迷った時に
タロットの仕事で
タロットの生徒さんや、リーディングを受けていただく方に、
「タロットを始められて、長いのですか? 何年になるのですか?」
と聞かれることがあります。
私自身は、いつも「そんなに年数経っていませんよ、むしろ短いほうじゃないですかね」と言いつつ、実際の経過年数を答えていましたが、最近、またこれを聞かれることがあり、ふと、数えてみますと、まあまあの年数になってきていることに、自分でもびっくりしたことがあります。(笑)
いつの間にか、最初にマルセイユタロットに出会ってから、15年以上の月日が経ち、20年近くにも迫ってきていました。
私は占い師ではありませんが、タロットといえば占いの世界だと一般にも思われていますし、実際、占い界では、タロットに限らず、ほかの占術でも、10年、20年は当たり前、中には50年くらい研究・実践を続けられている方もいらっしゃいます。
もう、こうなりますと、人生の大半は、それに賭けているというか、その人の人生はそれそのものと言っていいかもしれません。
そういう占い界のすごい方々と比べると、まだまだ私など若輩者に過ぎず、タロット経験者としては、むしろ少ない年数のほうなのかもしれません。
そんな私でも、何度か、これまでタロット活動をやめてしまおうかと思ったことがあります。
その理由は、大きくわけると、環境や経済的なこと、いわば外部的な要因がひとつ。そして、もうひとつは自分の中の問題、内部的な理由になります。
しかし、よく考えてみれば、内と外はつながっていて、精神や心を重視する方から見れば、内的な問題が主で、それが投影されて外的な問題となって現れると考えるでしょうし、あくまで物質的に、現実に起こっているそのもので物事を判断する人は、その逆(実際に問題があり、それで心が悩むの)だと言うかもしれません。
皆さんの中にも、占いや、セラピー、ヒーリングなどをされ、仕事として起業された方もいらっしゃると思います。
趣味でそれらをやっていくのは楽しいことですが、仕事・ビジネスとなると、経済活動が必然になってきますので、自分の思いだけでは続けられなかったり、葛藤することも多くなってきたりします。
結局、仕事として活動する場合は、ある種の覚悟と、逆に思い込み過ぎない柔軟さの両方が必要になってくるのではないかと、経験からも感じます。
プロや仕事としてやっていく覚悟が足りなければ、アマチュアレベルとして扱われ、料金も低くなったり、そもそもお客様が来なかったり(それらは自身の経済に影響し、生活や活動もできなくします)という事態も考えられます。
そして、ここがまた重要なところですが、その覚悟は、自分の(プロ活動としての)ピンチや危機として、また天や世から試されるというか、新しい覚悟へのリニューアル・チェンジを要求されるような事態が起こってきます。
一応、それなりの覚悟はできていて、仕事もまあまやれていたとしても、それはそのレベルでの話(覚悟)なのです。自分のレベルを上げようとする時、また向上したり、さらなる発展が起きようとしたりする時、今までの覚悟や決意では足りないことがあるのです。
実は私にとって今年は、タロット活動をやめてしまおうかと思ったほどの、危機的な大きな年でした。
まあ、私一人、タロットをやめても、世に優れたタロット講師やタロットリーダーはたくさんいらっしゃいますので、何の影響もないのですが(苦笑)、理由はいろいろとありますが、廃業も想定するような事態ではありました。
これほどのことは、かつて一度あり、その時は本当に数か月から半年はやめてしまっていた(税務署に廃業届も出しました)のですが、いろいろとあって、結局タロット活動に舞い戻るといいますか、タロットに呼び戻された感じで、再開することになりました。
その後も、小さな「やめ時」を思うことは何度かはあったのですが、その大きなものに匹敵することとしては、今年がそうと言えました。
その以前の、タロット(のビジネス的)活動をやめてしまった時、タロットを再びやろうと決意させられる事件がいくつか、偶然のような必然として起こったのですが、スピリチュアルに関心の強い人は、そのような偶然(の必然性)に強い意味を見出すでしょうが、確かにそれを感じたとはいえ、結局、大事だったことは、自らの新たな覚悟でした。
いくらシンクロや天意みたいなことが示されたとしても(そう人から言われたり、勧められたりしたとしても)、自分の人生を決めるのは自分です。
やるかやらないか、続けるか続けないか、そしてやる(続ける)からにはどうしていくのか、これらの決意と覚悟を最終的に自分が決めなければ、前には進めないのです。
以前の危機のあとの覚悟は、その当時はかなり強いものであり、今までの自分のやり方も変えるものでしたが、今年のピンチも、やはり新たな覚悟が試されるものとしてやってきたように思います。もう、新しいものに替えていく段階が来ていたわけです。
一方で、強い覚悟や決意さえあればいいというものでもありません。前述したように、柔軟性もいるのです。
強い信念は、時に固執や膠着を生み出してしまうことがあります。自分の根本のあり方は変えないようにしながらも、時代や人の流れは変転していきますから、それに合わせた柔軟性も、特にビジネス・市場での活動となると必要となるのも当然なところがあります。
まあ、とても強いオリジナリティや世界観をもっている場合、周囲のことは気にせず、自分の世界をそのまま、お客様やクライアントの世界にしてしまうという、マルセイユタロットでいえば「悪魔」(カリスマ)的な方法でやれる人もいないわけではありませんが、これはやはり特別な人に限られると言えましょう。
長く続けたからといって、そのまま来年も再来年もやっていくのがよいとは限りません。時には、突然、まったく自分にも人にも合わなくなてしまうことがあったり、興味も失ってしまったりすることもあるでしょう。
やりたいことをしていると思っていたら実は違っていて、妥協や惰性で続けていたことに急に気づいたという人もいるかもしれません。
人間、死ぬまでは、何が自分にとって本当に良かったのかはわからないものです。「自分を生きる」という実感を持つタイミングと可能性は、いくつにもなっても、またいつでも開かれていると言えます。(逆に言えば、なかなかそのような気持ちが持てないのも、普通にあるということです)
それ(充実したこと)が生活の収入を得る仕事でなくてもよく、好きなことや、やりたいことで生活するというのも、確かに聞こえよくて、楽しそうですが、本当は誰かや世間の洗脳めいたことかもしれないのです。
それよりも、自分の今の仕事を好きにしていく、あるいは転職して、どうにか、前の職場や仕事よりも、自分にとって働きやすくするという方法を取るほうがいい場合もあります。
生き方も、世間体や常識をどんどん少なくして、枠をはずしていけば、かなりモノも心もシンプルな状態になるはずで、最低限の暮らしができれば、タロットのような隠者生活(苦笑)が、思いのほか、自分にとって満足だったということもあるかもしれません。
成功ということでも、、常識や一般的なものとしての概念と、自分の心が思う(心の)状態のものと、両者を妥協させたもの、そしてどちらでもない霊的なものがあると言えます。
また、どうしても、ビジネス活動で自分の好きなことをやるのに、葛藤が続き、うまく調整や折り合いをつけにくい人もいらっしゃると思います。
その場合は、好きなこととビジネスは別と割り切って見直す冷静な目で見てみるとよいでしょう。(あくまで「好きなことビジネス」という一種のビジネス形態のひとつの種類として見て、それが自分には向いていない、合っていないと考える)
昨今、起業ブームで、自分の好きなことでやっていくみたいな煽りにも似た宣伝手法も多かったですが、ほとんど努力や作業もせずに、ビジネスがうまく行くということは、特別な幸運や恵まれた資金力でもない限り、ないと言っていいでしょう。
ただ、それなりの手順と準備を踏み、危機が訪れても、新たな覚悟と柔軟性をもって、努力し(苦しい努力とは言いません、好きなことをする必要な努力や作業です)、自分を売りだし、表現していく勇気を楽しくやっていけることができたら、ビジネスとしての可能性も、大きく展開していくことになると思います。
いずれにしても、自分を知るというのは大切なことで、それには、具体的なことや条件などを、どんどんはずして自分をの思いを見つめていくことが必要となります。
つまり、本質に帰る作業です。
本質は言ってみれば、抽象的なものなのですが、そこまで来ると、自分のやりたいこととか、表現・生き方というのが、やり方や具体性ではないというのが見えてきます。
自分の好きなこととか、ワクワクすること、逆にやりたくないこととか嫌いなことを見ていると、実は誤解してしまうこともあるのです。
そうやって調べようとすると、どうしても、具体的な仕事や何かの趣味、行動、モノ、実際に世の中にあるような事を想像してしまうからです。(あるいは好き嫌いの感情で判断してしまう)
例えば、私の場合でも、タロットをやりたいというのは、どうしてなのか?ということで、少しずつ具体性をそぎ落としていくと、途中で、やり方にこだわっていたことに気がついてきます。
本当にやりたいこととか、伝えたいことはあるにしても(それが本質)、そのやり方や表現方法は、もっと柔軟に考えてみてもいいわけです。極端なことを言えば、タロットを使わない伝え方も、私の場合でも考えられるのです。
タロットを使って本質まで探っていくことが可能ですが、最後はそのタロットも打ち捨てて(笑)みたいなこともあるのです。タロットは、あなたの本質に連れて行ってくれる乗り物のようなものです。
目的地に到着すれば、乗り物から降りるように、タロットはその時、もう必要がなくなっています。ても、また具体的(現実)世界に戻る時は、再び乗って帰る必要があるかもしれませんが。
さて、今年のブログはこれが最終となります。
来年は、時期は未定ですが、こちらのブログは継続しつつ、新しいブログも立ち上げようかと考えています。新しいものは、もう少しライトにタロットのことを書くつもりでいます。
そして、体験会やショートなリーディング会的なものを、去年よりは回数を増やそうと思っています。早速ですが、リーディングつきの体験会は来年一月末(1/26)に京都市内で開催予定です。
年始早々(来年初めのブログ)に募集をかけるかもしれませんので、参加ご希望の方は、このブログをご覧いただければと思います。
今年もブログをお読みいただき、ありがとうございました。
皆さま、どうぞ、よいお年を迎えくださいませ。
焦り、そして危機という変容に対して。
本来スピーディーな印象のカードや、逆にゆっくりすることが求められるカードが、警告として出てくる場合、その多くは、焦りすぎ、急ぎすぎという内容て解釈するとよい場合があります。
たとえば、前者では「戦車」のカード、後者では「節制」などが、あげられるでしょうか。
カードの読み方の技法はいろいろとありますが、単純なものには、吉凶、いい・悪いに分けて読むもの、そしていいも悪いもカード自体にはないものの、そのポジションの出方(正逆など)や、直感的な印象によって、カードの表すノーマルな状態に、アンバランスな力やエネルギーが働いている(自分がそうしている)と読む方法もあります。
最初に述べた、警告的な見方は、カードそのものにいい・悪いを見るのではなく、カードの象徴性のノーマルさが崩れたものとして、自分の問題をとらえるやり方です。
さて、今回の趣旨は、カードの読み方の技法をとりあげるのではなく、人の焦りについてのことです。
なぜ、人は焦ってしまうのかと言えば、予測がつかないことが起こった、今までの経験やデータではわからないことが起きている、早く結果を出さないといけない差し迫った状況にある・・・など様々ですが、逆に言えば、落ち着けない、安心できないからで、一言でいえば、「自分を見失っている」からだと言い換えることができるでしょう。
焦らないためには、どんなことが起こっても、大方の予想ができる自分の経験値や能力を高めておくことがまず考えられます。これは状況に対応できる力を養うという意味で、物質的というか、現実的な対策と言えましょう。
しかし、いくら経験や能力を高めても、わからないことはあり、突発的に焦ってしまうことはあるでしょう。そうすると、今度は、メンタル・精神を鍛えたり、何が起きても動じない精神の状態をキープできたりする、内面や心のほうからの対処も考えられます。
極端なことを言えば、悟った人になれば、おそらく焦るなんてことはないのでしょう。ここまで来ると、もはやメンタル次元を超えたところに自分がいて、いわば、すべてがわかるような状態になっているので、焦ることはないのだと思います。
ということは、「大悟する(大きく真に悟る)」というのと同じですが、そこまで行かないにしても、精神的・メンタル的には、具体について悩むのではなく、もっと次元を上げたところに問題を置くと、今悩んで焦っていることのレベルが消え、焦りそのものが消失するということもありえます。
例えば、「これを明日までにやらなくてはならないが、時間がない」と焦っている時に、その作業を明日まで仕上げられるかどうかという時間的作業的問題(具体的問題)に対して、焦っているわけです。
その問題観点(次元)を別にしてしまうと、まず、明日までという制限は絶対なのか?伸ばすことは可能ではないのか? 明日までというのはもともと無理ある話だったのではないか? というような、小さな次元移行でもって考察することができます。
さらに大きな次元移行になりますと、そもそもこの作業をやらなくても生きていけるのではないか? できないと非難や損害は被るかもれないが、自分自身の本質は何も傷つかないのではないか?みたいな話にもなってきます。
もちろん、社会でのルール、責任というものもありますので、なんでも次元や大元を変えればよいというわけではなく、当然、自分が超越した状態に移行するには、その分の責任も取る覚悟、本当の自由を選択するそれ相応の責任も生じます。
さて、焦りについて、ちょっと違う話もしたいと思います。
人はずっと同じ状態が続くわけではないのは、皆さんも気づいておられると思います。肉体的にもそうですし、スピリチュアル的にも、(魂の)成長のために、いろいろな事件や変化が自分に起きてきます。
見方を変えれば、(高次の)自分が起こしていると言ってもいいのですが、このような時、たいていはピンチや危機、試練のようなものとして本人には感じられます。要は大変だと実際に感じることなのです。(こじつければ、大きな変化なのて「大変」とも言えます)
大きな意味(魂的な目)で見れば、それは成長や今までの殻を破るための変容ステップだと言えるのですが、当人には何が起きているのかよくわからず、肉体的・環境的など、いろいろな実際の試練・苦しさなどとして経験します。
予測のつかないこと、わからないことは焦りの原因でもあることは、先述した通りです。
そのため、自分でいろいろ調べたり、誰かに相談したり、見てもらったりと、いろいろと駆けずり回る人もいます。
試練は、ただその人にその状態で放置されているだけのものではなく、タロット的に言えば、救いの天使(現実ではあなたを援助する人ということになります)のサポートや、気づきを与えるインスピレーションが与えられやすい状況になっていったりと、何らかの「神性」からの手助けがセットで施されています。
よく言われるように、当人に越えられない試練はないみたいなことです。(援助とセットになっている)
ところが、人間である私たちは、これまで経験したことのないようなこと、理由がわからないようなこと、まったくの混乱状態に陥ったりしている時などは、どうしても焦ってしまい、ただでさえ、物事の見方が偏っているのに、もっと狭い偏見に近いほどのモノの見方になり、思考や感情を冷静に保っていられず、いわゆるパニックのような状態になることがあります。
普段は隠れていた自分の弱さが、拡大されて出てくるようなものです。
この状態では正確な判断ができにくいことは、普通に考えてもわかることです。まさに、自分を見失っている状態なのです。
焦りでもっとも危険なのは、こうした正常で冷静な判断力が失われ、別の人に依存的であったり、攻撃的であったりする、自分の影の人格のような自分が憑依することです。(それが現れてしまうこと)
この場合、象徴的な言い方になりますが、天使より先に悪魔が入り込みやすくなり、ますます焦りが増幅され、誰かに極端に依存したり、ひとつの答えしか見えなくなったりして、それでしか自分は救われないと意固地になります。
さきほど、試練は救済とセットになっていると述べたように、象徴的には天使も見守っているのですが、天使的な守護を得るためには、自分(の中にあると言ってもいい、天、神性、宇宙など大いなるもの)を本当の意味で信頼し、辛抱強くあることが必要です。
そして、自分の判断やエゴ的(欲求解消、快を求めたり、苦をすぐになくすためが中心の)感覚だけに頼らず、現実的でまともに相談できる家族や専門家の意見も求めることです。もっというと、奇跡(奇異というものに近い奇跡)やとんでもを求めすぎないということです。
そうすると、直感ではなく直観として、あなたの中に安心できるコアのようなものが見つかっていくでしょう。
苦しいことはとてもわかりますし、すぐさま何とかそこから助けてほしいという気持ちになるのはもっともですが、それだけに、あなたの焦りによって、変容を遅らせたり、ますます泥沼にはまらせる存在を引き寄せてしまうこともあるのです。
ですが、もうひとつ、私の経験から言いますと、迷いに迷って、焦りに焦って、いわば迷い焦り切ってしまうことも、必ずしも悪いばかりではないと思います。
助けを求めて、いろいろなところへ出かけたり、人に会ったりしていくことで、結局、何をやっても誰によっても、自分自身が本当のことに気が付いていなければ、自分は変わらないのだと、やがて何か、憑き物が落ちたかのようにわかる時がやってきます。
それに気が付き始めた頃に出会う人や、仕事、技術は、(当人への救いとして)本物であることが多いような気がします。
しかし、これは諸刃の剣で、あなたが弱り、焦りのエネルギーを食らおうとする(それは肉体的エネルギーのこともあれば、あなたのお金の場合のこともあります)存在もいますので、危険といえば危険なところもあります。
どんなに落ち込んでも、必ず救いはどこかにあるのだと信じる(自分の中に持っておく)ことで、救いの道は、時間差はあっても訪れます。
この現実世界は、時空を感じられる空間のため、時間差や空間的距離などの差があり、それが直接ですぐの救済がもたらされにくい要因ともなっています。
自暴自棄になって、自分など生きる価値がないと思ってしまうことも、人によってはあるでしょう。私にもそんな時はあります。
それでも、試練と救いはセットになっており、時間差や距離感はあっても、救いと成長のシステムがあるのだということを信じる(つまりは自分の中にその物語をセッティングする)ことで、道は開かれると思います。
宗教的に神に祈るという行為も、祈るという行為そのものが、救済の装置(仕掛け)をあなたの内面にセッティングしているのです。本気で祈りを繰り返すことで、自身の神性的な力も発動することでしょう。ですから、祈りも無駄ではないのです。
選択を「手品師」と「恋人」で見る
人生は選択の連続と言ってもいいものです。
毎日、何を着るか、何を食べるかに始まり、どう仕事を片付けようか、どう人と相手しようか、何をして楽しもうか、何を学ぼうか・・・それこそ山のように選択事項はあります。
ただ、毎回毎回それを意識のうえに上らせていたら、たまったものではありませんので、たいてい、ささいなこと・ルーチンなことは、無意識のうちに(無意識に近く)自動選択するようになります。(深く考えずに選ぶ)
しかし、それでも、選択にとても悩むシーンは出ます。それはたいてい、どちらかを選らねばならないと思っているような、二者択一的な場面です。
ところで、マルセイユタロットの大アルカナで、「選択」を象徴するカードといえば、真っ先に、「恋人」が挙げられるかもしれません。
本当はいつもほかの記事でも述べているように、あるテーマそれ自体に、カードそれぞれで象徴させることができるので、「選択」ひとつとっても、もちろん、「恋人」カードだけで表せるものではありません。それでも、テーマに関係性の深いカードというものは出ます。
選択では、「恋人」がまずそうなのですが、ほかにも、今回は「手品師」も取り上げてみます。そして、この両者を見る(比べる)ことで、選択に関わる重要なこと(段階)もわかってきます。
では、最初に「手品師」の絵柄を見てみます。
「手品師」は、テーブルの上に、その名の通り、手品道具を並べて、ある手品をして、大道芸人として観客を楽しませています。
彼の手の持ち物やテーブルの手品道具は、タロットの全体構成で言うと、小アルカナと関係し、彼自体が大アルカナになろうとしている表現だと述べることもできます。
それはともかく、小アルカナと大アルカナの関係は、一言でいえば、現実性と超越性の違いともいえ、簡単に言えば、現実のフィールドを中心として見るか、心や精神、霊的フィールドまで含むかの認識レベルの差です。(いろいろな考え方があるので、これはあくまで見方のひとつです)
となれば、「手品師」は小アルカナの世界を扱おうとしていると見ることができ、それは選択の意味においては、現実フィールドで重要視したり、価値を持たれたりする基準によって選ぶ意味になります。
講座の中では詳細な説明をしていますが、「手品師」のテーブルと彼が持つものには、いろいろな象徴性があり、それらひとつひとつには、現実における選択肢の本質を表していると考えることができます。
さて元に戻りますと、私たちが悩むシーンでは、どちらかを選ばなければならない状況でのことが多いと言いました。それは、結局、現実生活における良し悪しを、なかなかその条件と選択の時点では甲乙つけがたく、判断できないことになっているからと考えられます。
詳しく要素を見れば、お金などの経済的効率・損得、自分の気持ちが満足するかどうか、やりがいや見返り(人からの評価、達成感・貢献感など自己満足も含む)があるかどうか、自己の学びや成長・拡大につながるか、確実性がある(目的のための成果や効果がある)のはどちらか、などで条件が拮抗しあい、迷っているわけです。
どちらかを選択した場合の未来が読めない、わからない、予想が今の時点ではつかないからというのもあるでしょう。
そして、今書いたこれらの現実的諸条件(悩んでいる要素)が、「手品師」で言えば、テーブルの上の小道具であったり、持ち物であったりするのです。
一方、「恋人」カードを見ます。
「恋人」では、手品師のように、道具・モノではなく、人が3人いて、真ん中の人が、両端の女性のどちらを選ぼうか迷っているようにも、すでに心が決まっているかのようにも見える描かれ方をしています。
そして、人間たちだけではなく、上空には、天使あるいはキューピッドのような、人間ではない異次元の存在も現れています。
「手品師」では、一人でモノを選択しようとしていたのですが、「恋人」になると、モノではなく、人そのものの選択が入り、それは逆に、人から教えられたり、示唆されたりして、選択を支援されているようにも見えます。
さらには、「恋人」カードに天使が現れたことで、通常の次元、現実や常識の選択レベルを超えた何かが、この実際の世界にも関与するのだということ、常識を超越した選択の方法や見方があるのではないかということが、わずかですが、示されてきたとも言えるでしょう。
つまり、私たちは、選択に迷い、悩むことで、次第にステップアップし、肉体・現実次元だけではない自分や世界に気づいていくことになるのです。
それは目に見えない部分も含む、統合的・霊的成長と言えましょう。もし霊的なことというのがうさんくさい、なじまないというのであれば、心理的成長と言い換えてもよいです。
心の中は目に見えない次元でありますから、そうしたものまで開いて(受け入れて)自分を見ていくことで、選択の見方・仕方も変わってくるのです。
「手品師」のところでも述べたように、「手品師」レベルの選択は、現実での常識的な損得とか、一般感情レベルの満足、具体的(他人から見ての)評価が得られる条件のもとでの視点(選択基準)でした。
「手品師」が大道芸人であるだけに、人からの評価は、自分の人気、ひいては食い扶持にも影響しますし、対人的に敏感で重要なものになるのもやむを得ないところがあるでしょう。(生活の基盤のため、快楽や喜びのための選択基準)
しかし、他人の目線や常識的価値観ばかりで自己の選択を行っていると、本当の自分を抑圧する選択の方法が習慣になり、自分自身の成長が止まってしまうおそれもあります。
そこで、他人との相談、コミュニケーションを取りつつ、自分と人の違いを認識し、自らが真に望むものの選択を見極めていくようにします。
ここで大事なのは、自分自身を発見したいからと言って、殻に閉じこもっていては(孤独ばかりを選択してしまっては)、結局、自分の個性がわからなくなってしまうので、他人と関わることで、他人に依存したり、流されたりせず、自他の違いを認識しつつ、自分をきちんと持つという過程が望まれるということです。
それが「恋人」カードの三人の話し合いのようにも見えます。
そうした中で、やがて、選択の条件やレベルというものが、現実世界で言われている「よいものを選ぶ」という観点だけが正しいのではないとわかってくる時があります。
自分の心は本当はどう言ってるのか? なぜこの選択で迷っているのか? ふたつの選択のどちらでもない選択というのもあるのではないか? そのこだわっているものに、本当の価値が自分にあるのか? ・・・
カードで言えば、新たな視点は、「恋人」の天使目線で生じてくるとも言えます。いわばそれは内的な声とも言えますし、神性的な発動による気づきの選択でもあり、また、魂の求め(ここにはギリシア的にいう「ダイモーン」のような、善性と悪性の両方の神的悪魔的存在からの介入、誘惑も含みます)によるものもあります。
これらのことから、迷って決められない時は、正解を求めようとしないのが正解という、面白い考えをしてみるとよいでしょう。
どちらかに決められないのは、まさに決められないものだからであり、あなたの視点を今の価値と条件から、はずすか(違う視点と条件で見てみる)、もう、どちらもやってみる、あるいはどちらも選ばないという両極端のような発想の転換を図るか、さきほど述べたように、大変に迷う段階で、すでにその選択肢のどれかを選ぶという意味での正解はないのだと認識し、こだわりを捨てたほうが楽になるでしょう。
神・天使的な目線に立てば、現実界での結果よりも、すべてのプロセスに意味があり、おそらく、どちらの、どの選択肢を選ぼうとも、そこに優劣はないと見えるはずです。優劣があると考えるのは、現実視点での条件・価値で判断しているからに過ぎません。
「手品師」で言えば、テーブルにあれだけ色々と道具が用意されているのが現実世界です。その道具をどう選び、どんな手品をするのか、それはあなた次第で、神目線では、手品そのものの評価より、たとえどんな道具であっても、手品をしたこと自体が評価されるのではないでしょうか。
また、あまたの手品(道具)を選んでやってみる、そして観客からそれなりの(いい・悪いの)評価を得るというも、現実世界に生きる人生の面白さとも言え、選択で悩むということは、それだけワンダーランドな(道具がたくさん用意されている楽しい)世界(に生きていること)でもあると考えられます。
ということは、悩むことは贅沢で豊かなことなのです。
タロットメッセージ
8月も、もう終わりですね。
まだまだ残暑は厳しいですが、ともかく、暦的には夏から秋へと移行する時で、今年は本当に猛暑というか酷暑であったものの、それもやがて収まってくると思うと、私もそうですが、ほっとされる方もいらっしゃるのではないかと思います。
ということで、このブログを普段ご覧いただいている方に、今悩まれていることや、問題となっていることが、今後どうなるのか、あるいはどうしていけばよいのかを、タロットで展開してみましたので、簡単で抽象的ではありますが、そこからアドバイスしてみたいと思います。
タロットはもちろん、マルセイユタロット(ホドロフスキー・カモワン版)を使い、展開はオリジナルなもので行いました。どんなカードが出たのかは詳細には書きませんが、ポイントにおいては、紹介します。
なにせ、読者皆さんへということで、特定個人へのリーディングではありませんので、具体的になっていないのはご了解ください。(タロットリーディングにおいての具体性を決めるのは、タロットリーダーではなく、本当はクライアント・相談者なのです。ただしタロット占いの場合は別ですが)
ではアドバイスです。
『全体的に、迷いが見えます。迷いの中心にいるのは「愚者」のカードなので、「愚者」の象徴である「自由」や「とらわれのない心、状態」から遠ざかっているのがわかります。
本当はもっと自由に、伸び伸びと過ごしたいのに、または、状況が自分の思い通りになってほしいのに、そうはいかない現実があると感じているようです。
それは、もしかすると、自分のことより、他人や周囲の状況に気遣って、自己犠牲を払ったり、自分さえ我慢すればよいと思っているところがあるからなのかもしれません。さらに、その奥底には、自分が役に立つ人間だ、組織や特定の人にとって重要な人物だと思われたい願望があるようです。言ってみれば、自己価値、自己尊厳の問題です。
一方で、あなたが頑張って、努力してきたことは、人によっては天使、別の言い方をすればあなたの中の高次な存在はわかっており、それを称えています。
また、そうした目に見えない存在だけではなく、あなたの気づかないところで、きちんとあなたを見てくれている(頑張りを評価してくれている)人もいるようです。とにかく、もっと、自分に敬意を払い、自信を持ち、自分の全体を信頼することだと、タロットは言っています。
カードでは、「節制」の天使や「世界」の天使、そして「正義」のカードが、強くそれらを主張しているようです。
あなたに起こっている試練は、一見厳しいもののようですが、乗り越えられるものであり、束縛や狭い世界観の中で、いかに自分の自由が感じられるか、囚われを解放していくかが試されています。
ルールや規則、地上世界での正しさ(つまりは他者や社会、常識の評価)にこだわりが過ぎないか、確認してみてください。規則破り、型破りも辞さないくらいの、純粋で広い見地で、あなた自身を解放してみましょう。
あなたの魂と、この世(現実)のことは、葛藤するところが多いかもしれません。ですが、あなたの魂は、この世情、現実のことさえ、うまく切り分けられる智慧を持っています。
えらそうにする意味の上から目線ではなく、別の意味での高みの視点を持つとよいでしょう。現実にふりまわされる自分と、それを冷静に見ている自分、その後者を意識するのです。
すべては起こるように起きていると認識していく時、あなたの運命は切り替わっていきます。無理矢理に力を入れるのではなく、自然に自分がやりたい方向、あるいは、したくない方向を思って身を任せ、波に乗るような感覚を持つことです。それは、「運命の輪」と「力」が出ていることからもわかります。
これは、自分を奮い立たせてしようとするのでもなく、また何もせず運を天に任す放置的な態度でもないものです。
自分に起こっていることを冷静に観察し、事件そのものと、自分がどうしたいか、どうすればよいかの感覚は別として切り離し、あせったり、怠惰になったりするのではなく、「諦観しながら機会を待つ」「自然のサイクルに乗って、チェンジを図る」というようなイメージです。
要するに、あなたの内なるもの(声)は、どうすればよいかをすでに知っており、それを聞くことのできるようにするということです。問題は、そのために起こっているとも言えるからです。
それから、どうしても、自分の力では解決が難しい、堂々巡りのような状態が続いている人は、客観的視点、他人からのサポートがあったほうがよいので、思い切って、専門家や、援助をしてくれる人に頼んでみましょう。不明確であるところに、あなたの不安や弱い問題を強い問題としてしまっている点もあるからです。
大丈夫です。あなたの問題は解決に向かうよう、すでに天、あるいは内なる魂は取り計らっています。たとえ時間がかかったとしても、それもあなた自身の計画と言えます。気づきが多くなればなるほど、その時間も速くなります。
あとはあなた自身が、それを受け入れられるか、認めるか、赦すかにかかっているのです。』
以上です。
何かの参考になれば幸いです。
地上的・天上的・中間的選択
体力的なことや、その他もろもろのことが重なり、いつもよりブログの更新ペースが落ちていてすみません。まあ、ゆるりと行くのもまた人生です。(苦笑)
それにしても、台風がまるで逆走しているようで、全体的に一度戻って進むみたいな象徴を感じさせます。台風による災害の危険もありますが、今年は災害続きとはいえ、台風そのものは、雨や風による浄化作用もあり、自然現象を象徴的に見てみると、全体や個別に意外な示唆を与えることがあります。
逆走(そういえば、私は普段は気にしませんが、占星術的には水星の逆行時期でもありましたね)ということで、皆さんの中にも、もしかすると、過去の何かを思い出したり、前にも書きましたが、古傷の浮上、未処理のままのことなどを思い出したり、今までのことを浄化していく出来事が起こっているのかもしれませんね。
マルセイユタロットには「隠者」というカードがあります。
タロットティストでもあり、カルト映画監督の巨匠、アレハンドロ・ホドロフスキー氏によれば、「隠者」は後ろ向きに進むという象徴性があると説明されていて、そのことも思い出します。
皆さんは、後ろ向きと言うと、何か後退や消極的な意味をイメージかするかもしれませんが、撤退にも勇気と決断がいることですし、「隠者」の後ろ向きの進みは、むしろ、正当な前進性、発展性にあり、(過去を)見守り、浄化しながら身を引き、自分は新たな次元に突入していくような印象があります。
ですから、逆走しても、失敗や問題とはいえず、まさに「逆に走る」意味があるのだと考えてみるとよいでしょう。助走のためにも、反対方向に戻る必要はありますからね。
さて、前置きが長くなりましたが、今日の記事です。
人間、生きるということは、選択の連続とも言えます。
毎朝、何を食べ、何を着て、何から始めるのか、何から処理をしていくのか・・・意識的ではなくても、とにかく何かを決めながら(選択しながら)生きているわけです。
まあ、そういった毎日の日常的な、無意識ともいえる選択もありますが、選択のシーンを意識するということでは、やはり、何かを決める際に迷うような事態に陥った時でしょう。
タロットと選択ということでは、タロット占い・リーディングで(選択を)決めるというやり方があります。
タロットが自分でできない人は、占い師やタロットリーダーのところに行き、タロット(以外の占法も使うでしょうが)で占ってもらい、よい方向性や選択肢を示唆してもらいます。
一方、自分でタロットが扱える人は、自己リーディングのような形で、タロットを引き、選択の参考にします。自分で見るのは客観性が出にくいので、なかなか他人にやるような方法では、タロットから判断することが難しい場合があるにしても、です。
占い師やタロットリーダーに見てもらうにしても、自分でやるにしても、タロットからの選択の示唆の解釈には、実はいろいろな階層(世界)があって、タロットを勉強すれはするほど、逆に選択が難しくなってくることがあります。
ただ、占い師の方の中には、タロットに蓄積された経験則のようなパターン(質問によるタロットの出方のパターン)があって、「こういう場合にこのカードが出る時は、やらないほうがいい」とか、「やったほうがいい」とか、法則化されていることもあるので、はっきりとした示唆を出すことが可能な場合があります。
本当は、これには経験則だけでは説明てぎない、神秘的な部分、サイキックの側面も理由にあると考えられるのですが、その話は今回は省きます。
今日言いたいのは、そのことではなくて、タロットから示唆される選択には、先述したように、いろいろな世界観(基準)があり、そのどれでもって選べばいいのかに迷う時があるということです。
マルセイユタロットには、地上性と天上性という方向性で、物事を見ていく(判断していく)基準が伝えられています。
それは、明確な法則というより、かなりタロット一枚一枚の象徴的知識とセンスが必要なものなので、タロットリーダーとしては難しいのですが、ただ、単純に見ていく方法もないわけではありません。
重要なのは、むしろ、タロットリーダーの技術よりも、クライアント、相談する側の人が、どの世界観・考え・思いを選択のベースに置くのか、なのです。
一般的・常識的価値観での幸不幸、いい・悪いで見るのか、自分の本当(現実的・環境的条件を取り払った純粋)の心・気持ちで見るのか、好き嫌いという感情的なものでよいのか、魂や高次と呼ばれる霊的な総合的・統合的成長観点で選ぶのか・・・など、その選択の際の基準を置く世界観が大事なわけです。
もちろん、タロットリーダー側でもクライアントの望む世界観だけで読むのではなく、ほかの世界観での判断も入れていくことが求められますが、それはクライアントが今、自覚意識で求めていることとは違うこともあります。
話を戻しますが、マルセイユタロットにおける、地上的・天上的選択の違いとは、シンプルに言えば、現実的幸せを求めるのか、時間軸や現実空間を超えた幸せを求めるのかの選択の違いと言えます。
別の言い方をすれば、一代限りや自分個人だけのエゴの満足の選択をするのか(地上的選択)、カルマや因縁、一代以上の心のデータの浄化にも関わる決断・選択をするのかの違い(天上的選択)です。
こう書けば、後者のほうがスピリチュアルを志向する人には好まれそうな感じですが、必ずしも、後者ばかりがいいとは限りません。現実や今の自分を満足させない選択は、時に非常に厳しく、心が折れそうで、人間的に理不尽だと思えるものもあるからです。
肉体と個別意識のある私たち普通の人間には、空腹になれば何か食べなければいけませんし、喉が渇けば水や飲み物を得ないと、死んでしまうことになるわけです。(この次元を楽しめなくなってしまう、この次元を地獄にしてしまう恐れがある)
ですから、天上的・地上的選択という二元的観点で見過ぎてしまうと、かえって選択に迷い、苦しくなってしまうこともあります。
従って、私はその間のバランスを取る観点も入れることを説明しています。そもそもマルセイユタロットの選択観点にも、成長していく順序が描かれており、そうしたバランス観点の地点も存在しているのです。
ただバランスばかりを重視し過ぎるのも問題で、それは中途半端で、妥協ということにもなりかねません。
まさに、「バランスが縛りになる」という悪い問題性です。
この弊害をなくすには、小アルカナ的な細分化した観点(何がこの選択にとって、一番重要視、最優先するものなのかを見る観点)を持つか、逆に、どちらを選んでも大した違いはない(すべては学びみたいな観点)という、大きな視点、統合観点を持つかです。
いつも同じようなことでつまずいたり、迷ったりしている人、または自分を変えたいと思っている人は、天上的観点での選択をするとよく、使命とか人間の成長とか、魂のことなど、大きなことに思いが行き過ぎている人は、現実的(地上的)選択、ゲームのように単純にカードの良し悪し(吉凶判断)で見るとよいでしょう。
さらには、精神的にナーバスになっている人、メンタルに原因を求め過ぎる人も、カードによるゲーム的吉凶判断で決めると、案外すっきりすることもあります。また、元来まじめな人は、バランス的選択がもっとも納得できることが多いかもしれません。
このように、いかようにでもできるのがマルセイユタロットのいいところ、面白いところでもあります。
