迷った時に
情熱、欲求に傾く方向の良さ
皆さんは、あの時、なぜあんなにもあれに熱中したり、熱心にやっていたりしたのだろうと思うことがあると思います。でもそれは反省する気持ちもあれば、懐かしく思うこともあるでしょう。
それを思うということは、つまりは、ふたつの心の状態がある(あった)ことを認めていることになります。
すなわち、何かに燃えたり、集中したりする心と、冷静だったり、安定したりする心です。もうひとつは、行動を振り返り、今に活かそうという「学び」の心と、懐かしく味わう経験から来る「豊かさ」です。
当たり前の話ですが、人間、我を忘れて心を燃やす時と、平常で冷えたような心とが交互に存在したり、あるいは回転したりします。平常心と非平常心みたいなものです。
スポーツやスピーチなどでは、平常心で行うということが推奨されることが多いですが、必ずしも平常心がいいとは限りません。
何か思い切ったり、新しいことを始めたり、変革が必要な時は、過剰なる心、燃える気持ちがないとできないことがあります。
ところで、タロットの象徴関係で四大元素という概念がありますが、この四大元素とは西洋占星術でも使われる古代からの物事・状態を把握する装置や思考体系のようなものです。
四大元素は「風」「水」「火」「地」もしくは、「火」「地」「風」「水」と呼ばれる順序で、4つのエレメントを考えます。
この4つは、さらに二つに、いろいろなやり方で分けることができるのですが、ひとつ紹介しますと、 「風」「火」のグループと「水」「地」のグループでまとめることができます。
これが「舞い上がる心」と、「落ち着いた気持ち」を象徴していると言ってもよいです。(厳密にはもっと細かなとらえ方にはなるのですが)
何を述べたいかと言いますと、こうした四大元素の観点からも、私たちのエネルギーや状態は常に循環したり、移行したりしているので、いつも同じ状況にはなく、しかしながら、またすべての状態はいつも内包されているということです。
タロットで「運命の輪」というカードがありますが、それを見ると「運命の輪」の回転状況は、描かれている動物の「犬」と「猿」に象徴される事柄のバランス(もしくは運動状態)によることがわかります。
本来はこの輪の上に乗っている「スフィンクス」の状態になるのがよいように思えますが、「運命の輪」そのものを回すためには、むしろ輪に乗っている「犬」や「猿」を動かすほうがよいのではないかと見えてきます。
これが、どちらかに傾くような動きや感情、思いの入り方で表されることがあるのです。
つまり、平常な心ではなく、過剰なる気持ち、熱情(情熱)、時には欲求や欲望によって突き動かされるものによっても、輪は回るということです。
それだけではなく、まったく逆の、情熱のない、冷め切った心、虚脱感が極まってくると、これも輪が回転していくことになります。
ほかにも「悪魔」や「力」のカードなどと関連することですが、詳しくは長くなるのでこれくらいにしておきますが、とにかく、変化を起こすには、前にも書きましたが、バランスを崩すくらいの思い切った傾きが必要なことがあるのです。
となれば、あまりに慎重に、すべてを予定調和のうちに終わらせたいというような気持ちを、場合によってははずし(これは見方を変えれば心のブレーキをはずすということでもあります)、一気になだれ込むかのような冒険をしてみるのもよしとなります。
簡単に言えば、やりたきゃやれ!、つべこべ悩まず、後先考えず、Go!ということです。(笑)
迷った時は、「人生」そのものを考えるとよく、そうすると、「しょせん短い一生だから、何でもやってやる!」と見るか、残りの人生を計算して、「無駄なく有用な学びや体験をしていくか」という方向性になると思います。
どちらも個人の考え方・生き方によりますし、また同じ人でも、時と場合によると思います。
結局、悔いのない人生を送ると思った時、あなたはどう選択するかということを考えれば答えは見つかりやすいと思います。
最初のほうにも書いたように、どんな体験であれ、あとになると「懐かしく」思える気持ちが人にはあり、その懐かしさは、実は心の豊かさとつながっているわけです。だから、選択の間違いということは、たとえ短期的にはあるように見えても、究極的な意味ではないと言えます。
ひとつだけ忠告しておくとすれば、熱情や欲望に傾いて改革を起こしたり、「運命の輪」を回転させたりするのでも、ただ「溺れる」のではなく、自覚をもっていること(こういうことをしているのだ、こういう状態にあるのだ)が死活の意味合いを持つほど重要になります。
言わば、夜寝ている時、夢を見ながらも夢を見ている自分を自覚するようなことと言ってもいいでしょう。
それは難しく言えば、グノーシス意識なのです。
その意識を獲得したり、認識したりするためには、マルセイユタロットのような優れた象徴体系のツールが必要です。
考えない方向と考える方向
人間は徹底的に考えるか、逆に難しく考えずに思いっきりシンプルにしてみるという、ふたつの真逆ともいえる方向性で楽になることができます。
どちらを選択するかはケースバイケースですが、最近の傾向としては、思考を排除する方向性を推奨する傾向が目立つ気がします。
現代人が情報の洪水のような社会にいるので、ただ普通に暮らしているだけでもいろいろと考えさせられる状況ですから、思考過多に陥る私たちにとっては、思考を少なくしていくというのはうなづけるところがあります。
まさにマイナスの創造といってもいいのですが、不安が不安を呼ぶ形で、あれこれと私たちはいつも考えすぎてしまい、自分で自分をかえって苦しめていることは多いものです。
これは私が考えすぎて虚無的になっていた時に、ある人から実際にアドバイスされことですが、「人間も動物」だとレベルを下げて抽象化してしまえば、動物たちが示す「ただ生きようとする努力・本能」が人間にも見るべき視点として出てきます。
人間は変に、「こんな状態で生きていても仕方ない・・」とか、「何のために私は生きるのだろうか?」など悩みがちですが、人間以外の生き物は、どんな傷つこうが、どんな状況に陥ろうが、生き延びようと本能的に努力します。
人間は下手に自分の立場や使命とか生き甲斐とか大きな意味を考えすぎて、かえってそれで悩み、生きることそのものの力を失うこともあるように思います。
人も結局は生き物だと見れば、ただ生きること、生かされていることにシンプルにたどり着き、そこから生きるというパワーと活力が見い出されるようになるかもしれません。
これが次元をあえて下げて、根源(たとえれば「大地」)まで自分を同化することで、問題を解消する方向性です。
一方逆に、考えに考え抜く方向性もありです。
これは古代ギリシアで哲学として、「物事の本質は何か?」などと、徹底的にソフィスト(哲学者・知を愛する者)たちが議論しあったことに似ています。
考えるとなると人の意見も聞くことになり、時には他人からの批判もあって、「自分が考え抜く」ということは容易なことではありませんが、それでも人の主張や文献なども参考にしながら、自分なりに本当に考えに考え抜いた結果、あるところから突然、「答え」のようなひらめきで何かを悟ることができるように思います。
多くの人は「思考」はエゴだとか、邪魔だとか言うのですが、私には逆に純粋なものに行き着くための羽・乗り物だと「思考」のことを思っています。
思考に操られるのではなく、思考を乗りこなすこと、マルセイユタロットの「戦車」のカードや、「鷲」の象徴を見ていると伝わってきます。
特に重要なのが、思考による「段階(階梯)」です。
考えて得たと思った答えが、また別の否定だったり、規定外のことだったりで、出した結論では納得できない状態、説明不可の段階がやってきます。
そこからさらに思考のレベルを上げて、新しい答えを出す必要があります。その繰り返しにより、私たちは気付けば最高度の「答え」と、その奥にある何か、物事の本質、プラトンの言うイデアを観照することが可能になるのです。
ここまで来れば、そのイデアに象徴される全ては、美しいものとして輝き、人生そのものも美と善として真実味(別の意味でのリアリティ・充実感)を帯びます。簡単にいえば、「生きていることがすばらしい!」となるわけです。
こうして考え続けていく方向性も、自分を楽にしたり、解放させたりすることになるのです。
思考を排除したりシンプルにしたりする方向性と、徹底的に思考をつきつめていくという方向性のふたつをうまく生活の場面の中で取捨選択しながら、私たちは自分自身を生きやすい存在とさせ、奴隷ではなく主体的に生きる「人間」として尊厳を取り戻していくことができます。
それは世界や宇宙(神)を讃えて、自己の人生をワンダフルに過ごして行く方法でもあるのです。
「自分探し」から「自分出し」へ。
この前、ある人と話していますと、面白い言葉が出てきました。
それは「自分出し」という言葉です。
実はその方は、誰もが行うように、昔はよく「自分探し」をしていらっしゃったようなのです。
しかし、次第に今は、自分らしさを出す、まさに「自分出し」ということに集中されているようです。
ひと頃、いや今でも流行っているのかもしれませんが、「自分探し」をしている人は少なくありません。
これには私は否定も肯定もしません。いや、むしろどちらかと言えば、今は肯定派でしょうか。
それは私自身も「自分を探してきた」経緯があるからです。自分が見つかったのかどうかと言えば、「見つける見つからない、その観点から脱却した」ということが、「見つけた宝物」かもしれません。
ですから、いずれにしろ、「探す」というのはプロセスとして大切だと感じています。
ところで、「自分探し」には否定的な人もいます。
曰く、「自分など探しても見つからない」 あるいは、「自分はそもそも探すものではなく、自分であることを認めることである」など・・です。あ、ちなみに後者の言葉は、今私が作りましたが(笑)、似たようなことを述べている方もいますよね。
そう、私も実は否定派になることもあったのです。このように、人はいろいろとその時その時の感じ方で変わることがあるものです。
そして、自分探し否定派の人も肯定派の人も、つまるところ、「自分」というものをテーマにしているということでは同じであり、見方が異なるだけなのだと気がつきます。
だからこそ、「自分出し」という発想も面白いのです。
自分探しをして、自分を発見するのもいいでしょうし、見つからなければそれもよいのです。
あなたは実は単一ではなく、たくさんの人格・パターンで形成されているものであり、見つけても見つけても、また出てくる可能性もあるのです。
自分らしさというものは、もしかすると、ずっとわからないものかもしれません。
ただ、言えるのは、素直に自分を出してみることにチャレンジするのも、また楽しいことではないかということです。
本当の自分は何のなのかとつきつめる必要はなく、その時その時のフィーリング・周囲や社会的常識などで縛られない、有りのままの感じを出せる時に出してみる、そういう取り組み方でよいのではないかと思います。
それには、最初に出た人も述べていましたが、環境や出す(出せる)相手も大切です。
自分が素直に気持ちを表現できる友人やパートナーがいればいいわけですし、そういう人がいない場合でも、気持ちが落ち着いたり、偽りではない素の自分がよく出せたりする好きな場所に行けばよいでしょう。
また環境や人に頼るのではなく、自分の心のとらわれをばすしていくワーク、考え方を採り入れるなどもひとつの方法です。これは内から「自分を出しやすくする」やり方ですね。タロット学習もその一助になるでしょう。
自分探しが一段落ついたら、今度は自分(らしさ、自分の気持ち)を出す、「自分出し」に挑戦してみましょう。
あ、一言追加しておきますと、「自分出し」にはパートナーのいる「恋愛」が一番効果が高いように感じるでしょうが、これも両刃の剣で、相手に気に入られようと自分を変えての「自分出し」は「自分出し」とは言えず、「自分縛り」ですからご注意を。
ともに気持ちよく、素直になれる関係がよいのです。(恋愛初期は誰でもお互いをよく見過ぎの傾向にあり、素直になれる「気がしている」ので、それも注意です。真実は自分たちに、タロットで言う「運命の輪」の回転とともに教えてくれます)
成長や変化をあせらない。
私事で恐縮ですが、ブログのタイトル部分にもバーンと(笑)記していますように、私は地方自治体の職員、つまり元公務員でした。
だいたい、公務員を選ぶような人は、保守的と相場が決まっています。
表面的な理由はどうであれ、心の奥底には安定・安心・安全の欲求、その傾向が強い人ではないでしょうか。
私が公務員を目指した理由は、安定とは実はほど遠い理由ではあったのですが、しかしなから、よくよく見てみますと、やっぱり「決まっている」ことの安心感・安定感で選択したということがありました。
まあ、実際に入庁してみると、まったく世間の人が思う(当時の私自身のイメージでもありましたが)ものとは違っていて、大変なことろではありましたが・・仕事というものは、どこでも何でも、それなりに苦労はあるものです。
それで、何が言いたいのかと申しますと、このような保守的・安定志向の私であっても、今はタロットの講師やタロットリーダーをしているという事実なのです。(苦笑)
世間一般から見れば、タロットと聞けば「占い」ですし、平たく言えば私のやっていることは、占い師と占いの先生みたいなものです。(^_^;)
何かうさんくさい感じもあるでしょうし、およそ公務員とは正反対の仕事とも言えます。安定感というものでも、公務員とは比べものにならないくらい、不安定の方に傾いています。(笑)
しかしながら、経済的なことはともかくとして、今の方が気分的には、はるかに公務員より安定しているという不思議さがあります。
なぜなのでしょうか?
開き直りといえばそうかもしれません。ではたとえ開き直りだったとしても、保守的で安心を求める傾向にある私が開き直れているのはどうしてなのでしょうか?
本当は開き直ってなどおらず、まだまだ不安や心配性なところ(もともとそういう性質があります)も多々あります。
それでも、やはり公務員時代よりかは、かなりましなのです。
それは、マルセイユタロットと出会い、いや出会う前からかもしれませんが、精神的なこと、スピリチュアルなことなど様々にふれて、学んできたからです。
しかし、柔らかな感性を持つ女性の方々や、もともと革新的な人、柔軟性のある人とは私は違い、スピリチュアル志向に変転したとはいえ、かなり頭は固いほうで、それこそ、頑固な鎧はなかなか脱ぐことができませんでした。
今でも鎧は、ほかの精神的・スピリチュアル的傾向の方よりも、着ている量が多いと感じます。
それでも、こんな私だからこそ、少しずつの変化でも大きな変容と実感できるのです。
他人と比較する相対的なものでは、「タロットなど扱っている割には堅い人だなあ・・・」と思われることもあるかもしれません。(もう、見た目からしてそうです(苦笑))
しかし大切なのは、他人ではなく自分と比べる絶対値なのです。
私は明らかに公務員時代よりも解放(開放)的になっています。(こう見えても・・・ですが(笑))
モノの見方もずいぶん拡大しました。ほかの人からすれば、薄皮をはぐようなコツコツですが、確実に「はいでいっている」のです。
だから、皆さんも心配しないでください。
こんな堅い私でも、鎧は少しずつですが解かれていっているのです。
重かった分、脱げていけば、すごく軽さを実感します。
漫画・アニメの「ドラゴンボール」で、主人公たちが戦闘力をアップさせるために修行をしますが、最初の師匠・亀仙人によって課されたのが、「重たい亀の甲羅を背負って走る」というものでした。(亀仙人の名の由来でもあります)
主人公・孫悟空たちはこれを背負って生活しつつ修行し、後に甲羅を脱いだ時、自分たちが飛躍的に跳躍力や技、体力が増していることに気がつきました。
このように、堅い人、頑固な人は、この世であえてハンディを最初から背負い、自分を鍛えているようなものなのです。
しかし、いつまでも甲羅を背負っているわけにはいきません。やっぱり大変で、しんどいですから。(笑)
別にアニメの登場人物のように、あなたは戦いをするわけでもないのですし、そろそろ重たい鎧を脱いで行きませんか?
無理に一気にしなくてもよいのです。少しずつでも学びと気づきを実生活とともに行っていけば、自然と鎧ははがれていきます。
あせらず、自分にとって必要なことは、「起こるべき時には起きる」ようにできていると信じ、進んで行きましょう。本当に人と比べるのではなく、自分との比較でOKです。
マルセイユタロットを学ぶことは、この鎧を脱いでいくことにつながりますし、加速度が増します。とはいえ、あくまでそれも自己のペースでよいのです。
バカポンパパの言葉の救済力
妻と昔の話をしていた時、公務員時代のことが出てきました。
その時、入庁し、赴任する過程で知り合った友人がいます。もしかすると彼もこの記事を読んでるかもしれませんが、とても楽しい人で、私とはある意味正反対のところをもっている人物でした。
彼のおかげで、私はさらに「人間」、特に「異性」(苦笑)というものを知ることができたのですが、それはまたの機会にお話します。
で、何のことだったのか忘れたのですが、彼とあることをしていて、二人とも疲れてしまい、「このまま、もし走ったら、苦しくて絶対アゴとか腹が出てしまってかっこ悪いよな・・」と語り、どちらからともなく、「それじゃ、まるでバカポンのパパの走りだよ」と笑い合ったのを思い出したのです。
そこから私はなぜか、彼からバカボンのパパのことに意識が移行し、「そういえば、バカポンパパって、結構今から考えると、哲学的、スピリチュアル的とも言えるセリフを吐いていたよなあ・・」という思いに至りました。
気になって、「バカポンパパ 名言」のキーワードで検索してみると、あります、あります。
まず、なんと言ってもバカボンパパと言えば、「これでいいのだ!」が挙げられます。
これって、すごい言葉ですよね。
まさに「自分」に帰る、自分らしさを取り戻すアファーメーションのようにも思えますし、自然体、流れるままに・・という印象も受けます。
特に対人関係などで悩みすぎる人には、「これでいいのだ」と思うだけで、ずいぶん心も楽になってくる人もいるのではないでしょうか。
ほかにも、相談のケースで多い、子供さんのことで悩む親御さんに聞かせてあげたいのが、
「子どもをいつまでも親のものにしておくのは間違いなのだ!!これが人間界の摂理なのだ!!」
これ、ホント、なかなかすごいです。
そして、やはり極めつきは、これでしょう。
わしは バカボンのパパなのだ
この世は むずかしいのだ
わしの思うようにはならないのだ
でも わしは大丈夫なのだ
わしはいつでもわしなので 大丈夫なのだ
これでいいのだと言っているから 大丈夫なのだ
あなたも あなたで それでいいのだ
それでいいのだ
それでいいのだ
わしはリタイヤしたのだ
全ての心配から リタイヤしたのだ
だからわしは 疲れないのだ
どうだ これでいいのだ
これでいいのだ
やっぱりこれでいいのだ ~
特に後半、「わしはすべての心配からリタイヤしたのだ」という文句は極めて名言だと思います。
まあ、そうできないからみんな悩むわけですが、「リタイヤ」という表現が面白く、どこか肩の力を抜かせますよね。
普通は一生懸命働いていたことから、のんびりリタイヤするというようなことで使われる言葉ですが、私たちは何より、心配とか、思い込みとか、自分を知らず知らず縛っているものなど、とにかくいろいろなことを頭の中でイメージし、創造し、それによってとらわれ、心配しています。
これはまるで、(よくない)労働と同じです。いわば無報酬の過酷な労働を強いられたり、理不尽なつきあい残業につきあわさられているようなものなのです。
それくらい、「心配」が精神エネルギーを浪費していると言えます。
時にはバカボンパパのように、「これでいいのだ!」と開き直ったり、「自分は自分」とただ流れに身を任せ、楽しむような気持ちになっていいと思います。
そして、心配から少しでもリタイヤしましょう。そうすると、あなたもバカボンパパのように、「疲れないのだ」となります。
なお、「バカポン」(の登場人物名や世界観)は、仏教(禅を含む)とその用語から来ているという話もあります。
赤塚不二夫氏の生み出したギャグ漫画ではありますが、その本質は非常に奥が深く、忙しく囚われがちの私たち現代人に、解放の示唆を与えてくれるものだと感じます。
マルセイユタロットでいえば、「愚者」が「節制」に変化(へんげ)したようなものです。