迷った時に

変人化のススメ

人間は強い人ばかりではありませんし、いつもいつもクリエイティブで前向きというわけではないでしょう。

他人と自分を比べてしまうと、つい人のよいところばかり目につき、自分はダメだ、何をやっているんだろう・・・と悩んでしまうことがあります。

そのため、メンタル系の話では、人と比べないこと、自分基準でできることを推奨しています。

さらにスピリチュアル系にでもなりますと、すでに自分自身は完全であるので、何も不足も傾きもなく、そのままの自分でよいことを知るべしと言われます。

それは心理であり真理なのかもしれませんが、現実的には、いろいろな違う人たちと暮らす世の中です。

人と比べるなと言っても、比べないようにするほうが難しいです。むしろ、人生は比較の時空と例えてもいいかもしれません。

現実・実際においては、すべては違いというもので表されます。「同じ」という概念・考え方でさえも、違いがあるからこそわかるのです。

時間や距離も長さなどで違いが出ますし、自然や天気も毎日変わります。人の見かけや内面さえも違うことが普通です。厳密に言えば、まったく同じモノなど存在しないでしょう。

ところが、原子や素粒子レベルまでミクロ化すれば、同じ構造を見ることができ、ある意味、すべて同じであると言えます。逆のマクロ方向にしても、超巨大なものは「ひとつ」ということになって、同じに行きつきます。

つまりは、私たちの思う「違うという現実世界」でさえも、ある種のレベルや次元、範囲でしかないということになります。

とは言っても、通常認識において、違いの世界がノーマルなところに、何の因果か(苦笑)、放り込まれているわけです。

スピリチュアルでは、違いよりも同じを見る世界と言えますが、何度も言うように、現実世界では違いのある世界です。

よって、現実世界をうまく泳いでいく(渡り歩く)には、違いを意識することが、逆に現実と調和する(なじむ、過ごしやすくなる)ことになるのではないかと考えられます。

例えば、ビジネスや商売の世界では、ほかとは違うウリとかアピールするものがあればよいと言われます。どこでも手に入る、特に目立たないものを売っていても、そこから買う必要性が少なくなるからです。

そして、今から述べることは、あまり聞かない話だと思いますが、マルセイユタロットで言えば「愚者」と「吊るし」に象徴されるものです。

この二枚は、いわば変わり者を表しています。

「愚者」は定住して(定職を持って)、きちんと暮らしている人たちとは違い、ずっと旅をし、その土地や人に縛られることから逃れています。しかしながら、一般人から見れば不安定で異質な人間で、実際、絵柄的にも、ズボンが破れていたり、奇抜なスタイルであったりと、一般の人とは違うニュアンスを醸し出しています。

また、「吊るし」の人物も、逆さで、二本の木の間でぶらさがっており、これまた不思議で変わった雰囲気があります。

言ってみれば二人とも変人なわけです。(笑)

しかし、この二枚に見る変人スタイルが、現実世界での生活に変化をもたらせ、生きにくい、暮らしにくいと思っていた自分を、現実に調整し直させることになります。アジャスト・再適応・再調整と言ってもいいです。

変人というのは、普通とは違うから変人なのです。しかし、普通人である「あなた」が、もし現実が生きにくい、暮らしにくいと感じているのなら、それは普通人であるから、あるいは、普通人(常識人)であろうとするから、ということも言えるのです。

よく、世界を変えたいのなら自分を変えろと言われますが(外の世界を変えることはなかなか大変なので)、それと似たようなことで、普通人であるあなたが、今の世界に適合していないのなら、変人になると、逆に適合しやすくなるかもしれないということなのです。

それは、先述したように、現実世界が違いの世界であるからで、違いを生み出すと、この世界はあなたを認めるという妙な構造というか、システムになっているからなのです。

統合しての「同じ」を極めていくと、それはそれで生きやすくなる(神の次元に近づくため)のですが、浮世離れした感覚が必要となります。

それとは反対に、自分のエッジを立てることで、世界に自分を認めさせるという方法で、生きやすくする方法もあるのです。

こういうと、自分の個性とかブランディングを進めていくみたいな、ビジネス的な話のように思いますが、今回言っているのは、「愚者」とか「吊るし」のように、変わった方法、イレギュラーで、一見ネガティブのようなやり方でもOKという話なのです。

もっと具体的に言えば、「愚者」は普通や常識から逃げることであり、「吊るし」は常識を拒否して籠ることだったり、逆張りをするようなことだったりします。

まさに逃げやブロックという、世間ではネガティブなことと言われている方法を取ることで、自分を変人化し、それでもって、自分の身を守ると同時に、変わり者として認知されることで、逆に生活の自由度を上げていこうというものです。

私など、典型的と言えます。その昔は公務員をやっており、世間一般的には安定したよい仕事、常識人、普通人と見られていましたし、自分もそれでいい思っていたところがありました。

しかし、うつ病などをきっかけに、公務員の仕事も難しくなり、結局、タロットの世界(仕事)で生きていくように変えました。

まあ、今も、普通人的に見れば、まともに生活しているとは言い難いですが、気持ち的にはずいぶん楽になってますし、公務員人間、まじめ人間だったらできなかったこともできるようになったと思っています。つまり、自分の自由度が上がったわけですね。

現実世界は(時間の流れこそあれ)、何も変わっていなくても、私自身が変人を選択したことで(笑)、かえって世界に適合しやすくなった(生きやすくなった)というわけです。

ですから、いいことをしようとか、まともでいようとか思わなくても、変人化するだけで、意外に現実はあなたにやさしくなることがあるのです。

変人化でも、すでに述べたように、自分の特技をウリにするとか、個性的なビジネスするとか、そういうものがいいとは限りません。

この世界はネガティブにしろ(犯罪とか反社会的なものはダメですが)、ポジティブにしろ、違いや個性が出てくれば、世界があなたを活かし(生かし)やすくする仕組みがあるようなのです。(ただし、霊的には一時しのぎみたいな効果ですが)

ということで、皆と同じ、普通、まじめでは苦しかった人、生きにくかった人は、「愚者」や「吊るし」を見習い、変人(笑)になってみましょう。


あれかこれかで悩むこと

タロットでの相談や悩みを聞いていますと、たいてい、こういうケースに当たります。

それは、あれかこれかの選択で悩んでいること、です。

意外にも人は、たくさんの選択肢で悩むことは少ないものです。むしろ、選択肢が多いというのはうれしい悲鳴というか、贅沢な悩みなのかもしれません。(その場合は、価値観に従い、優先順位をつけるとよいです)

たったひとつのもの(人)を失うようなこと、あるいは、それを得られないこと、そして、今述べたように、ふたつの選択肢の間で悩んでしまうこと、これが、分析すると、当てはまるパターンとして多いのです。

そうしますと、悩みの解決法は、実はシンプルになってきます。

構造的なアプローチと言いますか、そういう視点で見た場合、ひとつのことにこだわるか、ふたつのものの間で選択に悩むかというケースが浮かび上がります。

前者は、自分と対象(得たいと思うもの)の関係で、結局、得られるか得られないかのことになり、後者はそのまま、ふたつのうち、どちらを選ぶか(選べばいいか)のことで、それはどちらも、二者葛藤の構造にあると考えられます。

単純な白黒の図で書きますと

〇得られる ●得られない

〇を選ぶか  ●を選ぶか

というものです。

 

そして、ここが大事なところですが、〇と●は並列の横並びの位置にあります。

もし、ここで、違う位置、つまり縦位置に「ある図」描くとしましょう。

    ※

 〇 ●

※印の位置です。

 

※印の位置は、〇と●とは異なり、別の空間と言いますか、縦位置にあります。

ここにも実は隠れた選択肢があるということです。しかしながら、ふたつの構造の悩みに陥っている人には、それが見えません。

→ 〇 ● ←

ここでの矢印は、たとえ、別の方向であったとしても、〇と●と同じ並列の位置から見ているので、この人には、〇か●(逆方向だと●か〇、どちらにしても同じこと)しか選択肢が見えないのです。

けれども、※印の視点になれば、〇か●は、質として、同じ選択に見えてきます。言ってみれば、どちらも同じ、あるいは、どちらでもないみたいな感覚です。

右の人(道)がよいのか左の人(道)がよいのかとずっと悩んできて、ある日、ふと、どちらの人でもないんだとか、自分一人でもできる(一人でもいい)んじゃないかと気づくようなことです。

道の例えをしましたので、それをさらに使わせてもらうと、ある人が、道を進んで行くと、やがて左と右に分かれている分岐点に来たとします。

そして、自分の道は左に行けばよいのか? 右に行けばよいのか? と悩んでしまいます。目的地に行くためには、どちらかの道しかこの人には見えないので、悩むわけです。

ここに立体次元を導入します。そうですね、ヘリコプターでも登場させましょうか。(笑)

ヘリコプターがやってきて、びっくりしている間に乗れと言われて乗り込むと、ヘリは空に舞い上がりました。その人が上空から下を見ますと、右の道も左の道も、最終的には同じ場所につながっているのが見えました。

あるいは、右と左の道が、それぞれ別々の方向に進むのが見えても、広大な範囲で言えば、遠回りになっても、ほかの道にも続いていて、やがて目的地には必ず着くというのがわかります。(巨大な地図で見るようなもの)

もちろん、有限な時間(と場所)の中では、効率よく選択しなければならないという制約はあります。すると、右(あるいは左)でなければならなかったという理由も出ます。

しかしそれとても、そもそも論までになりますと、あなたがなぜその目的地に行かねばならないと思っているのか?ということに行き着き、ここにも二者構造の問題が出てきて、違う視点(可能性)に導かれるきっかけが出ます。

さて、ヘリコプターも、ある意味ではです。上空の道とでも言いましょうか。

これは、先ほど述べた「同じ並列の間(世界)」では、絶対出て来ない(見えてこない)道です。

つまり、次元やレベルが同じ位置にあると、悩みからはなかなか出られないということです。出られるにしても、結局、同じ次元の選択肢を無理矢理選ぶか、限定された時空間での効率選択になる場合がほとんどです。(そしてそれは錯覚の出口でもあります)

限定された時空間の効率選択とは、言い換えれば、お金とかモノのあるなし、三次元的(物質)損得、あるいは感情・欲求(低次人間性)をただ満たすような選択基準になるということてす。

現実・三次元感覚で多くの人が生きている限り、実際に仕事などの納期、効率性などにおいて、同じレベルの間で、限定された時空間の効率選択をしなければならないシーンは確かにあります。それはそれでいいと思います。

しかし、すごく悩んでしまうものについては、その効率性や損得的な見方をしていると、同じレベルでの選択肢しか見えて来ないので、次元やレベルを超えた選択肢・方法の視点を獲得することができにくくなります。

新しい視点を獲得するということは、つまりは次元の上昇を意味しますから、あなた自身が新たにシフトを起こし、まったく問題や解決の意味合い・視点も変わり、今まで気づけなかった資源、選択肢が多数出現し、生き方は今までより、とても楽になるはずなのです。

こうした縦の新たな次元・視点をもたらす構造は、マルセイユタロットで頻繁に描かれていることであり、特に、「恋人」や「運命の輪」には顕著です。

このような視点の必要性は、個人だけではなく、今、世界で起きている問題についても言えます。

今までの経験や知識に頼れば頼るほど、同じレベルの間での選択肢しか見えません。脱出や解決法が皆目わからないみたいなものです。

本当に買い物に今走らねばならないのか?、買うにしても、思っているもの以外で、代用したり、生きる糧にしたりできるものはないだろうか?

これまでと同じ生活、生き方をトレース・イメージすればするほど、不足におびえ、恐怖と不安は増します。

生き方をシフトしていく勇気と気概、そして月並みに聞こえかもしれませんが、本当に「」(他人愛だけではなく、まずは、エゴではない本当の意味の自己への愛)が試されてくるでしょう。


講座・セミナー受講の選択・心構え

自己啓発とか成功を目指す的な講座に出る人は、その講師の人、先輩方から「こんな風にすばらしい私になれるんです」とか、「こんなすばらしい世界があなたを待っています」など、聞かされることもあるかと思います。

自己啓発系・成功系だけではなく、たとえば、私の業界とも言えるタロット関連の講座でも、「タロットができて、自分も他人も変わります」とか、「以前の私(講師・受講生)はこうでしたが、今は講座を受けて、経済的にも精神的にもすごく充実してます」みたいな触れ込みを見る人もいるでしょう。

当然の話ながら、何のために自分がセミナーや講座を受けるのかを考えれば、受ける自分が今よりも向上したい、よくなりたい、知識や技術をさらに身に着けたいという思いからなので、講座を提供する側も、どんなメリットが、この講座を受けるとあるのかを明確にしたほうがよいわけです。

もし数値で効果やメリットを表すことができるものならば、そうしたほうが明確で、成果保証みたいなことも提供側からつけることも可能になります。

例えば、コンサル講座的なものであれば、あなたの売り上げ何パーセント上げますとか、月収〇〇万にしてみせます!みたいなものです。

けれども、全員が全員、講座のキャッチコピーみたいな効果や成果が得られるとは限りません。どんな講座やセミナーも、参加者に100%の効果・保証を約束できるものはないでしょう。

それだけ、人には個性があるからで、言ってみれば、完全なる普遍的な法則はないと言えます。

ただ、それでも物理法則とか、どんな人にも適用される普遍的なものはこの世にはあることはあります。しかしながら、いわゆる教える系での、全員が必ず同じになるような完全法則はないと言えるでしょう。

これは結局、教える内容よりも、教えられる人の気持ちやメンタルに左右されるからだと言えます。

行動ももちろん、目的達成や効果が出る出ないに関しての大きな要因ではありますが、結局、行動を規定しているのも、その多くは個人のメンタルや精神性にあると思えますから、つまるところ、個人個人の心によって、ほぼほぼどんな法則も変わってしまうところがあるわけです。

ここに教える系の講座やセミナーの難しさがあります。

それから、誤解している人もいると思いますが、教える講師や、そのセミナーの卒業生たちが、全員言われているような効果を出したり、目的を完全達成していたりするわけではないということです。もちろん教えられている内容には自信や効果は、それなりにあるからやっていることで、効果がないというのではありません。

ここで言っているのは、人間性とか、そういう面も含めて、トータル的に成長しているかどうかはわからないということです。(技術と人間性は別のところもあります)

わかっている人はいいのですが、セミナーとか講座は、ある目的とかある技術を教えているだけであり、すべてがうまくい行くとか、総合的に人間性が向上するという教育をしているのは(あるにはありますが)少ないのですから、特定の分野については上がっても(よくなっても)、全体・すべてがうまく行くようになるとは限らないのは当然です。

よい講師はそのことはきちんと伝えていると思いますが、悪徳なセミナー・講師の人は、「この講座のこれさえ学べばすべての問題は解決し、あなたはあらゆる望みが叶えられ、幸せになれる」と豪語しているところもあります。こういうものは、洗脳に近い形式を取っているところもありますので、注意が必要です。

ですから、セミナー・講座を受ける側も、自分は何のためにそれを受けるのかを今一度明確にするとよいです。

経済問題を改善するためとか、仕事のある技術を学ぶためとか、この職業に就くためのある資格を取るためとか、人間関係をよくするためとか、生き方とか創造性についてアイデアを得たいとか、第二の人生のための趣味や生き甲斐を持ちたいとか・・・まったくの無目的、漠然とするより、少しでも何のために受講するのかの目的を自覚させておくことです。

実際には、受講する講座が必ずしも、当初の目的に適う(叶う)ものではないかもしれませんが、目的をはっきりしておけば、自分にとって重要な部分とそうでない部分もわかりますし、最悪、途中キャンセルして学び直すこともできます。

逆に、目的が受講中に変わって(その目的よりもっと大きなものとか大事なものが見つかるなどして)、新たな自分を発見することもあるかもしれません。どちらにしても、やはり目的を意識していたほうがいいわけです。

あなたが選ぶ講座やセミナーの講師の方は、その(教えられている)道ではすばらしいと思いますが、講師も人間ですから、完璧ではありません。

講師に尊敬はあっても、幻想を抱きすぎたり、その方に何とかしてもらおうと、依存性を持ちすぎたりするのは危険です。

自己成長どころか、マルセイユタロットで言うところの「悪魔」につながれた人物のように、成長が止まってしまうおそれもありますし、次々とその方の別の講座を受講するようになり、気がつけば、大金を失っているという事態もあります。

ここでも自分をしっかり持つことが大切で、誘われるがままに次の段階の講座や、その組織や講師がやる別セミナーを受けることには注意し、何の目的でそれを受けるのか、どういう自分になりたいために、それを受講するのかということを自己に問いかけ、精査することがいります。

よい講師の人は、おそらく、依存性が高くなっている人には、注意を促してくれて、自分が受けたいと言っても、「あなたはその段階にまだいませんよ」とか、やんわり断るか、時期を待つように指示してくれるでしょう。

講師から自分は避けられていると思って悩んでいる人は、講師や講座自体にあまり傾倒し過ぎて、自分自身や本来の目的を見失い、依存が高くなっていないか、自分で振り返ってみるとよいでしょう。講師の人はそれに気づいていて、あえてあなたから距離を取っていることもあるのです。

逆のパターンとして、何も行動しなかったり、講師から言われたことをやらずに、文句ばかり言っていたりする人、「効果が出ません、内容が悪いのでは・・・」と批判するような人(ただし、正当な要求とか批評はよいもので、それが言える雰囲気も大事です)も、講師から見ると、困った人になるますから、避けられているところもあるかもしれません。

カリスマ的で、強い自分を持ち、絶対の効果を謳っているような講師とかセミナー、そういう人・講座こそ、それだけ強烈な輝きを発しているので、魅かれてあこがれて入る人も少なくなく、受講生の中に、依存や虜になってしまう人もいます。

漫画・アニメの言葉で恐縮ですが、ブリーチ(BLEACH)という作品で悪役ではあるのですが、なかなかの言葉を吐く人物がおり、この者が、「あこがれは理解からもっとも遠い感情だよ」と言い放つ場面があります。そういうことなのです。(しかしあこがれが必ずしも悪いものではなく、それがあるからこそ、向上したり、努力ができたり、モチベーションを保ったりすることもできます)

それでも、すごい講師の人は、やはりその分、技術や知識もすごいので、望む結果をあなたにもたらす確率も高まることでしょう。人気になるのも、それだけの理由があるのです。(ご本人の努力、意識の高さも常人を超えているはずです)

ちなみに・・・私はまったくそのようなタイプの講師ではありません。(苦笑)

講師として、日々、向上はもちろん思っておりますが、私自身が完璧な人間どころか、どちらかというと体力も精神も弱い部類の人間で、不安神経症とかパニックとかうつとかも起こした人物です。

形式的には、私がタロットを教えるという形にはなりますが、精神・本質としては、むしろタロット自体が教えているという感覚です。

もっと言えば、マルセイユタロットにある智慧とか精神とか、示唆する神性(完全性)が教えているのであり、そはれ受講される皆さんの中にあるものです。

私は人としては自己浄化も自尊もままならない、物質的にも精神的にもまだまだ弱い人間ですが、マルセイユタロットの象徴性を借りて、自分と受講性とのあいだに宿る神性の力によって、気づきと自己の成長の道、象徴的にいえば光をもたらすことをしています。

タロットを習ったからと言って、すぐに経済やメンタルが豊かになるわけではなく、引き寄せや願望が叶うテクニックを教えているのでもありません。

何度もいうように、私自身にカリスマ性や特別な力はありません。普通の人より、むしろ脆弱性を持つ人間です。

そんな私だからこそ、下から目線ではないですが、人の気持ちがわかるところもあります。意識高い系や成功系の人たちのように、ひたすら自分を磨き、弱音や愚痴は吐かず、使う言葉、行動に注意して、すばらしい生活と人間であろうとするタイプてにもなれませんし、そのようなことを押し付ける気持ちもありません。

例えば、今の世の中の状態でも、ピンチはチャンスだ!と切り替えられるような強さはなく、やはりこの先の不安とか、いろいろと人としての当たり前の気持ちが出てきます。

それでも、マルセイユタロットの(教えの)おかげで、こんな私でも、気持ちを少しでも安定させたり、人様に、タロット通して成長していくこと伝えることが、なんとかできるのです。

言ってみれば、私は、自分自身が光となって輝き導くタイプではなく、皆さま自身にある光源を在りかを、一緒になって探して、灯をともす作業を地道にしていくというようなタイプです。まるで地味な作業員みたいな者かもしれません。(笑)

「そのことについては・・・えーと、ちょっと待ってください・・・(とマルセイユタロットを出して調べ)・・・こんな風に考えてみてはいかがですか?こういうやり方もありますね」

と皆さんを、指導と言うより、示唆をマルセイユタロットを通して提供していくような感じです。こんな講座で、講師なのです。(苦笑)

それでも私は思うのです。あなた自身の中に、そして私の中にも、すばらしいものがあります。

これからの世の中、確かに今はネガティブなものの想像も多いかもしれませんが、マルセイユタロットを通してあなたの中にある完全性を少しずつ開花していくことにより、ネガもポジもない状況へと導いていくことになると思います。

世の中が変わるのではなく、あなた自身が変わるのです。いや変わってきたからこそ、世の中に変化が大きく出て来たのです。

すごいものを確実にあなたにお見せするような能力は私にはありませんが、一作業員として、一緒にあなたとともに、この世とあなたの自身に光を復活させたいと思っています、それがあなたの強さ、ひいては私の強さにもなっていくのです。


カードによる選択基準

悩んでいる時に、指針や線引きとなるもの(考え方)にはいろいろとあると思いますが、タロット的にも実はたくさんあります。

言ってみれば、全部のカードにルールや意味があって、その基準によって選んだり、分けたりすることも決まってくるくらいです。

であれば、迷った時に、カードを引けば、そのカードの基準でやればよいのだということがわかります。

ここが、タロットが選択に使える理由のひとつとなります。

ただ、この方法の場合、あまり、カード(の枚数)を引き過ぎるより、シンプルに一枚とか、数枚に留めておくほうが、かえってわかりやすいです。

もちろん、タロットによる選択や決め事の方法は様々にあり、たくさん引いたほうがいいこともあります。また選択肢ごとにタロットを引くやり方もありますし、それはそれで、面白い方法となります。

ところで、そういう、タロットのルールや意味合いにおいて、物事の選択基準とすることで言えば、例えば、「戦車」とか「」のカードに関係する(と思われる)基準があります。

新型コロナウィルスの問題がある今の状況などは、まさに当てはまるかもしれません。

それは、自分ができることとできないことを分ける、いわば、力のコントロール範囲を見極めるというこです。

自分では力が及ばない、コントロールできないことと、自分ができることを明確に見極め、自分のできないことに注力しても無駄ですから、自分が確実にできることに集中するというものです。

新型コロナウィルスのワクチン開発や、国全体しての防疫システムの構築、はたまたウィルスそのものを撲滅することは、あなたが医者や関係者でなければ、普通の人、一人の力と範囲では無理でしょう。そのことに心配や関心はあっても、実際にはどうすることもできません。

そして、自分の今の状況と力で、できることは何か、肝心なのはこちらであり、これを疎かにしないということですし、できるのはそれしかないという割り切りと冷静さを保つことにもなります。

いろいろと大きなこと、自分ができないことに悩んでいても、疲れてしまうだけですし、自分がコントロールできないことにエネルギーを注いでも、非効率、実効がないわけです。

このようにタロットカードからの導かれる選択基準によって、物事や自分の行動について、決めることができるのです。


タロットに向いている人とは?

以前にも何度か書いたことがありますが、「自分にタロットが向いているか?」と質問される方がいます。

この質問は、学ぶ段階によっても、言葉は同じものが出るのですが、中身が違っていることがあります。

まだタロットを学んでいない時は、純粋な不安と言いますか、自分がきちんと学習していけるだろうか?とか、もし、一緒に学ぶ人たちがいれば、その人たちについていけるだろうか?(落ちこぼれないだろうか・・・)など、タロットに限らず、誰しもが、何かを新しく始めたり、学んだりする時に感じる心配から発するものが多いです。

次に学びに入って、中盤あたりになってきますと、自分の理解や技術について、あせりやいらだち、自己否定みたいな感情が出てくる人がいます。

せっかく思い切ってタロットを学習する世界に飛び込んではみたものの、たとえばリーディングの技術とか、タロットへの理解とか、低いレベルのままでいることに愕然とするとか、どうしても他人と比べてしまって、自分はその人に比べて学習理解度、活用度が劣っているとか、感じてしまう段階です。

教える側から見ていると、それほど本人が思うより悪いものではなく、むしろ、かなり理解も進み、技術も上がっているのに、自分で自分を否定しているような、ちょっと自分に厳しくし過ぎのところもあるように感じます。

これは、理解が上がったからこそ、理想の状態というのも次第に具体化してきて、それに届かない自分と差も明確になり、最初の頃とは別のあせり、落ち込みのようなものが出ると考えられます。

また、初めのうちは、わからないことがわからない(笑)という状態で、そもそも質問する段階でなかったり、質問内容も具体的でなかったりします。

ということは、自分の理解や学習状況の把握があやふやであるということです。

しかし、学習が進むと、それなりに自分の状態もわかるようになり、タロットの理解度も進展します。すると、逆に、できていないところが目立つようになるのです。(これは人の性格や性質にもよります)

まあ、まじめな人ほど、自分を追い込んだり、ネガティブなところを発見しやすかったりするわけですね。

逆に言いますと、いい加減な人や、あまりタロット学習に熱が入らない人は、自分の状態もあやふやなままですから、できていないところもそれほど気にならないわけです。

まれに、超ポジティブな人もいますので、そういう人は、いいところだけ、プラスなところだけ見ようとするので、向いている・いないなど考えず、いつも楽観的、前向きと言えます。(これが必ずしもいいとは言えませんが、結局は人それぞれです)

このように考えますと、学習中盤での「自分はタロットに向いているのか?」という質問・疑問は、実は学習して知識や技術の理解が上がったからこそのもので、裏返せば、それだけタロットに対して真剣であること、もっとタロットに関して向上させたいという思いがあることになります。

私は、いまだに、実は、タロットに向いていないのではないかと、自問自答、いや、自虐に近いでしょうか(苦笑)、悩むことがあります。

ですが、私の場合は、すでに何人もの生徒さんを教えておりますし、先生自体がタロットに向いていないなどと悩んでいては、それこそ生徒さんに失礼ですから、切り替えもしております。

後先になりましたが、学習と実践がさらに進んできて、タロットを人に教えるようになっても、先述したように、自分はタロットに向いていないのではないかと思うことはあるのです。

これはまた、言葉は同じでも、中盤の時との内容とは違う悩みだと言えましょう。

私の場合で言いますと、使命とか、仕事とか、そういう観点からのものになります。果たして、私は、タロットを皆さんに教えるような人物なのだろうか? そこまでタロットを理解していると言えるのか? 使命や天職として言い切れるのか?みたいな感じです。

こうなると、向き・不向きというより、タロットと自分の人生みたいな、ちょっと大げさな印象にはなりますが、自分のライフワーク的なテーマとして、タロットが選択されるのかどうかという問いでもあると言えます。

このように、学習やタロットとつきあっていく様々な段階において、いつも「自分はタロットを扱っていいのか、タロットをしていていいのか、タロットに向いているのか・・・」のような質問・疑問は生じます。

しかし、安心してください。

どの段階、シチュエーションでも、これだけは言えます。

それは、「あなたがタロットが好きならば、それだけでタロットに向いている」ということです。

理解や技術の問題は、人と比べたり、理想と現実のギャップが大きかったり、単純に修練や努力が足りなかったり、はたまた、壁にぶつかり、足踏みしていたりするだけです。

それよりも、もっとも大事なのは、自分(あなた)は、タロットが好きかどうか、この一言に尽きると私は思います。

「好きこそものの上手なれ」ということわざがあります。タロットに関しても、まさにその通りだと言えます。

上手になるかは、人それぞれの進み方があり、早いか遅いかの違いは確かにあるでしょうが、好きでずっとタロットをやっていれば、必ず、上達し、タロットからも愛され、タロットを理解する道や縁がいろいろとあなたに運ばれて来ます。

それはマルセイユタロットでも象徴されています。

例えば、「恋人」カード、これにはいろいろな象徴・意味がありますが、ひとつには、惚れるものという意味もあり、いわゆる好いた・惚れたを考えることもできます。人に対してだけではなく、モノとか趣味みたいなこともあり得ます。

そして、この「恋人」カードと同じ絵柄構造を持つ「審判」は、さらに大きな愛のようなもの、覚醒といえる、目覚め・気づき、レベルの上昇が示唆されます。

この二枚を並べると、好きなもの、何かを好きになって熱中していくことで、それがやがて愛に変わり、自分の中にあった神性的なものが目覚めると例えることができます。

タロットで言えば、タロットが好きで、タロットの活動をしているうちに、今度はタロットから愛され、自分の中にある高次の愛が芽生える(思い出す)というものでしょうか。

人で言えば、人を好きになることで、その人から愛されなくても、自分の中に存在していた「愛」というものを知り、その尊さで自分を肯定し、自己を再生することができるみたいな話です。

人の場合は、相手から愛されるかどうかは相手次第ですが、タロットの場合は、私の考えでは、自分がそのタロットが好きならば、間違いなく、そのタロットからあなたは愛されると思います。

タロットの場合は、あなたが好きで愛しさえすれば、誰でも相思相愛になれるのです。

もちろん、好きなことと、技術・知識の向上は別かもしれません。

ですが、好きでないと続けられませんし、タロット愛があるのとないのとでは、いくら技術や才能があっても、やってもらっている人には何か冷たい印象になりますし、タロットも力を貸してくれない気がします。

やはり、自分を嫌う相手、無関心である相手を好きにはなりにくいもので、タロットも同じく、自分を好きでいてくれる人には何かしらの好意を返してくれるものです。

タロットは人間的ですし、魔術的にはタロットの精霊と呼ばれる存在がいて、彼ら(彼女ら)と仲良くなる必要があるのです。

魔術的でなくても、タロットとの関係がきちんとできているかどうかが、実は、タロット活動においては、ものすごく重要なのです。

あなたがタロット(厳密にはタロットの種類にもよりますが)が好きなら、大丈夫、あなたはタロットに向いていますし、タロットからも選ばれているのです。


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