迷った時に

恋人カードから見る迷いの解決

これは前にも書いたことがあると思うのですが、特に選択で迷っている時、あるいは悩んでいて、なかなか答えが見つからない時のアドバイスとして、「恋人」カードからのヒントが役立ちます。

ただし、あくまで、マルセイユタロットの「恋人」の絵柄からの話になります。

「恋人」カードは、その名の通り、恋愛模様を描いているように見えるカードですが、もっと奥深い意味があると考えられます。恋愛はあくまで、奥の部分を説明するための導入のように思えます。

それはともかくとして、単純に絵柄を見ますと、人間は三人いて、真ん中の男性が、両端のふたりの女性のどちらかを選ぼうとしているように見えます。女性側からしますと、真ん中の男性を取り合っているようにも感じられます。

とりあえず、男性、女性、どちらにしても選ぶ(選ばれる)ことに関わっているわけです。

ということで、選択の象徴性をこのカードから考えることができるわけですが、この三人を人物だけではなく、物事の選択肢として見ると、最初に述べた、迷っている時の示唆になってくるのです。

まず、どちらかを選ばなければならない迷いというものがあります。二者択一、AかBか、というケースです。

こういう場合は、結局、どちらかの優劣とか、違いを考えて、選ぶしかありません。

「恋人」カードの絵柄で言いますと、真ん中の男性が、どちらかの女性を選ぶことと同様です。その女性の選び方は、ふたりの違いを見て、その違いによる基準を思うわけです。

人間の場合は難しいかもしれませんが、これを物事だとしますと、、要するに、損得のお金とか、時間とかの現実的・効率的な基準と、好き嫌いとか、癒し・落ち着きとか、感情的・精神的な基準とに大別されると思います。

単純に言えば、心かモノかみたいな話です。このふたつの間で迷っていることもあれば、どちらか(モノか心)の領域内で、さらにふたつの間(あるいは複数以上)で迷っている場合があります。

ところで、この「恋人」の男性は、必ずしも、どちらかを選ばなければならないというわけではないのかもしれません。

もしどちらも選ぶことができるのなら、その道も意外にアリだと言えます。案外、選択で迷っている場合は、選択肢を全部選んでみるということで解決が図られる場合があります。

見落としがちですが、時期や時間をずらせば、どれも手に入れる、選択することは可能になるケースがあります。

しかしながら、やはりそれは無理だから悩むということがあるわけです。

もう一度、絵柄を見てみましょう。三人の人物たちは、同じフィールド(高さ・立ち位置)にいます。

つまり、同じ高さ・立ち位置からの目線では選択肢に違いは見えても、それは結局のところ、同レベルだということです。

まさに、「あちらが立てばこちらが立たず」というのも、同じ立ち位置だから(同じレベルの違いしか見ていないから)こそ、そうなってしまうのです。

同じレベルである限り、同レベル内での違いでの選択をするしか方法がないわけです。

そして、「恋人」カードの絵柄には、もうひとつ特徴があります。

それは上空に天使とも見える「キューピッド」がいることです。正確にはキューピッドと天使は異なる存在ですが、「天使」と書く方が楽なので、以降、「天使」と書きます。(笑)

この天使目線からすると、迷っている人間たちの選択はどれも同じに見えるのかもしれません。

天使はをつがえています。

天使から見て、どれも同じならば、矢が当たった方を選択してみよう!というゲーム性もあり得ます。天使からしたら、「どの道、おんなじなんだから、どれが(どの人に)当たってもよいでしょ♪」みたいな感じです。(笑)

このことを踏まえますと、以下のような方法が人間側では出てきます。

A.直感とかタイミングとかで、好きなように選ぶ

B.選ばれたほうを選ぶ、というより、従う

C.どちらも選ばないという選択もあり

D.迷いに迷って、究極まで悩み続ける

Aは、いい意味で観念する(諦観的)方法で、迷っても仕方ないので(天使目線からすればどれでも同じなので)、現実的条件等で選ぶことよりも、気持ちとかタイミングとかで、「これだ」「来たぞ、これ」「なんとなく今回はこっち」みたいな感覚で選べばよいというものです

もちろん、その結果、現実的な意味での失敗もあるかもしれませんが、それも見越してのことです。(天使目線からは成功も失敗もない)

Bは、Aと似ていますが、違うのは、自分で選ぶというより、自然に任す、放置したり、様子見していたりすることで、流れで決まっていくというものです。

いつの間にか、迷っていたもうひとつの選択肢は消えていた、条件的にも選べなくなっていた・・・みたいなことで、自然にひとつに決まってくる、答えが出るような感じになります。

そしてCは、実際的・現実の条件的な観点からしてもアリな方法ですが、意外に最初から抜け落ちている選択肢で、「選ばない」というのも立派な選択であるということです。迷うというのは、ひとつには、今は決めなくてよいから、決める必要がないからという理由もあるのです。

無理に決めよう、答えを出そうとするのを、あえて葛藤や膠着状態を生み出して、あせりに気づかせようとしている場合もあるわけです。

ですから、最初に立ち戻り、「なぜ今選ばないといけないのか? 」「なぜ答えを今出さねばならないのか?」と思い直してみれば、迷いのループから逃れることもあり得ます。

それでも、迷い悩むことはあります。

ならば、とことん悩むとよいのです。それがDの方法です。あれもこれも、ああでもない、こうでもない、いったいどうすれば・・・と悩み続けると、精神的にも体力的にも憔悴、疲弊するでしょう。それ(悩みごと)しか頭に思い浮かばなくなってしまうかもしれません。

そうする中で、いつか限界点・臨界点がやってきます。

そなると、「もー、どうでもいい」とか、「なるようになる」とか、はたまた、突如、まったく新しい境地とか視点が目覚めてくることがあります。

ショートしたあと、スパークして、どんでもない回路が開かれるようなものです。

こうなると、天使の目線、天使の立場に自分がシフトしたようなものです。

あなたは自分で矢を放つことができ、その当たる方向も、放つ前からわかっているようなもので、その選択の無意味さ(本質的にはどれも同じという意味)と同時に、直感ではなく直観に至って、選択できる喜びというものを実感するでしょう。

そう、悩める喜び、選べる楽しみというものが天使目線ではわかってくるのです。

そういうものがなかったとしても、疲れ切って(笑)、結局、シンプルに選んでしまうことになり、とにかくお悩みモードからは解放されることになります。

ということで、悩みを続けて行くことも、行きつく先にはよいこともあります。

ただし、やはり考え過ぎ、悩み過ぎは危険な場合もあるので、その場合は、「恋人」のカードの絵柄のもうひとつの示唆とも言える「他人に相談(三人は話し合っているようにも見えます)する」のがよいです。

先日書いた客観性の導入であり、そのほうが迷いのループからの現実的意味での脱出は早いと言えましょう。

ということで、今日は「恋人」カードの絵柄から、選択の迷いでの解決法についてお話しました。


制限ある自由 自由のための制限

コロナ禍で、今年はいろいろと我慢を強いられている人が多いと思います。

一方で、人間、そうそう我慢が続けられるものでもなく、自由でありたい、束縛されたくないという思いも強いものがあるでしょう。

人とはおかしなもので、おそらく本質的には自由でありたいと願いつつも、どこかで制限してもらいたい、囲われたいという願望もあるような気がします。

後半の部分(制限願望)は、誰かに守られたい、安心安全に暮らしたいという保守的な思いによって生じているとは思いますが、もしかすると、人の成長欲求と言いますか、人間にはもともと変化・成長していくことの使命のような特質があり、それが自由というものに抵抗する力になっているのかもしれません。

一般的に、神は自由であり、悪魔は制限をかけるものと解釈されがちですが、見方を変えれば、むしろ、悪魔が自由、神が制限を加えるものという印象もあります。

それは特に宗教においての神と悪魔の概念で顕著な気がします。

宗教におけるは、たいてい試練を与えるものであり、戒律などで、その神を信じる人々に制限を与えます(神が与えなくても、神の意思に沿うために人がそれをする)。

一方、悪魔は、そういう神の守護範囲とも言える制限から、甘言や教唆をもって誘惑し、人々に神の戒律からはずれるように仕向けます。

これは宗教の神からすれば、とんだ悪ですが、もしその神が自分に権威をつけ、人々から敬われるようにわざと制限をかけていたとすれば、悪魔のほうこそ束縛からの解放による「自由」を主張していることになります。

マルセイユタロットに流れる思想のひとつと考えられる「グノーシス」では、神が悪魔である(一般の神は偽物という)反転構造を示唆し、私たちが一般的に信じていることに疑いを持つよう諭します。

しかしながら、マルセイユタロットでも、「悪魔」のカードには、ひもでつながれた二人の人物が描かれ、やはり悪魔は何らかの制限を(見えない形も含めて)かけていることがわかります。

一方、「神」の名前を持つカードでは、「悪魔」の次の大アカナナンバーである「神の家」があり、このカードでは、雷の衝撃で、はじかれたようになった人がおり、強制的な解放も意味されているようにも見えます。

とにかく、ここで言いたいのは、自由の名のもとに、裏では束縛や制限が潜行している場合があり、逆に、制限・束縛が、人を自由に導く、成長の糧として機能していることもある点です。

今、コロナ禍で不安になっている人々の前に、SNSなどを含め、様々な情報が提示されてきますが、よくよく吟味しないと、表向きとはまったく反対の意図によって、それこそ本当に「悪魔」につながれてしまうおそれもあるので、気をつけたほうがいいでしょう。

そして、このご時世、制限だらけで、息苦しい世の中にはなってはいますが、その中でも、私たちは成長や進化を遂げていくこともできるはずだと考えます。

マルセイユタロットには「吊るし」というカードがあります。二本の木の間で逆さまに人がつながれ、まるで吊るされていように見える図です。

しかし、何度もこのブログでも書いたように、マルセイユタロットの「吊るし」の場合は、拷問のように吊らされているのではなく、この人物、自らが好んでこのスタイルを取っているかのように、苦しさを感じさせないものです。

いわば、制限にある中でも、この環境、この人物なりに自由を楽しんでいるとも言えます。

そう、制限の中に自由があることを、「吊るし」のカードは、ひとつには語っているように思います。

最初にも述べたように、私たちの本質は「自由」であり、自由である自分、その故郷ともいえる場所(心境)に戻りたいと思ってはいるものの、現実社会の中では、様々な制限や束縛によって、自由を奪われているように感じています。

そもそも魂と肉体という対比で言いますと、肉体によって魂の自由性が制限されていると言えます。

しかしながら、同時に、私たちは制限を求めるところがあり、それは成長の枷のようなものとして、必要とされるかもしれないものです。

肉体があるからこそ、肉体的(物質的)経験ができ、それによって魂は実感を伴って成長することができます。

もし、まったくのフリー・自由であるならば、何も苦労もなく、願ったものはすべてかなうことになります。いや、そもそも「願う」というそのことさえ生じないでしょう。言ってみれば完全ではあるものの、「無」でもある状態です。

これでは成長を図る(計るでもあります)こともできません。

計測すること自体、制限があるからできることですから、もし、私たちの本質が完全であるならば、成長するという概念そのものもないことになります。

ですから、成長のためというより、制限から実感するゲームを楽しむためなのかもしれませんが、それは「有」、つまり肉体や障害物のある次元、現実界においてでないと、なかなか味わえないことなのでしょう。

制限があれば解放もあるという二元世界が、色濃く出てくるのがこの現実の世界です。

ということは、解放、自由の喜びも、制限があるほど生まれることになります。この両方の振り子が動くことで、ある種のエネルギーが生まれ、私たちの何かの宇宙を動かし、拡大させているのかもしれません。

とにかく、束縛や制限は、悪いことではなく、それがあるからこそ、自由への目覚め、自由に向けた新たな方法・アイデアも生まれると考えられます。

それは、先述したように、この現実の世界でないと、なかなかできないことなのだ思います。

ですから、今年から始まった、とても制限のある世界の中でも、一人一人の工夫と、全体の知恵が集まって、おそらく、今まで考えもしなかったものが誕生し、自由の新たな形を手にすることができるでしょうし、自由の大切さも、もっと考えられることになるでしょう。

誤解されがちなのが、自分勝手にわがままに振る舞うことが自由ではないことです。

自由のためには、安全にルールが守られた、他人と一緒に住む世界においては、いわば社会性も必要となってきます。

「もう我慢ならない」と、自分勝手に動くのは、結局、ほかの人や自分自身を制限させてしまう方向になっていきます。

例えば、釣りをする人が、どこでも釣りをしてゴミをそこに置いて帰るようなことになってきますと、その場所は汚れ、近隣住民にも迷惑がかかります。

やがて、それがひどくなると、釣り場への立ち入り禁止などの措置が取られるでしょう。そうなると、その釣り人、地元の人も釣る場所を失いますし、禁止を破って侵入する釣り人もいるかもしれませんので、その見回りや対策などで、いろいろと地域の人も苦労することになります。

つまりは、それまでの自由を失うわけです。

理不尽で妄信・迷信、権力のようなもので意図的に制限をかけられるものには、時には自分勝手に見えるくらいに、自らの自由を求めて動くことは大事でしょう。

制限や束縛は、基本的にはよくないもので、人の本質からは、はずれます。

ですが、社会と人の安心安全、個人的にも制限の中から成長を生み出すためにも、「吊るし」のようなものは必要なことがあります。

また「吊るし」のカードは、細かくは言えませんが、「創造」に関する細かな図像の象徴が施されています。

「吊るし」は束縛・停滞のように見えて、創造のカードでもあるのです。

このご時世だからこそ、あなた自身が、日本が、世界が、新たに創造できるよいものがあるはずです。

我慢を強いられているようでも、見方を変えれば、自分の中の自由を見出すチャンスでもあります。

あなたが求めていた自由の形は、まさに「形」にこだわっていれば、失ったと思うかもしれませんが、「」としてみれば、別のところに存在していたり、自分から表現できたりすることはあるものです。

たとえ自分ができなくても、ほかの人がやってくれるかもしれません。すでに、意外な自由の表現が、他人がモデルとして見せ始めているかもしれません。(「悪魔」のカードにも関係します)

今後に希望をもって、自らは「吊るし」になっているのも、今はよいかと思います。


タロットにおける選択、決断

タロットは、よく状況判断や決断の機において使われることがあります。

タロット占いともなれば、それが顕著かもしれません。あと、タロット占いの場合は、カードに相手の気持ちなどが出る可能性があるので、気になる人との関係を占う場合において、有用と言えます。

気持ちなどというものは、自分でさえはっきりわからないことがあるくらい、あやふやなもので、態度とか顔に出ているようで、心裏腹という言葉があるように、実は表に現れているものとは逆という場合もあります。

それゆえに、他人の気持ちを知るというのは至難の業で、直接聞いて確認するのが確実ですが、それでも嘘をついているケースがあったり、なかなか面と向かって気持ち確認しづらい状態であったりということもあるので、それができれば苦労はないというところです。

ということで、タロットカードなどで、それを知りたいということになるわけです。

また、何かを決めたいという時は、自分ですでに決めてはいるものの、その確認や念押しをしたいという場合もあれば、純粋に、どれがよいのか、カードに決めてほしいということもあるでしょう。

いずれにしても、人は自分一人ではなかなか決められないもので、なぜかカードのようなものに頼る(苦笑)ことがあるわけです。

では、決めることができるのらば、(タロット)カードではなくても、何でもいいじゃないか、てなことになりそうなものですが、確かにそれはその通りなのですが、人によって、あるいは普遍的に、意外に頼るもの・ツールは決まってくるもので、どれでもよいわけではないのです。

ここにタロットカードが、長年占いや決断に用いられた理由があります。

その詳細は、またの機会に譲るとし、とりあえず、皆さん、なぜ迷った時にタロットカードなのか考えてみるのもよいでしょう。

ヒントとしては精神的・感情的理由と、見えない分野での理由といいますか、それなりの論理があるということです。

私は基本的にタロットカードには吉凶や優劣を見ないほうがよいという立場ですが、こと何かを決める場合においては、案外、カードの吉凶性や優劣性を設定しておいたほうが判断しやすいというところがあります。

下手に高尚ぶって、カードを平等に扱い過ぎると、実用的ではなくなるおそれもあります。ただし、逆に言えば、実用的ではないということは、抽象的的世界、精神や霊性の拡大に使えることにもなりますので、それは目的次第と言えます。

カードに吉凶や優劣を設定しておくと、説明しなくてもわかると思いますが、よい・悪いで見ることになりますので、当然、よいカードが出れば、その選択はよし、悪いカードが出ればダメということで単純に判断することができます。

ここで重要なのは、吉凶・優劣設定と、心理状態を表すようなこととして、カードに優劣のない平等なる設定をすることと、技法的にも区別をつけておくことです。

特にスピリチュアルや心理的にカードを使う人に多いのですが、カード扱いの設定基準があいまいになっているので、時に心理的に判断したり、時に吉凶占い的に見てみたりと、混同したカードの読み方になり、結局、どっちつかず、決断ができない(どちらてもありとか、どちらでもないような。。。みたいな感じになる)状態になるわけです。

最初から、「この展開(技法)は、吉凶設定ありでやります、読みます」と決めておくなどの措置がいるのです。

タロティストとしても有名なカルト映画の巨匠、アレハンドロ・ホドロフスキー氏も、タロットリーディンクは一種のゲーム(の設定をする技術)であると述べています。

同じカードを使うにしても、そのリーディングにおけるルール、世界観というものが設定され、それによっては、別のゲームになるかのように、別種の解釈となることもあるのです。

この、ゲームにおけるルールこそが、タロットリーディングの大元を決めていると言っても過言ではないです。

ですから、ルール設定によっては、「神の家」や「13」が悪いことを示すカードになることもあれば、まったくそうでないことを表すこともあるのです。

タロットリーディングの間違いというものも、この設定やルールをごちゃごちゃにして、すべて同一のフィールドに置き換えているからそう思えるだけで、間違いなどはタロット(とは限りませんが)にはないと言ってもいいのです。

間違いや正解だと決めるのは、タロットを扱う人間側のルールや設定、価値観、解釈になります。

これはよく考えると、一人一人の人間と同じです。

誰しも自分ルールを持っていますし、そのルールや価値観も、どこから来ているかと言えば、自分を囲む環境・人間・社会からのものと言えます。

だから、世間の共通ルールもあれば、一人一人の世界観によって違うルールも出てきます。これらをまたすべて同じ線上に置いてしまうと、ゲームルールがバラバラの中に自分がいるみたいなもので、どれが正しくて、どれが間違いであるかが余計わからなくなってしまいます。

これに時系列も入ってくると、昔ではよかったが、今は許されないみたいなことがあり(その逆もあるでしょう)、ますます(良し悪しの判断が)難しく、複雑になってきます。

従って、選択や決断において、何を基準とし、どんなルール・世界観・価値観のもとの設定でやるのかを、完全に決められなくても、ある程度明確にしておくと、選びやすい、判断しやすいということになります。逆に言えば、それが曖昧模糊とした状態では、明確な回答も得にくく、何かをきちんと決められないことにもなります。

タロットで言えば、吉凶カードをあらかじめ決めておくみたいなことです。(その吉凶を決める基準・ルールもわかっていることが前提)

例えば、人生で言えば、長期的に見るのか、短期的に見るのかによっても違ってきます。

吉凶を超えるようなことは、たいてい、長期的視野か、今の価値観を超越・統合した視点でかのものによります。

ですから、吉凶設定ではない読み方や判断をすることは、自分を成長・拡大させるきっかけとなりますが、その分、判断や読みが今の自分を超えるので、難しいことにもなります。(そのため、より客観的判断が必要になり、他人に見てもらったり、人間的感情を超えた論理・真理的なもので見たりするということが求められます)

確率の話でも、例えばサイコロを10回程度振ってみると、人によっては、ある目に偏ることはあるかもしれません。しかし、回数をどんどん重ねて行けば、結局、確率論の数値に収まるようになることが知られています。

自分ルール過ぎる視野で短期的に見ていると、自分は不幸だとか、ダメとか、この選択こそが正解、あれを選んだのは失敗だった・・・となるかしもれませんが、神のルール、長期的視野といいますか、霊的な視点からでは、平均・平等化する(まさにそれが人生、良くも悪くもずべて同じ愛のもとのような感じの)話になるかもしれません。

とはいえ、自分という肉体と今の自我を持って今生の人生を送る期間は限定的で、一度しかないものでしょう。となると、自分ルール短期的視点での選択も必要な時が出てきます。

タロットの場合で言うと、吉凶的ルールのもとに、判断する機会もあってよい、そうせざるを得ない時もある、というところでしょうか。

というようなことで、皆さん、タロットを使いながら、人生のいろいろなことを選択・決断してみるのも、ひとつの生き方です。(笑)

それはタロットに依存するのではなく、タロットというツールを使って、選択を楽しむという、ひとつのゲームをしていると考えましょう。

タロットを使うという選択を、あなた自身がしているということを自覚するのが大事なのです。(使われるのではなく、また使ってやるのでもなく、タロットのある人生で彩りを見ているような感覚です)

ゲームの達人になるには、ゲームのルール知り、ゲームとツールを愛し、何よりも、自分が主人公であるべきなのです。


「吊るし」の必要性

吊るし

マルセイユタロットのこのカードは、大アカナの中でも、特殊なカードと言えます

ちなみに、特殊な大アルカナカードは、数がないという「愚者」、そして名前のない「13」というカードが、ほかにも挙げられますが、「吊るし」は、逆さまに見えながら、それが正立という特別さを持ちます。(もっとも、逆さの人物や動物は、細かく言えばほかのカードにも存在はしますが)

大アルカナのナンバー順は、ある種の成長性を示すことは、すでに結構知られているところですが、「吊るし」のナンバーは12であり、その次は、さきほど紹介した名前のない「13」となります。

「13」のカードは、骨格状の人物が大きな鎌を持って、何かを刈り取っている、削ぎ落しているかのような図像です。このことから、変革や改革、大変な作業ということが想像されます。

しかしながら、その前の「吊るし」は、逆さまのスタイルではありますが、ぶらーんと宙づり状態になり、ほとんど動いていない様子に見えます。

しかも、逆さ吊りの姿勢ともなると、苦しそうであったり、何か拷問を受けていたりするように思えるのですが、このマルセイユタロットの「吊るし」の人物は、むしろ笑みを浮かべているようにさえ見えることもあり、つらさは感じさせません。

一般的には、「吊るされた男」「吊るされ人」など名づけられているこの12番のカードを、私たちは「吊るし」と呼んでいます。

それは能動的にこの姿勢を取っていると見て、あえてこのスタイルの必要性をカードから感じているからです。一般的名称では、受動的に、何かの刑罰を受けているかのようにとられてしまいます。

前にも書いたことがありますが、カードの名前をどう訳すか、どう覚えるかによって、印象・意味合いもまったく異なってくるので、名前は重要です。

私たちは「吊るし」と呼ぶことで、このカードの受動的でいながら能動的である側面やポジティブさを自然に見ることができるのです。

ところで、このカードの解釈は、様々ににできるのですが、霊的な意味では非常に深いものがあり、通常、それは教えられてはいませんし、気づく人も少ないです。

私自身もそれは教わることはなく、あとで、様々なスピリチュアルな情報に接したり、学んだりしたことで、この「吊るし」の霊的な意味をインスピレーションとして得たというところがあります。

ひとつヒントとして言えば、グノーシス思想を探求しないとわからないというものです。従って、タロットの中にグノーシス思想を見出せない教義・姿勢の場合は、「吊るし」の秘密に迫ることはできないと言えましょう。

まあしかし、それもあくまで「ひとつの説」ですから、別に知る必要のない人にはそれはそれでよいことです。

さて、今日は「吊るし」の意味でも、一般的な意味合いの部分で、今年に特に関係すると思えるので、指摘したいと思います。

「吊るし」は、吊るし姿勢のまま動いていないと見ることができ、つまりは、現実的な解釈では、動かないこと、休むこと、エネルギー補充、見直し、停滞・・・というような意味合いとして取れます。

もちろん、ほかの意味もあります。例えば、「吊るし」の人物は「ひも」でつながれているので、結んでいる支点を中心に、右や左、あるいは前後と揺れている(振り子運動をしている)と見ることもできます。

だから位置が安定しないとか、どちらともつかずとか、そういう意味にもなりますし、これをよい風に見ますと、どれにもつかない、中立、うまく自分というものを保った立ち位置を守り通していると考えることができます。

とすると、最初の動かないという意味合いと、振り子のように動く意味合いとは矛盾するようですが、あえて、このふたつを融合させると、「自分を守る意識で動く」、あるいは、「自分の内面の守りたいもの、大切なものは動かさず、外向きは臨機応変にする」ということが出てきます。

もっと本質的に言えば、自分自身を確立すること、どんな時にも自分を保つこと(自分自身を簡単に売り渡さない)ことと言えるでしょうか。

もしも、あなたが、環境や時代の変化などに翻弄され、どうしていいいのかわからなくなった時、だからこそ、あえて立ち止まる必要もあるのかもしれないのです。

新型コロナウィルスの影響もあり、変化を叫ばれる昨今ですが、中心軸のようなのが固められずに、支点も動かして右往左往してしまえば、そのうち、綱も切れて落ちてしまいます。

また、他人や強い影響力を持つムーブメントにいいように動かされ、あなた自身がその者たちの電池のように使われてしまうこともあります。

すでにあるもの(得ているもの・持っているもの)の中で待機し、見ようによっては引きこもりのような熟成期間も大事です。

自分を見失ってしまい、あせって、ただエネルギーを消費し、疲れてしまって、かえってわけがわからなくなる、どうすればよいのか迷ってしまうという人も多いです。

うつ病などでも、エネルギー切れによる不調ということが発端になることがあります。

吊るし」のように、一度立ち止まり、自分を吊るし(ペンドし)て、今までのポジションから見て、まるで逆さになるかのように、違う見方をしてみるのは、特に今年は必要なのではないでしょうか。

精一杯、走り続けている、努力している人、成果やよい道が現れず悩んでいる人も、できる範囲でゆっくりする、何もしない、一度そのことを考えずに心身を休めてみるという時期を作ってはいかがでしょうか。空白期間もまたそれはそれで重要なのです。

自分が手を出せないようにしていると、過剰なエネルギーがそれまで働いていた場合(つまり、あなたが必要以上にやり過ぎていた場合)、修正が働き、他人があなたのしていたことをやらなければならなくなってきます。

でも、それはそれでよいのです。

あなたが無理して、自分を犠牲にしてまでやり過ぎていたことがあるのですから、自然のバランスで、ほかの人が本来やるべきことが回復してきただけです。そのほうが、あなたのためにも、また他人のためにもなるのです。

あなたがやり過ぎていたことで、他人の成長、物事の動きを止めていたこともあるからです。つらく、大変な思いをして、ますます周囲を停滞させていたとは、皮肉なことです。

「吊るし」は停滞のように見えて、むしろ停滞させているバランスの悪さを見させてくれるところもあります。「吊るし」が出る時、止まるべきはあなた自身であることがほとんどです。それが逆に停滞を解除し、次の「13」の変革に進ませるのです。

やたらと前進あるのみがよいわけではありません。

物事には陰陽があります。時には止まってもいいではないですか。いや、止まらなければならないことがあるのも自然の摂理と言えます。止まることで、本来のあなた自身や見失っていた自分を思い出し、真の自立や必要な変化を促進させることもあるのです。


変わりたくても変われない問題

人間の生活は選択の連続だと言います。

毎日、朝から晩まで、食べるものから着るものまで、人はあらゆることを選択し続けます。

それが習慣的になっていて、選択の意識はないのかもしれませんが、たとえ毎日同じことの繰り返しであっても、同じことを“選んでいる”ことには違いないのです。

ここに、選択による人生の違いを生み出すヒントがあります。

現状に何か不満があって、向上や違い・変化を求めている場合、それは昨日(今まで)と同じ選択ではいけないわけです。

当たり前のような話ですが、同じ選択をするということは、同じことを起こすことや、同じような状態を保ちたいからであり、それが無意識であれ、自分は同じ毎日を繰り返したい(変化したくない)と、心のどこか、あるいは自分の中のもうひとりの自分が望んでいるためだと考えられます。

例えば、命の危険など、本当に自分に危機が訪れた場合、このままでマズイぞと、何らかの違う対処や行動をするでしょう。

ということで、変わりたいと思っても同じことを繰り返している場合、変わりたい意識<同じでいたい意識と、右側が勝っている状態だと推測されます。

なぜ同じ状態の継続のほうが意識的に上回っているのか、これを分析すれば、意外と自分の変われない要因というものが明らかになるかもしれません。

まあたいていは、今、本当には困っていないから、改革するのは面倒でエネルギーを消耗したくないからというのが、結構、理由としてあります。

パートナーを持ちたい、結婚したいけどできない、別れたいけど別れられない、売上を上げたいけど上げられない、仕事を変わりたいけど変われない、独立したいけどできない、親と離れたいけれど離れられない・・・こういう悩みは実際に多いですし、タロットの相談でもよくあるものです。

これらには、現実的・実際的な理由とは別に、心理的・無意識的な理由があります。

しかし現実的な理由も、結局は心理的な理由に行きつくことが多いです。

要は不安との戦い、あるいは何かしらのメリットを得続けるため、保身のための弁解・理屈づけということがあるのです。

たとえ話をしますが、深い峡谷にかかっている、向こう岸に渡るための橋があるとします。こちら側は森になっていて、そこからあなたは来たのですが、向こうに渡る目的は、森の中に猛獣がいて、いつあなたを襲うかわからないため、向こうの土地に渡りたいと思っています。

ただ橋はボロボロで、今にも崩れ堕ちそうです。ぼやぼやしていると渡ることができなくなるかもしれません。

かと言って、このままま渡らずにいれば、いつか猛獣が襲って来る危険性もあります。どうしたものか、足が震え、結局、立ち止まったままです。

ここで、もしかすると猛獣はもう誰かの手によって倒されたかもしれないとか、そんなに猛獣は数としては少ないのたから、ここまで来ないかもしれないとか、何とか橋を渡らずとも逃げられるかしれないとか、そもそも猛獣がいるというのは思い込み(笑)だとか、今自分がピンチにいるからこそ(か弱い者だからこそ)、王子様とか戦士が現れて助けてくれるかもしれないとか・・・いろいろと自分の都合のよいことを考え、橋を渡る恐怖から逃れようとします。

森や猛獣はあなたが実際に見てきた、経験してきたことなので、たとえ恐怖であっても、まだなじみというか、理解ができますが、橋を渡ることは未知で、まだ経験していないわけですから、想像の域でしかありません。

すると、怖いこと、マズイ状況であったとしても、橋を渡るイメージ上の恐怖と比べればましだと考えて、渡らない選択のままに固定されることもあるわけです。

ここで、橋をきちんと冷静になって調べて、重さに耐えられそうだと判断できたり、橋ほ補強する何かの方法とかツールが発見できたりすれば、渡ることの現実性・リアリティも出てきます。また他人の助け(たとえば、向こう側の人が現れるなど)があれば、なおさら可能性は高まります。

新しい世界に移行することは、マルセイユタロットでは、「愚者「と「世界」でもっとも象徴されますが、総じて人物が右側に視線を持つカードが関係してきます。

それらのカードは、新しい次元や世界を拓くための象徴的意味合い、示唆が図像にこめられています。しかし、それら単体だけではなく、いわば、「愚者」と「世界」のセットのように、人物の視線も右と左のものが相まって、移行の確実さを表現します。

それはそれとして、結局、望みたい方向に行くためには、自分におけるメリットの天秤が入れ替わる必要性があるわけです。

簡単に言えば、現状以上のメリットが、選択する将来のものとして、特に心理的に見えてくるかどうかにかかっていると言えます。

逆に言えば、(望む)新しい方向や世界に行きたいのであれば、そちら側に行った時の具体的メリットが、現状を超える形、あるいは今受けているメリットを捨ててもいいと思える替わりになるものがあればよいことになります。

現状を超えるメリットは、たいてい変わりたい方向性には明確に見えているわけですが、それを実現するには努力とか恐怖とか不安、茨の道も想像できるので、橋のたとえ話のように、向こう岸(新しい世界)へ渡れなくなるわけです。

今の状態は不満で嫌だけれども、怖いことになるのなら、苦しいことになるのなら、まだ今のほうがましだとなって、踏み出させない選択をしてしまいます。

ですから、選択したい将来像への恐怖や不安を軽減していく、移行ステップ、アドバイスがあればよいことになります。「こうしていけば、そんなに怖さを感じなくても進めるよ」みたいなことです。

これは自分一人ではできないことが多いので、向こうの世界(自分の望む世界)にいる人、向こうを経験した人、向こうの常識を知っている人などに、助けてもらうとよいです。(手を引いてもらう、実は「愚者のカードにも犬がいて、一人ではないことが示されています)

もうひとつは、時間・スパンを長期にして選択を見直す、あるいは、地上意識(実際的な損得、非難賞賛から来る不安・恐れ)ではなく、天上意識から見直すという方法があります。

前者は、言ってみれば長い目で見る、一生から見るようなことで、後者は、神とか天からの目線で見るみたいなことです。

すると、どちらでもないとか、何を選んでも結局同じ(何を選んでも選ばなくてもよい)ではないかというインスピレーションが起きてきます。

タロットでいえば、四大元素・4組に分かれている小アルカナの世界から、それらを統合した大アルカナの世界に上昇するような視点です。(大アルカナにもレベルの区別はありますが)

結果に固執するか、経験を楽しむかみたいなものと言い換えてもいいかもしれません。

究極的には、一人一人の人生ですから、他人や世間のことより、自分が何がしたいのか、何を大切にするのかで、選択も決まってくるでしょうし、たとえ迷いに迷って決められなくても、天上的視点から見れば、その迷いこそがすでに選択であるという話もあるのです。それは「恋人」カードにも描かれている通りです。

選択には直感を信じるとか、本当の自分と会話するとか、いろいろとスピリチュアル的に、よい選択のやり方が言われますが、それらの方法は、実はなかなか漠然としてわかりづらいこともあります。

現実生活の場面、仕事や営利的なことでは、確かに選択の正解、間違いというレベルはあります。

ただし、それも天上的な意味では、間違いも正解もなく、また、エゴに従ったから悪いとか、直感や本当の自分の選択だったからよいとか、これさえも、別の視点からすると、そうとも言えないかもしれないのです。

ですから、いろいろと迷い、悩みつつ、自分なりに努力したり、情報を集めたり、学んだりしつつ、それでもわからなければ、まさ神にお任せでははないですが、なるようになる、迷いや間違いも「経験としての選択をしている」という感じで、選んだことに後悔しないようにだけすれば、案外と人生、うまく行く(そんなに悩まない)のでないかと思います。

本当に変わらなければならない人は、自分の意識にも変化が出てきますし、変化の必要性があるのに無理に留まっている場合は、環境的・肉体的に、強制的変化が要請されて実際に起きることが多いので、宇宙の調和・調整機能は普遍的なのだと気づかされます。

そして、変わらない選択をするのも、またあなたの選択のひとつで、それはそれでいいも悪いもないのかもしれません。

人は変われたようでも、実は何一つ変わっていない、本当の意味では変われないのだという説もあるくらいですから、変わることへの思いも強すぎると執着になるので、自然に任せるのもありでしょう。


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