迷った時に
タロットに向いている人、向いていない人
タロット学習において、最初、あるいは途中からでも、結構、質問として来るのが、「私はタロットに向いているのでしょうか?」というものです。
これは、まだタロットを学んでいない時の場合と、すでにある程度タロット学習を進めている段階のものとでは、質問の言葉は同じでも、ニュアンスが違います。
今からタロットを学ぼうかという人で、「自分はタロットに向いているのか?」と発する場合は、未知なるものへの不安が中心ですし、裏返せば、それだけの期待感もあるのです。
気持ちとしては、「自分が学ぶものに対して相性が良ければいいな」とか、「タロットを自分や他人に活かせるようになれれば嬉しい」というようなワクワクもある反面、「できなかったらどうしよう」とか、「ちゃんと学習についていけるかな?」という不安もあり、これはタロットに限らず、誰しもが抱く、「初めて感覚」のようなものです。
しかし、学習途上で抱くこうした質問は、やってみてからのものであり、単純な不安と期待のものからではないことがあります。
それは、一言でいえば、自分に対する不安、自信喪失であり、一見、技術・知識的な問題であるかのようでいて、実は本人の精神的な問題(の浮上)や危機ということがあるのです。
具体的な表現としては、「自分はタロットを学んできたけれど、なかなかうまくリーディングできない」「結構学習したのに、タロットを活かすということができない、わからない」という感じが多いでしょうか。
これか先述したように、純粋な技術と知識面の技量不足問題であるならば、やり方を変えたり、もっとポイントを絞って指導を受けたり、修練したりすればいいのですが、そうではない精神的なことまて来ているとなると、それだけでは問題は解決しません。
最初は、タロットを読む力とか活かす力が足りないという思いから始まっていても、次第に、学習してもうまくならない自分にあせりとか、怒りとか、情けなさを感じ、自己否定状態になっているわけです。
指導者側から見ると、本当のところ、そういう発言をする人は、最初の頃よりも格段に進歩しており、すでに十分な力があるのに、自己評価が低いという場合がほとんどです。
本人は努力家の人が多く、なかなか頑張っていらっしゃいます。
そして、やはり、普段からも、自己に厳しい評価を下している傾向があります。
結局、できないことを大きくとらえて、自己否定をすることで、自分の成長を促そうとしているのですが、同時に励ましてほしい、勇気づけてほしい、自分の進んできた(学びの道)の選択が間違いではなかったと言ってほしいという思いも強くなっているので、悩みも大きくなります。
もうひとつは、ある程度の学びまで来ると、それまでのものを破壊して再構築していくような段階があり、それはタロットなどの精神的・霊的のフィルードを多く扱うものでは、顕著だということです。またこれも自己成長のプロセスとつながっています。
その段階まで来ると、成長のためには、一時的な落ち込みや混乱、退行のようなことが起きます。
言い換えれば、自分にタロットは向いていないと思えるほどの状況を迎えた場合、逆に順調に進んでいるということなのです。
ですから、学びの途中で「私はタロットに向いていないのでは?」という人は、祝福だと取ってもいいわけで、その人に言えることは、「それだけ強くタロットと自分のことを思えるのは、あなたがタロットに向いている人だからですよ」ということです。(笑)
最初に「向いているかどうか」という質問する人も含めて、私から言いたいのは、タロットに関心を寄せ、しかもそれを学びたいと思った時点で、あなたはタロットに向いている人なのです。
逆に言えば、タロットに向いていない人は、タロットに全く関心を示さない人です。
ここで意外なのは、関心を示すということは、何もポジティブなものだけには限らないのです。
タロットは怖いとか、タロットが嫌いとか、あんなものはしょせん占いの道具などと、バカにしたり、ネガティブに思っていたりしていても、それはマイナス方向での「関心」には違いないので、こういう場合は、あとで180度印象が変わって、タロット好き、タロットに向いている人になるケースがあります。実は私も、タロットに対してはネガティブなイメージがあった側の人間です。(苦笑)
それと、向いている、向いていないという見方ではなく、シンプルに好きか嫌いで見てもいいと思います。
好きこそものの上手なれと言われるように、好きであれば、困難が多少あってもタロットを続けていくことができますし、向いている・向いていないという基準で自分とタロットとの関係を計ることはあまりしなくなります。
タロットのことを語る時、あなたは他人からどのように見えるのかです。私はとても生き生きとしているらしいです。(笑)
それから、そもそも向いている・向いていないとかの二元で分けた捉え方(判断、ジャッジ)をするのではなく、「向いているよにうなる」という方法があります。
私の話をしましょう。
私はもともとはタロット大学(現イシス学院)でカモワンタロット(カモワン版マルセイユタロットとその技術)を学びました。今はカモワン流(カモワンタロット認定講師)ではありませんが、当時の学習システムとして、最終段階では上級コースというのがあり、これはフランスへ行き、グランドマスターであるフィリップ・カモワン氏から講義を受け(通訳つき)、資格認定してもらうことになっていました。
この時は、私はそこそこ自分なりに、今まで構築してきたリーディングには自信がありました。(今の私から見ると、驕りのレベルですが・・・(^^;))
しかし、カモワン氏のリーディングとその技術を初めて直接見た時、これは今まで自分がやってきたものとは次元が違う、別物であるという非常なショックを受けました。
これまでのプライドも技術的なものも何もかもが一気に崩壊したかのような気分でした。(まさに「神の家」のような衝撃です)
それ以来、講義の間中も、うまくタロットが読めなくなってしまいました。初心者に逆戻りした感じです。
そして、講義中のリーディング演習の時間に、組となったお相手がタロットリーダーの際、私は「今混乱しているので、自分がタロットに向いているのか、タロットをこのままま続けてよいか知りたい」という質問(リーディングの題)をしました。
その時のタロット展開はなかなか複雑でした。そして発表(組リーディングにおいて、それぞれのタロット展開と、どうリーディングしたのかを講師及び他の受講生の前で発表するもの)の時に、カモワン氏が私に、最後に新たにカードを一枚引くように指示されました。
私が引いたのは、カモワンタロットでいうところの「斎王」(大アルカナの二番のカード)でした。
カモワン氏は、「これは“タロットリーダー”を表すカードなので、タロット続けるのはよい」みたいな講評をされ、私はとても勇気づけられました。
しかし、これにはオチがあります。(苦笑)
実はこの時の展開法は、タロットの正・逆を取る方法だったのですが、逆位置はネガティブな意味ではないとはいえ、カモワン流では問題を示すカードでした。
私は斎王のカードが正立で出たのか、逆位置で出たのかはほとんど記憶しておらず、というのも、追加でその場で引いたカードなので、落ち着いて正逆まで確認せず、ただ引くことだけに意識が集中していた感じだったからです。
ですから、カモワン氏にどんなカードが出たのかと問われた際も、「斎王が出ました」と答え、カモワン氏から正立か逆位置かを確認されても、よくわからないまま、「正立だったと思います」と述べました。
ところが、あとで、上級コースが終ってだいぶん経ってから、このエピソードを仲間に話すことがあったのですが、同席していた組相手の方が、「宮岡さん、あのカードは逆位置だったんですけどね(笑)」と言われて、「ええっー!!」とズッコケたのを思い出します。
何が言いたいのか言えば、結局、向いている・向いていないなどは超えて、自分がどう思うかだということなのです。
私は斎王が正立で出たということに(正逆という意識がなかったので、斎王が出たということ自体そのものに)感銘を受けて、自分はタロットをやってよいのだという自分に許可を出したことで、いつの間にか、タロットが向いている自分に切り替わっていたのです。
もちろんグランドマスターの言葉、フランスでの講義という、日常とは違う、異質かつ衆目の状況による演出効果・・・これらも私にリアリティを感じさせたに違いありません。
今思えば、一連のことは、すべてタロットの意思や自分の心が見せたものだったのだと考えることができます。
ということで、タロットを学びながら、自分はタロットに向いていないという人は、それは逆説的に言えば、タロットに向いている自分になるチャンスなのだと思っていただければよいです。
つまるところ、向いている・向いていないは、自分が決めることなのです。
また、人から言われないと向いているように思えないのは、まだ承認を人に求めている部分が、タロット以外でも自分の心理にあることに気づかれるとよいでしょう。
でも、それは悪いことではなく、自立のための過程なのです。
新元号から 人生の体験・経験
新しい元号が「令和」に決まりましたね。
新元号に対しては、いろいろな意見があるようですが、おおむね、好印象に受け止められているように感じます。
官房長官の発表の時間が、2019.4.1の11:41であったことに数秘的な意味合いを見た気がします。語呂合わせ的にも、41の「よい」が重なって、喜ばしいですよね。(笑)
個人的には、アニメ好きなところもあって、レイという響きに反応する自分がいます。(苦笑)
例えばキャラクターではエヴァゲリオンの「綾波レイ」とか、題名では「喰霊零」とか、とにかく、アニメではレイという名前や、漢字で零、つまりはゼロ式とか、ゼロ話(第一話の事前談に当たるような話)ということがよくあります。
一方、「和」につきましては、皆さん、「昭和」という元号があったので、これが入るというのは予想外だった人も多く、私も意外でしたが、昭和という前の時代も受け継ぎつつ、この字が表す「和する」ということが、新時代にさらに重要なことになってくる気がします。
また、「令和」を霊和、霊輪といういうように同音の違う字で置き換えますと、物質より霊性へ回帰してくる方向性、霊的な和合に向かっていく時代になるのではないかという暗示のようにも見えます。
しかしながら、世界的には西暦として、ある意味、キリスト教暦(歴でもあります)で統一されていますので、そこからすると、元号など関係ないようにもなり、さらっと流していくのもいいかもしれませんし、ハッピーな気持ちで新時代を迎えるのはよいとしても、商売的に変に煽られ、下手に乗せられないようにも気をつけたいところです。
いずれにしても、元号が時代を作るということもあるかもしれませんが、私たち自身が時代を生き、その結果として「令和」の時代であったということにもなると思いますから、一人ひとりの人生の総論として、私たち皆が、新しいよい時代を創っていくようにしたいものです。
さて、元号に関係しないようでする話(笑)をします。
私は昭和生まれなので、一度「平成」に元号が変わる時を経験しています。
昭和生まれの人でも、終わりかけの頃だと、幼少時で、あまり記憶になく、親にその際の様子を聞いたという人もいるかもしれませんが、私などは就職したての頃ですから、はっきりと覚えています。
ということは、すでに元号が変わることは経験済だということです。
従って、今回の「令和」が発表されても、名自体には意外性もありましたが、元号変化の受容性への抵抗は、昭和から平成の時よりも少なく感じました。
それには、今回は天皇崩御によるものではなかったので、全体的に準備ができつつある状況ということもあるかもしれません。それでも、やはり一度経験したことは、人間、慣れが出るものです。
ここから思ったのは、実経験の大切さです。
前回の記事では、想像の創造について、つまりはイメージすることの重要さを述べました。
今回は逆に、実体験することの強調です。いくら想像し、計画しても、それを実行に移して、現実の経験(生の体感)として味わうことをしなければ、それこそ絵に描いた餅、砂上の楼閣であり、経験(した)とは言えません。
タロットリーディングもそうですが、タロットを学習し、知識と技術はあっても、他人を実際にリーディングし、それが評価される(評価にはよいこともあれば悪いこともあります)という実の経験がないと、真の意味では上達はおぼつきません。
しかし、生の経験をしていると、次第に落ち着いて他人へもリーディングできるようになりますし、座学やデスクで学んだことだけでは対処できないこともわかってきます。
霊的な話をすれば、私たちの人生(地上生活、現実を生きること)は、やはり、実際の経験、生の体験を味わうことに大きな理由があると考えられます。
思考やイメージだけで予想したものと、実際に体験するのとでは、まったく違う次元の話であるということです。
おそらく、死んだあとの世界、あるいは宇宙的なたとえで言えば、違う星とか、違う次元の世界というところは、私たちが空想するイメージの中の世界のような感じではないかと思います。
そこでは、地球の地上生活のような、感情の起伏を激しく経験するような刺激は少なく、平穏無事で希薄、体感も少ない世界なのでしょう。
言わば、体のない、空気のような霊や魂だけの世界を想像すると、それに近いのではないかと思います。
こうなると、(身体的に)体感したい、もっと地上で刺激的に(感情を)味わいたいという気持ちになるのもわかります。
そのため、ここに来ているのではないでしょうか。
また、一度経験したことは、先述したように慣れて落ち着いてきます。冷静になれると言ってもいいでしょう。
すると、これを魂の輪廻的なサイクルでもって見ていくと、自分が初めてなのに、最初からうまくできる、なじんでいる、あまり緊張しない、霊性である、親近感がある、既視感がある・・・という感覚になるものは、すでに似たようなことを経験したり、出会っていたりする過去(データ)があるとも考えられます。
それでもまた経験するのは、以前経験したことより(そのデータよりも)バージョンがアップするなどしてチェンジしているところがあり、それはそれでやはり新しい体験になるからだと思えます。
あるいは、ひとつの分野における専門性を極めていくため、もしくはバランスを取るために、似たようなことも実際に経験しているのかもしれません。
さらには、いろいろな経験をすることで、それこそ叡智を実体験で深め、どんなことにも落ち着き、対処できる自己(還元して全体)の成長を図っているのかもしれません。
いずれにしても、この地上の人生にある(生きる)人というのは、経験をもっとしたい、積みたい、味わいたいというところがあるのでしょう。
ということは、やはり、私たちは、ここにせっかく来ているのですから、頭だけの考えで終わったり、イメージだけして、もう体験した、わかったという風にしてしまったりするよりも、できるだけ、実際に体験・経験してみることが魂の喜びになるのではないかと推測できます。(人には頭だけではなく、手足と体がついています(笑))
ここからすると、やるか・やらないかで迷ったら、やったほうがいいという選択基準になります。
やったせいで、失敗したり、そのことで後悔したりすることもあるかもしれませんが、それは地上の基準で見た場合がほとんどでしょう。天上から見れば、すべての経験は喜びなのかもしれず、たいていのことは、やったほうがいいということになります。
まあしかし、地上的基準も、もちろん無視できないものなので(それは、今生のキャラクターとしての自分は、今(の人生)しかないからです)、限られた今の自分という地上生活の中では、効率・非効率、成功・失敗の概念がどうしても入りますし、それはそれで(時間・空間的)限定人生として見れば、大切な基準だからです。
この地上的価値観と天上的価値観(基準)に、あくまで自分として折り合いをつけながら、人生を過ごしていくとよいでしょう。
学びの本の探し方
私の講座を受講された方には、以後も継続的な学びをしていただくために、様々なアフターフォローを提供しています。
その中のひとつに、受講者用メルマガというものがあります。
このメルマガは、まさにタロットを学習した者だからこそわかる内容のもので、特別な知識と気づき、学習方法などを記載しております。
そして、そのメルマガでは、時折、本や動画などをご紹介し、課題として取り上げ、皆さんなりに学んでいただく企画もしております。(一冊の本並みの解説書を、取り組んでいただいた方にはお送りしております)
こうした時にも思うのは、課題とする題材を選ぶ難しさです。
よく、タロットの学びに当たっても、生徒さんから、「読むといい本を紹介してください」と言われますが、これは、紹介するほうとしては、案外、難しいことなのです。
いや、世の中に、タロットの本はたくさんあり、選択には困らないと思われるかもしれません。
しかし、占いとしての本は確かに多く存在するのですが、私の伝えたいこと、学んでいただきたいことは、占いに使われる意味でのタロットではないのです。
占いではないタロットの本は、実は非常に少ないです。ですから、むしろ、タロットそのものの本よりも、スピリチュアルや自己啓発、心理関係の本などのほうが、当を得ていたり、学習として効果的な場合もあったりするのです。
時には、映画とかアニメ、ネットで配信されているフリーの動画などのほうが、示唆に富むこともあります。
こうした学びのための題材選びは、あまりマニアック過ぎないことが大事で、それでいて、ライト(軽薄)ではないもの、つまりは新たな視点や知識として、学びとなるものが必要とされます。いわば、普遍的でいながら、それぞれ学習者個人個人に対応する気づきも与えられるようなものがいいのです。
全員に共通するような学びがありつつ、個性(個人)的にも有用である、という一見矛盾した条件があるため、選別は難しいわけです。
さて、タロットに限らず、何かスピリチュアルなことに関心があり、そうしたもの(スピリチュアルや霊的な向上)について学びたい、あるいは何か自己啓発して自分を成長させていきたいと思っている人は、やはり人から学ぶか、そうした関係の書籍に当たって学習するでしょう。
まあ、最近は、ネット教材も無料で探せばいくらでもある時代ですから、ネットの文章や動画で学ぶという方法もあります。
とはいえ、まだまだ本・書籍の重要性は大きいかと思います。
いずれにしても問題は、本や動画など、自分の学びのための教材はどう探せばいいのかということです。
今は、気になる言葉や対象について検索すれば、関連本のタイトルや一部内容とか、紹介している人のブログとか、簡単に探せる時代ですので、当然、ネット検索を使うということはありです。
それに、自分が学ぶ分野の、先輩や先生が紹介してくれる本を読んてみるのも、王道といえば王道です。
現在は電子本が普及してきたとはいえ、まだ実際の本もたくさん出版されていますし、リアルの大きな書店に行けば、手に取って見ることもできます。
例えば、スピリチュアルなコーナーに行って、気になるタイトルがあれば、それをパラパラとめくってみると、自分の学びたい、知りたいことの一部が書いている本に出会うというようなことがあります。
これは、リアルな書店は、紙の本であるがゆえに、タイトルや本の雰囲気そのものが一望できることと、質感も伴っているので、ネットで検索して眺めるのとでは、また違う感覚があり、自分の心(顕在・潜在の意識)が引き寄せるかのような仕組みが、より働きやすいのだと想像できます。
ですから、実際に本屋に行くというのも、探求する本、自分に必要な本に出会うためには、よい行為だと考えられます。
あと、目的を変に絞り過ぎないということも、意外とポイントです。
また、ついでに・・・とか、気になってしまった・・・いう感覚も受け入れるとよいです。
例えば、ある(決めている)本を買いに行こうと足を運んでみると、そばにあった別の本が妙に気になり、手にして中を見ると、予想以上に面白そうだ・・・と思ったら、ちょっとお金はかかるかもしれませんが、思い切って最初に買いたいと思った本と一緒に購入してみることで、新たな知識を得たり、道が開かれたりすることもあります。
私自身の経験でも、こうした目的外の本のほうが、その後のために、案外、役に立ったということはよくあります。
いつもはこのコーナーに行くけれども、ちょっと隣や裏に回ってみようとか、そういうことからでも、新しい本と出会う可能性はあります。その時は買わなかったとしても、メモをしていて、あとで検索して調べて、よければネット購入するという方法もあります。
ほかに、仕事の出張や旅行の際に、訪れた地方や別の都市の本屋に立ち寄ってみるというのも、いい本と出会う可能性があります。
おそらく、いつもと、気持ち、土地の雰囲気も違うので、普段、気づかなかったり、無視していたりする本でも、別の地域の場合だと、意識が異なっているので、見つかりやすくなっている(心にひっかかりやすい状態になっている)のだと推測されます。
それから、学びのためには、乱読と集中というふたつのパターンが、その時々によって、効果的になります。
乱読は、ご存じのように、とにかくなんでも気になったものは片っ端から読んでみるというやり方です。
積読になっても構いません。とりあえずストックしておき、読めるものから読んでいきます。最近は場所を取らない電子本の購入、紙の本を電子化することもできますから、データにしてとりあえず置いておくというのもいいでしょう。
乱読は、とにかく広く浅く知識をつけたり、刺激をいろいろな方向から当てて、自分を磨く(学びをする)という効果があります。また、自分が何を欲しているのか、どうしたいのか、どういう方向に関心があるのかというのも、最初はわかっていないことが多いいので、乱読して、ぴったり、しっくりする分野を見つけるという目的もあります。
一方、集中法は、特定分野の本、同系統の本、あるいは同じ著者の本を集中して読んでいく方法です。
これは深く専門的に知識を得たい場合にはよく、好きな人の思想や考え方を、とことん学びたいという時にも向いています。一人を追いかけることで、その人になりきりつつ、また自分流の道を発見することもできます。
同じ分野でも、いろいろなアプローチ・見方があったり、多くの著者がいたりしますので、集中型といえど、乱読に近い形を取ることもあります。
それでも、一時、ある特定のものにどっぷり浸かってみるという経験も必要で、一通りのことが過ぎれば、自然に次の関心に向かうことができます。逆に言えば、人によっては、中途半端に済ませていると、なかなか先に進めない、足踏み状態が長く続いてしまうということがあります。
知識というものは、入れることを目的としまってはダメです。それは単なるエゴの知識自慢に陥りますし、逆に自分を偏狭なる世界に閉じ込めます。
本を読むにしても、必ず一冊全部読まなくてはならないとか、頭に入れてしまわないといけないとか、縛りをかけなくてもよいでしょう。(あえてルールを決めることで、学びを進める方法もありますが)
さきほども言ったように、知識を入れることが目的ではなく、その知識を使って、さらなる気づきや覚醒、成長を促していくのが本当の目的です。
知識を使うことは、何も入れた知識を肯定的に扱うことだけではありません。むしろ、アンチテーゼや、反対側の意見を自分に出させることもあり得ます。そこで葛藤になるわけですが、その葛藤がまた、統合や自分の進化に寄与していくことになるのです。
思考や知識を嫌う人もいますが、ハートのセンサーを磨いたり、本当の自己の中にある叡智を覚醒させていったりするためには、まずは知識を土台(踏み台)にしていく方法もあるのです。入れた知識、学んだ知識を、最終的には捨てるようなことになっても、捨てるためにはまず拾って確かめておく必要があります。
最後に、本などの学びによる選択は、個人ペース、個人ベースであることを言っておきます。
それは、自分の本棚が、誰か他人とまったく同じ本で埋められている、置かれているというようなことはあり得ないということからもわかると思います。
人には、自分なりの価値観や学びの方法があるのです。
人から紹介されることや、ネットで評判だからというきっかけはあってもいいですし、それから始まることも多いですが、学びの内容、方法は、人と違って当たり前だと意識しておくと、回り道をしているような気分でいても、あせらず、すべては自分のよき成長のために起こっていること、選んでいることだと理解できるようになるでしょう。
そうして、まさに、その時の自分にふさわしい本や知識と出会うことになるのです。
初心と思い出話
人間、慣れてきたり、上の立場に立ったりすると、初心を忘れ、ちょっと独りよがりや、傲慢になることがあります。
特に先生と呼ばれるような状況になりますと、自分は謙虚にいようと思っていても、知らず知らず、上から目線になり、学びの気持ちが薄れていくこともあります。
私もタロットを教え、指導することをしていますが、そういうことにならないよう、自分が下になることを意識しています。
自分が下になるようなことと言えば、いろいろと方法はあると思いますが、やはり、自らが学ぶ立場になること、そういう機会を作ることです。
もちろん、何かの先生や指導者になっても、その専門分野においてさえ、まだまだ学びは続ていくものです。
これで完成と思った時点で、技も知識も成長を止めてしまうことにもなりかねません。(段階別に完成を意識することは悪いことではありませんが)
しかし、専門以外のことで、新たに学びの徒、生徒になることのほうが、初心の気持ちに戻る機会が実際にありますから、有意義でもあるでしょう。
ということで、趣味でも何でもいいので、新たに別分野の初心の生徒になってみるのが、下の立場の気持ちになるひとつの方法です。
また、たとえ専門のことであっても、今までとは別の、ほかのアプローチで技術なり知識なりが研鑽できないかと試行錯誤してみたり、専門分野において実践活動するものがあれば、それを実際にやっていったりすることを絶やさないことも重要かと思います。
例えば、タロットでいえば、タロットの指導者であっても、タロットリーディングを、先生的な立場で行うのではなく、一介の名もなきタロットリーダーであるかのようにして、タロットをほかの人に役立てるようなことをします。
また、セラピストやヒーラーなら、自分自身が、ほかの(友人とか知人ではない)人の施術を受けてみるというのもありでしょう。
たとえその結果(受けた内容)がよくなかったとしても、自分の気持ちを新たにするという意味では、得られるものは小さくはないはずです。
ほかに、初心を思い出すため、その時、活動や学びをしていた頃の場所やイベントなどに足を運んでみるというのもいいかもしれません。
私の場合、メールや出張にてのタロットリーディング、タロット占いが実践活動としての最初でしたが、たくさんの人を一気にリーディングしたという初めての経験では、イベントでのものがありました。
それは、今も各地のホールなどでよくやっています、スピリチュアル関係のイベント、マーケットみたいなものです。
申込者にテーブル仕様のブースが割り当てられ、たくさんの出店者たちの人とともに、お客様をお出迎えします。フリーマーケット会場をイメージしていただければ、雰囲気はつかめると思います。
私は地元の神戸のイベントで、同じタロットの学びをしていた友人と一緒にブースを借りて出ました。
友人は、頭を剃っていましたので(修行者ではなく、友人の単なるスタイルです)、あえて着物を着ることで、お坊さんやえらい東洋占術関係の人に見えました。(笑)
で、私のほうはと言えば、これまた、わざとスーツを着て、まるで銀行員のようなスタイル(笑)で出たわけです。
同じブースに一人は着物姿のお師匠さん・お坊さん風、もう一人はお堅い公務員か銀行員みたいな雰囲気で、なぜか二人とも、同じタロットをしているというおかしな組み合わせでした。(苦笑)
これが良かったのか、両方ともお客さんは結構来られました。
面白いことに、友人のほうには、男性客がほとんど、私のほうはほぼ女性客でした。こういうイベントは、女性がほとんどなので、むしろ数少ない男性を集める友人はさすがと言ったところです。やはり恰好が男性をひきつけたのでしょう。
余談として、この時、友人のほうに来られた男性のお客様の一人が、何度か個別にリーディングしてほしいと、友人に依頼があったとのことです。恰好だけではなく、中身と技術も信頼されたのだと思います。
私も占いの館に出た経験があるのでわかりますが、男性はあまり、占いとかスピリチュアル関係には関心がないことが多いですが、一度信用する人を見つけると、口コミはあまりしませんが、すごいリピーターになってくれることがあります。人によっては、中小企業の会社の社長さんなんかが、一年契約で見てくれ、と依頼することもあるほどです。
一方、女性は気軽に占いには来られますし、口コミも流していただけますが、意外とあっさりされているところもあるように思います。
それはさておき、こうして初イベントは、一応の成功を収め、それから何度かイベントには出ました。
リーディング内容はつたないものだったと思いますが、何よりも、たくさんの人の悩みや問題をリーディングし、喜ばれた経験はインパクト大で、タロットを以後もやっていこうというモチベーションになったのは確かです。
タロットの生徒さんにも、学びは続けていても、他人へのリーディングは勇気がないとか、自信がないと言って、やりたい気持ちはあっても、長いこと躊躇される方がいます。
しかし、どこまで行っても完璧と言う感覚を得られることはありません。
というのは、理想は、その都度、自分のレベルに応じて変わっていくからです。つまり、技量が上がっても、また次の理想が出てきてしまうので、「これで完璧だ」という気持ちは現れにくいのです。
であるならば、基礎技術・知識が得られた時点で、実践をスタートしていくほうが、慣れにもなって、自信をつける意味でもよいわけです。
もちろん、うまく行かない時はあるでしょう。それでも、何事もやってみないと始まらないのです。
今日は初心をテーマにしていますが、逆に、初心を早く脱するためには、実践をする、自分から行動を起こす、勇気をもって飛び込んでみることも大切だということです。
わかったと思うことと、実際にやるということとは違います。この世の中は実の世界です。わざわざここに来ているのは、たとえ自分でなくても、何(何者)かが望んでいるからでしょう。
ということは、実の世界を経験することが、ひとつの重要課題なのだと推測できます。結果ではなく、ただ経験をしたがっている何かがあるのだと感じます。
それが、もしかすると、カルマの解消や霊的な自己成長につながっているかもしれないのです。
あえて、足掻き、もがいてみる。
よく言わるように、水鳥は、水面上では穏やかに泳いているように見えて、水面下では、もがくように、バタバタと足掻ていると言われます。
見えないところでは努力しているとか、平気な顔をしているようで、実は頑張っているのだというたとえにも使われます。
ただ、私たち人間は、だいたい水鳥で言うと、水面下と水面上の区別がなく、必死でやっていることは、ほかの人にもわかることが多いですね。(笑)
ただ、この「水面」というのを、また別のたとえでしますと、人間にとっての「意識」と「無意識」の境界線みたいなことでも表現できそうです。
自己啓発では、もはや常識のように、無意識や潜在意識のことが取り上げられ、私たちには自覚できない意識層があり、そこにあるデータを書き換えたり、消したりすると、(自覚)意識にも影響し、行動とともに現実も変わると言われています。
そのことは、もっともだと思うところもある反面、無意識や潜在意識というのは、自覚できないからわからないのであって、いったいどういう構造になっているのか、どこにどのような情報が存在しているのかなど、詳細な地図などのようなものは明らかにされていません。
人間として、全員同じ構造は持つと予想されますが、一人ひとり、中身は違うことは容易に考えられ、それは遺伝子構造は同じでも、配列や情報の働き(スイッチが入る、入らないなど)が異なるのと同様なのかもしれません。
ということは、無意識や潜在意識と言っても、万人に共通するような確かな書き換え方式などというのは、あるようでない(個別、オーダーメイドである)、逆に構造的には、ないようである(全体としては通じることもある)とも言えそうです。
だから、自己啓発で、講師から、この方法でうまく行くと伝えられても、それは講師の方と周辺が成功した事例であって、すべての人が適応できるとは言えず、たまたま合う人もいれば、そうではない人もいると思います。
とにかく、まだまだ私たちは無意識のところは、一般的には、よくわかっていないのが実状でしょう。(古代や現代のすごい人では、わかっている人も個別ではいらっしゃるでしょうが、一般化の意味ではまだまだかと)
しかしながら、何となくでも、自分の自覚している意識(自覚する思考や感情パターン)だけでは、自分というものは形成されていないだろうとか、自分の預かり知らないところで、自分の意識や行動というものが影響されているのだろうということは、多くの人には、理解(想像)されているのではないかと思います。
少なくとも、自分ひとりで生きてきた人は誰もいないのですから、親や、これまで生きてきた中で関係した人たちの影響が知らず知らずあることは、普通に予想がつくことです。
マルセイユタロットのを心理的に扱う場合は、こうし影響をタロットの図面の象徴として浮上させ、無意識を意識化することで、心の整理と浄化を果たしていきます。
ただ、先述したように、無意識層というのは、自覚できない層であり、その構造やデータのありか、在り様などをはっきり確認できるわけではありません。
いろいろな技術で、確かに無意識にあったものの一部が意識の表面に上がってくることや、それを上げていくことはできますが、すべてとは言い難いでしょう。
また、「これが無意識や潜在意識に刻み込まれた問題だった」と、たとえ確定したとしても、それが今の問題の全部の根であったという保証はありません。
それがわかるのは、結局、自意識が問題だと思っていたことが実際に消失したり、自分の自覚する思考・感情の中で気にならなくなった時でしょう。
言ってみれば、未来によって、過去の要因がはっきりするようなものです。(この話をしていくと、ちょっと時系列を超えた不思議な話になってきますので、それはまた別の時にでも記事にしたいと思います)
今日言いたいことは、タイトルにもあるように、無意識や潜在意識の構造はなかなかわかりづらいことろがあるので、その中にあるデータが問題の原因だとしても、それを確認したり、本当に問題の原因なのかを特定したりすることは、「今」の時点ではわからないので(わかるのは未来)、とにかく、思いつくものは色々やってみると、奏功することがありますよ(あるかもしれませんよ)、ということです。
まあ、反対に、あまりジタバタするのも、余計混乱を生み出す元になるので、マルセイユタロット的に言えば、「吊るし」のような態度も重要なのですが、何が原因なのか、いろいろと調べてもわからないような問題の場合は、原因追求していくより、行動やプロセスを重視、やれることを、すべてと言いませんが、とにかくひとつとひとつやってみることが、打開策になる場合があります。
まさに、水鳥の足ではありませんが、足掻いてみるのです。
ところで、マルセイユタロットの「恋人」カードには、三人のやり取りしているような人間たちと、上空のキューピッドや天使と思われる、異次元存在が描写されています。
この三人は、人間の知るうる情報と方法で、様々なことをやり取りしている、行動しているとも考えられます。
つまりは、目に見える世界のことであり、意識と無意識で言いますと、自覚する意識の部分と言えましょう。
一方、上空の天使は、目に見えない世界(の存在)であり、無意識も象徴していると考えられます。
この天使(キューピッド)は、通常ではなかなか見えないものとされているわけで、だから、私たち人間では、自分たちのわかる(自覚する)世界での選択や行動をしていくわけです。
そこでは、おそらく、間違いをしてしまうこともあるでしょう。(正しくは間違いや失敗だと、自分の価値で認識する事象の経験)
三人での図像を見て、悪く考えると、誰かに言いくるめられたり、お金や時間を無駄にするような情報も入れられたりするかもしれません。
しかし、逆によいこともあり、それこそ、問題を解決に導いたり、クリアにする情報というものを教えてくれたりする場合もあります。
そういう、ひとつひとつは、天使側から見ると、低い次元の話や方法だったり、無意識や潜在意識の層には、何ら効果のないものもあったするかもしれません。
それでも、コツコツと、あるいはバタバタと(笑)足掻いて、必死でいろいろなことを試したり、行動したりして行けば、この「恋人」カードの図像にもあるように、上空の天使(キューピッド)の背後の光のようなものと接触し、天使(キューピッド)に伝わり、矢が放たれるかもしれないのです。
矢が当たると、それは、実際や現実の効果として、確実に変化が生じます。
私たちの目の前には、もしかすると、空からたくさんのお試しのような、あみだくじ的なロープが垂れ下がっているのかもしれません。
そのほとんどは、はずれくじでしょうが(笑)、数当たるうちに、当たりを引くこともあるのではないでしょうか。あるいは、ひとつだけ輝いているもの、正解としてのものが、引っ張るくじでわかるようになるのかもしれません。
また、失敗くじも、チャレンジしただけ、ご褒美とか、再チャレンジ券とかが配られる可能性もあります。(笑)
ともかく、失敗・はずれも、上空の天使次元から見ると、無駄ではないはずなのです。
もがき、足掻ているうちに、いつか、ふっと、気づく瞬間がやってきます。
それは、「なんでこんなことしているのだろう」というおかしさに気づくことだったり、やっているうちに、「これだ!」とひらめいたりすることで、現れることもあります。
現実的にも、問題の原因は、抽象的にはひとつであっても、具体的には、複合的にからみあって生じていることが多いものです。
カルマ的なことも入れると、それは、もう、一人の人間の浅知恵では、なかなか判明のつかないことです。
ならば、原因を突き止めようとするより、改善しようという行動やプロセス自体が重要であり、それを神や天使が(自分の魂)が、促しているということもあるのではないかと想像します。
今、問題状況にある人は、あせり過ぎず、でも足掻くように、ひとつひとつ可能性のあるものを試して行くと、やがて何らかのよい状況を招くことができるのではないかと思います。