迷った時に
守・破・離
芸事などで、師弟関係や、ある流派で学びをしていく過程において、「守・破・離」ということが言われます。
最初は、師、流派の教えに忠実にやっていき、やがてその教えられた型だけではなく、多流派なども比較研究して採り入れ、やがて、自分流のオリジナルなものとして自在にしていく様が、守・破・離の段階です。
言ってみれば基本から応用、さらに新しい自分なりの創造へと移り変わる過程ですね。
これは、人生そのものにも言えるのではないかと思います。まあ、人生の守・破・離ともなりますと、離の段階では「死」、あの世への旅立ちとなるのかもしれませんが。(苦笑)
タロット学習においても、この三つの段階が当てはまると思います。
私、個人的にも、この過程を通っている感じがします。今はどの段階かは言いませんが、少なくとも、破には来ていると実感します、今年立ち上げていく予定の新講座では、その分野においては離になるものと考えています。
ところで、この「守・破・離」が、意図して起こるとは限らないのです。
「守・破・離」の過程は、習い事のことが多いので、どうしても師弟の関係性の面があります。(最初から師を持たない人は別ですが)
自分の師・先生と、円満に「破」「離」へと移行していけばよいのですが、時には、いわゆる師からの破門とか、逆に、不満や理由があって、自分のほうから、思いがけず離脱してしまうということもあります。
また双方、納得ずくではあっても、あとからトラブルになるようなこともあります。
どの分野においても、ひとつの流派を形成していると、その流派の正統か異端かの争いが起こるように思います。この言葉からしても、そう、結局、宗教と同じなのですね。
だいたいにおいて、流派の正統か異端かの問題は、創始者の引退・死後などによって、後継者が誰になるかで争いが勃発します。
創始者は、宗教で言えば教祖とか、最初に神から啓示を受けた人物になり、ともかく偉大なアイデア人であったり、爆発的な情熱、行動力を持っていたりする人の傾向があります。カリスマ的な人とも言えますね。
また創始する人だけに、特別な技術や才能、芸事では磨き上げた技も卓越したものがあり、多くの人を魅了したり、納得させたりするだけの技量、あるいは人格がある人のことがほとんどです。
しかし、後継者は、その息子とか娘、血縁者であると、創始者よりもカリスマ性や能力が劣ることがよくあり、さらに、後継者と名指しされた人でも、まじめではあるけれど、「破」まで至っていない、ひたすら「守」だけの特徴のある人がいます。
そうすると、流派で特別に能力や技術がある人とか、人心を掌握したり、組織運営に長けていたりする人が、流派から独立して、新たな一門を作ることもあります。いわく「本当の教え、技術はこちら側にある」などと言って。
これ(正統争い)には、いろいろな問題があり、純粋に師の教えを守ろうとする人もいれば、このままでは発展性がないとして、技・芸をさらに磨き、新展開、拡大を目指す人もいるでしょう。
「教え」だけのことではなく、現実的問題として、経済や運営、人間関係・・・様々な要素がからみ、流派が分かれていくことにもなるのも世の常と言いますか、仕方ないところもあるのかもしれません。
そんなわけで、守・破・離が、自分が意図したものとは別に、強制的に発生したり、そのような方向に向かわざるを得ない状況になったりすることもあります。
しかしながら、自分の気持ちや意図で起こったものでなくても、また、少々トラブル的に師や一門から離脱することがあったとしても、それは、真の自立の意味で、破から離への流れのために、必要・必然のケースもあると考えられます。
まじめな人ほど、師の教えや流派・一門に忠実であろうと心がけます。ただ、それがあまりにも行き過ぎていては、ただの奴隷であったり、まさに「なになにの犬」と言われるような状態になったりします。
犬といえば、マルセイユタロットの「愚者」のカードが思い浮かびますが、あなたがもし愚者(愚か者という意味ではなく、自立・完成への旅立ちの者)であろうとするのならば、犬は後にいて、あなた自身は犬ではないことに注目すべきです。
自己犠牲は、本当の意味の自立にもなりませんし、師が本当に望むことではないと思います。
師が正しいとは限りませんし、仮に正しかったとして、その時代・解釈においてということもあり得ます。伝統を守ることだけが、受け継ぐことと同意ではないでしょう。
もちろん流派の「守」も大切で、おろそかにしていい、無視して去れと言っているのではありません。そこで学べたことは感謝すべきで、師はいつまでも、とのような状況になろうと、やはり師だと思います。ただ、自分は何のために学んできたのか、ということです。
もし、あなたが、その流派や一門を愛し、その組織自体を守り、存続させるという役割を思っているのなら、守こそが本道でしょう。
しかし、もともとその流派・一門に入った目的、何がしたかったのか、どうなろうとしたかったのか、その初心の目的・気持ち・意思を思い出せば、流派・組織にこだわる必要もないのかもしれません。
すると、「破」は当然として、やがて「離」に至ること、「離」を目標にしていくことも、納得できるでしょう。
離になっても、あなたはあなたなりの方法で、師や流派に貢献していけばよいのです。
自分が学び、属してきたところとうまく行かず、どうすればよいかと迷っている時、そもそも論のように、あなたたは何がしたかったのか、どうしたいのかを再び思い起こすことです。
そこでしか自分のやりたいことができないと思い込むのも早計です。人は、たいてい、選択肢や方法が、これまでの自分のレベルの範囲でしか想起できず、だからこそ迷うのです。
今の自分の世界認識を変容させ、小さな自分の世界を破壊し、大きな世界へと飛翔した時、選択肢は意外性をもって増加しますし、新たな自分の道や方法も見えてきます。
マルセイユタロットでも、「守」的なカード2の「斎王」、12の「吊るし」において、それぞれの次の数のカードは「女帝」「13」になっており、創造性と破壊性(創造性の別の形)を象徴しています。
順調に、守・破・離ができれば理想ですが、実際には、いろいろな要因がからみ、もたもたしているあなたに、別のあなたが、破と離を目指すよう、環境を用意してくれる場合もあるのです。
結局、「世界」のカードではないですが、多くの人に関わりつつも、この世では、あなた自身の世界を作ることが求められていると思います。
それは、言い方を換えれば、あなたが創造主になることでもあり、それが神性の発露・回帰にもつながることになるでしょう。
こちらの記事は、アメブロで書いた記事をそのままアップしています。
それで、アメブロのほうでは、同時期(年は違えど、同じ月日に近い時期)に書いた過去記事が、自らのホーム画面に表示されるようになりました。
ところで、私のブログ記事は、計画性をもったり、計算したりして書いているのではまったくなく(苦笑)、その日、その時、マルセイユタロットを素材として思いついたことを書き綴っています。
ですから、記事をアップすると忘れていることがほとんどです。
時々、講座の受講生から、「いついつのあの記事は、面白かったです」「その話は、ブログ記事に書いていたものですよね」とか言われますが、自分では先述したように、覚えていないので、「そうでしたっけ?」みたいに答えて、不思議がられます。
思えば、すでにかなりの記事を書いておりますので、整理しようにも大変で、そのまま放置しております。(笑) 中には奇特な方もおり、「全部、記事読みました」と言ってくれるありがたい人もおられますが、もう、ほんと、ありがたいですし、その労力にびっくりです。
ともかく、アメブロの機能により、過去記事を自分が再度読む機会があって、でも内容は忘れているので、逆に新鮮な気持ちになり、また当時とは考えやレベルが変わっていることもあって、それに付け加えたり、補足したりしたくなることも出てきました。
それで、今日はそうした過去記事を再アップしたいと思います。
で、今の私からこれを見ますとですね、この記事からさらに別の焦点が言えるのですね。
この記事では、何らかの貢献感を持つことによって、自分の存在を濃く(実感)することで、生きづらさを軽くする、少しでも自分が生きていく価値を見出すことを述べています。
つまりは、空虚感は、存在感のなさにあると言っているわけです。(こう書けば当たり前みたいな話ですが)
モノやカタチの希薄な世界、例えば霊的な世界のようなところでは、おそらく空虚な存在であってもいいと思います。いや、むしろそうなるのが普通なのかもしれません。
ですが、現実とは、モノやカタチがはっきりしている時空間です。ここで自分がその他大勢、誰でもない何かみたいな、空虚な存在であると思ってしまうことは、まさに命取りになりかねない危険性があります。
まあ、関西弁で言えば、現実とは、存在感あってナンボの世界ですわ。(笑)
存在感とは何かと定義すると、いろいろな考え方があり、難しい部分もありますが、要するに個性とか、心理的には自我(エゴ)と言ってもよいのではないかと思います。
マルセイユタロットでも現実の階層を示すとされるカードは、人としての個性が絵で見られます。ただし、「悪魔」とか「13」とか、「神の家」などは、時に現実を超えたレベルにありつつも、強烈な個性がありますよね。ここは結構、重要な示唆だと思います。
話を戻しますが、ひとつの考え方として、現実での存在感とは、スピリチュアル的に言えば、波動の強さみたいなもの(粗くあっても、強いもの)ではないかと推測されます。
従って、前にも書いたことがあるのですが、自分の存在感が薄く感じて、現実に適用しにくくなっている場合、潜在意識のようなものが危機感を覚え、自分が自分だと意識できる状況を創り出してしまうわけです。
それが「問題」であり、簡単に言えば、「自分に強くフォーカスし、自分の強い波動を出さざるを得ない状況にする」のです。病気だとか、経済問題とか、人間関係とか、およそこの世の悩みは、そうした自己の存在感を自分自身に訴えるために、出てくるところがあると考えられます。
いわば、マイナスの自己アピールです。だったら、プラスの自己アピールになればよいわけで、ここの発想の切り替えができれば、だいぶん、自分と現実の関係も、よい意味で変わってくるのではないかと思います。
スピ系や心理系に傾倒し、まじめな人は、エゴをなくそうと努力しがちですが、それが逆効果のこともあるのです。自分が希薄で自己存在感を低くくしてしまっている人(自尊心にもつながります)は、まずは、エゴを高めたほうがよい(よい意味のわがままを出す、自分の本当の気持ちを大切にする)こともあります。
単純に「私はこれが好き、私はこれが嫌い」という二極の波動を出せば、その波の振幅は大きくなりますから、強い波動になるでしょう。えっ、分離が怖い? 争いが怖い? いやいや、調和するのと、支配されるのとでは違いますからね。
支配されていては、支配するもの・されるものの、それこそ二極構造を増長させていることにもなるのですよ。ますは自分を強く回復させることから始めましょう。
自分を出す時代 光と影
スピリチュアルの世界では、これからは統合や霊的な時代になっていくと言われています。
そのことは、このブログでも、特にここ最近、よく書いているところです。
しかし、その前には、それぞれ、個としての確立も求められることも指摘しておりました。言い換えれば、いきなり、全体が統合されるのではなく、一人ひとりが自分としての個性を成り立たせて、成熟させたうえで、そうなると考えられるわけです。
ビジネス的なサービスの面でも、どんどん個人に対応したもの、皆さんの個性に合ったものが提供されてくる傾向にあります。
同時にそのマイナス面として、理不尽とも言える個人の要求をするクレーマーとか、わがままとも言える個人的対応を当然とするようなふるまいをする人も増加してきているように思います。
求めるほうも求められるほうも、より個性化(心理学用語のものではない、単に個人化するという意味で)の時代になっているとも言えます。
個人を進めていくと、全体との確執もまた現れてきます。
その全体というものが、何を指すのかが難しいところですが、「大勢の意見」とか、「一般的な常識」とか言われるようなものになるのかもしれません。ただ、そうなると、心理学的にはスーパーエゴ(超自我)となって、自我の確立に対峙してくる存在にもなります。
そのようなことは、以前は、個人の中(の成長の過程で)起きていたものが、スピリチュアル的に見れば、それがひとつの(時代の)流れのように、全体としても起きていると言えるのかもしれません。
ところで、マルセイユタロットの中でも登場しますが、「巨大な人間像」として、アダム・カドモーン(カドモン)という存在があります。
アダム・カドモーンについては書くと長くなるのと、象徴性において、思想的に意見が異なるケースが多いので、深くは言及しませんが、あえて単純に言えば、ひとつに集合したモデルとしての意識人間体のようなものと例えることができるでしょう。
私たちが(理想的に)イメージする人類全体の統合人間像みたいなものと言えます。
このアダム・カドモーンに私たちは今なろうと、全体の流れがそういう方向性に来ており、しかしながら、そのためには、一人ひとりが自分がこの巨大人間のどの部分になるのがもっともよいのかを見極めている状況とも言えます。
ちょっとスピリチュアルな物言いになっているので、よくわからないかもしれません。
何が言いたいのか言いますと、おそらく、今もそうですが、これからもしばらくは、自分らしさが追及されてくる世界になり、悪く言えば、より目立ったもの勝ちみたいなことのようにも見えるでしょうが、それも大きな視点で言えば、進化の方向性でもあるということです。
そして、誰しもが、自分自身を表現していくことに対し、もっと自然なことになっていくでしょう。
だから今、自分を押し殺している(抑圧している)人、他人や周囲の目線、自分で勝手に作っている「全体」とか「みんな」とか「親」とかの言葉(実在というより、自分で思い込んだり、イメージしたりしている仮の存在)に、それこそ忖度(笑)してしまっているような人も、そこから解放する衝動、自分を出したい欲求というものが増幅してくると考えられます。
当然、その過程では葛藤や対立も表面化してきますが、それでも、以前は抑え込まれていたり、我慢や妥協で何とか穏便に済ませようとしたりしていたものが、そうも行かなくなって、問題の本質と向き合い、対処することが加速されるように思います。
このことは、マルセイユタロットの数でいえば、5と1に関係すると考えられます。
ところが、自分を表現していく、個性としての自分を出していくということが、多くの人で行われるようになると、先述したように、個々の間の人間同士で対立も起きますし、中にはわがままな欲求をすること、人に自分の思いを押し付けることが自分の表現だと勘違いしてくる人も増えるでしょう。すでに世の中はそうなっているとも言えます。
だからこそ、ここがもっとも重要と言えるのですが、もし、あなた(自分)の表現が、周囲の多くの人を傷つけたり、不幸にさせたり、怒りを持たれたりするようなことになるのなら、それはたいてい、単なる自分勝手な個人的欲求を爆発させているに過ぎないことを認識しなくてはなりません。まるで、駄々をこねる子供の表現と同じです。
もちろん、自分の表現が、必ずしも他人に、全部とか、スムースに受け入れられるわけではありません。
しかし、自分の個性的な表れが、他人にとっても好ましいこと、受け入れられることであるのが理想で、お互いに好ましく自分を表現し合えることが増える状態が個性の成熟度を示すとも考えられます。
そのためには、まずは自分を抑圧し過ぎず、自分としての意見を述べたり、表現をしたりすることは大切で、そうすると自分は楽になってくるはずです。
逆説的になりますが、相手の個性を認めるには、最初の段階として、自分の個性を出す、自分自身を認めることが重要になります。
他人に気遣い、自分を殺していては、他人の個性だけを無条件に受け入れることになり、それは一方的なことなのです。これは別のわがまま(自分を認めず、必要以上に抑圧し、自分を殺すというわがまま)であることを理解すべきです。
その次には、自分のわがままになり過ぎていないか、単に利己的欲求の充足と個性の表現を誤解していないかをチェックし、自分を出すなら相手も出すことを許すことができるかの段階になって行くでしょう。
自分から発信していくツールが、現在、山のように出てきた理由は、当然、機器とソフト面の発達もありますが、霊的に言えば、統合のための個の確立を促進するための流れと見ることができます。
とは言え、何事もマイナス面はあるものです。
個の発信が誰でもできるような時代になってきて、それらの弊害も多く出ているのも否めません。
ですが、すでに述べたように、ある種の意図が宇宙的にはあると見ると、もし、あなたが自己の表現や自分からの発信にためらっているのなら、勇気をもってやってみたほうが、全体の流れには合っていることになります。
そして、反対に、別に今あるたくさんのツールで自己表現、自己発信することが、あなたの「個性」ではないというのなら、それもまたひとつの「個性」であり、その選択も流れには合っていることになります。
要するに、自分らしくあればいいということです。(自分らしくある時は、自分が苦しい状態ではないはずです、もし自分らしくしているつもりでも、苦しくつらいのなら、どこか間違っていることになります、ただし、成長の過程ではつらさ・苦しさは当然あるものですから、ずっと楽であることはないと言えます)
一番まずいのは、ただ惰性的、衝動的、低次の欲求充足のためだけに自覚なく生き(自覚ある場合は、特殊ではありますが、有意義なこともあります)、みんなの意見とか、常識とか、大勢に迎合し、自分の意見を持たずに他人を攻撃したり、自分を抑圧したりすることです。
自分の選択においても、感情と理性、低次と高次、その葛藤は普通にありますが、どちらがよいというのではなく、その葛藤、悩みから何を学び、得るのかという、いわば自分を超えた第三の視点から見てみることだと思います。
マルセイユタロットで言えば、「恋人」カードと「神の家」の接点を見るような感じでしょうか。
皆さん、一人ひとりの成熟した個性の確立、そこから来る祝福を願っております。
タロットに向いている人、向いていない人
タロット学習において、最初、あるいは途中からでも、結構、質問として来るのが、「私はタロットに向いているのでしょうか?」というものです。
これは、まだタロットを学んでいない時の場合と、すでにある程度タロット学習を進めている段階のものとでは、質問の言葉は同じでも、ニュアンスが違います。
今からタロットを学ぼうかという人で、「自分はタロットに向いているのか?」と発する場合は、未知なるものへの不安が中心ですし、裏返せば、それだけの期待感もあるのです。
気持ちとしては、「自分が学ぶものに対して相性が良ければいいな」とか、「タロットを自分や他人に活かせるようになれれば嬉しい」というようなワクワクもある反面、「できなかったらどうしよう」とか、「ちゃんと学習についていけるかな?」という不安もあり、これはタロットに限らず、誰しもが抱く、「初めて感覚」のようなものです。
しかし、学習途上で抱くこうした質問は、やってみてからのものであり、単純な不安と期待のものからではないことがあります。
それは、一言でいえば、自分に対する不安、自信喪失であり、一見、技術・知識的な問題であるかのようでいて、実は本人の精神的な問題(の浮上)や危機ということがあるのです。
具体的な表現としては、「自分はタロットを学んできたけれど、なかなかうまくリーディングできない」「結構学習したのに、タロットを活かすということができない、わからない」という感じが多いでしょうか。
これか先述したように、純粋な技術と知識面の技量不足問題であるならば、やり方を変えたり、もっとポイントを絞って指導を受けたり、修練したりすればいいのですが、そうではない精神的なことまて来ているとなると、それだけでは問題は解決しません。
最初は、タロットを読む力とか活かす力が足りないという思いから始まっていても、次第に、学習してもうまくならない自分にあせりとか、怒りとか、情けなさを感じ、自己否定状態になっているわけです。
指導者側から見ると、本当のところ、そういう発言をする人は、最初の頃よりも格段に進歩しており、すでに十分な力があるのに、自己評価が低いという場合がほとんどです。
本人は努力家の人が多く、なかなか頑張っていらっしゃいます。
そして、やはり、普段からも、自己に厳しい評価を下している傾向があります。
結局、できないことを大きくとらえて、自己否定をすることで、自分の成長を促そうとしているのですが、同時に励ましてほしい、勇気づけてほしい、自分の進んできた(学びの道)の選択が間違いではなかったと言ってほしいという思いも強くなっているので、悩みも大きくなります。
もうひとつは、ある程度の学びまで来ると、それまでのものを破壊して再構築していくような段階があり、それはタロットなどの精神的・霊的のフィルードを多く扱うものでは、顕著だということです。またこれも自己成長のプロセスとつながっています。
その段階まで来ると、成長のためには、一時的な落ち込みや混乱、退行のようなことが起きます。
言い換えれば、自分にタロットは向いていないと思えるほどの状況を迎えた場合、逆に順調に進んでいるということなのです。
ですから、学びの途中で「私はタロットに向いていないのでは?」という人は、祝福だと取ってもいいわけで、その人に言えることは、「それだけ強くタロットと自分のことを思えるのは、あなたがタロットに向いている人だからですよ」ということです。(笑)
最初に「向いているかどうか」という質問する人も含めて、私から言いたいのは、タロットに関心を寄せ、しかもそれを学びたいと思った時点で、あなたはタロットに向いている人なのです。
逆に言えば、タロットに向いていない人は、タロットに全く関心を示さない人です。
ここで意外なのは、関心を示すということは、何もポジティブなものだけには限らないのです。
タロットは怖いとか、タロットが嫌いとか、あんなものはしょせん占いの道具などと、バカにしたり、ネガティブに思っていたりしていても、それはマイナス方向での「関心」には違いないので、こういう場合は、あとで180度印象が変わって、タロット好き、タロットに向いている人になるケースがあります。実は私も、タロットに対してはネガティブなイメージがあった側の人間です。(苦笑)
それと、向いている、向いていないという見方ではなく、シンプルに好きか嫌いで見てもいいと思います。
好きこそものの上手なれと言われるように、好きであれば、困難が多少あってもタロットを続けていくことができますし、向いている・向いていないという基準で自分とタロットとの関係を計ることはあまりしなくなります。
タロットのことを語る時、あなたは他人からどのように見えるのかです。私はとても生き生きとしているらしいです。(笑)
それから、そもそも向いている・向いていないとかの二元で分けた捉え方(判断、ジャッジ)をするのではなく、「向いているよにうなる」という方法があります。
私の話をしましょう。
私はもともとはタロット大学(現イシス学院)でカモワンタロット(カモワン版マルセイユタロットとその技術)を学びました。今はカモワン流(カモワンタロット認定講師)ではありませんが、当時の学習システムとして、最終段階では上級コースというのがあり、これはフランスへ行き、グランドマスターであるフィリップ・カモワン氏から講義を受け(通訳つき)、資格認定してもらうことになっていました。
この時は、私はそこそこ自分なりに、今まで構築してきたリーディングには自信がありました。(今の私から見ると、驕りのレベルですが・・・(^^;))
しかし、カモワン氏のリーディングとその技術を初めて直接見た時、これは今まで自分がやってきたものとは次元が違う、別物であるという非常なショックを受けました。
これまでのプライドも技術的なものも何もかもが一気に崩壊したかのような気分でした。(まさに「神の家」のような衝撃です)
それ以来、講義の間中も、うまくタロットが読めなくなってしまいました。初心者に逆戻りした感じです。
そして、講義中のリーディング演習の時間に、組となったお相手がタロットリーダーの際、私は「今混乱しているので、自分がタロットに向いているのか、タロットをこのままま続けてよいか知りたい」という質問(リーディングの題)をしました。
その時のタロット展開はなかなか複雑でした。そして発表(組リーディングにおいて、それぞれのタロット展開と、どうリーディングしたのかを講師及び他の受講生の前で発表するもの)の時に、カモワン氏が私に、最後に新たにカードを一枚引くように指示されました。
私が引いたのは、カモワンタロットでいうところの「斎王」(大アルカナの二番のカード)でした。
カモワン氏は、「これは“タロットリーダー”を表すカードなので、タロット続けるのはよい」みたいな講評をされ、私はとても勇気づけられました。
しかし、これにはオチがあります。(苦笑)
実はこの時の展開法は、タロットの正・逆を取る方法だったのですが、逆位置はネガティブな意味ではないとはいえ、カモワン流では問題を示すカードでした。
私は斎王のカードが正立で出たのか、逆位置で出たのかはほとんど記憶しておらず、というのも、追加でその場で引いたカードなので、落ち着いて正逆まで確認せず、ただ引くことだけに意識が集中していた感じだったからです。
ですから、カモワン氏にどんなカードが出たのかと問われた際も、「斎王が出ました」と答え、カモワン氏から正立か逆位置かを確認されても、よくわからないまま、「正立だったと思います」と述べました。
ところが、あとで、上級コースが終ってだいぶん経ってから、このエピソードを仲間に話すことがあったのですが、同席していた組相手の方が、「宮岡さん、あのカードは逆位置だったんですけどね(笑)」と言われて、「ええっー!!」とズッコケたのを思い出します。
何が言いたいのか言えば、結局、向いている・向いていないなどは超えて、自分がどう思うかだということなのです。
私は斎王が正立で出たということに(正逆という意識がなかったので、斎王が出たということ自体そのものに)感銘を受けて、自分はタロットをやってよいのだという自分に許可を出したことで、いつの間にか、タロットが向いている自分に切り替わっていたのです。
もちろんグランドマスターの言葉、フランスでの講義という、日常とは違う、異質かつ衆目の状況による演出効果・・・これらも私にリアリティを感じさせたに違いありません。
今思えば、一連のことは、すべてタロットの意思や自分の心が見せたものだったのだと考えることができます。
ということで、タロットを学びながら、自分はタロットに向いていないという人は、それは逆説的に言えば、タロットに向いている自分になるチャンスなのだと思っていただければよいです。
つまるところ、向いている・向いていないは、自分が決めることなのです。
また、人から言われないと向いているように思えないのは、まだ承認を人に求めている部分が、タロット以外でも自分の心理にあることに気づかれるとよいでしょう。
でも、それは悪いことではなく、自立のための過程なのです。
新元号から 人生の体験・経験
新しい元号が「令和」に決まりましたね。
新元号に対しては、いろいろな意見があるようですが、おおむね、好印象に受け止められているように感じます。
官房長官の発表の時間が、2019.4.1の11:41であったことに数秘的な意味合いを見た気がします。語呂合わせ的にも、41の「よい」が重なって、喜ばしいですよね。(笑)
個人的には、アニメ好きなところもあって、レイという響きに反応する自分がいます。(苦笑)
例えばキャラクターではエヴァゲリオンの「綾波レイ」とか、題名では「喰霊零」とか、とにかく、アニメではレイという名前や、漢字で零、つまりはゼロ式とか、ゼロ話(第一話の事前談に当たるような話)ということがよくあります。
一方、「和」につきましては、皆さん、「昭和」という元号があったので、これが入るというのは予想外だった人も多く、私も意外でしたが、昭和という前の時代も受け継ぎつつ、この字が表す「和する」ということが、新時代にさらに重要なことになってくる気がします。
また、「令和」を霊和、霊輪といういうように同音の違う字で置き換えますと、物質より霊性へ回帰してくる方向性、霊的な和合に向かっていく時代になるのではないかという暗示のようにも見えます。
しかしながら、世界的には西暦として、ある意味、キリスト教暦(歴でもあります)で統一されていますので、そこからすると、元号など関係ないようにもなり、さらっと流していくのもいいかもしれませんし、ハッピーな気持ちで新時代を迎えるのはよいとしても、商売的に変に煽られ、下手に乗せられないようにも気をつけたいところです。
いずれにしても、元号が時代を作るということもあるかもしれませんが、私たち自身が時代を生き、その結果として「令和」の時代であったということにもなると思いますから、一人ひとりの人生の総論として、私たち皆が、新しいよい時代を創っていくようにしたいものです。
さて、元号に関係しないようでする話(笑)をします。
私は昭和生まれなので、一度「平成」に元号が変わる時を経験しています。
昭和生まれの人でも、終わりかけの頃だと、幼少時で、あまり記憶になく、親にその際の様子を聞いたという人もいるかもしれませんが、私などは就職したての頃ですから、はっきりと覚えています。
ということは、すでに元号が変わることは経験済だということです。
従って、今回の「令和」が発表されても、名自体には意外性もありましたが、元号変化の受容性への抵抗は、昭和から平成の時よりも少なく感じました。
それには、今回は天皇崩御によるものではなかったので、全体的に準備ができつつある状況ということもあるかもしれません。それでも、やはり一度経験したことは、人間、慣れが出るものです。
ここから思ったのは、実経験の大切さです。
前回の記事では、想像の創造について、つまりはイメージすることの重要さを述べました。
今回は逆に、実体験することの強調です。いくら想像し、計画しても、それを実行に移して、現実の経験(生の体感)として味わうことをしなければ、それこそ絵に描いた餅、砂上の楼閣であり、経験(した)とは言えません。
タロットリーディングもそうですが、タロットを学習し、知識と技術はあっても、他人を実際にリーディングし、それが評価される(評価にはよいこともあれば悪いこともあります)という実の経験がないと、真の意味では上達はおぼつきません。
しかし、生の経験をしていると、次第に落ち着いて他人へもリーディングできるようになりますし、座学やデスクで学んだことだけでは対処できないこともわかってきます。
霊的な話をすれば、私たちの人生(地上生活、現実を生きること)は、やはり、実際の経験、生の体験を味わうことに大きな理由があると考えられます。
思考やイメージだけで予想したものと、実際に体験するのとでは、まったく違う次元の話であるということです。
おそらく、死んだあとの世界、あるいは宇宙的なたとえで言えば、違う星とか、違う次元の世界というところは、私たちが空想するイメージの中の世界のような感じではないかと思います。
そこでは、地球の地上生活のような、感情の起伏を激しく経験するような刺激は少なく、平穏無事で希薄、体感も少ない世界なのでしょう。
言わば、体のない、空気のような霊や魂だけの世界を想像すると、それに近いのではないかと思います。
こうなると、(身体的に)体感したい、もっと地上で刺激的に(感情を)味わいたいという気持ちになるのもわかります。
そのため、ここに来ているのではないでしょうか。
また、一度経験したことは、先述したように慣れて落ち着いてきます。冷静になれると言ってもいいでしょう。
すると、これを魂の輪廻的なサイクルでもって見ていくと、自分が初めてなのに、最初からうまくできる、なじんでいる、あまり緊張しない、霊性である、親近感がある、既視感がある・・・という感覚になるものは、すでに似たようなことを経験したり、出会っていたりする過去(データ)があるとも考えられます。
それでもまた経験するのは、以前経験したことより(そのデータよりも)バージョンがアップするなどしてチェンジしているところがあり、それはそれでやはり新しい体験になるからだと思えます。
あるいは、ひとつの分野における専門性を極めていくため、もしくはバランスを取るために、似たようなことも実際に経験しているのかもしれません。
さらには、いろいろな経験をすることで、それこそ叡智を実体験で深め、どんなことにも落ち着き、対処できる自己(還元して全体)の成長を図っているのかもしれません。
いずれにしても、この地上の人生にある(生きる)人というのは、経験をもっとしたい、積みたい、味わいたいというところがあるのでしょう。
ということは、やはり、私たちは、ここにせっかく来ているのですから、頭だけの考えで終わったり、イメージだけして、もう体験した、わかったという風にしてしまったりするよりも、できるだけ、実際に体験・経験してみることが魂の喜びになるのではないかと推測できます。(人には頭だけではなく、手足と体がついています(笑))
ここからすると、やるか・やらないかで迷ったら、やったほうがいいという選択基準になります。
やったせいで、失敗したり、そのことで後悔したりすることもあるかもしれませんが、それは地上の基準で見た場合がほとんどでしょう。天上から見れば、すべての経験は喜びなのかもしれず、たいていのことは、やったほうがいいということになります。
まあしかし、地上的基準も、もちろん無視できないものなので(それは、今生のキャラクターとしての自分は、今(の人生)しかないからです)、限られた今の自分という地上生活の中では、効率・非効率、成功・失敗の概念がどうしても入りますし、それはそれで(時間・空間的)限定人生として見れば、大切な基準だからです。
この地上的価値観と天上的価値観(基準)に、あくまで自分として折り合いをつけながら、人生を過ごしていくとよいでしょう。
