迷った時に

タロットメッセージ

8月も、もう終わりですね。

まだまだ残暑は厳しいですが、ともかく、暦的には夏から秋へと移行する時で、今年は本当に猛暑というか酷暑であったものの、それもやがて収まってくると思うと、私もそうですが、ほっとされる方もいらっしゃるのではないかと思います。

ということで、このブログを普段ご覧いただいている方に、今悩まれていることや、問題となっていることが、今後どうなるのか、あるいはどうしていけばよいのかを、タロットで展開してみましたので、簡単で抽象的ではありますが、そこからアドバイスしてみたいと思います。

タロットはもちろん、マルセイユタロット(ホドロフスキー・カモワン版)を使い、展開はオリジナルなもので行いました。どんなカードが出たのかは詳細には書きませんが、ポイントにおいては、紹介します。

なにせ、読者皆さんへということで、特定個人へのリーディングではありませんので、具体的になっていないのはご了解ください。(タロットリーディングにおいての具体性を決めるのは、タロットリーダーではなく、本当はクライアント・相談者なのです。ただしタロット占いの場合は別ですが)

ではアドバイスです。

 

『全体的に、迷いが見えます。迷いの中心にいるのは「愚者」のカードなので、「愚者」の象徴である「自由」や「とらわれのない心、状態」から遠ざかっているのがわかります。

本当はもっと自由に、伸び伸びと過ごしたいのに、または、状況が自分の思い通りになってほしいのに、そうはいかない現実があると感じているようです。

それは、もしかすると、自分のことより、他人や周囲の状況に気遣って、自己犠牲を払ったり、自分さえ我慢すればよいと思っているところがあるからなのかもしれません。さらに、その奥底には、自分が役に立つ人間だ、組織や特定の人にとって重要な人物だと思われたい願望があるようです。言ってみれば、自己価値、自己尊厳の問題です。

一方で、あなたが頑張って、努力してきたことは、人によっては天使、別の言い方をすればあなたの中の高次な存在はわかっており、それを称えています。

また、そうした目に見えない存在だけではなく、あなたの気づかないところで、きちんとあなたを見てくれている(頑張りを評価してくれている)人もいるようです。とにかく、もっと、自分に敬意を払い、自信を持ち、自分の全体を信頼することだと、タロットは言っています。

カードでは、「節制」の天使や「世界」の天使、そして「正義」のカードが、強くそれらを主張しているようです。

あなたに起こっている試練は、一見厳しいもののようですが、乗り越えられるものであり、束縛や狭い世界観の中で、いかに自分の自由が感じられるか、囚われを解放していくかが試されています。

ルールや規則、地上世界での正しさ(つまりは他者や社会、常識の評価)にこだわりが過ぎないか、確認してみてください。規則破り、型破りも辞さないくらいの、純粋で広い見地で、あなた自身を解放してみましょう。

あなたの魂と、この世(現実)のことは、葛藤するところが多いかもしれません。ですが、あなたの魂は、この世情、現実のことさえ、うまく切り分けられる智慧を持っています。

えらそうにする意味の上から目線ではなく、別の意味での高みの視点を持つとよいでしょう。現実にふりまわされる自分と、それを冷静に見ている自分、その後者を意識するのです。

すべては起こるように起きていると認識していく時、あなたの運命は切り替わっていきます。無理矢理に力を入れるのではなく、自然に自分がやりたい方向、あるいは、したくない方向を思って身を任せ、波に乗るような感覚を持つことです。それは、「運命の輪」と「力」が出ていることからもわかります。

これは、自分を奮い立たせてしようとするのでもなく、また何もせず運を天に任す放置的な態度でもないものです。

自分に起こっていることを冷静に観察し、事件そのものと、自分がどうしたいか、どうすればよいかの感覚は別として切り離し、あせったり、怠惰になったりするのではなく、「諦観しながら機会を待つ」「自然のサイクルに乗って、チェンジを図る」というようなイメージです。

要するに、あなたの内なるもの(声)は、どうすればよいかをすでに知っており、それを聞くことのできるようにするということです。問題は、そのために起こっているとも言えるからです。

それから、どうしても、自分の力では解決が難しい、堂々巡りのような状態が続いている人は、客観的視点、他人からのサポートがあったほうがよいので、思い切って、専門家や、援助をしてくれる人に頼んでみましょう。不明確であるところに、あなたの不安や弱い問題を強い問題としてしまっている点もあるからです。

大丈夫です。あなたの問題は解決に向かうよう、すでに天、あるいは内なる魂は取り計らっています。たとえ時間がかかったとしても、それもあなた自身の計画と言えます。気づきが多くなればなるほど、その時間も速くなります。

あとはあなた自身が、それを受け入れられるか、認めるか、赦すかにかかっているのです。』

 

以上です。

何かの参考になれば幸いです。

 


地上的・天上的・中間的選択

体力的なことや、その他もろもろのことが重なり、いつもよりブログの更新ペースが落ちていてすみません。まあ、ゆるりと行くのもまた人生です。(苦笑)

それにしても、台風がまるで逆走しているようで、全体的に一度戻って進むみたいな象徴を感じさせます。台風による災害の危険もありますが、今年は災害続きとはいえ、台風そのものは、雨や風による浄化作用もあり、自然現象を象徴的に見てみると、全体や個別に意外な示唆を与えることがあります。

逆走(そういえば、私は普段は気にしませんが、占星術的には水星の逆行時期でもありましたね)ということで、皆さんの中にも、もしかすると、過去の何かを思い出したり、前にも書きましたが、古傷の浮上、未処理のままのことなどを思い出したり、今までのことを浄化していく出来事が起こっているのかもしれませんね。

マルセイユタロットには「隠者」というカードがあります。

タロットティストでもあり、カルト映画監督の巨匠、アレハンドロ・ホドロフスキー氏によれば、「隠者」は後ろ向きに進むという象徴性があると説明されていて、そのことも思い出します。

皆さんは、後ろ向きと言うと、何か後退や消極的な意味をイメージかするかもしれませんが、撤退にも勇気と決断がいることですし、「隠者」の後ろ向きの進みは、むしろ、正当な前進性、発展性にあり、(過去を)見守り、浄化しながら身を引き、自分は新たな次元に突入していくような印象があります。

ですから、逆走しても、失敗や問題とはいえず、まさに「逆に走る」意味があるのだと考えてみるとよいでしょう。助走のためにも、反対方向に戻る必要はありますからね。

さて、前置きが長くなりましたが、今日の記事です。

人間、生きるということは、選択の連続とも言えます。

毎朝、何を食べ、何を着て、何から始めるのか、何から処理をしていくのか・・・意識的ではなくても、とにかく何かを決めながら(選択しながら)生きているわけです。

まあ、そういった毎日の日常的な、無意識ともいえる選択もありますが、選択のシーンを意識するということでは、やはり、何かを決める際に迷うような事態に陥った時でしょう。

タロットと選択ということでは、タロット占い・リーディングで(選択を)決めるというやり方があります。

タロットが自分でできない人は、占い師やタロットリーダーのところに行き、タロット(以外の占法も使うでしょうが)で占ってもらい、よい方向性や選択肢を示唆してもらいます。

一方、自分でタロットが扱える人は、自己リーディングのような形で、タロットを引き、選択の参考にします。自分で見るのは客観性が出にくいので、なかなか他人にやるような方法では、タロットから判断することが難しい場合があるにしても、です。

占い師やタロットリーダーに見てもらうにしても、自分でやるにしても、タロットからの選択の示唆の解釈には、実はいろいろな階層(世界)があって、タロットを勉強すれはするほど、逆に選択が難しくなってくることがあります。

ただ、占い師の方の中には、タロットに蓄積された経験則のようなパターン(質問によるタロットの出方のパターン)があって、「こういう場合にこのカードが出る時は、やらないほうがいい」とか、「やったほうがいい」とか、法則化されていることもあるので、はっきりとした示唆を出すことが可能な場合があります。

本当は、これには経験則だけでは説明てぎない、神秘的な部分、サイキックの側面も理由にあると考えられるのですが、その話は今回は省きます。

今日言いたいのは、そのことではなくて、タロットから示唆される選択には、先述したように、いろいろな世界観(基準)があり、そのどれでもって選べばいいのかに迷う時があるということです。

マルセイユタロットには、地上性と天上性という方向性で、物事を見ていく(判断していく)基準が伝えられています。

それは、明確な法則というより、かなりタロット一枚一枚の象徴的知識とセンスが必要なものなので、タロットリーダーとしては難しいのですが、ただ、単純に見ていく方法もないわけではありません。

重要なのは、むしろ、タロットリーダーの技術よりも、クライアント、相談する側の人が、どの世界観・考え・思いを選択のベースに置くのか、なのです。

一般的・常識的価値観での幸不幸、いい・悪いで見るのか、自分の本当(現実的・環境的条件を取り払った純粋)の心・気持ちで見るのか、好き嫌いという感情的なものでよいのか、魂や高次と呼ばれる霊的な総合的・統合的成長観点で選ぶのか・・・など、その選択の際の基準を置く世界観が大事なわけです。

もちろん、タロットリーダー側でもクライアントの望む世界観だけで読むのではなく、ほかの世界観での判断も入れていくことが求められますが、それはクライアントが今、自覚意識で求めていることとは違うこともあります。

話を戻しますが、マルセイユタロットにおける、地上的・天上的選択の違いとは、シンプルに言えば、現実的幸せを求めるのか、時間軸や現実空間を超えた幸せを求めるのかの選択の違いと言えます。

別の言い方をすれば、一代限りや自分個人だけのエゴの満足の選択をするのか(地上的選択)、カルマや因縁、一代以上の心のデータの浄化にも関わる決断・選択をするのかの違い(天上的選択)です。

こう書けば、後者のほうがスピリチュアルを志向する人には好まれそうな感じですが、必ずしも、後者ばかりがいいとは限りません。現実や今の自分を満足させない選択は、時に非常に厳しく、心が折れそうで、人間的に理不尽だと思えるものもあるからです。

肉体と個別意識のある私たち普通の人間には、空腹になれば何か食べなければいけませんし、喉が渇けば水や飲み物を得ないと、死んでしまうことになるわけです。(この次元を楽しめなくなってしまう、この次元を地獄にしてしまう恐れがある)

ですから、天上的・地上的選択という二元的観点で見過ぎてしまうと、かえって選択に迷い、苦しくなってしまうこともあります。

従って、私はその間のバランスを取る観点も入れることを説明しています。そもそもマルセイユタロットの選択観点にも、成長していく順序が描かれており、そうしたバランス観点の地点も存在しているのです。

ただバランスばかりを重視し過ぎるのも問題で、それは中途半端で、妥協ということにもなりかねません。

まさに、「バランスが縛りになる」という悪い問題性です。

この弊害をなくすには、小アルカナ的な細分化した観点(何がこの選択にとって、一番重要視、最優先するものなのかを見る観点)を持つか、逆に、どちらを選んでも大した違いはない(すべては学びみたいな観点)という、大きな視点、統合観点を持つかです。

いつも同じようなことでつまずいたり、迷ったりしている人、または自分を変えたいと思っている人は、天上的観点での選択をするとよく、使命とか人間の成長とか、魂のことなど、大きなことに思いが行き過ぎている人は、現実的(地上的)選択、ゲームのように単純にカードの良し悪し(吉凶判断)で見るとよいでしょう。

さらには、精神的にナーバスになっている人、メンタルに原因を求め過ぎる人も、カードによるゲーム的吉凶判断で決めると、案外すっきりすることもあります。また、元来まじめな人は、バランス的選択がもっとも納得できることが多いかもしれません。

このように、いかようにでもできるのがマルセイユタロットのいいところ、面白いところでもあります。


自由と責任 責任と自由

自由と責任ということはよく言われます。

(マルセイユ)タロットにおいても、そのどちらも表すカードは存在しています。

例えば、「正義」とか「皇帝」とかのカードは、端的には「責任」というものを表すカードと言えますし、逆に「愚者」や「世界」などは、「自由」を象徴しているカードと見ることができます。

しかし、これはカード単体の意味で見た場合のことであり、究極的には、どのカードにおいても自由と責任ということは、そのレベルの範囲で象徴されていると言えます。

先に挙げた「正義」にも自由はありますし、「愚者」にも責任はあります。(ただし、「愚者」の責任というのは、常識的には考えつくことが難しいものではありますが)

この、どのカードにも自由と責任が象徴されているという考えは、実は現実的にも適応できるものです。

言ってみれば、その考え方を持てば、生きる上で混乱することが少なくなり、人と意見が違ったり、争うようなことになっても、感情的になり過ぎずに済むという利点があります。

それは簡単に言えば、世界を色分けして見る、区別して見るというようなものに近いです。

もう少し別の言い方すると、ある常識・正しいとされている共通したルールを持つ世界が、それぞれにあるという風に見る方法です。

例えば、法律的なことで言えば、憲法レベルで言っているのか、条例レベルで言っているのか、というものでも、その世界観は違うわけです。

人は結局のところ、自分(の認めた、信じた)ルールに従って行動したり、主義・主張したりするわけですが、それでも、明文化された法律とか、その職場や学校、クラス、仲間うちで通用するような常識、慣用、習慣みたいなものがあるわけです。

まあ、他人様がいるのがこの世界ですから、自分のわがままだけ押し通すわけにはいかないのは当たり前です。

スピリチュアルなものを志向したり、心理的なものを解決や解放の根拠に置く人の傾向にはありがちの考えですが、「人は本来自由であり、何も縛られるものはなく、従って、いいも悪いもなくそれを決めているのは、自分や他人のジャッジだ」というのがあります。

確かに究極的には、私もその通りかなとは思います。

しかし、人の世界、共通したルールに基づいて形成したり、合意したりしている世界それぞれにおいては、そこに優劣や正誤、良い・悪いという線引きは確かにあるのです。

法的なものが整備されている国において、その国の法律で犯罪だとされているものは、その国おいては、やはり悪いことで、犯罪なのです。

要するに、人間として現実生活を行う限り、レベルや次元の違いはありますが、どの層・世界においても、あるルールや守るべきもの、法則が存在し、その意味において、責任が生じたり、いい・悪いという二元の判断はあるということです。

もし、そのいい・悪いの判断(ジャッジ)から逃れたいのなら、自分の自由度と責任を、その世界観のものとは別にしていくこと(世界観が適用される範囲から、はずれること)が求められます。

ひとつには、単純に、その世界(観)から、移動する、別の場所に行くという方法があります。

日本ではダメだけれども、別の国に行けば認められるとか、この仲間うち、職場のルール(掟)では自分が苦しい、自由になれないので、別の仕事に変える、そのグループから離れるというやり方です。

しかし、非常に広範囲に設定されているルール・規則・法則のもとでは、逃れること自体、現実的には困難で不可能な場合もあります。

例えば、物理法則から逃れるとか、普通に裁かれずに法律から逃れられるのも難しいことでしょう。人間としての機能・感覚から逃れるのも、超人にならないと無理です。(笑)

しかし、物理的なことも、工夫したり、身体を鍛えたりして、ある程度自由度を増すこともできますし、明文化されていないルール・規則、つまり、内的なことや、思い・感情的なことなどは、自分自身で自由度を上げていくことが可能です。

いわば、自分ルールを変えることによって、自分の自由度、選択度を上げていくということです。

肉体的には確かに限界があるかもしれませんが、心の自由度は、かなりのところで可変でき、心の縛りのようなものを解いていくことで、気持ちは解放され、その分、自分の囚われも少なくなり、今まで見えなかったことが見えてきたり、できなかったことができたりするようになります。心理的アプローチで現実を変える根拠は、こんなところにもあるのです。

ただ、注意点があります。

自由と責任と書いてきたように、自由には常に相応の責任が生じます。

これは自動的にそうなるようなものなのですが、その広がった自由分の責任を取らないと、違うことでのバランス調整が働き、拡大した自由が奪われたり(つまり責任が取れないので、元に戻される)、その自由をコントロールできずに、失敗したり、身の破滅に向かったり(これも、自分が本当に責任が取れる自由度の状態に調整される作用と考えられます)します。

例えば、「自分は自由に恋人を何人も持ってつきあうんだ、それが俺流、わたし流」と、自分の心の自由度を上げたと思っている人でも、その、何人もの人とつき合うための「責任」ということも拡大されるのです。

複数の人とおつきあいするわけですから、皆さんがいがみあったり、嫉妬したりせず、満足させる状態になければなりませんし、世間的な常識(というひとつの世界観の世界)の自由度の人たちからは、非常識だと非難される恐れも高くなります。

それらのことに対して、心を乱したり、うまく対応できなかったりするようでは、本当の意味で、自由を獲得した(自由度を上げた)とは言い難いわけです。

自由と責任が、ひとつの世界の中で、ある形のような感じで決まっており、それはもちろん一定ではなく、世界(観)が変われば、それに応じて、自由と責任も変化していくのですが、世界(観)を混同して、すべて同じレベルとルールのように思って「自由」を主張していくと、属している世界それぞれのルールによって、正しさの争いが起き、混沌・殺伐とした状態になってしまいます。

自分が主張しているものは、どの世界観・レベルで言っているのか、また相手も、どのような世界観で言って来ているのか、よく見極めることです。

それを把握しないと、話し合いは平行線のままに終わりますし、ともに「自由」の認識も異なって、それに伴う「責任」も不明確になります。

わがままな人は総じて、世界観を飛び越えた究極の自由、あるいは自分ルールばかりを拠点とした自由のみを主張し、それに伴う責任にはついて無自覚か、あえて(わざと)避けようとします。

逆に、必要以上に、本来、その世界観では取らないでいい責任まで自分に課して、自由を自ら奪っている人もいます。

人は、一人で何でもできるわけではなく、また一人の人は、逆にそれほど無力でもありません。

自由と責任、それには階層種類、レベルの違いもありますが、どこにおいてもバランスは常に働き、そこからはずれていると、自動調整されたり、自ら責任を取るように働いてきたりします。

だから、逆説的になりますが、もっと伸び伸びと自由を求めてよいのです。

なぜなら、先述したように、自由になった分、責任は自動的に働いて来るからで、最初から自由に対する責任の恐れを持ちすぎて、解放をためらうのはもったいないからです。

しかし、同時に、「拡大する自由の選択は、その応分の責任が働く」ことも、(過剰にではなく)自覚しておくと、成長や解放の道も、よりスムースに進むことができるでしょう。


自分の見方・考え方が変わっていくタロット

マルセイユタロットをやってきて、良かったと思える点はいろいろとありますが、年々、そのシステム(構造)がわかってくるにつれ、改めて、マルセイユタロットは実によくできているものだと感心しますし、自分の認識力が変わってくる(上がってくる)ことを実感します。

それがマルセイユタロット(を学び、扱っていく)ことの良さとしてあげられます。

その理由のひとつは、物事を一面から見なくなってくるということです。いわば、一度自分への解体が起こり、さらにはそれが統合されたものになる繰り返しなのです。

私たちは、ともすれば、ひとつのモノの見方(感じ方もあります)、自分のこれまでの経験や常識として教えられたこと、自分の築き上げられた価値観によって物事を見たり、判断したりします。

それはそれで、普通のことではありますし、慣れた見方で処理していくのが、楽(言ってみればオートマチックな状態)でもあります。

しかし、ずっと同じ見方・考え方をしていては、問題が生じたり(新しいことにうまく対処できない)、自分を成長させたりすることがてぎなくなります。他人や世の中の見方も変わらないままです。例えば、自分にとっていい人と悪い人の線引き、物事の良しあしも同じなままです。

でも、もしかすると、あの人はあなたが思うような人ではない(厳密にいうと、違う部分を持っている)のかもしれませんし、あなたが知っている今まで報道されてきた世界の状態には、嘘があるのかもしれません。

また、何より、自分はこれだと思っていた自分自身が異なっていたり、さらには、自分にはほかの部分(人格やキャラクター、能力、その他)があることにも気付かないかもしれません。

これが、マルセイユタロットの象徴で見ていくことにより、物事の見方・考え方に多様性が出て、いわば、観察眼として、タロットの数だけ持つようなことになり、表だけではない裏の姿、形や物質だけにはとらわれない性質や意識、エネルギーのようなものも、カードの象徴として見ることができるようになります。

すると、自分の外側の世界、つまり他人や外に見ているリアル(現実の)世界、そして内側の世界、意識や精神・心、魂の世界とが、一面的なものではなく、いろいろのもので構成されている(ように見える)ことがわかってきます。

ただ、その過程においては、一時的には自分の実体、自分自身が何者なのかわからなくなって、現実逃避的になったり、空虚な感じになってしまったりすることもあります。それは一度、固定観念のようなもので縛られていた自分、これまでの体系でできていた自分(常識の価値観に染まっていた自分)の解体(破壊)が始まるからです。

しかし、肉体を持つ私たちは、結局は再び(精神・心が)地上に戻り、現実的に生きられるようになります。ただ、タロット的に解体、再生した形になっていて、今までの自分とは明らかに変化し、モノの見方・感じ方・考え方も変わっているのです。

そうしていくと、例えば、何かを選択すること、迷っていることがあった、起きたとして、「恋人」のカードや「運命の輪」の象徴で表せる考え方が、自分の中に生まれてきます。

選択の悩みにある時、たいてい人は、AかBかのようなことで迷っているわけです。また、そもそも何をすればよいのか、何を選べばよいのかがわからないという場合もあります。

通常、どちらかを選ばなくてはならない時、どれかや何か選び、決めなければと思っている時は、自分の利益を得たり、よい運になったり、とにかく自分の人生にとって悪くないほう(よいほうを選ぶこと)にするのだと考えています。

あなたがもしマルセイユタロットを知り、その象徴性で自分と世界を観察していくようになれば、先述したように、まさにタロットで描かれているような見方が現れてきますので、選択時にも何種類かの考え方、モードのようなものでもって見ることができ、悩む自分を客観視するような姿勢になります。

いくつか例をあげると、「何を選んでも、もともと選ぶことは決まっている」という考え方や、「選ぶ時、自分は何をもっとも重視しようとしているのか」という観点による見方などがあります。

もし前者の見方があれば、結局、あれこれ悩んでも仕方ない(結果はすでに決まっている)という境地になり、選ぶこと、悩むことそのものが一種のゲーム、演劇的表現であることに気づき、選択で悩む自分を救済することになります。こちらはスピリチュアルと言いますか、統合的観点です。

そして、後者は、いわば分析的観点であり、分離的観点と言え、先ほどとは逆で、自分が今悩んでいること(現象)の要素を分けて理解することで、今の選択の基準を明確にする(例えば、今はお金・経済的なことがメインだと考えるような)ことができます。そうすると、判断、決定もスムースに行くことがあるのです。

これらは、タロットを知らなくても、仕事や生活での経験的学びで出てくることもありますが、タロットを知るほうが、より体系的で整理されており、何より絵としての象徴がありますので、視覚的にも思考・感情を実体化(表面化)できるという効果があります。

ただ、タロットならば何でもよいのかと言われると難しいところで、マルセイユタロットは、とてもシステマチックにできているので、こうしたモノの見方を深めたり、高めたりすることでは、やりやすいように構築されていると、私自身は思っています。

そもそも、マルセイユタロットは、カードを引いて占うことに使うのではなく、一体と個別のシステム(象徴モデル図面)として見立て、宇宙や人間の構造を把握していくためのもの、言い換えれば、自己を知り、他人を知り、世界や宇宙を知り、それらは最終的には同じであり、しかし現実では違う表現であると理解して、この現実世界を楽しむためとも言えますし、より自由や解放的に生きる(無謀や放浪生活をするという意味ではありません)ため(現実を超越すること)に使われていくものだと思えますから、今日述べたような変化のためには、最適なツール(タロット種)だと言えるのです。


壊れたがっているあなたの部分「13」

数日前に、私の使っているパソコンが急に壊れてしまいました。

だいぶん古い代物だったので、だましだまし使っていたところもあったのですが、とうとうダウンしたという感じです。

結局、新しい物に買い替え、いろいろと設定をやり直すことになり、急だったこともあって、その作業は結構大変でした。

しかし、こうでもならない限り、旧パソコンでのやり方・データなどを見直す機会はありませんので、結果的にはまさに強制終了して、新バージョンに移行したという感じで、終わればとてもすっきりしたものになりました。

「今までなんでこんな面倒なことしていたのだろう」とか、新しいほうがよいとはわかってはいても、慣れた古いやり方になじんでいた手前、なかなかリニューアルを図れなかった自分に気がつきます。ひところ流行った断捨離ではありませんが、余計はものは捨て、身軽になった気持ちになります。

この状況はマルセイユタロットでいえば、「13」で象徴されます。

「13」は前や未来(マルセイユタロットにおいては向かって右方向)に進む場合は、その大きな鎌で刈り取りながら、自身を変容させ、まったく新しいものに生まれ変わろうとします。しかし、その作業は苛烈を極め、生易しいものではないのは、その骨と皮になった姿で表されています。

一方、これが逆さまになって、後ろ向き(マルセイユタロットでは向かって左側)になればどうでしょぅか?

まるで左側へ鎌を振り下ろしているように見えますし、そのまま強く振り下ろしすぎると、自分自身の身にまで鎌が来てしまうことになるかもしれません。変革の時は来ているのに、それに抵抗し空しく鎌を振り続けているかのようにも感じられます。また視線の方向は正立の時とは違い、マルセイユタロットでの方向性の過去側に向いて、何かそこに強いこだわりがあるようにも見えてきます。

一方、「13」の前の数12を持つカードは、「吊るし」で、そのカードの絵柄では、人物が逆さまになって止まっている状態が描かれています。すると、本来、右側で未来に進まねばならない「13」であるのに、新規改革・断捨離等を拒否し、過去に執着してしまうと、その鎌で自分か他人を傷つけたり、空しく宙に向かって振り下ろすかのように、不安を示したり、本来しなくてもいい行動を繰り返したりすることになるわけです。

宇宙の理に、創造・維持・破壊という三つの流れがあると言われます。すべてのものは始まり、頂点を迎え、やがて終わりを迎えるのです。特に、物質社会の中では、モノや形が中心で、それが変わっていくこと、変動していくことが当然としてある世界です。

次の新しいステージに向かう(あることの終わりと次なるものの始まりの)タイミングが来た時、すでに自分でも旧来のバージョンが古くなって、今後の人生でうまく適応していかなくなることを予見しています。

そのタイミングに呼応するかのように、自分や内側だけでなく、外側や環境自体も変化や終わりを告げてきます。言ってみれば、内外が象徴的にリンクし、終わりと始まりのタイミングを知らせるわけです。

よく、モノや機械が壊れる時が、何かの変化の時だと言われるように、モノそれ自体の替え時であると同時に、自分自身の内側の何かも変え時、新しくなる時なのです。

これに対して、「13」の逆位置で示したように、ひどく抵抗したり、滅んでいく古きをあまりに守りすぎたりしていると、それへの対応にエネルギーをとられ、心も不安と焦燥にかられ、知らず知らず疲弊していくことになります。しかも、どんなに抵抗しても、自然の摂理・宇宙の理に従い、最後には強制的に手放す(手放させられる)ことになります。

これはモノだけではなく、恋愛や人間関係なども同じであり、永遠はある種のイデア、元型、魂の次元としてはありますが、現実世界の中では、始まったものは、何らかの形で終わりを迎えることになるのです。しかし、終わりという過程で、新しいものとして変容をすることができた時、それは別の始まりでもあり、その意味においては、変容し続ける限り、永遠性はあるといえます。

例えば、恋愛でも、当初のような恋愛感情・スタイルは二人の間に消えたとしても、二人が新しい愛の形・関係として変容すれば、それはまた二人の新鮮な関係として始まるのです。(具体的にそれが結婚であったり、付き合い方の変化であったりです) それができないときは、やはり終わりとして別れを迎えるかもしれません。

ここは、幻の恋愛セミナー(笑)で語ることですが、「13」と、「恋人」や「審判」のカードとも関連させて、なぜ恋が終わってしまうのか、また、恋を続かせることができるのかの考察が可能なところなのです。

ともあれ、何かが壊れる時、あなたの内なるものも壊れたがっていますが、それは悪い意味での破壊とは限らず、むしろ古い殻を壊したがっている自分の部分であり、壊れることは不安や恐れ、やっかいごととしてあるのも確かですが、そこに至らないとわからない新天地・新境地、新たな可能性のあなた自身を知ることはできないのです。

変わらなければと思いつつも、失うことをおそれてだましだましやってきた人、ぬるま湯のように今までの環境に浸かってきたことで、心身の退屈さや問題が出始めている人、足踏みしているうちに、ストレスがかかったり、強い衝動の気持ちが抑えられなくなってきたりしている人は、勇気を持って立ち向かい、「13」となって終わらすための鎌を、前進的にふるってみましょう。

その過程は大変ではあっても、きっと大いなる祝福があなたに訪れるでしょう。


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