迷った時に

自分の方が正しいと思う時

あなたは、「なんか、この人の言っていることは違う」「どうも、どこか間違っている気がする...」と思ったことはありませんか?


そしてその感覚は、実はほとんどが「正しいこと」なのです。


しかしその「正しさ」は「あなたが正義である」という意味(相手が間違いで、自分が正しいということ)ではありません。


そのニュアンス、抵抗感、引っかかりが「正しい」のです。


さきほどの感覚(何か違うというもの)は、自分の知識(や経験)に照らし合わせてみて、自分が思っていること(信じていること)と相手の話が違うので起こっています。


そのため、相手の言うこと、書いていることは間違っていると錯覚しているのですね。


正確にいうと、間違っているのではなく、現時点で相容れないことであり、統合点や共感性がない、あるいは少ないということがほとんどだと推測されます。


つまりは相手と自分のズレです。


何のズレかというと価値観のことが多いでしょう。


それはともかく、相手とズレていて合致点が見い出しにくいので、とりあえず相手を批判するか、間違っているとしておけば楽ということでそう思うわけです。


ただ「違和感を感じている」という点では、やはり正しいのです。


先述したように相手とのズレが違和感の正体ですから、その統合点や中和点、落とし所を自分から見つけていくことで、それは解消されます。


そこに相手との価値観の相違、自分の信じているものすらはっきりと見えてくることがあります。


結局は自分の今信じていることの破壊にもつながるものです。


言い換えれば自分の正しさを証明しようとして追求しているうちに、そうでないもの(考え)もあるということを発見するプロセスのことであり、新しい創造なのです。


そうしたプロセスを無視し、ただそのまま自分の正しさを押し通そうとすると、たとえ裁判(相手との正邪争い)に勝っても、相手に後味の悪さや自分自身にさえ、何か嫌なものが残ります。


とはいえ人間なので、自分が正しいと思いがちですし、そう主張したくなるのが人情として当たり前のところはあります。

前にも言いましたが、ここで「そうしたくなるようし向けられている」と、一度客観することが大切です。


お腹が空いていて、目の前に食べ物があるのに、「いかんいかん欲望に支配されては・・・」と言って、何も食べずに死んでいく人になってはいけません。


まず食べながらでもいいので、「なぜお腹がすくように人はなっているのだろう」「なぜ食べないといけないのだろうか」とふと思うことをするということです。


そうすると食物からエネルギーを取って人は生きている(燃焼のエネルギー過程)という科学的な検証に至ることもありますし、食べ方のコントロールということにもつながるかもしれません。


これと同様に、「自分が正しい」と主張する気持ちに従いながらも、「なぜそうしてしまうのだろうか」と考えてみる目を持つのです。


いきなり高尚な境地にたどり着くのは難しいです。


「人と争ってはいけない」「自分の正義を押しつけてはいけない」というのはもっともな話ですが、それが最初からできれば苦労はないのです。


ですから、まずはダメなこともしてしまってもいいので、「それをする(した)気持ちになる(なった)のはなぜか」「何の意味があるのか」という視点を少しでも毎回持つと、からくりの発見に役立ちますよと言っているのです。


すると、人の正義の主張傾向にも、奥底では悪魔の仕組みがあることを知り、最終的にはそれも神(の愛)であることに気がついてくるでしょう。


もちろん一気にではなく、少しずつです。それ(確信)をためていくことが、神性に至る道、還る道だともいえるでしょう。


今回、タロットのカードのことは具体的に何も書いていませんが、すでにタロットカードの名前も出ていることに気がつかれた人は幸いです。


人生の効率

あなたのこれまでの人生の中で、ずっと続けているものが何かを調べてみると、意外なことがわかってきます。


続けているものと言っても、好きなものはむしろ当然です。


好きだから続けられるのは当たり前といえば、当たり前だからです。ですが、改めて振り返ると、「ああ、これは自分が好きだから続けているんだな」と気がつくこともあります。


たとえばはっきりしたものではなくても、「何となくおいしい店を探すことは続けているなぁ」とか、「旅行は毎回規模は違うけど行っているなあ」・・・というようなことはあるものです。


そこから自分の好きな表現のスタイル自分が活き活きすることはどういうことをしている時なのかというものがわかることがあります。


何もおいしい店を見つけることを続けているからといって、単に食べ物や食欲に注目するのではなく、その背後にある意図を見つけることが重要です。


本当に自分は「おいしい物を食べることが好きで店を探している」のか、あるいは、そのおいしい物を出している店を誰かに知ってもらうという、「情報提供することが好き」なのかという違いです。


もし後者だとすれば、あなたはおいしいものではなく、「情報を知らせる」こと、「教える」ことが好きなのかもしれません。


だとすれば、おいしいものという事や食べ物とは関係ないかもしれないのです。たまたまそれが食べ物と結びついていただけの可能性もあります。


逆に、嫌だけれども続いてるもの続けざるを得ななかったもの、実はこれも意味があるのだと考えてみてください。


たとえば、「家業を嗣ぐのは嫌だったけれど、家のために仕方なくやっている」「生活のためにこの仕事は本来やりたいことではないけれどやっている」「友人とのつきあいのために、やむなく続けている」ことなどなどです。


嫌だけれど続けざる得ないのは、そうさせる(させられている)意味があるのだと思いを馳せてみるのです。


そうすると自分が学ぶべきもの、あるいは自分が避けたほうがよいものもわかることがあります。


そういったことに真に気がついた時、あなたはもう嫌々それをやることはなくなり、むしろ積極的に取り組めるようになるかもしれませんし、時にはその仕事や今までやってきたことから離れる可能性も出てきます。


それどころか、あなたの生きる道、天職や使命といったものも見えてくるかもしれません。


そう考えると、人生は本当に大きな意味(宇宙や天の意図という視点から)ではとても効率のよいものと言えます。


もしあなたが効率が悪い、無駄な人生を送っていると思うのなら、何よりも悪くしている)のは自分自身(の無知)でしかないということにもなるのです。


自分を語るふたつの気質

私の考えでは、タロットには全体の類型やパターンが象徴されていると見ています。


そうすると、自分の中にはタロットに象徴されるような、たくさんの個性が存在していることにもなります。


その意味では、どんな特性でも自分の中に潜在的には眠っていると考えられるのですが、一方ではもともと生まれ持った特徴も人にはあるものです。


このあたりは占星術のホロスコープ(自分が生まれた時の天空の惑星配置を、平面図にしたもの)などで知ることもできます。


そして、何を使うにしろ、人には大まかな傾向というものが出てきます。


たとえば内向的・外向的とか、積極的・消極的とか、女性的・男性的とかいうものです。


ここで取り上げたいのは、専門的か一般的かという自分の傾向です。


言い方を変えれば、スペシャリスト志向かゼネラリスト志向かということになります。


実際の自分のしている仕事とは別に、だいたいはどちらかに人の傾向はわかれます。


いわば一つのことを極めていくことが好きなタイプか、たくさんのことを同時に楽しむことが好きなタイプかというものです。


何かにこだわりを持つ職人気質か、反対にこだわりはあまり持たないオールラウンダータイプかと言ってもいいでしょう。


まあ、先述したように人は実はすべての要素を同時に持っているものなので、その時々によって両者が入れ替わったり、同時に出たりすることもありますが、それでも自分の傾向はあると思います。


そして、ここが大切ですが、どちらが自分として楽で楽しいかということも考えてみてください。


そうすると、自分の求めている仕事のスタイル自己実現といった大きなテーマにもヒントが得られるでしょう。


例えばタロットでもひとつのタロットをする方もいれば、複数のタロットを扱って人を援助したり、自己の表現をされたりする方もいます。


またタロット以外のたくさんの技法も同時に駆使して活躍される方もいらっしゃるでしょう。その反対にタロットオンリーという人もいます。


ただ、自分の気質がわかったとしても、逆のタイプの気質をバランスとして取り戻す、あるいは思い出すために、あえて自分には苦行とも思える状況を経験させられることがあります。


結局それも自分の統合や調和の過程の学びだということでしょう。


そうすると、ゼネラルとスペシャルと実は表裏一体であり、究極的には同じであることがわかってくるのです。


自分と相手の決断力の関係

ACの宣伝によって、金子みすずの詩、「こだまでしょうか」が流行しているようですね。


この詩はなかなか意味深です。だからこそ、多くの人がいろいろな変え詩みたいなものにしてまで気にされているのでしょうね。もちろん立て続けにACで流されたということはあるにしてもです。


このこだまやオウム返しの言葉のやり取りは人を癒すカウンセリングテクニックの基本でもありますが、今日はまたそれとは別の話を書きます。


タロットカードに「正義」というカードがあります。厳しい裁判官のような人物が剣と天秤をもって真っ正面を向いて座っている絵柄のカードです。(マルセイユタロットの場合)


このカードの鍵は剣と天秤にあり、ずばり言えば決断とバランスを示していると言ってもいいでしょう。(もちろんほかの象徴の意味もたくさんあります)


ところで私たちは人や物事の決断が遅いとか、はっきりしないとかで苛立つことがよくありますよね。


「どうしてはっきりしてくれないのだろう」「なぜすぐに行ってくれないのか」などと、相手を批判してしまうことがあるものです。


ところがですね、意外にもこのことは自分の態度が原因や起因になっていることがあるのです。


よく自分を振り返ってみてください。


自分自身、決断が遅いことはありませんか? 


たとえば何かの支払いをしなくてはいけないのにギリギリまで躊躇している、イベントや会合の出欠の返事を先延ばしにしている、処理しなければならない仕事を後回しにしている・・・


どうせしなければならないことなのなら、すぐに行うことのほうがいいのに、ぐずぐずとそのままにしている状態です。


「別にまだ迷惑かけているわけでもないし、締め切りは来ていないんだし、緊急でもないからいいでしょ」と思っているかもしれませんが、その態度一つ一つが全体化して、あなたの習慣となっている場合があるのです。


そうすると、相手から見れば「この人はいつも決断か遅いよな」と認識されてしまい、そうした人と烙印を押され、重要視されなくなることがあります。


そして、ここが最も大切なのですが、この世の仕組みはまさにこだまや鏡のように、自分がしていることがそのまま返ってくるということがあります。


煮え切らない、中途半端、考えすぎて結論をいつも先延ばしにする、安全安心で変革を嫌う・・・というあなたの行動や態度は、そのままあなたの周囲に同じような人を引き寄せ、同様の扱いをあなたが受けてしまうことにもなるのです。


それは、あなたがそうしたことをある意味決断しているからです。「中途半端でいい決断をしている」ということです。


あなたの深層心理がそう決めているのですから、そのようなことを選択する事柄が現実に起こるのも当たり前で、究極的にはあなた自身が招いているとも言えます。


もちろんこのような単純なことだけではなく、相手側にも確かに問題であることもあったり、ほかの様々な要素と影響がからんで自分だけの責任ではないこともあったりするでしょう。


とはいえ、結構多くの部分で、自分の決断力と選択方法が自分に受けていることと関わっていることが多いのです。


思い当たる節のある人は、自分自身の決断と実行スピードを加速させましょう。


これが正義の天秤(そのまま還ってくること)と剣(決断力)に表されているので、なかなか決断力の出ない人は「正義」のカードと対面するとよいです。



「愚者」と「13」に見る次へのステップの選択

マルセイユタロット(カモワン版前提)の「愚者」と「13」(名前のない13番)には多くの共通点があります。


まず絵の構図がとてもよく似ています。


どちらもカードの人物(とおぼしき者)が右側を向いており、体もその方向に進もうとしているように見えます。


手に持っている物でも「愚者」の杖「13」の鎌は同じ傾きであり、並べると平行します。


カモワン流の場合はカードの人物の視線の方向に大きな意味を持たせていますので、両者のカードの傾きや方向が同様であるとするならば、何らかの共通の意味があると予測できます。


そして、カモワン流で右方向といえば進行や発展、未来を示しますので、そのことからこの二枚は何らかの新しい進展性を秘めている(正立においての場合)と考えられるのです。


では再び二枚のカードの絵柄に注目してみましょう。


「愚者」は上を向き、かなりラフな姿勢で右へ移動しているように見えます。それに対して「13」はなるほど、「愚者」と同じような方向性を示してはいますが、どうも「愚者」ほど気楽ではなく結構大変そうです。


足下も「愚者」は草の生えた自然の大地であるのに比して、「13」のそれは草は少しあるものの、ほとんど真っ黒な場所であり、人の手足や首まで転がっています。


姿勢もよく見ると、「愚者」の重心は前の足にあるようにうかがえますが、「13」は後ろの足や腰にあるように感じます。


このようなことを総合すれば、「愚者」と「13」は何か次の段階へ移行することは同じだとしても、行動や様式に違いがあるのではないかと気がつくことでしょう。


私はこの二枚の移行状態を次のように見ています。


すなわち「愚者」は次あるいは別の場所への実際の移動・移行であり、「13」は精神的・内的な移行・変容であるということです。(もちろんタロットは象徴ですから反対のことも時にはあります)


ともに変化していくのは同じなのですが、外的(実際)か内的(精神)かの違い、その場か別の場所かの相違があると考えられるのです。


「愚者」はこだわりがなく、次々と場所を移動していきます。目的はその場にいることではないからです。


一方、「13」は次へ行くということは象徴的に「愚者」と同意だとしても、「愚者」のように気楽には行けず、自分自身を変えないと進めないのです。


言ってみれば、「愚者」は場所を変えることで自分も変わり、「13」は自分が変わらなければ場所も変わらないということです。


このことをふまえてリーディングに適用していきますと、たとえば転職で悩んでいた時に「愚者」が出るのか「13」が出るのかによって、ともに「移行」というステップは似ていても、まるで意味が違ってくることになります。


自分がその場所で我慢や辛抱してまで残るべきか、あるいは場所を変えて環境によって自分が変わっていくのか、いろいろな選択方法があります。


その際に参考のひとつとなるのが「愚者」と「13」のタロットの出方なのです。


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