迷った時に

愚者 何者でもないこと

私はタロットを扱い、いわば仕事にもしていますので、人から見れば「タロットの専門家」という感じになるかと思います。

しかし、自分自身は、タロットの専門家でもないですし、かといって、タロットの愛好家とも言えません。

前にも何回も書いていますが、たまたま、自身の好みと探求の方向性において、「マルセイユタロット」をモデル・ツールとして使うことがふさわしく、理に適っていると考えているからです。

従って、奇妙なことが私には言えます。

それは、タロットにおいて“何者でもない私”になってしまうということです。

ここで言う、何者でもない、というのは、タロットの歴史・研究マニアでもなければ、魔術的タロット実践者でもない、かといって、タロット占い師でもなければ、また心理的タロット研究者でもない、ましてやタロットコレクターでもないわけです。

ただ、自分の弁明(笑)のために言っておきますが、一応、マルセイユタロットにおいては、深くやっているつもりで、少しずつつまみ食いをして、広く浅くタロットと関係しているというタイプではありません。(笑)

で、何を言いたいのかと言えば、何者でもない感と、何者かでありたい感について、ちょっとふれたいがためです。

「何者でない感」は、逆に、「何者かでありたい」という感情が裏返し・セットになっていることがほとんどです。

人は、自分が特定できる何者かであり、人からも「こういう人だ」と認められることに安心感を持ちます。

一方で、特に、他人から言われる「自分像」に抵抗を示す気持ちも、多くの人にあります。

心理的によく言われるように、「自分だけ知る自分」というものがあり、さらには「自分さえ知らない自分」というのもあります。だから、当然のように、他人から見られている自分像というのは、ほんの一面に過ぎないことを、自らも(無意識な面も含めて)わかっています。

この、特定されたい、個性を指摘されたいという一面と、反対に、特定されたくない、人の言う自分ではない(人の言う自分にはなりたくない)という一面との、アンビバレンツな感情が人にはあるわけです。

結局、安定と自由の葛藤であり、維持と破壊のふたつで揺れる存在(が人間)とも言えます。

「何者かである」とされた時、人は固定され、言わば自由を失います。束縛と同じようになるわけです。しかしながら、その恩恵も大きく、何かに属し、レッテルを貼り(貼られ)、個性が与えられると、その箱(範囲)で安心して暮らすことができます。

自分がそう振る舞うことで、ほかの余計なこともしなくて済み、精神的な(組織に属せば、物質的にも)安定が得られるでしょう。

ただ、いつか「本当に自分はこうなのだろうか?別の自分がいるのではないか?」という、確保した安定性と付与された個性を放棄したくなる「破壊」的な疑念と、新たな自分を見出したい衝動も出てきます。

マルセイユタロットの大アルカナで言いますと、皆、どれかひとつ(か、幾つか)のカードが表す「自分」というものに、一度は落ち着きます。ただ、本当は「愚者」かもしれず、「愚者」は数を持ちません。ということは、どの数でもなく、自由であり、何者にも特定されていないわけです。

「愚者」の絵柄を見れば明らかなように、旅姿をしています。つまり、「愚者」に戻れば、本当の旅が始まると言えるのです。

あるいは、特定されたカードから「愚者」に戻って、また別のカードになるために旅する、その繰り返しかもしれません。

もちろん、人には生まれ持った性質とか、宿命のようなものもあるでしょう。それらは言わば、初めからなじみのあるカードとも言えますし、手札として最初から配られたカードとも言えます。

ですが、基本、皆、「愚者」だと思えば、ほかのカードは、自分の仮初の姿に過ぎないと言えます。

人との違いが商売とか経済的なもの、あるいは生きる楽さ(落差)にもつながってしまう今の世の中で、「自分は何者でもない」と悩む人も多いかもしれません。

それでも、マルセイユタロットで言えば、皆、「愚者」なのですから、それが当たり前と言いますか、「愚者」であることが旅を自由にさせるとも言えます。

これは責任放棄を勧めているわけでは決してありませんが、「愚者」という何者でもない者として自分を取り戻せば、背負い過ぎているもの、強制的に演じさせられているもの、それらからは解放されて行きます。

マルセイユタロットを手にすれば、あなたは「愚者」として本当の旅を始めることができます。

占いも救いになるかもしれませんが、かえって自分を何者(成功者など)かに固定することに迷わされ、空しくなることもあります。そういう人たちは、マルセイユタロットの学びによって、実は守られるかもしれません。

矛盾した言い方ですが、特定からはずれることで、自分自身が守られることもあるのです。これは語弊がありますが、言い換えれば、(いい意味での)目標放棄に近いものなのです。


世界や人生に意味はあるのか?

このテーマは、何回か取り上げたことがあるものです。

世間でも、「(明確に)意味はある」という考えと、「意味はない」というものに二分され、様々な意見があるようです。

私自身は、マルセイユタロットを見ていると、どちらもありで、どちらでも言えるという立場を取っています。

マルセイユタロットの大アルカナで例えると、ある意味、「愚者」と「ほかのカードたち」という形になるでしょうか。

「愚者」を人物として見ると、彼自身、「世界や人生に意味はなんてないさ」というように答えるでしょう。(笑)

そしてまた、もしかすると彼は、「そうだね、もし意味があるとすれば、僕の行先そのものかな」と続けて言うかもしれません。

これは、「愚者」の旅に意味があるというより、その旅先・訪問先自体に何かの意味がつけられるという風に考えてみてください。つまり、訪問することに意味があるのではなく、その場所での経験に意味づけすることができるというものです。

訪れた場所で楽しい経験をしたのなら、そこは楽しむという意味、嫌なことや苦いことを体験したのなら、そこは苦痛の意味、何か学んだと思ったのなら、学びという意味があったという具合です。

結局、大きな次元・レベルで見れば、世界や人生に意味などないと言えそうですが、一人一人、個人個人にとっては、何かの意味をつけたり、見出したりすることはできるのです。その自由が許されているのが私たち人間と言えましょう。

ですから、自分の思いというものが世界や人生を意味づけるということになるわけてすが、面白いことに、私たちは自分一人で現実世界を生きているわけではありません。

また、考え方や環境も同じではなく、極端に言えばバラバラな世界です。

よって、他人から、あるいは様々な環境・状況から、私たちは影響を受けることになります。なかなか孤独に一人だけで生きることは難しいですから。

ということで、ほかから影響を受ける度に、自分の思いや考えも変わり、そのため、世界と人生に意味づけする内容も変容する可能性が高いです。

結局のところ、自分で意味づけしようとしても、周りの影響は多少なりとも受けるので、世界や人生の意味を自分一人では決められないということになります。

であるならば、やはり、世界と人生は、私たち全員によって意味づけられていると見ることができます。このことの意味は、まるでタロットカードが、一組全体によって成り立っているというのに似ています。

世界や人生には、究極的には意味はないですし、意味をみなくてもよいレベルがあると言えますが、現実的には意味を見出さないと生きづらくなるのも確かです。その意味自体も、自分と他者によって成り立っていることを思えば、いがみ合い、争うより、協力し、調和を意図したほうがよいと言えるのではないでしょうか。

さらに、たったひとつのこと、たった一人のこと、ほんのささいなことに救われる意味を見てもいいでしょうし、使命を持ったり、社会を改革するような大きな志を抱いたり、活動したりすることに意味を見出すのもまたありでしょう。

自分が演じている劇に実は意味はないのかもしれませんが、演じているうちに劇のテーマが決まってくるかもしれませんし、自分がこうだと決めてもよいわけです。

言わば、私たちは、マルセイユタロットの「愚者」そのものと言えるのです。


天の自分と地の自分

マルセイユタロットでは、リーディングにおいて、特に高度になってきますと、視点や見方が複雑になってきます。

言い換えれば、いろいろな立場とか段階(レベル)での見え方、読み方があり、同じカード展開でも、様々な読み方が可能になるのです。

そういった数ある見方のうちに、天上的視点・地上的視点というものがあります。

平たく言えば、神の視点か、人間の視点かみたいな話です。

もちろん、私たちは神などなれるわけではないので(スピリチュアル的にはどうかわかりませんが、ここでは常識的な話においてでは、です)、当然、神の視点などわかるはずもありません。

しかし、あえてタロットの象徴性から、神と言ってしまえば大げさですが、通常の意識・次元を超えた視点、見方を援用しようというものです。マルセイユタロットならは、それができる体系・システムがあるのです。

とはいえ、読み解くのは人間ですから、どうしても人間である視点・視野からは逃れることはできません。それでも、天と地、神と人という対比、構造を設定しておけば、たとえ人間が読み解くにしても、いつもよりは違った見方を導入することができるのです。

このふたつの視点・見方を持つことは、生きづらさを感じている人や、どう生きてよいのか、何を選択すればよいのかに迷っている人には、よいメソッドとなります。

ふたつに分けると言うと、結局「分離」であるので、特にスピリチュアルな教えに傾倒している人には、「分離」という言葉だけで嫌悪感を示すかもしれませんが、分離の逆の「統合」においては、ふたつの違いを明確を理解しているからこそ、できることなのです。

ですが、分離の弊害も確かにあります。

分ける視点自体はよいにしても、天か地かに極端に分かれてしまうことに問題性が出ます。

あまりに天を求めすぎると、地から離れることになり、要するに現実逃避となり、生きている実感がより乏しくなったり、現実世界そのものに嫌気がさしたり、虚無感に襲われたりします。

あるいは、自分がほかの人よりはえらいとか、神から選ばれた存在だと特別視して尊大になり、周囲のものを見下し、軽く扱うようになってしまうこともあります。(これはマルセイユタロットでいうと「悪魔」のカードの問題性の部分ですね)

逆に、地、つまり現実や人間的なものにフォーカスし過ぎると、精神性や霊性を軽視し、人生・生活の質、クォリティを物質中心や実際の成果に置きがちになり、勝ち組・負け組の世界での競争に明け暮れることになります。

また、結局、他人と比べ、何もできない自分、特別な何かを持てない自分、人から認められない自分というものに悩まされ、天を求めすぎるのと同様、現実が空しくなってしまいます。

つまるところ、どちらかに極端にならず、ふたつの間のバランスを取っていくのが、まずは落ち着けやすい方法かと思います。

そしてここからが肝心なのですが、天と地、これを大目標・理想と、実際や現実での表現方法というふうに考えてみるとわかりやすくなります。

人は地、現実の中でなりたい自分とか、理想の自分というものを目標として持ち、それに向けて努力する人もいれば、「そうなれば理想だけど、無理よね」「そんな夢みたいなこと言うより、現実を見ようよ」という具合に、理想をあきらめてしまう人もいます。

しかし、これはいずれにしても、地(実際・人間性・現実時空)の中での話です。

ここにとしての、別次元とでもいうべきフィールドや世界を想定し、自分はそこの住人でもあり、だからこそ、そこでは本当の理想的な自分でいることができる、理想を実現している自分であると見ることができます。

ですが、地上世界、実際の現実とは違うので、まったく同じにする、同じになるということは難しいです。

そこで、天の自分である理想を、地の自分がいかに表現できるか、その方法や、やり方を楽しむような視点に変えます。

地の世界は天の世界とは異なるので、先述したように、そのまままったく同じにすることは困難でも、天の理想を地として別の形で表すことができないかと考えるわけです。

つまり、設計図(理念)と実際の家(現実にやれること)の違いみたいなものです。

理想と現実が違うことは、言われなくてもわかっている人はほとんどでしょう。

しかし、ここで言っているのは、天の自分と地の自分は違っていても、本質的には同じ自分の中の二人であり、この関係性を意識して結び付けることを常態化すると、自分の(現実)での環境、行動、思いに天の自分の意思が入ってくるようになるということなのです。

一言でいえば、「このために生きている」という信念のようなものが生まれてくるわけです。

天命を知ると言い方がありますが、それよりも、天命を生みだす、天命を地上にリンクさせるみたいな言い方のほうが適切でしょうか。

そうすると、自分のやっていることだけではなく、やらされていること(現実世界ではそのほうが、認識としては多いでしょう)に対しても、天とリンクさせることで、天に沿うか、沿わないかの視点でもって判断でき、ここは耐えるべきか、無駄なことをしているのでさっさと次に行くべきかなどが、自ずとわかってくるのです。

言ってみれば、理想の自分、理想の在り方としての自分(天の自分)と相談するような感じで、天の価値観を入れながら、地上、現実としての自分の行動、表現を決めていく(決められていく)わけです。

すると、よくあるように、これは試練(耐えることなのか)なのか、無駄な(犠牲になっている)ことなのか(やめていいものなのか)などの迷いで、今までよりかは判断がしやすくなるはずです。

天という自分の理想や在り方からすれば、地上・現実でやっていることは、大きくはずれているのではないかと思えば、やっていることにこだわらなくてもいいですし、やはり、天から見ても必要なもの、それに沿っていることだと思えば、一見嫌なことや、つらいことであっても、ここは耐えるべき、経験すべきことだと理解ができるかもしれません。

注意すべきは、天と地を、同一なものと錯覚しないことです。

引き寄せの法則のように、強く願えば現実に叶う、引き寄せるというものでもないのです。

むしろ、地上世界の価値による利益の実現を願うよりも、崇高で理想的なもの、そうでなくても、地上的条件をとっばらっても、やりたいこと、好きであること、いわば魂・ソウルの方向性みたいなものを思い、それはそのまま地上や現実で叶うわけではないものの、その精神が生かされた表現方法、やり方は取れるのではないかという姿勢なのです。

すると、「ここだけは譲れない」みたいなことも出てくるかもしれませんし、反対に、「(天に適っていれば)何でもやり方はありなんじゃないか」と自由に思えることもあるでしょう。

マルセイユタロットで言えば、「審判」と「恋人」カードのような関係性かもしれません。

これは地上において、天(天国の光)を見つけることでもあり、最終的には地と天を統合する方向にも進化していくことでしょう。

多くの人は天の自分を忘れ、地の自分だけで生きています。また、天を知っていても、地と切り離し、それこそ分離して、リンクはできないと思い込んでいます。

それは天と地では、エネルギーや表現方法が違うので、むしろ当然ではあるのですが、違っていても同じであること、しかし、同一なものとして、同じことをそのまま表現することは難しいという両方を理解していると、この世も捨てたものではなくなってきて、「いかに地の自分によって、天の自分を楽しませてやろうか」という、マルセイユタロットで言えば、地の最初でもあり、好奇心の象徴でもある「手品師」となって、その手品を皆さんに披露していくことになるのです。


恋人カードから見る迷いの解決

これは前にも書いたことがあると思うのですが、特に選択で迷っている時、あるいは悩んでいて、なかなか答えが見つからない時のアドバイスとして、「恋人」カードからのヒントが役立ちます。

ただし、あくまで、マルセイユタロットの「恋人」の絵柄からの話になります。

「恋人」カードは、その名の通り、恋愛模様を描いているように見えるカードですが、もっと奥深い意味があると考えられます。恋愛はあくまで、奥の部分を説明するための導入のように思えます。

それはともかくとして、単純に絵柄を見ますと、人間は三人いて、真ん中の男性が、両端のふたりの女性のどちらかを選ぼうとしているように見えます。女性側からしますと、真ん中の男性を取り合っているようにも感じられます。

とりあえず、男性、女性、どちらにしても選ぶ(選ばれる)ことに関わっているわけです。

ということで、選択の象徴性をこのカードから考えることができるわけですが、この三人を人物だけではなく、物事の選択肢として見ると、最初に述べた、迷っている時の示唆になってくるのです。

まず、どちらかを選ばなければならない迷いというものがあります。二者択一、AかBか、というケースです。

こういう場合は、結局、どちらかの優劣とか、違いを考えて、選ぶしかありません。

「恋人」カードの絵柄で言いますと、真ん中の男性が、どちらかの女性を選ぶことと同様です。その女性の選び方は、ふたりの違いを見て、その違いによる基準を思うわけです。

人間の場合は難しいかもしれませんが、これを物事だとしますと、、要するに、損得のお金とか、時間とかの現実的・効率的な基準と、好き嫌いとか、癒し・落ち着きとか、感情的・精神的な基準とに大別されると思います。

単純に言えば、心かモノかみたいな話です。このふたつの間で迷っていることもあれば、どちらか(モノか心)の領域内で、さらにふたつの間(あるいは複数以上)で迷っている場合があります。

ところで、この「恋人」の男性は、必ずしも、どちらかを選ばなければならないというわけではないのかもしれません。

もしどちらも選ぶことができるのなら、その道も意外にアリだと言えます。案外、選択で迷っている場合は、選択肢を全部選んでみるということで解決が図られる場合があります。

見落としがちですが、時期や時間をずらせば、どれも手に入れる、選択することは可能になるケースがあります。

しかしながら、やはりそれは無理だから悩むということがあるわけです。

もう一度、絵柄を見てみましょう。三人の人物たちは、同じフィールド(高さ・立ち位置)にいます。

つまり、同じ高さ・立ち位置からの目線では選択肢に違いは見えても、それは結局のところ、同レベルだということです。

まさに、「あちらが立てばこちらが立たず」というのも、同じ立ち位置だから(同じレベルの違いしか見ていないから)こそ、そうなってしまうのです。

同じレベルである限り、同レベル内での違いでの選択をするしか方法がないわけです。

そして、「恋人」カードの絵柄には、もうひとつ特徴があります。

それは上空に天使とも見える「キューピッド」がいることです。正確にはキューピッドと天使は異なる存在ですが、「天使」と書く方が楽なので、以降、「天使」と書きます。(笑)

この天使目線からすると、迷っている人間たちの選択はどれも同じに見えるのかもしれません。

天使はをつがえています。

天使から見て、どれも同じならば、矢が当たった方を選択してみよう!というゲーム性もあり得ます。天使からしたら、「どの道、おんなじなんだから、どれが(どの人に)当たってもよいでしょ♪」みたいな感じです。(笑)

このことを踏まえますと、以下のような方法が人間側では出てきます。

A.直感とかタイミングとかで、好きなように選ぶ

B.選ばれたほうを選ぶ、というより、従う

C.どちらも選ばないという選択もあり

D.迷いに迷って、究極まで悩み続ける

Aは、いい意味で観念する(諦観的)方法で、迷っても仕方ないので(天使目線からすればどれでも同じなので)、現実的条件等で選ぶことよりも、気持ちとかタイミングとかで、「これだ」「来たぞ、これ」「なんとなく今回はこっち」みたいな感覚で選べばよいというものです

もちろん、その結果、現実的な意味での失敗もあるかもしれませんが、それも見越してのことです。(天使目線からは成功も失敗もない)

Bは、Aと似ていますが、違うのは、自分で選ぶというより、自然に任す、放置したり、様子見していたりすることで、流れで決まっていくというものです。

いつの間にか、迷っていたもうひとつの選択肢は消えていた、条件的にも選べなくなっていた・・・みたいなことで、自然にひとつに決まってくる、答えが出るような感じになります。

そしてCは、実際的・現実の条件的な観点からしてもアリな方法ですが、意外に最初から抜け落ちている選択肢で、「選ばない」というのも立派な選択であるということです。迷うというのは、ひとつには、今は決めなくてよいから、決める必要がないからという理由もあるのです。

無理に決めよう、答えを出そうとするのを、あえて葛藤や膠着状態を生み出して、あせりに気づかせようとしている場合もあるわけです。

ですから、最初に立ち戻り、「なぜ今選ばないといけないのか? 」「なぜ答えを今出さねばならないのか?」と思い直してみれば、迷いのループから逃れることもあり得ます。

それでも、迷い悩むことはあります。

ならば、とことん悩むとよいのです。それがDの方法です。あれもこれも、ああでもない、こうでもない、いったいどうすれば・・・と悩み続けると、精神的にも体力的にも憔悴、疲弊するでしょう。それ(悩みごと)しか頭に思い浮かばなくなってしまうかもしれません。

そうする中で、いつか限界点・臨界点がやってきます。

そなると、「もー、どうでもいい」とか、「なるようになる」とか、はたまた、突如、まったく新しい境地とか視点が目覚めてくることがあります。

ショートしたあと、スパークして、どんでもない回路が開かれるようなものです。

こうなると、天使の目線、天使の立場に自分がシフトしたようなものです。

あなたは自分で矢を放つことができ、その当たる方向も、放つ前からわかっているようなもので、その選択の無意味さ(本質的にはどれも同じという意味)と同時に、直感ではなく直観に至って、選択できる喜びというものを実感するでしょう。

そう、悩める喜び、選べる楽しみというものが天使目線ではわかってくるのです。

そういうものがなかったとしても、疲れ切って(笑)、結局、シンプルに選んでしまうことになり、とにかくお悩みモードからは解放されることになります。

ということで、悩みを続けて行くことも、行きつく先にはよいこともあります。

ただし、やはり考え過ぎ、悩み過ぎは危険な場合もあるので、その場合は、「恋人」のカードの絵柄のもうひとつの示唆とも言える「他人に相談(三人は話し合っているようにも見えます)する」のがよいです。

先日書いた客観性の導入であり、そのほうが迷いのループからの現実的意味での脱出は早いと言えましょう。

ということで、今日は「恋人」カードの絵柄から、選択の迷いでの解決法についてお話しました。


制限ある自由 自由のための制限

コロナ禍で、今年はいろいろと我慢を強いられている人が多いと思います。

一方で、人間、そうそう我慢が続けられるものでもなく、自由でありたい、束縛されたくないという思いも強いものがあるでしょう。

人とはおかしなもので、おそらく本質的には自由でありたいと願いつつも、どこかで制限してもらいたい、囲われたいという願望もあるような気がします。

後半の部分(制限願望)は、誰かに守られたい、安心安全に暮らしたいという保守的な思いによって生じているとは思いますが、もしかすると、人の成長欲求と言いますか、人間にはもともと変化・成長していくことの使命のような特質があり、それが自由というものに抵抗する力になっているのかもしれません。

一般的に、神は自由であり、悪魔は制限をかけるものと解釈されがちですが、見方を変えれば、むしろ、悪魔が自由、神が制限を加えるものという印象もあります。

それは特に宗教においての神と悪魔の概念で顕著な気がします。

宗教におけるは、たいてい試練を与えるものであり、戒律などで、その神を信じる人々に制限を与えます(神が与えなくても、神の意思に沿うために人がそれをする)。

一方、悪魔は、そういう神の守護範囲とも言える制限から、甘言や教唆をもって誘惑し、人々に神の戒律からはずれるように仕向けます。

これは宗教の神からすれば、とんだ悪ですが、もしその神が自分に権威をつけ、人々から敬われるようにわざと制限をかけていたとすれば、悪魔のほうこそ束縛からの解放による「自由」を主張していることになります。

マルセイユタロットに流れる思想のひとつと考えられる「グノーシス」では、神が悪魔である(一般の神は偽物という)反転構造を示唆し、私たちが一般的に信じていることに疑いを持つよう諭します。

しかしながら、マルセイユタロットでも、「悪魔」のカードには、ひもでつながれた二人の人物が描かれ、やはり悪魔は何らかの制限を(見えない形も含めて)かけていることがわかります。

一方、「神」の名前を持つカードでは、「悪魔」の次の大アカナナンバーである「神の家」があり、このカードでは、雷の衝撃で、はじかれたようになった人がおり、強制的な解放も意味されているようにも見えます。

とにかく、ここで言いたいのは、自由の名のもとに、裏では束縛や制限が潜行している場合があり、逆に、制限・束縛が、人を自由に導く、成長の糧として機能していることもある点です。

今、コロナ禍で不安になっている人々の前に、SNSなどを含め、様々な情報が提示されてきますが、よくよく吟味しないと、表向きとはまったく反対の意図によって、それこそ本当に「悪魔」につながれてしまうおそれもあるので、気をつけたほうがいいでしょう。

そして、このご時世、制限だらけで、息苦しい世の中にはなってはいますが、その中でも、私たちは成長や進化を遂げていくこともできるはずだと考えます。

マルセイユタロットには「吊るし」というカードがあります。二本の木の間で逆さまに人がつながれ、まるで吊るされていように見える図です。

しかし、何度もこのブログでも書いたように、マルセイユタロットの「吊るし」の場合は、拷問のように吊らされているのではなく、この人物、自らが好んでこのスタイルを取っているかのように、苦しさを感じさせないものです。

いわば、制限にある中でも、この環境、この人物なりに自由を楽しんでいるとも言えます。

そう、制限の中に自由があることを、「吊るし」のカードは、ひとつには語っているように思います。

最初にも述べたように、私たちの本質は「自由」であり、自由である自分、その故郷ともいえる場所(心境)に戻りたいと思ってはいるものの、現実社会の中では、様々な制限や束縛によって、自由を奪われているように感じています。

そもそも魂と肉体という対比で言いますと、肉体によって魂の自由性が制限されていると言えます。

しかしながら、同時に、私たちは制限を求めるところがあり、それは成長の枷のようなものとして、必要とされるかもしれないものです。

肉体があるからこそ、肉体的(物質的)経験ができ、それによって魂は実感を伴って成長することができます。

もし、まったくのフリー・自由であるならば、何も苦労もなく、願ったものはすべてかなうことになります。いや、そもそも「願う」というそのことさえ生じないでしょう。言ってみれば完全ではあるものの、「無」でもある状態です。

これでは成長を図る(計るでもあります)こともできません。

計測すること自体、制限があるからできることですから、もし、私たちの本質が完全であるならば、成長するという概念そのものもないことになります。

ですから、成長のためというより、制限から実感するゲームを楽しむためなのかもしれませんが、それは「有」、つまり肉体や障害物のある次元、現実界においてでないと、なかなか味わえないことなのでしょう。

制限があれば解放もあるという二元世界が、色濃く出てくるのがこの現実の世界です。

ということは、解放、自由の喜びも、制限があるほど生まれることになります。この両方の振り子が動くことで、ある種のエネルギーが生まれ、私たちの何かの宇宙を動かし、拡大させているのかもしれません。

とにかく、束縛や制限は、悪いことではなく、それがあるからこそ、自由への目覚め、自由に向けた新たな方法・アイデアも生まれると考えられます。

それは、先述したように、この現実の世界でないと、なかなかできないことなのだ思います。

ですから、今年から始まった、とても制限のある世界の中でも、一人一人の工夫と、全体の知恵が集まって、おそらく、今まで考えもしなかったものが誕生し、自由の新たな形を手にすることができるでしょうし、自由の大切さも、もっと考えられることになるでしょう。

誤解されがちなのが、自分勝手にわがままに振る舞うことが自由ではないことです。

自由のためには、安全にルールが守られた、他人と一緒に住む世界においては、いわば社会性も必要となってきます。

「もう我慢ならない」と、自分勝手に動くのは、結局、ほかの人や自分自身を制限させてしまう方向になっていきます。

例えば、釣りをする人が、どこでも釣りをしてゴミをそこに置いて帰るようなことになってきますと、その場所は汚れ、近隣住民にも迷惑がかかります。

やがて、それがひどくなると、釣り場への立ち入り禁止などの措置が取られるでしょう。そうなると、その釣り人、地元の人も釣る場所を失いますし、禁止を破って侵入する釣り人もいるかもしれませんので、その見回りや対策などで、いろいろと地域の人も苦労することになります。

つまりは、それまでの自由を失うわけです。

理不尽で妄信・迷信、権力のようなもので意図的に制限をかけられるものには、時には自分勝手に見えるくらいに、自らの自由を求めて動くことは大事でしょう。

制限や束縛は、基本的にはよくないもので、人の本質からは、はずれます。

ですが、社会と人の安心安全、個人的にも制限の中から成長を生み出すためにも、「吊るし」のようなものは必要なことがあります。

また「吊るし」のカードは、細かくは言えませんが、「創造」に関する細かな図像の象徴が施されています。

「吊るし」は束縛・停滞のように見えて、創造のカードでもあるのです。

このご時世だからこそ、あなた自身が、日本が、世界が、新たに創造できるよいものがあるはずです。

我慢を強いられているようでも、見方を変えれば、自分の中の自由を見出すチャンスでもあります。

あなたが求めていた自由の形は、まさに「形」にこだわっていれば、失ったと思うかもしれませんが、「」としてみれば、別のところに存在していたり、自分から表現できたりすることはあるものです。

たとえ自分ができなくても、ほかの人がやってくれるかもしれません。すでに、意外な自由の表現が、他人がモデルとして見せ始めているかもしれません。(「悪魔」のカードにも関係します)

今後に希望をもって、自らは「吊るし」になっているのも、今はよいかと思います。


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