容には時間がかかること、あせらないこと、少しずつの変化がやがては大きな救い(進化・発展)になることを読むことができます。
最初にも述べましたように、苦しい時、心が混乱している時ほど思考もおかしなことになっていますので、人はすぐに楽にしてくれるもの(してくれる人)、効果がすぐに現れるもの(それをしてくれる人)などを強く求めます。
しかしそれにつけ込んで(つけ込まれて)、簡単に見つかる方法というものが出てきたとしても、その多くは偽薬であったり劇薬であったりすることが多いのです。
ただし、ゆっくりが大切かもしれませんが、効果があまりにないもの、時間がかかり過ぎるのも問題であり、本当によいものは尻上がりと言いますか、上昇曲線を描いてよい変化を起こさせます。効果が長期間得られない場合、その方法が悪いというのではなく、あなたの救いには合っていないという相性・質の問題もあります。
そして変化には「ポイント」というものがあります。
あるところまで行ってもその後はなかなか上昇しないという地点で、しかしそれを越えれば急激にアップして行くというポイントです。
そこまでの辛抱と言いますか、待てるかどうかが文字通り、重要な「ポイント」となるわけです。
くよくよ悩むことで失われるもの。
一般的に、くよくよしたり、取り越し苦労したりして思い悩むとよくないと言われます。
私自身も、もともとそういう思い悩む傾向がありました。
しかし、タロットや精神・心理の学びをすることによって、だいぶん改善されましたし、その仕組みやメカニズムなども分析するようになってきました。
そこでわかってきたことは、単純にエネルギーの無駄使いになるからよくないということです。
そんなことは誰でもわかるよとおっしゃるかもしれません。まあ、その通りですね。(笑)
ただそのエネルギーの本質が、マルセイユタロットで言えば、「女帝」や「13」、また「力」や「悪魔」などとも関係するものであり、言い換えれば創造性や生命力とも関連するということは、あまり意識されていないことだと思います。
「思い悩む」ということは、実は精神の世界ではその「思い」の創造(想像が創造)を行っていることになり、それだけ何らかの思念エネルギーを使っていることでもあります。
おそらくそうしたエネルギーは、本来、人には無限にあるものと考えられるのですが、それは宇宙や自然といった、私たちの存在を包み込む大きな空間とつながっていることが意識できている人にはそうであると言えますが、通常は遮断されたような感覚となり、限界したものになっていると考えられます。
わかりやすく言えば、宇宙と一体化したような感覚のある人は無限のエネルギーを使えますが、普通の人は自分の思う「自分」という範囲内で限界設定しているということです。
もっと言えば、一般の人は通常、創造エネルギーの容量に限度がある(個人差はあります)ということです。
従って、「ああだ、こうだ」とくよくよ悩むことは、エネルギーの無駄使いとなり、あまりやり過ぎているとガス欠のようになって、そもそもの生命を維持するエネルギーも不足してくることになります。
こうなると、本当に体か心の何らかの病気となってしまうこともありえます。
実はこのエネルギーの扱いは、マルセイユタロットの「運命の輪」と、先述した「力」にも関係し、つまりは自分の運命・運勢にも影響が及ぶことになります。
シンプルに言えば、エネルギーを無駄に使いすぎると自分の運が悪くなった状態になってきます。
ということで、やはり悩み過ぎるのはよくないと言えましょう。
ではどうすればよいのかということです。
それは「悩む」ことの本質を見ることです。
結局のところ、「悩む」ということは、現状では選択できないとか、解決策が見つからない、わからないということです。
であれば、今の自分を超えることで解決されます。
今の自分を超えるとは、具体的には現状の自分の思考・知識・行動パターンを変えることですが、そのアイデアを持つ自分に移行させることが先決です。
すると、自分自身で移行させるか、他人(または外部環境)によって移行させてもらうかになります。
前者は情報収集や学習、自己の行動よる環境の変化ということになるでしょうし、後者は他人、特にその悩み事のテーマの専門家などに相談したり、強制的な外部からの介入だったりするということになるでしょう。
つまり、自分自身でレベルを上げるか、フィールドを変えるか、あるいは、自分よりレベルが上であったりフィールド(分野・場所)が異なったりする人からの救済(引き上げ)の方法が存在するということです。
いずれにしても、どちらもせず、ただ現状レベルの自分のままでくよくよしたり、あれこれ考えていたり(堂々巡り的なもの)していても、解決にはならないことがわかります。
ただし悩みをずっとし続けていくと、ある瞬間に爆発したり、インスピレーションが降りてくることもありますので、必ずしも無駄とは言えません。しかし、その多くはたいてい、その思い悩むことに対して積極的になったり、必死になったりした時です。
後ろ向きの漫然とした「くよくよ」的なものでは、いい意味での爆発は起こらず、エネルギーを消費していくだけに終わりがちです。
タロットカードを使うことは、自分で移行させるひとつの方法ですし、また他人にリーディングしてもらうことは、自分でできにくい次元移行を、より簡単にする方策でもあります。
タロット使う人は、「タロットを使って何をしているのか」を今一度、自覚してみるとよいでしょう。
学びの良し悪しを見分ける。
今回も学びに関することで、ちょっと前回とのシリーズみたいになりますね。(笑)
さて、自分の学んでいることがどうなのか(よいものなのか)? さらには、学び続けてもよいものなのかどうか? という思いを抱いてる方がいらっしゃるかと思います。
その見分け方と言いますか、判断の材料としましては、実益があるかどうかの点で見るのもひとつの方法でしょう。
実益と言えば、まさに「実際に益すること」になり、平たく言えば、学んで何か効果があったかどうかということになります。投資における回収的な発想です。
たとえばビジネスの知識を学ぶ目的の多くは、自分のビジネスの利益を上げる、拡大するというのがあるでしょう。実際に少しでも学ぶ以前に比べてそうなっているのかを見てみます。
精神的なことであれば、心が前よりずいぶん楽になったとか、考え方が変わったのを実感しているかどうかとなります。
ただ精神的なことでも、心が変われば現実も変わりますので、一向に学んでも実際の変化がないという場合は、自分が行動していないか、やはりその学びが合っていないかということになるでしょう。
特に心理的なこと、スピリチュアル的なことでは、心だけではなく、現実の側面も変化があったのかどうか、精査してみる必要があります。
あと、やはり自分がその学びをしていることで、制約が多くなっていないかも確認してみましょう。
「なになにしてはダメ」「このように思ってはいけない」「こうしなければならない」など、意外に学びによっては自分や周囲の人を逆に縛るようになる場合があります。宗教などでは多いことです。
自分が楽になるばすなのに、学べば学ぶほど自分が苦しくなる、周りの人も「あなた、ちょっと変よ」と言ってきたりするのは、どこか間違っているか、バランスを崩した学び方になっていることがあると考えられます。
ただ、精神的・スピリチュアル的なことでは(肉体の健康面においても)、膿出しのように、溜まっていたものを解放・浄化する過程で、一時的に苦しいことやつらいことを経験したり、運が下降したかのように感じたりすることがあります。
大きなジャンプのためには、一度助走のために戻るようなものですね。
その区別は難しいと言えますが、やはりよいもの(自分に合っているもの)は、つらくても自分の奥底で、「これはきっとよくなる前触れ」という感覚、階段を上がっている感じ、そしてある程度の経過があれば、すっきりとしたものが見えてくる、感じてくるはずです。
それからこれがとても大切なのですが、学びには普遍的(全体的)な部分と個別的な部分を持ちます。
そのためにどの学びでも、一般論と特別論があり、つまりは万人に共通するところと、個人的に合う合わないのところが存在します。
ですから、誰かがよかったと言っても、必ずしもあなたにそれがよいとは限らず、その逆もあります。また学びの進度・理解度・表現方法にも個性があります。
一言でいえば、人それぞれの学びの相性、学び方があるということです。
私の伝えるマルセイユタロットで合う人もいれば、別のウェイト版タロットのほうがやはりしっくり来るという方もいます。
また同じ種類のタロットでも、Aさんから伝えられるのと、Bさんから教えられるのでは異なりますし、それに応じた学ぶ側の合う合わないもあります。
しかし基底では、その種類のタロットとして、どの方から教えられても共通の部分があります。
先程、「表現方法」ということにもふれましたが、実はこのことはあまり学びに関しては言われることが少ないです。
学びと言えば「受け入れる」ばかりのように思いますが、本当は自分から発信していく、表現していくのも学びのうちです。両方セットで初めて「学び」だと言えましょう。マルセイユタロットで言えば、「斎王」と「法皇」です。
その表現方法にもまた個性があるのです。
書くことで表す人もいれば、話すことで行う人もしますし、心で表現する人、行動で示す人などいろいろです。
自分と人とを比べてもよいのは、先述した学びにおける「共通の部分」「普遍的な部分」「一般論」です。
あとは個別のところが大半を占めますので、基本的に学びにおいて、期限の決まっている学校などでは仕方ありませんが、人と比較するものではないです。
以前の自分と比べてどうなのか(どうなったのか)、これが学びでは大切なのです。
結局、良し悪しの判断は、自分との絶対比較(他人との相対ではなく)であり、自分と学びの(事柄との)相性みたいなところがあります。
夢の実現のために。
現在は自己実現や夢の達成に向けて、様々な情報・方法が書籍やインターネットであふれ、セミナーなどでもたくさんの人から伝えられているところです。
そう思うと、現代ほど実は自分の夢を叶えやすい時代はないのかもしれません。
一方で、夢を叶えずとも、そこそこよい生活や、いろろいなモノに囲まれて快適な生活も可能ですので、普通に暮らすことで満足する人も多く、あえて夢を持ったり、叶えたりすることもしなくてもよい時代だと言うこともできます。
さらには、情報があまりに多いので、「どうすればうまく行くか?」ということ以上に、「どうすればうまく行かなくなるか」「こうすれば、こういう(うまく行かない)結果が待っている」ということに、昔よりも知ってしまう確率が高くなりました。
自分の抱いていた夢を叶えたとしても、ある程度予想もできてしまい、意欲をなくすという事態なのですね。
また、自分の希望することは結局、今の自分では現実的には不可能な「夢物語、絵空事」だと、情報としてわかってしまう(悟ってしまう)ということもあるかもしれません。
とはいえ、これらも現時点での今の自分の持っている資源、環境、能力によるもので、それは永遠に固定されるわけではないですから、早とちりと言うか、勝手に自分で思い込んでしまっているに過ぎないということもできます。
それでも、夢は夢のままで留めようとしてしまうのは、現代社会の情報の多さということが、一因としてあるように思います。
一見、情報が多いということはよいことのように思えますが、何事もプラスがあればマイナスもありです。
情報が多いばかりに、先述したように、自分ができないこと、やらないことの言い訳・理由にもその情報を使えることが可能になるのです。
自分の行動に向けた有益な情報として採り入れることもできれば、逆にやりたくないこと、やらないことへの言い訳としても利用されてしまうのが情報です。
それも数多くの情報があれば、言い訳にチョイスできる情報も、それこそ無限にあると言ってもいいくらいです。
頭が良かったり(頭が回ったり)、あれこれと想像をよくする人は、かえって行動しない言い訳をうまく選んでしまうことをしがちなところがあります。
それから夢を叶えるのでも、いきなり思っている夢の全部・全容を現実化しようとしても、大変です。あまりに実際と夢との距離がかけ離れている場合、それだけ近づくためには労力がいります。
それで途中であきらめてしまうこともあるわけです。ですから実現のためのステップを刻んで行けばよいのですが、このことは半ば常識的な技術ですので、今や誰でもわかると言えばわかる方法です。
しかし大切なのは、夢と細かく刻んだステップとの質の共有性と、夢へと続く連関性の意味づけです。
たとえば歌手になりたいという人が、まずは地域の駅前でパフォーマンスするという人もいるでしょう。これは最初は地域や路上からでも、次第に舞台を大きく、確かなところへ実現して行くいう「ステップ」です。
このことは誰でもわかると思います。ただ、ここで何でもかでも路上で歌を歌えばいいというのではなく、自分の実現したい夢の質に応じた歌い方や選曲の方法も意識するとよいということです。
それは例えば、他人の歌ではなく、自分の作詞作曲した歌ということもあるでしょうし、いきなりそれでは聴いてもらえないと思うのならば、自分が将来表現したいと思う(のに近い)既成の曲を歌うというのもよいでしょう。
さらには、夢へと続く連関性というのは、路上でパフォーマンスするばかりではなく、歌以外のアルバイトや経験をしていても、常にそれが将来の自分の夢とつながっているという意識を持つことにあります。
「この経験を歌詞で書く」とか、「このアルバイトのお金が自分の楽器につながっている」とか、そういうことを漠然とではなく、一本のラインが太くつながっているようにイメージするということですね。
そうすれば、表現は違っていても、夢が形を変えて現在出てきていることになるのです。自分の人生は意識付けによって、ストーリーが変わってきます。
あなたの夢も、自分の人生において、過去・現在・未来でつながる物語となるように、演出して行けばよいのです。
そして、先述したように、現代では「やらない言い訳を探す」には、ものすごく便利な時代になっています(苦笑)ので、そらちに意識を向けるのではなく、達成できる理由、行動できる情報を仕入れていく方に意識づけて行くとよいでしょう。
やりたくても、どうしてもできない場合。
やりたくてもどうしてもできないこと(自分ができないと思うケース、外からのものでできないようになってしまう場合、どちらも含みます)、こうした経験は誰しも持っているのではないでしょうか。
「どうしてもできない」というのには、いろいろなタイプと理由がありますが、大まかに分けると、
●心のブロックによる問題
●環境や物理的な問題
●時期の問題
が考えられるでしょう。
まず普通にあるのは、2番目の環境や物理的問題で、たとえばお金がない、人がいない、実際の手段が思いつかないなどのことです。
この場合は、物事(したいこと)を象徴的にとらえ直すと、意外に解決の糸口が見えます。
この場合の象徴的というのは、物事をそのまま見たりとらえたりしないということで、平たく言えば、本質に転換するということになります。
もう少し具体的に言えば、規模を縮小したり、拡大(抽象化)したり、質を変えたり、さらには段階化することを意味します。
たとえば外国旅行に行きたいけれども、「旅行したい」ということが本質ならば、まずは国内であまり見知らぬ土地へ行ってみることをする、というような具合です。
本質が外国の文化に触れたい、外国人とコミュニケーションしたいということであれば、予算の範囲内で行ける国に変えるか、旅行期間を短くするか、はたまた行きたい国の人で国内に住む人と交流したり、友人になったり、インターネットを使ってコミュニケーションしてみるなどが考えられます。
そして、問題なのはやはり「心のブロック」のほうで、環境的には整っているのに、気持ちだけ振り切れないということならば、それはもう心に何か鍵をかけたり、不安があったりするわけです。
それを解除したり、浄化すると、とたん行動が変わってきます。
実はチャンスは結構転がっているものですが、それを阻んでいるのは、自分自身の考え方・思い方であるということは多いものなのです。不運は自分が想像し、創造していると言ってもよいでしょう。
あと、時期・タイミングの問題というものがあり、これが意外に重要です。
人にとって、その物事を経験するのにはまだ時期尚早であったり、今のタイミングでは十分に味わえなかったり、中途半端であったりすると、天(内的な高次の自己と言ってもよいです)が「待った」をかけるわけですね。
月に満ち欠けがあるように、人が生まれるまで期間がかかるように、自然や生物、物事にはすべて創造と発生(または死滅)のタイミングがあります。
潮の満ち引きによって魚の活性も異なり、これを無視して釣りをすると成果が上がらないように、TIDE TIME 潮時(しおどき)が重要です。
潮時と言えば、幕引きみたいに使われることが多いですが、言葉の使い方の正しさとは別に、ほかにも「始まり」や「達成」の時も潮時と言ってもよいと考えられます。
マルセイユタロットではこの潮時を「運命の輪」で象徴しています。つまり運命もタイミングなのです。
何かをやろうとしても妨害があるかのようにうまく行かない、どうしても行うことができないようになってしまうというのには、何か背景に意味があるのだと思ってよいでしょう。
それ自体がダメだというメッセージもあるかもですが、自分の真剣さを試されていることもあれば、今述べたような「満ちる時期」「タイミング(潮時)」の問題もあると考えることができます。
お試しであれ、それ自体がダメというメッセージであれ、言えることは、今のやり方や方法(時期も含む)ではまずいということは間違いないと思います。
それ自体がダメな場合は、やり方を変えてチャレンジしても、やはり自分も人もネガティブになるような事態や心になり、それは止めたほうがよいということかもしれません。
お試しの場合は、最初は八方塞がりのようでいて、チャレンジする度に、おそらくどこかに希望を見い出せる展開になっていると思います。チャンスの鍵や希望のメッセージが、その過程において少しずつであっても、託されているのを見ることができるのです。