迷った時に

カードによる選択基準

悩んでいる時に、指針や線引きとなるもの(考え方)にはいろいろとあると思いますが、タロット的にも実はたくさんあります。

言ってみれば、全部のカードにルールや意味があって、その基準によって選んだり、分けたりすることも決まってくるくらいです。

であれば、迷った時に、カードを引けば、そのカードの基準でやればよいのだということがわかります。

ここが、タロットが選択に使える理由のひとつとなります。

ただ、この方法の場合、あまり、カード(の枚数)を引き過ぎるより、シンプルに一枚とか、数枚に留めておくほうが、かえってわかりやすいです。

もちろん、タロットによる選択や決め事の方法は様々にあり、たくさん引いたほうがいいこともあります。また選択肢ごとにタロットを引くやり方もありますし、それはそれで、面白い方法となります。

ところで、そういう、タロットのルールや意味合いにおいて、物事の選択基準とすることで言えば、例えば、「戦車」とか「」のカードに関係する(と思われる)基準があります。

新型コロナウィルスの問題がある今の状況などは、まさに当てはまるかもしれません。

それは、自分ができることとできないことを分ける、いわば、力のコントロール範囲を見極めるというこです。

自分では力が及ばない、コントロールできないことと、自分ができることを明確に見極め、自分のできないことに注力しても無駄ですから、自分が確実にできることに集中するというものです。

新型コロナウィルスのワクチン開発や、国全体しての防疫システムの構築、はたまたウィルスそのものを撲滅することは、あなたが医者や関係者でなければ、普通の人、一人の力と範囲では無理でしょう。そのことに心配や関心はあっても、実際にはどうすることもできません。

そして、自分の今の状況と力で、できることは何か、肝心なのはこちらであり、これを疎かにしないということですし、できるのはそれしかないという割り切りと冷静さを保つことにもなります。

いろいろと大きなこと、自分ができないことに悩んでいても、疲れてしまうだけですし、自分がコントロールできないことにエネルギーを注いでも、非効率、実効がないわけです。

このようにタロットカードからの導かれる選択基準によって、物事や自分の行動について、決めることができるのです。


タロットに向いている人とは?

以前にも何度か書いたことがありますが、「自分にタロットが向いているか?」と質問される方がいます。

この質問は、学ぶ段階によっても、言葉は同じものが出るのですが、中身が違っていることがあります。

まだタロットを学んでいない時は、純粋な不安と言いますか、自分がきちんと学習していけるだろうか?とか、もし、一緒に学ぶ人たちがいれば、その人たちについていけるだろうか?(落ちこぼれないだろうか・・・)など、タロットに限らず、誰しもが、何かを新しく始めたり、学んだりする時に感じる心配から発するものが多いです。

次に学びに入って、中盤あたりになってきますと、自分の理解や技術について、あせりやいらだち、自己否定みたいな感情が出てくる人がいます。

せっかく思い切ってタロットを学習する世界に飛び込んではみたものの、たとえばリーディングの技術とか、タロットへの理解とか、低いレベルのままでいることに愕然とするとか、どうしても他人と比べてしまって、自分はその人に比べて学習理解度、活用度が劣っているとか、感じてしまう段階です。

教える側から見ていると、それほど本人が思うより悪いものではなく、むしろ、かなり理解も進み、技術も上がっているのに、自分で自分を否定しているような、ちょっと自分に厳しくし過ぎのところもあるように感じます。

これは、理解が上がったからこそ、理想の状態というのも次第に具体化してきて、それに届かない自分と差も明確になり、最初の頃とは別のあせり、落ち込みのようなものが出ると考えられます。

また、初めのうちは、わからないことがわからない(笑)という状態で、そもそも質問する段階でなかったり、質問内容も具体的でなかったりします。

ということは、自分の理解や学習状況の把握があやふやであるということです。

しかし、学習が進むと、それなりに自分の状態もわかるようになり、タロットの理解度も進展します。すると、逆に、できていないところが目立つようになるのです。(これは人の性格や性質にもよります)

まあ、まじめな人ほど、自分を追い込んだり、ネガティブなところを発見しやすかったりするわけですね。

逆に言いますと、いい加減な人や、あまりタロット学習に熱が入らない人は、自分の状態もあやふやなままですから、できていないところもそれほど気にならないわけです。

まれに、超ポジティブな人もいますので、そういう人は、いいところだけ、プラスなところだけ見ようとするので、向いている・いないなど考えず、いつも楽観的、前向きと言えます。(これが必ずしもいいとは言えませんが、結局は人それぞれです)

このように考えますと、学習中盤での「自分はタロットに向いているのか?」という質問・疑問は、実は学習して知識や技術の理解が上がったからこそのもので、裏返せば、それだけタロットに対して真剣であること、もっとタロットに関して向上させたいという思いがあることになります。

私は、いまだに、実は、タロットに向いていないのではないかと、自問自答、いや、自虐に近いでしょうか(苦笑)、悩むことがあります。

ですが、私の場合は、すでに何人もの生徒さんを教えておりますし、先生自体がタロットに向いていないなどと悩んでいては、それこそ生徒さんに失礼ですから、切り替えもしております。

後先になりましたが、学習と実践がさらに進んできて、タロットを人に教えるようになっても、先述したように、自分はタロットに向いていないのではないかと思うことはあるのです。

これはまた、言葉は同じでも、中盤の時との内容とは違う悩みだと言えましょう。

私の場合で言いますと、使命とか、仕事とか、そういう観点からのものになります。果たして、私は、タロットを皆さんに教えるような人物なのだろうか? そこまでタロットを理解していると言えるのか? 使命や天職として言い切れるのか?みたいな感じです。

こうなると、向き・不向きというより、タロットと自分の人生みたいな、ちょっと大げさな印象にはなりますが、自分のライフワーク的なテーマとして、タロットが選択されるのかどうかという問いでもあると言えます。

このように、学習やタロットとつきあっていく様々な段階において、いつも「自分はタロットを扱っていいのか、タロットをしていていいのか、タロットに向いているのか・・・」のような質問・疑問は生じます。

しかし、安心してください。

どの段階、シチュエーションでも、これだけは言えます。

それは、「あなたがタロットが好きならば、それだけでタロットに向いている」ということです。

理解や技術の問題は、人と比べたり、理想と現実のギャップが大きかったり、単純に修練や努力が足りなかったり、はたまた、壁にぶつかり、足踏みしていたりするだけです。

それよりも、もっとも大事なのは、自分(あなた)は、タロットが好きかどうか、この一言に尽きると私は思います。

「好きこそものの上手なれ」ということわざがあります。タロットに関しても、まさにその通りだと言えます。

上手になるかは、人それぞれの進み方があり、早いか遅いかの違いは確かにあるでしょうが、好きでずっとタロットをやっていれば、必ず、上達し、タロットからも愛され、タロットを理解する道や縁がいろいろとあなたに運ばれて来ます。

それはマルセイユタロットでも象徴されています。

例えば、「恋人」カード、これにはいろいろな象徴・意味がありますが、ひとつには、惚れるものという意味もあり、いわゆる好いた・惚れたを考えることもできます。人に対してだけではなく、モノとか趣味みたいなこともあり得ます。

そして、この「恋人」カードと同じ絵柄構造を持つ「審判」は、さらに大きな愛のようなもの、覚醒といえる、目覚め・気づき、レベルの上昇が示唆されます。

この二枚を並べると、好きなもの、何かを好きになって熱中していくことで、それがやがて愛に変わり、自分の中にあった神性的なものが目覚めると例えることができます。

タロットで言えば、タロットが好きで、タロットの活動をしているうちに、今度はタロットから愛され、自分の中にある高次の愛が芽生える(思い出す)というものでしょうか。

人で言えば、人を好きになることで、その人から愛されなくても、自分の中に存在していた「愛」というものを知り、その尊さで自分を肯定し、自己を再生することができるみたいな話です。

人の場合は、相手から愛されるかどうかは相手次第ですが、タロットの場合は、私の考えでは、自分がそのタロットが好きならば、間違いなく、そのタロットからあなたは愛されると思います。

タロットの場合は、あなたが好きで愛しさえすれば、誰でも相思相愛になれるのです。

もちろん、好きなことと、技術・知識の向上は別かもしれません。

ですが、好きでないと続けられませんし、タロット愛があるのとないのとでは、いくら技術や才能があっても、やってもらっている人には何か冷たい印象になりますし、タロットも力を貸してくれない気がします。

やはり、自分を嫌う相手、無関心である相手を好きにはなりにくいもので、タロットも同じく、自分を好きでいてくれる人には何かしらの好意を返してくれるものです。

タロットは人間的ですし、魔術的にはタロットの精霊と呼ばれる存在がいて、彼ら(彼女ら)と仲良くなる必要があるのです。

魔術的でなくても、タロットとの関係がきちんとできているかどうかが、実は、タロット活動においては、ものすごく重要なのです。

あなたがタロット(厳密にはタロットの種類にもよりますが)が好きなら、大丈夫、あなたはタロットに向いていますし、タロットからも選ばれているのです。


守・破・離

芸事などで、師弟関係や、ある流派で学びをしていく過程において、「守・破・離」ということが言われます。

最初は、師、流派の教えに忠実にやっていき、やがてその教えられた型だけではなく、多流派なども比較研究して採り入れ、やがて、自分流のオリジナルなものとして自在にしていく様が、守・破・離の段階です。

言ってみれば基本から応用、さらに新しい自分なりの創造へと移り変わる過程ですね。

これは、人生そのものにも言えるのではないかと思います。まあ、人生の守・破・離ともなりますと、離の段階では「死」、あの世への旅立ちとなるのかもしれませんが。(苦笑)

タロット学習においても、この三つの段階が当てはまると思います。

私、個人的にも、この過程を通っている感じがします。今はどの段階かは言いませんが、少なくとも、破には来ていると実感します、今年立ち上げていく予定の新講座では、その分野においては離になるものと考えています。

ところで、この「守・破・離」が、意図して起こるとは限らないのです。

「守・破・離」の過程は、習い事のことが多いので、どうしても師弟の関係性の面があります。(最初から師を持たない人は別ですが)

自分の師・先生と、円満に「破」「離」へと移行していけばよいのですが、時には、いわゆる師からの破門とか、逆に、不満や理由があって、自分のほうから、思いがけず離脱してしまうということもあります。

また双方、納得ずくではあっても、あとからトラブルになるようなこともあります。

どの分野においても、ひとつの流派を形成していると、その流派の正統か異端かの争いが起こるように思います。この言葉からしても、そう、結局、宗教と同じなのですね。

だいたいにおいて、流派の正統か異端かの問題は、創始者の引退・死後などによって、後継者が誰になるかで争いが勃発します。

創始者は、宗教で言えば教祖とか、最初に神から啓示を受けた人物になり、ともかく偉大なアイデア人であったり、爆発的な情熱、行動力を持っていたりする人の傾向があります。カリスマ的な人とも言えますね。

また創始する人だけに、特別な技術や才能、芸事では磨き上げた技も卓越したものがあり、多くの人を魅了したり、納得させたりするだけの技量、あるいは人格がある人のことがほとんどです。

しかし、後継者は、その息子とか娘、血縁者であると、創始者よりもカリスマ性や能力が劣ることがよくあり、さらに、後継者と名指しされた人でも、まじめではあるけれど、「破」まで至っていない、ひたすら「守」だけの特徴のある人がいます。

そうすると、流派で特別に能力や技術がある人とか、人心を掌握したり、組織運営に長けていたりする人が、流派から独立して、新たな一門を作ることもあります。いわく「本当の教え、技術はこちら側にある」などと言って。

これ(正統争い)には、いろいろな問題があり、純粋に師の教えを守ろうとする人もいれば、このままでは発展性がないとして、技・芸をさらに磨き、新展開、拡大を目指す人もいるでしょう。

「教え」だけのことではなく、現実的問題として、経済や運営、人間関係・・・様々な要素がからみ、流派が分かれていくことにもなるのも世の常と言いますか、仕方ないところもあるのかもしれません。

そんなわけで、守・破・離が、自分が意図したものとは別に、強制的に発生したり、そのような方向に向かわざるを得ない状況になったりすることもあります。

しかしながら、自分の気持ちや意図で起こったものでなくても、また、少々トラブル的に師や一門から離脱することがあったとしても、それは、真の自立の意味で、破から離への流れのために、必要・必然のケースもあると考えられます。

まじめな人ほど、師の教えや流派・一門に忠実であろうと心がけます。ただ、それがあまりにも行き過ぎていては、ただの奴隷であったり、まさに「なになにの犬」と言われるような状態になったりします。

といえば、マルセイユタロットの「愚者」のカードが思い浮かびますが、あなたがもし愚者(愚か者という意味ではなく、自立・完成への旅立ちの者)であろうとするのならば、犬は後にいて、あなた自身は犬ではないことに注目すべきです。

自己犠牲は、本当の意味の自立にもなりませんし、師が本当に望むことではないと思います。

師が正しいとは限りませんし、仮に正しかったとして、その時代・解釈においてということもあり得ます。伝統を守ることだけが、受け継ぐことと同意ではないでしょう。

もちろん流派の「守」も大切で、おろそかにしていい、無視して去れと言っているのではありません。そこで学べたことは感謝すべきで、師はいつまでも、とのような状況になろうと、やはり師だと思います。ただ、自分は何のために学んできたのか、ということです。

もし、あなたが、その流派や一門を愛し、その組織自体を守り、存続させるという役割を思っているのなら、守こそが本道でしょう。

しかし、もともとその流派・一門に入った目的、何がしたかったのか、どうなろうとしたかったのか、その初心の目的・気持ち・意思を思い出せば、流派・組織にこだわる必要もないのかもしれません。

すると、「破」は当然として、やがて「離」に至ること、「離」を目標にしていくことも、納得できるでしょう。

離になっても、あなたはあなたなりの方法で、師や流派に貢献していけばよいのです。

自分が学び、属してきたところとうまく行かず、どうすればよいかと迷っている時、そもそも論のように、あなたたは何がしたかったのか、どうしたいのかを再び思い起こすことです。

そこでしか自分のやりたいことができないと思い込むのも早計です。人は、たいてい、選択肢や方法が、これまでの自分のレベルの範囲でしか想起できず、だからこそ迷うのです。

今の自分の世界認識を変容させ、小さな自分の世界を破壊し、大きな世界へと飛翔した時、選択肢は意外性をもって増加しますし、新たな自分の道や方法も見えてきます。

マルセイユタロットでも、「守」的なカード2の「斎王」、12の「吊るし」において、それぞれの次の数のカードは「女帝」「13」になっており、創造性と破壊性(創造性の別の形)を象徴しています。

順調に、守・破・離ができれば理想ですが、実際には、いろいろな要因がからみ、もたもたしているあなたに、別のあなたが、破と離を目指すよう、環境を用意してくれる場合もあるのです。

結局、「世界」のカードではないですが、多くの人に関わりつつも、この世では、あなた自身の世界を作ることが求められていると思います。

それは、言い方を換えれば、あなたが創造主になることでもあり、それが神性の発露・回帰にもつながることになるでしょう。


こちらの記事は、アメブロで書いた記事をそのままアップしています。

それで、アメブロのほうでは、同時期(年は違えど、同じ月日に近い時期)に書いた過去記事が、自らのホーム画面に表示されるようになりました。

ところで、私のブログ記事は、計画性をもったり、計算したりして書いているのではまったくなく(苦笑)、その日、その時、マルセイユタロットを素材として思いついたことを書き綴っています。

ですから、記事をアップすると忘れていることがほとんどです。

時々、講座の受講生から、「いついつのあの記事は、面白かったです」「その話は、ブログ記事に書いていたものですよね」とか言われますが、自分では先述したように、覚えていないので、「そうでしたっけ?」みたいに答えて、不思議がられます。

思えば、すでにかなりの記事を書いておりますので、整理しようにも大変で、そのまま放置しております。(笑) 中には奇特な方もおり、「全部、記事読みました」と言ってくれるありがたい人もおられますが、もう、ほんと、ありがたいですし、その労力にびっくりです。

ともかく、アメブロの機能により、過去記事を自分が再度読む機会があって、でも内容は忘れているので、逆に新鮮な気持ちになり、また当時とは考えやレベルが変わっていることもあって、それに付け加えたり、補足したりしたくなることも出てきました。

それで、今日はそうした過去記事を再アップしたいと思います。

で、今の私からこれを見ますとですね、この記事からさらに別の焦点が言えるのですね。

この記事では、何らかの貢献感を持つことによって、自分の存在を濃く(実感)することで、生きづらさを軽くする、少しでも自分が生きていく価値を見出すことを述べています。

つまりは、空虚感は、存在感のなさにあると言っているわけです。(こう書けば当たり前みたいな話ですが)

モノやカタチの希薄な世界、例えば霊的な世界のようなところでは、おそらく空虚な存在であってもいいと思います。いや、むしろそうなるのが普通なのかもしれません。

ですが、現実とは、モノやカタチがはっきりしている時空間です。ここで自分がその他大勢、誰でもない何かみたいな、空虚な存在であると思ってしまうことは、まさに命取りになりかねない危険性があります。

まあ、関西弁で言えば、現実とは、存在感あってナンボの世界ですわ。(笑)

存在感とは何かと定義すると、いろいろな考え方があり、難しい部分もありますが、要するに個性とか、心理的には自我(エゴ)と言ってもよいのではないかと思います。

マルセイユタロットでも現実の階層を示すとされるカードは、人としての個性が絵で見られます。ただし、「悪魔」とか「13」とか、「神の家」などは、時に現実を超えたレベルにありつつも、強烈な個性がありますよね。ここは結構、重要な示唆だと思います。

話を戻しますが、ひとつの考え方として、現実での存在感とは、スピリチュアル的に言えば、波動の強さみたいなもの(粗くあっても、強いもの)ではないかと推測されます。

従って、前にも書いたことがあるのですが、自分の存在感が薄く感じて、現実に適用しにくくなっている場合、潜在意識のようなものが危機感を覚え、自分が自分だと意識できる状況を創り出してしまうわけです。

それが「問題」であり、簡単に言えば、「自分に強くフォーカスし、自分の強い波動を出さざるを得ない状況にする」のです。病気だとか、経済問題とか、人間関係とか、およそこの世の悩みは、そうした自己の存在感を自分自身に訴えるために、出てくるところがあると考えられます。

いわば、マイナスの自己アピールです。だったら、プラスの自己アピールになればよいわけで、ここの発想の切り替えができれば、だいぶん、自分と現実の関係も、よい意味で変わってくるのではないかと思います。

スピ系や心理系に傾倒し、まじめな人は、エゴをなくそうと努力しがちですが、それが逆効果のこともあるのです。自分が希薄で自己存在感を低くくしてしまっている人(自尊心にもつながります)、まずは、エゴを高めたほうがよい(よい意味のわがままを出す、自分の本当の気持ちを大切にする)こともあります。

単純に「私はこれが好き、私はこれが嫌い」という二極の波動を出せば、その波の振幅は大きくなりますから、強い波動になるでしょう。えっ、分離が怖い? 争いが怖い? いやいや、調和するのと、支配されるのとでは違いますからね。

支配されていては、支配するもの・されるものの、それこそ二極構造を増長させていることにもなるのですよ。ますは自分を強く回復させることから始めましょう。

 

関連過去記事


自分を出す時代 光と影

スピリチュアルの世界では、これからは統合や霊的な時代になっていくと言われています。

そのことは、このブログでも、特にここ最近、よく書いているところです。

しかし、その前には、それぞれ、個としての確立も求められることも指摘しておりました。言い換えれば、いきなり、全体が統合されるのではなく、一人ひとりが自分としての個性を成り立たせて、成熟させたうえで、そうなると考えられるわけです。

ビジネス的なサービスの面でも、どんどん個人に対応したもの、皆さんの個性に合ったものが提供されてくる傾向にあります。

同時にそのマイナス面として、理不尽とも言える個人の要求をするクレーマーとか、わがままとも言える個人的対応を当然とするようなふるまいをする人も増加してきているように思います。

求めるほうも求められるほうも、より個性化(心理学用語のものではない、単に個人化するという意味で)の時代になっているとも言えます。

個人を進めていくと、全体との確執もまた現れてきます。

その全体というものが、何を指すのかが難しいところですが、「大勢の意見」とか、「一般的な常識」とか言われるようなものになるのかもしれません。ただ、そうなると、心理学的にはスーパーエゴ(超自我)となって、自我の確立に対峙してくる存在にもなります。

そのようなことは、以前は、個人の中(の成長の過程で)起きていたものが、スピリチュアル的に見れば、それがひとつの(時代の)流れのように、全体としても起きていると言えるのかもしれません。

ところで、マルセイユタロットの中でも登場しますが、「巨大な人間像」として、アダム・カドモーン(カドモン)という存在があります。

アダム・カドモーンについては書くと長くなるのと、象徴性において、思想的に意見が異なるケースが多いので、深くは言及しませんが、あえて単純に言えば、ひとつに集合したモデルとしての意識人間体のようなものと例えることができるでしょう。

私たちが(理想的に)イメージする人類全体統合人間像みたいなものと言えます。

このアダム・カドモーンに私たちは今なろうと、全体の流れがそういう方向性に来ており、しかしながら、そのためには、一人ひとりが自分がこの巨大人間のどの部分になるのがもっともよいのかを見極めている状況とも言えます。

ちょっとスピリチュアルな物言いになっているので、よくわからないかもしれません。

何が言いたいのか言いますと、おそらく、今もそうですが、これからもしばらくは、自分らしさが追及されてくる世界になり、悪く言えば、より目立ったもの勝ちみたいなことのようにも見えるでしょうが、それも大きな視点で言えば、進化の方向性でもあるということです。

そして、誰しもが、自分自身を表現していくことに対し、もっと自然なことになっていくでしょう。

だから今、自分を押し殺している(抑圧している)人、他人や周囲の目線、自分で勝手に作っている「全体」とか「みんな」とか「親」とかの言葉(実在というより、自分で思い込んだり、イメージしたりしている仮の存在)に、それこそ忖度(笑)してしまっているような人も、そこから解放する衝動、自分を出したい欲求というものが増幅してくると考えられます。

当然、その過程では葛藤や対立も表面化してきますが、それでも、以前は抑え込まれていたり、我慢や妥協で何とか穏便に済ませようとしたりしていたものが、そうも行かなくなって、問題の本質と向き合い、対処することが加速されるように思います。

このことは、マルセイユタロットの数でいえば、5と1に関係すると考えられます。

ところが、自分を表現していく、個性としての自分を出していくということが、多くの人で行われるようになると、先述したように、個々の間の人間同士で対立も起きますし、中にはわがままな欲求をすること、人に自分の思いを押し付けることが自分の表現だと勘違いしてくる人も増えるでしょう。すでに世の中はそうなっているとも言えます。

だからこそ、ここがもっとも重要と言えるのですが、もし、あなた(自分)の表現が、周囲の多くの人を傷つけたり、不幸にさせたり、怒りを持たれたりするようなことになるのなら、それはたいてい、単なる自分勝手な個人的欲求を爆発させているに過ぎないことを認識しなくてはなりません。まるで、駄々をこねる子供の表現と同じです。

もちろん、自分の表現が、必ずしも他人に、全部とか、スムースに受け入れられるわけではありません。

しかし、自分の個性的な表れが、他人にとっても好ましいこと、受け入れられることであるのが理想で、お互いに好ましく自分を表現し合えることが増える状態が個性の成熟度を示すとも考えられます。

そのためには、まずは自分を抑圧し過ぎず、自分としての意見を述べたり、表現をしたりすることは大切で、そうすると自分は楽になってくるはずです。

逆説的になりますが、相手の個性を認めるには、最初の段階として、自分の個性を出す、自分自身を認めることが重要になります。

他人に気遣い、自分を殺していては、他人の個性だけを無条件に受け入れることになり、それは一方的なことなのです。これは別のわがまま(自分を認めず、必要以上に抑圧し、自分を殺すというわがまま)であることを理解すべきです。

その次には、自分のわがままになり過ぎていないか、単に利己的欲求の充足と個性の表現を誤解していないかをチェックし、自分を出すなら相手も出すことを許すことができるかの段階になって行くでしょう。

自分から発信していくツールが、現在、山のように出てきた理由は、当然、機器とソフト面の発達もありますが、霊的に言えば、統合のための個の確立を促進するための流れと見ることができます。

とは言え、何事もマイナス面はあるものです。

個の発信が誰でもできるような時代になってきて、それらの弊害も多く出ているのも否めません。

ですが、すでに述べたように、ある種の意図が宇宙的にはあると見ると、もし、あなたが自己の表現や自分からの発信にためらっているのなら、勇気をもってやってみたほうが、全体の流れには合っていることになります。

そして、反対に、別に今あるたくさんのツールで自己表現、自己発信することが、あなたの「個性」ではないというのなら、それもまたひとつの「個性」であり、その選択も流れには合っていることになります。

要するに、自分らしくあればいいということです。(自分らしくある時は、自分が苦しい状態ではないはずです、もし自分らしくしているつもりでも、苦しくつらいのなら、どこか間違っていることになります、ただし、成長の過程ではつらさ・苦しさは当然あるものですから、ずっと楽であることはないと言えます)

一番まずいのは、ただ惰性的、衝動的、低次の欲求充足のためだけに自覚なく生き(自覚ある場合は、特殊ではありますが、有意義なこともあります)、みんなの意見とか、常識とか、大勢に迎合し、自分の意見を持たずに他人を攻撃したり、自分を抑圧したりすることです。

自分の選択においても、感情と理性、低次と高次、その葛藤は普通にありますが、どちらがよいというのではなく、その葛藤、悩みから何を学び、得るのかという、いわば自分を超えた第三の視点から見てみることだと思います。

マルセイユタロットで言えば、「恋人」カードと「神の家」の接点を見るような感じでしょうか。

皆さん、一人ひとりの成熟した個性の確立、そこから来る祝福を願っております。


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